カテゴリ:107寄り道・邪馬台国( 2 )

三角縁神獣鏡の最初の製作地は何処?

三角縁神獣鏡の最初の製作地は?質問しましたが、答えられませんでした。
 古代史に少しでも興味を持っている人なら、 三角縁神獣鏡が国産だという事を聞いていらっしゃるはずです。

 先日、森浩一氏が亡くなられました。「三角縁神獣鏡は中国に一枚も出ない」と最初に云われたのは、森浩一さんだそうです。

 続いて奥野正男氏が「三角縁神獣鏡の研究」で、鏡の文様などを研究し、笠松型文様が中国鏡にはない日本独自のものであることなどを発表されました。

 そして半年後、中国人学者が「三角縁神獣鏡は中国に出ない」ことを発表し、今では誰でも知ることとなっています。
 だからこそ知りたいではありませんか。

 その鏡は、どこで生産されたかと、製作意図はなんだったのかを。なぜ、1000枚近くも作ったのかを。

 長い間、三角縁神獣鏡が出るから邪馬台国は畿内にあったと聞かされてきました。去年の吉野ケ里でも同じような講演があったようで、その文面を読んで「税金を使っている人は、決まりを曲げられないんだ」と思いました。「三角縁神獣鏡はヒミコの鏡」これは、税金で生活する人の越えられない鉄の壁らしいです。

ですが、質問してみました。8月11日の春日市の邪馬台国シンポジウムで。

「三角縁神獣鏡の件ですが。この鏡について、同型鏡とか、同笵鏡とか言われるものがあります。その中で、どこの古墳のものが原型となり、古いのか。また、古いと云われる理由は何かを教えてください」
 
 原文が手元にないので、文が微妙に違っているとは思いますが。
 質問での失敗は、「畿内の三角縁神獣鏡」の「畿内の」を書き落としたことです。(文面での質問でした)

 同型鏡・同笵鏡という文言で、そのことは当然通じると思っていたのが間違いでした。
 4人のパネリストの答えは共通していて、「中国に三角縁神獣鏡はでない。今は国産と言われている」でした。退屈というか、会場は下を向いていました。みなさんすでに承知、同じことが高島忠平氏のレジュメにも書かれていましたし。

 私は、4人のパネリストは、三角縁神獣鏡がどこで生産されたと云われているか、鏡の形や文様などから何処へ伝播していったか、それが古墳の編年の決定打になる事、古墳の新旧が逆転する可能性がある事など事細かにご存じだと思います。

 それがヤマト王権により下賜されたものとされている事から、王権樹立の次期ともかかわるので言えないのかなと思いました。勝手な憶測でしょうか。

 畿内説の学者の中には、椿井大塚古墳の三角縁神獣鏡がもとになり、それが全国に広がったと云われています。何度も書きますが、一貴山銚子塚古墳をはじめ、那珂八幡古墳、藤崎の方形周溝墓、名島古墳、御陵古墳など、初期前方後円墳やそれ以外の墓にも三角縁神獣鏡が副葬されています。それも墳丘の大小を問いません。地方の有力者に下賜というのですが、墳丘の大きさに差がありすぎます。また、一貴山銚子塚古墳には、金メッキの後漢鏡が頭部に置かれ、三角縁神獣鏡は棺外側面だったそうです。そのことで、王権からの下賜品に疑問符が打たれました。つまり、王権からの下賜品としての三角縁神獣鏡の説が揺らぐわけです。
 


   余計なことかもしれませんが、此処に書きました。
 質問の意図が伝わらなかったとは思えません。司会者も公開の場で質問として取り上げ、パネリストに聞いてくださったからです。司会者は理解されていたはずです。
 でも、
 知りたいことって、たくさんあります。簡単に知ることなんて出来ないのが当たり前。
 そんな気持ちになりました。
でも、これは、寄り道。すっきり忘れて、地図上のラインを追求しなくちゃ……


では、また
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by tizudesiru | 2013-08-13 10:49 | 107寄り道・邪馬台国 | Comments(0)

107邪馬台国シンポジウム

8月11日邪馬台国シンポジウムで聞いた話
 高島忠平氏の話に「考古学的に見た邪馬台国の条件」がありました。興味がわきますね。
 その条件が4項目ありました。
(1)「国」の成立の状況が明らかでなければならない
(2)卑弥呼の館(都)は環濠集落でなければならない
(3)卑弥呼が都する邪馬台国は国際性が豊かであらねばならない
(4)卑弥呼のような巫女王の出現過程が考古学的に説明出来ねばならない
 鉄・鏡・武器・絹だけではありません。他の点からも、邪馬台国が九州にあったと考えられる観点を出しておられました。やはり北部九州のどこかです。
 
 続いて、柳田康雄氏でした。この方は、「邪馬台国の東遷」ではなく、「邪馬台国の移動」説で有名です。
 伊都国にお住まいで、平原の王墓の鏡が国産だと発表された人ですね。三雲南小路王墓の話から始まりました。
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1号甕棺と2号甕棺が周溝のうちに埋葬されています。王が1号甕棺、その妃が2号甕棺と言われています。妃か、女性の肉親か、わかりません。
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1号甕棺には、中国の皇帝から下賜された鏡・ガラス璧などが副葬されていました。異体字銘帯鏡・ガラス璧など楽浪郡では出土しないものだそうですから、前漢王朝から直接下賜されたものだそうです。  二号甕棺からも中国の鏡が22面出ています。
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合わせて57面以上の前漢鏡を持ち、32mの大型墳丘墓を2基の甕棺が占有するわけですから、弥生時代最高で最古の王墓だそうです。三雲南小路の王墓と、須玖岡本王墓のように、平野単位の領域を超越する政治権力を掌握したオウの中の王が出現していると説かれました。
 ありがたいことに、わたしの「日知り王」のラインと何ら矛盾する事なく、那国王墓ともつながります
 更に、 「イト国」王は倭国王という展開になりました。
 ・紀元57年「倭奴國」が、後漢の光武帝から「委奴國王」の金印を下賜されているが、志賀島には後漢鏡は出土せず、ほかにも後漢との交流の証はない。また、須玖岡本王墓の後は有力者の墓は発見されておらず、「委奴」をワドと読み、伊都国説をとる。なぜなら、この時期「井原鑓溝王墓」が江戸時代に発見されており、前漢末から後漢初期の方格規矩鏡21面・巴形銅器3個・鉄刀剣などが発見されている。
 
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(紀元57年下賜の金印と、58年下賜の金印の酷似。これは、金印偽物説はありえないことを証明するそうです)
 また、107年「倭国王帥升等」が「生口百六十人を献じ」ているが、『後漢書』倭伝では、二世紀初めまで倭国王は存在している。それは、『魏志』倭人伝の「伊都国に代々王がいた」とされる王につながるものである。ほかの地域では有力首長墓は発見されていない。
 柳田康雄氏は、イト国王が倭国王だったといわれます。
 倭国王は伊都国で継承されていたことになると、一大率が「常に伊都国に治」し、中国の刺史のような役目をしていたのも自然です。また、女王国への荷物は、船着き場で荷が解かれ文書・賜遺のものを女王国に伝送し、不足や違いがある事は許されなかったと倭人伝に書かれていますから、「文書も読んで、荷物もあらためた」のなら、漢字もある程度以上知っていたことになります。文字を知らないで、文書と荷物を改めることはできません。それは、倭王から韓国の国々へ、帯方郡へ、京都へ使いを出す時も、逆に郡の使いが倭国に来る時も同じであるのです。文字も三世紀には、すでに倭国に上陸しています。
 更に
 「代々王がいた」とされる伊都国です。王がいた国です
。『 世有王。皆統屬女王國となっています。代々王がいて、その王は皆、女王国に統屬されていた』のですか。共立された女王の国に統属されていたとは、変です。力関係からして、周りの共立した国々の首長達はかなりの決定権を持っていたわけです。王が伊都国にいたのなら、伊都国王の発言力は大きかったはずです。奥野正男氏によると、「漢字の読みは、伊都国が女王国を統屬していた」とする方が自然だそうです。 
 そして、柳田氏から鉄の棒グラフが示されました。奥野正男氏「鉄の古代史」により、弥生の鉄は圧倒的に九州に多い事は、すでに十数年前から私も知っています。今回の棒グラフでは、「倭国大乱」の後も、鉄は九州が圧倒的に多い事を力説されました。
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 倭国大乱とかかわりがあるとされる「高地性集落」、紀元前1世紀ころから瀬戸内以東に出現します。やがて、近畿地方の内陸部では大規模な高地性集落が出現します。北部九州では弥生から古墳時代前期まで拠点集落が継承していることから、九州では「倭国大乱」はなかった。それは、邪馬台国女王を共立する条件がない事になり、邪馬台国は近畿であるという論理につながっています。拠点集落の消滅と高地性集落は、倭国大乱を示すのでしょうか。鉄鏃・石鏃・銅鏃の出土を見ると、九州で大乱があったと思っているのですが、どうでしょう。銅鐸ではなく、銅戈・銅矛・銅剣などを祭祀具として発展させた九州こそ、恐ろしい戦いをしていたと思います。平和な祭祀をしていた近畿が、鉄の文化圏に追い詰められたと考える方が自然です。
 鉄さびの痕跡のみしか「弥生の鉄」が出ない奈良県唐子・鍵遺跡などの拠点集落が消滅しています。また、銅鐸は墓の副葬品ではありません。集落の祭祀に使われたそうですから。それを埋納する時、人々はどんな気持ちだったでしょう。悲しみと不安と、生き延びようとする強い決意があったと思います。
 

 続いての 柳田康雄氏の話は、「弥生終末の平原王墓』でした。

 平原遺跡には、弥生後期から古墳前期までの首長クラスも含めた墳墓が営まれています。その1号墓は割竹形木棺の平原王墓です。副葬品は大型内向花文八葉鏡5面・虺龍文鏡・大宜子孫銘内向花文鏡・長宜子孫銘内向花文鏡・方格規矩四神鏡・32面、40面の鏡のうち36面が破砕されていました。墳墓で銅鏡を破砕する風習は、伊都国で始まりました。棺内から耳璫(じとう)が管玉・小玉・など、ともに出土しています。耳璫はピアスで、女性の墓から出土します。つまり、被葬者は女性なのです。
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写真の赤い欠片が、平原1号墳からの出土品です。原田大六氏が掘った時は、ピアスであることが分からず、大きい欠片を分析に出したので、消滅しているそうです。柳田氏は、この古墳が方角・方位を意識して築造されていることを指摘されました。やはりと思いました。弥生時代に、既にラインがあるのです。「1号墓は小型の墳丘墓であるが、主体部の周辺に小さな柱穴群、墳丘周辺に3対の鳥居状の双柱、墳丘の東側では主体部の主軸方向に「大柱」が存在する。「大柱」は、弥生後期初頭の5号墓の2基の主体部の双方にも主軸方向に位置することからも葬送儀礼に関する遺構であることが分かる。被葬者は、多数の大型内向花文八葉鏡を持つこと、墳丘墓が王都から離れた太陽信仰に関する特別な「場」に埋葬されていること、遺構・副葬品の特殊性など総合すると2世紀末の弥生終末期にあたる時期の巫女王とすることができる。すなわち、平原には弥生後期以後の歴代の主要な巫女が太陽信仰のもとに東西一列に埋葬され、三雲遺跡群に実務的な男性の倭国王墓が存在するものと考えている」とレジュメに書かれています。
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(平原巫女王墓です。赤い点が柱穴で、主軸線は日向峠に向きます。ラインは10月20日の日の出のラインになるそうです)

 柳田氏は、レジュメの最後に「ヤマト王権へ」と説を展開しています。
 「3世紀初頭になると、ヤマトに突然前方後円墳が出現している。分析すると、
 ①前方後円墳という墳丘形態
 ②石囲い木槨や竪穴式石室
 ③刳抜式木棺という主体部
 ④大型鏡を含む多量の銅鏡などの副葬品
 などで構成されている。①と②が東瀬戸内から・③と④が北部九州の弥生文化から継承されたものである」といい、「前方後円墳が出現していながら、近畿地方の弥生文化は継承されていない」と、指摘しています。
 つまり、ヤマト政権の発足は「イト国が主体になり、銅鏡の導入が遅れるキビ地方を中心とした東瀬戸内が参画して成立したものと考えている」
 「その時期は、ヒミコが共立され『倭国大乱』が収束した2世紀末以後である」 「ヒミコの性格を分析すると、平原王墓の巫女王に通じるところが多く、時期的には平原巫女王の次期巫女王が、倭国王ヒミコという事になる」
 更に、「倭国大乱の後・2世紀末にヤマトに遷都し、西日本を統括する倭国王に継承発展したものと考える」とまとめられていました。

 そうすると、倭国大乱の前に、ヒミコが共立される前に巫女王がいたという事ですね。「桓帝・霊帝の間、倭国大いに乱れて、こもごも相攻伐、年を歴るも主無し」男性の王でまとまらなかった互いに相攻伐しあった時代に、強力な巫女がいて、その墓は多量の破砕鏡からして霊力を封じられたとなるのですね。この人は、ヒミコではないが、巫女王であると。







また後で
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by tizudesiru | 2013-08-12 00:14 | 107寄り道・邪馬台国 | Comments(0)


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199光明皇后の深い憂鬱
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202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
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232岩戸山古墳の歴史資料館
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