白村江敗戦後、橘寺は彷徨える仏たちを供養した

飛鳥仏四十八体の悲運を受け止めた橘寺
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昨日から注目している橘寺は、川原寺の南に位置し千数百年の歴史を刻んできた古刹です。元は尼寺で、聖徳太子誕生の地とされ、聖徳太子建立の七大寺に上げられています。(上宮法王帝説)

今日は、昔ここ橘寺に集められていた仏像の話です。その金銅仏は、現在国宝になっています。飛鳥仏と呼ばれる四十八体の金銅仏がなぜ、橘寺に集められていたのか、その理由は不明です。

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これらの仏像は今では国宝ですが、これまで過酷な運命を乗り越えて来ました。それは、日本中の仏像が遭遇した困難と混乱でもありました。
明治になって、廃仏毀釈のあおりを受けて日本中の寺院が困窮しました。有名寺院の仏像も襖絵も、どんどん外国に売られました。法隆寺すら困窮し、困り果てた住職が皇室に仏像を献上して、その見返りに金銭を得る道を選んだのです。苦渋の選択だったでしょう。

明治十一年に法隆寺から皇室に献納されたいわゆる「御物金銅像四十九体」はもとは
橘寺に在ったものと云われ、法隆寺金堂の仏像などの目録を記した「金堂日記」には、「橘寺の常住僧が少なくなったので、安全を期するため仏像を承暦二年(1078)十月に法隆寺に移し、金堂の大厨子内に安置した」と、次第が記されています。

橘寺から法隆寺へ、法隆寺から皇室へ、更に現在は東京国博へ
御物金銅像四十九体はもともと何処にあったのか?
現在、東京国博にある飛鳥仏の内四十九体は、橘寺に在ったものであることに異存はありませんが、では、それらの仏像はもともと何処にあったのでしょう。個人の持ち物が集められたとして、その理由は何でしょう。飛鳥仏・白鳳仏ですから同じ時期の仏像です…それが官寺でもない橘寺に集められたのは何故でしょう。
これらの仏像を有力者が自分の館や仏堂に安置し、そこで念仏を唱えていたというのです。それであれば私有物ですから、集める必要はありません。ほとんどが七世紀の仏像ということです。或日、念仏を唱えていた信心深い人が仏像を手放した…

白村江敗戦後に俀国(倭国)で集められた金銅仏ではないか
わたしは白村江敗戦で疲弊した地域から持ち込まれたと考えました。仏教が浸透していたと、隋書にある俀国(倭国)からです。二万人もの戦死者を出した地域は働き手を失った上に、敗戦後は未曾有の経済的混乱に直面したと思います。その時に集められた仏像だと思うのです。四十九体すべてがそうだとは思いません。が、かなりの仏像がそのような過去を持っていると思うのです。

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165号は語る
宝冠を戴き顔を正面に向け、越を前に出して直立する。左手に宝珠を載せ、右手は宝珠の上に伏せる。このように腹前で宝珠を奉持する菩薩像は、「観無量寿経」が流布する以前の初期観音像を伝えた姿とされます。
このような菩薩立像の日本での作例は、法隆寺夢殿の観音菩薩立像(救世観音)が代表として挙げられます。救世観音は、古式の観音の形式で造られているのです!(わたしは、この救世観音も俀国のものだったのではないかと思っているのです)
さて、165号には銘文が刻まれています。「辛亥年の七月十日に逝去した笠評君(かさのこおりのきみ)のため、遺児と伯父の二人が造像を発願した」と。地方行政単位の「評」を使用しているので、辛亥年は白雉二年(651)に比定されています。では、651年あたりは、まだ「観無量寿経」は流布していなかったのですね。それとも…「評」を使っていた地域があったのでしょうか。

他にも銘文のある金銅仏・156号
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156号には銘文が彫られています。
「丙寅の年に高屋大夫が、亡くなった韓(半島)の婦人・阿麻古のために鋳造した」と読めるようです。丙寅年については606年(推古朝)・666年(天智朝)が考えられています。同じ丙寅年の野中寺の仏像は年月日と干支の組み合わせで666年であることが確定しています。が、作風を比べると156号の方が古いそうです。
では、156号の仏像が606年だったすると、仏教が浸透している地域は限られます。韓半島の婦人を妻とした男性が妻の為に仏像を造らせたという、その地域は何処でしょう。そこは半島と近く、深く交流している処です。

法隆寺の7世紀の木彫仏は全てクス材で造られている
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以前にも取り上げました、クスは福岡市の立花山が北限であることを。韓国では寒くてクスは育ちません。仏像のクス材は九州で調達されたのです。(法隆寺の百済観音も救世観音もクス材ですから、九州で造られたのでしょうね。それは、飛鳥時代7世紀のすべての木彫仏像の共通点です!)
さて、多聞天立像の光背にも、文字が刻まれています。
「薬師徳保(くすしのとくほ)
上而」、「鍛師□古(かぬちしのまらこ)二人作也」、「汗久皮臣(うくはのおみ)」と刻まれています。薬師・鍛師は工人でしょうが、汗久皮臣の「うくは」とは、浮羽のことでしょうか。
「薬師光」の針書もあるそうですが、刻銘とは違いますよね。


橘寺の仏像が安全のために法隆寺に移されたことの意味
法隆寺と橘寺の結びつきは深く大きいのです。二つの寺の共通点は何でしょう。
わたしは両寺ともに「白村江敗戦後に俀国の仏像を守ろうとして運んできた」と思うのです。それでなければ、法隆寺の釈迦三尊像の銘文の謎も解けません。法隆寺に何体もの本尊がある理由が分かりません。
川原寺には俀国の王族の愛蔵品が運ばれ、橘寺には有力者の持念仏が運ばれたのではないかと、思うのです。
多聞天像の頭部に打ち込まれた光背を留める釘がありますが、それらの技術の共通する仏像は、製作地が近いのではないでしょうか、、、、、、。

都が平城京に遷る時、川原寺と橘寺は明日香に残り、彷徨える戦死者の霊魂と行き場のない仏を供養した…そう思うのです。
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写真は、国立博仏館の「美の国日本」展の図録を使わせていただきました。
また、明日。


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# by tizudesiru | 2017-12-12 00:58 | 309白村江敗戦後、仏像を供養したのか | Trackback | Comments(0)

蘇我馬子は飛鳥の大王だった

蘇我馬子の墓は方墳・家形石棺
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(石舞台古墳は約50mの方墳)
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(石舞台古墳・横穴式石室に家形石棺が置かれていた。馬子の石棺を復元したもの)
石舞台古墳石室に大量の石棺の破片が出土しています。家形石棺が破壊されたのだそうです。

方墳に石棺が蘇我氏の墓制だったようです。下の写真は、石舞台の近くの都塚古墳(方墳)の家形石棺です。同じ蘇我氏の墓と思われます。
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馬子の墓にはたくさんのラインがかかりました。例えば、水色のライン、大阪府の磯長の「伝・馬子の墓」に向かって直線を引きました。どちらが本当の馬子の墓でしょうね。
石舞台と磯長の「伝・馬子墓」を結ぶと、磯長神社をラインが通りました。
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ここには、叡福寺の聖徳太子の墓(用明天皇の皇子)、用明天皇陵(蘇我堅塩媛の所生)、敏達天皇陵とその皇后の推古天皇陵(堅塩媛の所生)、竹内街道沿いには孝徳天皇陵があるのです。そして、ここには、蘇我馬子と蘇我倉山田石川麻呂(馬子の弟)の墓もあるそうです。天皇陵の近くに馬子の墓がある…どういうことでしょうか? 馬子が近津飛鳥の王家の谷に眠っているとは。それも、上宮王家の聖徳太子の墓の前に「伝・馬子の墓」は在るのですから、馬子は上宮王家と関係の深い存在となりますね。

二上山は黄泉の国の入り口

石舞台から二上山にラインを引くと、橘寺を通りました。
二上山は天武陵から見ると夏至の日没の方向となります。天武朝では、二上山があの世の象徴(入口)でした。だから野口王墓(天武・持統陵)の位置が選ばれ陵が造られたのです。大津皇子は、守り神として二上山に改葬されました。謀反の人の霊力は大きかったのです。
さて、石舞台古墳から二上山を望む時、死者として誰を思うでしょう。
当然、石舞台なら蘇我馬子ですね。では、大臣馬子も大王のように二上山を黄泉国の入口としたのでしょうね。

二上山・聖徳太子建立の七寺の一つ橘寺・石舞台
黄色のラインです。
橘寺が造られたのは、いつでしょうか。飛鳥寺は蘇我氏の寺というより官寺として、公的な行事が行われ、宮殿の一部のように機能していました。飛鳥寺は私的な寺では無かったのです。
では、橘寺はどうでしょう? いつ橘寺が造られたか分かりませんが、創建瓦とされるのは「複弁蓮華文軒丸瓦」で、すぐ北にある川原寺と同范もあるそうですから、川原寺と前後した時期に寺になったのでしょう。川原寺は僧寺、橘寺は尼寺です。
聖徳太子建立の七寺は、法隆学問寺、四天王寺、中宮尼寺、蜂岳寺(広隆寺)、池尻尼寺(法起寺)、葛城尼寺、橘尼寺、です。(上宮聖徳法王帝説)
尼寺が多いようです。古代の寺は、尼寺で始まりました。女子が仏(男子)に仕えるという考えです。巫女が神(男子)に仕えたように、仏を男子と見たからです。橘寺は古い寺ですね。
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(東を正面として、中門・塔・金堂・講堂が東西に並んでいた。講堂前に石列?)
古い橘尼寺の正面は東でしたから、黄色ラインは古代なら塔と金堂の上を通っていたでしょう。塔心礎は一辺1.5mの方形造り出しに丸い穴、その三方に添木を受ける半円形穴が彫られています。これは、河内の西琳寺や野中寺、法隆寺若草伽藍の心礎と似ているそうです。
河内の野中寺に伝わる「丙寅年の年記のある弥勒菩薩像の銘文に「橘寺知識」とあり、これをこの橘寺とすれば、天智五年(666)には「橘寺」は存在したことになります。

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(写真は、橘寺塔心礎「明日香村史・上巻」より)

大王は火振り山を支配した
余談ですが、橘寺の南には「ヒフリ山」▲ があります。飛鳥を中心に「ヒブリ山」「火振り山」と呼ばれる山が9か所もありますが、何をしていたのでしょう。ヒフリ山は、火を振り回す山ではないでしょう。交通の要衝にあるから、烽火などに関係する山と云われています。
しかし、集落の近くや豪族の館の近くに在りますから、人々の生活に直結した山だったでしょう。山を暦として使っていたのだと思います。各豪族は自分の暦の山を持っていたのです。
下の地図も「明日香村史」の挿入図ですが、16・15番は川原寺と橘寺です。其の南の▲がヒフリ山です。地図上に三か所ありますね。図中の2の豊浦寺の西にも在ります。現在まで「山名」として残されたとは驚きです。
豊浦寺が推古天皇の豊浦宮址とすると、推古帝はヒフリ山を持っていたと考えられます。また、蘇我蝦夷は豊浦大臣とも呼ばれましたから、このヒフリ山を支配したのは蝦夷かもしれません。山田寺の隣の岡もヒフリ山ですから、ここは蘇我山田石川麻呂の暦の山だったでしょうね。そうして、よく見ると不振り山のほとんどを支配したのは、蘇我氏のようです。

更に、蝦夷が畝傍に家を持っていたことも書紀に在りますから、稲目・馬子・蝦夷・入鹿らの邸宅が、畝傍山の麓から軽・豊浦・島などにあったと云うことは、蘇我氏こそが飛鳥の支配者だったと云うことになります。
そうです、蘇我氏が飛鳥の大王だったのでしょう。
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馬子は推古天皇の叔父で、厩戸皇子と国記・天皇記を編纂しました。
馬子こそ明日香の大王だった

わたしは蘇我氏こそ明日香の大王だったと思います。それでなくて、どうして国記や天皇記を編纂できるでしょうか。また、祖廟の高宮で八佾(やつら)の舞が舞えるでしょうか。八列六十四人の舞は、天子のみに許されたものです。臣下に許されるはずはありません。それを蘇我蝦夷が行ったと非難されていますが、あんがい事実だった、大王だったのではないでしょうか。
大王だから、大陵(おほみささぎ)小陵(をみささぎ)を造ったのでしょう。

日本書紀は真実を「臣下のくせにけしからん」といった口調で書いたのではないでしょうか。
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石舞台は非常に意味深な位置にあります。
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藤原宮と石舞台を結ぶと、飛鳥寺がラインに乗りました。飛鳥寺は重要な位置にあり、政治的な場所でした。飛鳥寺の横の広場(庭)で国の行事が執り行われ、外国の使者や客人をもてなし、帰順した人々の宴会も行いました。
飛鳥寺は、馬子の建てた寺です!! 馬子は官の役所を建てていたのではありませんか。
飛鳥寺は単なる私有寺ではなく公共の場所だったのです。蘇我馬子が住んだ島宮には、天武帝・持統帝・草壁皇子が住みました。公的な館だったのでしょう。乙巳の変の時、中大兄皇子は飛鳥寺に立て籠もりました。当然、役所のようなものだったからです。


石舞台(蘇我馬子の墓か)、小山田遺跡(蘇我蝦夷の墓か)、菖蒲池古墳(蘇我入鹿の墓か)、見瀬丸山古墳(欽明陵か)は、直線でつながります。同じ氏の墓だとすると、このラインに眠る人は大王の家系になります。見瀬丸山古墳はこの地域で最大の前方後円墳であり、日本で最長の横穴式石室の羨道を持ちます。これが本当の欽明天皇の墓であれば、蘇我氏はその有力な一族となりましょう。

王家の血を受けながら、蘇我氏は抹殺されていったのです。
また明日





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# by tizudesiru | 2017-12-10 22:11 | 308蘇我氏の墓がルーツを語る | Trackback | Comments(0)

川原寺に残る万葉歌は、白村江敗戦を伝えるのではないか

倭琴の面に書かれた二首
川原寺の仏堂の内にある倭琴に書かれた歌は何を語るのか
 
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万葉集巻十六「世間の無常を厭ふ歌二首」
3849 生き死にの二つの海を厭(いと)はしみ 潮干(しほひ)の山をしのひつるかも

3850
 世の中の繁き借廬(かりほ)に住み住みて 至らむ国のたづき知らずも

右の歌二首は、川原寺の佛堂の裏(うち)に、倭琴の面にあるのなり

「生死の二つの海」とは、現世の生と死の苦しみであり、その苦しみを渡り仏智の世界(海)に入るという仏典で譬えられる世界を詠んだのだそうです。

3849 
この世で生死の苦しみに振り回されるのが煩わしいので、潮が干いたように苦しみのない極楽浄土のような山を恋しく思うのだ。

3850 様々な事がある煩わしい仮の住処のような現世に住みつづけているが、これから行くべき国(極楽浄土)がどんな様子なのか、何も知らないのだ。 

右の歌二首は、明日香の川原寺の仏堂にある倭琴(やまとごと)の面に書かれたものである

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世間之 繁借廬尓 住々而 将至國之 多附不知聞

この歌に惹かれ何度も読むうちに或る思いが突き上げて来て、どうしても頭の中から消えませんでした。それは、仏教思想が受け入れられるには時間がかかっただろうと云うことです。まして、その思想が一般化するには相当に時間がかかりましょう。

しかし、ある地方の民は早くから広く仏教に帰依していました。そこは、阿毎タリシホコの俀国(倭国)です。隋書にはそう書かれています。そこには「世間」を極楽浄土と対立する世界として捉える思想が浸透していた、と思ったのです。
古代の琴・倭琴は女子の持ち物ではありません。古代では教養のある男性の持ち物でした。男性が琴で音楽を奏で詩歌を読んだのです。では、上記の二首も男性の歌ですね。それも世間を「よのなか」と読む文化圏の男性です。

そこで、この歌は仏教が浸透していた俀国で詠まれた歌ではないか、百済救援に遠征した男性が自分の体験を詠んだのではないか、戦火に倒れた高貴な人の愛用の琴が川原寺に奉献されたのではないか、と様々に考えました。

白村江敗戦を伝えるのではないか
(このことは、数年前に或る公開講座でお話をしました。)

万葉歌は事実を詠んだ叙事詩だと何度も聞かされました。仮想して物語や思想を詠んだのではなく、事実や実体験・実感を詠んだ歌集でしたよね。二首も思想ではなく事実が詠まれているのです。

事実として読み取ってみました。微妙に解釈が変わります。

3849 この世の生と死の二つの海(苦しみ)を、同じように倭国の海と隣国の二つの海を渡り戦う、その苦しみを避けたいと、潮が干いたような苦しみのない世界をどんなに恋しく思ったことか(だが、世間の無常を避けることは出来なくて、琴の持ち主=主人は、先の敗戦で亡くなられた。)

3850 大変なことが多いこの世を仮の住処として主人と長く住んできたが、無情にも主人を亡くした我が身=琴は、これから知らない国に行くことになった。その国の様子を何一つ知らないのだ。(まるであの世のことを何一つ知らないように、遠い知らない国に行くのだなあ。)

ある高貴な方の持ち物だった倭琴の嘆きとして、亡き主人を偲ぶ歌として、二首が残されたと思ったのです。二つの海を渡った(白村江敗戦に翻弄された)高貴な人、その人は還らなかったが、琴は帰ってきた、そして、川原寺に奉納された。

二首は琴の由来を詠んでいるに違いありません。遠く仏教の浸透した地方から来た楽器であること、無情な運命に翻弄された人の持ち物であったこと(川原寺では、その人物が誰なのか分かっていたでしょう。…寺に所縁の人の奉献か、寺になった時に琴の持ち主を供養したとか)。

川原寺に奉納された時期を考えると、平城宮遷都(710)以前だろうと思うのです。それは、平城遷都後は、高貴な方はほとんど新京に引っ越したと思うからです。遷都後なら川原寺よりも都に近い寺に奉納するでしょうから。

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明日香川原寺跡の万葉歌碑
この万葉歌があるのは、川原寺跡の道路横です。
橘寺の前に道を挟んで川原寺跡がありますが、橘寺の石柱から川原寺を見ると、筋向いに歌碑が見えます。

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現在の弘福寺(もと川原寺)の前は、広い公園になっています。川原宮は、板蓋宮が焼失した後、一年余り斉明天皇の仮宮となりました。

中大兄皇子(天智天皇)称制の時に、母の斉明天皇の葬儀を川原宮で執り行いましたし、川原寺が飛鳥では重要な位置にあることは前回のブログでも紹介しました。(山田寺からのラインは、高松塚にも届く。)

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平城京遷都の時、明日香に残った川原寺
四大寺のひとつであった川原寺は、創建の時期も事情もはっきりせず謎の大寺と云われています。また、平城京遷都の時に、ほかの三大寺(飛鳥寺・薬師寺・大官大寺)は都に移りましたが、川原寺は明日香に残りました。


川原寺式と呼ばれる「複弁蓮華文」軒先瓦の文様は、この後の軒先丸瓦の主流文様となりました。後の瓦に多大な影響をもたらしたのですから、川原寺の立つ位置は大きかったのです。それなのに、遷都の時に、明日香に残されたのでした。

川原寺が特別な寺であり、歴史の事実を伝える寺だと、わたしは日頃から思っているのです。そして、巻十六の上記の二首は心を揺さぶられる名歌だと思います。

鹿児島と宮崎にお出かけしていました。また、明日。



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# by tizudesiru | 2017-12-09 15:30 | 307倭琴に残された万葉歌 | Trackback | Comments(0)

天智天皇が戻った倭京は何処にあったのか

天智天皇の倭京は何処にあったのか
大化改新後に、難波に都が遷りましたが、孝徳天皇を難波に置いて中大兄は倭京に戻りました。その倭京は何処にあったのでしょう。ヤマトヒメと同じく、倭京の場所も大きさも組織も分からないことが多いのです。が、天香具山と蘇我氏の寺や墓や神社は、その位置を探すカギになるはずです。
倭姫皇后は持統天皇か

さて、天智天皇の皇后の倭姫は、古人皇子の娘であると書紀に書かれています。古人皇子は中大兄皇子(天智天皇)によって誅殺されました。吉野太子とも呼ばれ、吉野に逃れた皇太子でした。その次期天皇の娘だというので、倭姫は皇后になれたのでしょうか。素直に書紀を読むとそうなります。記述を疑わなければですが、そうすると倭姫皇后がなぜ正史から消えてしまったのか(墓すら不明)、持統天皇はなぜ深く天智天皇を慕い、有間皇子を追悼するのか、最後の東国行幸や天皇の忌日の詔の意味が分からなくなります。
元明天皇(天智帝の皇女)は「天智天皇の不改常典」をもって皇位継承の根拠としました。天武天皇の王朝代に滅ぼした前王朝の法を持ちだすのは、異常です。それも皇位継承に関して、です。もろもろの事実は、一つの答えを指し示しているのです。
倭姫皇后が持統天皇だった可能性です。そうすると、もろもろの疑問が解けて、額田王が中臣大嶋と立てた粟原寺の意味もはっきりするではありませんか。
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古人大兄皇子について、おさらい

舒明天皇の第一皇子。母は蘇我馬子の娘・法提郎女(ほほてのいらつめ)、娘は倭姫。蘇我入鹿は次期天皇に古人大兄皇子を望み、古人大兄は太子となっていたと思われる。


古人大兄皇子と並んで皇位継承者とされたのは、厩戸皇子の子・山背大兄王で、その母も蘇我馬子の娘・刀自子郎女でした。古人と同じ蘇我系の母を持つ男子でした。

その山背大兄王は蘇我入鹿に襲撃されて、一族もろともに自害してしまいました。

やがて、乙巳の変。この時、古人太子は皇極天皇の傍に侍していたのですから、重要な立場で儀式に参加していたことになります。自分の支持者であった蘇我入鹿が暗殺された後、古人大兄は自宅へ逃げ帰り門を閉ざし「韓人が入鹿を殺した。わたしは心が痛い」といいました。その意味は何だったのでしょう。

殺したのは「韓人」、それは古人大兄を苦しめたのですが、この時、事件の黒幕(孝徳天皇とされる)を知っていたわけではないでしょう。太子が見た通りの無残な光景に対する気持ちを吐露したのなら、渡来系の人物が入鹿を殺したが、その原因は自分とは無関係ではないと思ったということです。

入鹿が殺されれば皇位継承権は遠のき、自分の身が危ないという意味でしょうか。書紀によればその後、倭姫は父を殺した男の妃となったのでした。

蘇我倉山田石川麻呂右大臣の娘たちも、父を死に追い込んだ中大兄の夫人となりました。越智郎女と姪郎女がそうでした。その皇女達(太田・鵜野・大江・新田部)も父の王権を倒した叔父(天武天皇)の妃となったと書紀に書かれています。これは大事な記述です。当時、この女子たちを他の豪族に分け与えるわけにはいかなかった、その血統を他に分けることはできなかった、のでしょう。「皇后となれる倭姫」となるべき女子だったから。古代では高貴な血統こそが財産でした。それは、中世まで、いえ近世まで続いた伝統的な考え方でした。落ちぶれても血統には威力がありました。だから、倭姫は望まれて天智帝の皇后となったのでした。皇位継承者となるには、高貴な女性を皇后に立てなければならなかった、まるでエジプトの王のように王家の血を引く女性を皇后にすることが必須だったと思います。


中大兄が戻りたかった倭京は何処にあったのか
飛鳥に倭京はあったのでしょうか。それとも三輪山の麓にあったのでしょうか。
其の天智天皇の権力を見るために、石神遺跡や川原宮をラインで見ましょう。石神遺跡からは木棺が出ていますし、河原宮は斉明天皇の葬儀を行ったところですし、後に寺院となりました。天智天皇の所縁の場所です。
天武・持統天皇も四大寺の一つとして大事に扱ったようですね。

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まず、右斜め上から左に下りるのラインを見ましょう。山田寺・川原寺・定林寺とラインが引けます。左上から斜め右下に下りるラインは、本薬師寺・蘇我氏の邸宅跡・川原寺・坂田寺とつながります。
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山田寺・川原寺・定林寺・坂田寺・本薬師寺、この寺院は既に紹介しています。

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(山田寺)

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(川原寺)
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(坂田寺)
坂田寺は鞍作氏の寺でした。石舞台や都塚古墳の近くの寺ですから、蘇我氏の同族でしょう。
では中央のラインです。本薬師寺から川原寺・橘寺に届きます。

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要するに、川原寺は斉明天皇・天智天皇所縁の重要な宮であり、寺院であったことがわかります。天武朝では、大官大寺・飛鳥寺・川原寺・薬師寺は四大寺とよばれ、官寺の代表の役目を果たしていました。国家的な仏教行事や僧尼の取り締まりを行っていたのでした。ただ、薬師寺は皇后の病気平癒のために造られて寺ですが、造営の途中で天武天皇の崩御となりました。在位中にはでき上がっていなかったのです。持統天皇二年に天武天皇追善の無遮大会が、大官・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田の五寺で行われたのですから、薬師寺は間に合っていないのです。

四大寺は朝廷が重視した寺です。
では、朝廷が重視した神社はの何処で、どの神々でしょう。
それは、時代の浪にもまれて分からなくなっているかも知れません。しかし、位置情報は残されているかも知れません。遷座された可能性もありますが。国常立神社のある天香具山からラインを引いてみました。

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国常立神社のある天香具山からのラインを飛鳥坐神社(水色ポイント)に引くと、そのまま延びて石舞台に直線が届きます。では、天香具山から定林寺にラインを引くと、雷丘と蘇我氏邸宅跡がラインに乗ります。蘇我氏を抜きにしては何もできませんね。
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蘇我氏の飛鳥寺は真神原に建てられましたから、辺りは聖なる地だったのです。すると、斉明天皇に関わる板蓋宮・川原宮、草壁皇子が育ったという岡宮(治田神社)辺りも聖地だったことでしょう。

では、天智天皇が間人皇后や斉明皇太后やもろもろの役人を引き連れて、難波から戻って来たという倭京はどの辺りでしょうね。やはり天香久山を取り込んで考えましょうか。後の藤原宮が造られた辺り橿原市辺りかも知れませんが、わたしは北上する飛鳥川の東岸辺りに倭京はあったと思うのです。

倭京には、天照太神が祀られているでしょう。「天照太神を度会(わたらい)の五十鈴河上に遷し奉る」と倭姫命世記に書かれていましたから、倭京の頃は祭祀がなかったとしても、持統天皇の時代には天照太神を祀る社も置かれたでしょう。神祭りが入り乱れてはいるでしょうが、痕跡はのこっているはずです。



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# by tizudesiru | 2017-12-05 21:06 | 306倭京は何処にあったのか | Trackback | Comments(0)

倭姫を探せ

倭姫は何処に?倭姫を探せ!
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「倭姫命世記」の倭姫命モデルは持統天皇ではないか、と書きました。そして、持統天皇は「倭姫」という皇位継承者の妃になるべき立場に生れた女性だったとも書きました。推古帝も持統帝も元明帝も蘇我系の女性でした。日本書紀の執筆者たちは、その辺を知って書いたと思います。倭姫皇后も父は古人大兄(吉野太子)で舒明天皇の第一子、母は蘇我馬子の娘・法提郎女でしたから、蘇我系の女子です。その辺りを祭祀線でみてみましょう。蘇我氏が絶大な力を持っていたことが分かります。
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蘇我馬子の墓と云われている島荘の石舞台古墳は、藤原宮と直線でつなぐと石神遺跡や紀寺廃寺がラインに乗ります。もちろん、飛鳥寺もラインに乗ります。
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藤原宮から南に直線を伸ばすと、Ⓐ 菖蒲池古墳(蘇我入鹿の墓と云われる)を通り、天武持統陵にラインが届きます。
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壁画で有名なキトラ古墳を藤原宮(水色)や耳成山(黄緑)と直線でつないでみましたが、微妙に天武・持統陵のラインには乗りません。天皇のピンクラインに乗るのは、Ⓐ の菖蒲池古墳ですね。ここピンクラインは、天智天皇陵から南に延びたラインでした。
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石舞台と小山田遺跡(蝦夷の墓という)菖蒲池古墳(入鹿の墓と云う)を結ぶと、真の欽明天皇陵と云われる見瀬丸山古墳にラインが届きます。石舞台古墳はとても重要な位置にあるのです。
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石舞台古墳と甘樫丘の蘇我氏の邸宅跡を結ぶと、現在、神武天皇陵と呼ばれる陵の中心部に当たります。これはどうしたことでしょうか。畝傍山と結ぶと川原寺を通り、天武・持統陵と結ぶと鬼まな板や岩船古墳に届きます。

蘇我系女子が「倭姫」という特別の立場に立つのであれば、このような強いラインの中にその聖体は埋葬されたでしょうね。

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では、天武・持統陵と難波宮(大極殿址)を直線で結んでみましょう。すると、見瀬丸山古墳の墳丘部を通ります。遠く離れた難波宮とどのようにして直線を引いたのでしょうね。(白いポイントは、わたしが勝手に置きました。何かあるとしたら、白のポイントです。懿徳天皇と安寧天皇陵の間ですから、何かありそうだなと思いました。)
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天武・持統陵を横切るピンクの直線は何処につながるでしょうね。これは、天香具山と中尾山古墳(文武陵が有力)を結んだラインです。
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天香具山・天武持統陵・中尾山古墳とつながると、中尾山古墳はやはり文武天皇陵でしょうかね・・・でも、文武天皇陵も次のようになります。
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帝・文武天皇陵(中尾山古墳ではない)と見瀬丸山(五条野丸山)古墳と結ぶと、高松塚古墳が間に入ります。(文武陵とされる古墳は十分な調査が行われていないのですが、切り石の横穴式石室の図が残されています。)大王の古墳は所縁の宮処や、所縁の寺とラインがつながりますから、文武陵ではないとしても高貴な方の墓ですね。

沢山のラインが出てきました。持統天皇のラインはまだまだあるので、また明日にしましょう。



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# by tizudesiru | 2017-12-02 01:12 | Trackback | Comments(0)

倭姫命と倭姫皇后と持統天皇

倭姫命世記(やまとひめみことせいき)を読んでいます。

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倭姫命ってどんな人でしょうね。

前回の続きです。豊鋤入姫から御杖代を受け継いだ倭姫命は、お伴の神達と共に祭殿の地を求めて放浪して、阿佐加国に着きました。

阿佐加国の阿佐加の峯に荒ぶる神・伊豆速布留(いつはやふる)神があり、行き来する人を取り殺していました。そこで、倭姫命に大若子が「種々の下賜品をその荒ぶる神に奉げてお鎮めください」と進上したので、倭姫命は阿佐加の山の峯に社を作り、その神を祀ると神は「うれし」と鎮まりました。

一書には、同じ話(阿佐加の山の神)について次のように書かれています。

{天照太神が美濃国より廻り阿濃の藤方片樋宮に至り鎮座された。この時、安佐賀の山に荒神がいて道行く人を取り殺していたので、倭姫命は度会郡の宇遅村五十鈴川上の宮に入られず、藤方片樋宮に神を祀られたのだった。

そこで、倭姫命は中臣大鹿嶋命、伊勢大若子命、忌部玉櫛命を遣わして、天皇に相聞された。

すると、天皇が『その国は、大若子の祖先の天日別命が平定した山であるから、大若子命がその神を祀りたいらげて、倭姫命を五十鈴宮に入れ奉らしめよ』と詔を出された。

こうして、大若子は引き返し種々の幣によって荒神を祀り平らげ、社を安佐駕に定め祀った。この後、倭姫命はお入りになることができた。}


上記の文は極めて意味深なのです。

そこは、大若子命の祖神(天日別命)が平定した地だというのです。
その地の「荒神を鎮めるために大若子命の力を借りよ」というのですからね。

その荒神が鎮まらなければ、「倭姫命は五十鈴宮に入ることができない」とは、すごい話です。


大若彦命は、下宮祀官の度会(わたらい)氏の祖神なのです。豊受太神宮禰宜補佐次第にその事績を記されているそうです。つまり、五十鈴川流域は、もともとは度会氏の祖先の地だったと云うことです。度会氏の聖域にヤマトヒメ命が入っていったと書いてあるのです。


さて、倭姫命は、すぐに五十鈴宮に入ったのではありませんでした。阿佐加の藤方片樋宮から更に移動しています。


次に、飯野の高宮に遷る

この時、櫛田神社(櫛を落とした処)を定め、御船に乗って幸行し魚見社(魚が船に飛び込んで来た)を定め、更に幸行して真名胡神社(御饗を奉る神がいた)を定めたのでした。


また、乙若子命が祓いをして、従う人々に弓剣を留め、兵と共に飯野の高宮に入られたので、遂に五十鈴宮に向かうことを得た、と書かれています。ここで、初めて兵という言葉を見ました。どういうことでしょうか。


ここから幸行して佐佐牟江に御船を泊めて、佐佐牟江宮を作り定め、更に幸行して大淀社(風波無く海潮よどむ)を定められたとあり、多くの社を定められました。

この時、天照太神が倭姫命に教えて云われたこと

「この神風の伊勢の国は、すなわち常世の浪の重波よする国なり。傍国(かたくに)のうまし国なり。
この国に居らむとおもふ」故に、太神の教えのままに其の社を伊勢国に立てたまふ。
よりて斎宮を五十鈴川に興し立つ。これを磯宮といふ。天照太神始めて天より降ります処なり。」

次に、飯野の高宮より伊蘇宮に還幸なりて座す

ここも、「百船(ももふね)度会(わたらい)国、玉ひろふ伊蘇国」でした。
南の山の端に良き宮処があるように見えたので、倭姫命は皇太神を戴き奉り船で幸行(みゆき)されました。

そうして、次々に出会いがあり社が立てられます。


倭姫命は幸行しながら、速河狭田社、坂手社、御船神社、御瀬社、久求社、園相社などを定めながら「よき宮処ありや」と尋ね廻りました。
「佐古久志呂宇遅(さこくしろ)の五十鈴の河上によき宮処在り」と聞いて更に御船で幸行しました。御饗神社を定め、二見の浜、堅多(かたた)社、五十鈴河後に江社、神前(かみさき)社を定め、更に幸行して矢田宮に。


次に、家田の田上宮に遷り幸行し座す

ここでいろいろな神々が出てきます。度会の大幡主命、出雲の神の子・吉雲建子(よしくもたけこ)命(伊勢都差神・櫛玉命)、その子、大歳神・桜大刀命・山の神大山罪命・朝熊水〈あさまのみなと〉神)、猿田彦の末裔・宇治土公の祖先大田命などと出会い、倭姫命は「よき宮処ありや」と問いかけました。

大田命は、「佐古久志呂宇遅の五十鈴の河上は、これ大日本国の中に、殊に勝りて霊地(あやしきところ)に侍るなり」と、答えました。その地には見たこともない霊物(あやしきもの)があるというのです。

倭姫命がその地に行き御覧になると、なんと昔大神が誓願して「伊勢加佐波夜(かさはや)の国はよき宮処在り」と見込まれて天上より投げ降ろしたもの。

天の逆太刀(さかたち)、逆桙(さかほこ)、金鈴などだったのです。

倭姫命は喜んで事挙げされました。ついにたどり着いたのでした。

 

天照太神を度会の五十鈴河上に遷し奉る

倭姫命は五十鈴川の河上に宮処を見つけて大喜びされたのですが、普通に読んでみると先に祭られていた神があったことは事実のようです。そこへ倭姫命の導きで天照太神が降臨されたのですから、倭姫命は侵入者となりますね。
また、天上では豊受太神と天照太神が幽契(かくれちぎり)していたのですから、二神は同格でした。しかし、ここまでの「倭姫命世記」では、天照太神のことが書かれていて豊受太神のことはほとんど読めませんし、同格とはあつかわれていないようです。
倭姫命は、はじめから二神を同格と扱わなかったし、出発時からはっきりと「天照太神を戴き奉りて行幸す」と書かれています。この「行幸」は、途中から「幸行」と微妙に表現を変えていますが。行幸とは「天皇の外出。上皇、法王、女院の外出」に使われた言葉です。倭姫命とは如何なる人でしょう。
豊鋤入姫と倭姫命は時間軸をずらしてありますが、同じ目的「天照太神を奉り、宮地を求める」を持ち、但馬・倭国・木ノ国・吉備国・倭国(弥和の御室嶺上宮)までさまよいました。豊鋤入姫は架空の存在でしょうが、鏡を護身のために造らせたとありますから、鏡文化が広まった時代の人と設定されています。

倭姫命は大和國・伊賀国・近江国・美濃国・尾張国・伊勢国と移動しました。
この辺りが、持統天皇の最後の行幸と重なるのです。

倭姫命世記は「日本書紀」の記述に基づいて書かれていますから、豊鋤入姫の設定は無視できなかったのでしょう。

倭姫命は実在の女性だと思います。それも、実際に伊勢と関わった権力を持った女性です。すると、持統天皇が浮かび、消えた倭姫皇后と倭姫命が重なるのです。倭姫命がかかわって伊勢の神祭りや催しや他の神々との関係が整って行くからです。その過程が細かに語られ、神々に軽重・主従・役割を決めているようです。
これは、律令により祭祀を統制しようとしたことを意味するのではないでしょうか。
大きな権力でなければ、従来の祭祀や神々にランク付けをすることはできませんし、新しい神祭りを定めることもできないでしょう。権力を持った倭姫命こそ、持統天皇がモデルだったと考えます。そして、「倭姫」という皇位継承者の妃になるべき立場にいた女性だと思うのです。

倭姫世記は此処で終わりではありません。
嶋国の伊雑(いさわ)宮のことや豊受大神のことが語られるのです。
(その事は、また、別の機会に考えましょうね。)



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# by tizudesiru | 2017-11-29 01:15 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback | Comments(0)

「倭姫命世記」の倭姫命、聖地を求めて放浪す

一昨日は、万葉集の不思議の一つ、高市皇子の挽歌についてお話しました。今日は、『倭姫命世記』についての話を少しさせていただきます。

『倭姫命世紀』は特異な性格の書とされています。

伊勢神道の経典として五部書が挙げられていますが、『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』、「伊勢二所皇太神御鎮座伝記」、『豊受皇太神御鎮座本紀』の三部書に、『造伊勢二所太神宮宝基本記』、『倭姫命世記』 を加えられて取りあげられるようになったのは、江戸時代だそうです。この中で、『倭姫命世記』と『造伊勢二所太神宮宝基本記』は、神道の教義ともいうべきものを明確に主張していて、その主張も他の三部書とは微細な点で違っているそうです。


倭姫命世記は、『天地開けし初め、神宝日いでます時』という詞で始まりますが、このスタートの詞は「中臣祓訓解」の文に同じだそうですから、同じ理解と思想の元に書かれた文章なのでしょうね。


続いて『御饌都神(みけつのかみ)と大日孁貴(おおひるめのむち)と予め幽契(かくれちぎり)を結び、ひたぶるに天が下を治め、言寿(ことほぎ)宣たまう』とあります。

御饌都神(伊勢下宮の祭神で月神)と大日孁貴(天照大神の別称、伊勢内宮の祭神で日神)が、ひそかに天上で約束をして天下を治め寿いできたと書かれています。天照大神と豊受大神は常にセットなのです。

この二神が月となり日となってきたので、永く世界が保たれてきたのだ、と始まるのです。

倭姫命世記が書かれたのは、日本書紀が広く読まれるようになった後でしたから、この正史に合わせて文章もつづられたはずです。ですから、「倭姫命世記」から正史と離れた個別の真実や事実を引き出すことは難しいかも知れません。しかし、当時の人々が何を思い、何を云おうとしたのかは想像することはできます。

例えば、神々が集まって皇御孫(すめみま)の天下りを決めて、水穂の国を平定するために遣わされた神は、オールスターですね。その初めは、天穂日です。

天穂日(あめのほひ)命 返言(かえりごと)をしなかった。

健三熊(たけみくま)命 父と同じく返言しなかった。

天若彦(あめのわかひこ) 返言しなかった。

布津主(ふつぬし)命・健雷(たけいかづち)命を降して(布津主と健雷が命令して)、

大己貴(おほなむち)神は、その子の事代主(ことしろぬし)に国を平定した時の広矛でもってあまたの鬼神をかり払わせ「葦原中津国を平定した」と復命した。


そこで、三種の神器(神財)を持たせて天津彦火瓊瓊杵(あまつひこほのににぎ)尊を天下りさせた。伴に天児屋(あめこやね)命、太玉(ふとたま)命が従った

降臨した場所は、筑紫の日向の高千穂の槵触(くしふる)の峯であった


上記の展開を読むと、矛文化圏のオオナムチ命が先に葦原中津国を平定していたことは認めています。その子の事代主が天孫のために鬼神を退治したのですから、天下りの為に協力し活躍したのは、オホナムチの一族でした。少なくとも前政権の力を借りて、すんなりと権力が交代したというのですね。更に言えば、矛文化圏の広形銅矛は弥生の末に北部九州一帯では埋納させられていますから、弥生末に大変革があったのは間違いないでしょう。スタートは将に北部九州の説話なのです。


この天孫降臨の時、斎部(中臣氏や忌部氏)の始祖が伴として関わったとするのは、正史と同じでしょう。後世の神官の書き加えなのかも知れません。

天津彦火瓊瓊杵命、その第二子彦火火出見(ひこほほでみ)尊、彦火火出見の太子・彦波瀲武鸕草葺不合(ひこなぎさうがやふきあわせず)尊、彦波瀲武鸕草葺不合の第四子・神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)天皇までの四代は、九州に住んでいたのでした。

神日本磐余彦は、その元年に「日本国に向かひたまふ。天皇みずから諸の皇子の舟をひきいて、師(いくさ)東に征(う)ちたまふ」と、東征し、神武天皇の八年、都を橿原に建てました

九州から侵攻した集団が最初に拠点を置いたのは、橿原だったようです。それから九代、神祭りは為政者と同じ屋根の下で行われていましたが、崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖みまきいりひこいにえ天皇)の時、倭の笠縫に天照太神と草薙劔を遷し奉った、と書かれていました。

この後から、崇神天皇の皇女・豊鋤入姫(とよすきいりひめ)命による国国処処に大宮処を求める旅が始まるのです。

斎部(いんべ)氏が、石凝姥(いしこりどめ)神と天目一箇(あめのまひとつ)の末裔を引きつれ、鏡と剣を作らせ、身を護る御璽としました。斎部氏は「弥生の威信財・鏡と剣の役割を熟知してたようです。

次々と祭祀場を求めて還る

はじめは但波(たんば)の吉佐宮に還幸(みゆき)なる。そこは丹波国余社郡です。「ここより更に倭国を求めたまふ」たのですから、まだ倭には入っていません。「この年、豊受の神天降りまして御饗(みあへ)奉る」をありますから、はじめから豊受大神の放浪が始まるようです。


次に、倭国の伊豆加志元(いつかしのもと)宮に遷る

次に、木乃国の奈久佐浜(なくさのはま)宮に遷る

次に、吉備国の名方浜(なかたのはま)宮に遷る

次に、倭の弥和(三輪)の御室嶺(みむろのみね)上宮に遷る


ここで、豊鋤入姫命の妹・倭姫に事依(ことよ)さしめ、御杖代(つえしろ)と定める。

「ここより倭姫命は、天照太神を戴き奉り行幸す」

ここに大きな転機があります。天照太神が特に取り出されて奉られているからです。また、これまでは宮が「遷る」でしたが、ここから倭姫命の「行幸」となるようです。

倭姫命は特別な存在だったというのでしょうか。

更にここから、相殿神に天児屋命・太玉命、御戸開きの神に天手力男命・𣑥幡姫命がきて、御門の神に豊石窓命・櫛石窓命、ならびに五部伴の神がそい仕えるのです。

倭姫命が御杖代になった時に、社殿の形式が揃ったようですね。


次に、大和国の宇多秋(うだのあき)宮に遷る *倭ではなく大和国とかかれている

ここで倭姫命の夢に「夫に嫁がざる乙女にあうように」とお告げがあり、行幸すると八佐加支刀部(やさかきとめ)という娘に会い、仕えさせました。


行幸して、佐々波多の宮に座す

次に、伊賀国に還幸し、市守の宮に隠れる *伊賀国ができたのは天武天皇の時代

次に、同国の穴穂宮に遷る

次に、伊賀国の敢都美恵(あへとみえ)宮に遷る

次に、淡海の甲可の日雲宮に遷る

次に、同国の坂田宮に還幸(みゆき)なる

次に、美濃国の伊久良河(いくらがわ)宮に還幸(みゆき)なる

次に、伊勢国の桑名野代(くわなのしろ)宮に還幸(みゆき)なる

次に、阿佐加の藤方片樋(ふじかたかたひ)宮に遷り座す *


*ここで荒ぶる神との説話が挿入され、一書の逸話も入ってきます。どのような思想と人々の手によりこの書が出来上がったのか、少しは想像できますね。
倭姫命は実在の誰をモデルに書かれたのでしょうね。単なる空想にも思えないのです。
今日は、ここまで。




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# by tizudesiru | 2017-11-27 13:19 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback | Comments(0)

持統天皇が霊魂となって北へ向かったわけ

持統天皇は霊魂となって北の天智陵へ向かった
未来永劫、霊魂のままでいい!
それは女帝の望みでした。太上天皇は望み通りに白い骨となり、ヨミガエリを望むことなく霊魂となって北へ向かったと、わたしは思います。葬儀を指示したのは文武天皇です。十分に太上天皇の望みを知って執り行ったことでしょう。
天智陵と持統天武陵が同じ経度にあることには意味があるはずです。それは、持統帝と天智帝に深いつながりがあったからだと思うのです。
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また、天智陵が平安京を守る位置にあるということにも意味があるでしょう。
平安京は天智帝の皇統の都として造られました。
しかし、持統・天武天皇の陵墓ともつながらないわけではありませんね。天智陵の真南には持統天皇が眠っているのですから。
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新しい皇統の都のために天智陵は移されることなく守護神となりました。
ここで、また振り返ってみましょう。
意思の強い女帝が貫いたことは天武帝の皇統を守ること。何度も書きましたが、草壁皇子の皇統を守ることでした。しかし、ここで立ち止まりましょう。草壁皇子が天武天皇の皇子であり、持統帝・元明帝・元正帝が天武帝の皇統を大事にしたのであれば、天武帝の他の皇子達の皇位継承権を認めたはず、だと。
では、元明天皇が長屋王の子どもたちのを身分を引き上げたのは何故でしょうか、例外でしょうか。
娘を長屋王に嫁がせていた元明天皇は長屋王の皇統に皇位継承権を認めてもいいと考えたようです。それは、「真の天武帝の皇統に継承してもらいたい」というのが草壁皇子の遺志だったからです。大津皇子を死なせてしまったことを悔やんでもいましたから。妃の元明天皇は夫の遺志を承知していたと思います。万葉集を読むかぎり、元明天皇の夫・草壁皇子への思いは、深く強いと思います。
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それでも、天武帝の皇統は抹殺されてしまいました。
藤原氏が外戚として権力を握るようになって、ことごとく天武帝の皇統は抹殺されていきました。ついに天武帝の皇統が絶え、天智帝の皇統が皇位継承者(光仁天皇)となりました。その息子の桓武天皇は平安京に遷都した時、怨霊・悪霊から都を守ることに腐心しました。その時、天智天皇の陵墓は守り神とされたのです。

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では、神祭りはどうでしょう。伊勢の神祭りが天武帝の祭祀であれば、そのまま次の平安京の権力者・皇統の祭祀となったでしょうか。
明治になって、たしかに天皇家の神祀りとして伊勢神宮が神道のトップとなりました。それまで、天皇の行幸が何百年もなかった伊勢神宮が…です。
ここで、やはり立ち止まり考えさせられます。
天武天皇の壬申の乱を勝利に導いた渡会(わたらい)の神は、天照大神ではなかったのではないか。それは、豊受大神だったのではないか。それを証明しているのが、「人麻呂の高市皇子の挽歌」の一節ではないかと、わたしも思うようになりました。すると、天照大神が伊勢に入ったのは豊受大神より後で、壬申の乱より後、となるでしょう。

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ここで、伊勢の神の鎮座地を求めた倭姫命とその物語は、遠い昔の人でも話でもなく天武天皇以降の時代のことだと思うのです。天智帝の消えた倭姫皇后と、持統天皇の伊勢行幸の大三輪高市麻呂との逸話を考えると、倭姫皇后は消えたのではなく天武天皇の後宮に召されたのではないか、持統天皇の行幸の目的が鎮座地探しだったのではないか、などと考えてしまうのです。
だから、持統天皇の霊魂は北へ向かった。天智陵へと。

では、また明日



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# by tizudesiru | 2017-11-24 22:07 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback | Comments(0)

倭姫命と伊勢

高市皇子を助けたのは渡会の神?

では、天照大神ではなく豊受大神だったというのですか?

十二年ほどまえ伊勢に入った時、下宮の傍のホテルに泊まりました。そこで自転車を借りて伊勢を廻ろうと思ったのですが、なかなかでした。その時、倭姫命神社に寄りました。そこで、創建についてお尋ねしました。すると、女性の神官の方が
「この神社は明治になって建造されました。伊勢を求めてお出でになった倭姫を祀る神社がないのはどうしたことかと、その時できたお宮ですので、まだ新しいのです」
と説明されました。
式年遷宮に合わせて御社は建てかえされているそうで、神殿は交互に建てかえられるように空聖地が社の隣に設けられていました。その時、思ったのは『倭姫命の宮地はどのように選ばれたのだろうか』ということでした。
それで、その時に持っていた或旅行雑誌の地図を広げて内宮・外宮・倭姫命神社の位置を当たりました。三社を結びつけたラインは三角形だったと思います。これは測量して聖地を選んだのかな?と思いました。(この時の写真は全部ないのです。パソコンのコードを愛犬が噛んでショートして、データが無くなりました。電気屋さんに見せたけどダメだと云われて、パソコンも廃棄にしたのです。こんなことは何度もありましたから…データが無くなることを常に考えておかなければなりませんが)

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(下宮の東に倭姫命神社は造られています)
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(内宮は五十鈴川のほとりにあります)

伊勢を廻っていた時は、内宮と外宮はずいぶん離れていることを何とも思わなかったのです。が、倭姫命を調べている時「万葉集の渡会の神は、豊受大神である」という文章を読みました。その時は読み過ごしたのですが、後になって気になり始めました。そうして、伊勢神道の五部書を見ると、内宮と外宮は二所大神としてセットになっているのです。しかし、「倭姫命世記」では、聖地を求めて歩くのは、天照大神の御為です。

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歌を読むと、たしかに伊勢の渡会の神が高市皇子を助けてくれていますね。
柿本人麻呂が高市皇子のために造った挽歌のはじめから途中までを掲載しました。(以前に紹介しています)
伊勢の内宮は五十鈴川の上流にあり、下宮の近くを流れるのは宮川です。二つの川はともに海に流れ込み、合流はしません。
高市皇子が渡会の神(豊受大神)に助けられたのだとすると、倭姫命は渡会の神より後に伊勢に入り、宮川は既に豊受大神が鎮座していたので、五十鈴川を遡ったことになりますが…
そうなのでしょうか。また明日。




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# by tizudesiru | 2017-11-23 12:51 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback | Comments(0)

持統天皇と倭姫皇后と倭姫の接点

崩御の時まで持統天皇が胸に秘めていたこと
今日はそのお話です。では、最後の行幸からまいりましょう。
持統天皇の最後の行幸はお気に入りの人を連れての旅だった、と前回書きました

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最後の行幸に従駕した人・万葉集には
長忌寸奥麿(意吉麻呂)、高市連黒人、与謝女王、長皇子、舎人娘子

東国行幸に従駕したのは、持統天皇の信頼する人物だったようです。長忌寸奥麿(ながのいみきおきまろ)は、二度の紀伊国行幸(690年・701年)に従駕し歌を詠みました。有間皇子事件を見事に詠み上げたその歌は持統天皇を感動させ、大宝元年の行幸では詔で歌を所望したほどです。高市連黒人も近江朝を偲び荒れた大津京を読んでいます。二人は行幸に従駕し、先々で歌を詠んだのでしょう。(既に紹介済)

長皇子は、天智帝の娘・大江皇女の嫡子です。人麻呂が歌を奉った皇子で、持統帝は行幸にも連れて廻るほど気に入っていたか、頼りにしていたのでしょう。(長皇子についても、既に紹介しています。)

舎人娘子は舎人皇子の養育を受け持つ氏の女性でしょうか。この人は舎人皇子と恋歌をやり取りしています。それなら、持統帝が目をかけた舎人皇子の関係者となりますね。
東国へはお気に入りの人々を従えての行幸だったのです。

では、人麻呂は? 従駕していなかったのでしょうか。それは分かりませんが、持統天皇はこの行幸ですべてを成し遂げたのでしょう。環幸の後、ひと月で崩御となるのです。旅は疲れるものですが、従駕した人々の歌を読んみると、旅愁はありますが悲壮感など有りません。

前年の紀伊国行幸の意味深な歌とは違うのです。旅先で持統帝は元気だったのでしょうか。

旅から帰った十二月二日、「九月九日、十二月三日は、先帝の忌日なり。諸司、この日に当たりて廃務すべしと勅が出されています。何とも、急な勅です。十二月三日の前の日に出した勅で「次の日は仕事をするな」というのですから。

しかも、九月九日は天武天皇の命日ですが、十二月三日は天智天皇の命日なのです。急な勅は天武天皇のために出されたのではないのです。天智天皇の忌日のために出されたのです。すると、持統天皇の意思なのでね。最後まで天智天皇への思いを抱いていた、最晩年に「隠す必要はない」と判断した、それが持統帝の真実の姿でした。

(十二月)六日、星、昼に見る(あらわる) *星とは太白で金星のことです。太白が昼に現れるのは「兵革の兆し」とされます。

十三日、太上天皇、不豫(みやまいしたまう) *不豫とは天子の病気のことです

天下に大赦が行われ、百人が出家させられ、畿内では金光明経を講じられました。しかし二十二日、遺詔(いしょう)して「素服挙哀してはならない。内外の文武の官の仕事は常のようにせよ。葬送のことはできる限り倹約するように」と言い残し崩じられたのでした。

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天智天皇量の真南に天武持統陵・大友皇子の屋敷跡は石上神宮へ)

持統天皇は「仕事は怠るな。葬儀は簡単に」とは伝えましたが、その他の気がかりについては何も言ってはいません。東国行幸で全てやり終えたというのでしょうか。

ですから、東国行幸が非常に気になるのです。その目的が天の香久山を詠んだ女帝が、実は天照大神の神祭りの場を探していた、とは。

以前、持統六年(692)の伊勢行幸のとき大三輪高市麿が冠を捧げて天皇の伊勢行幸を諫めた話をしました。「大三輪」ですから高市麿は三輪山の神祀りをする氏族でした。『三月は農繁期ですから伊勢行幸はやめてください(我が三輪山は、天智天皇も大切にしておられた。その神山を捨てて伊勢に行かれるのか)』と諫言したのでしょう。
考えてみると、伊勢の神祭りを始めたのは天武天皇でした。

天武十四年(685)初めて伊勢神宮に式年遷宮の制を定める
  
諸国の歌男・歌女らに命じ、歌笛を子孫に伝習さす。
     

 

壬申の乱に勝利したのは伊勢の神のおかげだとすると、天武十四年の「はじめて式年遷宮」は遅すぎです。神への御礼は一番でなければなりません。
また、天武天皇が伊勢神宮の神祭りを始めたのであれば、その皇后の持統天皇が伊勢に行くのを止める大義名分は誰にもありません。まして、大三輪高市麿にも。
上代の三月が今の四月くらいだとすると、農作業が忙しいのは上代の四月から(五月六月)でしょうね。

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最後まで天智天皇を慕いつづけた持統天皇が、三輪山ではなく伊勢に神祭りの場を求めたのは何故でしょうね。その聖地求めの旅が平安時代~鎌倉時代初期に「倭姫の伝承」として『倭姫命世記』に書き残されたのではないかと思ったのです。

すると、持統天皇こそが倭姫皇后だったのではないか。父は有間皇子で、皇位継承者の妃となるべき立場に生れた姫だった。有間皇子事件の後は間人皇后かくまわれたが見つけ出され、古人大兄皇子の娘として天智帝の妃とされた。
そう仮定すると、紀伊国行幸の歌で有間皇子を偲び続けることも、天智・天武の陵墓が同じ経度にあることも、難波宮に重要なことを決める時に行幸があることも、有間皇子事件に類似した宇治若郎子の事件が額田王や人麻呂によって歌われるわけも、天智天皇の葬送儀礼の歌が天武帝より多く残されていることも、天智帝の血統の草壁皇子が薨去した理由も、額田王と中臣大嶋が草壁皇子の菩提を弔ったわけも、持統帝が天智帝が築いた高安城に行幸する理由も、倭姫皇后が忽然と消えた理由も、大津宮を持統帝が懐かしむ理由も、事実を歌として「万葉集」に編集した柿本人麻呂が刑死した理由も、人麻呂に対して元明天皇が激怒したわけも、平城天皇が「万葉集」を編集しなおして事実が分からないようにした理由も……ほとんど同じ糸で結ばれていたので、意味がつながり謎が解け理解できるのです。

倭姫命が天智天皇の皇后と同じ称号で呼ばれているのなら、何らかの接点があると思いませんか。
いよいよ、倭姫命世記を読まなければならなくなりましたね。
長い物語ではありません。近くの図書館にも関係書はあると思います。
では、また。




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# by tizudesiru | 2017-11-21 23:49 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback | Comments(0)

持統天皇の最後の行幸と伊勢神宮

もうこの海を見ることもないだろう
あの方の霊魂を鎮める最後の旅となるだろう
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大宝元年の紀伊国行幸(秋九月、冬十月)は、万葉集の巻一、巻二、巻九に歌が乗せられています。大宝元年辛丑冬十月の紀伊国行幸は、女帝の心にあった永年の苦しみを払う行幸でした。文武天皇が持統天皇と合流したのは、十月だったのでしょう。その時、紀伊国での出来事を全て孫に伝えたのです。

持統天皇は、九月に孫の文武天皇より先に紀伊国に来ていました。その時の歌が巻一にありますが、巻九の「紀伊国十三首」と比べて軽いのですが、旅先の土地を誉め、旅の安全を祈ったのでしょう。
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大宝元年辛丑冬十月の紀伊国行幸は、特別でした。紀伊国の郡司をねぎらいながら一重に有間皇子の霊魂を慰め鎮めました。それが巻九の「紀伊国行幸十三首」でした。そのひと月前の持統太上天皇の紀伊国行幸、この時の歌を読んでみましょう。

54 巨勢の山のつらつら椿はさいてはいないけれど、つらつら思い偲んでみようか。巨勢山に椿が咲き乱れるその美しい春野を。
秋なので椿は咲いていませんからね。春野を想像して詠んだのです。

55 麻裳で知られる国、紀伊国の人がうらやましいことだ。この真土山をいつもいつも眺めることができる。わたしは旅の行き帰りに見るのだが、紀伊国の人は本当に羨ましいなあ。
真土山を越えると大和から紀伊國に入ります。その境の山を見ると旅情が高まるのでしょう。

56 川岸に咲き乱れるつらつら椿、巨勢の春の野はつらつら見ても見飽きないことだろうなあ、巨勢の春野は、きっと。
まだ、春は遠いけれど椿咲き乱れる春野を偲びながら、一行は紀伊国の行幸の安からんことを祈ったのでしょう。土地を誉めることがその地の神々に祈ることでもあったそうです。以前紹介した「紀伊国十三首」の重く切ない歌と比べると、九月の歌はかなり軽く感じますね。文武天皇を伴った行幸は特別だったことが分かります。


そして、最後の行幸が大宝二年
持統天皇の最後の行幸・美濃・三河・伊勢・伊賀

大宝二年、東国へ持統太上天皇は行幸しました。
大宝二年は女帝の崩御の年です。崩御のひと月前まで女帝は行幸の輿の上に在ったのです。行幸とは「幸を行う」ことでした。行く先々で、人々を労い褒美を与えることなのです。持統天皇も先々で褒美を与えて回りました。
その最晩年の行幸時の歌が万葉集に残されています。


大宝元年辛丑冬十月の紀伊国行幸では、紀伊国の郡司をねぎらいながら一重に有間皇子の霊魂を慰め鎮めました。もう思い残すことはないだろうと周囲は思ったでしょう。
しかし、持統天皇は旅に出ました。それも、特別のお気に入りを連れての行幸です。

今度の旅の目的は何でしょうか。

冬十月十日、太上天皇参河国に行幸 *今年の田租を出さなくて良しとする

十一月十三日、行幸は尾張国に到る *尾治連若子麻呂・牛麻呂に姓宿禰を賜う                                       *国守従五位下多治比真人水守に封一十戸

同月十七日、行幸は美濃国に到る *不破郡の大領宮勝木実に外従五位下を授ける *             
 *国守従五位上石河朝臣子老に封一十戸 

同月二十二日、行幸は伊勢国に到る *守従五位上佐伯宿禰石湯に封一十戸を賜う

同月二十四日、行幸は伊賀国に至る 

同月二十五日、車駕(行幸の一行)参河より至る(帰ってきた)

東国行幸では、尾張・美濃・伊勢・伊賀と廻り、郡司と百姓のそれぞれに位を叙し、禄を賜ったのでした。それが目的だったのでしょうか。大宝律令により太上天皇として叙位も賜封もできるようになっていました。太上天皇は新しい大宝令を十分につかったのです。

この行幸は、壬申の乱の功労者を労うことが目的だったと言われています。確かに天武軍は東国で兵を集め整えました。

行幸の目的については気になることがありますが、行幸で詠まれた歌を見ましょう。
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この行幸時の女帝のようすにただならぬ気配はなかったのでしょうか。十月から十一月まで五か国をめぐる旅が続きました。お疲れだったと思いますが。

歌に出てくる地名です。
引馬野(ひくまの)愛知県宝飯郡御津町御馬の地・音羽川河口付近に引馬神社がある。他に豊川市や静岡県浜松市の曳馬町付近とする説もある。
阿礼の崎(あれのさき)所在地未詳
隠(なばり)三重県名張市のあたり。
円方(まとかた)三重県松阪市の東部。東黒部町一帯後。「逸文風土器」に『地形が的に似る』とある。


持統天皇の行幸は「倭姫命世記」の倭姫の歩いた道と重なります。それは何故か、気になっていました。
それは、また明日。




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# by tizudesiru | 2017-11-21 00:10 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback | Comments(0)

倭姫皇后の運命を握った神とは有力氏族

いつまでもお慕いいたします

人はよしおもひやむとも玉蘰 影に見えつつ忘らへぬかも
天智天皇の崩御後にヤマトヒメ皇后は詠みました。
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149 人はよしたとえ大王を忘れてしまうことがあっても、わたしには大王の御姿がいつもいつも影のように見えていて忘れることはできない。

153 いさなとりをする海のように広い淡海の海、この海のはるか沖から漕いで来る船よ、岸辺近くを漕ぎ来る船よ、沖の船、櫂をひどく撥ねさせないでおくれ。岸辺の船の櫂もひどく撥ねさせないでおくれ。あの方の霊魂は鳥となってもまだ若い鳥だから、櫂がひどく撥ねると驚いて飛び立ってしまうでしょう。(だから強くひどく撥ねさせないで)
切々と皇后は訴えました。皇后の挽歌だけでなく、身近な女性たちの歌も紹介しましょう。中に、舎人の歌がありますから、葬儀の場では男性の歌も多く献じられたのでしょうね。

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婦人(姓氏は未詳)、額田王、石川夫人、舎人吉年の歌が残されています。冬の淡海はきっと暗く沈んでいたことでしょうね。
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この後、倭姫皇后の消息は分からなくなります。どうなったのでしょうね。大友皇子の即位まで、玉璽は預からなければならなかったでしょうし、泣いてばかりでは務まりません。

こんな大役を果たす皇后はどのように選ばれたのでしょう。

人麻呂の「日並皇子尊の挽歌」の中にヒントがあります。
「天地のはじめの時の ひさかたの天の河原に 八百万千万の神の 神集い集いいまして 神はかり はかりし時に 天照日女之命 天をば知らしめせと…」
人麻呂の長歌は、上記のように始まります。ここに、支配者を選ぶ儀式のことが書かれています。

神集い 集いいまして(たくさんの神が寄り集まって)
神はかり はかりし(神々が相談を重ねて)


この詞は祝詞(のりと)でもおなじみですよね。上代は神々が集まって相談して支配者を決めていたのです。それは、舒明天皇が即位する時も大臣たちが集まって決めていました。人麻呂は「神」と詠みましたが、それは現実の人間達だったのです。
支配者を決める風習を変えたのは、乙巳の変だったのでしょうね。合議制ではなく、大宮殿を作り役所を整え、律令によって政治を行うことを目指した時に、氏族の主張が優先した合議制は合理的ではなかったのでしょうね。


それで、皇后撰びに戻りますが、上代の大王が選ばれたように皇后も有力者が話し合って選んだと思います。ただ、選ばれる女子の氏は限られていたと云うことです。
古代豪族の中で大后を出した氏は限られていたと思います。

倭姫皇后が古人皇子の娘なら舒明天皇の孫ですから、選ばれるべき立場だったのでしょうね。

(ここで、わたしは妄想します。持統天皇が年に数回も吉野に行幸した理由は何だろうかと。吉野に出かける理由の一つに、誰かに会いに行くのだとしたら、それは誰だろうかと。
吉野太子に所縁の人か、太子に関わった人に会いに行っていたとしたら、それも心ひかれる物語になるでしょうね。)


さて、神々が寄り集まって皇后を決めたのだとしたら、その存在は特別ですし、その最後がどうなったのか、陵墓は何処にあるのか、書き残されねばなりません。
しかし、倭姫皇后については何もないのです。挽歌は残したものの、忽然と消えているのです。数百年前とされる仁徳天皇の磐姫皇后ですら、細かに記述されています。だから、大王となった天智天皇の皇后である倭姫が忽然と消えるのはおかしすぎます。

ヤマトヒメは何処へ行ったのか?
前の王朝の後宮の女性たちが次の政権の大王の後宮に入れられたのなら、倭姫も天武帝の後宮に入れられなければなりません。でも、倭姫は天武帝の後宮に入ってはいません。皇后となったのは、持統天皇です。
倭姫が消えたのは何故か?と思いませんか。
天武帝の持統皇后と天智帝の倭姫皇后の接点はないのか、非常に遠くしかし非常に近い存在、と考えませんか。わたしはここに釘付けになりました。二人の接点、それは、あるのです。

二人の皇后を結びつけるのは、倭姫です。
それはまた明日。



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# by tizudesiru | 2017-11-19 00:12 | 304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か | Trackback | Comments(0)

倭姫皇后の運命を握った神は

この一週間、トンデモ説を紹介しています
万葉集は妄想を誘う歌集です。中でも様々に妄想を膨らませてくれる不思議で魅力的な人は、倭姫皇后ですね。天智天皇の葬送儀礼の挽歌が残されているので実在の人には違いありません。今日は、その倭姫についてのお話です。トンデモ説ではありませんが。
天智帝の皇后・倭姫とは何者か

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知りたいですよね、倭姫皇后について。天智天皇の皇后はどのように選ばれたのか。
皇后になれる女性は決まっています。高貴な血統の姫しかなれません。
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大化改新の後も、皇后になれる条件は守られました。なぜなら、大王に事があれば皇后が玉璽を預かることになっていたからです。おろそかに玉璽を扱ってはなりませんから、皇后には大王家の血筋の娘が立てられたのです。どんなに高齢でも、若輩でも、役目は同じでした。
そういえば、年の差がありながら、間人皇女(舒明天皇の娘)が孝徳天皇の皇后に立てられましたね。大化改新後、立后されるべき女性がいなかったのでしょうか? 若い間人皇女以外には? そんなことはないでしょう。古人大兄皇子(舒明天皇の皇子)の娘・ヤマトヒメがいたはずです。それとも、ヤマトヒメはまだ幼く生まれたばかりだったのでしょうか。幼すぎたのか、政敵として父親を討ったばかりだったので孝徳天皇の皇后として具合が悪かったのか、でしょうか。

天智天皇の皇后の倭姫は、名前からして意味深ですね。カムヤマト磐余彦のように意味深な名前です。ヤマトは諱(いみな)ではなく、尊号でしょうか? 万葉集では高貴な方は名前が書かれていません。卿・大臣・天皇・太上天皇・大行天皇・皇后・皇太后などと書かれていますが、該当者が一人ならその人が誰なのかわかるのです。
誰を指すか特定されない場合もありますが、それでも二人ほどにしぼられます。
光明皇后の場合では、藤原皇后・皇后・太后・皇太后・籐皇后などと書かれて必要に応じて使い分けられていますが、諱は書かれていません。皇子皇女の諱は書かれていないのが普通です。


すると、倭姫の「倭」とは諱ではなく、その養育する氏を指し示すのでしょう。当時、倭氏がいたと云うことでしょうか。 皇太子・古人大兄皇子の娘ですから、まさに「倭の姫」だったのですね。
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古人大兄皇子は舒明天皇の皇子で、天智帝とは異母兄弟になります。吉野山に入ったので吉野太子とか、古人太子と呼ばれ、舒明天皇の太子(ひつぎのみこ)=皇太子と誰もが認めていたのでしょうね。しかし、謀反の罪により討たれました

大化改新(645)と呼ばれる乙巳の変は6月でしたが、その9月に古人大兄は謀反を計画したそうです、書紀によれば。蘇我田口臣川堀、物部朴井連椎子(もののべのえいのむらじしひ)、吉備笠臣垂(きびのかさのおみしだる)、倭漢文直麻呂(やまとのふみのあたいまろ)、朴市秦造田来津(えちのはだのみやつこたくつ)と相談したようです。しかし、吉備笠臣垂は、中大兄に自首しました。
その為、古人皇子とその子達ともに討たれ、その妃妾は自ら首をくくった、と書紀に書かれています。
この状況の中を倭姫は生き残ったのです。

ちなみに、 自首した大錦下吉備笠臣垂(しだる)は、天平宝字元年(756)に吉野皇子(古人皇子)の反を告げた功により、功田二十町を賜っています。裏切って何十年どころか、百年以上経っての功田の下賜でした。なぜ百年余後なのでしょうか? 不自然ではありませんか…
他に物部朴井連は饒速日の末裔なので「物部」と冠していたのです。舒明天皇に近い人だったのでしょうね。この人は討たれたのですかね。
朴市秦造田来津(えちのはだのみやつこたくつ)は、小山下(しょうせんげ)という身分で天智元年「百済救援」の役に出て戦死したと思います。天智帝に仕えていたと云うことは、古人大兄を裏切っていたのですね。裏切り者は、吉備笠臣垂だけではなかったのでしょう。
さて、吉備笠臣垂が功田を賜った年は、孝謙天皇が譲位して淳仁天皇が即位した年でした。
天平宝字元年(756)、草壁皇子に岡宮御宇天皇と追号しています。この年に、藤原仲麻呂が「大保」に任命され、「恵美押勝」の姓を賜りました。非常に意味深な年なのです。


廃除された古人皇子の娘という、そういう背景を持った倭姫皇后です。父と家族の命を奪った叔父の天智帝の皇后となったのです。
では、天智天皇の聖体不豫の時に詠んだ皇后の歌です。
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147 天の原を振り仰いでみると、その天上の高きより長く垂れているのような大王の御命は、はるかに何処までもつながっているのです。
皇后は天皇の傍で祈り続けたのでしょう。しかし、天智天皇の病は重篤となり、言葉を交わすこともできなくなりました。

148 青々とした木々が旗のように見える木幡の山、その木幡の山の上を大王の御魂が何度も通っていることは風や雲の動きで私にも分かりますが、大王と直にお話することはもはやできないとは。
どちらも不思議な歌ですね。

聖体不豫の時、皇后はそば近くで平癒を神に祈り続け、言霊によりその霊魂を現世にとどめようとしているのでしょうか。皇后の役割として皇位継承の中継ぎをするだけではなく、聖体不豫の時に言霊により聖体を浄め守る役目もあったのでしょう。大王が神に選ばれた存在であるように、皇后も神に選ばれた存在であったのでしょうね。

また、明日




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# by tizudesiru | 2017-11-18 10:06 | 304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か | Trackback | Comments(0)

「野守は見ずや」と、額田王は大海人皇子をたしなめた

茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
天武天皇は、額田王に袖を振ったのか? 
と、問われました。厄介なので避けたい質問でしたね。
この歌が詠まれたのは天智七年で、天智帝が即位した年の五月です。蒲生野は天皇の遊猟(みかり)が行われた地で、公的な宴席での余興として額田王が詠んだということです。
書紀には「大皇帝、諸王、内臣また群臣、みな悉くに従なり」と書かれていますから、近江朝の人々はこぞって出かけたのです。ですから、当然、皇后も臨席していたでしょうね。そこで詠まれたこの歌は、本当に余興の歌でしょうか。額田王は非常に細やかな気配りのできる、しかも政治的な判断力を持った人でしたから、余興の歌ではないとしたらどのようなことになるのでしょうね。

昨日、中大兄の三山歌で紹介した畝傍之姫が倭姫皇后であったなら、大海人皇子(天武帝)の袖は皇后に向かって振られたことになるでしょうか。
おっと、これは危ないですね。妙なことになってしまいます。そこで、額田王は気を利かして「わたくしに袖をお振りになるなんて、いけませんわ。」と周囲の目を自分に向けて皇后から反らせ、大海人皇子をたしなめたことになるでしょうか。それも、面白い読みになりますね。

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額田王は非常に魅力的で有能な美しい女性でした
若い時、天武天皇との間に十市皇女をもうけました。
斉明天皇の紀伊国行幸に従駕し、有間皇子事件を目撃しました。
天智天皇に仕え、近江朝の宮廷で詔に応えて歌を詠みました。
そして、天智天皇に最後まで仕え、葬送儀礼の挽歌を詠みました。
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額田王の波乱の人生は此処で終わったのではありません。天智帝亡き後に壬申の乱が起こり、娘婿の大友皇子が近江朝の総大将だったのですから、その戦いの顛末の全てを見聞きしたのです。
そして、
壬申の乱で近江朝が敗れた後、傷心の娘と孫を連れて額田王は明日香に帰りました。


明日香に帰った額田王は、幸せだったでしょうか。
いいえ、苦しい日々が待っていました。天武朝の皇親政治の重みを一身に受けていた高市皇子に再婚させられていた十市皇女が薨去したのです。天武天皇が祭場へ向かった後、宮中での突然の皇女の薨去・自殺でした。さすがの天武天皇も葬儀で男泣きしたのです。
この悲劇が額田王を苦しめないはずはないでしょう。どんなに辛かったか、苦しかったか、それを思うとわたしでさえ苦しくなります。

どんな状況でも、額田王は堪えぬいたのでしょうか。弓削皇子との歌のやり取りが万葉集に残されていましたね。額田王は若い弓削皇子に優しい返事を送りました。弓削皇子の母は大江皇女(天智帝の娘)でしたから、天智天皇つながりでやはり特別かわいかったのでしょうね。
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若い時から斉明天皇の傍近くに仕えた額田王は、鏡王の娘といわれています。斉明天皇の息子の天武天皇との間に子どもをなしたのですから、身分の高い王家の娘だったでしょう。 
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額田王の歌は、万葉集巻一にも7・8・9番歌と続けて掲載されています。どれも非常に政治的な意味の深い歌でした。額田王は優しく聡明な人で、政治的な立場に居た女官だったと思います。

額田王は
草壁皇子のために寺を建立しました

十市皇女の突然死で苦しんでたのでしょうが、深く仏教に帰依し、藤原(中臣)大嶋と結婚し、大嶋亡き後はその遺言を守り粟原寺(おうばらでら)を完成させました。

草壁皇子の菩提を弔うために粟原寺を建立したのです。

それは、大嶋の遺言でしたから、大嶋も壬申の乱に無念の最後を遂げた叔父と共に、本来の主人である天智天皇の皇子の菩提を弔った、とわたしは思います。

そうでなければ、二人がここまで草壁皇子を思う理由がありません。
この流れからすると、比売朝臣額田は額田王以外には考えられません。

粟原寺の塔の露盤が国宝になっていてそこに銘文があります。そこに粟原寺は、「大倭國浄美原で天下を治められた天皇の時、日並御宇東宮のために造った寺である」とあります。よく見ると、天武天皇の時代の皇太子と書かれていますが、天武天皇の皇子とは書かれていません。

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銘文のなかみは、次のようになっていました。

この粟原寺は、仲臣朝臣大嶋が、畏れ謹んで、大倭國浄美原で天下を治められた天皇の時、日並御宇東宮(草壁皇子)のために造った寺である。

この寺の伽藍を比売朝臣額田が敬造し、甲午年に始まり和銅八年までの二十二年間に、伽藍と金堂、及び釈迦丈六尊像を敬造した。

和銅八年四月、敬いて三重宝塔に七科の宝と露盤を進上した。

この功徳により仰ぎてお願いすることは

皇太子の神霊が速やかにこのうえない菩提果をえられること。

七世の祖先の霊が彼岸に登ることができること。

(中臣)大嶋大夫が必ず仏果を得られること。

様々なものが迷いを捨て悟りに到り正覚を成すことができること。

甲午年は持統八年(694)です。

(この年の十二月に、藤原宮に遷都します。(しん)(やくの)(みやこ)藤原京)は、高市皇子が造り上げた初めての条坊を持つ都でした。)
このような額田王の人生を思う時、「茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」の歌は、どのような状況で詠まれ、何を意味するのでしょうね。歌は言霊でもありましたから、公的な場では神の前で詠むのと同じだったと思います。遊びで詠むのは、後の時代と思いますが…
やはり、倭姫皇后に向かって大胆にも降られた大海人皇子の袖を、額田王が鮮やかにたしなめたと読んだほうがいいかも知れませんね。

また、あした。



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# by tizudesiru | 2017-11-17 00:49 | 303額田王は大海人皇子をたしなめた | Trackback | Comments(0)

持統天皇は天智帝と草壁皇子の皇統を守ると決意した

持統天皇の御製歌の意味は…
ずっと引き延ばしてきたこと、持統天皇がなぜ香久山を詠んだのか、このことについて書かなくてはなりませんね。前回の三輪朝臣高市麻呂の諫めが農繁期の「伊勢行幸」に対する抗議というより、「三輪山が見捨てられること、王朝の神祭りが伊勢に移ることへの深い憤り」から来たものであると書きました。
三輪山はもともと饒速日を祀る山でしたから、天氏系の氏の大切な聖地でしたからね。

では、持統天皇の御製歌を読みましょう。既に紹介したカードを使います。

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春過ぎて…冬という困難な時代を一人息子を守りながら耐え忍び、やっと春が来たと思ったら夏になってしまった…ついに、わたしがあの香具山の神祭りを引き継ぐ時がきたのだなあ
しかし
持統天皇は、「天武天皇の神祭りを引き継いでこれから自分が政をしよう」と歌ったのではありません。
引き継ごうとしたのは天智帝と舒明帝の「まつりごと」なのです。
香具山を詠んだのは三人の天皇、天智帝(中大兄)と舒明帝と持統帝でしたね。
その舒明帝や天智帝と同じ祭祀で、国の「まつりごと(政)」を行うと持統天皇は歌ったのでした。


持統天皇がこれほどまでに「天智天皇」の天香具山にこだわるのは何故でしょう。

壬申の乱という、まるで革命のような政権交代を成し遂げた天武天皇の皇后は「天智天皇のまつりごと」に倣おうとしました。天智天皇がつくりあげた戸籍「庚午年籍」を使い、天武天皇の皇親政治を止め、議政官を任命し律令政治を目指しました。夫の仕事をひっくり返したのです。でも、高市皇子に最高位を預け、内部の混乱を避けようとしたのだと考えます。

皇位継承に関しては「直系に継承」という天智天皇の意思に沿いました。具体的には天智天皇の「不改常典」(改めまじし常ののり)として、元明天皇の詔に登場します。天武朝の皇位継承を天智帝の法で縛ろうとするなんて、考えられないことでしょう。持統天皇をはじめ、まつりごとの基本は天智朝を手本としたと云うことです。なぜに?
持統天皇は心から天智天皇を慕い尊敬していたのです。それは、持統天皇の崩御の年まで続きました。
続日本紀からも、その思いが伝わります。
大宝二年(702)十一月二十五日、持統天皇は尾張・美濃・伊勢・伊賀への行幸から戻りました。その翌月の十二月二十二日に崩御となっているのです。
そんな大変な時期、崩御の二十日前、十二月二日に持統天皇は詔を出しました。
「九月九日、十二月三日は先帝の忌日(いみび)なり。諸司、この日に当たりて廃務すべし」
先帝とは天武天皇と天智天皇です。


九月九日は天武天皇の命日、十二月三日は天智天皇の命日。
その命日には仕事をしてはならないという詔ですが、十二月二日に次の日の仕事を休めという、かなり急な詔ではありませんか。それも、この勅は天武天皇の為に出されたのではありません。次の日の天智天皇の命日のために出されたのです。
崩御の二十日前までも、持統天皇は天智天皇を思い続けました。


その理由はもう分かりますね。
天智帝への愛以外にはありません。
今まで、万葉集で確かめてきたことが事実なら、持統天皇は有間皇子の所縁の人、妹か、許婚者か、娘です。となると、鵜野皇女こそ天智天皇に召された畝傍の媛だったと云うことになりますね。
ここで、持統天皇の一人息子・草壁皇子の父親は天智天皇だった、という天武朝にとって大変な展開となるのです。
しかし、考えてみると少しも矛盾はありません。天武天皇は「吉野盟約」で、自分の皇子と同じく天智帝の皇子も我が子として扱おうと約束します。おかしな話です。本当は自分の直系の皇子に皇位継承権を与えたかったでしょうに。天智系の皇子も我が子のように扱うと誓い、大喜びしたのでした。
吉野の盟約は、鵜野皇女の連れ子を我子とするための儀式だったと思います。

しかし、吾子・大津皇子への愛は断ちがたく、天武帝は「朝政を聴く」立場まで引き上げました。大津皇子の即位への道を開けて置いたのです。
草壁皇子は自分の出自を承知していたので、皇太子でありながら極位には着きませんでした。もちろん、草壁皇子は病弱ではありませんでした。万葉集の挽歌に詠まれた通り、狩が好きで阿騎野では御猟を楽しんでいたのです。健康な草壁皇子は大津皇子が極位に着くことを承知していたと思います。

その事は、大津皇子にも伝わっていて、草壁の意思を受けてもいいのか、天武帝の崩御後、伊勢の姉に相談に行ったのです。大伯皇女の不安は的中し、大津皇子は死を賜りました。その政治的判断は高市皇子がしたと思います。行政のトップは太政大臣の高市皇子でしたから。
高市皇子は最高権力を握った持統天皇に畏敬の念を抱き、その胸の裡を察したのでしょう。天智系の皇統を残したいと思っていることを。

大津皇子の死後、自責の念で草壁皇子は苦しみました。そのために、自死を選んだと思います。日本書紀は「薨去」のみしか伝えていません。病気平癒のために誰も出家していないし、大赦もなく、その葬儀をどのようにしたのか、一切書かれていません。(万葉集でその様子を知る以外にないのです。)
「乙未、皇太子草壁皇子尊薨」の一行のみです。弔いの使いの描写一つありません。

常々、持統天皇は、特定の皇子や皇女を大事にしています。
特に、明日香皇女の病の時は、沙門一〇四人を出家させました。人麻呂に挽歌も詠ませました。既に、紹介した通りです。しかし、大事な草壁皇子には沙門の出家はないのです。
特に寺を建立したとかもありません。草壁皇子の為に寺を建てたのは、中臣大嶋と比米額田です。
中臣大嶋は壬申の乱で斬られた中臣金の甥です。比米額田は額田王とされています。
二人は、なぜ草壁皇子の菩提を弔ったのか、答は一つです。草壁皇子が本来の主人・天智天皇の血統だからこそ菩提を弔う寺を建てたのです。
どの事実も、草壁皇子の出自と死の真実を指し示しているのです。
持統天皇は草壁皇子を失いました。その落胆と絶望はどんなに大きかったか。
しかし、残された道は一つしかありません。天智天皇の皇統・草壁皇子の皇統を守る以外にないのです。その決意の歌が「春過ぎて夏来るらし白妙のころもほしたり天の香具山」なのです。

つまり、持統天皇の御製歌は草壁皇子の出自を明かす歌なのです

持統帝が大事にした皇子・皇女は、長皇子(母・大江皇女)や舎人皇子(母・新田部皇女)、明日香皇女や阿
閇皇女・御名部皇女でした。
このような扱いをした理由はひとつ、なぜなら、彼らは天智帝の子孫だったからです。

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ですから、当然、持統天皇が大事にしたのは、先祖とつながる山田寺・川原寺・飛鳥寺・橘寺など蘇我氏・舒明帝や天智帝の所縁の寺院となりましょう。それは、同じ様式の瓦(山田寺式の瓦)が使用されていることでもわかります。
川原寺は九州で朝倉宮で崩御された斉明天皇の葬儀を天智天皇が執り行ったところでした。もともと宮殿で、後の世に寺とされたのです。橘寺は川原寺の正面の岡にある聖徳太子ゆかりの寺です。
吉備池廃寺も奥山廃寺も山田寺式の瓦が出土していますから、関係の深い寺だと云うことになりますね。
瓦は別の機会に紹介します。特に、奥山廃寺について紹介したいことがあります。

持統天皇の時代、大事にされた山田寺です。
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(冬の山田寺)
ここ山田寺は、蘇我倉山田石川麻呂の終焉の地です。其の霊魂は鎮められなければなりませんでした。

また、あした。



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# by tizudesiru | 2017-11-16 00:42 | 302草壁皇子の出自を明かす御製歌 | Trackback | Comments(0)

「中大兄三山歌」の畝傍山は倭姫を意味する

持統天皇の祖先の山は三輪山ではない
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昨日のブログでわたしはこのように言いました。もちろん、万葉集を読む中で導き出されたことです。

今日のテーマに入る前に、中大兄の三山歌を思い出してみましょう。この歌には、大事なヒントと意味があるのです。
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前回、持統天皇の祖先が神祭りをした山は何処か、それは畝傍山ではないかと書きました。カムヤマト磐余彦の山です。『先代旧事本記』では、この王統が饒速日の王統を滅ぼしたことになっていますね。
以前、「中大兄の三山歌」で述べたように、ヤマト三山は三つの氏族のシンボルの山で、それぞれの氏が祭祀をしていたと紹介しました。中でも新興勢力の二つの王統は伝統的な畝傍の王統の姫を妃にすることでその血筋の尊さを保とうとした、と紹介しましたね。それが耳成山と香具山が、畝傍山を争う歌となったのでした。

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三山歌を読むと、高貴な姫をめぐって争われたのが何時か分かりますね。神代である過去と現在です。過去にもあったでしょうが、現在も同じことが起こりました…それは、中大兄の時代です。
すると、中大兄が皇后にした倭姫皇后がまさに「高貴な血統の姫」となるのでしょう…
では、耳成山側の争いの当事者は誰でしょう。耳成山は藤原宮の北にランドマークのようにそそり立つ山です。藤原宮を造営した天武朝の象徴的山なのです。それでは、耳成山が象徴するのは天武天皇だと云うことになりましょうか。
では、では、通説のように「三山歌の畝傍の姫」は額田王で、中大兄と大海人が額田を争ったというほぼ定説になっている説は成り立つでしょうか? 


それは、歴史の結果で見てみましょう。天智天皇が皇后にしたのは倭姫で、天武帝が皇后にしたのは鵜野皇女(持統帝)でした。選ばれたのが倭姫と持統帝だと云うことは、大変重要なことです。額田王ではないのです。

三山歌が叙事詩だとすれば、この歌を知れば誰にも登場人物が分かったのです。
誰が高貴な姫かを世間が知っていたのであれば、天智天皇崩御の後「倭姫皇后が行方知れず」になるはずはありません。
高貴な姫を他の氏に奪われてななりませんからね。もちろん、高貴な姫ならば額田王もそれなりに大事にされたはずでしょう。しかし、天武帝の後宮には入れられていません。

更に、歴史の結果を見ると、天武天皇崩御後に称制(皇位継承の玉璽を手にした)したのは、持統天皇その人でした。行方知れずの倭姫皇后は何処へ行ったのか、なぜ鵜野皇女が皇后になれたのか、もうわかりましたね。高貴な畝傍の姫だったから、鵜野皇女は皇后に選ばれたのです。
額田王は中臣大嶋と結婚し、晩年は草壁皇子の為に菩提寺造りに励みました。
更に、面白いことに、「万葉集の人麻呂歌集」を読むかぎり、倭姫皇后は生き残り、天武帝に懇願されてその皇后となったとなります。その歌集も紹介するつもりですが。
結果、畝傍之姫・ヤマトヒメこそ持統天皇かも知れないと思うようになったのです、ある日、突然。
たぶん、わたしの思いは孤立しているでしょう。こんな出鱈目な解釈は、私自身が意外だったし、詠み続けている正史からは許されないでしょうから。
しかし、万葉集を読んでいると、出鱈目な発想が次々に生まれるのです。
そうして、だんだん「歌には言霊が宿るから、めったに書き直しは出来なかっただろう」という気分になりました。だから、平城天皇は侍臣に詔して『万葉集を撰ばしむ』と、編集によって攪乱したのだろうと想像したのでした。
最近、わたし自身も、万葉集はかなり事実を記録していると、確信するようになりました。
わたしは長い間書きたかったことをやっと少し書きました。
すべて万葉集を繰り返し読んで、ある日突然分かったことです。一つの仮説からすべての謎が解かれていった、そんな感じです。


では、今日のテーマ「持統天皇の祖先の山は三輪山ではない」に入りましょうか。
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これは、万葉集巻一の「伊勢国行幸時の歌」です。柿本人麻呂はこの時の行幸に従駕していません。しかし、都に残って行幸の持統天皇を思っています。行幸先の伊勢では、大宮人は毎日のように船に乗っているようですが、海は荒れるのにと人麻呂は心配しました。大宮人は船で何をしているのでしょうか、遊んでいるとは思えないのですが。歌の意味はそのまま理解してください。

この行幸が朱鳥六年(692)ならば、従駕した石上麻呂はまだ大臣になっていません。が、万葉集には最終の官職で「大臣」と書かれています。石上麻呂が大納言に任官されるのは大宝元年(701)で、右大臣になるのは慶雲元年(704)でした。没年は養老元年(717)で、左大臣にまで上り詰めました。持統・文武・元明・元正と四人の天皇に仕えた多分有能な人だったのでしょう。
その有能な人材が従駕して、伊勢に行幸したのですね。目的があったはずです。それは、伊勢行幸時の歌五首に付けられた「脚」から想像することができるでしょう。

次のような「脚」がつけられています。
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三輪朝臣高市麻呂は、持統天皇の伊勢行幸を諫めました。後世『霊異記』は、高市麻呂の農民愛撫の様を讃え、諸天も感応すると書きました。
では、高市麻呂は本当に「農民愛撫の立場」で天皇を諫めたのでしょうか。わたしにはそうは思えません。三輪朝臣
間違いなく三輪山につながる氏族です。彼が心から怒ったのは、三輪山ではなく伊勢に神祭りを求めた持統天皇に対してだったと思います。「我が三輪山を見捨てて、伊勢に神祭りの場を求めるとは何事ですか」女帝に対して、すべてを投げ打ち抗議したのでしょう。
彼は冠を脱いで天皇に捧げましたから職を賭したのです。事実、大宝二年、長門守に起用されるまで官位はなかったそうです。
それほど、三輪山が大事だったのです。
確かに、このあと三輪山は第一の神祭りの場ではなくなりましたからね。

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藤原宮から耳梨山を見る
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藤原宮から香具山を見る
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藤原宮から畝傍山を見る

藤原宮は、三山に守られていますね。
それにしても、なぜ持統天皇は「春過ぎて夏来るらし白妙の衣ほしたり天香具山」と、堂々とした香久山を詠んだのでしょうか。もちろん、これは大事な話です。
また、あした。
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# by tizudesiru | 2017-11-15 00:26 | 302草壁皇子の出自を明かす御製歌 | Trackback | Comments(0)

近江遷都で額田王が三輪山を詠んだわけ

近江遷都の時、額田王が三輪山を詠んだのは、天智天皇の祖先の山だったから!
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(大神神社)
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額田王は天智天皇に仕え任務を全うしました。
天武天皇との間に十市皇女をもうけたのは若い日・昔のことでした。
天智7年、蒲生野の宴で「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」と額田が天武に対して詠んだのですが、既に二人の間には何もありませんでした。
額田王は天智帝の長子大友皇子に娘を嫁がせ、人生の絶頂期にあったのです。
天智天皇の詔に従い歌を詠み、女官として力を注いでいました。(だから、天智天皇の葬送儀礼でも挽歌を献じたのでした。)
その近江朝が大津宮に遷る時の額田王の歌が万葉集にあります。
額田王がヤマトに別れを惜しみながら詠んだのがヤマト三山ではなく三輪山だったのは何故でしょう。以前にもこのブログで書いたように「三輪山は饒速日の山」でした。饒速日はアメ氏でしたね。
 
17 酒を入れる甕と同じミワとよぶ神山、三輪山よ。あおによし奈良の山に隠れてしまうまで、道の曲がり角が幾重にも重なって見えなくなるまで見ながら行きたいのに。何度も何度も見はるかしたい山なのに、無情にも雲が隠していいものか。
18 神山の三輪山をそんなにまで隠すのか。せめて雲だけでも心があってほしいのに。三輪山を隠したりしてよいものか。

この歌は、三輪山こそ我が神山だ、その山を隠すなんて雲も心無いこと!と、額田王は天智天皇に代わって詠んでいるのです
天智天皇は三輪山を神山としていたとわかりますね。天智天皇の時代には、三輪山は饒速日を祀る山だったでしょう。
だから、同じアメ氏として「天の香久山」を氏山とする天智天皇にとっては、三輪山はさらに祖先の山だったということですね。だから、近江へ遷都すれば大事な三輪山までも見ることができなくなると嘆いたのです。すると、天智天皇の祖は三輪山の一帯から明日香の香久山に降臨した天氏ということになりますね。

この二種の後には次のような左脚があり、続いて井戸王の歌が載せられています。

 右の二首の歌は、山上憶良大夫が類聚歌林には「都を近江の国に遷す時に、三輪山を御覧(みそこなは)すうたなり」といふ。日本書紀には「六年丙寅の春の三月、辛酉の朔の己卯に都を近江に遷す」といふ。


19 ()麻形(そかた)の 林のさきの さ野(はり)の  (きぬ)につくなす 目につくわが背

 右の一首の歌は、今(かむが)ふるに和ふる歌に似ず。ただし、旧本、この次に載す。この故になほし載す。

  

額田王の歌は、17・18で、19は井戸王の歌ですが、井戸王の歌は額田王の歌には応えていないようだが、旧本通りに載せていると説明されています。
棕麻形とはよくわかりませんが、伊藤博「万葉集釋注」によると、三輪山の伝承「三輪山神話」の、娘のもとに毎夜通ってくる男の衣の裾に棕麻(へそ)を通した針をつけて男の家を知ろうとした。次の日、糸は戸の鍵穴から出て、三巻(三輪)の糸が残されていた。その糸をたどると三輪山に着き、神社のところで糸は絶えていた。男が三輪山の神の子であることを知ったので、人々はこの地を名付けて「三輪」というようになったというのです。
(*本文を要約して書いています。)
上記の説明によると、棕麻形とは三輪山のことらしいですね。
19 三輪山の林のさきのほうにある野の榛の色が衣にはっきりと染むように、はっきりと目につく(目立つ)いとしい人
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さて、持統天皇も天香久山を詠みました。
では、天智天皇と同じ天氏だったということでしょうか?
実は、持統天皇はもとは天氏ではないようです。結論を言えば、持統天皇は畝傍山を神とする「日の神」系の人のようです。つまり、天照神をまつる氏です。
持統天皇が香久山を詠んだのは、もちろん天智天皇の皇統を称えたからです。

この辺のところは、また、ゆっくり。




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# by tizudesiru | 2017-11-14 00:43 | 301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む | Trackback | Comments(0)

持統天皇と呼子鳥をめぐる謎

続・持統天皇を呼び続ける呼子鳥
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歴史書を無視した話になってしまいました? 持統天皇の出自について、
前回のブログを見てびっくりですか? 確かに、無茶な展開でしょうね。

鵜野皇女は正史では蘇我石川麿右大臣の娘と天智天皇の間に生まれた皇女となっています。が、巻九の「紀伊国行幸の時の十三首」を繰り返し読んで、わたしには疑問が湧いて来たのです。持統天皇は何故にこれほど「有間皇子」を偲び続けるのかと。
はじめは、十三歳の鵜野皇女は有間皇子の許婚者だと思いました。孝徳天皇の跡を継ぐべき有間皇子と鵜野皇女は孝徳天皇の意思で婚約し、有間皇子は極位を継ぐべき立場にあったと思いました。そうなると、岩代まで有間皇子を追ってきた中皇命の歌の意味が分かりにくくなります。なぜに、父親の皇后という立場の女性が有間皇子を追って岩代まで来たのか、不思議です。兄の中大兄皇子の為に有間皇子に付き添ってきたという通説が成り立つでしょうか。

巻九と巻一と巻二(挽歌)を読むかぎり、中皇命は自分の意思で有間皇子を追って兄や母とは別に紀伊国に入っていたのです。「幸す」と「往く」と使われた漢字が違っていますから、それは揺るぎません。

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有間皇子に玉璽を伝えようと思っていたから、有間皇子が追っ手によって殺された後、中皇命(間人皇后)は逃げたと思います。日本海側の間人(たいざ)と呼ばれる港町に。間人(たいざ)に難を逃れた間人皇后は聖徳太子の母ではなく、孝徳天皇の間人皇后が追っ手から逃れたのだと思います。同じ「間人」ですから、聖徳太子信仰と結びついて伝承が残されたのだろうと。
だから、天智天皇は妹の間人皇太后が薨去した後、母の斉明天皇と合葬した後でなければ、即位できなかったのではないでしょうか。玉璽が手元にないのだから。
天智天皇は玉璽を得て初めて正式の大王になったのでした。

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では、持統天皇の母は誰でしょう。山田寺に封が下されたり見事な瓦が葺かれたり、天武朝の手厚い扱いを見ると持統天皇が蘇我系の女子であることは間違いないでしょう。

それでも、有間皇子が薨じた時十九歳だったという日本書紀の記述が、「持統帝は有間皇子の家族」説の大変な障害となりました。

それで、「日本書紀」が意図的に有間皇子の年齢を一回り(十二年)操作したという怪しげな説を持ちだす以外にないのですが…

あえて、次のような内容をブログに紹介してきたのです。ほとんど、去年から書いていることです。


・孝徳天皇の四十歳すぎに生れた後継者としては遅すぎるので、有間皇子はもっと早くに生れていたのではないか。
・中大兄皇子(三十歳過ぎ)がライバル視する年齢なら有間皇子は同年代に近いのではないか。
・難波宮には後宮も東宮もあったようだが、中大兄皇子は東宮には入らなかったし、妹も母も連れてヤマトへ戻っているので、皇太子ではなかっただろう。
・政権が変われば、後宮の女性たちは次の後継者の後宮に入れられたのではないか。孝徳朝の女性は有間皇子の後宮へ。有間皇子の後宮の女性は天智朝へ。天智朝の女性は天武朝へ。政権が変わるたびに女性は次の政権に引き継がれることになっていたので、十市皇女や吉備采女(近江朝の采女)の悲劇となった。
・中皇命は次の後継者である有間皇子の妃となることを承知していた。
・十市皇女の自殺によって後宮の中に不安が広がったので、天武天皇は「吉野の盟約」と呼ばれる儀式で、天智朝の皇子も含めて「家族になる儀式(謀反は起こさない)」をしたのではないか。それによって、天武天皇は満足して「吉野よく見よ」の歌を詠んだのではないか。

などなど、少しずつ書いて来ました。それは、有間皇子が十九歳ではないという前提によって引き出されたことですが、万葉集を読むかぎりこのようなことになってしまうのです。

わたしは古代史研究家ではないので平気で「とんでも説」を書けますが、日本書紀を読めるような研究者は「とんでも説」は出されませんね
もちろん、わたしも長い間「正史」に書かれていることを疑うなんてことはありませんでした。
しかし、元々好きだった万葉集を時々読むうちに疑問に思う事が次々に出て来たのです。「なぜ」を重ねていくうちに「持統天皇の出自って正史の通りなのかな?」という気分になったのでした。
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(紀伊国の春)
そして、巻九を何度も読むうちに「もしかしたら持統天皇は有間皇子の所縁の人!」ではないかと思うようになったのでした

だって、持統天皇は草壁皇子を亡くした翌年に息子の妃を連れて紀伊國行幸に出たのに、有間皇子の岩代の海岸を訪れ結松に涙しているのです。息子を思って泣くならともかく、三〇年も前に謀反の罪で刑死した有間皇子の謂れある地を訪ねて涙するなんて、所縁の人ではなくて考えられなかったのです。草壁皇子を偲んで泣いたのは、嫁の阿閇皇女(元明天皇)でした。嫁はむしろ他人でしょうに、母は息子ではなく更に縁の薄い有間皇子の霊魂を鎮めようとするなんて。
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更に、四〇年後、大宝令の完成した大宝元年に持統太上天皇は文武天皇と紀伊国行幸に出ますが、徹底して有間皇子を偲ぶ旅でした。若い文武天皇に伝えたいことがあった行幸で、有間皇子事件を辿るなんて信じられない展開です。
しかも、皇子終焉の地・藤白坂では涙を流し「皇子は無実だった」と読み、紀伊國には「止まず通わん」と十三首を締めくくったのでした。
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もちろん、天智天皇の罠に落ちた悲劇の皇子(皇位継承者だった)の霊魂を慰めることは、これから築こうとしている王朝の繁栄を盤石なものとするための儀式だったと考えられなくもありません。文武天皇にも祟り神としての有間皇子を祀らせ、先々の災難を避けようとしたと。

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しかし、考えてみてください。有間皇子の「まさきくあればまたかえり見む」の歌を思い出してください。「命永らえて戻ってきたら、また、お前を見よう。おまえに会いたい」と詠まれています。皇子は独りではなかったのです。再会したい人や家族があったから濱松が枝を結んだのでした。
皇子が再会したかった家族はどうなったのか。わたしはそれが気になりました。
もし連座をまぬかれるとしたら、誰が守ったのか、それは有りえるのか、などなど考え続けたのです。そして、

藤白坂でその運命を受け入れた有間皇子は霊魂となって、忘れかたみの娘を呼び続けた呼子鳥である、わたしにはそう思えたのでした。

では、天智天皇の皇女だという正史はどうなる? という段階ですね。実は、このことも万葉集を読むかぎり「一つの答え」しかないのです。




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# by tizudesiru | 2017-11-13 01:47 | 300持統天皇を呼び続ける呼子鳥 | Trackback | Comments(0)

謎の鳥・喚子鳥は持統天皇を呼び続ける

300万葉集に詠まれた謎の鳥・呼兒鳥
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持統天皇が吉野に行幸した時、高市黒人が「呼兒鳥」を詠む。
「よぶこどり」を万葉集事典で調べると「かっこうか。郭公、渡り鳥、夏鳥。ほととぎすより大きい。灰青色。尾が長く白斑。蛾の幼虫などを捕食。おおよしきり、ほおじろ、もずなどの巣に托卵。声は人を呼び人恋しさを誘う。カッコウと鳴く。他に容鳥(かおどり)は霍公鳥などの説も。」と書かれています。

実は、呼子鳥とはどんな鳥なのか分からないのです。万葉集の謎の鳥です。その鳴き声が「アコー=吾子」と聞こえるので、呼子鳥と呼ばれたというのです。呼子鳥は夫が妻(又は恋人)を呼ぶ鳥ともされますが、わたしには親が吾子を呼ぶイメージしかありません。 

ではでは、高市連黒人の「呼子鳥よぶこどり」を読んでみましょう。だって、この歌は「持統天皇の吉野行幸」で献じられた歌なのです。持統天皇の為に詠まれたとしたら、そこにどんな意味があるのでしょう。公的な場で、謎の鳥を詠んだ高市黒人は、何を考えていたのでしょう。


70 倭には鳴きてか来らむ呼子鳥きさの中山呼びぞ越ゆなる

倭には鳴きながら来たでしょうか、呼子鳥は。ここ吉野では、さきの中山を吾子と呼びながら越えていきます。

この歌が詠まれたのは吉野、それも持統天皇の行幸時で、公的な場と既に言いました。「呼子鳥は大和に向かって吾子を呼びながら越えて行く。よほど吾子を恋しく思っているのでしょうね」と高市黒人は詠んでいるのです。
それは霍公鳥ではなく、呼子鳥と呼ばれる鳥…ということは、呼子鳥が何なのか、その場にいる持統太上天皇をはじめ従駕の人々は知っていたと云うことですね。
鳥は亡き人の霊魂と古代の人は考えていたと、何度も書きました。この呼子鳥も誰かの霊魂なのでしょうね。

吉野で「あこー」と吾子を呼びながら、その吾子のいる倭へ向かう鳥とは誰なのか。そして、その鳥となった霊魂が恋しく思うのは誰なのか?


呼子鳥となった霊魂は〇〇、呼ばれているのは持統天皇だと、わたしは思います。
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(紀ノ川・妹背の山の辺り)
呼子鳥となった人物は、吉野川・紀ノ川につながる人です。
吉野川は、紀伊国では紀ノ川と呼ばれます。(下流と上流では呼び名が違っているのです。持統天皇の吉野離宮はこの川の上流に、聖武天皇の離宮は河口の玉津嶋の辺りに後世造られました。吉野川は天武朝の人々には所縁の深い河なのです。)
持統天皇が在位中に三十回以上も行幸した吉野、その離宮で詠まれた歌は沢山ありますが、「呼子鳥」の歌は、持統天皇が譲位した後の行幸で詠まれたものです。
譲位した太上天皇が心行くまで自分の時間を過ごした時、呼子鳥がよまれた…

紀伊國といえば、持統四年と大宝元年の紀伊國行幸を思い出しませんか。
15歳で即位した文武天皇(大宝元年には19歳)を連れて、持統太上天皇は紀伊国に行幸しました。そこで詠まれた「紀伊国行幸時の十三首」(既にこのブログで何度も取り上げました。)それ以前には、草壁皇子の妃の阿閇皇女(元明天皇)を連れて、持統四年に紀伊国に行幸しています。この時も、有間皇子の鎮魂の為に結松をよんでいます。
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山上憶良は「結松」の歌を知って、後で追和しました。長忌寸意吉麻呂の歌に触発されたのでした。
憶良は、「鳥となった霊魂が何度も何度も通って見ているのを人は誰も気が付かないけれど、松はちゃんと知っている」と詠みました。
憶良が詠んだ鳥となった霊魂は、有間皇子でしょう。有間皇子の霊魂は、愛する人と結んだ「結松」を何度も何度も見に来た、または、松の場所にくれば愛する人に会えると思って見に来たと詠んでいるのです。
有間皇子が愛したのは、松が枝を共に結んだ中皇命(間人皇后)でありついてきていた家族だと思います。

また、高市黒人は32「いにしへの人に吾ありや楽浪のふるき京を見れば悲しき」、33「楽浪の国つ御神のうらさびて荒れたる京見れば悲しも」と詠んだ高市古人と同人とされます。また、持統太上天皇最後の行幸(大宝二年)にも従駕し歌を詠んでいます。長忌寸奥麻呂と並んで、持統天皇のお気に入りだったと云うことです。ですから、

高市黒人は持統天皇の気持ちに沿って、常に歌を詠めたということでしょうね。

呼子鳥となった霊魂は有間皇子、呼ばれているのは持統天皇だと、わたしは思います。
吾子と呼ばれているのですから、持統天皇は有間皇子の子どもだとわたしは思います。(何度か書きましたが)その物語も万葉集で読みましょうね。
その数奇な運命を物語る歌集を。

参考の為に、呼子鳥の歌を探してみましょう。

下の四首で「呼子鳥」が詠まれていますが、この内の二首が吉野宮で詠まれています。やはり、公的な場で女帝の為に詠まれているのです。
呼子鳥を詠めば、太上天皇の心を慰めたのでしょうね。

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呼子鳥は謎の鳥ではありません。
万葉集はその鳥が誰を呼んでいるのか、ちゃんと教えているのです。

また、あした。



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# by tizudesiru | 2017-11-10 01:59 | 300持統天皇を呼び続ける呼子鳥 | Trackback | Comments(0)

柿本人麻呂は宇治川に天智朝のはかなさを詠んだ

近江の国より上り来る時に、宇治の川辺に至りて作る歌
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人麻呂は近江の国を過ぎる時、十分に近江朝を偲びました。その帰り道、宇治川の川辺に到りました。当然、見て来たばかりの淡海の風景がよみがえり、あの都があった近江から流れてきた川なのだと思ったのです。しばし川面を眺めて、近江朝の為に戦い死んでいった武人のことを偲んだのでしょうか。
264
 もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも

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「近江の国より上り来る時に宇治の川辺に至りて作る歌一首」と書かれていますから、264の「もののふの」歌のみを指しているのは確かです。しかし、266番歌も人麻呂が近江朝を詠んだ歌です。なぜ、二首は離れているのでしょう。
264と266の二首は内容的にもつながっているように思うのですが、間に長忌寸奥麻呂(ながのいみきおきまろ)の歌が挟まれています。
なぜ、奥麻呂の歌がここに置かれたのか、今でこそ編集の意図が分かりませんが、平安時代までは特別の地位の人はわかっていたのかも知れません。

『新古今集』藤原定家の「駒止めて袖うち払うかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ」の有名な歌は、奥麻呂の歌を「本歌」として『本歌取り』したものです。定家はこの歌に心惹かれたのです。
その隣に人麻呂の秀歌があるのに、敢て奥麻呂の歌を本歌取りして「名句」にして見せたのでしょうか… 
わたしは「古今伝授」の当事者であった藤原定家は『奥麻呂の歌が人麻呂歌の間に置かれた意味を知っていた』のだと思います。奥麻呂は歌人として持統天皇のお気に入りでした。
持統四年の紀伊国行幸で「有間皇子の鎮魂の為に結松の歌」を見事に詠んだことで奥麻呂は持統帝に認められたのでした。大宝元年の紀伊国行幸では天皇の詔に応えて「見る人なしに」と還らぬ人を詠みました。だからこそ、持統天皇の最後の行幸にも従駕しています。誰もが奥麻呂を羨んだと思います。人麻呂の歌の間に奥麻呂の歌を置いたのは、その辺の暗示があるのかも知れません。
佐野の渡り・みわの崎は和歌山県新宮市とされていますから「紀伊国」行幸を引き出しますね。

万葉集の編者は、何を伝えたかったのでしょう。
平安時代になって、万葉集を編集させた高貴な人の意思がそこにはあるはずです。その人は「古今伝授」により人麻呂と持統天皇の秘められた愛を知っていたでしょう。その愛に奥麻呂が入ってきたのだと、それは紀伊国行幸の時からはじまったのだと、藤原定家は読み解いたのでしょうか。それで、本歌取りの「佐野のわたりの雪の夕暮れ」を読んだのでしょうね。「雪の野原のような現実の中で心やすめる処すら持たなかった」人麻呂の心情をせつせつと。

初期万葉集を編纂・編集したのは人麻呂だと、わたしは幾度も言いました。人麻呂が持統天皇の遺勅に応えて、文武天皇のために力を尽くしたのだと…。そして、万葉集は文武天皇亡き後、元明天皇に献上されたのですが、それは元明天皇を激怒させ人麻呂は断罪されました。その後、大伴氏に預けられた万葉集は、晩年罪を得た大伴家持の遺体と共に彷徨っていましたが、平城天皇によって召し上げられ編集の手が加えられて世に出たと、紹介してきたのでした。
その決定的な平安時代の編集「あることを分かりにくくするための編集」が、数多くの万葉集の謎を造り出したのだと思います。手が入れられたのは、ほとんどが人麻呂編纂の部分に対してでしょう。後期の家持関係の歌にはほとんど編集の手は入っていないと思います。
ですから、初期万葉集と後期万葉集では、内容も編集意図も微妙に違うのです。
そういう目で、人麻呂の歌を詠むと長忌寸奥麻呂の歌が置かれた意味も想像できると思うのです。

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266 淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば こころもしのに古おもほゆ
この歌は、直接的に近江朝を偲んでいます。鳥は霊魂を運ぶ、または亡き人の霊魂そのものと思われていた時代です。いにしえの都の址にたたずんで淡海を眺めている時、夕暮れの中に飛び交う鳥は大宮人のあまたの霊魂と思われたことでしょう。
鳥と化した数多の霊魂が飛び交う岸辺、そこで鳴く鳥は滅びた王朝の物語を語るのでしょうか。それを聞くと心はしおれてしまい、王朝のはかなさと天智天皇を思って人麻呂は立ち尽くしたのでした。
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何故に、ここまで人麻呂は近江朝を思うのか、不思議ですよね。
人麻呂が近江朝を詠む時、天智天皇の傍にそっと立っているのは持統天皇の思いだったのではないでしょうか。わたしにはそう思えます。

では、また。



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# by tizudesiru | 2017-11-08 00:14 | 299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ | Trackback | Comments(0)

柿本朝臣人麻呂・近江朝を偲ぶ

もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも
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(電車で宇治川を渡る時の一枚)
宇治川を渡る時に思い出すのが、万葉集巻三の264番歌・柿本朝臣人麻呂の歌です。しかし、考えてみると、ちょっと違和感というか、変ですよね。
宇治川を見て、天武朝に仕える人麻呂が偲ぶのは滅ぼした近江朝だったとは…ちょっと、不思議ではありませんか。
確かに、宇治川の上流には琵琶湖があり、広い淡海が少し狭くなる辺りに天智天皇の近江朝の都がありました。大津京が京だったのはほんの数年ですが、万葉集では深い哀悼の思いを込めて繰り返し詠まれました。
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万葉集巻一に、人麻呂は「天智天皇こそ日知王の皇統を継いだ大王だ」として歌に詠みました。そして、「その大王が石走る淡海国の楽浪の大津宮で天の下を統治したのに、その王朝は滅び、都は荒れ果てた」と嘆いたのでした。この歌は人麻呂の個人的な哀悼の歌ではなく、公的な場での歌です。
この歌が詠まれた時、持統帝も天武朝の皇族も、壬申の乱で天武側に加担した氏族も、その場にいたでしょう。人麻呂だけでなく誰もが近江朝を偲んだというのでしょうか。壬申の乱の功労者の高市皇子も…傍にいたのなら微妙ですね。

そして、反歌二首では「ささなみの志賀」と詠んでいます。使われたのは「楽浪」と「左散難弥乃」の漢字でしたが、「ささなみの」という枕詞は、近江朝を引き出す言葉として人々の胸に残りました。それまでは「天さかる夷(ひな)=遠い田舎」であった淡海の国でしたが、「ささなみ」の志賀といえば、滅びた王朝と深く結びつくようになったのでしょう。
「ささなみの」が一句目にある歌は、万葉集には11首あります。その中で「神」がつくささなみのが四首あります。154番の石川夫人の歌は「天智天皇の葬送儀礼に詠われた挽歌」です。206番の置始東人の歌は、弓削皇子の挽歌として詠んだ歌です。
「神楽浪」は、高貴な人の霊魂漂う地として「楽浪」に特別な場所と意味を与えているのでしょう。
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弓削皇子は大津京で薨去されたのではありません。しかし、ささなみの志賀のさざれ波に例えて「いつまでも生きながらえていたかった」という皇子の思いを詠んだのでした。母が天智帝の娘の大江皇女だったから、天智帝の皇統を継ぐ皇子だと、神楽浪の志賀の浪に例えているのでしょうか。
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そして、宇治川の歌です。人麻呂は宇治川を見ても近江朝を思い出したのでした。

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この人麻呂の秀歌については、また明日、語り合いましょう。




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# by tizudesiru | 2017-11-07 00:43 | 299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ | Trackback | Comments(0)

沖ノ島は誰が祭祀したのか・ヒストリア謎の結論

沖ノ島祭祀誰がしていたか・NHKヒストリアが謎の結論

とても興味の湧くテーマなので、期待しました。 
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世界遺産になってしまった福岡県宗像市の宗像大社の辺津宮(土壇場でひっくり返り、当初は外されていた辺津宮が世界遺産になりました)。これで、観光資源になったのですが。そして、関連遺産群として津屋崎古墳群(福津市)も一緒に宗像氏の奥津城になってしまいました。ホントですか? それでいいのですかね。
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元々、宗像氏の祭祀に不思議に思っていた私は昨日放送(2017・11・3)の「歴史秘話ヒストリア」に驚きました。でも、宗像氏が磐井の乱の後も生き残ったと云う所は、そう思います。彼らが磐井を裏切ったのか、利用したのか、チャンスをつかんだのか、ですよね。

わたしは宗像大社は大好きで学生時代から何度も通いました。遠方の客が来ると、大島の中津宮や宮地嶽神社や宗像大社に案内するのです。
特に、宗像大社の裏の高宮のがらんとした空間は如何にも祭祀場のようです。わたしが学生の頃、高宮ができたばかりだったと思いますが、真新しい玉石と木立も低かったのでサンサンと陽が降り注ぎ風が吹き抜け気分がよかったのを思い出します。今は木々に覆われ暗くて静かですが…

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辺津宮本殿もある実業家の援助により中津宮(大島)の社をモデルに建て替えられました。その信仰の厚みが世界遺産になったのでしょうか。



分からないことが多すぎて何処から書いたらいいのか

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では、祭祀の変遷から行きましょうか。沖の島には弥生時代の土器などが出土していますので、嵐の時など避難していたと思われますし、ささやかな祈りも捧げたでしょう。それが突然大きな祭祀へと変わりました。武器や鏡や玉など古墳の副葬品と同じような豪華な奉献品が岩の上に置かれるようになりました
だから、「ヤマト王権の祭祀」となったそうです。豪華な奉献品だから九州の田舎豪族にはできないとのことでした。岩の上に豪華な品物が置かれ陽を浴びて輝いたことでしょうね。
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岩上には三角縁神獣鏡も奉献されていました。
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確かに、大きな権力を持つ人物の祭祀でしょう。4世紀半ばから岩上祭祀とよばれる祭祀が始まり、5世紀で終わります。(最近は祭祀が連続する形式のパンフレットが配られていますから、祭祀は終わってはいません。岩陰祭祀にかわりますが。)

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ところで、5世紀半ばでは福岡地域で最大の津浦峯ノ畑古墳(福津市)の副葬品の中の鏡が、沖ノ島の岩上遺跡のものと同范とされています。この古墳の被葬者は何者なのでしょう。沖ノ島祭祀と関わりがあると思われる、そうです。
この人達は宗像氏なのでしょうか。津屋崎古墳群の被葬者達です。

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数年前にラインを引いてみました。草崎の石祠から勝島の最高部を通り、大島の遥拝所を通り、沖ノ島の岩上祭祀場に直線が通りました。見事にライン(白)の上にすべてが乗りましたが、宗像大社辺津宮からライン(黄緑)を引いても何も乗りませんでした。
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このラインは何を示したのでしょうね。石祠の付け根にあった勝浦漁港(福津市)は今は反対側の神湊に大きな港湾施設ができたので消滅状態です。が、福岡県で一番長い砂浜を持つ勝浦地区には古代にはたくさんの前方後円墳が造られ繁栄していたのでした。
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ここは万葉集にも詠まれるように入り江が入り込み(水色の部分)、とても農業で栄えたとは思えません。では、何をして富を築いたのか、自明のことでありましょう。

では、ここが、宗像氏の奥津城だったのでしょうか。
でも、宗像氏は豪族でしたが、盟主的存在ではなかったようですね。

地図でも分かるように、現在は勝浦漁港に行くには海岸を通る以外にはありません。道の半分から宗像になっているのです。勝浦の名が残る以上、昔は勝浦地区が広がっていたはずです。
世の移り変わりの中で、勝浦は小さくなったのでしょう。勝浦海岸の南の岬は「渡半島」です。何処に渡るか? 当然、外国・朝鮮半島に渡るのです。ちょうど倭の五王の時代でした。

ここが倭の五王の船出の地ではありませんか?

勝浦・勝島・桂岳(勝浦岳)・対馬見山(つしまみやま)・渡(わたり)半島・草崎(いくさざき・戦崎)、それらしい名前が何でもそろっているではありませんか。
NHKは、津屋崎古墳群があるとは紹介しましたが、桂川町の王塚古墳や八女の岩戸山古墳を取材して、ヤマト王権とは関係ないという説明になっていました。桂川も八女も宗像氏との接点・沖ノ島との接点は見いだせないですよ。


津屋崎古墳群の被葬者達、彼らが半島に攻め入る時、沖ノ島で勝ち戦を祈ったからこそ「武器・武具」を奉献したのではないでしょうか、5世紀まで。と、思います。

しかし、祭祀が途絶えた。途中で半世紀以上の空白ができたと、考古学者の話です。

岩上祭祀をした氏は滅んだか、衰退したのでしょうか。
次の祭祀は岩上ではありませんでした。岩陰です。

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空白の後に、6世紀の後半から岩陰祭祀が始まるのです。この空白は何故起きたのか。それは「磐井の乱の影響だと考古学者が云う」と説明されていました。
わたしも「なるほど、磐井の乱で祭祀どころではなかったのか」と納得したのですが、この2,3年でこの文言は消えました。どうなったのでしょう、報告書にもあった文言なのに。空白の意味をしりたいです。

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それから、良かったと思う事がありました
栄山江流域の前方後円墳は6世紀の学説を紹介
このことを紹介してくれたことです。韓国の前方後円墳が、日本の前方後円墳のルーツだと一時騒がれたことがありました。でも、日本とのかかわりはあるけれど、日本から入った墓制だという研究をNHKは取材していました。
なぜ倭人の墓制が入ったのかついては、倭人が半島で鉄を求めたからだとされていました。納得の展開でした。倭人は弥生時代から鉄を求めて海を渡りましたからね。
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それから、青銅器が一つの遺跡から15本出るのも珍しいと紹介されました。木棺墓からの出土です。(ここには、福岡平野のような青銅器の埋納はなかったのでしょうか。筑前筑後では青銅器は大量に埋納されていましたが。)
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(15本の青銅器が出た田熊石畑遺跡)
確かに、たくさんの青銅器です。
宗像には甕棺墓はないとも言われます。朝町遺跡では、木棺墓・土壙墓は173基に対し、甕棺墓は2基で、有力者は木棺墓です。鏡の副葬はほとんどありません。
田熊石畑遺跡には、銅戈・銅矛・銅剣・勾玉・管玉・ガラス小玉などが副葬されていました。やはり、鏡はなかったようですね。

鏡が大量に副葬される福岡平野と若干違いますね。すると、宗像氏は北部九州では祭祀などを見る限り、別の文化を持つ集団だったのでしょうか。
では、では、津屋崎古墳群ともつながらないのではないでしょうか。

宗像氏は確かに不思議な氏族です。歴史の深い意味を背負った氏族だと思います。だからこそ、NHKさんに結論を急いでほしくないと思います。せっかく韓国にまで取材したのだから、結論を出したいのでしょうけれど…
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そうそう、かなり前の嘉麻市のシンポジウムで面白い一言がありました。
磐井の乱後に屯倉がどっと造られたのは、王権の侵入があった証拠ということで、地図上に屯倉の位置を確かめると「宗像は屯倉の空白地帯になっている」ということでした。なるほど、おもしろいなあ、と思いました。宗像氏はかなり前から王権と結びついていたのでしょうか。

では、では、王権にとって宗像は特別だったというのでしょうね。
7世紀後半の天武朝で活躍した高市皇子は、宗像氏とつながる人でしたね。

文章がまとまりませんでした。
疑問点を一部書きましたが、気になったことはまだあります。が、沖ノ島が大事な位置にあり、歴史の語り部であることには何の反論もありません。大切に守ってほしいと思います。
又、明日。






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# by tizudesiru | 2017-11-04 17:27 | 298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論 | Trackback | Comments(0)

297鉄の副葬も甕棺墓の時代から

鉄製品も甕棺墓の時代から製造していた
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甕棺の中に鉄剣と鉄戈が副葬されていました。甕棺の中の鉄製品ですから、銅と鉄はほとんど同じ時期に倭国にもたらされていたのです。しかも、甕棺に副葬された大型鉄戈は国産です。鋳造の大型鉄戈は我が国にしか出土しないそうですから、鉄を輸入して熔かして型に流して戈を造ったということです。大型甕棺を製作し焼成する力があったのですから、鉄を熔かすこともできたでしょう。北部九州では細形銅剣・細形銅矛などとともに銅戈が甕棺の中に副葬されました。その中で、矛を大事にする集団や剣を大事にする集団、戈を大事にする集団と各々の神祭りに使う祭器が違っていったのでしょう。
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安徳台は本当に台地になって他と隔離されています。この後の古墳時代になってつくられた墳丘墓は、ここ安徳台にはありません。なぜでしょうか、この台地は次の時代には使わなかったのです

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古墳時代は明らかに弥生時代とは違っています。
三角縁神獣鏡が出土した妙法寺古墳は、前方後方墳で方形の組み合わせです。同じ那珂川町なのに甕棺墓の時代とかなり違った社会になったのではないでしょうか。

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この古墳の時代の人たちの埴輪や土製品は、弥生の甕棺の技術を反映していません。
近隣の弥生時代の祭祀土器を見ましょう。みごとな丹塗の祭祀土器です。
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夜須町や糸島市の祭祀土器です。
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すごく出来がいいですね。しかし、溝に捨てられていました。なぜ大事な神祭り祖先祭りの品を溝などに捨てたのでしょう。
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生活用具も……
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この技術は何処へ行ったのでしょう。

祭祀用の青銅器が大型化した時代に、弥生集落に異変が起こりました。祭祀具の埋納です。
進んで村祭りの祭器を埋めたことになっています、土中に。
考えられません、何かがあったとしか。大型銅矛をまとめて埋めた集団。銅戈も、銅剣も埋められました。異なる地域の離れている集団が、同じことをするなんて不思議です。
埋めるしかなかった、村はずれの人目につかない処に埋めて隠したかった、見つかれば収奪されたのでしょう。弥生人たちは万に一つの運に懸けて祭祀具を土中に葬ったと思います。氏(集団)の宝を埋めて場所が分からなくなって掘りだせずに今日まで残った! なんて嘘でしょう。
埋めさせられたか、泣く泣く埋めるしかなかったと、わたしは思います。

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鋳造鉄製品を作る技術を持ちながら、彼らは何処へ行ったのでしょう。持ちだした青銅器もあったでしょうね。それらは、あの薄いけれど三角縁によって形を保っている銅鏡に姿を変えたとわたしも思います。
また、あした。




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# by tizudesiru | 2017-11-03 20:00 | 297鉄製品も弥生から製造していた | Trackback | Comments(0)

幻住庵の虚白院に住んだ仙厓和尚のエピソード

仙厓和尚は文化八年(1811)法席を湛元に譲って虚白院に隠退しました。
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62歳の楽隠居ではなく、これからは心のままに大いに教化に務めようと偈を作っておられたそうです。それからの二十年間が仙厓和尚らしい面目を発揮した時代だったようです。来るものを拒まず接してくれる仙厓さんは博多の街の人気者となったのです。
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仙厓百話・第九話 諫言の褒美「雲居の梅」
藩主黒田斉清候は幼少から厳しく教育され、亀井南冥などに師事し和漢並びに蘭学を修めた人でした。特に菊花をこの上なく愛し、天下の名品を庭園に集めて自ら研究もしていたのでした。ところがある日、菊園に園丁某の飼い犬が入り込み幾本かの枝を折ってしまいました。藩主は烈火のごとく怒り、園丁を手打ちにすると言い渡しました。
これを聞いた仙厓さんは早速夜半に庭園を訪ねて鎌で藩主が大事にしていた菊を刈り取ってしまいました。当然、次の日は大騒ぎでした。
仙厓さんは藩主の前に進み「自分が菊を刈り取った」と申し出て、人命と菊とどちらが大切かを問い、「藩内の大飢饉の状況を救いもせず花いじりや菊見の宴でもありますまい」と諫めたのでした。
藩主は自分の非を認め「和尚にしてこそ」と感謝して、お礼に「雲居の梅」を賜ったと云うことです。それが、幻住庵の玄関の梅なのです。


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第二十二話 首斬役人の辞職
ある雪の日でした。仙厓さんが静かに雪景色に見とれていると、一人の男が訪ねてきました。男は藩の首斬役人で、しかもその仕事に不思議な魅力を感じていたのでした。仙厓さんのところに来て、この男はなまくさい自慢話をするのです。
「あんたその首斬役人は大抵でやめたらどうな。後生が恐ろしいとは思いならんな。」
「そら又、なしでっしょうかい。命令するたアお殿様で、殺さるるたア悪い事したものですバイ。罪やら恨みのあるならー、殿様にたたりましょうたい、わたしが何ば知りますな。」
「そうばいな。そこで、あんたに用があるがその腰の刀であの庭の竹ば一本伐ってきちゃんない。」
男は庭に下りて示された竹を鮮やかに伐り倒しました。すると、竹に降り積もっていた雪が男の頭にどっと落ちてきました。仙厓さんは男が竹をもって来るのを見ていいました。
「その竹にはもう用はなか。あんたはびしょねれになったが仙厓はびしょぬれにならんとな。」仙厓さんは続けます。「命令したのは仙厓ばい。あんたがびしょ濡れになるわけはないじゃなかな」と。
役人は唸り、仙厓和尚の言葉で男の仏心が目覚めました。彼はただちに首斬役を辞職して、ひたすら仏の道を求めて和尚の教えを乞い、後生を懺悔減罪の行に励んだそうです。

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幻住庵のあちこちには仙厓さんのエピソードが残っています。

博多の中に溶け込んだ仙厓さんは来るものを拒まず、歌や描画で世間の愚や悪を風刺したり、様々の奇行や頓智で世人に教誨を与えたりしたのです。子どもたち・武家・文人墨客・町人と集まってきました。その中に揮毫依頼者が混じっていましたから、さすがの和尚もほとほと困ったようです。
米屋甚太郎に描いた画の画賛に、
こりゃ甚太郎 虚白院へ行き書きものねだるまいぞ
また合甫長右衛門に与えた歌に、
うらめしやわが隠れ家は雪隠か 来る人ことに紙おいてゆく

仙厓和尚も八十三歳の高齢になると、さすがに書きものに筆をとるのが億劫になってきたのでしょう。
墨染の袖の湊(みなと)に筆すてて書にし愧(はじ)をさらす浪風

と、石工岸田徴平に刻ませて庵の傍に立て「絶筆の碑」としました。

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たまたま講座で会った知り合いが「午後から、菩提寺のご住職がお話をされるので聞きに行くことになっている」というので、突然わたしも聞かせていただくことにしました。突然だったのですぐに自宅に帰り、ひとまず着替えてご講話を聴くことができました。その後、境内を案内していただいてお寺の隅々にまですごく興味を引かれました。
たまたま誘ってくれた知り合いに感謝です。この催しは「博多っ子講座」として計画されていた中の一つでした。ブログの中身は、幻住庵のご住職・山根玄眞様の資料とお話の中から要約して掲載させていただきました。
まだまだ、たくさんの面白くかつ意味の深いお話がありましたが、掲載しておりません。
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博多は何処もおもしろいですね。




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# by tizudesiru | 2017-11-02 16:43 | 296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵善寺 | Trackback | Comments(0)

仙厓さんが住んだ天目山幻住庵に寄り道

雨の日、幻住庵の歴史を拝聴
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天目山幻住庵は博多の聖福寺の隣にあります。
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幻住庵は禅宗の寺院ですが「〇庵」と呼ばれる寺院は、通常「〇寺」と呼ばれる大きな寺の住職がその役目を終えて「〇院」に入り、更に「院」からも隠居して「庵」に入るという、隠居寺のような意味合いを持つ寺院の名称です。更に、規模が小さくなって「軒」となるそうですが、わたしはまだ「軒」という寺院を訪ねたことはありません。
ですから、寺ではない庵なのに「天目山」という山号を持つと云うことは、不思議ですね。通常ではないことです。ですから、ここにはもともと山号を持つ寺院であったと云うことでしょうね。

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元は馬出(馬出)にあったのです。昔は馬出や箱崎の辺りはほとんど寺院か神社の土地だったそうです。筑紫哲也氏の本によれば、見える限り実家の寺院の土地だったそうですから。戦後、寺社は自分の土地を切り売りして困難を切り抜けたのでした。
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お話は本堂でご住職がされました。福岡の西方沖地震では、本寺院は甚大な被害を受け建て替えとなったので本堂も新しくなっていました。
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敷地は5千坪で、寺院の中に仙厓さんの隠居所だった虚白院がありました。
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ここで、博多の人々との様々なエピソードが生まれたのですね。
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又、中国からもたらされた茶の木の栽培地で、いにしえの茶園の跡もありました。当時のものはこの大石が残るのみということでした。

そうですね、ここの寺院が天目山と称する理由もここにあります。天目茶碗といえば、最高級の茶碗ですし高貴な方や身分の高い方に差し上げる時に使われるものです。油滴天目といわれる窯変天目茶碗は国宝でもありますね。天目茶碗は此処で生まれたということです。

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それから、寺院の由来ですね。中国では僧は山中で修行をしますが、其の修行をした山に在る寺院だから「〇山」とつくのです。ですから、開山した無隠元晦(むいんげんかい)和尚の師匠が天目山で修行したということです。それで、師匠の教えを守り、帰国して「天目山幻住寺」を開いたということでした。
「幻住庵」の由来

無隠元晦が参禅した中峰明本という禅僧は、当時の中国の国家管理の「五山十刹制度」・寺と僧侶の格付けする制度を嫌いました。中峰明本は五山第一位に住持するよう求められるほどの中国禅宗界屈指の禅僧であったそうですが、名誉欲を捨て行脚の旅に出ました。そして、行く先々で庵を造り、この庵をすべて「幻住庵」と名付け自らも「幻住」と号しました。

中峰明本のような世俗と一線を引く禅僧の下に多くの地域や国から僧侶が集まりました。無隠元晦もその中の一人です。(中峰明本に学んで日本に帰国した禅僧は六人いるそうです)
無隠元晦は師の墓を三年間守り、博多へ戻って天目山幻住庵を馬出に開山しました。当時の幻住庵は山内に塔頭(たっちゅう)が六ケ所あり広大な大伽藍は巍然として禅門の威を示し、聖福寺・承天寺とならび称されたと伝わるそうです。


中峰明本の法系は日本では「幻住派」と呼ばれ、中世から江戸にかけて日本禅宗に大きな影響を与えました。聖福寺の住職も幻住派から出たそうです。
しかし、戦国時代の博多は海外貿易の拠点であり多くの大名の為に翻弄され兵火に焼かれました。幻住庵も焼失してしまいました。復興に尽力したのは、聖福寺の110代耳峯玄熊と博多商人の大賀宗久、宗伯親子でした。聖福寺から西門の土地をもらい、大賀家からその住居地を寄進され、馬出から現在地に移ったのです。

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天目山幻住庵は三笠川のほとりにあります。この辺りは博多商人の広大な屋敷があったのですね。川岸の森が幻住庵の敷地です。

仙厓和尚のエピソードはまた明日。


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# by tizudesiru | 2017-11-02 01:02 | 296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵善寺 | Trackback | Comments(0)

三角縁神獣鏡は甕棺からは出土しない

国産鏡だった・弥生後期の平原王墓出土の国宝の鏡
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国産鏡という平原王墓の鏡ですが、三角縁神獣鏡はありません。前漢鏡は甕棺からしか出土しないと聞きました。平原王墓は方形周溝墓です。弥生後期にはこれだけの鏡を生産できるようになっていたのです。ですが、古墳時代になると三角縁神獣鏡が出土します。
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しかし、古墳からは三角縁神獣鏡が出土する


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原口古墳は甕棺墓の上に築造された全長80mの前方後円墳です。主体部は粘土槨で木棺を安置していたと思われます。ここから三角縁神獣鏡3面、直刀3振、鉄斧4個、管玉・丸玉5個が副葬されていました。
この古墳の首長は甕棺墓群の集団の墓地を無視して自分のための墳丘を築きましたから、前の首長とは別の集団なのでしょうね。


鏡の製造技術が微妙に変化するのは何時でしょう。
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周防灘に面した福岡県京都郡の徳永川ノ上遺跡は、方形周溝墓(隅丸方形)に箱式石棺・甕棺・土壙墓などが同居した遺跡ですが、そこから内向花文鏡・方格規矩鏡などと共に三角縁神獣鏡が出土しています。

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福岡市の藤崎遺跡でも方形周溝場から三角縁神獣鏡が出土しているのです。
そして、初期の古墳から三角縁神獣鏡が出土するようになるのですね。
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画像は伊都国歴史博物館の「王の鏡」という祈念展示会の資料をデジカメで写したものです。
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三角縁神獣鏡が混じり始めるころが、その製造の開始でしょうね。
それは、方形周溝墓の時代ということでしょうか。

また、あした。


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# by tizudesiru | 2017-10-31 23:31 | 295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時? | Trackback | Comments(0)

景行天皇と倭武尊が詠んだ平群の山は飯盛山

古事記にある平群山は福岡市の飯盛山
先に「倭は国のまほろば・倭建命の国偲び歌」と「虚実ないまぜ?古事記と書紀の倭建命の父」(カテゴリ・272平群を詠んだ倭建命)で「平群の山の熊白橿の葉を髻に挿せ」という歌詞をとりあげました。
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この倭建の絶唱に詠われた平郡の山は福岡市の山だと既に紹介していました。その早良郡史のコピーが見つからなかったのですが、家の隅から見つけました。やはり、
飯盛山こそ平群の山だった
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吉武高木遺跡の西に在る飯盛山です。かって、この辺りは平群村でした。将にこの遺跡を中心とした一体です。
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飯盛山から西山麓の室見川を挟んだ一帯を平群郷が占めていました。飯盛・金武・吉武・羽根戸が室見川の西側にあり、田(でん)四ケ(しか)は室見川の東側です。地形的にも近畿の平群と似ていますね。ここ早良郡には伊都国とつながる三カ所の峠がありました。飯場峠や日向( ひなた)峠などは有名ですよね。
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室見川は北に向かって流れています。額田郷で海に注ぎますが、そこには山門(やまと)郷があり、小戸の青木ヶ原が広がり壱岐真根子神社(武内宿祢の身代わりになった真根子を祀る)があります。額田郷も弥生遺跡の宝庫です。奥の島影は残島(能古島)で、オノコロ島(?)とも……だそうです。

この川の中流域・この辺りに平群郷はあったのです。
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西の飯盛山を神山としたのは当然でしょうね。山頂では伊弉冉尊を祀ります。創建時から山頂に伊弉冉尊で、中宮には五十猛命を祀っていました。山頂の玉石は南北朝の戦乱以来、下宮に安置されています。
平安時代になって、廃れていた神社に平城天皇の孫・在原清平から手紙が届き、途絶えていた祭事を復活させたと、神社の由緒にありました。
以来、年間26の行事を執行し、正月十四日の粥占の行事には勅使の参向があったと町史に書かれています。最盛時には神官も十三家あり、七カ所の末寺もありました。

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(飯盛神社・流鏑馬が行われています)
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平群郷の辺りには、伊弉冉命を祀る神社が沢山あります。不思議なことに伊弉諾尊を祀る神社はありません。伊弉冉命と共に祀られているのは、事解男命、速玉男命です。
他の神社には、素盞鳴命(スサノウ)、埴安神、大山祇神、熊野三神、事代主命、少童大神、保食神等々さまざま祀られているのに、伊弉諾命は他の地域に行かないとありませんし少ないです。姪浜の鷲尾愛宕神社には、天忍穂耳命、伊弉諾命、伊弉冉命、火霊産命が祀られています。やはり、伊弉諾命だけの神社はありません。男神は霊験あらたかではなかったのでしょうか。
早良郡は女神を信仰する土地柄なのですね。それは、古代から引き継がれたものでしょうか。すると、中心の神山は飯盛山です。平群郷の神山は、飯盛山です。
ここが、古事記に詠まれた「平群の神山」と思うのです。地名だけでなく古代の神祭りを伝えていますから。

この山に伊弉冉命だけしか祀られていないことを不思議に思ったのは、後の世に進出した氏族、ここの歴史を知らなかった為政者でしょうか。相対する男神を若杉山に太祖神社として祭りました。
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要するに、伊弉諾命が祀られたのは、後の時代ですね。
古代から祭祀をする時、飯盛山を神山として、起点にしてラインを引いたと思います。わたしも古墳や神社や山頂とラインを結んでみました。すると、この十年余りでたくさんの神祭りのラインを見つけました。二点ではなく、山頂・山頂・古墳古墳・古墳・山頂山頂・古墳・山頂神社・古墳・山頂、などなどの三点以上を結んだのです。有効なラインもありますが、偶然もありましょう。でも、地図にのせられた有名どころをつなぎますよ。
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こんなに通過点として、起点としてラインが集まる山はかぎられます。無視できない状況だと思います。これは、古代から神祭りの山だった、祖霊の集まる山だった、ということではないでしょうか。
では、平群郷についてはおわりましょう。



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# by tizudesiru | 2017-10-29 16:01 | 272平群を詠んだ倭建命 | Trackback | Comments(0)

青銅鏡は紀元前に北部九州で国産が始まった

青銅鏡は紀元前に国産品があった!!
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もう数年前の新聞記事です。春日市で多鈕細文鏡の鋳型が見つかりました。
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紀元前に銅を熔かし鏡を作ることができたのです。大きな甕棺を製作していた人たちですから、決して無理ではなかったでしょう。その技術は進んでいったようで、糸島の平原弥生王墓の大型鏡も国産品ということです。
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40面の鏡のうちの内向花文鏡は、直系46.5cm重さは8kgです。これほどの技術は何処へ行ったのか。答は自明のことでありましょう。
そして、なぜこのように鏡を量産したのか? ですが、そこには太陽信仰があったと云うことになりますね。
太陽のように光り輝く鏡は、人々を引き付けたことでしょう。福岡平野には早くから太陽信仰があり、太陽を暦代わりに使っていたと思います。
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何度も紹介しますが、春日の須玖岡本王墓吉武高木王墓三雲南少路王墓は、飯盛山・大城山・宝満山の東西ラインの上に乗っています。この三か所の弥生王墓は鏡を大量に副葬していました。
古代から飯盛山は神の山でした。宝満山も最近まで修験道の山でした。大城山には神武天皇が山城を造っていたという伝承があります。
飯盛・大城・宝満山のラインは古代からの首長の祖先の神祭りの山であったのでしょう。福岡平野では吉武高木の王が、山々を暦とした祭祀を始めたと思います。
それが、春日丘陵に伝播したと思います。
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吉武高木の時代は、飯盛山の上から陽を見たでしょう。
須玖岡本の時代には、日知り王の祭場があったでしょう。
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熊野神社のやや南が丘陵の高地になります。そこに夏至と冬至の日の出・日の入りのラインが偶然にも交叉します。東西ラインの春分秋分の陽は宝満山から出て、飯盛山に沈みます。このラインも同じ処で交差します。
見渡せる山頂を使って、太陽を暦代わりに観測し祭祀できたはずです。
そして、伊都国最大の一貴山銚子塚古墳はこのラインの延長上にあるのです。糸島でも飯盛山を神の山としたと思います。
太陽信仰と鏡は将にセットなのです。
下の写真は、糸島(伊都国)の二見が浦です。太陽信仰の象徴のように思えますね。伊勢より大きいですね。

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太陽が沈む飯盛山には、伊弉冉尊が山頂に祭られています。母の山であり死者の山だったのでしょうね。
そして、ここは以前ブログで紹介した「景行天皇が詠んだ平群の山」であり、倭建命が詠んだ「平群の山」なのです。
それは、また後で。




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# by tizudesiru | 2017-10-29 02:05 | 294青銅鏡は紀元前に国産が始まった! | Trackback | Comments(0)

赤塚古墳の三角縁神獣鏡はヤマトから来たのか?

大分風土記の丘・三角縁神獣鏡
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赤塚古墳には三角縁神獣鏡が5面副葬
パンフレットを見ると、ここも三角縁神獣鏡はヤマト王権との絆とされています。では、大分の三角縁神獣鏡を見ましょう。博物館の鏡は撮影できませんからパンフレットをデジカメで写したものになります。

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唐草文帯二神二獣鏡(21・7㎝)同型鏡(徳島県宮谷古墳、岡山県鶴山丸山古墳(伝) *傘松文様があります
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天王日月鋸歯文帯四神四獣鏡(23・0cm)同型鏡(大阪府石切神社(伝)、京都府椿井大塚山古墳、奈良県黒塚古墳)
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天王日月獣文帯三神三獣鏡(22・5cm)
同型鏡(京都府物集女付近(伝)、三重県筒野古墳、福岡県原口古墳、滋賀県岡山古墳)
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天王日月獣文帯三神三獣鏡(22・4㎝)同型鏡(福岡県原口古墳、同県天神森古墳、同県石塚山古墳、京都府椿井大塚山古墳)
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波文帯盤龍鏡(25・3㎝)同型鏡(なし)*この鏡は被葬者の頭部側にあったという
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赤塚古墳は風土記の丘の北東にあります。全長57・5m。拾遺には8・5m~11mの空濠があります。大分県では、赤塚古墳以外の古墳には三角縁神獣鏡の出土は1面のみです。それで、ここがヤマトと絆の深い重要な古墳とされ、3世紀後半の築造となっています。
ふううむ…では、福岡県の原口古墳・天神森古墳・石塚山古墳も三世紀後半になるのでしょうか?
福岡県ではそうなっていないと思います。福岡市の藤崎遺跡6号方形周溝墓は弥生の集落にあるようですし、若八幡古墳や那珂八幡古墳も古いと思いますが、三世紀ではありません。一貴山銚子塚古墳には後漢鏡が頭部に置かれていたのですが、三世紀後半か四世紀の始めとされています。

古墳の築造年代については、博物館に説明されたとおりに受け留める以外にありません。しかし、あちこち古墳を見て歩いていますと時々不思議に思います。年代は確かなのでしょうか?
赤塚古墳は三角縁神獣鏡が出土することと、前方部が奈良県の箸墓古墳と同じ特徴である「撥型(ばちがた)」になっているとして、三世紀後半となったそうです。
この赤塚古墳が位置する川部高森古墳群には、他にも古墳が五基ほど残されています。免ヶ平古墳、角房古墳、車塚古墳、福勝寺古墳、鶴見古墳ですが、鶴見古墳は六世紀半ばとか。
三〇〇年に渡って同じような墳丘の古墳がつくられたと云うことですね。他の地域では墳丘は形が変わっていきますけど…
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川部遺跡南西地区方形周溝墓は一辺18mの墓で、中央には石棺がありました。中はベンガラが塗られ、水銀朱も見つかっています。副葬品は三種の神器とよばれる玉・鏡・剣でした。上の写真がそれです。
わたしは、副葬品を見ると福岡平野とのかかわりが大きいと思いますが。ヤマト王権との結びつきを強調とすると、歴史はゆがめられませんか?

では。また明日。



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# by tizudesiru | 2017-10-26 21:24 | 293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳 | Trackback | Comments(0)

彷徨う月ノ岡古墳の三角縁神獣鏡

三角縁二神二獣鏡三角縁神獣鏡に入らない
そんなことないでしょう!?
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(月ノ岡古墳の三角縁神獣鏡(上)と吉井町の若宮八幡宮)
最近でしたが、吉井町の若宮八幡を紹介しました。この広場に享保一揆と宝暦一揆の農民たちが集結したと云うことなどを。ここは、古来より人々の心の拠所だったと思うのです。

この神社を挟んで二つの古墳があります。月ノ岡古墳(西側)と日ノ岡古墳(東側)です。月ノ岡は竪穴式石室で長持形石棺があり、日ノ岡は横穴式石室で全面にに装飾があります。二つの古墳は150mほどしか離れていませんが、埋葬儀礼が異なる古墳なのです。月ノ岡古墳からは眉庇付冑などが出土し長持形石棺ということから、ヤマト王権がこの地に入り込んできた証拠だとされています。このことは、既に「そうではないだろう」ということを述べました。

今回は、副葬されていた鏡について書きたいのです。ここの三角縁神獣鏡ですが、前回紹介した「三角縁神獣鏡の出土地リスト」には、掲載されていません。仲間から外れているのです。


三角縁神獣鏡の出土地リストによると、次の古墳や遺跡が福岡県の出土地です

祇園山古墳、神蔵古墳、大願寺、原口古墳、御陵古墳、妙法寺2号墳、一貴山銚子塚古墳、大日古墳、老司古墳、藤崎遺跡6号方形周溝墓、藤崎遺跡第一地点、若八幡宮古墳、那珂八幡宮古墳、香住ヶ丘3町目古墳、天神森古墳、名島古墳、忠隈古墳、御坐1号墳、豊前石塚山古墳、沖ノ島(16号、17号、18号、御金蔵、遺跡)ほか伝来地2か所

ということで、月ノ岡古墳は入れてありません。なぜでしょう。鏡の縁は確かに三角ですが、直系が16.3cmと小さいからだと思います。

技術的には三角縁神獣鏡であり大きさが小さいということは、初期の三角縁神獣鏡だと云うことになりませんかね?
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吉井町教育委員会の「若宮古墳群(2005)」の写真をデジカメで撮ったのを紹介します。月ノ岡古墳は江戸時代から知られていました。
1805年に石室の発掘が行われ『月岡宮掘開記』『月岡所獲古器図』安元大炊祀官により記録が残されています。その後、1853年に矢野一貞が『筑後将士軍談』のなかで「若宮村古墳」「若宮月岡併古物図」と題して発掘の経緯や主要な出土物についての詳細なと説明を残しています。
その絵図を吉井町の発掘報告書から紹介します。

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スゴイ記録ですね。矢野一貞はこれらが腐ってしまう前に記録しなければならないと分かったのですね。写真は、眉庇付冑と鎧の破片、帯金具、脛当です。
では、吉井町の報告書の武具の写真を紹介します。デジカメで写しました。

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龍文透彫銙帯金具(上)は大阪府七観古墳の出土物に似ているそうです。七観古墳は、帯金具のみだけでなく、馬具類、革綴短甲、武器の大量副葬など、月岡古墳と共通するそうです。しかし、三角縁神獣鏡は七観古墳では出土していないようです。
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月ノ岡古墳の鏡は一面だけではありません。矢野一貞の記録には5面ですが、現在は4面が吉井町の博物館に展示されています。
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1号:同行式画像鏡(三角縁二神二獣鏡) 16.3cm *朱が付着している 
2号:獣形文鏡  11.9cm
3号:四乳渦文鏡 9.5cm
4号:珠文鏡  6.9cm

(5号は不明です)
2・3・4号は三角縁ではないし、前・後漢鏡のように縁は平たいですね。末永雅雄は「増補 日本上代の甲冑」(1981)で、4面をすべて仿製鏡としています。国産としても、モデルとなったのは弥生の漢鏡でしょうね。
この鏡は技術的にも高度だったのでしょうね。前回のブログで紹介したように三角縁神獣鏡の鈕孔は方形でした。しかし、1号鏡の鈕孔は丸いのです。
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鈕孔を見ると、たくさん出土した三角縁神獣鏡とは違いますよね。
では、この鏡はどんな位置付けになるのでしょう? 三角縁であって、三角縁とは呼ばれない、重要な古墳からの出土なのに「行き場」がないのです。

このまま「彷徨う三角縁神獣鏡」として、吉井町の博物館に鎮座するのでしょうか。
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月ノ岡古墳の三角縁神獣鏡は、和製鏡の大量生産の発祥地を教えてくれるかも知れませんね。

吉井町若宮にある月ノ岡古墳の竪穴式石室の蓋石は、石碑として、月讀神社(墳丘の上に在る)の社の敷石として使われています。
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石棺は社の中に御神体として祀られているのです。
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今回も隙間から覗きましたが、まったく見えませんでしたので、吉井町の報告書の写真を紹介します。あいにく雨だったので余計に暗かったのでしょう。
では、墳丘も紹介しましょう。前方部は草が刈られていましたが、雨で少々けぶって見えます。
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後円部もかすんでいます。木立の中に月讀神社があります。
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同行式画像鏡が何者なのか、その出自がはっきりする日が来ることを願っています。

同じ若宮地区には、日ノ岡古墳だけではなく、塚堂(つかんどう)古墳があります。ここは、副葬品・埴輪もあり出土遺物も面白いのですが、文化財指定を受けていません。古墳としての残存面積が少ないからだそうです。びっくりしました。
なかなか面白い古墳です。わたしは文化財指定を受けていないなら、町が独自で復元して、埴輪を並べ古墳公園にしたらいいと思いました。見ごたえがあると思いますよ。どうですか? 吉井町の方はいいものをお持ちですよ。
では、これにて。



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# by tizudesiru | 2017-10-24 00:56 | 292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳 | Trackback | Comments(0)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城に瓦があった
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
261隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵善寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、仏像を供養したのか

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