カテゴリ:7八女丘陵の古墳のライン( 1 )

八女丘陵の古墳のライン

7 八女丘陵の古墳のライン 前項で、有名古墳がお互いに結びつきそうだとか、山と古墳の結びつきとか、怪しげな事を書いたが、その事をもう少し明らかにしなければならないと思う。しかし、有名かそうではないかの区別をつけるほどには、判断基準を持たないので、ひとまず、新聞テレビで見たり聞いたりしたことのある古墳に目を向けてみる。
 考えてみると、九州の古墳には、様々な問題がある。まず、筆者は素人だから弥生の墓も古墳と呼びたい気がするが、考古学の方は弥生の方形周溝墓を古墳とは言わない。古墳とは、古墳時代の墳丘を持つ墓の事をいうそうだ。だから、弥生王墓と古墳は区別して使わなければならない。それに、九州には装飾古墳も数多いし、形式の違いも色々あるそうだ。私は、ひとまとめに古墳として扱っている。
 
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(ア)八女丘陵の古墳
  さて、八女丘陵の古墳に進みたいが、伊都国で見られたような山を東に頂くような首長の埋葬の仕方は此処にもあるのだろうか。また、代々の王達は山や墳墓を媒介にしたライン上に眠っているのだろうか。弥生の埋葬文化が古墳時代にも受け継がれているのだろうか。

  九州では二番目の大きさで、教科書にも載っている筑紫国造磐井の墓と伝わる岩戸山古墳は、特に有名と言っていいだろう。この古墳があるのが、八女丘陵である。
 筑紫君の幾世代もの墓域といわれる八女丘陵(東西約十キロ)には、百五十から三百の墳墓があると考えられている。石人山古墳、神奈牟多古墳、岩戸山古墳、乗場古墳、善蔵塚古墳、鶴見山古墳、釘崎古墳群、丸山古墳など十一基の有名古墳がある。この東側にも「金製垂飾耳飾り」や埴輪などを出土した立山古墳や、徐福伝説もある巨石石室で有名な童男山古墳などがある。

  岩戸山古墳が知られているのは、一つにはこの墓の被葬者が分かっているためでもある。「筑紫国風土記」には、磐井が生前に造らせた墓と、裁判の様子を表したという墓の隣に造られた衙頭という別区の事が書かれている。風土記に書かれた墓が、岩戸山古墳だと比定されたのである。また、正史に記されている「磐井の乱」でも有名である。

  継体天皇の二二年(五二七年)、磐井は新羅から密かに賄賂を受け取り、新羅に奪われた任那の地を奪還すべく送られた近江毛野臣を、阻止しようとしたのである。新羅と組んだ筑紫国造磐井に対して、畿内の継体天皇は大伴・物部軍をおくった。継体二二年(528年)御井郡(久留米市・御井郡)で激戦の結果、磐井は破れて斬られた。父に連座する事を恐れた磐井の子の葛子は、糟屋の地を屯倉として献上し、罪を免れている

  「風土記」の別伝によれば、磐井は豊前国上膳県(現、豊前市)の山中に逃亡し、磐井がなかなか見つからないので、いらだった官軍の兵士が石人 石馬を壊したという。八女地方や熊本などにもみられる埴輪の代わりに墓に置かれたという石人石馬は、「磐井の乱」後には墳墓に使われることが少なくなっていったそうだ。代わりに装飾古墳が多くなっていったらしいのである。そういう説明を文化財センターの講座で聞いた事がある。

(イ)岩戸山古墳に結びつく古墳岩戸山古墳の真東にあるのは、なに山だろうか。 大きな山に、定規を当ててみる。
岩戸山古墳の真東にあるのは、熊渡山(960m)である。
岩戸山古墳(北緯33度13分47秒)
熊渡山 (北緯33度13分46秒)

  県境の山である。岩戸山古墳とセットになった山だから、有名な古墳に導いてくれるだろう。
 磐井の最後の戦いの場は、耳納山地の西側、御井の辺りである。この耳納山地には多数の峰が乱立している。一番高いのが鷹取山(802m)。

  熊渡山を地図上で耳納山地の峰と結んでみると、いずれも、耳納山地を越えて直線が延びて行く。耳納山地を越えると、的(いくは)臣、水沼君の勢力圏となる。頂上はあるが地図に名前のない山は、「? 山」と表現している。
熊渡山(960m)→鷹取山(802m)→寺徳古墳(装飾古墳)
熊渡山→ ?山(797m)→ ?山(406m)→屋形古墳群(装飾古墳)
熊渡山→ ?山(365m)→楠名・重定古墳(装飾古墳)
熊渡山→ ?山(250m)→塚花塚古墳(装飾古墳)

  地図に名前の載った古墳には、ラインが届くようである。他の有名古墳も東に山頂を背負い、ラインが耳納山地を越えるのだろうか。

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(ウ)石人山古墳 筑紫君一族の墳墓といわれる石人山古墳はどうだろう。
 東西に延びる八女丘陵に点在する古墳の中で、石人山古墳は五世紀半の築造と言われ、岩戸山古墳より時代を遡る前方後円墳である。後円部六〇メートル前方部四五メートル周囲には濠がある。辺りは人形原と言われ、後の世まで石人石馬が方々に見られたようである。
  この古墳の東には、鈴ノ耳納山(931m)があり、その山頂まで小高い山が頂を並べている。石人山古墳から順に山の峰を辿ると、次のようになる。
石人山古墳(北緯33度14分14秒)
高峰山(567m・北緯33度14分15秒)
大山 (599m・北緯33度14分11秒)
? 山(689m・北緯33度14分10秒)
? 山(716m・北緯33度14分11秒)
? 山(705m・北緯33度14分11秒)
鈴ノ耳納山(931m・北緯33度14分11秒)


  こうして並べてみると、石人山の王が自分の墓の東に、選んだ鈴ノ耳納山は、いくつもの峰の奥にある特別の山だったのだろうか。鈴ノ耳納山から発して、別の山を越え、有力者の墓に達するラインも見つかった。
鈴ノ耳納山→明星岳(382m)→浦山古墳(五世紀後半・帆立貝式前方後円墳)
鈴ノ耳納山→ ?山(887m)→日ノ岡古墳(六世紀半・装飾古墳)
釈迦岳(1231m)→鈴ノ耳納山→寺徳古墳(六世紀後半・装飾古墳)
浦山も、寺徳も、日ノ岡も、耳納山地を越えた北側にある古墳である。寺徳古墳は、釈迦・鈴ノ耳納だけでなく、前述の熊渡山もつながっていた。
鈴ノ耳納山→ ?山(716m)→ ?山(689m)→茶臼塚古墳(盗掘・六世紀頃)
鈴ノ耳納山→ ?山(322m)→丸山塚古墳(六世紀後半・装飾古墳)
この二つは、八女丘陵にある。

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(エ)寺徳古墳 
 石人山と岩戸山古墳の真東にある鈴ノ耳納山と熊渡山が、筑後川以南の豪族にとって大事な山である事はうなずける。殊に熊渡山は、大分県との県境の山である。耳納山地の東に位置し、この辺りの最高峯でもある。

  岩戸山古墳の王は、祖先の石人山古墳の王が真東に頂いた鈴ノ耳納山(931m)のように、同じく真東の熊渡山(960m)を選んだ。一族の長として。一族の象徴として選んだ山であろう。その事を子孫達や周囲の有力者達は、十分に承知していたと思える。特に、寺徳古墳の被葬者は、鈴ノ耳納山・熊渡山・鷹取山という筑紫君一族の象徴的な山とつながり、日ノ岡古墳と高良大社の間に横たわるとは尋常ではない。六世紀後半の特別な人物だったに違いない。それも、筑紫君一族と深い関係がある……磐井の乱の後、その勢力は残った事にもなる。もともとの高良の神は、磐井と深い関係にあったことも見えてくる。

釈迦岳→鈴ノ耳納山→寺徳古墳
熊渡山→鷹取山→寺徳古墳
高良大社→下馬場古墳(六世紀後)→寺徳古墳(六世紀後)→日ノ岡古墳(六世紀中)
寺徳古墳→発心山→丸山塚(六世紀後半)
と、なるからである。しかし、この古墳には首長墓としての持ち物が少ない。日ノ岡古墳と似た赤い同心円の装飾が用いられてはいるが。

(オ)周辺の古墳と有名古墳の結びつき
 古墳と山頂にラインを引いてみた。
岩戸山古墳(前方後円・六世紀前半)→乗場古墳(前方後円・六世紀中・装飾)→茶臼塚古墳(盗掘あり・円墳・六世紀ころ)*八女丘陵内の狭い結び着きに収まっている
弘化谷古墳(円墳・六世紀中・装飾))→明星山→耳納山→下馬場古墳(円墳・六世紀後半・装飾)*古墳が耳納山地をはさみ、やや広い結びつきとなっている。
浦山古墳(五世紀後半・帆立貝式前方後円)→高良山→下馬場古墳
前述であるが、耳納山地を古墳がはさむ例である。
寺徳古墳(円墳・六世紀後半・装飾)→発心山→(茶臼塚古墳)→丸山塚古墳(円墳・六世紀後半・装飾)

  これに対して、「高良大社→下馬場古墳→寺徳古墳→日ノ岡古墳(前方後円・六世紀中・装飾)」のように、耳納山地の北部地域だけと結びつく例もがある。南側との関係が切れたのだろうか。
  八女丘陵でも三百近くの古墳がある上に、耳納山地を越えた筑後川流域部にも幾多の古墳や古墳群がある。寺徳古墳のある田主丸地区には、六世紀後半から古墳が集中している。百五十基ほどあそうだ。中には、百メートルを超える前方後円墳も最近見つかり、古墳と山の関係が十分見えているわけではない。
だから、犬も歩けば棒に当たる式の古墳の結びつきは、充分に考えられる。その事は頭に入れておいて、結びついた古墳について分かる事を並べてみたい。

(カ)乗場古墳・弘化谷古墳などその他の古墳 乗場古墳は、岩戸山古墳の東三百メートルに位置する。石人も出土しているが、装飾は、寿命王塚古墳、熊本のオプサン古墳、チプサン古墳とよく似ているそうである。古墳の特色が似ているという事は、それらの古墳とはなみなみならぬ結びつきがある事になる。茶臼塚からは円筒埴輪も出土しているが、詳しく分からない。岩戸山と結びつく範囲は、小さいようである。他地域の古墳とのつながりが薄い気がするのは、磐井の乱が原因で一族から敬遠された為だろうか。

  弘化谷古墳の方は、鞆、同心円、三角文などの文様もあるが、謎と言われる双脚輪状文がある。双脚輪状文は、何を表現しているのか、解明されていない。この文様をもつのは、寿命王塚古墳、熊本の釜尾古墳、同じく熊本県の横山古墳、五郎山古墳など、超有名な装飾古墳である。蕨手文の複雑な形とも、高貴な人にさしかける「さしば」などなど、双脚輪状文にはさまざまな説がある。この弘化谷古墳は、明星山と耳納山を越え筑後川の方に結びつく。他の豪族との関係を示している。

  寺徳古墳と丸山塚古墳も、山を挟んで他の豪族と結びつくという同じ方法を使ったと思われる。丸山塚古墳には。わらび手文の装飾がある。わらび手文を持つ古墳は、寿命王塚、珍敷塚、塚花塚、日ノ岡、五郎山、熊本の釜尾など、七基である。高良大社からも下馬場、寺徳、日ノ岡と各古墳につながる。日ノ岡古墳は、若宮古墳群の中では最後の前方後円墳となる。七十八メートルあり、横穴式石室にわらび手文・双脚輪状文の文様を持つ。

  近くには、八十メートルの月岡古墳があり、若宮古墳群中の最初の前方後円墳で三重濠を持つ。日ノ岡の被葬者は、近くの月岡より高良大社ラインを選んだのだろうか。もしくは、日ノ岡と高良大社の間を選んで、下馬場と寺徳が墓を造った。古墳造営の順が、私には断定できないのでこうなる。が、いずれかの被葬者が、強い意思を持って先祖の威光にあやかろうとしたと思われる。祖先を祀る事は、一族の結束や繁栄にもつながると考えたのだろうか。筑後の首長達も、須玖岡本や吉武高木や伊都国の弥生王達に倣って、地元の山を選び、自分の墓の位置を決め、一族や子孫の繁栄を願ったのだろう。しかし、途中から山との関係より、高良玉垂宮との関係にすり替わるようだ。

  気になって来たのは、高良大社がからむラインである。
 下馬場、寺徳、日ノ岡、これらの古墳の被葬者は、高良大社とつながりを持とうとした。氏族の守り神とか、血族とか先祖とか、理由があったのではなかろうか。そもそも、高良大社の神は、いつから祀られていたのだろう。古墳との関係が見え隠れしているから、古墳時代中期か、六世紀には、その祭礼が執り行われていたことになる。少なくとも、有力者には尊崇の念を持たれていたのだろうから。

  しかし、大善寺玉垂宮とは関係なさそうである。
  大善寺玉垂宮と近くの御塚古墳(初期ホタテガイ型前方後円墳)をラインでつなぐと、隣の権現塚古墳にはつながるが、高良玉垂宮にはつながらない。また、水間君ゆかりの弓頭神社(塚崎にも弓頭神社がある)(原田)と月読神社(高良御廟塚と同じ敷地)(塚崎)をつなぐと、御塚古墳につながる。ここは、水間君関係の古墳と神社ということになる。筑紫君磐井と水間君は、関係を断っていたのだろうか。

(キ)少し脱線!
「磐井の乱」後も筑紫君一族は存続したのか
筑紫国造(君)磐井は六世紀前半に斬られたというが、「筑紫君」は残ったようである。百年後、六六三年八月、一昼夜にして軍船が炎上し、倭国軍が新羅・唐の連合軍に敗れた「白村江の戦い」の後にも筑紫君一族は残っていたと、古代史の講座ではよく聞く。この戦いで、唐軍の捕虜となったらしい筑紫君薩夜麻は、磐井の子孫だろうか。日本書紀のこの部分を調べることにした。
 捕虜となっていた薩夜麻は、天智天皇十年十一月十日に、沙門道久、韓島勝沙婆、布師首磐と共に帰国している。『唐の使人郭務悰ら六百人、送司沙宅孫登ら千四百人、合わせて二千人、船四十七隻比知島に泊まっている。船の数が多いので、この地に近づけば防人が驚いて戦いになるだろうから、あらかじめ来朝した事を、道久達が述べに来た』と、唐からの来朝を対馬から知らせている。二千人の来朝は、驚きであったろう。
しかし、来朝は、こればかりではない。郭務悰は、天智天皇四年に、二百五十四人で来朝し、大和にも来ている。また、天智天皇八年にも『大唐、郭務悰等二千人を遣せり』とある。彼らは何をしに来たのか。当然、白村江戦の戦後処理だろう。書紀の記述に重複があるかもしれないが、薩夜麻が帰ったとき、送司沙宅孫登ら千四百人が一緒に来たのは驚きである。彼らは、薩夜麻等を送って来たのだろうか。この年の十二月三日、一月も経ぬうちに天智天皇崩御。翌年三月、天皇の喪が筑紫の郭務悰に知らされる。彼は喪服を着て三度挙哀(人の死にあたり声にだして哀情を表す礼)したと書紀にある。五月十二日、郭務悰等は甲冑弓矢その他の賜物を賜り、三十日に筑紫から帰っている。五月末までは、彼らは筑紫に居たのだ。大和に行く用は無かったのだろうか。薩夜麻も筑紫に帰り、大和にはいかなかったのだろうか。疑問は残る。
薩夜麻らは帰国の目的を達成したのか、気になるところである。
そもそも、薩夜麻が帰国出来たのは、大伴部博麻の犠牲の賜物だった。
長安にいた捕虜達は、「唐が倭国を攻める」という噂を聞きつけた。彼らは、帰国して唐の計画を知らせ、国難から救おうとした。しかし、路銀も何もない。そこで、博麻は我身を売って衣食・旅費を捻出し、四人の捕虜を帰国させた。
筑紫国上陽哶(カミツヤメ)の出身で九州の人である大伴部博麻は、三十年後に帰国した時、国への忠節に対し、持統天皇に褒美をもらっている。この時、長安にいた捕虜達は、師連富杼、氷連老、筑紫君薩夜麻、弓削連元宝の子と博麻が報告しているが、持統天皇四年に書かれている四人の名前は、天智十年の記述と違っている。天智十年の帰国者の中で薩夜麻だけが同じ人物である。我が身と引き換えた捕虜達の名を、博麻が忘れるはずはないだろうに。
五十年後に帰国した許勢部形見も筑後の国山門郡から出征しているから、九州の人である。数万の軍で半島に渡ったのは九州の兵力だったのだろう。九州には、軍事力、海運力ともにあったのかも知れない。
日本書紀によると、白村江敗戦後、百済の熊津には都督府(唐の行政府)が置かれ、占領政策を行ったのである。同じような行政府であろうか、天智天皇六年、「筑紫都督府に境部連石積等を送る」と書いてある。都督府の文字が出て来るのは、これだけと注釈に書いてある。畿内には、都督府は置かれなかった。占領政策下に置かれたのは、九州ということだろうか。
半島に渡った倭国の総司令官は、誰だったのだろう。阿倍引田比羅夫、上毛野君稚子、許勢神前臣訳語、この人達は、戦後どのような運命をたどったのだろう。白村江の戦いの責任を、誰がとったのだろう。
畿内の天皇家は、何も責められなかったのだろうか。
六六〇年に滅びた百済の重臣鬼室福信から、皇太子豊璋の帰国を願い、百済再興のための救援の要請があった時、これに応えた斉明天皇は、近畿から九州に渡り、心労がたたった為か崩御されている。その為、近畿の勢力は兵を動かすことなく、近畿に戻り殯葬をしている。彼らは百済救済に本気だったのだろうか。(?)
筑紫君薩夜麻が、磐井の子孫である可能性はあるだろう。大友部博麻は、主人の身代りになったのだろう。岩戸山歴史資料館の講演会(田中正日子氏)で知ったことだが、博麻は筑紫国住人として出兵したのである。博麻が帰国した時、すでに筑紫の国は二つに分けられ、筑前筑後となっていた。彼が唐に居る間に大きな政治的な改革があったという。
筑紫君一族は筑前筑後の何れに残ったのか。八女丘陵には『磐井の乱』後も墳丘墓は造られ続けられている。気になるのは、薩夜麻・博麻らが身を賭して、大和に「唐の謀を知らせよう」とした事である。では、薩夜麻も博麻も、既に大和の支配下に入れられていたという事だろうか。
気になるところだが、筑後国の方に戻ろう。
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by tizudesiru | 2011-09-24 15:51 | 7八女丘陵の古墳のライン | Comments(2)


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175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
239藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造を命じた首長は誰
263天智天皇は物部系の皇統か
264柿本人麻呂と持統天皇
265消された饒速日の王権
266大宰府・宝満・沖ノ島
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んんだ倭建命
273大型甕棺の時代
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳

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