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109倭国王の侵略

倭国王侵略
 倭女王ヒミコが九州に住んでいたのは、考古資料や文献からも動かないでしょう。素人が読めば、そうなってしまいます。ですから、他の倭国王も九州に住んでいたことになります。それは、何処に?
 それは、大陸の文化を取り入れ、米作りが始まり、銅や鉄の道具が使われた地域でしょう。多紐細紋鏡や細形銅剣の副葬を見ると、唐津の辺りに始まった稲作をする弥生集落は北部九州に広がり、中部九州にも広がったようです。

 九州の弥生の人口は少なかったと云われますが、本当にそうでしょうか。
 人口密度ですが、暮らし方が家族単位であったり、一族単位であったりして、集落を築いていなかったのかもしれません。人口が集中するには、それなりのメリットがなければなりません。稲作人口が増え、生産を上げる意味があって人口が集中したのでしょう。
 熊本の畑では少し歩いただけでも「黒曜石の石器」や「縄文土器」をよく拾います。もちろん弥生土器も更に多く拾いますが。其の量からして、人口が少なかったとは思えません。阿蘇の噴火、姶良火山の噴火などで、大地は火山灰に覆われていたとも聞きますが、それでも九州は生産力があったのでしょう。

 石器の伝播の地図を見ると、伊万里の黒曜石が鹿児島にも出土するし、広範囲に人が住み交流していた事が分かります。弥生の物流は、新石器時代・縄文時代の伝播ルートを使わなかったのでしょうか。それはないでしょう。
 福岡市西区今山の石斧は、阿蘇の南西台地にも広がっています。
 阿蘇の黄色の火山灰土を焼くと赤色顔料「丹」になります。福岡県の丹塗り土器にも漆に混ぜて使用されています。其の生産地(阿蘇カルデラ内の南)が昨年発掘され、説明会がありました。つまり、縄文時代からの伝播ルートを使って交流したという事です。
 弥生時代、丹塗り土器を使った祭祀も大掛かりですし、甕棺も大きくなっていきますです。富の集中が始まった処に権力者は生まれたのです。人口が少なくては、富の蓄積はありえません。

 では、「富を蓄積した権力者は何処にいたか」ですが、青銅の剣・矛・戈や、前漢鏡を副葬した甕棺墓が集まる地域です。北部九州に他なりません。
 

 復習ぽくなりますが、再度書きます。1・2世紀のイト国には「世王あり」となっていますから、代々王がいたわけです。当然、「倭国王」です。倭国王は大量の前漢鏡を持っていた。中国の皇帝からの下賜品を持ち、甕棺墓に埋葬されていたのです。
 巫女王といわれる平原周溝墓は割竹形木棺で、国産鏡が40面近く割られて副葬されていました。何らかの社会的な異変が巫女王を襲ったのでしょう。さて、そのあとですが、王墓と思しき墓は「一貴山銚子塚古墳」となります。金メッキされた後漢鏡を持ち、三角縁神獣鏡が棺外に8面副葬されていました。
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(青・一貴山銚子塚古墳、 赤・香椎宮、 緑・六嶽)
 その一貴山銚子塚古墳は、香椎宮を通り六嶽にラインが伸びました。何を意味するか、当然、香椎廟の被葬者と近親者であり、六嶽の神々を崇敬していたことになります。一貴山銚子塚古墳が4世紀初と言われますから、香椎廟はその前後に造られたことになります。前か、後か。紀元前の遺跡、立岩遺跡や須玖岡本遺跡とのラインのつながりから、2世紀か3世紀となります。ラインが社殿を通過していないことも、社殿が作られる以前の出来事を示唆しています。
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そうそう、以前「香椎宮と一貴山銚子塚古墳」について、ブログに下のように書いていました。
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この時、六嶽について、真東の立岩遺跡、真南の須玖岡本遺跡との関係から改めて香椎廟を見直してみると、やはり伊都国の王が夏至日の出の山に降臨したように見えます。西から東に「東遷」したのは、神武天皇でした。「神武は糸島から遠賀川流域に東遷した」という説を聞きました。「まさか」と思って聞きましたが、今は納得できそうです。ただ、文化の伝播を見ると、北部九州の墓制なり、日知りの思想なり、近畿に入っているわけですから、大量の人口移動を伴う政変・異変が幾度かあったのは確かでしょう。「日本書紀」にも神武紀の記述は、主語が変化します。天皇と書かれたり、天神とかかれたりしますから、読み手は少し引っ掛かります。日本書紀の編者は、別々の人物の事を神武紀に集めたとも言われます。神武天皇と表現される人物は、数人いたのです。 
 その中の一人が六嶽に降臨した。彼はそこで終わり、次の世代のキビと親しくなった別の人がヤマトに入ったのでしょう。 
 東遷が成功したのは、鉄があったからでしょうか。
 稲作とともに近畿に九州の文化が伝わったのではありません。稲作はもっと早く伝わっているはずです。
 なぜなら、「田代」という地名は、九州にたくさんあります。「田代」とはその年の稲の出来具合を占う場所であり、稲作の伝統行事です。しかし、近畿には田代の地名は無しに等しいです。しかし、東日本・東北には「田代」の地名があり、青森では田代湿原で今でも「田の出来具合」を占っているそうです。つまり、九州からの稲作の文化は、近畿を飛び越えて東に伝わっています。それはなぜか。近畿には別の文化国があり、九州の勢力は入り込めなかったのです。
 結果、倭王は武力を使ったのです。
 それは、深い確執を生み、後世に「熊襲征伐」や「征西」という形になって、逆に九州が武力で抑えられることになるのでしょう。

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結果が、上の画像です。黄色の夏至ラインが「一貴山銚子塚の被葬者は、六嶽に降臨した人物を尊敬し、香椎廟の被葬者とつながりがあった」ことを表しています。冬至の日の出は「金山」から昇りますから、太陽の復活を願い祭祀をしていたはずです。香椎廟からも金山を祀っていたでしょう。故郷の神山として。しかし、水色ラインに筥崎八幡宮が乗っています。延喜式内社として、香椎廟と金山の結びつきを遮断したのです。仲哀天皇廟となった香椎廟ですが、さらなるダメ押しが10世紀に行われたと思います。
 青ラインは、一貴山銚子塚古墳から雷山山頂を通り、女山神籠石に届くラインです。度重なるヤマトの征西に対して、九州勢力が対抗しようと造った「古代の祭祀を伴った山城」です。それは十分に使われることなく、倭王の末裔は九州のあちこちに散らばっていったのでしょう。
 九州に残る神籠石(祭祀を伴う古代山城)は、有名古墳と結びつきます。つまり、古墳時代になって近畿勢力の征西が激しくなり、過去の倭王の霊力を頼りに神籠石を造ったことになるのです。神籠石とつながる古墳は倭王墓であり、古代九州の勢力の最終段階を示しているのです。神籠石の存在意義が伝承としても残らなかったのは、かかわる人々が滅んだからです

 

ここで、次の問題に移らねばなりません。
 近畿には九州の勢力が進出していました。いわゆる「神武東征」という伝承を持つ人々の進出です。 
 その勢力は果たして王権となりえたのか。それとも、在地の王権が復活したのか。
 それは、氏族の戦いであり、氏族の守りの神々の戦いでもありました。
 

では、また
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by tizudesiru | 2013-08-20 22:11 | 109倭国王の侵略 | Comments(0)


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