カテゴリ:6平原王墓ラインから分かること( 4 )

山と王墓の位置

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一貴山銚子塚古墳の時代この時代は、まだ宝満(かまど山)・飯盛山の力は信じられていた。弥生の神の伝統は、残っていた事になる。
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高良大社の時代高良大社の時代になると、糸島の神は、別の神に浸食されていたのだろうか。
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弥生の王たちは、いつ忘れられて言ったのだろうか。一貴山銚子塚の世紀までは、残っていたはずだが。その後、わずか二、三百年の間に消されていった……のであろう。
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by tizudesiru | 2011-10-05 08:08 | 6平原王墓ラインから分かること | Comments(0)

糸島の地図

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by tizudesiru | 2011-10-03 14:40 | 6平原王墓ラインから分かること | Comments(0)

平原王墓ラインから分かること

6 平原王墓ラインから分かること
 東西ライン(宝満・飯盛ライン)
の上に乗らない有名弥生王墓がある。それは、著書『実在した神話』で有名な原田大六氏が発掘した弥生墓、平原王墓である。弥生後期の方形周溝墓で、国内最大の大きさを誇る仿製鏡(内向花文鏡)五面を入れて四十面の銅鏡(いずれも国宝)を出土している。素環頭太刀やガラス製の勾玉や管玉。漢の高貴な女性が身につけたというピアス(耳とう)も出土している。この、コハク蛋白石のピアス。これは、国内唯一だとか。女性とされるこの王は、どんな環境の中に眠っているのだろうか。
平原王墓の位置
 平原王墓から見える南の脊振山地の中で、井原山(982m)と雷山(955m)が、この地域から見える象徴的な山である。これらの山々との関係はどうだろうか。
井原山と平原王墓をつなぐと、ラインは北側に伸びて糸島半島(いにしえの志摩国)の天ヶ岳(250m)に届く。王は、二つの山の間に眠っているようだ。
 また、佐賀県との県境に位置する羽金山(900m)と平原王墓を結んでみる。羽金山は、埋蔵金伝説の残る山である。天草の乱制圧に向かう黒田藩の軍用金の一部十万両が、長野峠で賊に奪われたという。それが、山中に隠されているというので、埋蔵金を探す人もいるらしい。その羽金山と平原王墓を結ぶと、ラインは北に伸びて、糸島半島(いにしえの志摩国)の浜崎山(97m)につながる。浜崎山は、博多湾側にある今津湾の入り口の山である。平原の王は、今回も二つの山を結ぶライン上に眠っている。彼女は、井原山ラインと羽金山ラインの交点に、日向峠に向かって横たわっている。が、それだけで今のところ何も分からない。
伊都国の他の弥生墓には、このような状況は認められるのだろうか。
たとえば、羽金山ラインは、古墳時代の一貴山銚子塚古墳を通り、志摩国側の彦山(231m)に届く。浮岳(805m)ラインは、宮地岳、志登支石墓1、志登支石墓2を通り、毘沙門山に少しずれて届く。獅子舞岳(841m)ラインは、釜塚古墳を通り志摩国の大葉山に届く。脊振山(1055m)ラインは、三雲王墓を通り志摩国の火山(244m)に届く。火山には、神功皇后伝説がある。新羅遠征の時、山に火を焚いたのでその名がつくという。
 山→古墳→山の信仰が、弥生にはあったのだ……。力のある王は、高い山を背負っている。二つの山に見守られて眠る事は、首長達のスティタスシンボルだったのだろうか。
井原山→平原王墓→天ヶ岳
脊振山→三雲王墓→火山
羽金山→平原王墓→浜崎山
羽金山→銚子塚古墳→彦山
浮岳→宮地岳→志登支石墓→毘沙門山
獅子舞岳→釜塚古墳→大葉山
雷山と平原王墓
 さて、雷山である。この山を通る墳丘墓はないのだろうか。
 平原王墓の存在が、伊都国で絶大だったのは、疑う余地はないが、雷山との関係はどうだろう。定規を当ててみたが、雷山と平原王墓を結ぶラインは、何故かどの山頂にも当たらない。雷山は、雷山神籠石のある山である。伊都国から見ると、井原山より若干低いのに雷山の方が高く思える。その山と平原王墓は、何故結びつかないのだろうか。平原王墓は、直接的に雷山と結びつくのを避けたのか。様々に憶測してしまう。平原の王が、より近くにそびえる雷山に何も思いを抱かなかったとは思えないのである。
 しかし、雷山からのラインが三雲南小路王墓を通ると、丸隈山古墳に届く。宝満・飯盛ラインのように、王墓や首長墓を結んでいる。三雲南小路の時代、雷山は大切な山だったようである。丸隈山の王は雷山への信仰心を持ち、三雲王を崇敬していたのだろう。可也山からのラインも、志登支石墓1を通り、此処から鋤崎古墳へと続く。王墓どうしが結びつく例は、ありそうだ。しかし、平原古墳と雷山の関係はない。弥生後期には雷山への信仰が薄れたのか。または、雷山と結びつく権力が交替したので、平原の被葬者は故意に雷山ラインを避けたのか、である。
雷山と可也山
 では、他に雷山からどんな事実が導き出されるだろう。
 試しに、雷山から真北へ定規を置いてみると、柑子岳(254m)に当たった。
この南北ラインに、式内社の志登神社が乗っている。十世紀になって志登神社の神は、雷山を意識して鎮座されたか。今は、田んぼの中に取り残されたように見えるが、昔はこの地方の大事な神社だったはずである。志登神社の南に志登支石墓群1(この番号は勝手につけている)も乗っている。また、この支石墓群の真西に可也山の山頂が見える。可也山東西ライン上にこの支石墓群1があり、そこは雷山南北ラインとの交点になるのである。東西ラインと南北ラインの交点に、渡来系人の墓と聞いている支石墓群1がある。雷山は、彼らにとって祖霊が集まる山だったのだろうか。それにしても、地域のシンボルの雷山の活躍の場が少ないようだ。何故か? この疑問は後に残しておこう。
 可也山は、韓国の慶尚南道の加耶に由来する山名である。その東にある墓。そうすると、彼らは、先祖の土地を懐かしみながら、地元の山から天に昇ったのだろうか。ちなみに、支石墓はこの地ばかりではなく、方々にある。近くにも残っているが、そこは、浮岳→一貴山銚子塚古墳→志登支石墓群2→志登神社(式内社)→毘沙門山と、浮岳ライン上に並ぶのである。しかし、並ぶからといって、これらの墓や神社の歴史的背景は、同じではない。それぞれが出来た時間は大きくずれる。ずっと存在するのは、山くらいだ。たとえ西九州にたくさんある支石墓群の中の二つが、ラインに並ぶように見えても、それは、ただの偶然かも知れない。偶然を見つけて、古代人の思いや信仰を捻じ曲げても悪い気がする。だが、地域の山に対して聖なるものを感じたり、自分の心のよりどころとする信仰はあったと思われる。
平原王墓と可也山 更に、糸島富士とも呼ばれている加也山と平原王墓の関係はどうなるだろう。可也山から平原に向かって線を引くと、平原王墓を通り南東の三雲南小路王墓に届く。宝満・飯盛ライン上の三雲王墓である。二つの弥生の王墓を、可也山が結びつけている。近くには狐塚とか、割れ塚古墳、築山古墳、端山古墳など多くの古墳があるが、それらには結びつかず三雲南小路の王墓に当たる。平原王墓は、三雲南小路王墓を意識し、王権を継承しようとしたのだろうか。
高祖山と平原王墓
では、高祖神社があり古墳のメッカでもあるという高祖山から直線を伸ばしてみよう。ラインは平原王墓を通り、西に伸びて一貴山銚子塚古墳に当たる。前に紹介した糸島地方最大の前方後円墳である。さすが高祖山、平原王墓と一貴山銚子塚を結びつけたのである。銚子塚の主人は、平原の王権を意識し受け継ごうとした。と、考えられないだろうか。宝満・飯盛ライン上の三雲南小路王墓の継承ばかりでなく、平原からも王の威力を継承しようとしたのだろうか。
可也山→平原王墓→三雲南小路王墓(矢印の向きは、逆であろう)
高祖山→平原王墓→一貴山銚子塚古墳
 王墓や古墳を、山が結び着ける。有名王墓は、有名王墓に結びつく。こんな例が、他にもあるのだろうか。
もし、この直観が有効だとすれば、江戸時代に発見されたが、埋め戻されて所在が分からなくなった、多くの銅鏡が副葬されていた井原鑓溝遺跡も、このようなライン上に隠れているのではないだろうか。平原古墳が、答えを教えてくれるかも知れない。
魏志倭人伝の中で、伊都国の紹介に『世王あり』と書かれている。此処には、王がいた。彼らは、伊都国に眠っている。王の埋葬の仕方も、文化として受け継がれたであろう。伊都国では、甕棺墓が比較的早く始まり、早く終わっているという。三雲王墓は甕棺墓である。しかし、平原王墓は割竹型木棺墓である。弥生後期に、同じ地域内で、葬送文化が変化した事になる。それは、他文化との交流だけでなく、歴史上の変化も示しているのだろうか。それでも、鏡、太刀、勾玉、豪華な装身具などを副葬する埋葬の仕方は、先祖や祖霊を大切にする古代人の考えの表れに違いない。彼らは、日常生活の中でも祖先を敬い畏れていたと思う。だからこそ、国内最大の内行花文鏡を量産し、何らかの意味を持って、それを破壊し埋葬したのだ。内行花文鏡の時代の終焉? なのか。三角縁神獣鏡の時代の始まりか。
とにもかくにも、南北ラインと東西ラインの交点という新しい視点を見つけた事で、これから先がもっと面白くなる気がしている。嬉しいことである。 
 しかしである。
 ここでいう東西ライン、南北ラインが、不正確で意味をなさないとしたら、これからの追及も意味をなさなくなる。そこで、国土地理院の地図検索を使って、緯度と経度を測定してみようと思ったのである。
*宝満・飯盛 東西ライン(大ライン)
 宝満山上宮(北緯33度32分23秒)
大城山頂(北緯33度32分19秒)
須玖岡本遺跡(北緯33度32分17秒)
須玖岡本・神社(北緯33度32分20秒
吉武高木遺跡(北緯33度32分13秒)
飯盛山頂(北緯33度32分13秒)
三雲南小路王墓(北緯33度32分12秒)
一貴山銚子塚古墳(北緯33度32分11秒*可也山 東西ライン(小ライン)
可也山頂(北緯33度34分20秒)
志登支石墓群1(北緯33度34分20秒)

カーソルで数字を出してみると、平野の両端では若干のずれを生じる。定規を使って引いた宝満ラインは、真東真西の関係と地図上では確認したつもりだったが、パソコンで調べた数字では数秒傾いたラインになる。それは、地形の関係や、目測で測量した関係でもあろうが、出発点と到着点が数十キロ離れている事も関係していると思う。それとも、ここ二千年の間に、真東がずれたのだろうか。
*雷山 南北ライン
雷山山頂(東経130度13分24秒)
志登支石墓群1(東経130度13分20秒)
志登神社(東経130度13分20秒)
柑子岳山頂(東経130度13分18秒

 地図に直線を引くと、真北にまっすぐラインが通ったかに思えたが、数字を見るとやや傾いている。山頂の何処かに目印を設定したのだろうが、面になる山頂と墓とを結ぶラインは微妙にずれて来たのだろうか。それとも、この二千年の間に、真北が若干ずれて来たのだろうか? 平原王墓が避けた雷山を取り込んだ十世紀の志登神社の文化は、弥生時代とつながらないかもしれない。
  此処では、山と墓をつなぐラインが存在するらしいと、ひとまず結論を出しておこう。弥生時代から古墳時代にかけて、その時代の首長達は選ばれた地に眠っている。地域のシンボルの山に挟まれて眠るのは王候クラスである。他の首長達も権力を継承するためや、王族とのつながりを示すため、または墓から霊力を得ようとしたのか、山を媒介にしたライン上に眠っている。


まだまだ編集中 つづく
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by tizudesiru | 2011-09-25 20:57 | 6平原王墓ラインから分かること | Comments(0)

志登神社(式内社)

志登神社の説明板
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神社参道
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by tizudesiru | 2011-09-25 08:05 | 6平原王墓ラインから分かること | Comments(0)


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