続・黒塚古墳の三角縁神獣鏡


黒塚古墳にいきました



黒塚古墳の三角縁神獣鏡の続き

黒塚古墳は三角縁神獣鏡が33面出土した古墳でした。33面は棺外に置かれていましたね。戦後には「卑弥呼の鏡」として話題を呼びましたが、大量に見つかってしまった上に棺外に置かれていたので、これら三角縁神獣鏡が中国からの下賜品とは考えにくくなり、今では「三角縁神獣鏡」に考古学者でもふれない人が多いということです。が、今でも三角縁神獣鏡の中でも出来のいいものは「舶載品」出来の悪いものは「国産品」と分けられて論じられてもいるのです。
最近、ちまたでは三角縁神獣鏡の代わりに、「画文帯神獣鏡こそ卑弥呼の鏡だ」と主張されているようです。
黒塚古墳でも画文帯神獣鏡は棺内にありました。
では、昨日の続きで33面の鏡の残りの写真を紹介しましょう。
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こんな33枚の三角縁神獣鏡が棺外に置かれていたのですね。そして、画文帯神獣鏡は,棺内に置かれていました。
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この画文帯神獣鏡は13.5cmと小さいのです。が、棺内に置かれていたと云うことは、大変意味のある鏡なのでしょう。
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三角縁神獣鏡の出土は、奈良も京都もダントツですね。それは、一つの古墳に出土する数が多いからですが、この地域の首長はどうしてたくさん副葬することを願ったのでしょうか。理由があるはずですよね。
①鏡を副葬することは弥生時代から九州の首長のステイタスだった。鏡や武器はステイタスシンボルとして憧れの威信財だった。その思想が畿内に伝播した。
➁鏡製造の技術を持った集団が、何らかの理由で東へ移動した。そこで、生業にしてきた鏡作りをして地域の有力者と取引をした。銅を手に入れる手順を熟知していた。
③鏡や威信財を手に入れた首長達は、近隣の首長より多く手に入れようとした。
④祖先の葬送のしきたりの鏡・刀・剣などの武器や武具を埋葬する習慣を強調するために、大量に副葬品として墓に入れた。
と、なるのでしょうか。

500面近くの鏡の材料(銅)は、どのようにして手に入れたのでしょうね。輸入するにしてもそうそうには大量の銅は手に入らないでしょうし、それは大量の鉄にしても同じでしょう。
古墳時代になって、近畿で鉄製産が爆発するにしても、その技術者が全くいなかった(鉄の出土のない)地域に「鉄生産が急に始まる」には、理由が必要でしょう。ミステリーではありません。歴史的な意味や理由があるはずです。
古墳や石棺に朱を塗る習慣も九州が発祥ではありませんか。
埴輪を赤く塗るのも、九州の弥生の祭祀品の丹塗土器の伝播ではありませんか。九州で朱やベンガラが使われなくなった後に、近畿で朱が使われるようになったと考古学の先生から聞きましたが、そうだろうなと思いました。
その時、近畿の銅鐸は、九州から持ち込んだ鏡を鋳つぶして造ったとも聞きました。

いろいろ聞いて思う事は、三角縁神獣鏡も最初は九州で生産されたのではありませんか、という簡単なことです。



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# by tizudesiru | 2017-10-19 20:00 | 291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は? | Trackback | Comments(0)

黒塚古墳の三角縁神獣鏡


黒塚古墳に行きました
三角縁神獣鏡を見ました

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資料館では黒塚古墳の竪穴式石室を再現していました。正面からも上からものぞくことができます。三角縁神獣鏡が棺外に並べられていたことがわかりますね。
ここは写真撮影はOKでしたよ。
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18号を写していないようです。
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33枚はやや多いので、次にまわします。
また、後で。




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# by tizudesiru | 2017-10-18 14:46 | 291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は? | Trackback | Comments(0)

黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は何処か

黒塚古墳に行きました

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春に行ったときは資料館が閉館していましたので、再度、夏に行きました。
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後世に城が造られているので、元々どんな古墳だったのか分からないのです。
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後円部の縁を廻って前方部から墳丘の上に登りました。
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墳丘の頂上は平らになっていて、石室のようすが陶板で紹介されていました。
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周囲を全部見渡せる位置に墳丘墓は作られていました。
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木が高くて十分に辺りが見えませんでした。辺りには大型古墳が揃っているのです。
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ここは三角縁神獣鏡が文様もはっきり残っています。資料館内には古墳石室が原寸大に復原されていました。大きな木棺あとでした。
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三角縁神獣鏡は棺外に置かれていたのです。鏡の力で棺を守ったのでしょう。
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黒塚古墳の時代は、まだまだ鏡の力が墓に必要だと考えられていたのですね。
それも一枚じゃ心細かった、できる限り手に入れようとした、のですね。
鏡の紹介は、次にまわします。

では、次回お会いします。



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# by tizudesiru | 2017-10-17 12:28 | 291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は? | Trackback | Comments(1)

人麻呂は弓削皇子の挽歌を詠まなかった!

人麻呂は弓削皇子の挽歌を詠まなかった!何ゆえ?
それは何故なのか、詠まなかったのか、詠めなかったのか、詠もうとしなかったのか?
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(香具山と藤原宮)

弓削皇子の挽歌を詠んだのは、置始東人(おきそめのあづまひと)でした。

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東人は「皇子はいつまでも生きていたいと願っていた」と詠みました。その通りだったのでしょう。弓削皇子は日頃から「我が命は長くはない」と話すことがあったようです。そんな不安を持って生きていたことが万葉集からも読み取れます。いつからそんな漠然とした不安を持つようになったのでしょう。
だいたんに想像するなら、軽皇子立太子の後ではないでしょうか。当時は二十歳ほどの若者でした。多少青臭い言動もあったでしょうが、賢い青年でした。その言動には藤原氏が鋭い視線を向けていたと思われます。
多感な青年は滅びた近江朝にも関心があったようです。天智天皇の葬儀に最後まで仕えた額田王に弓削皇子は親しく歌を贈っています。
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いにしへに恋ふる鳥かもゆづりはの御井の上より鳴き渡りゆく
吉野のゆづりはの繁る御井の上を鳴きながら飛び去って行ったあの鳥は、あの古を恋う鳥なのでしょうか。あんなに鳴いて飛んでいくから、わたしも古に思いをはせました。あなたは古を思う事はありますか。
弓削皇子は近江朝に最後まで仕えた額田王を信頼していたのです。あなたも昔(近江朝)が恋しいのではありませんか? と。
そのころの弓削皇子には、持統天皇の吉野行幸について行っても心に不安があったのです。額田王は若い皇子に歌を返しました。

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額田王は若い皇子に応えました。
まあ、殿下、古を恋うる鳥ですか、それは霍公鳥だったのではありませんか。その鳥はきっと昔を偲ぶように鳴いたのでしょうね、まるでわたくしの思いのような懐かしそうな鳴き方をして。


額田王は人生の辛苦をなめ尽くしていました。娘の夫(弘文天皇)は壬申の乱で殺され、娘は突然死(自死)し、孫(葛野王ら)を抱えて苦労したでしょうね。だからこそ、優しかったのかも知れません。

弓削皇子を取り巻く状況はどんどん変化していきました。軽皇子立太子の半年後、文武天皇の即位です。夫人となったのは、藤原宮子で不比等の娘でした。不比等は文武天皇の乳母だった犬養美千代を妻とします。文武天皇の周囲は藤原色に染まっていきました。

そして、弓削皇子の不安は現実となり、文武三年(699)薨去となりました。
この後ですが、不比等は美千代に女子を生ませ、その女子を文武天皇の皇子の夫人としていくのです。文武天皇の皇子の乳母はなんと犬養美千代でした!文武天皇と聖武天皇の双方の乳母は美千代だったのでした!)

持統天皇は自ら太上天皇となり、必死で文武天皇を支えていました。若い天皇が政治をするのは大変なことでしたから。文武天皇も必死で祖母に答えました。そして、大宝二年(702)持統天皇の崩御となったのです。

こんな状況では人麻呂は弓削皇子の挽歌を詠めなかったでしょうね。だけど、人麻呂が密かに挽歌を詠んだとすれば、万葉集のどこかに置かれているでしょうね。

(太上天皇亡き後(702年以降)、文武天皇も無理がこうじて倒れ長く臥せることになったのでしょう。
夫人の宮子も首皇子(701生)を生むと我が子を抱くこともできないほど精神的に追い詰められ、閉じこもって(閉じ込められて)いったのでした。)


人麻呂は世の移ろいを見ていたでしょう。持統天皇の遺勅を受けて、万葉集を完成させるために日を過ごしていたはずです。才能に恵まれながら若くして世を去った天武帝の男子を人麻呂は惜しんだのだと思います。
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万葉集編集者は弓削皇子の歌を多く残していますから、この若者の死を惜しんだに違いありません。編集者は誰ですか。
わたしは「初期万葉集を編纂させたのは持統天皇、実行したのは人麻呂だった」と思っています。その後いろいろあって万葉集は大伴氏から平城天皇に渡り、勅撰集のごとく編集されたと思っているのです。何度もしゃべりましたが。
なぜ、平城天皇は万葉集に興味を持ち、都を平城京に戻すように望みかつ実行したのか。それは、万葉集を読んで王朝の本当の姿が見えたから、桓武天皇が捨てた平城京こそ王朝のルーツであり意味があると理解したからと、わたしは思っているのです。

ところで、何故こんなに話が飛ぶのか
(古墳・神社・万葉集・近畿から大阪・熊本・福岡と話が飛ぶのは、何故なのか) 
是についての私の言い訳を書いて見ますと、わたしの中では全てつながっているのです。そんなこと当然のことですが、一つのことを書いていると関係ない事象が結びつくのです。そして、謎が解けていく…
例えば、万葉集の歌を和歌(倭歌)というなら、倭国の歌ではないか。倭国で生まれた歌なら、倭国は何処にあったのだ? 万葉集に倭国の地を探る手がかりがあるだろうか。万葉集の編纂者はどのような認識を持って編纂したのだろうか。となるのです。そして、倭国に徐々に近づいていくのです。まだ答は書いてはいませんが。
さらに、古墳ですが畿内の古墳は箸墓を基準に考えられています。明らかに三世紀の古墳ではありません。しかし、編年がぐちゃぐちゃで副葬品や墳丘の形が納得できるようになっていないのです。たとえば、有名なメスリ山古墳には鏡の副葬はありません。すると、鏡副葬の後の時代に造られた古墳となり、多くの副葬品はどこかからか運ばれたことになるでしょう。では、何処から?
一つ一つの事実は独立しているのではなく、必ずつながっています。
わたしは古代史のパーツを拾い集めています。ジグソーパズルのようにそれらはある結論を導き出すと信じて、ひたすらはめ込んでいるのです。


というわけで、次は黒塚古墳に飛びますね。
ミステリーは、人を引き付けてしまうものですね。


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# by tizudesiru | 2017-10-16 20:58 | 290柿本人麻呂は知っていた! | Trackback | Comments(0)

柿本人麻呂は舎人皇子に警告した!危機が迫っている!

柿本人麻呂は舎人皇子に警鐘の歌を献上

ご用心召され、皇子は狙われておいでです!
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天武帝にとって草壁皇子と大津皇子と、壬申の乱後に生まれた天武帝の皇子の中で天智帝の皇女を母に持つ男子が特別でした。
天武帝は近江朝の後宮の女性を外に出しませんでした。全部自分の後宮か家族の妃としたのでした。高貴な血をほかに伝えるのを避けたのです。次の火種となりますから。

それが、天武帝が天智帝の皇女を何人も妃にした理由なのです。大江皇女は長皇子(674?生)と弓削皇子を生み、新田部皇女は舎人皇子(676生)を生みました、壬申の乱後に。天智帝が弟との結びつきを深めるために娘を出したのではないのです。皇女が後宮に入れられたのは壬申の乱後で、天智帝は既に崩御していたのですから。皇女の運命を決めたのは天武帝、高貴な血統を守るために天武帝が判断したことです。
それは、孝徳朝から難波朝に移るときも、天智朝に移る時も実行されました。天武朝でも同じだったのです。


特別だった長皇子のことは、前回紹介しました。今日は舎人皇子のことを紹介します。
皇子、ご用心なさいませ!と人麻呂は詠む 
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天武帝に愛され朝政を聴くまで成長していた大津皇子(663~686)が謀反の罪で死を賜り、草壁皇子(662~689) が薨去した後、残された若い皇子の成長が待たれていました。人心は長皇子と舎人皇子に集まっていたでしょう。

ふさ手おり多武の山霧しげみかも細川の瀬に波の騒げる
この歌が詠まれたのはいつでしょう。多武の峰といえば藤原不比等と兄の定恵が父・鎌足の遺体を移し祀ったという寺のあった所です。藤原氏を象徴する山に霧が立ち込めている…霧や雲は霊魂や人の思いや下心の現れたものというのが古代人の認識でした。
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(別格官幣社 談山神社)


多武峰に厚く立ち込めた山霧だけではなく、細川の瀬も音が激しくなっていると、人麻呂は詠みます。山の上ではすでに嵐になっているのです。藤原氏が暗躍し不穏な空気が流れています。なぜでしょう?
もちろん、舎人皇子が人心を集めるほどに成長しているからです。だから、時間がないと軽皇子(草壁皇子の忘れ形見)を擁立しようとする藤原不比等が策を練っている、亡き父・鎌足の元で。だから、ご用心なさいませと、人麻呂は歌に託して危機を知らせたのです。

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おや?と、思いますよね。持統天皇の忠臣がなぜ長皇子を称えたり、舎人皇子に危機を知らせたりするのでしょうか。幼い軽皇子にとってはライバルではありませんか。
持統帝は軽皇子を後継者とするために即位したのではありませんでしたか?
そうなんです。これらの歌から読めるのは、持統天皇は長皇子に期待し舎人皇子も愛していたことになるのです。なぜ? それは、天智帝の血統の皇子だったからでしょう。
持統帝は常に天智帝につながる人を大事にしています。


冬こもり春部を恋ひて植し木の実のなる時を片待つ吾等ぞ
皇子の成長を待っていたのは人麻呂だけでなく、大勢いたようです。だからこそ、危険が迫った。その警鐘の歌を読んで、舎人皇子も歌を返します。

黒玉の夜霧はたちぬ衣手の高屋の上にたなびくまでに
人麻呂の意図は皇子にも伝わり、皇子もこたえました。真黒な夜霧がとうとう高屋(高貴な方がお住まい)の高殿の上にまでたなびいてしまった、わたしは心して日を過ごそう…これは、持統天皇も取り込まれたと舎人皇子が理解したということでしょうか。


人麻呂が二人の皇子に献じた歌を読む限り、持統天皇がはじめから軽皇子のみを後継者としていたとは思えないのです。女帝は天智帝の血統の子供たちを十分に愛していたと思うのです。


それにしても、「冬こもり春部を恋ひて」の歌、難波津の歌にイメージがにていませんか? 以前にも書きましたが、王朝の始まりを寿ぐ歌でしたね。人麻呂は同じような思いを舎人皇子に抱いていたのでしょうね。
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では、今日はここまで。




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# by tizudesiru | 2017-10-15 11:59 | 290柿本人麻呂は知っていた! | Trackback | Comments(0)

柿本人麻呂は長皇子を皇太子のごとく歌に詠んだ!何故?

人麻呂が称えた長皇子
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持統天皇の即位は、将来的に孫の軽皇子(文武天皇)に譲位するためだったと、史家は語ります。事実、歴史はそのように動きました。

万葉集も確かに歴史書の通りに読めますが、ところどころに「おや? なぜ?」と歴史の流れと反すると思う箇所があります。
天武朝の皇子に対する柿本朝臣人麻呂の歌もしかり、それは何か所もありますが、今日は人麻呂が長皇子に献じた歌を詠んでみましょう。
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やすみししわご吾大王高光る日の皇子
とたたえる言葉が続きます。まるで皇太子のようです。

更に、「あめゆく月を網に刺し、キヌガサにした」大王だと反歌に詠みました。長歌に重ねて、反歌でも「大王」と飾りたてたのでした。この御猟は天皇の儀式のように馬を並べて行われ、狩場の鹿も鶉もはいつくばって大王を敬ったと詠んだのですから、驚きます。
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「或本の反歌」として、
おほきみは神にしませば真木のたつ荒山中に海を成すかも
の歌が付けたされています。「おほきみは神にしませば」の修飾詞は「天武朝の皇子達と天武朝にしか使われていない」と、万葉学者の指摘です。
天武朝の皇族は「神である」という思想を強く打ち出したのです。だから祖先の時代を神代として正史に残したのでしょう。

皇子の高貴な血統
長皇子は天武天皇と大江皇女(天智天皇の娘)に生れた男子です。弟に弓削皇子がいて、母の弟・叔父は川嶋皇子(天智帝の男子)です。天智帝と天武帝の血統だから長皇子に人麻呂が歌を献じたのでしょう。もちろん、この歌が詠まれた時点では持統帝も認める皇子だったので、公の場で称えられたのです。ほとんど次の皇太子的存在だったのでしょうか。
大津・草壁皇子が没したあと、周囲の目は天智帝と天武帝の二人の血統の男子に向いていたと思います。
長皇子、弓削皇子、舎人皇子は特別な存在だったでしょう。


持統十一年(697)軽皇子立太子(14歳)
人麻呂の歌が献じられた皇子や皇女は特別な存在だったとなると、では何故、長皇子は皇太子にならず軽皇子(文武天皇)が立太子したのでしょう。

軽皇子は14歳でしたが、長皇子は8歳年上ですから凛々しい青年になっていたはずです。持統天皇が孫を愛していても、周囲の豪族や高官を納得させることは難しい状況だったかもしれません。

弓削皇子は「軽皇子の立太子」に異議を申し立てました。
それは、当時の状況を反映してのことでしょう。彼は「兄の長皇子がより皇太子にふさわしい」と思っていたかもしれません。しかし、弓削皇子の異議申し立ては葛野王(大友皇子の子)に一喝されました。


長皇子の立太子を望んでいた勢力は、権力が何処に動いたのか思い知らされたでしょうね。

この後、高貴な皇子たちがどうなるか想像できますね。
弓削皇子は三年後寂しく薨去し、長皇子は文武天皇崩御後に再度脚光を浴びるのですが……舎人皇子は自分の立場を理解し一歩下がり臣下のように振る舞うという……

その歌の紹介は、また。


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# by tizudesiru | 2017-10-15 01:10 | 290柿本人麻呂は知っていた! | Trackback | Comments(0)

聖徳太子の存在は証明できたのか?ヒストリア

NHK歴史ヒストリアは、聖徳太子の実在を証明したのか?
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(最近、教科書ではこの画像を聖徳太子と教えていません)
聖徳太子は実在しなかったという説もあります。
また、隋書のアメノタリシホコは奈良の聖徳太子ではないという説もあります。
だって、日出処天子は男性でその姓は阿毎(アメ)、あざなは多利思北弧(タリシホコ・タリシヒコ)。彼には妻がいて、その号は阿輩鶏弥(アハキミ)です。

天子と名乗る以上、それなりの財力・統制力・組織力・元号・税制など持たねばならないものが多々ありますが、隋書の天子は持っているのです。また、天子が男性であるか女性であるかも重要でしょう。隋書に書かれた天子は男性です。

「倭王は天を以って兄と為し、日を以て弟と為す。天いまだ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺(かふ)して坐す。日いずれば、すなわち理務をとどめ、わが弟にゆだねんと言う」とかかれています。


奈良の推古天皇は女帝で、夜のうちに仕事をし昼は弟に任せるなんてことは、一つもありません。全く違うシステムで政治をしているのです。


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更に、釈迦三尊の光背の銘文です。
光背の裏に銘文があり、字はタガネで彫ったのではなく、蝋書きし(蝋に字をほり土で固め)熱で蝋を溶かしたところに銅が流れ込むという技法で作られています。でも、その技法で時代を特定できるでしょうか。
以前から、後輩の銘文は後にはめ込まれたもので太子の時代の事ではないという説が有力で、研究者の間でも問題になっていました。

わたしは十数年前に「銘文は本物だ」という説を読んだことがあります。研究者の名も本も忘れましたが、その中で印象に残っている箇所があります。
銘文の真偽を十分に展開したあと、
光背にはめ込まれた銅板に銘文は彫られている。文章を彫り込んだ板を出来上がった光背に後世はめ込んだということは、十分に考えられることである。しかし、光背には鍍金(金メッキ)が施してある。それが何時為されたのか、それがはっきりすれば問題は解決する。
光背と銘文銅板の間の永年の汚れを取り除けば、光背に鍍金が成された時、銅板が既にはめ込まれていたのか、銅板の鍍金が後の時代のものか、光背完成時期か、明らかになるだろう。
国宝に手を入れるのではなく、光背と銅板の間の一部の付着物を取り除けば鍍金の時期を確定できるのではないか。それを実行してほしい」

という内容でした。わたしは感激したので、よく覚えています。図書館で借りた本なので探せば分かると思います。
問題はこの後です。この銘文の主人公は最高位についた人なのです。皇太子ではありません。日本書紀の聖徳太子ではなく、極位についた天子であり法皇となった人なのです。

是が本物なら、新しい歴史上の問題となるのです。

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尺寸王身であれば、法隆寺の夢殿の秘仏「救世観音」とよく似た体形だとか…
そして、叡福寺古墳(聖徳太子の廟)の棺の話でした。棺は漆塗の挟紵棺ということでした。その破片が石室内から出土しているのです。わたしはこの石室も挟紵棺(きょうちょかん)も、後の時代のものと思っていました。
NHKもその辺りを取材していました。野口王墓や牽牛子塚古墳(斉明天皇陵と考えられている)の漆塗り木棺・挟紵棺が取り上げられていました。つまり、後の時代になって、聖徳太子が取り上げられ、棺が作り直されたという説の紹介でした。

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しかし問題はそのあと、明日香のそれらは麻布に漆を重ねた棺ですが、叡福寺古墳のものは麻ではなく絹だったのです。それも漆を塗った棺は100Kgあったというのです。
絹の消費量を考えると、何処で調達したのでしょうね。飛鳥・奈良時代ですら絹の産地は筑紫です。万葉集にも「筑紫のわた(絹)」の歌があります。叡福寺の棺だけ特別調達したのでしょうか? 何ゆえに?
そのうえ、光背銘文と日本書紀が大きく食い違うのは何故でしょう。隋書とは食い違ってはいませんよね。


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それに棺が乗せられた棺台(石材)ですが、そこに格狭間(こざま)という仏具につく文様があるのです。
わたしはこの紋様を持つから、叡福寺の石室は新しいと思って、ある大学で質問をしました。答は、
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この格狭間(こざま)は、中国では早い段階に使われているから、後代の文様とは入ってきた経路が違うと、答えていただきました。
そうなんですか。
太子町では、叡福寺古墳の棺を早い段階における技術の導入だと、主張していたと思います。現に漆棺の破片が出ていて、聖徳太子伝承があるからです。その伝承がどのような経緯で出来上がったのか、問題にならないまま信仰と結びついて、真実が見えなくなったと、思うのですが。

多くの検討がないまま様々な主張がなされているので、NHKはよく検討して番組を作ってほしいと思いましたね。

日本書紀の聖徳太子のところは、後からの挿入と考えられる漢文的にもちぐはぐであると読んだことがあります。書紀の推古朝には多くの問題があるのです。
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髄は使者を倭国に送りましたから、使者である文林朗裴世清は倭国王に会いました。まさか、女帝が宮室に隠れて代わりに皇太子が使者に会ったなど、想像できますか?
そんなことできるわけがないでしょう。ですから
日出処の天子は書紀の聖徳太子ではない、と思います。

ヒストリアでは、阿武山古墳の藤原鎌足の挟紵棺の画像や、明日香の岩屋山古墳(聖徳太子の墓に似ている)の紹介もありました。
わたしもこのブログで、紹介しています。
カテゴリ 240「藤原鎌足の墓」
藤原鎌足の墓は何処か 
カテゴリ 280「聖徳太子伝承の嘘とまこと」
 ~聖徳太子の陵墓は三骨一廟、明治まで石室内を見られた聖徳太子陵墓、聖徳太子の墓と似ている飛鳥岩屋山古墳

良かったら、ブログを見ていただければ嬉しいです。

では、また。


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# by tizudesiru | 2017-10-14 01:09 | 289聖徳太子の実在は証明されたのか? | Trackback | Comments(0)

水神・河童・怨霊・虚実ないまぜの田主丸

虚実ないまぜ不思議だらけの田主丸
五柱神社にも行きました。銀杏が一面に落ちていましたが、拾う人はいませんでした。
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境内には様々な摂社がありました。人々の願いもそれだけ切実だったというのでしょう。
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一つの摂社に込めた願いを思うと切なくなります。享保一揆・宝暦一揆・大飢饉で1万人以上の餓死者を出すという歴史にうなります。
宮地嶽神社が多く勧請されたのは、水争いなどに勝利するためだったそうです。無理もありません、命がけの争いだったでしょうから。
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ここ筑後川流域には河童伝承もあります。久留米市の北野天満宮には河童の墓もあるのです。
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河童に化身したと言われる平清盛と二位尼の木造が、田主丸にはあるそうです。
他にも、怖ろし気な水神が祀られ、怨霊伝説もあります。下の写真は「川ん殿さま」です。ここは、伝承の宝庫ですね。
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帰りにちょっと不思議なところに寄りました。三明寺のバス停にある「用明天皇の墓・伝承地」です。まさか、まさかの展開ですね。
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ここが?!ですか。なんだか盛り上がった土地ではありますが。お堂がポツンと建ち、裏の石柱(?)に網が掛けられていました。
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これは一体なんでしょう。なぜ、用明天皇の墓などという伝承があるのでしょう。聖徳太子の正倉もあるとか聞いて、そんな!!と思いながら、分からないまま筑後川を渡り、帰途につきました。
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河を渡ると、こんなにも不思議な世界が広がるのですね。


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# by tizudesiru | 2017-10-12 21:43 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(0)

神鉾神社の祭神は八千矛神(大国主命)

神鉾神社の御祭神は八千矛神

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竹野の森山地区の神鉾神社も長い階段を上らねばなりません。南は耳納山地、北には筑紫平野を望みます。三郡山地と筑豊三山が見えます。ここ神鉾神社が、江戸時代の農民一揆で生葉と共に久留米藩に立ち向かった地区の守り神です。
(享保一揆については、前々回にブログで紹介しています。宝暦一揆については少ししか書いていませんが、キリシタン大名だった有馬氏の末裔の圧政は、今も語り継がれているのです。天草四郎の旗印を何百年も守り続けたあの有馬氏の圧政ですよ。藩が困窮したから、すべてが間違っていったのでしょうね)
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筑紫平野が一望できる神社に鎮まるのは、八千矛神です。
ここには、大国主命=八千矛神が祭られているのです。何故って、
もともと筑紫平野をおさめていた神が大国主だったからでしょうね。

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筑豊三山、左から古処山、屏山、馬見山です。杉木立の向うには、英彦山がみえるはずです。
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神社の屋根には門光紋が打ってあります。上の写真、瓦を変えた時、自慢の瓦を境内に飾ってありました。誇るべき神文なのでしょうね。
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拝殿の裏に祭殿があります。拝殿にはあの「義士衣錦」の額。
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掲げられている「義士衣錦」額には、農民の無念と希望と誇りを秘めているのでしょうね。八角形の飾りが天井に張り付けてありました。
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天上の八角形の意味は何でしょうね。ここは下宮です。
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上宮は山の中にあります。更に更に階段を上ります。
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無理だとおもって見上げるだけにしました。
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神鉾神社の「夜渡」の写真です、夜渡と書いて、「よど」と読みます。神社の夏祭りや秋祭りのことを田主丸ではそう呼びます。夜を通して楽しむという意味でしょうか。
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16枚の花弁の菊の中に目玉のような円が重なっていますが、これは、大国主を意味するマークなのだそうです。
こうして神社に集まって、昔の話もしたでしょう。あの宝暦一揆(1754年)の話も出たでしょう。竹野郡で極刑に処された11人のうち、墓が見つかっているのは、門ノ上村庄屋の忠助、亀山村の庄屋の伴造、騒動の発起人としてさらし首にされた野中村の久兵衛のわずか三名で、ほとんど墓もなく野に眠っているのです。処刑された人々は、村の指導者だったのです。村に残されたのは怒りや悲しみばかりでなく、喪失感、大きな損失だったのです。夜なら顔も見られず集まって泣いて語り合えたし、とがめられなかったでしょうね。
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宝暦一揆の法要が行われています。
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田主丸の人は先祖の深い思いが込められた大地に暮らしておられるのですね。忘れまいぞ、と。
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ぜひ、わたしも蝋燭を上げたいですね。
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こんどは、神鉾神社の上宮に参詣するつもりです。


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# by tizudesiru | 2017-10-11 01:13 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(0)

月岡古墳は大和政権側の古墳なのか

若宮八幡神社の若宮古墳群の不思議
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若宮八幡のある吉井町は水上交通で栄えた町でした。若宮八幡は此処に有ります。
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吉井町の若宮八幡は、久留米藩の享保一揆の寄り合いが持たれた場所でした。月ノ岡古墳と日ノ岡古墳は、ここにあります。
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では、月の岡古墳を見に行きましょう。本殿の正面左奥にそれは有ります。
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神社の裏に廻り、濠を渡ると、古墳の鳥居が見えてきます。
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80mの前方後円墳です。5世紀中ごろと書かれています。外側に三重の濠があったそうです。石室は竪穴ですから、九州ではほぼ4世紀の石室ですよね。
以前に見た報告書では、たしか4世紀の古墳と書かれていたように思うのですが、ファイルを探さなくてはなりませんね。

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金銅装眉庇付冑(こんどうそうまびさしつきかぶと)は、誰でも持てるものではありませんでした。さらに、ここで発掘された甲冑の分析をした研究者の報告では、甲冑の鋲留の技術を調査研究の結果「国産品」であるという見解でした。
甲冑など半島からの移入品だと教え込まれていた私には、「国産品」という言葉は新鮮でしたので、よく覚えています。
ここは重要な古墳です。しかも、石棺は長持ち型です。石棺と眉庇付冑から「ここは倭王権とつながりが深く、倭王権が入り込んだ証拠の古墳」だというのは、月ノ岡古墳の定説です。
何もかも「大和王権」と結びつけて考えられるのですね。しかし、ここは装飾古墳ではありません。150mほど離れた日ノ岡古墳は横穴式石室の中に装飾があります。
では、では、大和王権の後に「装飾古墳の文化が入り込み席巻した」というのでしょうか。耳納山地の北側には装飾古墳がどっと増えるのですから。定説では説明がつきませんね。
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では、日ノ岡古墳も見ましょうか。広い境内を横切りまして、若宮八幡神社の正面横の古墳に向かいます。
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日ノ岡古墳と神社の間には、道路が通っています。
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墳長は78mとあり、月ノ岡古墳とほぼ同規模です。同心円とわらび手文、三角文の文様が描かれています。この日ノ岡古墳が後の時代とつながるのは、ラインを引いて確認することができます。もう、何処に行っても紹介していますが、改めて載せましょう。
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日ノ岡古墳、寺徳古墳・下馬場古墳は装飾古墳です。その墳丘部をつなぐと、高良大社の社殿にラインが届きます。おもしろいことですね。
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三か所の装飾古墳が一本の線上に並ぶのは大変不思議ですよね。
江戸時代に若宮八幡が一揆衆の集合地になったと云うことは、古くから祖先の地として二つの古墳を守っていたからかもしれません。が、月の岡古墳と日ノ岡古墳には共通点はないのです。装飾古墳の勢力が入って来て、元の勢力を取り込んで(嫁にするとか、氏を継ぐとか)いったのでしょうかねえ。色々あったでしょうね。
では、また。


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# by tizudesiru | 2017-10-09 17:30 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(0)

あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない!?

前畑遺跡筑紫野市は残さない
という話を今日聞きました。えええええ、本当ですか!!
非常に残念です。高度成長の時代じゃないのに、開発でしょうか。
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ここには、縄文時代・弥生時代・古墳時代から中世・近世までの遺跡が集まっています。そうでしょう、筑前と筑後の物流・文化・人々の交差点ですから、筑紫野は。
文化庁も県も努力したと風の便りに聞きましたが、遺跡は残りません。写真の部分はほとんど壊されます。残されるのは、山手の土塁が顕著なところではないのです。主要な部分、見学会で紹介された場所は、ことごとく無くなります。残念の一言です。
今は、見学も許可されていないそうです。

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版築の後も鮮明です。遺跡を調査している段階から、「ここは他と違う」と仕事している人が言い出して、調査が大きく動いたそうです。誰が見ても他と違う様子だったのです。
なぜ、こんなところに大きな版築土塁が在るのでしょう。まだ、何も分かってはいないのです。

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ここが騒がれているように羅城の一部だとしたら、倭国の都は九州にあったということになるではありませんか。筑紫野市にとっても大きな観光資源だと思うのですが、素人のたわごとでしょうか。
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これからの日本の人口は減っていくのです。開発が大事なものを壊していくのは、みんな承知しています。承知の上で経済成長を支えて来たのでしょう、今まで。しかし、考えなくちゃならないのは是からのことでしょう。
何を無くしてはならないのか、何に目をつぶるのか、重要な選択を間違ってはならないと思います。
しっかり目を開けて、何が未来にとって必要なのか、残されるべきか考えないと…
失った後では間に合わないのです。一人の市民として、行く先の短いものとして、わたしは前畑遺跡の消滅は悲しいと思います。

今日、遺跡の運命を聞かされてショックだったので書きました。


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# by tizudesiru | 2017-10-08 21:16 | 288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない | Trackback | Comments(1)

耳納山・鯰・政変・一揆、田主丸の伝承いろいろ

耳納山の牛鬼伝承
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康平五年(1062)のある夜、ゴーンゴーンという鐘の音に然廓上人は目を覚まし「こんな夜中に誰が鐘をついているのだろう」と不思議に思いました。鐘つき堂には誰もいないのです。不思議な出来事は幾晩も続き、果ては婦女子が怪物に襲われるという怪異までもおこるようになり、「御仏の御霊光にかけても」と意を決した上人は正体を突き止めるべく木陰に実を潜め時の到るのを待っていました。
そこに現れた怪物は、顔は牛、体は鬼。しかし、上人はただ経文を読み続けました。すると、御仏の功徳によってか牛鬼も神通力を失い五体の自由さえ失いました。夜が明けるころ、駆け付けた村人たちにより怪物の首は都へ送られ、怪物の手は切り取られて寺に残されるこことなったのでした。耳は山に埋められて、その山を名付けて「耳納山」となった、という伝承が田主丸の紹介本に書かれていました。(写真は、その本をデジカメで撮ったものです)

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古墳で御こもり・塚神と八代龍王
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地徳の善院区の吉岡家の敷地内にある古墳には「塚神」として十一面観音が祀ってあります。この塚神の謂れは、次のようなものです。90年ほど前のこと、吉岡家の幼い長女が病弱で医者にかかっても効果が見られませんでした。ある日、トウニンサン(祷人)が訪れ、「塚の口を開けなさい。そして、十一面観音を祀りなさい」と勧められ、娘の快気を祈って教えに従ったそうです。
吉岡家のあたりはホノケ(字)といい、八龍ということだそうです。古墳の上には以前から「水の神」として八代龍王が祀られていたからでしょう。
この墳丘では年に一度「御こもり」が行われているそうです。この御こもりは一旦絶えたのだそうですが、村内で雷に打たれた人が亡くなることがあって、復活したのだそうです。


阿蘇神社の守り神鯰を食べない人々
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森山地区の人々は、鯰を阿蘇神社の使いと信じ、絶対に鯰を食べないという禁忌を守っていました。上の鯰の石像は、昭和十年(1935)に伊勢神宮に参詣した祈念に奉納されたものです。村人の支えによって代表が伊勢神宮に参拝した祈念なのです。タブーを守ることは、地区の人々の団結力も培ったのです。
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鯰は川魚として昔からよく食べられていましたが、それを禁忌として守ることは、阿蘇神社が中世の菊池市とのつながりができた頃に勧請されたとしても、長く人々の団結力を培ったのでしょう。
藩政に苦しみ一揆を起こした人々
その団結力は一揆にも反映されました。
享保十三年(1728)の一揆は、藩の税制改革が過酷であったので、当時、厳禁とされていた寄り合いを農民たちが各地で持ったのです。そして「大庄屋衆より聞き書覚」によれば、生葉郡若宮の森(現 吉井町若宮八幡境内)で二月二十七日から三月二日までの間に、最初は五~六〇人、次に八〇〇余人、さらに下郡からも参加して二〇〇〇余人の寄り合いを持ったのでした。
三月四日には、城下に押し掛ける覚悟で、菅笠・かうばし(はったいこ)の類を用意したのです。
この事態に、家老中達四名の連盟による税制改革案の撤廃書を出しましたが、信用ならぬと騒動は収まりませんでした。江戸には使者がたてられましたが、藩主からは「税制改革の方針どおりに進めよ」との申し渡しがありました。家老の有間右近も江戸に出府し藩主に一考を促しますが、「騒ぎ立て不届きの至り」と取り合いません。

八月上旬になって、上三郡の農民は「寄合極書」を申し合わせ、竹野郡・山本群からも嘆願書が提出されました。やがて、生葉郡竹野郡の農民の農民が動き出しました。大庄屋は制止しますが聞き入れられません。
八月二十日、農民は城下へ向かって進むことを相談して決めます。大庄屋は郡奉行所に農民の要求を報告しました。八月二十三日、農民はついに久留米市御井の切り通しまで進出したのです。

八月二十四日、家老の有間監物、同内記、同因幡、同右近ら、四人連名で「藩主の裁許無しには願い事は取り上げられぬ。ごくごく難儀の品々があれば藩主からの裁許なくとも詮議するので、そうそう居村に帰るがよい。この旨を相弁えないとすれば幾日滞留しても願いは受けぬ」と申し渡され、農民たちは各村々に引き上げたのでした。

 
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(吉井町の若宮八幡宮、広い境内があったのでしょう)
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久留米藩の税制改革は、正徳二年(1711)に始まり、享保を経て、延喬五年(1748)まで続きますが、藩の財政ひっ迫はどうにもなりませんでした。なかでも、享保十七年に大飢饉が西日本を襲った時には、年貢は平年の二割しか入らず藩は困窮し、領内では餓死者一万一一九〇人、死馬4000頭と伝わります。
更に悲惨だった宝暦一揆
享保一揆は、農民が年貢減免を要求した最初の一揆でした。ここで、彼らは団結する強さを学んだのです。同時に、為政者側は更なる弾圧と取り締まりの方法を考えたのです。ですから、宝暦一揆の場合は農民も強くなっていましたが、藩側も厳しくなっていました。
久留米藩の二大一揆は、生葉・竹野二郡を起点として起こっていますが、それは何故でしょう。この地域は江戸時代初期の「五人の庄屋」の物語が残っています。彼らは命を賭して大石堰を造り用水路を完成させ、地域のコメの生産力を上げたのです。(その後、水神として祭られています)しかし、その水路の恩恵で得た物を藩によりほとんど収奪されたのでした。生葉・竹野の農民の努力に藩は報いるどころか何もかも収奪したのです。


宝暦一揆は、藩権力に対する全領的な蜂起であったので、藩の権威維持と農民支配のために、事後処理は徹底されました。また、藩としても農民からの収奪の限界を知ることにもなったのでした。
一揆後、次々と関係者が捕らわれ始めました。6月末から7月にかけて三〇〇人にも及び、死罪三十七名、追放七十六名、過料四十七名、など厳しいものでした。
竹野郡は、庄屋が四名死罪、二名追放、村役人の重罪処分は他郡より多く、死罪三十七名のうち竹野郡の者は十一名と多いのです。(生葉郡は死罪五名)

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野中村久兵衛は、ただ一人さらし首となりました。

以上、田主丸町史の中身を少しだけ紹介しました。
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竹野の神鉾神社の拝殿の絵馬にあった「義士衣錦」の文字には歴史の重みがあるのですね。
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古代の磐井も耳納山地の西の御井で戦いました。中世の後醍醐天皇の皇子も耳納山地に陣を置きました。豊臣秀吉も耳納山地の西の端に陣を置きました。昔から耳納山地にはあまたの血と涙と汗が流れているのです。美しい山並には、様々な物語が隠れていますね。


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# by tizudesiru | 2017-10-08 01:45 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(0)

田主丸の阿蘇神社は橘の紋

なぜか、阿蘇神社に橘の紋
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久留米市田主丸町地徳(善院、ぜい)2808
田主丸の阿蘇神社は、大クスが知られています。祭殿の後ろに樟があります。
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拝殿には橘の紋がありました。よく見ると、あちこちに橘の紋がありました。
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阿蘇神社はほとんどタカノハ(並びタカノハ、ちがえタカノハ、三段のタカノハ、などなど)ですが、ここはタチバナです。不思議です。神額にもタチバナがありますね。これは何故でしょう。
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ご祭神は、建磐龍命(たていわたつ)、合祀している祭神は、国魂神、木花咲耶姫、神功皇后、勝頼大明神、浅間之神。なんとも様々な神様が合祀されていますねえ。
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一段高い所に祠が見えています。
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人の入れ替わりで様々な神様が入れ替わり、粗末にもできず摂社・末社になったと云うことでしょうか。その中で、タチバナの紋は残されたと。
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広い境内の南は耳納山地。北には筑紫平野が広がります。
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阿蘇神社ですから、やはりナマズが置かれているのでしょう。ここだけ、阿蘇神社らしいところですね。

タチバナの紋は、ここのご祭神がもともとは「建磐龍命」ではなかったと伝えているのでしょうね。


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# by tizudesiru | 2017-10-05 14:48 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(2)

ヒキガエルが守る姥ヶ城の天満神社

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ここには八幡宮
はない!
って、どういうこと?? 
不思議な天満宮だらけ

「南無八万大菩薩!」と弓をきりりと絞ったのは、平家物語の那須与一でしたね。武士は八幡神を信仰しました。八幡神は応神天皇で、武人の神なのでしょう。八幡神は神功皇后と一緒に祭られていますね。
案内してくださったM氏が言われました。
「不思議なことに、ここには八幡神社はありません。天満宮だらけです」
ふむ…むむ…では、八幡神を守護神とする武士の信仰が入って来なかったということですか?
それとも、神功皇后伝承が必要なかったということでしょうか? 
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「天」の字にすっかり慣れました。ここは、田主丸町地徳(姥ヶ城)の天満宮です。
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「鳥居杉」というのだそうです。境内への入口には杉の間に注連縄が張ってありました。神域を示したのでしょうね。鳥居を造るにはお金がかかるでしょうから。それとも、本来鳥居などなく、ご神域を示す「注連縄」があっただけでしょうか。
万葉集でも「標結はましを(しめ縄を張りましたのに)」とか「しめ野(標縄を張って区別した土地)」とか出てきます。大事な場所は、標縄を張って区別したのですね。
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あれ!天満宮に牛ではなく、カエルですか?
これは、ヒキガエルだそうです。
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狛犬の台座も梅ではなく牡丹(?)が彫られています。
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確かに天満神社ですね。
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神殿の南北の軒下には、青鬼・赤鬼が守りについていました。
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網戸の向うをのぞかせていただきました。
ご神体は菅原道真のはずですが、三柱の神様がおられるようです。ここも、ある時期に神様の入れ替えや合祀があったのでしょうか。
ふむふむ、ですね。ヒキガエルや三柱の御神体を参拝させていただきましたが、どうおもわれましたか?

ヒキガエルのお話、どこかにありましたね。


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# by tizudesiru | 2017-10-04 10:42 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(0)

八代龍王(豊玉彦)が祭られた円墳と石室

八代龍王は個人宅にひっそりと…八代龍王社


田主丸町善院(ぜい)の八代龍王社の御祭神は豊玉彦
ごめんください、お邪魔しますと路地を抜けると八代龍王社が古墳の上に鎮座されていました。もともと辺りには古墳が沢山あったのでしょうね。後世、人々の集落ができ始めると塚は生活上いらないものになったかも知れません。屋敷を広げたり、畑を広げたりと、塚は無くなって忘れられ、すっかり庭の石材となり、用水路の石材となったことでしょうね。

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耳納山地の北側山麓は古墳の宝庫です。龍王社の背後には筑紫平野、目前の南には山塊。あの白建石が見えるのです。
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では、この円墳の石室にお邪魔してみましょう。やはり個人のお宅にお邪魔することになります
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お庭の奥に石室の入り口が開いていました。昔はここで蚕を飼っていたそうです。石室の中は真っ赤に朱が塗られていたそうです。狭い前室の奥に広い玄室がありました。
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天井は高く朱が残っているように見えました。下の写真は石室の天井です。
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玄室の奥壁の前にセメントの台があって、大石が少ししか確認できません。
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小口の石を積み上げて石室を造っているのですね。
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玄室の入り口の袖石です。両袖でした。壊されずに残されてよかったですね。
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しかし、古墳は放置されれば樹木が石を緩めていくかも知れませんね。

田主丸はミステリーゾーンがおおいです!
では、また。


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# by tizudesiru | 2017-10-03 14:49 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(0)

井樋権現は天武大地震を証明する

森影に井樋(いび)神宮
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田主丸町大字地徳(ちとく)
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井樋宮の御祭神は、天穂日命・伊弉諾尊・伊弉冉尊です。そして、ここは下宮です。中宮は此処から横の道を上っていけますが、上宮には別の道を使って登らなくてはなりません。
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上宮=井樋権現は上の写真の中の三角形の山です。かすんでいますが、電線の上のほぼ中央に小さく見えています。ここが白建山(白建石)です。天武大地震(678年)で斜面が崩れ花崗岩の岩がむき出しになったという所です。
耳納山地の西でも、高良大社の神籠石の北側が断層崖になり列石が崩れて切れています。これも天武地震の影響とされ、「神籠石」が678年以前の土木工事だと証明されたのでした。
地徳の白建石は花崗岩ですから、遠くからでも白く光って見えたでしょう。下宮の井樋宮に白い白雲母花崗岩が並べてありましたから、白い雲母がキラキラする石は井樋権現の化身だったのでしょうね。
この巨大な白石は筑後川の対岸からも目立ったようで、天武朝に筑紫国が分割された時、上座郡(かみつあさくらぐん)と下座郡(しもつあさくらぐん)を分ける郡境の直線を引くために利用されたようです。
このお話は田中正日子先生からも聞いていたので、井樋神宮を紹介してくださったMさんから再び教えてもらってうれしかったです。先生は実際に見て感動したと言われました。わたしも是非とも白建石を見たいと思いました
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古代の郡境は、筑後川の北北東に延びたの少し濃いラインで、そのラインを南にのばすとⒷの白建石につながります。今でも白い道がまっすぐに通っているのです。川向うからは目印にしやすかったのですね。
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この白建石の山頂からは8世紀~10世紀の土器が表採されています。「東川」と書かれた墨書土器もあり、麓には東川という地名も残るそうですから、何処の人が祭祀を行っていたか分かろうというものですね。
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井樋神宮の上宮と下宮は南北に並びます。祭祀は上宮で始まったのでしょうが、山頂では祭を日常的に行うには難しいこともあったろうし、その後も、山崩れ(山潮・やましお)などの被害も重なり、上宮での祭祀をある程度下宮に下ろしたのでしょうね。
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井樋神宮の入り口のミズヒキソウの花の色は白でした。清々しい空気が漂っていましたね。
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そうそう、神社と神宮は違いますよね。神社は別のところから神様に来ていただいて祭り始めた所ですが、神宮はもともとその地に生まれた信仰が中心になっていて、その宮が原点だということでしょう。
ですから、井樋神宮はこの地の信仰のご祭神を祀る神社ということですね。

それは、地域の誇りともなっているのでしょうし、参詣する者にも大変興味のあることになります。
では、また。



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# by tizudesiru | 2017-10-03 01:07 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(0)

古代の祭祀場なのか、明見社は

古代の祭祀場 磐座と明見社
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明見社は小さな石祠でした。石祠の北には筑紫平野が広がり、明見社は北斗をここから眺めています。
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砥上山、宮地岳、大根地山、三郡山、宝満山、大城山という信仰の対象となった山々がここからは見えるのです。
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実は、この石祠の横は2mほど下がったくぼ地になっていて、清流が横を流れている十坪ほどの広場があり、磐座が祭られていました。
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この磐座は無残にも砂防ダムと橋がすぐそばに造られていて、いにしえの面影をわずかにとどめているだけですが、今も祭られ守られているようです。
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この磐座の横の橋を渡り、さらに杉林の中に入ると、井樋神社があるのです。
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実に深い森の中に井樋(いび)神社はあるのです。

それは、また明日。


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# by tizudesiru | 2017-10-01 21:06 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(0)

謡曲「竹生島」と田主丸にあった地獄神社?

地獄(じごく)神社?と読んでしまった神社
しかし、宮地嶽神社と読むとわかりました
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筑後川流域田主丸天満神社
福岡県久留米市田主丸町竹野にあります。耳納山地の北側には古墳が集中しますが、古い神社も集中しています。
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鳥居の額には天満宮と書かれているそうですが、読みにくいですね。
天満宮ですから、ご祭神は菅公(菅原道真)と木花咲耶姫です。不思議な組み合わせですね。
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清々しい神社でした。祭殿には確かに男神と女神が祭られていました。
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境内もきれいに清掃されていました。ほとんど山の中の神社ですし、人もいないのですが。
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この神社の境内にお堂が見えますが、横に鳥居が見えています。そこから階段を上れば宮地嶽神社があると聞いたので参詣しました。
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真新しい鳥居がありました。「宮地獄(みやじごく)神社」という額ですが、何も気が付かずに階段を上りました。宮地嶽(みやじだけ)神社と思って手を合わせました。
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階段を下りて気が付いた人がいたのです。地獄だと…
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鳥居の神額が、宮地獄(宮じごく)神社となっていたのです。
嶽を獄に書き間違えるなんて、まさか、ないでしょう。むかしから「獄」の字をつかっていたのか、本当は宮地嶽神社ではなかったので、「嶽」の字を故意に避けたのか。どうなのでしょうねえ。まさか、地獄とはねえ。
と書きましたが、これは、宮地だけ神社と読むのだそうです。
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もうひとつ、鳥居の横のお堂に西国三十三箇所の三十番目の御詠歌が掲げられていました。
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なんで、ここに滋賀県の竹生島の弁財天信仰に謡われる御詠歌が架けられているのでしょうか。このお堂に、市来島姫(市杵島姫)を祭っているという理由からでしょうかね。
市杵島姫はスサノウとアマテラスの誓約で生まれたことになっている三女神の一人として知られています。出雲大社にある筑紫宮に祭られる大国主命の妃でもあります。つまり、もともと九州の神なのですね。
その神が弁財天して信仰され、竹生島の都久夫須麻神社にも祭られています。都久夫須麻神社は、「三代実録」(879年)には「筑夫嶋神社」と書かれ、10世紀の「延喜式神名帳」では、「近江国浅井郡都久夫須麻神社」と書かれています。


要するに、都久夫須麻神社は筑紫島神社ということでしょうか?
神社によると、竹生島に「雄略天皇三年に浅井姫を祀る小祠が造られたこと」が祭祀の始まりだそうです。また、天智天皇が近江宮を造る時、宮中の守護神として祭られたとも。
聖武天皇の時、「琵琶湖に小島あり、そこは弁財天の聖地であるから寺院を建立せよ」と神託があったので、行基に宝厳寺を開基させたということです。
そうですか。やはり聖武天皇は天智天皇の守護神だった竹生島の神を祀り敬ったということでしょうか。

そうそう、謡曲「竹生島」(宝生流)のことも一事、書かなければなりませんでしたね。
あらすじは『延喜の聖代(醍醐天皇の御代)に仕える臣下が竹生島の参詣に出かけて琵琶湖畔に着くと、老人と若い女が乗った船があったので、同情させてもらう。湖上の春景色を眺めているうちに、舟は竹生島に着く。女が降りるのを見て、臣下はこの島は女人禁制であると聞いていると不審顔をするが、老人は島に祭られている弁財天は女体の神であり、それを知らない人が言ったことであろうと教え、島の由来を語った後、自分たちは実は人間ではないことを明し、女性は社檀の中に消え、老人は波間に姿を消す。(中入り)
臣下が待っていると、社檀が揺るぎ光輝く姿の女体の弁財天が姿を表して舞を舞う。やがて湖上の波が荒れたかと思うと龍神が現れ、光り輝く金銀珠玉を臣下に授けて、素性済度の誓いを表して水中の龍宮に飛んで消え失せる』という大変華やかな弁財天が登場するものです。

謡曲は近世に流行した演劇でしょうが、演目は平家滅亡とか大きな政変に関わる「亡霊」や神や仏が出てくる中身が多いように思います。竹生島も浅井(あざい)媛が首を斬られてできたという伝承の嶋ですから、弁財天の話も入りやすかったのでしょうね。

 

面白いことはまだまだありましたが、ここまでにします。


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# by tizudesiru | 2017-10-01 01:48 | 287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編 | Trackback | Comments(2)

穂波川流域に栄えた土師氏


狭い所に前方後円墳が集中桂川町
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古墳が集中するのは、穂波川と泉河内川の間です。川の氾濫原から一段高くなった丘陵の上に前方後円墳があるのです。
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右端に王塚古墳の墳丘が見えているはずですが、確認しにくいでしょうね。
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王塚古墳館の桂川町紹介(古墳)の画像を見てください。
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上の画像の古墳は、山が荒れていて見学不可能です。
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王塚古墳と天神山古墳は見学できます。
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この地域には7基の前方後円墳があるそうです。が、その経済を支えたのは何か、なんという氏族が政治経済を握っていたのか、わかっていません。
古墳時代の集落跡がほとんど見つかっていないのです。これだけの墳丘を続けて造るには、人手が必要ですし、技術も知識も必要です。よそから働きに来たとは考えられませんから、地域の住民がかかわったはずです。
僅かに古墳時代の遺跡が土師(はじ)地区で発掘されています。其の出土物は王塚古墳館に展示してあります。確かに須恵器の甕のようすから、古墳時代の遺跡ですね。
天神山古墳の八幡神社は土師地区から遷したということでしたから、古墳群を造ったという伝承が土師地区にはあったかも知れませんね。江戸時代までは。

更に古い伝承もあります。
『九〇一年(昌泰四年)正月、菅原道真は右大臣・従二位であったが、正月二十五日、大宰府に左遷された。この頃、土師郷に土師氏がいて、土師庄の領主であった。道真はもともと土師氏であったので、同じ土師氏であるからと、大宰府にいる道真と親交をむすんだ。九〇三年(延喜三年)二月二十五日に道真が大宰府で没したので、土師氏の人が道真をオオクニヌシノミコトを祀る神社に祭った。』という伝承が土師の老松神社神職の高森氏の家に残されているそうです。


土師地区の人は「同じ土師氏だから」とオオクニヌシをまつる老松神社に道真を祭ったのですね。なかなか面白い伝承です。
だって、大国主を祀る神社だったのでしょう!! 土師氏は大国主を祀っていたなんて?! です。
大国主命が大化改新までの倭国の神だったのではないかと、私は思っているのです。九州と日本海側と関東にその信仰は広がっていました。が、政変により大きな神社は祭神が変えられた、小さな神社は相手にされず見逃されたと思っているのです。人口の少ない集落に古い神々が残されていますものね。

時代が変わるたびに、鎌倉武士により神社の祭神の入れ替え、江戸時代の藩政による別の神社の勧請などで摂社・末社に主祭神が置き変えられるなど、いろいろあったということです。
桂川はなかなか面白い町ですよ。


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# by tizudesiru | 2017-09-25 15:48 | 286遠賀川流域・桂川町の古墳 | Trackback | Comments(0)

初めて見た突堤の溝・天神山古墳現地説明会

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(上の写真は桂川町の王塚古墳です。奥の森の中にも古墳群があります)
筑前王塚古墳近くに天神山古墳があり、その墳丘の見学会がありました。
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大きく削られていますが、そこに豆田八幡神社があります。この神社は江戸時代に土師地区から遷されたものだそうです。その時、削られたのでしょうか。
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国道200号の上に陸橋がかかっています。渡ると天神山古墳です。
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遠賀川の支流の穂波川と泉河内川の間には古墳が集中しています。後日紹介します。
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神社の裏に回ります。
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古墳の突堤の一部が見えます。
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トレンチを見ると、地山を削り出して古墳を造ったことが分かります。前方部の角もトレンチで確認されていました。
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白い棒の先が前方後円墳の前方部の端ということでした。
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上の写真が前方部です。では、後円部へ進みましょう。
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今回の見学会のメインは、この突堤の切れ目でした。突堤に通路のような溝が造られているのです。このような溝は他に例がないとのことです。これは、1940年の調査の時も確認されていて、再確認されたのです。
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上の測量図が1940年の調査で造られたものです。左上の突堤に切れ目があります。
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決して大きくはない渠で、周溝に降りる所に一段、突堤から外へ出る所に一段階段がありました。周辺の腐葉土などの堆積物から判断して、この溝は築造時からあったということです。
それは、どういうことでしょうか。築造時、この溝は必要だったのです。
何かを運ぶために開けられたのか、お祭りをする時の通り道として掘られたのか、理由はわからないそうです。
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後円部の墳丘の上は平らになっています。瓦が落ちていますから、一昔前に社が建てられていたのでしょう。それにしても、この古墳には遺物がないのです。須恵器が神社の辺りで表採されたのみで、埴輪も葺石もないそうです。石室らしきものも未だ確認されてなくて、墳丘部を電波で探査したけれど、それらしい反応はなかったとのことです。
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怪しい古墳ですか? そうなのです、とても不思議です。
6世紀後半の古墳なら円筒埴輪だけでなく形象埴輪は伴うはずです。近くの王塚古墳のように、横穴式石室があるはずです。周溝が盾形ではなく、くびれ部で内側に突堤がカーブしているのも変です。
本当に6世紀後半でしょうか。

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私は、突然思いつきました。この溝は、古墳が出来上がった暁にはふさがれる予定だったのではないか、ということです。つまり、ここは途中で築造がストップした古墳だと思うのです。なぜか? それは、何らかの政変が起こったということでしょう。墳丘を作り、石室のための穴を掘り、石を運び込む、という手順で行われていた土木工事、その工事が途中で止まったのではないか!! だから、石室もないし、埴輪もなければ葺石もない、人々の祭祀の跡もないので生活用の土器も出ない、としか考えられないのです。そんな状況で被葬者の木棺直葬があったかも知れませんね。想像ですが。

今日、丁寧なご説明をしてくださった先生、ありがとうございました。大変面白かったです。
石室の調査をぜひお願いしたいですね。天神山古墳の築造時期は何時頃でしょう。
興味の湧く見学会でした。



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# by tizudesiru | 2017-09-24 00:07 | 286遠賀川流域・桂川町の古墳 | Trackback | Comments(0)

香具山を詠んだ三人の天皇(2)

吾は山常の大王であるぞ

舒明天皇が香具山を詠んで主張したのは「香具山に降り立ったぞ。これからは私がヤマトの大王であるぞ」ということでした。
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万葉集の巻一の冒頭は雄略ですが、二番歌に舒明天皇の歌が置かれています。それは、明日香に入った初めての男王である舒明帝が、香具山で国見の儀式をして大王であることを宣言した歌であるからなのでしょう。
万葉集がどの大王を祖先とし、どの王朝の繁栄を願い、誰を慈しみ、誰を哀悼し、何を主張しようとしたのかという、万葉集の根幹にかかわることの、その一端が「舒明天皇の国見歌」からも読み取れるのです。


香具山を氏の守りの神山としたのは、舒明天皇です。舒明天皇は「山々が折り重なったようなヤマトの地に降り立ち、群山の中で鳥もよろけるような神山である香久山」を選びました。もちろん、周囲が開けた一等地の甘樫の丘は既に蘇我氏のものでしたから、そこに入り込むことはできなかったのです。
それでも、天香久山の周囲は開け畝傍も耳梨も見えて豊かな土地でした。

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舒明天皇はあんがい伊予国の人だったかも知れませんね。
案内板にもありました「伊予から天降った」という伊予の風土記と、萬葉集を合わせても読むとそういう結論も出てきますね。
巻一の六番歌の左脚に、「舒明天皇は讃岐に行幸されたことはない。ただ山上憶良の類聚歌林によると(日本書)紀には(舒明)天皇の十一年、己巳の朔の壬午に伊予の湯に行幸された」書かれています。
また、巻一の八番歌「熟田津に~」の歌の後に、「斉明天皇が熟田津の石湯の仮宮に行かれたとき、天皇は昔日の物がなおも残っているのを見て、たちまち感愛の情が起こり、哀傷のために歌をお読みになった」ことが書かれています。

34代舒明天皇は明日香の地に入った初めての男王でしたが、それを望んだのは蘇我氏でしょうか。
29代欽明帝の宮は桜井市で、30代敏達帝の宮も桜井市と河内長野です。明日香は田舎だったのでしょう。そこで馬子は飛鳥寺を作り華やかな仏教文化を取り入れました。しかし、用明帝の宮は桜井市、せっかく大王位に着けてやった崇峻帝も宮は桜井市倉橋でした。当時の物流を考えると、大和川を遡れる桜井市の方がずっと政治経済的には有用な土地だったのでしょう。明日香川はあまりに小さく水量も少なかったのです。
崇峻帝は愚かではなかったのですが、蘇我馬子は崇峻帝を暗殺してしまいます。


やっと明日香に迎えた舒明帝は、蘇我系の女帝・推古天皇の遺言のようなもので選ばれた天皇でした。どうしても明日香に「大王」宮を招致したいという推古帝の使命感だったのでしょう。明日香のために、蘇我氏の発展のために。
斑鳩の宮にいた山背大兄皇子は蘇我氏に除かれましたよね。
難波宮の孝徳帝の場合も、中大兄が背いた理由の中に、明日香から離れたことへの蘇我系氏の不満があったかも知れませんね。
経済を握ることが政治の目的だった、人民は関係ない、今も昔もかわらないのですね。

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以来、藤原宮に遷るまで、明日香がひとまず都でした。明日香から大津へ遷都するときの歌は、万葉集のどの歌も不安に満ち、寂しさに心おれそうです。つまり明日香を基盤に生れた王権が他へ遷ることは「本家」を捨てるように思えたのでしょう。
それでも、世は変わり都は遷っていきました。



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# by tizudesiru | 2017-09-22 11:15 | 285天香具山と所縁の三人の天皇 | Trackback | Comments(0)

天の香具山を詠んだ三人の天皇(1)

衣干したり天香具山

飛鳥の天香具山を訪ねましたが、草が多くてちょっと登れませんでした。でも、少し紹介しましょうね。


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案内板に従って天香具山に向かって少し歩きます。152mほどの山ですが、一人で上るのはやめました。山頂への登山口が見えています。
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ここからは西の畝傍山がよく見えます。
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大和三山の畝傍山と耳成山は死火山です。香具山は多武峰からの山稜が伸びてきてそれが独立したすそ野の一部です。
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登山口に天香具山神社と天岩戸神社の道路案内がありました。此処から二つの神社は離れています。
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平成17年にできた説明板がありました。
香具山を詠んだと万葉集に残るのは、三人の天皇です。持統天皇・舒明天皇・天智天皇です。

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舒明天皇の国見歌の石碑が建てられていました。歴代の天皇は大阪の百舌鳥古墳群や近津飛鳥(磯長)や桜井市や天理市に陵墓があります。
明日香に所縁のある天皇は欽明天皇以降ですね。
舒明天皇が明日香を手に入れて登った国見山が「香具山」だったというのです。
新しい王朝なのでしょうね、舒明朝は。

香具山のお話はつづきます。


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# by tizudesiru | 2017-09-21 15:12 | 285天香具山と所縁の三人の天皇 | Trackback | Comments(0)

檜隈寺跡は天皇の宮跡

キトラ古墳のすぐそばに檜隈寺跡
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中央の小高い丘にキトラ古墳があります。
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振り返るとくぼ地があり、坂道をのぼると森があります。中央の森が檜隈寺跡です。
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森の中に於美阿志(おみあし)神社があります。
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「檜隈は百済から渡来した阿智使主が居住したと伝えられ、於美阿志はその阿智使主を祭祀する。檜隈寺跡は」その神社の境内にあり、塔と金堂と推定される建物跡を残す。日本書紀、天武天皇朱鳥元年の条に桧隈寺の〇〇〇跡からは、7世紀末の瓦が出土する。〇〇〇ある十三重石塔は上層の一部を欠いているが、文化財に指定されている。」と、案内文にあります。
下の案内板には、大字桧前となっていて、地名は檜隈ではなく桧前(ひのくま)となっています。

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於美阿志神社の境内には、宣化天皇桧前廬入野宮址と書かれた石柱がありました。28代宣化天皇は、継体天皇の皇子です。
29代が同じ継体天皇の皇子の欽明天皇です。欽明天皇の陵は、明日香村大字平田にあり「檜隈坂合陵」と呼ばれています。

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更に奥に進むと石塔が見えてきます。
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石塔は於美阿志神社の社の隣の敷地に在ります。ここが塔跡のようです。
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於美阿志神社を挟んで北には講堂跡があります。近江の崇福寺・南滋賀廃寺、山城の高麗寺などで見られる瓦積基壇を持つ建物は、明日香では初めて見つかったものだと書かれています。
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基壇上には礎石が残っていました。
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於美阿志神社の神殿です。ここから北に30mほど歩くと、瓦を焼いた窯跡があります。
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古い瓦当文様もありますね。
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芝生の斜面が瓦窯跡で、すでに埋め戻されています。
奥の森は檜隈寺の講堂址ですから、古代には使用する瓦を寺院のすぐ近くで焼いたことが分かりますね。

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では、檜隈寺跡とお別れしましょう。
そうそう、わたしが何ゆえに檜隈(檜前)寺=宣化天皇宮址を取り上げたのか、大事なことを書いていませんでしたね。
わたしは日頃から飛鳥に関心を持っています。そこは「飛ぶ鳥=霊魂の国」だという意味の地名だと思うからです。しかし、其の思想は古代からの物ではありません。天香具山をトーテムとした氏族が生みだしたものです。
其の証拠に、書紀によれば、古代の歴代天皇の陵は、大阪府の百舌鳥古墳群や磯長(近つ飛鳥)や桜井市や天理市や橿原市にあるではありませんか。
その陵の事実関係はともかく、古代天皇の出身地は飛鳥ではないのです。
飛鳥に入るのは欽明天皇からで、それまでの天皇の宮跡もありません。飛鳥を宮とした宣化天皇が渡来系の氏族の寺跡と重なるのは、面白いと思ったからです。
縁もゆかりもない所に住んだりしないでしょう。何かしら関係があるのです。それは、瓦によっても分かりますからね。
では、また。


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# by tizudesiru | 2017-09-21 11:36 | 283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址 | Trackback | Comments(0)

呉音と漢音で「倭人伝」の役職名・人名を読む

初めて接した漢字の発音
倭国が初めて接した漢字の発音は、今日、呉音・対馬音とか呼ばれるものだったそうです。
万葉集は万葉仮名と呼ばれる漢字で書かれています。
やはり、多くは呉音の発音で読むようです。漢音と呼ばれる今日ではよく使われる発音は、八世紀になって唐と交流が始まって後に入って来た「発音」といわれます。
中国では本来漢字の読みは一つです。しかし、日本では漢字が取り入れられた時期が幾度もあるので、読みが幾通りもあるのです。
例えば「明治めいじ」や「明神みょうじん」などのように「明」をメイ(漢音)と読んだりミョウ(呉音)とよんだりします。呉音と漢音という入ってきた時期が違うので様々な音読みがあるのです。

一・二・三、壱・弐・参、イチ・ニ・サン、日本語そのもののようですが、これらは古代中国語の呉音の発音なのです。

過去の文献の個人名など呉音で読むか漢音で読むか気になります。

「倭人伝」も呉音で読まなくちゃいけませんよね。やってみましょうか。

赤(呉音)、色無し(漢音)、青(呉、漢、両方に共通)


倭(ワ・イ)国              *地方名(読み) ワコク・イコク

卑()狗(・コウ)           *対馬、壱岐(読み)ヒク=ひこ

卑 奴(ド・)母(ボ・)離()   *対馬、壱岐(読み)ヒヌモリ=ひなもり

爾(ジ・)支(シ)→イをつけて伎(キ・)*伊都国(読み)ニギ=にぎ・ねぎ

泄(エイ・セツ)謨(ボ・)觚(・ク) *伊都国(読み)エモコ

柄(ヘイ)渠(キョ・?)觚     *伊都国(読み)ヘゴコ

兕()馬(バ・)觚       *伊都国 (読み)ジメコ・シマコ

多()模(・ボ)       *不弥国(読み)タモ=たま

投(トウ・)馬         *投馬国(読み)ヅマ・=つま

彌(ビ・)彌          *投馬国(読み)ミミ

彌 彌 那(・ダ)利()   *投馬国(読み)ミミナリ

邪(ジャ・シャ・ヤ)馬 壹(イチ・イツ) *邪馬台国(読み)ジャマイチ・ジャメイチ      

伊()支 馬            *邪馬台国(読み)イキメ

彌 馬 升(ショウ)         *邪馬台国(読み)ミメショウ・ミマショウ

彌 馬 獲(クァク)支      *邪馬台国(読み)ミマワキ・ミメワキ 

奴 佳(カ・)鞮(テイ)      *邪馬台国(読み)ヌケテ 

勝手ながら呼んでみましたが、なかなか日本語らしくなりませんね。
中国の人が聞き取った日本語を漢字に変えているからでしょうね。

漢字が日本に入って来たとき、みんな苦労したでしょう。
どんな発音なのかが分かると、万葉集も古事記も文化的に何時の時代を反映するのか察しがつきますよね。
日本国になって、唐と交流するためには新しい漢字の発音が必要でした。急いで新しい読みを取り入れられたでしょうが、それまでに培った文化はなかなか消せるものではありませんから混乱したでしょう。
万葉集の時代には「雲・天・雨・日・月」など身近な言葉は既に訓読みが浸透していました。漢字を消化するには時間がかかったと思いますが、文字を手に入れることは大きな喜びだったことでしょうね。



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# by tizudesiru | 2017-09-18 16:23 | 282呉音で書かれた万葉集と古事記 | Trackback | Comments(0)

キトラ古墳の被葬者は舎人皇子

キトラ古墳の被葬者は
舎人皇子
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古代史ファンの注目を集めた壁画を持つキトラ古墳の被葬者はだれでしょう。私は舎人皇子と思うのです。キトラは天武帝の家族の領域に位置しています。
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天武持統陵は藤原宮(白いポイント)の真南にあります。文武陵は天武陵のほぼ南にありますが、真の文武陵は中尾山古墳とされています。
高松塚古墳Ⓑは耳成山の真南にあり、藤原宮と結ぶと間に中尾山古墳が入ります。耳成山の真南に中尾山と高松塚古墳があるのです。
皇族のトップになる高貴な人の陵墓は、適当には造営されていません。ちなみにⒶ は菖蒲池古墳です。
同じ氏や家族の墓は意味のある場所に造られ、ゆかりの人の墓や寺とラインが引けます。すると、キトラ古墳の主は、天武朝の皇子ではないかと思うのです。
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(中尾山古墳)
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(高松塚古墳)
キトラ古墳は見晴らしのいい丘陵に造られた壁画を持つ古墳で、壁画も高松塚古墳に似ています。
キトラの被葬者も天武帝の皇子でしょう。それも皇位継承権があった皇子だと思います。
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天武天皇の皇子はあまた居ますが…
草壁皇子亡き後、持統天皇が皇位を受け、10年後に軽皇子(文武天皇)に譲位しました。軽皇子(文武帝)の立太子に異議を申し立てた弓削皇子は、文武三年(699)に薨じました。彼は兄の長皇子の方が軽皇子(文武天皇)より皇位継承の地位が高いと主張したのではないでしょうか。

若い文武天皇の崩御が慶雲四年(707)です。
持統天皇も既に崩御(702)されていたし、大変な事態となりました。しかし、文武天皇の母である元明天皇が即位したのです。孫の首皇子(聖武天皇)に皇位をつなぐためでした。

和銅七年(714)首皇子が元服

和銅八年(715)氷高皇女即位
いよいよと思われたこの年、有力皇子(親王)が次々と亡くなりました。
6月(長皇子)、7月(穂積皇子)、8月(志貴皇子)、そして9月に即位したのが、氷高皇女(元正天皇)だったのです。
(父の文武天皇も15歳で即位したのに、首皇子即位はかないませんでした。聖武天皇が即位したのは、10年後の養老八年(724)です)

和銅八年、有力皇子は次々と死亡しています。
長生きして50歳を超えたのは、新田部皇子と舎人皇子でしょうか。ふたりは、天平七年(735)に没しました。
二人の違いは母の出自でした。
新田部皇子の母は鎌足の娘・五百重娘ですが、舎人皇子の母は天智天皇の娘・新田部皇女です。二人の身分は全く違っているのです。長皇子も弓削皇子も母は天智帝の皇女でした。もちろん高市皇子の母も天智帝の皇女です。皇位継承権は天智・天武の皇統にこそあったのでしょう。
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(キトラ古墳)
発掘された歯のようすから50~60の皇子となれば
キトラに眠るべき皇子は舎人皇子(舎人親王)以外にはいないのです。
万葉集からも舎人皇子が皇位継承の立場にあったことが窺えます。
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人麻呂は708年に没した柿本佐留だと考えていますから、人麻呂の歌は舎人皇子の若い時に献じたものだとなります。
舎人皇子、皇子が皇位継承の対象である限り、ゆめゆめ油断召さるな。
多武峰の霧はいつでも厚く立ち込めて皇子を狙っているのですから。


長生きした舎人親王は王者として、しかし、こじんまりとしたキトラ古墳に葬られたと思うのです。薨去の時舎人皇子に残されていたのは、優良な皇位継承者だったという名誉だけだったのでしょうか。
だからこそ、舎人皇子の息子・大炊王(淳仁天皇)は藤原仲麻呂(恵美押勝)に担がれるのです。そして、父の舎人皇子に「天皇」の追号を望むのですが果たされませんでした。

キトラ古墳に戻りますが、皇子でなければ、天体図の元には眠れないと思うのです。舎人皇子は高市皇子と同じく行政のトップ(知太政官事)にありました。721~735の十五年間もです。その間には「長屋王の変」がありました。事件に遭遇した時、舎人皇子はどんなことを考えたのでしょうね。

もしかしたら、舎人親王は常々「皇位継承の正当性を正そう」と息子に語っていたのかも知れませんね。
大炊王はそれを現実のものにしたかったと…考えられないこともありません。


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# by tizudesiru | 2017-09-17 00:26 | 281終末期古墳・キトラ | Trackback | Comments(1)

キトラ古墳の主は星空と四神と十二支神に囲まれた

キトラ古墳の被葬者は誰

キトラ古墳の被葬者として、歴史に名が残されている人を当てようとするのは、仕方がありませんね。何処の誰かが分かると、古墳の意味と時代の様相が格段に理解しやすくなりますからね。
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道の奥の斜面の木の間にキトラ古墳が見えています。

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キトラ古墳は見晴らしのいい丘陵の斜面にあります。すぐ隣にある集落は「阿倍山」といいます。
その地名があるからキトラの被葬者を「阿倍御主人(あべのみうし)」とする説があるのです。阿倍御主人は大宝元年(701)三月に右大臣に任命されています。

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(写真の集落は阿倍山です)(下の写真はNHK)
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さてさて、キトラ古墳の被葬者は誰なのでしょうね。出土した歯のようすから石槨に葬られたのは一人で、50~60歳の男性のようです。
そうなると、若くして亡くなった弓削皇子説などは消えますね。
40代の高市皇子説も消えるでしょう。
すると、阿部御主人説が有力になるのでしょうか。
しかし、小さい墳丘ながらもキトラ古墳の石槨の天上に天体図があります。
阿部御主人の墓なら、右大臣なのに北斗七星のもとに眠るのでしょうか。
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上の写真は、孝明天皇の即位の儀式で着用された礼服ですが、これに北斗七星の図が使われています。
北斗は、極位に登る方が礼服に使用されるべき星座というのでしょうね。
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(キトラ古墳の天上の天体図です)
三重の同心円は、内規・赤道・外規です。
内規は常に見えている星で、外規は季節ごとに見える星だそうです。赤道は太陽の通る道となります。
中心のずれた円は黄道で、月の通り道です。
この天文図は紀元前1世紀中ごろと推定されているそうです。


紀元前の星の位置を記録したという「石氏星経(せきしせいきょう)」とも整合したので、「中国からもたらされた星図をもとにして描かれた可能性が高い」とされています。
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中国ですか……古代の日本も月や太陽の観測はしていたはずですよね。神話にも「月読命」っておられますからね。神社の行事にも未だに月を観測する行為が残されていますからね。
それにしても古い天体図を描いたのですね。
キトラの絵師にも渡された下図があったはずですよね。それが是ですか。

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(体験館の図をお借りしました)
右大臣阿部御主人が被葬者とすると、右大臣の墓に天体図(体験館の写真を使わせていただきました)や十二支の人形図が書かれたのは何故でしょうか。
玄武に朱雀に青龍といった神聖な四神が墓に描かれたのですから、その社会的立場は相当に重要だったのではないでしょうか
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中国の山西省の金勝村7号墓の壁画にキトラ古墳の壁画が似ていると放送されていました。かなり前の放送だったので余り覚えていませんが、金勝村7号墳の被葬者は、どんな身分の人だったのでしょうか。
御存じの方がおられたら教えてください。

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そうそう、
高松塚古墳にも四神や星座が描かれていました。
何より高松塚は藤原宮大極殿の真南に位置していました。選ばれた墳丘墓でした。

では、
キトラ古墳は、どのような位置にあるのでしょう


つづく


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# by tizudesiru | 2017-09-14 15:40 | 281終末期古墳・キトラ | Trackback | Comments(0)

キトラ古墳の被葬者

聖徳太子の墓は終末期の古墳でした。
それも、明日香の岩屋山古墳に近い石室とされました。では、飛鳥の終末期古墳・キトラ古墳も見てみましょう。

終末期古墳・キトラの被葬者は?


紹介文には「キトラ古墳は高松塚に続き日本で二番目に発見された大陸風の壁画古墳です。」と書かれていました。

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発掘された時のキトラ古墳。四角い穴は鎌倉時代の盗掘の跡です。
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盗掘の穴から覗くと、四神・天体図・獣頭十二支像などの壁画が見つかりました。
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高松塚古墳に続く発見となり、中でも天体図は魅力的でTVにも取り上げられました。
壁画の保存に伴い辺りは大きな公園になりました。
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それにしても、被葬者は誰なのかが話題になりました。7世紀末~8世紀初めにかけての終末期古墳ですから、被葬者もかぎられるはずですし、天体図や玄武などの四神が描かれ、獣頭の十二支像が描かれるなど、高貴な人に限られのです。

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天武天皇の皇子である高市皇子、同じく天武天皇の皇子の弓削皇子、高官であった百済王昌成、古墳の周辺が阿倍山という地名であることから右大臣の阿部御主人など、いろいろな人物が挙げりました。
石室は狭いのですが、副葬品を見ると金や銀を使った豪華な木棺など有りますから、身分の高い人だったに違いありません。
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壁画を見ると、将に王者のものですね。しかし、古墳は小さい…
この小さな古墳に眠っていたのは何処の誰でしょう。高貴な方には違いないのですが。

つづく


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# by tizudesiru | 2017-09-13 09:36 | 281終末期古墳・キトラ | Trackback | Comments(0)

聖徳太子の墓と似ている飛鳥岩屋山古墳

聖徳太子の陵墓の石室は、飛鳥岩屋山古墳に似る

この夏、飛鳥の岩屋山古墳を訪ねてみました。
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明日香駅から線路を渡ります。
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古墳があるのは細い坂道の途中です。
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道なりに進むと、道標が見えます。
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線路を渡って、5分ほどで岩屋山古墳に着きます。
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みごとな切石の石室です。叡福寺の聖徳太子の墳墓の石室もこのようになっているのでしょうか。
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外観は削平されていて墳丘のかたちははっきりしません。
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小高い丘陵の途中なので辺りの景色がよく見えます。
この岩屋山古墳の主はどんな人だったのでしょう。
似ている石室だから、聖徳太子と同じ時代に活躍した人なのでしょうか。
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叡福寺の棺は漆塗でした。「藤原鎌足と阿武山古墳」の図によると、叡福寺は脱乾漆棺になっています。要するに布に漆を塗って固まったら、枠組を抜いていっそう軽くしたものです。
ということは、皇太子のために最高の技術を用いて棺を造ったのか、後世の人が棺を変えたか、または皇太子ではなく後世の人の墓だったのか、いずれでしょうね。

野口王墓(天武・持統陵)は切り石の石室でした
そこに、脱乾漆の天武帝の棺があります。脱乾漆は最高の技術だったのでしょうね。
図によると、終末期古墳の棺に漆がつかわれたようです。
叡福寺も漆塗りの棺ですから、高貴な人で最高の棺に葬られたということです。 
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聖徳太子は実在しなかったのか?と聞かれたことがあります。

どうでしょうか? 平安時代の一般の人は日本書紀など読みませんから、そう云うもので太子を知ったのではないでしょう。
しかし、太子信仰は平安時代に盛り上がり、所縁の寺や太子創建という伝承の寺があちこちに現れてもてはやされました。太子の誕生から逝去までの物語が広く世間に広がりました。信仰上の物語は太子の実像とずれるかも知れませんが、世の中が変わり始めた時に新しいものを取り入れていく人がいて、高貴な男性だったとしても、何の不思議もありません。

ただ、隋書の「日出る処の天子」は男性で、最高の身分だったはずですが、書紀によれば隋書に書かれたその時は女帝(推古天皇)になっています。皆さん十分にご存知です。

でも、なぜ? 

本当は、聖徳太子は皇太子ではなく天皇になっていた(この場合書紀と矛盾する、書紀は女帝)か、
または、「日出る処天子」は別の地域の天子だった(この場合よその地域の話を取り込んだことになる)か、
便宜上、聖徳太子が天子として国書を書いた(これだと、裴世清が倭国に来ているから嘘が露見したはず)か、


聖徳太子の話は、なかなか虚実ないまぜで、分かりにくいのです。

貴方はどう思いますか?


聖徳太子の実在と物語の接点にある叡福寺古墳の実態がはっきりしてくれば、これらの事のいくつかは解決されるかも知れませんね。

また、明日。


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# by tizudesiru | 2017-09-08 15:40 | 280聖徳太子の伝承の嘘とまこと | Trackback | Comments(1)

明治まで石室内を見られた聖徳太子の陵墓

上之太子叡福寺の聖徳太子御廟
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叡福寺に太子の御廟があります。
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明治の初めの頃までは、この御廟の石室内に入ることができたそうです。
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御陵内を実検せり。即ち隧道の口を開くれば、

大沢清臣の実検記

「…御陵内を実検せり。即ち隧道の口を開くればその高さ六尺四寸、広さ6億尺、長さ二丈四尺許にして奥に石室あり。高さ広さ各一丈、長さ一丈八尺許なり。

而してしの隧道の左右は大石四枚を以って築並べ蓋うに三石を以ってせり。また、石室は左右大石各五枚、奥は二枚を以って築上げ蓋うに亦大石二枚を以ってせり。

而してその最奥の正面及び左右に石三枚を据えたり。正面の一枚は高さ一尺六寸、長さ六尺六寸、幅二尺五寸許あり。

その平面の正中を手水鉢のごとく深さ六寸許に彫り左右漸く深くして八寸余りあり。左右の横方に水抜きのごとく孔をえぐりたり、その仔細詳らかならず。又、右に据えたる一個は正面の石より三尺五寸許離れて前方によせて西面にすえたり。高さ二尺二寸、長さ八尺、幅三尺六寸五分、左にある一個は西方によせて、右なるに相対して東西に居たり。高さ二尺二寸、長さ七尺一寸五分・幅三尺あり。この左右に相対する二個は上面平らなり。ただし、この三箇の石は皆切り石にて側面は礼盤の側面如く彫れり。

又、この石の辺りに箱の破砕したるごとき板の腐朽せるあり。掻き集むるに凡そ二斗許あり。日光に照らし見るに布張黒漆の箱の腐朽してこの如くなれるなり。

是、全く御棺の破砕せるもの与」

上の実検記を検討した梅原末治の「聖徳太子磯長の御廟」で、問題点を提示しています。

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梅原末治は石室の様子を図にしたのです。それが上の第2図です。棺台が三箇あり、いわゆる三骨一廟。
奥が太子の母・穴穂部間人皇后、前面向かって左に膳郎女、右に聖徳太子の棺で、穴穂部間人皇后は石棺、他の二人は夾紵棺で、仏具の装飾などに用いられた格狭間を刻した石製の棺台にのせられていたそうです。


以上の資料を信頼すると、石室の構造は大和飛鳥の岩屋山古墳と似た切り石石室に、格狭間を刻した棺台を有し、漆塗りの棺をおさめる点では、磯長の御廟より北西2kmの御嶺山古墳と類似、これらから太子墓内部のようすを類推することができます。
ただ、石室が岩屋山式の切り石造りの横穴式石室であることは確実と思われますが、内部の棺および棺台については問題もあり、三骨一廟についても鎌倉時代の「聖徳太子伝私記」には記録されていますが古事記・日本書紀・延喜式などは全く触れておらず、果たして本当に三骨一廟であるかなど、問題点も多くあります。
このような問題点があるにも関わらず、被葬者=聖徳太子の最も確実性の高い古墳で、類似古墳の年代決定の拠所となる重要な古墳であるといえます。

以上、「王陵の谷・磯長谷古墳群」(竹内街道歴史資料館)の資料と文章を書き写させていただきました。

面白く読ませていただきましたし、大変参考になりました。
太子信仰の盛り上がりは理解できたのですが、太子の御廟かどうかには疑問が残りました。

太子の御廟ではないとなると、これは大変なことですね。

驚きました…では済まなくなりますね。

この古墳が類似古墳の年代決定の拠所となるのでしたら、安易な妥協はいけませんよね。

これらの問題点については、また、次に。


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# by tizudesiru | 2017-09-07 17:04 | 280聖徳太子の伝承の嘘とまこと | Trackback | Comments(0)

聖徳太子の陵墓は、三骨一廟

聖徳太子が眠るのは叡福寺

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この夏、叡福寺を訪ねました。磯長山叡福寺は聖徳太子の御墓がある寺院です。
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「河内国 上之太子 磯長山叡福寺縁起」には次のようにかかれています。

叡福寺は聖徳太子の墓前に営まれた寺院で磯長山と号する。この寺は戦後単立寺院となったが、もとは古義真言宗金剛峯寺の末寺で、所在地であるかっての郡名や地名に因んで石川寺・磯長寺などと称されていた。

また、聖徳太子の磯長墓を祭祀守護する性格の寺院であるところから太子寺・御廟寺・聖霊院の号もあり、四天王寺・法隆寺と並んで太子信仰の中核をなした寺院である。

なお、一連の太子建立伝説を持つ八尾市大聖勝軍寺の「下の太子」羽曳野市野中寺の「中の太子」に対し、「上の太子」と俗称されしたしまれている。

寺院の創立は明らかではないが、寺伝によると推古天皇三十年(622)聖徳太子の陵墓を守護し永く追福を営むために一堂を構えたのが当時の始まりで、神亀元年(724)聖武天皇の勅願によって伽藍を造営されたといわれ、もとは法隆寺のように東西両院からなり、東の伽藍を転法輪寺、西の伽藍を叡福寺と称したと伝えられている

現在の伽藍は天正二年(1574)織田信長の兵火で焼失したあと相前後して再建されたもので広大な境内には金堂、聖霊殿、宝塔などの同塔が建ち並び由緒ある寺院としての風格を保っている。

また、境内北方の高所に営まれた磯長墓は、推古天皇二十九年(621)崩御の聖徳太子の生母穴穂部間人皇后、翌年二月大和斑鳩宮において、時を同じくして、亡くなられた聖徳太子、同妃膳部大郎子の三人が一か所に葬られているところから、三骨一廟とよばれ、この墓前には空海・親鸞・良忍・一遍・日蓮・證空の諸賢聖のほか、名僧知識の参籠が多く、現在も太子に会わんがために善男善女の参詣が絶えることがない。

当寺には重要文化財に指定された絹本着色文殊渡海図、高屋連枚人(ひらひと)墓誌の他、数多くの貴重な文化財を所蔵している。精霊殿(太子堂)は慶長八年(1603)豊臣秀頼が伊藤左馬頭(さまのかみ)則長を奉行として再建したもので、桃山時代の特長をよく示しており、宝塔は承応元年(1652)に建立されたもので、いずれも昭和五十二年一月重要文化財の指定を受けている。

棟札によって競歩十七年(1732)の再建が明確な金堂(附棟札)、肘木絵様と木鼻が聖霊殿とよく似ており十七世紀前半を下らない建築と考えられる鐘楼は、共に平成十三年二月二日に大阪府指定文化財となっている。

また明治初期に塔頭、石塔律院跡から客殿庭園内に移建された巨大な石造五輪塔は、源頼朝の供養塔と伝えられ、鎌倉末期の優作として、昭和五十二年三月大阪府有形文化財の指定を受けている。

 聖徳皇太子御廟所 磯長山叡福寺

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階段を登ります。
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「縁起」を読みましょう。先に全文を紹介しています。
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宝塔です。

横を通り過ぎて、まっすぐ廟に向かいます。

階段を上ると廟所です。

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此処に三人の棺があるのです。穴穂部間人皇后と膳部大郎女と聖徳太子。
「穴穂部間人皇后のために墓所を太子町太子の北側の丘陵斜面に決め、石室を築いた」との伝承があり、元々は母のために切り石の横穴式の墓を造っていたのです。

ふうん、すると推古天皇より古いタイプの陵墓となるはずですね。
叡福寺の寺伝では、「上宮太子を磯長陵に葬めまつる(書紀)」のあと、推古天皇の勅により、御廟を守るために叡福寺が建立されたとなっています。
しかし、古瓦や瓦器などは後世の物で、飛鳥から奈良時代のものは今のところ出土しておらず、7世紀前半に叡福寺が建立された証拠はないそうです。
更に
明治のはじめのころまでは廟内に入ることができたようです。明治12年に宮内庁から来て内部を記録した実検記が残されています。
それを読むと、聖徳太子の墓と決めてしまっていいのかなあと思います。もちろん、信仰上の廟所でもいいのですが、太子信仰とは切り離して考えると、この陵墓は新しいと思えるのです。


聖霊殿です。

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帰りの石段です。正面に何があるのかな?
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静かなたたずまいの町屋があります。
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聖徳太子信仰は今も根強いようです。
また、明日に続きます。



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# by tizudesiru | 2017-09-06 23:39 | 280聖徳太子の伝承の嘘とまこと | Trackback | Comments(0)


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謡曲「竹生島」と田主丸にあっ..
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穂波川流域に栄えた土師氏
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初めて見た突堤の溝・天神山古..
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初めての地図旅
地図のたのしみ
1大宰府の位置
2竹原古墳
3間夫という山
4筥崎八幡宮
5弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6平原王墓ラインから分かること
7八女丘陵の古墳のライン
8高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山
11羽白熊鷲と脊振山
12羽白熊鷲と古処山
13九千部山と香椎宮
14国守りの山は何処に?
15神籠石が教えてくれる古代
16六世紀の都
17神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20大倭とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36神籠石から分かること(1)
37神籠石から分かること(2)
38神籠石からわかること(3)
39神籠石から分かること(4)
40神籠石から分かること(5)
41神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43古代の宮殿は何処に?(1)
44江田船山と筑紫君磐井
45筥崎宮から見た太宰府天満宮
46高千穂の峰から阿蘇へ
47雲仙が守った首長は、何処
48神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50醍醐天皇の都の守り
51十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社
53空海の霊力
54出雲大社と熊野本宮大社
55大山古墳の謎
56天智天皇陵墓と天武天皇陵墓
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線
59続石上神宮の視線
60藤原京の守り
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮
63あおによし奈良の都は
64続・あおによし奈良の都は
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実とは
67石城山神籠石ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社
71尾張国の式内社
72紀伊国の式内社
73近江国の式内社
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳のライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社の不思議
92薦神社の不思議2
93金富神社と鉾立山
94 金富神社と鉾立山 2
95 金富神社と鉾立山3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
99北部九州のミステリー2
101宇佐神宮と九州の神々
278西原村の旧石器・縄文・弥生の資料
289人麻呂が見た王朝の皇子達
256平城京と平安京
219法起寺式伽藍
149有間皇子を愛した間人皇后
102安心院の二女神社
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264柿本人麻呂と持統天皇
265消された饒速日の王権
266大宰府・宝満・沖ノ島
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んんだ倭建命
273大型甕棺の時代
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラ
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
284明日香川原寺の万葉歌の謎
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂は知っていた!
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?

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たぶん、夾紵棺の技術、大..
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郭務宗が二千人の人々を率..
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間夫という山名は鉱山に関..
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いつも楽しく拝見させてい..
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