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椿井大塚古墳が三角縁神獣鏡を製造した?

椿井大塚山古墳に行きました
三角縁神獣鏡を製造した首長の墓?

椿井大塚山古墳の被葬者が、王権の委託を受けて三角縁神獣鏡を製造したと、いう説がほぼ定説です。この古墳を線路が横断していますので、前方部と後円部は線路で分断されています。
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だから、時々電車が通ります。
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ここは、木津川市の椿井大塚山古墳です。
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では、大塚山に登ってみましょう。線路のガード下を通って、墳丘に登ります。
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ここを上って行くと、後円部につきます。
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周囲は竹林になっていました。
山城の二大古墳群は、乙訓古墳群と久津川古墳群です。木津川古墳群の椿井大塚古墳群(全長75m)は少し離れた所にあります。
南部の比較的小さな古墳群の中に椿井大塚山古墳はあります。
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地図の一番南に在ります。木津川がカーブして北上する辺りです。
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では、鏡のことはまた明日。



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by tizudesiru | 2017-10-20 22:47 | Trackback | Comments(0)

222 「沖ノ島と大和朝廷」に行きました

222 沖ノ島と大和朝廷展驚きました
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まず、船の埴輪が展示されていました。どこかで見たと思ったら、大阪・高廻り2号墳出土(5世紀前半)の舟形埴輪にそっくり。
[この岡古墳の舟形埴輪は4世紀になっている。船のそこに大木を刳り抜いた一枚板が取り付けてあるようだ。外洋に出れば、波のうねりで鉄釘を打った程度の船底ではバラバラになってしまう。船の両端は立ち上がり波除になっている。この船より、5世紀末の宮崎・西都原古墳170号出土の舟形埴輪の方が未熟だという。?] 
外海で命を守る大事な船の技術は、伝わらないものですかね? それとも、どちらかの年代が判定ミスなのでしょうか。
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おや、これも船ですが、奈良・寺口和田1号墳(5世紀)出土の小型船。準構造船だとか。
「沖ノ島と大和朝廷展」だから海に関する「船」なのでしょうが、九州の船は展示がありませんですね。そういえば、九州の博物館に行っても船の埴輪は印象に残っていませんね。船は日常使うもので特別ではなかったのでしょうか。
すると、古墳に入った船は特別の使用目的があったということですね。
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三重・宝塚1号墳の船です。レプリカが展示されていました。明らかにこの船の役割は、大刀に守られ、蓋(きぬがさ)で権威付けられた「石見型(いわみがた)表飾品」(木製品)を運ぶことのようです。石見形木製品と云われる表飾は、古墳に建てられるものです。九州では木製品もありますが、熊本などで大型の石人石馬のような石製装飾品として、蓋や靭や太刀などがあります。その中に岩見形表飾があるのです。
どれも墓制に関わるものでしょうか。それを船で運ぶなら、目的は限られますね。先祖の霊魂を運ぶための道具です。船に乗せて別の土地に祖霊を運んだのでしょう。祖先霊の依代としての木製品です。わたしには、それ以外に考えられません。
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船の次は人物埴輪でした。奈良・岩見遺跡からの出土です。豪族と紹介されていますが、この人物が腰かけている椅子は、直弧文が描かれています。石人山古墳の家形石棺は、蓋の屋根部に直弧文が描かれています。
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この人物はただの豪族なのでしょうか。
この展覧会は、中に入ってすぐにスタートからこんがらかってしまいました。最初の展示がこれらでしたから。
色々考えさせられましたので、ちょっと紹介しました。
また明日







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by tizudesiru | 2017-02-19 00:59 | Trackback | Comments(0)

192人麻呂の編集・軽太郎女皇女の歌

192人麻呂の編集・軽太郎女皇女の歌

有間(ありま)皇子と(こう)(とく)(36代天皇)の皇后だった間人(はしひと)皇女の物語を僅か首の歌に見ました。が、何度も言うように、この物語は万葉集ができた当初は隠されてはいなかったと私は思っています。

堂々と、しかも読み手に分かるように柿本人麻呂が編集していたと、私は考えているのです。

難波(なには)天皇の「難波長柄(ながらの)豊崎(とよさきの)宮御宇(みやにあめのしたしらしめす)難波高津(たかつ)宮御宇」仁徳天皇(16代天皇)に変えたのは、後の人です。

後の学者も各歌の信憑性を疑い、様々に検討を加えています。巻二の冒頭の「(いわの)(ひめ)皇后の歌」には納得しかねたのでしょうか。詳しい左脚があるのです。

磐姫皇后の御歌で85~89の歌の内、山上憶良(やまうえのおくら)の「類聚歌(るいじゅうか)(りん)」にあったのは、85だけだとを入れています。

それでは、86~89は誰がここに置いたのか。89は「古歌集」から選ばれたのですから、それは編集者の手元にあった「古歌集」からの引用に他なりません。

86~88の三首は、言葉と表現方法から「柿本人麻呂」の作だと云われています。

すると、人麻呂は熟慮の結果として「磐姫の四首を並べた」のでしょう。


さて、
(いわの)(ひめ)皇后の四首の後に、軽太郎女(かるのおほいらつめ)の歌(90)が置かれています。

この90番歌が、磐姫皇后の85番歌とそっくりなのです。

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これは、軽太郎女の決心を歌ったものです。

万葉集中の磐姫皇后は、大変けなげで書紀の磐之姫とはかなり違って、「どんなに年を取ろうと白髪になろうとあの方をお待ちしよう」と決心していました。


しかし、軽太郎女は違います。

軽太郎女は決然と立ち上がり、太子を迎えに行くのです。


軽太郎女(軽太娘)皇女の歌が語る政変

90 君が行き()長くなりぬ山たづの迎えを往かむ待つには待たじ

あの方がお出かけになってからずいぶん日が経った。お迎えに往こう。このまま待って、待ち続けるなんてできない。

万葉集には「右の一首は、古事記と類聚歌林というところに同じくあらず」と書かれ、磐姫皇后の御綱柏を海に投げ捨てた嫉妬の話が先に紹介された後、「また曰く」と、軽太子と軽太郎女の話が紹介されています。


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左脚には「遠つ飛鳥の宮に天の下知らしめす雄朝嬬稚子宿禰(をあさづまのわくごのすくねの)天皇(すめらみこと)(19代・允恭天皇)の二十三年の春三月、(きのえ)(うま)の朔の庚子(かのえね)に、()(なしの)軽皇子(かるのみこ)を太子となすてい

書紀の允恭天皇紀(19代)によると、確かに、仁徳天皇(16代)の三子・允恭天皇(履中天皇の弟)の二十三年に、木梨軽皇子が皇太子(ひつぎのみこ)二十四年太郎女密通まいす。木梨皇子皇太子であったず、伊予皇女た。

安康(あんこう)天皇紀20代)によると、允恭天皇四十二年正月に天皇崩御。冬十月、皇太子暴虐(軽太郎女との問題)のため群臣の信頼を損ない、群臣が弟の(あな)()皇子ついった穴穂皇子とうし、穴穂皇子太子物部大前宿祢自害伊予


となっているのです。しかし、よく見ると木梨軽皇子は伊予には流されていません。物部大前宿祢の家に逃げ込んだのですから。事の発覚が允恭二十四年で、自害は天皇崩御の四十二年になっています。


このズレの意味は何でしょうか。

古事記では、軽太子は大前小前宿祢の家に逃げ兵器を備えたが、穴穂皇子が軍を興して大前小前宿祢の家を取り囲んだ。

しかし、宿祢は太子を説き伏せ「われ捕らえて貢進せん」と軽太子を差し出したので、太子は伊予に流された。

宿禰は、ほかに軽皇子を救う方法がなかったのでしょう。


そこで、軽太娘皇女が「君が行きけ長くなりぬ」と歌うのです。

皇女は軽皇子を追い到り、お互いに歌を交わしました。そして、「共に自ら死にたまひき」という結末になります。

 

古事記・日本書紀ともに、共通するのは「謀反」事件です。

それも、皇太子の謀反ではありません。皇位を奪ったのは、他の皇位継承者でした。軽太子をスキャンダルで追い詰め、流罪にし、死に到らしめたという…

どこかで見たような展開です。


そうです。
皇太子をスキャンダルで追い込み、死に至らしめる、まるで有間皇子事件にそっくりではありませんか。

軽太娘皇女の歌が万葉集に置かれた意味はここにあります。

当時の人には、万葉集・巻二の冒頭の五首の意味が全て分かったことでしょう。

驚きの編集と云わねばなりませんね。




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by tizudesiru | 2017-01-06 23:55 | Trackback | Comments(0)

173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌

173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌

高市皇子を裏切った但馬皇女


記紀には道ならぬ恋の話が出てきますが、その恋は許されていません。

しかし、天武朝では許されたのでしょうか。


高市皇子の宮に居た但馬皇女は、穂積皇子を好きになります。二人は恋仲になったようですが、

穂積皇子も但馬皇女も咎めは受けなかったのでしょうか。

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但馬皇女、高市皇子の宮に(いま)す時、穂積皇子を(しの)て作らす御歌一首


114 秋の田の穂向きのよれるかたよりに君によりなな
(こち)()くありとも


 秋の田の稲穂は重くて片方によってしまうが、その片よりのように貴方にわたしは寄り添いたい。どんなに人がいろいろ噂して煩わしくあっても。


穂積皇子に勅して近江志賀の山寺に
(つか)はす、但馬皇女の御歌一首


115 
(おく)れいて恋つつあらずは追いしかむ道のくまみに標結え吾がせ


行ってしまった貴方を恋しく思いながらいるよりは、追いかけて行きますから、道の曲がり角ごとに標を結って神様にお祈りしていて下さい、あなた。


但馬皇女、高市皇子の宮に在す時、
(ひそか)に穂積皇子に()い、事すでに(あらは)れて作らす御歌一首


116 
人事(ひとごと)を繁みこちたみ(おの)が世に未だ渡らぬ朝川渡る


世間の噂がひどくて煩わしいので、生まれてこの方一度も渡ったことのない川を、それも朝川を私は渡る

   但馬皇女の御歌一首  一書に云う子部王(ちいさこべのおおきみ)作る


1515 事繁き里に住まずは今朝鳴きし雁にたぐひてゆかましものを


世間の噂が激しくて耐えられないような里に住まないならば、今朝鳴いていた雁と一緒に連れだって飛び去ったのに


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但馬皇女(こう)ぜし後に、穂積皇子、冬の日に雪の降るに御墓を遥望し悲傷(ひしょう)流涕(りゅうてい)して作らす御歌一首

203 降る雪はあはにな降りそ吉隠(よなばり)()(かい)の岡の寒くあらまくに


雪が降って来た。雪がたくさん降ったならあの人が眠っている吉隠の猪養の岡が寒いだろうから、多くはふってくれるな。

この二人が許されていたとは。高市皇子の妃は御名部皇女(持統帝の妹・阿閇皇女の姉)ですし、不思議です。但馬皇女は世間の噂の中でも、自分を貫いたのでした。二人を結びつけたのは、天智朝の重臣の家系だという自負でしょうか。藤原不比等の後ろ盾があったのでしょうか。

但馬皇女

父・天武天皇  母・藤原鎌足の娘、氷上娘

?生~和銅元年(708)没

高市皇子の宮に住んでいた

若い穂積皇子に惹かれていた

穂積皇子

父・天武天皇  母・蘇我赤兄の娘、大蕤(おおぬ)

壬申の乱後?生~霊亀元年(715)薨去

・持統五年(691)浄広弐  妻・大伴坂上郎女






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by tizudesiru | 2016-11-30 17:15 | Trackback | Comments(0)

熊本大震災!緑よ、よみがえれ!

熊 本大震災!緑よ、蘇れ!その美しさを永遠に! 
私は、今年・2016年4月6日、阿蘇の黄スミレを見に行った。近年の集中豪雨のあと、阿蘇の山肌は荒れてしまったので、黄スミレはどうなったのだろうと気がかりだったからだ。この日から10日後に、大震災が来るとは思ってもみなかった……
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黄スミレは、けなげにつつましく咲いていた。
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春を迎えるために行われる草原の「野焼き」のあとに、焼けた草ぐさの根元に咲いていた。
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黄スミレの咲く草地から往生岳が見える。往生岳の東南に阿蘇中岳が控えている。
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美しく蘇ったような往生岳には、まだまだ水害の爪痕が残っている。
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一面に咲く黄スミレを見て、この美しさが長く永く続きますようにと祈った、祈らずにはおれなかった。
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阿蘇のカルデラの田園と外輪山は、しんとして静かだった。
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阿蘇中岳も静かに煙を上げていた。すべて世はこともなし……というこの静かな風景は、この後一変してしまうのだ……
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by tizudesiru | 2016-04-22 10:28 | Trackback | Comments(0)

阿蘇ピンク石の石室・井寺古墳

 
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阿蘇石の石室井寺古墳阿蘇溶結凝灰岩で作られた井寺古墳(直弧文が刻まれた石障が有名)に行くことにしました。が、出発して間もなく寄り道をしました。以前、訪ねた「猫伏石」に再会して懐かしかったからです。
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どう見ても古墳ですね。巨石の石室が壊されているようです。猫伏石は「木山街道」のど真ん中にあるのですが、昔の人もこの大石を動かせなかったようです。猫伏石のところで、木山街道はロータリーのような交差点になっています。この石のすぐ近くに「熊野神社」があって、ここにも以前訪ねたことがあります。
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地図で見ると、ちょっとおもしろいようです。
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熊野神社は、雲仙普賢岳と阿蘇の清水寺を結んだライン上に乗っていました。木山とは「木山神宮」のことです。社殿とは少しずれますが、ほぼライン上にあるようです。
 さて、いよいよ井寺古墳に行こうとしたのですが、今度は道を間違えて、中無田熊野神社に出てしまいました。ここは井寺の浮島神社から勧請された神社でした。中無田の水が井寺の湧水と同じように豊かであったので、熊野神社を勧請したのでしょう。湧き水を汲みに来ている人が数人おられました。
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いよいよ井寺古墳に向かいましたが、またもや昔訪れた「沼山津神社」に寄り道しました。
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この神社も地図で見ると、八方ヶ岳と小山山と井寺古墳を結ぶライン上にありました。試しに猫伏石と結んでみると、日吉神社をかすめて、宇土市の城山公園にラインが届きました。宇土市の城山公園は画像には乗り切れませんでした。
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何度もより道して時間を取りましたが、井寺に到着しました。まず、浮島公園に車をおきました。
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一日に13万トンの水が湧いているそうです。広い池の水は澄みきっています。熊野神社が見えます。
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井王とは、非常に興味の湧く姓ですね。この地は井寺ですから、井氏の寺があった地ということでしょうか。
熊野神社から歩いて5分くらいのところに井寺古墳はあります。
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説明板が破れていますが、読み取りはできます。
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井寺古墳の直弧文の装飾壁画写真は、参考資料のものです。写真資料以外に古墳の内部を見ることはできません。石室の積石も阿蘇ピンク石です。
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さて、井寺古墳を地図で見ましょう。
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井寺古墳の西には普賢岳。おつぼ山神籠石のあいだには熊ノ岳。江田船山古墳→打越古墳→井寺古墳と、三か所の古墳は直線上に乗ります。三か所の有名古墳がつながるのは、珍しいことです。
井寺古墳は何を教えてくれているのでしょうね。
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by tizudesiru | 2015-12-16 00:52 | Trackback | Comments(0)

116大王は神にしませば

大王は神にしませば

大王は 神にしませば 天雲の 雷の上に 廬らせるかも  (万葉集 巻三 )235
大王は 神にしませば 天雲の 五百重が下に 隠りたまひぬ (万葉集 巻二 )205
大王は 神にしませば 真木の立つ 荒山中に 海を成すかも (万葉集 巻三 )241
大王は 神にしませば 赤駒の 腹這う田井を 京師となしつ(万葉集 巻十九)4260
大王は 神にしませば 水鳥の すだく水沼を 皇都となしつ (万葉集 巻十九)
4261
 「大王は 神にしませば」の表現は、壬申の乱に勝利した天武天皇とその皇子に限って使われていると、小学館の万葉集の注釈にあり、集英社の「万葉集釋注 二」(伊藤博著)にも書かれています。
 235番の歌は、「天皇、雷の岳にいでます時に柿本朝臣人麻呂が作る歌一首」です。「大王の 神にしませば」の表現を初めて使った人は、人麻呂でしょうか。
 205番の歌は、文武三年(699)七月二一日、弓削皇子が亡くなった時、置始東人(おきそめのあずまひと)が作った長歌の後の反歌です。弓削皇子と仲のよかった春日王が文武三年六月二十七日に没しているので、そのひと月後に弓削皇子の薨去となります。
 弓削の皇子の歌「吉野にいでます時の御歌一首}(巻三242)に
滝の上の 三船の山に 居る雲の 常にあらむと 我が思わなくに
が、あります。この歌に、春日王が答えます。
大王は 千歳に座さむ 白雲も 三船の山に 絶ゆる日あらめや (243)
 弓削皇子は自分の運命を予感していたのでしょう。それに和する春日王は、「千年も生きられるでしょう」となぐさめました。これらの歌の後に、「或本の歌一首」として柿本人麻呂の歌集から紹介されています。
み吉野の 三船の山に 立つ雲の 常にあらむと 我が思はなくに (244)
 人麻呂は、弓削皇子と春日王の歌を知っていたのでしょう。


また明日
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by tizudesiru | 2013-10-11 00:34 | Trackback | Comments(1)

115こんにちは万葉集!

こんにちは万葉集
忙しくてまたまたブログをお休みしました。再開です。
我が背子を 大和へ遣ると 小夜更けて 暁露に 我が立ち濡れし
ふたり行けど 行き過ぎかたき 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ

 上記の歌は、「大津皇子、ひそかに伊勢の神宮に下りて、上りくる時に、大伯皇女の作らす歌二首」です。
 事件が起こったのは、朱鳥元年(686)九月、伊勢神宮の斎王であった姉に会いに行った大津の皇子。弟を大和へ帰す事への姉大伯皇女の不安。父天武天皇が崩御して十五日、まだ喪中です。大和では何かが起こっているが、それはまだ見えない。
 十月二日、それは起こってしまった。親友だった川島皇子から、大津皇子の謀叛が漏れてしまう。
 十月三日、磐余の訳語田(おさだ)の舎(いえ)の池のそばで、大津皇子は殺されます。妃の山辺皇女は髪を振り乱し裸足で走り来て、殉死するのです。
 なぜ大津皇子は死ななければならなかったのか。
 それは、天武天皇に期待され愛された皇子だったからです。健康で文武に優れ、側近からも一目置かれていました。大津と大伯の母は、天智天皇の皇女で太田皇女。持統天皇の姉にあたります。皇位継承の点でも、十分な条件がそろっています。母を幼くしてなくし、今また父天皇の後ろ盾なくして、頼りは伊勢の斎王である姉だけだったのでしょう。
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 ラインを一つだけ紹介します。天武天皇の陵墓から二上山にラインを引きました。磐余で死を賜った大津皇子の屍は、二上山(ふたかみやま)に改葬されています。天武陵から見ると、二上山は夏至の日没の方角で、二神山から見ると天武陵は、冬至の日の出の方角です。このラインを大阪側に伸ばすと、なぜか仲哀陵に届きます。
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by tizudesiru | 2013-10-10 01:11 | Trackback | Comments(0)

日知王の山々

日知王の山々
 万葉集巻一、柿本人麻呂が近江の荒都を過ぎる時作る歌「玉手次 畝傍山乃 橿原乃 日知之御代従 阿礼座師 たまだすき うねびのやまの かしはらの ひじりのみよゆ あれましし」という長歌に「日知」という語が使われています。畝傍山の橿原にいた日知の王が治めた世より、この世にお生まれになった……と、歌はつながり、橿原の王から次々受け継いだ皇統を詠んでいるのです。「玉たすき」とは、神祀りの時に懸ける襷らしく、文字からすると、橿原の王は、日知です。「日知」とは、聖にも通じ、太陽の動きを読める尊ばれる人物でしょう。ここでは、そういう人物を「日知り王」と呼びましょう。橿原の王は、日知りであったようです。日を読んでいたのです。
 日知り王は、日を読むに何を以てしたか。つまり、見てわかる基準があったはずです。彼は、畝傍山の橿原のある地点から、三輪山を見ていた。三輪山は、神武陵から見るとほぼ夏至の日の出の山です。そして、そのことを確かめて畝傍の一地点に宮柱を建てた。そこは、春分秋分の太陽が天香久山々頂から昇るのが見える場所でもあります。なぜそう言えるのか。それは、九州の日知り王と共通するからです。日知は、王の条件でしょうか。

 北部九州の日知のラインは、北部九州の中央の山地を縦断します。その山地は、福岡平野から見える東の山々。偶然にも南北に連なる山頂で、それは、鉾立山・砥石山・宝満山。更に、阿志岐平野を挟んで宮地岳山頂に及びます。このラインが南下すれば、高良大社に当たり、高良大社から北を見ると、宮地岳の後ろにそそり立つ宝満山々頂の上空に、北極星が見えます。広い筑後平野の奥のひときわ秀麗な宝満山は、福岡平野からも筑後平野からも長い間信仰を集めていました。三郡山系の宝満山は福岡・筑後の両方の平野の接点にあり、断層地形の谷(平地部)を挟んで脊振山系に一番近い山なのです。この山こそ、日知り王の春分秋分の山であり、この山の西に弥生の日知り王はいたのです。
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吉武高木遺跡の時代
 唐津の菜畑遺跡あたりから始まった鏡や青銅器を副葬する習慣は、瞬く間に福岡平野にも広がりました。吉武高木の首長も聖であったと考えられます。飯盛山から見ると、夏至の陽は鉾立山から登り、冬至の日は荒平山から登ります。
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 荒平山から冬至の陽が昇ることを、早良の首長は飯盛山から目で確認できたと思います。しかし、見勢大霊石神社までラインを伸ばすことは、少しためらわれます。この神社は、神功皇后が清浄な砂地で祭祀をしたと伝わりますから、もう少し河原に近かったかもしれません。そして、鉾立・宝満山ライン上に、脊振からのラインが交差する位置に建てられていたのかもしれません。そうなると、のちの世、延喜式内社の世に、二つの神祭りのラインを断つために建てられた神社ということになります。
 話を戻します。
三雲南小路王墓の時代 
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 この王は、日知り王だったのでしょうか。高祖山が夏至の陽の出のラインです。脊振と火山の間に甕棺はありましたが、このラインは冬至の陽の出ではありません。夏至の日没は、加也山です。
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 三雲南小路王墓から平原王墓を通り、加也山につながるラインです。王墓から見ると6月22日の太陽は、可也山に沈みます。画像は、三雲南王墓から見た6月22日の日没です。可也山に沈む陽をパソコン上で確認しています。
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 平原の王は、日没の方向に周溝墓を造ったことになります。此のラインが、大祖神社までつながることは、前回までに紹介しています。可也山から見れば、神社の方向に陽が沈んだのです。神祭りの場としては、ふさわしいでしょう。伊都国の首長たちは、加也山・高祖山、井原山を使って、陽を見ていたはずです。
須久岡本王墓の時代
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須久岡本の王は、夏至・冬至・春分秋分の山々を、福岡平野の周囲にもっています。すべてそろっているのです。春分秋分の太陽は宝満山から昇り、飯盛山に沈みます。須玖岡本の最高部から見る宝満山は、大城山(大野城)の影になって見えにくいのです。そこで、神祭りを大城山でもしていたようです。王城神社の由緒からすると。
 夏至の陽は砥石山から昇り、愛宕山に沈みます。ここも古代からの神祭りの場でした。冬至の日は宮地岳から昇り、井原山に沈みます。
 須玖岡本の日知り王は、吉武高木の首長の伝統を受け継いだことになります。宝満山と飯盛山の祭祀を受け継ぎ、愛宕山・砥石山・宮地岳・井原山を神祀りの対象の山とした事でしょう。そして、真南にある九千部山を崇敬したはずです。毎日、太陽が南中する山ですから。一族の守り山・神と仰いだ山は、九千部だったはずです。九千部・香椎ラインと、宝満・飯盛山ラインが交差するのは、須玖岡本の最高部です。伊都国と奴国・早良国が出会う場所、古代の太陽祭祀がされたであろう場所は、此処意外にありません。すると、やはり、倭女王は須玖岡本地区と関係の深い人であり、父方の墓地に眠っているはずです。
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 日知り王は九州で生まれた
 三か所の弥生遺跡の首長たちは、それぞれの地域から太陽の動きを観測した「日知り」であったのです。彼らは尊敬され、畏れられ、大切にされたでしょう。「日知」であることの証に鏡を持とうとしたのでしょう。鏡をいち早く持ったのは、九州の王や首長です。日知りの思想も九州から生まれたのです。


明日は旅行に出ますから、数日お休みします。
101回から、九州の首長のつながりを改めて、紹介したいと思っています。
では、また


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by tizudesiru | 2013-07-26 00:09 | Trackback | Comments(0)

宇佐神宮と北部九州・その2

宇佐神宮北部九州その2
 古代の宇佐神宮は、どんな位置にあったのでしょう。地図上の位置ではなく、信仰上の、または古代の権力者にとっての、更にそこに住む人にとって、どんな意味やつながりがあったのでしょう。
a0237545_0422372.png

 大胆な地図です。東の宇佐神宮からラインが伸びて、大きな三角形ができました。
a0237545_046438.png
 
 赤・水色・青ラインは、どこへつながるか想像できると思います。赤ラインは雷山山頂に届きました。水色ラインは、
a0237545_0492040.png

 宮地嶽古墳に届きます。小さな丸い森のように見えるのが、巨石の横穴式石室の古墳です。このラインは、遠賀川流域にある、天照神社を通過しています。この神社は、日本で唯一ニギハヤヒ命を主祭神として祀る神社だそうです。その神社が、宮地嶽古墳と宇佐神宮のラインの上にあるのです。宮地嶽古墳の被葬者は、宇佐神宮や天照宮を知らなかったのでしょうか。まだ、神社がなかったとして……それとも、すでに天照宮も、宇佐神宮もなにがしかの社を建て、神祀りをしていたのでしょうか。だから、このラインができたのでしょうか。
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では、青は?
a0237545_0521922.png

 そう、大善寺玉垂宮に届きます。そして、玉垂宮をややはずして、北から降りてくる青ラインは、宮地嶽古墳から南下したものです。大善寺玉垂宮を通り過ぎて……以前紹介した「こうや宮」の小さなお堂に当たります。(このラインを、宮地嶽古墳から権現塚古墳につなぐと、途中に、千栗八幡を通過します)
a0237545_121540.png

 なんだか意味深な三角形に、意味深なお堂がつきましたね。
 こうや宮についての紹介も合わせてみてくださいね。

「宇佐神宮と北部九州」で取り上げたラインで、宇佐神宮・薦神社・香春神社ラインと、宇佐神宮・天照神社・宮地嶽古墳ラインの二本は、北西に延びるよく似たラインです。三か所の神社がつながり、式内社に挟まれている前者と、宮地嶽古墳とつなぐ後者。前者の宇佐神宮は、延喜式内社として香春神社とともに薦神社を抑える役目を持っているのですが、後者の宇佐神宮は、古墳と結びついた北部九州の古代の神祀りを伝えています。
 古墳と神社のどちらが先か難しいところですが、宮地嶽古墳と天照神社が先にあって、この二か所の延長線上に宇佐神宮が祀られ、次に、薦神社を抑えるために、宇佐神宮の霊力を頼りに香春神社が祭られたことになります。他の勢力が北部九州にどのように入ってきたか、想像できるのではないでしょうか。この逆、宇佐神宮に合わせて、天照神社と宮地嶽古墳ができたという仮定は難しいでしょう。

 さらに言えること。「宇佐神宮がもともと九州の神祭りの社だったのではないか」ということです。それが、宮地嶽古墳・天照神社との結びつきが示していると。時代が変わって、東大寺大仏建立に積極的に協力したのは、応神天皇にかかわる古い祭祀が近畿王家につながりがあったからではないでしょうか。応神天皇その人であったかどうかは、わかりませんが。奈良の朝廷と結びついた、かかわりのある人物や伝承があったのでしょう。
 この時代、日本書紀はできていますが、一般の貴族にも特別に学習しなければわからないほど難しかったのですから、普通の人々に歴史は遠い世界だったでしょう。古事記の世界の一部が神楽として全国に広がるのは、神代の昔を知りたいという知的な願望もあったからと思います。その願望が、さまざまな伝承を産み育て、その中に幾らかは事実が含まれ、それがわずかに残されているのではないでしょうか。
 それにしても、古墳や神社は率直に古の一部を教えてくれると思います。

 
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by tizudesiru | 2013-07-23 01:22 | Trackback | Comments(0)


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232岩戸山古墳の歴史資料館
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284明日香川原寺の万葉歌の謎
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
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291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?

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