大国魂神社は大化改新後に総社になった

武蔵大国魂神社の創立は?
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創立は景行天皇四一年だそうで、

ご祭神は大国魂大神で、出雲の大国主神と御同神です。
不思議ですね。
この地域では元から出雲の神を祀っていたと云うことでしょうか。
では、武蔵国は出雲と深い
つながりのある地域となります。畿内の神々を飛び越えて出雲と結びついているのですから、本当に面白いですね。

それも、大化改新後に近畿の勢力の手が入ったと、当の神社が発信しておられるのですから、とても意味深です。祭祀の在り方に大きな変化があったのは、七世紀半ばだということになりますね。

「大國魂大神」とはいえ大国主神と同神であると長年主張し続け、王権側の国司もそれを認めて来たのですね。それにしても、大國主神は大巳貴神ともいい、天地創造の神ですね。

万葉集にも「おほなむち すくなひこなの神こそは 名付けそめけめ 名のみを名児山と…」という九州で詠んだ大伴坂上郎女の歌があります。
巻十八にも「おほなむち すくなびこなの 神代より言い継ぎけらく…」とありますし、
巻七には柿本人麻呂の歌集として「おほなむち すくなみかみの 作らしし 妹背の山を見らくしよしも」があります。
まさに大國主(おほなむち)は天地創造の神ですね。

少なくとも、万葉の時代には、おおなむち(大国主)すくなひこなの神が国土を造った神でした。九州でも、和歌山でも、関東でも、天地創造の神だったのです。
大國魂神社の意味するところは大きいのです。
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武蔵国造が代々奉仕していましたが、大化改新後に武蔵国府がこの地に置かれたので、以来国司が国造に代わって奉仕するようになったと云うことです。
大化改新後に? と云うことは、他の地域でも地域の古来からの神が集められて総社が作られることが、大化改新後にあったのでしょうか。

そもそも、総社が造られたのは何故なのか。大化改新が契機となったのか。
気になることがひとつ増えました。
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国司は赴任後一宮から次々に幣を捧げなければなりません。国司が管内神社の祭典を行う便宜上、武蔵国中の神社を一カ所に集めて祭ったので、大国魂神社が武蔵総社となったのです。集められた神社は六社です。
(西殿)
六ノ宮 杉山大神(神奈川県横浜市緑区西八朔二〇八)
五ノ宮 金佐奈大神(埼玉県児玉郡神川町七五〇)
四ノ宮 秩父大神(埼玉県秩父市番場町一_三)
(中殿)
御霊大神
大國魂大神
国内諸神

(東殿)
一ノ宮 小野大神(東京都多摩市一ノ宮一~一八~八)
二ノ宮 小河大神(東京都あきる野市二ノ宮二二五二)
三ノ宮 氷川神社(埼玉県さいたま市大宮区高鼻町一~四〇七)
かなり広い範囲から6社集めたのですね
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闇夜祭(くらやみまつり)5月5日の例大祭
夜間八基の神輿が古式の行列を整え、闇夜にお旅所へ渡御するので、俗に府中の「闇夜祭」といわれ大いににぎわいます。府中競馬もありますので、現在は御輿渡御は夕刻六時より行われているそうです。
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摂社として宮乃咩(みやのめ)神社があり、祭神は天鈿女命。例祭の夜、当神社に置いて「青袖の舞」を奏し、終えて本社に参向して同舞を奏し、翌朝「杉の舞」を奏します。創立は本社と同時代であると云われています。他に、摂社の坪宮(つぼのみや)があり、国造神社とも称します。
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末社に、松尾神社、大鷲(大トリ)神社、住吉神社などがあります。後の時代に勧請されたようです。八幡宮(国府八幡)は、聖武天皇の時代の創立だそうです。
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大國魂神社に集められた六社のうちの一宮・小野神社にも行ってみました。
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小野神社についてはよくわからない様です。大きな権力によりいつの時代も古来の信仰に改ざんの手が入ったのでしょうね。そうして本来の意味が分からなくなるのは、とても残念な気がしました。
それにしても、秩父大神も夜祭で有名ですね。
関東の暗闇に行われる祭りには、どんな意味があったのでしょうね。


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# by tizudesiru | 2017-06-27 10:33 | 大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる | Comments(0)

隅田八幡神社の国宝・人物画像鏡

国宝・人物画像鏡
を所蔵する隅田(すだ)八幡神社に
寄り道しました。 
赤い橋が架かるのは、隅田川です。鳥居の奥に神社があります。長い参道になっているのですね。

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有名な人物画像鏡についての説明板がありました。パンフレットは買いましたが、どこかへ行ってしまったので、この写真を読む以外に説明文は有りません。

人物画像鏡の説明板

国宝・人物画像鏡 (大正五年五月二四日国指定 昭和二六年六月九日国宝指定)

隅田八幡神社に伝わる青銅鏡。直系19.8cm、重さ1434g。背面には人物や騎馬像を現した画像文が描かれ、外区にはこの鏡の特徴である48文字からなる銘文が鋳出されている。この銘文の解釈については諸説あるが、おおむね次のように読むことができる。

癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取上同二百旱作此竟

銘文冒頭の癸未(みずのとひつじ)は十干十二支を組み合わせて年代を現したもので、六十年に一回巡る紀年法である。銘文中漢字の恩をかりて表記した固有名詞をどのように比定するかで年代が異なり、西暦383年、443年、503年のいずれかにあたるとされるのが一般的である。

銘文解釈の一例をあげると、「癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいましし時、斯麻が長寿を念じて開中費直穢人今州利二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る」と解釈することができる。ただし、文字の解読や銘文中の人物を誰に比定するか異論が多く、今のところ定説といえるものは出ていない。

考古学的には、この鏡は舶載の画像鏡を手本として製作されたものと考えられている。この原型とされる中国鏡と比べると、内区の画像は逆まわりに配され、乳による区画も不統一で、人物像も少なくなっている。図像の構図が左右逆転し、逆まわりに配されているのは、手本となる鏡をそのまま鋳型にひき写す仿製鏡によく見られる特色である。

原型とされる中国鏡は大阪府八尾市の郡川古墳等で出土しており、それらの古墳が西暦400年代後半から500年代前半とみられることから癸未年は、443年または503年と推定されている。

この鏡がいつ隅田八幡神社の所蔵するところとなったかは詳らかではない。江戸時代後期に編さんされた「紀伊続風土記」および「紀伊国名所図会」にはこの鏡に関する記述があり、相当以前から神宝とすて隅田八幡神社に伝えられていたことがうかがえる。いずれにしても、日本最古の金石文の一つとして貴重な資料である。  橋本市教育委員会・隅田八幡神社

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江戸時代から近隣の信仰を集めていたのですね。裏手にはたくさんの摂社がありました。

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境内には経塚もありました。隣にはお寺もありますから、長い間この辺りは寺と神社が地域を守り、また人々も頼りにして来たのでしょうね。

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# by tizudesiru | 2017-06-26 01:20 | 隅田八幡・人物画像鏡 | Comments(3)

太政大臣高市皇子を苦しめた皇女達

太政大臣高市皇子の苦悩 
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持統天皇と吉野行幸の不思議
やっと春が来て、その春も過ぎ夏が来たらしい。神祭りのしろたえの衣を干しているではないか。やっとわたしの時代、天の香具山の時代になったのだ』はつらつとした歌ですが、持統帝が実権を握るのは晩年でしたから、これは初老の婦人の歌です。これから自分の思いを貫くのだという決意の表れた歌なのですが。一体、いつ詠まれたのでしょうね。歌の意味と即位後の吉野行幸が結びつかないのです。

日本書紀の持統天皇の吉野行幸を見ると30回以上あり、即位しても仕事していたのかどうか疑いたくなります。即位は称制期間の三年を経ての持統四年1月ですが、吉野行幸がつづきます。行幸の月は、持統三年(1、8月)四年(2,5,8,10.12月)五年(1,4,7,10月)六年(5,7,10月)七年(3,5,7,8,11月)八年(1,4,9月)九年(2,3,6,8,12月)十年(2,4,6月)十一年(4月)ですから在位中の行幸の多さには驚きますね。これで、天皇としての仕事ができたでしょうか。持統天皇は即位していなかったか(太上天皇と称されているが)、すべてを高市皇子にゆだねていたのかなど疑う人もいますが、高市皇子が政権の中枢にいたとしか考えられません。
天皇が旅行している間は政治を留守司がやっていたことになりますが、その立場にあったのは高市皇子でしょう。持統四年(690)に高市皇子は太政大臣になっていますが、天武帝は天皇親政をしていた(議政官の任命はない)のですから、天武帝存命中から高市皇子が行政のトップだったのでしょう。

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高市皇子が造営した藤原宮
高市皇子が行政のトップとして政治を行っていたところへ「天武十二(683)大津皇子、朝政を聴く」状況が入ってきました。藤原宮が耳成山の南の地に造営されたのは、大津皇子の政治参画によって候補地が変えられたためだそうです。都地を選んだのは大津皇子だったというのです。と云うことは、大津皇子(686没)が大きな存在だったと云うことです。高市皇子はどう思ったでしょうね。
確か、新益京(藤原宮)は「周易」で造られたのでしたね。条坊の真ん中に宮殿があるという京で、平城宮のように北に宮殿が置かれた都とは造営の思想が違っています。
都の中央に宮殿があり耳成山の南の平地に広がる都が…広大な条坊を持った瓦葺の宮殿を持った「新益あらましき」の都が、なぜ捨てられたのか、不思議でなりません。藤原宮は15年で捨てられているのです。
万葉集には藤原宮の「藤原宮御井の歌」など寿ぐ歌がありますが…
遷都の理由は何か、答は少ないでしょう。高市皇子が造った京だから破棄された、藤原宮とは別の思想で造られた都が欲しかった、ここが呪われた京だと思われた、この都を支えた氏族が離反した、謀反者・大津皇子が望んだ都地だったから破棄した、などなど考えられますが。
(藤原宮の瓦も見事です。九州の観世音寺と同じ瓦当文様です。元明天皇の時代になっても60年ほど完成されなかった観世音寺と同じです。この瓦は、この後全国に広がる瓦当文様のモデルとなったようです)。

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ここで思うのは、持統天皇と高市皇子の確執です。ほとんどの権力を掌握していたであろう高市皇子が太政大臣に留まり、称制していた持統天皇が持統四年に即位するという展開は、次の天皇の出現を待っていたためでした。その事は、高市皇子を苦しめなかったのでしょうか。頼りの女帝は留守で、天智朝の皇子皇女が大勢いる中での政治ですから、困難がなかったとは思えません。

大津皇子を死に至らしめたのは、持統天皇の草壁皇子に対する愛の結果だと噂されています。が、天武朝の他の謀反事件を見ても「謀反の判断を下したのは議政官」でした。藤原広嗣の乱も橘諸兄が謀反と判断、長屋王事件も密告を受けて動いたのは藤原氏でした。天皇に直接密告することはできません。間に議政官がいるのです。

ですから、大津皇子を断罪したのは、持統天皇というより高市皇子だったと考えたが自然です。

天武朝の期待の星・大津皇子を断罪(686年)しなければならなかったのが高市皇子だったとすると、その心中はいかばかりだったのか。
そして、高市皇子を苦しめたのは、これだけではありませんでした。高市皇子は壬申の乱の後遺症も残る新政権のトップだったのですから。
妃の御名部皇女は天智帝の皇女ですし、壬申の乱後に妃に迎えた十市皇女(大友皇子の妃だった)は、天武帝が斎宮に向かった後に自殺しています。異母姉・十市皇女の死に高市皇子は苦しみました。その時の歌が、万葉集の挽歌に残されています。さらに、天武帝の皇女で鎌足の娘の氷上娘の生んだ但馬皇女は、高市皇子を裏切り穂積皇子に走りました。これらのことは既に書いていますが。

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その後、十市皇女は祟り神になったと思います。過酷な皇女の人生とその結末を考えると、人々は畏れたことでしょう。ひそかに祟り神を慰めたり鎮めたり、守護神として頼りにしたり、南都・鏡神社の辺りに天満宮信仰(菅原道真の祟りを鎮める)の原型として、比賣塚信仰が潜伏していたのだと思います。

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以前に紹介した新薬師寺の門前の「比賣神社」は、鏡神社の摂社でした。
この南都・鏡神社は、806年に唐津の鏡神社(藤原広嗣を祀る)からの勧請です。

806年は桓武天皇の崩御年で、平城天皇の即位年です。平安京の平安の為に南都の新薬師寺の守護神として、強い祟り神を選んだのです。祟りが強ければ強いほど霊力が強力だったし、守護神として頼りになったのです。

比賣塚
にもそういう祟り神としての伝承があったので、鏡神社の宮司様が十市皇女を改めて祭られたのだと思います。
わたしがこの比賣塚を十市皇女と結びつけたのは、比賣塚の横に「神像石」があったからです。弘文天皇(大友皇子)の在りし日を顕彰し、四代にわたる御姿石を長く祀ったと書かれていたからです。隣り合い身を寄せ合う塚と石がある、それは何を意味するのでしょう。比賣塚は十市皇女以外に考えられません。
それは、祟り神となった悲しみの王妃を偲ぶ縁となっていたのです。


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# by tizudesiru | 2017-06-24 00:05 | 259王権と高市皇子の苦悩 | Comments(0)

三輪山の周囲を根拠地とした氏族は?

三輪山の近くに、三世紀?ホケノ山古墳
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あの有名な三輪山の麓には大神神社

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大神神社の近くに箸中山墓古墳があり、何と卑弥呼の墓ではないかと巷では噂されています。では、三世紀に急に巨大古墳が出現したことになり、摩訶不思議な噂です。本気で言われているので驚きです。すると、突然この墓を造る人口増加と食料生産力が上昇したと云うことです。権力も財力も備わっていたということです。吉備系の特殊器台が墳丘墓の上から見つかっているそうですから、吉備との繋がりができていたのですね。特殊器台の型式から時期も特定されるはずですから…ここを三世紀の古墳としてしまうのには、すごい違和感があります。王権が奈良に芽生えた過程を、本当のところを教えてほしいと思います。
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箸墓から三輪山も見えます。
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甘南備のゆったりした三輪山の前にこんもりした森が見えますが、国津神社です。其の左奥に慶雲寺があります。慶雲寺に置かれた石棺は、阿蘇凝結凝灰岩で造られています。遠い九州から離れた土地に阿蘇石の石棺とは恐れ入りますね。誰がなぜわざわざ運んだのでしょうね。九州からの贈答品ですか? 石の材質は宇土石と呼ばれるもので、舟形石棺です。舟形石棺は、熊本の南の地域に多い石棺です。それにしても、自分に関係ない地方の石棺を使うなんて理解しにくいですね。ちなみに、ホケノ山古墳にも家形石棺が出土しています。それは、6世紀末になってホケノ山古墳を再利用した為とされ、本来のホケノ山古墳より後の時代の埋葬施設になるそうです。ホケノ山古墳は国津神社と慶雲寺の間にあります。
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地図で見ると、ホケ山古墳は大事な位置に在りますね。このホケ山古墳は箸墓より古いとされていますが、4世紀のはじめと考えられている土器を伴っていますし、副葬品も新しいようです。
慶雲寺の石棺はもともと何処にあったのか不明です。

(ホケノ山古墳)
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この古墳は帆立式の墳丘墓と呼ばれ、箸墓より古いタイプの古墳の形で築造は三世紀とされています
ここだけには画文帯神獣鏡だけでなく大量の鉄製品が出土しています。三世紀代とされる古墳で、鉄製品が大量に副葬されるのは、ホケ山古墳だけの特色だそうです… 最近は「画文帯神獣鏡」が卑弥呼の貰った鏡ではないかと、はたまた噂されています。発掘が進んだ結果、三角縁神獣鏡が大量に出過ぎたので、卑弥呼の鏡として画文帯神獣鏡説が新たに取りざたされ始めたのです。考えてみると、三角縁神獣鏡が古墳時代のステイタスシンボルであったのは間違いないでしょうね。みんなが欲しがったのですから。九州の弥生王たちが甕棺に副葬した銅鏡は、時を経て憧れのアイテムとなったのでしょうね。鉄の時代になってからの三角縁神獣鏡の流行なのですから。

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北部九州では「帆立式の前方後円墳」は、柄鏡形前方後円墳より新しくなります。副葬品からの判定です。方形周溝墓・円形周溝墓と時期も近く、山の尾根に地山を削り盛り土をして造られた前方後円墳が古いのです。平地に下りた古墳は前方部がバチ型に開きますし、その後「造り出し」部分が備わっていくようです。支配地の地域首長の功績を称える埴輪群や祭祀用具が置かれていきます。平地に下りた古墳の方が新しいのは、全国何処も共通すると思います。
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ホケノ山古墳の墳丘上から箸墓が見えます。中央の小山の森。
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もちろん、三輪山も見えます。
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かすんではいますが、耳成山も見えています。
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国津神社の森もすぐ近くに見えます。
さて、この土地を開き、三輪山の神祭りをし、ホケノ山墓を作り、箸墓を造った氏族は、どんな人たちだったのでしょう。ここには石塚古墳や纏向勝山古墳、纏向矢塚古墳、纏野内石塚古墳・東田大塚古墳・茅原大墓古墳など、そして景行天皇陵や崇神天皇陵と呼ばれる大型古墳も近いのです。大きな古墳を作るには大量の人手が必要ですから、辺りを掌握する権力と財力が必要です。大量の食糧生産と人口増加が必要なのです。それは開拓と人口流入の後でしょう。

奈良県天理市と桜井市には宇土半島の阿蘇溶結凝灰岩で造られた石棺が慶雲寺の他にも4基ほどあります。なぜ遠路はるばる石棺を運んだのでしょう。九州からの人間と文化の移入が在ったのでしょうね。

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# by tizudesiru | 2017-06-23 08:55 | 258ホケノ山古墳の周辺 | Comments(0)

蘇我氏の本貫・寺と瓦釜と氏神

飛鳥寺の近くの窯跡と神社
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蘇我氏の宗家の寺は、飛鳥寺でした。この寺は官寺の役目を果たしたようで、公的な行事を寺の傍で行いました。ですから、蘇我入鹿はの首塚が飛鳥寺の裏に有ります。大化改新の事件後には、中大兄は飛鳥寺に籠りました。それを甘樫の丘から蘇我蝦夷は見たでしょう。吾子の悲惨な最後はすぐに伝わったはずですね。古人大兄は震撼しました。「韓人が鞍作を殺した。吾心痛し」と、自分の屋敷の門を閉ざしました。
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飛鳥寺の門前に道を挟んで小高い丘がありますが、そこは窯跡だそうです。ここで飛鳥寺の瓦を焼いたのです。古代寺には瓦窯跡が伴います。すぐ近くで必要なものを調達したのです。もちろん鍛冶も材木加工も寺の近くでしていました。釘も一緒に造ったのです。すると、木材も近くで調達したのでしょうね。
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そして、学問のすべてを併せ持つ仏教文化を取り入れて、最新の事業を展開していたのです。
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そして、飛鳥寺の西裏には甘樫の丘が横たわります。そこは蘇我氏本家の邸宅がありました。甘樫とは、『天のように畏し』だったのかも知れません。文字は変えられていますが、「天氏」のアマだった可能性はあります。樫は「アナかしこ」の「カシ」で、畏れ多いという意味です。つまり蘇我氏は「まるで大王のようにふるまった」のではなく、大王そのものだったのかも知れません。だからこそ、滅ぼされたと考えたが自然でしょう。最近、小山田古墳も蘇我氏の墓だった説が有力ですね。
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この甘樫の丘や飛鳥寺の一帯は、当時の権力を握っていた蘇我氏の本貫でした。その中に中臣氏の関係の土地も含まれています。と云うことは、両氏族は近い関係に在ったと云うことでしょうか。飛鳥坐神社は甘樫丘と向かい合っていますから、蘇我氏と中臣氏は同じ神社を祭祀していたのでしょうか。元は同族だった? かも知れません。相手の弱点を十分に承知した上で、乙巳の変は実行された。だから、成功したのでしょう。
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飛鳥坐神社と甘樫丘は一本の道で結ばれています。
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この道をまっすぐ進むと甘樫丘です。左に曲がると飛鳥寺です。
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ここには主要道路が交叉しています。
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近くには板蓋宮もありました。
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古代の権力に必要なものがここには揃っているようです。氏の寺、氏の山、氏の祭祀、氏の館、氏の権力の象徴である宮殿、そして、氏が支配する職人集団です。政治経済と文化を掌握しなければ、権力を集中することはできません。蘇我氏が持たなかったものは、軍事力かも知れません。蝦夷は自殺しましたが、兵は動かしませんでした。軍事力…次の権力者は滅びた蘇我氏からあらゆることを学んだのです……

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# by tizudesiru | 2017-06-19 00:29 | 257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社 | Comments(0)

257平城天皇、侍臣に詔して万葉集を撰ばしむ

「昔、平城天子、侍臣に詔して『万葉集』を撰ばしむ」(古今集・真名序)
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平城天皇は万葉集を編集した

平城天皇(安殿親王)が万葉集を編纂したと古今集に書かれています。平城上皇の崩御は天長元年(824)ですから、824年までの間で万葉集に手が入れられたことになります。寛平五年(893)に菅原道真により『新撰万葉集(上巻)』が成り、万葉集は古歌で読めなくなってきたと「序」があります。平城天皇と道真は万葉集を理解し、読めるようにしたということです(道真が仕えたのは宇多天皇です)。
平城天皇は藤原氏の勢力争いも含んだ「薬子の変」を起こして、出家するという事態になってしまいました。おかげで皇子の安保親王は父に連座し14年間も九州大宰府に遣られました。父が在位の世であれば、皇太子として都に在り極位に登られていたかも知れません。それなのに九州への遠流のような状況となって、親王にとっては辛い日々だったでしょうか。
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福岡市の飯盛神社には安保親王の王子の在原清平の書状が残されています。『飯盛神社に伝えられていた諸行事を復活するように』と云う内容でした。飯盛山は古代の信仰の山ですから、そこには古代からの神祭りの行事が残されていたのです。しかし、伝統が廃れていたので復活するようにというのでした。安保親王にとって九州は不思議なところだったことでしょうから、そこで見聞きしたことに関心があったということですね。
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(不退寺)都に戻った安保親王は、平城宮の北に造営された平城天皇の陵墓の近くに隠棲されました。御子達は臣下に降下し「在原氏」となっていました。在原業平(弟)と在原清平(兄)の兄弟は親王と内親王の御子ですから「やんごとなき身分」の生れでしたが、臣籍降下の憂き目を見たのでした。在原業平は足しげく奈良の旧都の父の隠棲地に通いました。今、そこは不退寺となっています。
それにしても、自ら譲位した嵯峨天皇に挑んでまで、奈良の都への回帰を願った平城上皇の真意は何だったのでしょう。
それは、平城上皇が万葉集と他の資料からある事実に気が付いたからだと思うのです。「父の桓武天皇が言われたように、天皇位は天武帝の皇統から天智帝の皇統に戻ったのではない」と云うことです。もともと、持統天皇によって天智帝の皇統は守られていたと。だから、仏教の都である平城京を捨てるべきではない。むしろ見直して、奈良に戻るべきだと、主張されたのだと思います。
然し、嵯峨天皇は承知しなかった。呪詛でけがれた平城京に戻ることは断じて嫌だったのでしょう。藤原氏によって天武帝の皇統はことごとく悲惨な最後を遂げていたのですから。その怨念は平城京の周りに漂っていました。だから、国家守護の密教で空海の力を借りて平安京を守ろうとしたのだと、思います。

嵯峨天皇と平城天皇の争いは平安京と平城京の戦いでありましたが、平安京が勝利しました。そして、再び「万葉集は日陰の身」となりました。宇多天皇は藤原氏の力が一瞬陰った時にあらわれて、菅原道真に万葉集を預けたのでしょうか。
学識のある道真は歴史的視点で万葉集を見直したことでしょう。
彼が後期万葉集も手掛けていたら、どんな詩歌集が残されたことでしょうね、今日に。
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# by tizudesiru | 2017-06-16 17:42 | 256平城京と平安京 | Comments(0)

256高野山に生きる空海の結界

高野山・国家の鎮守
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弘法大師空海が生きたまま入滅した廟へ向かう道は清々しい空気に満ちています。
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御大師様のお力にすがる人々は間断なくここを訪れていますが、10年前に比べるとすれ違う人の半数以上が外国人でした。「世界遺産」は怖いもので、宿坊も変わりました。なぜか修行僧も半減した感じでした。それはともかく、弘法大師を慕ってなのか様々な人がここに廟や供養塔を設営しています。
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中でも驚いたのが、外国人観光客を案内しているガイドさんが紹介している供養塔でした。何だと思いますか? ガイドさんが「ここには日本人らしい供養塔があります。これは、白アリの供養塔です」と説明している声が聞こえたので驚いて振り返りました。万物に命があるのだし、「一寸の虫にも」と云うし、白蟻を処分することを生業とする業者の思いが詰まった供養塔なのですが、外国の人に紹介される「日本らしさ」なのかと、改めて思いました。
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さて、空海は平安時代の超天才の留学僧で、予定の留学期間を短縮して帰って来たので、なかなか都に入れなかったという人です。嵯峨天皇の前で不思議な霊力を見せたと言われますし、数限りないエピソードが日本中に在りますね。
空海は嵯峨天皇に東寺を与えられ(西寺は最澄)、都に結界を張り東寺で都を守りました。皇居が焼失して現在地に移ると、下鴨神社と東寺が皇居をまもりました。下鴨神社と東寺をラインで結ぶと皇居を通りますよ。
嵯峨天皇が空海に都の守りを託したのは何故でしょう。嵯峨天皇は桓武天皇の御子で、平成天皇の弟です。父の桓武天皇は極位が天智帝の皇統に戻ったことを「易姓革命」だと思っていましたから、天武帝の皇統の都・平城京のように滅びの道を辿ることのないように、風水で王都を守ろうとしました。それは平安京を造営した桓武天皇の強い願いだったのです。
しかし、長子の平城天皇は奈良の都に深く心を寄せました。平城京に戻るようにと、譲位した後も主張し続けました。そして、自ら平城京に住んで嵯峨天皇と対立したのです。しかし、「薬子の変」で先に兵を動かした嵯峨天皇に敗れたのでした。嵯峨天皇が平安京の守りに力を注いだのも、そういった経過があったからでしょうか。
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明治になるまで宮中で正月に年頭の厄払いをしていたのですが、明治以降は東寺で行っています。中世、この結界を破ろうとしたのが足利氏でした。天龍寺と金閣寺を造営して結界を破ろうとしたのです。徳川氏は二条城で東寺と賀茂雷神社のラインを切りました。空海が都に張った結界を武士は破ろうとしたのですね、ラインで見ると。
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古代では見えない霊力を畏れたのですね。


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# by tizudesiru | 2017-06-15 23:38 | 256平城京と平安京 | Comments(0)

255東大寺は聖武天皇の希望だった

東大寺の隣に興福寺がある
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興福寺の五重塔を見ると奈良公園に来たなあと思います。中学生だったころの修学旅行で感動したことを思い出します。この塔は見るたびに違った思いに誘います。家族で見た時は単なる観光地だったし、妹と見た時には藤原氏の権力が話題になったし、古代史研の人と来た時は素通りでした。正倉院展には通っても、五重塔は見なくなっていました。が、今改めて見ると異様な感じがします。それは光明皇后が建立した五重塔が、聖武天皇が建立した東金堂の隣にドーンとそびえているからです。まるで、東金堂を見下ろしているようにも見えるのです。東には塔と東金堂が並びますが。
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西には南円堂と西金堂。
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南に猿沢の池。興福寺は広いのです。東大寺の大仏殿は宝福寺の東隣なのですが、歩けば疲れますね。
東大寺の大仏の右足の下から2010年に国宝が見つかりました。聖武天皇の遺品の宝刀で、長い間行方知れずになっていた「陽剣と陰剣」です。(画像はNHKテレビ)明治時代に見つかっていたのですが、再調査でレントゲン写真を撮り文字が浮かび上がり、「国家珍宝帳」に記載された二振りの刀であると確認されました。大きなニュースになりましたね。
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わたしが気になっていたのは、なぜ東大寺正倉院に奉納されていた聖武天皇の一級の宝物が大仏の足元に置かれたのかと云うことです。大仏の体内ならばまだしも、右足の下とは。光明皇后が病気になり、その平癒を東大寺で祈願した時に納めたのではないかということですが、理由は謎のまま今日に至っています。
聖武天皇と光明皇后の微妙な行き違いがあったのではないかと思えてなりません。

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今年は国宝館が休館中だと云うことで、阿修羅像など(西金堂の仏)は特別展で展示されていました。「天平乾漆群像展」です。(西金堂は光明子の母、県犬養美千代の菩提を弔うために建てられました)この阿修羅像は脱活乾漆という技法で作られた像です。脱活乾漆は、布を漆で固めて形を作るのですが、最後に内側の骨組みや支えを抜いてしまうので大変軽いのです。興福寺では度重なる火災にもこの像を抱えて逃げられたから、今日に阿修羅などの八部衆が残ったと云うことでしょうか。この時代の仏像は様々な技法で作られていますね。薬師寺の金銅仏、新薬師寺は塑像(木の骨組みに藁を混ぜた粘土で形を作り、紙の繊維と雲母を混ぜた土で上塗りをしたもの)です。もちろん木に彫られた仏像もあります。その技術の多様さに驚きます。技術者たちは何処で学びどのように技術を伝えたのでしょう。
それらは平安京に伝わったのでしょうか。微妙です。

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# by tizudesiru | 2017-06-14 21:55 | 255 東大寺は興福寺と並ぶ | Comments(0)

255新薬師寺門前に淡海三船が勧請した神像石

新薬師寺の門前に天智朝を偲ぶ神像石由来書
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淡海真人三船(あふみのまひとみふね)は天智朝の末裔でした。天智天皇→大友皇子→葛野王→池辺王→三船王(淡海真人の姓を下賜)、天平勝宝三年(751)に淡海真人三船となりました。天平勝宝八年に「朝廷を誹謗した」として、人臣の礼を欠く罪により大伴古慈斐(こじひ)とともに禁固刑を受けています。なかなか肝の座った学者だったのですね。大学頭兼文章博士を長く務め、最後は刑部卿大学頭因幡守でした。無位無官から数々の独断行動をとりながらも出世したのですから、相当に賢い人だったのでしょう。続日本紀には「卒伝に性識聡敏、群書を渉覧し筆礼を好んだと録す」と書かれています。

この淡海三船が「四代にわたる御姿石を勧請し」ているそうです。すると、天智天皇・大友皇子・葛野王・池辺王の姿石でしょうか。彼の姓からして「淡海」ですから、淡海朝(近江朝)を十分に意識した苗字に違いありません。何処からどのように勧請して、どのような経過でここに置かれたのか全く分からないのですが、興味の湧く状況です。

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御姿石の隣に比売神社(旧比売塚)がありました。ここに鎮座されたのは、昭和五十六年五月九日と云うことです。神社は新しいことが分かりますが、比売塚は昔からあったと云うことでしょうか。比売塚にはもともと伝承があったということですね。しかし、十市皇女とは……十市皇女は天武帝と額田王の間に生まれた天武帝の長女でした。大友皇子の妃になり、葛野(かどの)王を生んだ人でした。隣の御姿石と所縁の深い人で、天武七年(678)に宮中で突然死(自死ではないかと思われる)し、天武帝を号泣させた皇女で、敵将の高市皇子の妃になっていました。皇女として生まれ、壬申の乱で夫を失い、敵将の妻になって自殺したという、まことに悲運の女性です。
鏡神社はなぜ、ここに十市皇女の社を造ったのでしょう。
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鏡神社によると、大同元年に「新薬師寺の鎮守」として勧請されたとありますから、桓武天皇が病に倒れられていた年(806)で、平城天皇が即位された年になります。改元されていますから、平城天皇の即位後なのでしょう。春日大社の本殿の部材を用いて鏡神社の社殿を作るとは、この神社と藤原氏との結びつきは深いのですね。
藤原氏所縁の寺の前に御姿石や十市皇女を祀る神社があり、藤原氏がそれらを大事にするのは、天武朝に仕えながら「内心は天智朝のために暗躍していた」と云うことです。そのことは繰り返し書きましたが、天武朝で暴利をむさぼりながら下心は「天智朝の忠臣である」を貫いた藤原氏だった……
藤三女と自らを称する光明皇后も、聖武天皇の皇后でありながら「天智天皇から下賜された藤原氏の三女である」と主張したと云うことです。万葉集にも藤皇后と書かれています。

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さてもさても、神武天皇とか天智天皇、天武天皇、継体天皇、持統天皇などの漢風諡号を奏上した淡海三船ですが、よくよく考えての諡(おくりな)だったはずですね。天智天武に意味があり、継体持統にも深い意味があると言われています。
三船は藤原氏の何を理解していたのでしょう。六十四歳で生涯を閉じた三船は何を思って生きたのでしょうね。興味の湧く新薬師寺界隈でした。
また、後で。




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# by tizudesiru | 2017-06-14 00:03 | 254新薬師寺・光明子の下心 | Comments(0)

光明皇后の愛と苦悩

新薬師寺は黙したまま光明皇后の苦悩を伝える
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新薬師寺は光明皇后が聖武天皇の病気平癒を祈願して建てた寺院だと云われます。十二神将像で有名です。平安時代末に成立した「東大寺要録」には末寺である新薬師寺について書かれていて、『天平十九年(747)に光明皇后が夫聖武天皇の病気平癒のため新薬師寺を建て、七仏薬師像を造った』とあるそうです。
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写真は新薬師寺のパンフレットです。中央の薬師座像を十二の神将が守っています。
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万葉集の巻八1658は、「藤皇后天皇に奉る御歌一首」です。
吾が背子と二人見ませば幾ばくかこのふる雪の嬉しくあらまし
愛しいわが背の君と二人でこの雪を見られたならば、寒く寂しい雪でさえどんなにか楽しく見ることができたでしょうに。
雪の日、聖武天皇は都におられなかったようです。都に残った皇后は寂しかったでしょう。阿倍内親王(718生)の後十年間も子供に恵まれず、かたや聖武天皇と犬養広刀自の間には安積親王・井上内親王・不破内親王と誕生したのに、光明子にはやっと授かった基王が立太子されながら一歳で死亡という不運に見舞われ、失意の日々を過ごしていたでしょう。長屋王の自刃(729)で臣下出身の皇后となっても、母県犬養美千代(733没)を亡くし、頼りにしていた兄たち藤原四兄弟を亡くし(737)、藤原広嗣の乱(740)では僧玄昉との仲を甥の広嗣に疑われ、この後聖武天皇は恭仁京・紫香楽宮・難波宮と住みかえながら平城京を離れました。
孤独と苦悩の日々、この時、光明子の手に有ったのは、権力と財力でした。
興福寺の五重塔は、一年足らず驚くべき速さで建立されました。
母美千代の菩提を弔うために「西金堂」を建立します。あの阿修羅を含む乾漆八部衆立像などが安置されたお堂です。

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新薬師寺と云い、五重塔と云い、西金堂と云い、莫大な富を持った人にしか造営できないものです。国家の富の6分の1を光明子が持っていたそうですが、そうなんですね…。
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本堂は本来のものではなく、広大な元の新薬師寺内のいずれかのお堂だったそうです。
新薬師寺の仏は素晴らしいまなざしで時代をみてきたのです。
守護神である宮毘羅(くびら)像に蝋燭を上げて祈り、家族の為にも祈った後は外に出ました。気になる物を見つけていたからです。以前にも幾度か来たのに気が付きませんでした。それは、南門のすぐそばに在りました。
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「神像石由来」に「弘文天皇の御曽孫淡海三船公は本邦最初の漢詩集「懐風藻」を編集せられ四面楚歌の中にありながら曽祖父なる弘文天皇(大友皇子)いませし日を顕彰せられ、孝養を讃え四代にわたる御姿石を勧請し永く斎き奉らん願うものなり」と書かれていました。この説明板は新薬師寺に隣接する「鏡神社宮司」様がお書きになったということです。これは、何時からの言い伝えでしょうね。
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この話は、また明日


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# by tizudesiru | 2017-06-13 00:08 | 254新薬師寺・光明子の下心 | Comments(0)

橘諸兄左大臣の願い

玉津岡神社の御祭神は女神(下照比売)
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下照比売命(欽明天皇元年八月玉津岡の南に降臨され、聖武天皇天平三年九月井隄左大臣橘諸兄公が現在の地に遷座し今日に及ぶ。歌道女徳を養い家内の和合を守らせ給ふ御神なり)
摂社の祭神は次の通りです。 天兒屋根命(元 春日社)、少彦名命(元 田中社)、素盞鳴男命(元 八坂社)、味粗高彦根命(元 天神社)、明治十一年に四社をその時の八王子社殿(玉岡の社)に合祀し、翌年玉津岡神社と改称したと説明板がありました。
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本殿の千木は男性の神様の千木のようですね。ま、祭神の入れ替わりなどが在ったかも知れないから何とも言えませんね。明治になっても此処は残されたということはわかりました。
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参道の先には井出の玉川が見えています。いにしえの人はこの坂道を上って来たのでしょうね。諸兄は恭仁京を近くに建設しようとしました。
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(画像はNHKのテレビ)
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吉備真備が孝謙天皇を支え、橘左大臣が聖武天皇を支えました。藤原広嗣の乱後、聖武天皇は平城京に5年間戻りませんでした。左大臣として諸兄は天皇に仕え続けたのです。光明子はひとり平城宮に留まることもありました。夫婦にも大きな危機でもあったのですね。


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# by tizudesiru | 2017-06-11 21:29 | 253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ | Comments(0)

橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ

橘諸兄左大臣、黄泉国に遊ぶ
井出の玉川は歌枕の地として有名ですが、橘諸兄左大臣の邸宅もありました。左大臣はこの地に山吹の花を植えました。なぜだと思いますか? 山吹は黄色で、あの世を意味するのです、黄泉を。
高市皇子の「十市皇女が薨去した時の歌」がありましたね。
158 やまぶきの立ちよそいたる山清水 汲みに行かめど道の知らなく (山吹が咲き乱れているという黄泉の国の山清水を酌んで貴女に差し上げたいのだけど、そこへ行く道が分からない)
山吹が「黄泉の国」を意味していると、当時の教養人は誰もが知っていました。
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(井出の玉川)
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この地に屋敷を構えた橘諸兄は、聖武天皇の皇后・光明子の実兄でした。県犬養美千代が美努王との間に産んだ子どもです。県犬養三代は藤原不比等との間に光明子を生みました。聖武天皇の乳母でもあった美千代は、光明子と共に首皇子(聖武天皇)にも授乳したのです。首(おびと)皇子の母の藤原宮子は、心の病になっていましたから、吾子を抱くこともできませんでした。首皇子にとって県犬養美千代は本当に母替わりだったのです。
そんな美千代の子どもが葛城王(橘諸兄)と佐為王でしたから、藤原四兄弟が流行り病で没した後は自然に諸兄が権力の座に登りました。諸兄は、参議、大納言、右大臣、左大臣と出世していきました。参議の時、『橘』姓を承けています。孤独な聖武天皇は諸兄を信頼し、諸兄も聖武帝を守りました。
聖武帝に後継者問題が出てきたとき、諸兄は阿倍内親王(孝謙天皇)ではなく、長屋王の残された子ども「黄文王」がふさわしいと考えたようです。阿倍内親王に独身を強要するより、天武朝の弥栄の為に高市皇子の系統の黄文王がふさわしいと考えたのでしょう。黄文王は藤原不比等の娘が生んだ子供だったので、藤原氏にとっても、そう悪くない話だと思ったのでしょうが…
結果として、阿倍内親王が立太子されました。宴席での諸兄の愚痴が告げ口されますが、聖武天皇は笑って相手にされません。しかし、それを知った諸兄は己を恥じて左大臣を辞職しました。

井出の地で山吹を植え続けて、諸兄は黄泉の国を作りました。こんな父を見ていた息子の橘奈良麻呂です。彼が父の死後、謀反するなど考えられないことです。不満はあったでしょうが、父の姿を見ていたはずですから、孝謙天皇を守ろうとはしたでしょう…
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藤原広嗣の乱(740)の時、動揺した聖武天皇を諸兄は支えました。井手の玉川を取り込んだ恭仁京の建設もその一つだったのでしょう。頼りにしていた元正天皇崩御(748)の後も、しかし、諸兄は左大臣を辞任(756)しました。翌年(757)一月橘諸兄薨去。その七月、奈良麻呂謀反という思いもよらぬ展開になるのです
井出の玉川、ここが黄泉の国に遊んだ橘諸兄左大臣の住んだところだったからこそ、たくさんの文人、西行や芭蕉などを引き付けたのでしょう。彼らも黄泉の国を見たでしょう。今は、桜の名所ですが。
井出の玉川、清々しさと哀しさと、そんな思いが交錯するところです。


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では、橘諸兄が信仰した玉津岡神社に出かけてみましょうか。



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# by tizudesiru | 2017-06-10 21:30 | 253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ | Comments(0)

瓦に込めた聖武天皇の思い

瓦に込めた聖武天皇の思い紀伊国分寺の瓦
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紀伊国分寺にはどんな瓦がふかれていたのでしょう。資料館に発掘された瓦を重ねて一部を復元(❓)していました。こんなに完璧な形で割れなかったものが沢山出土したのですね。大量に瓦が出土したということは、途中で他所に移動されなかったということです。更に、ここの瓦には、聖武帝の願いが込められているのですね。この地にあった法隆寺式(東西に塔と金堂が並ぶ)の寺院ではなく南北に伽藍を配置して国分寺を造ったのですから。さて、聖武帝の願いとは何だったのでしょう。母の藤原宮子とは生まれ落ちて36年間も会えず、信頼した忠義の長屋王と親しく交流していたのに謀反の罪で殺され、共に叔母の吉備内親王やその子たちを失い、その事で臣下が処断され、皇后(光明子)の生んだ皇太子は一歳で死亡し、夫人(犬養氏)の生んだ男子は毒殺され、外戚の藤原氏は富を集め続けた…そんな時代を生きた聖武天皇。仏教に救いを求めたのは無理からぬことと思います。全国に展開した国分寺は、聖武天皇の苦悩を象徴するものだと思うのです。地方にどんな大寺院が展開していても、国分寺が最優先されて配置されたのでした。国分寺は一面では、時代の暗闇を照らし出しているのでしょう。
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葺かれた瓦の文様は、奈良時代のもののようですね。そうすると、紀伊国分寺は、西国分廃寺より新しいことになります。国分尼寺だとされた西国分事の方が瓦が古いからです。
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瓦の生産された時期を説明して欲しかったのですが、資料館には学芸員さんが常駐されていないので、詳しいことは聞けませんでした。が、和歌山県那賀(長)群打田(うちた)町東国分の「打田町歴史民俗資料館」の方は親切に対応してくださいました。写真もOKでした。資料はそこで購入したパンフレットです。
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この軒廊(こんろう)の柱穴は■ですね。四角い柱穴は、7世紀8世紀のものですね、たしかに。…ついつい纏向遺跡の卑弥呼の宮殿といわれる遺構の柱穴を思い出してしまいました。あれも四角の柱穴で、3世紀には見られない柱穴らしいですね。ふうむ、そうするとどこかに無理があるのでしょう。当初の見込み通りに「柿本人麻呂の屋敷跡」としたが無難ではないでしょうか。部外者としても気になります。あんまり誇張は宜しくないと思うので、ほんとのことを市民に教えてほしいと切に思います。


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# by tizudesiru | 2017-06-07 11:46 | 252瓦に込めた聖武帝の願い | Comments(3)

紀伊国国分寺

紀伊国分寺跡
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紀伊国分寺跡に行きました。奥に見えるのは講堂です。
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講堂は江戸時代に建てられたもので、本来の講堂のより小さくなっていますが、現代に伝わる仏堂なので文化財として修復されたものです。元の国分寺の礎石が残っているので小さくなったのが分かります。
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下は塔跡です。
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塔跡には瓦積基壇が残されていました。
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金堂跡です。
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講堂の裏には僧房跡がありました。ここは礎石はなく掘立柱の建物でした。
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紀伊国には国分寺が二つあります。そこにも行ってみましょう。
紀伊国の国分寺は二つあるそうです、僧寺と尼寺でしょうか。
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西国分塔跡です。
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もともとあった寺院を国分尼寺として使ったと書かれています。立派な塔礎石ですからさぞや大きな塔が立っていたことでしょうね。塔礎石も紀伊国分寺とは違います。こちらの方が古いようです。更に、この寺跡は法隆寺式の伽藍配置ですし、7世紀中ごろの創建と考えられています。国分寺は奈良時代・8世紀で、興福寺式軒瓦を用いて建立されていますからね。この寺を国分寺とはせずに、尼寺として使ったというのですが…
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後で、国分寺の瓦も見ましょうね。


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# by tizudesiru | 2017-06-05 17:22 | 252紀伊国分寺 | Comments(0)

久邇京跡の瓦

久邇京と山城国分寺跡の瓦
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山城国分寺の瓦と恭仁京の瓦です。展示されている資料は撮影可能です。
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講堂と金堂に葺かれた瓦です。
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寺院の建立には瓦がひつようですから、近くに瓦窯が作られました。他に、他の建造物の瓦を再利用することもあります。下の瓦は平城宮から運ばれたようです。
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平瓦にはその瓦を提供した氏族の名前が刻まれています。
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こんなに力を入れた久邇京でしたが、聖武天皇は平城宮に戻られたのでした。
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木津川は、今も静かに流れています。
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では、また。

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# by tizudesiru | 2017-06-01 21:15 | 251恭仁京・一瞬の夢 | Comments(0)

久邇京の夢さめて

久邇京の夢さめて1200年
恭仁京を訪ねた時、間抜けなことがありました。集落に入り込んだので、長く住んでおられたように見えるご老人に道を尋ねたのですが、「恭仁京ねえ、そうですねえ…此処もそうですけどねえ。…小学校の辺りが中心なんですが…恭仁京と云っても、広いからねえ。何処かと聞かれても…」10分ほどたっても、何処に向かえばいいのか結論が出なかったので「ありがとうございました」と失礼して、気の向くまま田圃道に進みました。思い返すと、恭仁京のど真ん中で「恭仁京は何処ですか?」と、間抜けな質問をしたのでした。
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南にむかって緩やかに傾斜した土地で、下って行けば木津川に届きます。この辺りはすべて恭仁京の中であり、桜の辺りが小学校で古の大極殿跡です。
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ここは、恭仁京大極殿跡であり、山城国分寺跡でもありました。
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橘諸兄の命を受けて恭仁京造営に励んだ大伴家持も、この辺りを歩いたのです。木津川の水運に恵まれたここに新しい都ができるはずでした。しかし、恭仁京造営は中止になり、後に山城国の国分寺となりました。
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国分寺の塔跡です。
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次に、「くにのみや学習館」を訪ねましょう。
芸員の方がとても親切に説明してくださいました。



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# by tizudesiru | 2017-05-31 14:46 | 251恭仁京・一瞬の夢 | Comments(0)

静かなる高麗寺跡

静かなる高麗寺跡
木津川のほとりに高麗寺跡があります。木津川という名前は木材を運ぶため川という意味で、昔はその為の「津」がある川だったのですね。木津川が大きくカーブし北上するその円弧の南辺に高麗寺は造営されたようです。
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発掘が終わったのか、公園にするための工事が始まっていました。
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上の写真は塔の心礎です。大石の側面に穴が穿たれています。この穴に舎利などを入れたのです。塔の基壇は整地面から直接瓦を平積みした「瓦積基壇」(43尺正方形)です。周りには石敷きの犬走が設けられていました。金堂も整地面から直接瓦を平積みにした「瓦積基壇」(54尺×45尺)だったそうです。
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我が国最古の寺院の一つと書かれる所以は、創建飛鳥寺の屋根瓦とされる丸瓦「花組」の同范品が出土しているからです。ですから、7世紀初頭には創建されたというのですが、発掘調査ではその時期の明確な遺構は確認されていません。
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上の二枚の写真は、飛鳥寺の瓦の展示品です。
飛鳥寺の「花組」と呼ばれる丸瓦は、百済系と云われます。飛鳥寺に韓国から贈られた丸瓦が展示されていました。「素弁八弁蓮華文軒丸瓦」と書かれています。「単弁八弁蓮華文軒丸瓦」と名称は違いますが、同じものを云うそうです。飛鳥寺のものは十弁と書かれていますが、花弁が10枚、9枚、11枚のものもあります。下の写真のように、花弁の先に珠文があるものも飛鳥寺の創建瓦とされています。(下の写真)
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さて、高麗寺に戻ります。恵便(高句麗の還俗僧・蘇我馬子の仏教の師)、恵慈(聖徳太子の仏教の師)は高句麗の人でした。
高麗寺の伽藍は、塔(東)と金堂(西)が東西に並び、講堂が北に位置し回廊が取り付くという観世音寺式の配置になっています。明日香の川原寺も塔と金堂が東西に並んでいました。高麗寺は、川原寺式伽藍配置→「法起寺式伽藍配置」への移行期の寺院とされるのです。下は川原寺の伽藍図と川原寺跡。
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高麗寺跡からは、明日香の川原寺(天智天皇の発願で建立)金堂の創建瓦の同范品が出土しています。ですから、大津遷都(667年)の前に高麗寺の伽藍の整備が行われたというのです。順番は、金堂→塔→講堂→中門・南門ということです。
また、南門は小ぶりな八脚門だったようですが、屋根には不釣り合いな大型3尺の鴟尾(しび)が据えられていたということです。どうしてでしょうね。どこかの余りものか、払い下げでしょうか。
創建高麗寺には百済系と云われる飛鳥寺の同范瓦が使われ、その後の整備時には川原寺の金堂の同范品が用いられたというのです。
また、蟹満寺造営のために新調された瓦范が、高麗寺の中門や南門に用いられたそうです。なぜにこうもバラバラなのでしょう。築造に何年もの年月がかかったので仕入れ先が途中で変わったのでしょうか。請負業者が途中で変わったのでしょか。

それも、飛鳥寺や川原寺との関係が深いとは…、ここにどういう解釈が成り立つのでしょう。高麗寺が渡来系の狛氏の氏寺としたら、彼らは何によって蘇我氏や大王家と結びついたのでしょうね。
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高麗寺にはまだ訪れる人もありませんでしたが、公園が整えば人の目にも触れるようになるでしょうね。それまで、今まで通り高麗寺は静かに木津川を見ていることでしょう。


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# by tizudesiru | 2017-05-27 15:52 | 250静かなる高麗寺跡 | Comments(2)

高松塚古墳の被葬者は高市皇子

再度、高松塚古墳の被葬者
NHKの番組「歴史秘話ヒストリア」で、高松塚の被葬者について追及していました。石棺・壁画とその陵墓の位置を分析しながら。面白く拝見しました。最後まで視聴者を引っ張って面白かったのですが、最後に疑問が残りました。被葬者が高市皇子ではなく刑部(忍壁)皇子となったからです。わたしは被葬者は高市皇子だと思っています。彼こそ新益京(藤原京)を造営した人だからです。最高権力者としてその大極殿と朱雀大路の南の直線上に眠るべくして永眠したと思うからです。
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画像はNHKテレビをデジカメで撮りました。
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藤原宮(新益京)は耳成山の南に作られた最初の条坊を持つ都とされ、藤原宮は初めて瓦が葺かれた宮殿とされています。その藤原宮の大極殿の南に野口王墓(持統・天武陵)があり、その南に中尾山古墳と高松塚古墳があることは、今までに繰り返しお知らせしてきました。
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高松塚古墳は石室(石槨)の壁に人物像や四神の玄武と青龍がえがかれ、被葬者が権力者であることは間違いありません。
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更に、さしかけられた笠が深緑であることから、被葬者が一位であることが分かりました。やはり最高権力者です。そこで,被葬者の候補が忍壁(刑部)皇子と高市皇子にしぼられたのです。また、「海獣葡萄鏡」が副葬されていたことから、遣唐使が持ち帰った鏡ではないかということで、705年没の刑部皇子と決まったという展開でした。
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それでは、四神が描かれたキトラ古墳が高市皇子の陵墓というのでしょうか。しかし、キトラ古墳は藤原宮より伸びたラインからずれています。大極殿を通るラインのみが、中尾山古墳と高松塚古墳を通るのです
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天智陵から南下したピンクのラインに乗るのは、菖蒲池古墳・天武持統合葬墓です。藤原宮から熊野大社に引いたラインにはキトラは乗るかもしれませんが、他の陵墓はラインからずれます。
耳成山から南下した緑ラインには、中尾山古墳と高松塚古墳が乗ります。赤いラインを藤原宮から高松塚古墳までひきました。すると、ラインは大極殿から朝堂院南門を通りました。高松塚古墳は正確に測量して作られたということがわかるのです。

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ここまで藤原宮にこだわった被葬者です。高市皇子以外に考えられないのです。それに、被葬者は頭蓋骨がなく抜き取られた可能性がある(首を斬られたのではない。下あごの骨はのこっていたので40歳~60歳の男性の骨とわかった)、大刀の刀身が抜かれ、玄武の顔が削られていたと、調査報告がありました。そんな仕打ちを受けた可能性のある一位の人物は、高市皇子以外に考えられません。長屋王事件の後、謀反の罪が埋葬されていた父親の高市皇子まで及んだとも考えられるし、軽皇子(文武天皇)の立太子に対して何らかの咎を受けたかも知れません。軽皇子は高市皇子薨去後半年で立太子、その後半年で即位してるのですから。
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ヒストリアで最後にラインを熊野大社に持っていくという不思議な画面の挿入がありました。藤原宮と熊野大社を結びつけるなんて、何か意図があったのでしょうか。平安時代から確かに熊野は聖地となり、あまたの皇族貴族が詣でました。テレビでは意味が分からないまま終わったのですが、わたしは日頃から三本の棒があれば測量し直線を引けると言っているので、ラストの熊野ラインはちょっとおもしろかったです。しかし、正確に言うと、藤原ぐうから熊野まで直線を引くと、天武持統陵や高松塚はラインに乗りません。大雑把なことでいいなら別ですが…
古代は建築や墳丘造営や旅行や意味づけをする時、方角を大事にしました。命や運勢に関係すると思っていたからです。ですから、いい加減な測量はしなかったと思います。
だからこそ、高松塚古墳の位置は大事で、なぜその地が選ばれたか考えなければならないと思います。


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# by tizudesiru | 2017-05-22 21:32 | 249再び高松塚古墳の被葬者 | Comments(0)

続々・岩戸山古墳と八女丘陵

続々・岩戸山古墳と八女丘陵
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岩戸山歴史資料館から東に向かって八女丘陵の古墳を訪ねました。これまで、乗場古墳・善蔵塚古墳・茶臼塚古墳・鶴見山古墳・釘崎2号墳・立山山古墳をみました。更に東に向かいます。やがて見えてくるのが丸山古墳です。
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未調査だということですが、墳丘には円筒埴輪の破片が落ちています。
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この破片について質問がありました。「持って帰ったのか?」ということです。残念ながらお墓の祭祀用土器ですから、怖くて持って帰れません。欲しくもありませんから。でも、丸山古墳を円筒埴輪が取り囲んでいた証拠ですよね。それに、以前から遺跡の上に置かれていたと思います、誰もが持ち帰りを敬遠したのでしょうね。
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丸山古墳を過ぎると、古墳群の東端の童男山古墳群です。ここまでくると、これまでの古墳とは異なる様式の墓だと感じます。
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上の写真は童男山11号墳の馬具です。この古墳群は円墳に巨石の横穴式石室を持つのです。この石屋形を持つ墳丘墓こそ磐井の乱後の古墳の様式ではないでしょうか。つまり、童男山古墳の氏族は、侵入者か次の権力者なのでしょう。まず、一号墳。
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1号墳と同じ斜面にあるのが、2号墳と3号墳です。
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この辺り一帯が古墳群ですが、いずれも巨石で石室が組まれています
八女丘陵には他にも様々な古墳群があります。
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資料館では「八女丘陵の首長墓の系列」を上の図のようにまとめられていました。首長の墓はどんどん東に築かれていったということでしょうか。こうしてみると石人石馬という石製品は、九州の特色というより磐井一族の限られた人々が使用したものと云えるのではないでしょうか。八女丘陵の古墳には埴輪も多く使用されていますから。石人山古墳などの古墳は、当然磐井の一族だということになりますね。
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立山山8号墳の形象埴輪には、どんな意味があり氏族のどんな主張があるのでしょうね。石ではなく埴にこだわり固執したのですから。彼らが磐井を裏切ったのかも知れませんし、または、古来の伝統を守り磐井亡き後の北部九州を守ろうとしたのかも知れません。八女丘陵の墓の変遷が、わたしたちに歴史上の何かを知らせているのです。
では、ひとまずこれにて。

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# by tizudesiru | 2017-05-21 10:57 | 247岩戸山古墳と八女丘陵 | Comments(2)

続・岩戸山古墳と八女丘陵

続・岩戸山古墳と八女丘陵
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岩戸山古墳資料館から八女丘陵を歩いてみましょう。まず乗場古墳、善蔵塚古墳、茶臼塚古墳と見ました。次は、数年前に発掘された石人で有名な鶴見山古墳(前方後円墳)です。その石人は博物館に展示されています。発見された時は、たくさんの石の下敷きになっていて、発掘している方は下から何が出て来るのかドキドキしながら石を除いていったそうです。出土品は、円筒・朝顔形・形象埴輪、須恵器、馬具、銅鏡破片、石製品などがあります。特に、玄室内から出土した銅鏡破片には、表面にヒメクロバエの蛹と毛髪痕が残っていました。それが殯(もがリ)が行われた根拠となったのです。ヒメクロバエは日光の下でしか成長しないからです。

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鶴見山古墳は岩戸山古墳の後の築造とされ、筑紫君葛子の墓ではないかと言われています。

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鶴見山古墳から更に東に進むと、下り坂の途中の釘崎2号墳に当たります。近くには1号墳がみえています。ここは前方後円墳4基を中心にした12基の古墳群です。
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釘崎2号墳から更に下り、集落の中に入ると目の前に石垣が現れ、立山山20号墳にぶつかります。
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あの有名な金製耳飾を出土した立山山8号墳ではありません。これは、立山山20墳です。立山山地区にも多くの古墳がありましたが、8号墳など既に壊されて今はありません。8号墳の副葬品は次の通りです。装飾品の他に馬具などがあります。
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立山山13号墳からは須恵器の祭祀土器がたくさん出土したのですね。
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こうして、古墳を見ると不思議な気分になります。どの古墳も労力と時間と財力を使っているからです。
日本列島の6世紀とは、いったいどんな時代だったのでしょうね。こんなに葬送儀礼に財力を投じるなんて。どの古墳も馬具や武具でいっぱいです。そして、須恵器も溢れています。豪族を支えた経済力は何によって生み出されたのでしょう。更に、墓造りという技術を持った庶民の生活はどうだったのでしょうね。
明日も八女丘陵を歩きます。



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# by tizudesiru | 2017-05-21 00:51 | 247岩戸山古墳と八女丘陵 | Comments(0)

岩戸山古墳と八女丘陵

岩戸山古墳と八女丘陵
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江戸時代までは、石人山古墳が筑紫君磐井の墓だとされていました。岩戸山が磐井の墓とされるようになったのは、この百年余のことなのです。岩戸山にはたくさんのラインが引かれます。既に紹介してると思いますが。直線の先にあるのは、有名古墳の墳丘や地域の信仰の対象になった山の山頂です。宝満山・脊振山・高祖山・九千部・阿蘇山・普賢岳、数か所の神籠石、江田船山古墳などの首長墓です。それはさておき、今回は八女丘陵の古墳群の紹介です。
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岩戸山古墳の東300メートル、博物館のすぐ近くにあるのが乗場古墳です。前方後円墳ですが、昭和30年代に周溝は削られて、今はありません
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副葬品は、玉・馬具・土器などは東京国博にあるのですが、人物埴輪・環頭大刀(福島高校に)など、岩戸山歴史博物館に展示されていました。
さて、磐井の乱後は大きい前方後円墳は作られなくなり、装飾のある円墳に代わるそうですから、横穴式石室に装飾を持つ乗場古墳(前方後円墳)は、磐井の一族ではないということでしょうか。または、一族の中の別の家系だったのかも知れませんね。同じく磐井の乱後に築造されたという装飾を持つ弘化谷古墳は、大円墳で石屋形があります。別の氏族の墓なのでしょうね。
更に、岩戸山古墳(磐井の墓)の石製の大刀には勾金(まがりかね)がついています。大刀の束を飾るものですが、環頭大刀は大刀の頭に輪がついているものです。このような飾大刀は、勾金のついた大刀より古い大刀のように思われますが、どうなのでしょう。岩戸山古墳より新しいということですから
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乗場古墳を過ぎ、福島高校の前を通り抜け丘陵の尾根を下ると、途中に善蔵塚古墳(前方後円墳)があります。
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そのまま丘陵を下りて行くと、茶臼塚古墳(円墳)が見えてきます。道からがけ下を覗くと、ため池と丸山古墳があります。
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丸山古墳の祭祀土器です。
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崖下に下りずに進むと、目の前に茶臼塚古墳が見えてきます。
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八女丘陵は歩けば様々な古墳に出会います。
また明日。




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# by tizudesiru | 2017-05-19 21:48 | 247岩戸山古墳と八女丘陵 | Comments(0)

賀茂神社の古墳・うきはの春

賀茂神社の古墳浮羽の春
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水のきれいな此の地に京都の下鴨神社から祭神を勧請したとか…この神社を守る氏子の代表という方のお屋敷を訪ねるというので、四月の日曜日にわたしも出かけました。賀茂神社は以前にお参りした神社でしたので、今回は拝殿など写真を撮るのを忘れました。
この境内に古墳があるのですが、それは知りませんでした。筑後の耳納山の北と南は古墳群が集中しています。南は家形石棺とか巨石横穴の古墳群が多いようですし、北は日ノ岡古墳とか装飾古墳が多いようです。築造時期もややズレるので、別の氏族がそれぞれに栄えたということです。
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この古墳は形を見ると円墳でしょうか。墳丘が南に延びているのを見ると前方後円墳かも知れません。過去に発掘調査があったようで、記念碑が建てられていました。
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石室内の全面には朱が塗られ、頭がい骨と直刀が出たと書かれています。
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賀茂神社から歩いて河北家に向かいました。
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河北家は河北倫明の生家ということで、記念館がありました。下は河北家の倉を使用する時の入口でしょうか。
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広いお庭のある河北邸は文化財の指定を受けていました。河北家には自家の山北神社があり、この地に移入してきた先祖を祀っておられました。神社を「山北神社」と呼ぶのにも歴史があって、ご当主にお話を聞くことができました。楠森河北家は、浮羽の地に800年間27代続く旧家なのです。壁結(かべゆい)や台所に巨大な海老の注連縄など、 中世を偲ばせる民族的にも貴重な祭事が今でも多く残っています。楠森(くすもり)は河北家の古くからの屋号です。
鎌倉時代の初めに大分の日田に、室町時代の初めに山北小柳館に居を構え、天正年間に現在の楠森に住みつかれ、武家から庄屋として生業を変えて家を守られたということです。山北神社は山北小柳館に由来する社だということです。
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山北神社の敷地内にハルリンドウが咲いていました。九州の日の当たる山地に見られる花ですが、宿根ではなく毎年種で命をつなぐので、一度絶えると次の年から咲きません。ここが昔から守られたことを示す春の花でしょうね。
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どちらも河北家の家紋です。
先の大戦後の「農地改革」で農地のほとんどが無くなったうえに社会の変化により、先代まで残されてきた地域の行事などが消えて行く中、ご当主は農業を続けながらなんとか楠森河北家を守って来られたのです。大変だということでした。近くには河北家がお世話する神社が何か所もありました。屋敷裏の神社もその中の一つだそうで、三次神社と云いました。
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以前、知り合いから貰ったお茶があって、「茶ノ木はほとんど挿し木で増やすから主根が浅いけれど、このお茶樹は原木だから根が岩盤まで達していて、深い所のミネラルを吸い上げているから美味しい」という話がついていました。煎茶と番茶でしたが、たまたま河北家がお茶を生産されているということだったので、買わせていただきました。すると、わたしがいただいたお茶と同じでした。廻りあわせで生産者にお会いしたということです。が、唐突なので「以前からいただいています」とは伝えませんでした。お伝えすればよかったです。味わい深いお茶ですから、様々な方にお勧めしたいと思いました。道の駅でも買えるそうです。
福岡県浮羽郡浮羽町大字山北の河北氏に感謝いたします。お邪魔いたしました。



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# by tizudesiru | 2017-05-17 14:15 | 248賀茂神社の古墳と浮羽の春 | Comments(0)

熊本地震後の塚原古墳群

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塚原歴史博物館は閉鎖中
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外側は片付いているようでしたが、中の展示物はまだ整理の途中でした。壊れたりして散乱したのを片付け展示できるようにするには時間がかかるのでしょう。少ない職員さんが館内の整理や掃除などで忙しそうでした。そこにお邪魔して一枚のパネルの写真を撮らしていただきました。ごめんなさい、お邪魔しました。(パネルには気になる写真があったから、確かめと撮り直しに行ったのです。それは、後に書きましょう)倒れかかった弥生住居や倉庫の展示物は 修理されるのでしょうか。7月には開館の予定だそうです。
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近くの道路はまだ工事中だったし、緑川には渡れない橋があってひどく迂回しました。塚原古墳群の下を九州高速道路が貫通しています。活断層の上の道路がガタガタになったのでしょう。高速道は通れれるようになっていますが、側道はこれからのようでした。
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この方墳はガラス屋根の上から石室を見ることができます。
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大きな石屋形のような、家形石棺のような、変わった石室を持つ石之室古墳は地震で壊れました。奥の二本の木の間に丸く見える古墳がそれです。琵琶塚古墳は墳丘に綱が張られていましたが、大丈夫だったのでしょうか。
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花見塚古墳古墳の石室も家形石棺のようです。
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方形周溝墓から前方後円墳、円墳と揃っていますね。公園として残されたのはこの部分だけですが、十分に楽しめますね。東屋の方は立て直されていましたが、中のテーブルは壊れたままでした。
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さて、こんな状況の閉鎖中の博物館(公園は公開)を訪ねた理由ですが、それは一枚のパネルの為でした。とても気になることがあったのです。前回(地震前)に訊ねた時、おや!?と思ったのです。デジカメで写真を撮って後で調べようと思っていたら、写真がぼけていて肝心の文字が読めませんでした。その写真が下の画像です。今度は文字が読めました。
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玉名郡の郡衙と立願寺の古瓦で、同范か同文になっています。もし、郡衙に瓦が葺かれたのであれば、その時期を調べたいと思ったのです。で、「郡衙と立願寺の文字」を確かめに行ったのです。そうであれば、福岡の場合、評衙の仏堂には瓦は葺かれましたが、その後の郡衙は掘立柱に瓦無しですから、九州の郡衙の状況にややズレがあります。その違いは何によって生まれたのか、玉名の郡衙に古平瓦が葺かれる意味を知りたいと思ったのです。
その時期は福岡の郡衙とどのようにリンクするのか。とにかく、玉名の古瓦の出土は面白い事実ですよね。
五月晴れの塚原古墳群はなかなか美しく心なごみました。親切な資料館の職員さんに感謝します。



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# by tizudesiru | 2017-05-14 12:23 | 246熊本地震後の塚原古墳群 | Comments(2)

雲居の桜

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ここにても雲居の桜咲きにけり
後醍醐天皇は吉野に逃れても決して都を忘れることはありませんでした。ある日、雲居の桜という名の桜を献上された時、都を思い出して詠まれた御製歌と以前聞いたことがあります。
こんな吉野の山の中でも、雲居の桜が咲いた。雲居とは「遠く離れた所」「宮中や皇居」「皇居のある都」のことを云いました。「雲居の桜」と聞いて、都が思い出されていよいよ都への思いが強くなったことでしょうね。しかしながら、大事な長男で戦力でもあった大塔宮を毒殺され、他の皇子たちも東国から西国の戦場に貴種のシンボルとして差し向けられた帝の無念が吉野にはありました。
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後醍醐天皇の宮跡、吉水神社に行きました。
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ここは「吉水院」という僧坊でしたが、明治になって後醍醐天皇の皇居跡であることから「吉水神社」となったのです。義経と静御前が弁慶と共に住んだとの伝承もあります。

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後醍醐天皇の所縁の吉水神社が、放火された勝手神社の仮の遷座所にもなっていました。こんな山の奥の神社に何ということをしたのでしょう。
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後醍醐天皇の皇子の中で二条家の血を引く宗良親王はわたしの好きな歌人です。南北朝の戦いの間は歌が詠めなかったようですが、それでもたくさんの秀歌を残されました。
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沢山の宝物を見て庭に出ると、北闕門(ほっけつもん)がありました。
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都の方向を望んで号泣したという公家や武将が偲ばれました。後醍醐天皇はそういった人々に命を捧げられたのですが、彼らをどう思っていたのでしょうね。吉野に来ると命を賭して戦った男たちの哀しみを思わずにはおれません。
今回の吉野では「おりこう犬」に逢いました。どの子もおとなしく賢く愛らしかったのです。今度の旅で一番うれしかったのは、彼らが幸せそうだったことでした。
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今も幸せしてることでしょう。グッドラック!!




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# by tizudesiru | 2017-05-06 22:20 | 245雲居の桜 | Comments(0)

花の吉野の別れ歌

花の吉野の別れ歌
今年四月十二日、吉野山は中千本が満開でした。
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吉野と云えば、後醍醐天皇の所縁の地でもあります。桜に見とれながら如意輪寺を訊ねました。
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桜に埋もれた宝塔も見事でしたね。数年前に来た時もほんとうにきれいでしたが、今年も何処も素晴らしかったです。
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帰りのシャトルバスで出会ったお嬢さん、義経に惹かれて吉野に来られたようでした。短い間におしゃべりできてちょっと嬉しかったです。その方、後醍醐天皇や楠木正成や正行(まさつら)の話はご存知ないようでしたので、つい「♪青葉茂れる 桜井の♪」と唄ってしまいました。こんな歌、ご存知ですか? お返事は「いいえ、ぜんぜん知りません」でした。
わたしもこの歌を覚えたのは大人になってからです。楠木親子の理不尽な別れと忠誠心が憐れに思えて、いつの間にか幾度も口遊むようになりました。 「♪木の下陰に駒止めて 世の行く末をしみじみと♪」 幼い息子に死地に向う父親の正成は静かに諭したという物語。「お前は生きて、いつの日か父の意志を引き継ぐように」と父の言葉、十年後、約束通りに息子の正行は、後醍醐のために四条畷の戦いに出て討ち死にしました。忠誠心より本当は生き抜いてほしかったのではないかと、吾子の死を願う父親はいないと、わたしは思うのです。
戦前の話ですが、祖父は楠木正成に感動し、港川の墓を訪ねて正成の墓の寸法を測り、同じような墓を建てていましたから、墓参りの度にその話を聞きました。その墓も父が改葬し、今はありませんが、お彼岸や盆暮れの墓掃除の度に、楠木正成の名を思い出しましたね。
ところで、シャトルバスで会ったお嬢さん、神奈川の人でしたね。お健やかにお過ごしですか?
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お嬢さんは、如意輪寺には足を運ぶ時間がなかったのでしょうね。ここには、鏃で御堂の扉に書き残したという、楠木正行の辞世の歌があります。彼は、既に鬼籍に入っていた帝の御陵に参拝し、如意輪堂で髻(もとどり)を切り、過去帳に姓名を残した後に辞世の句を詠んだのです
かゑらじと かねておもえば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる
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正行を慕った弁内侍(べんのないし)は、討ち死を知った後、髪を下ろし正行の菩提を弔ったと云います。「内侍」とは天皇に仕える高位の女官のことです。吉野は桜の影に男の物語、女の物語が散らばっているのです。



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# by tizudesiru | 2017-05-01 21:46 | 244花の吉野の別れ歌 | Comments(0)

柿本朝臣人麻呂と玉津島

玉津島磯の浦廻の真砂にもにほひてゆかな妹も触れけむ
この歌は、すでに紹介しました。万葉集巻九の挽歌の冒頭五首は「右五首、柿本朝臣人麻呂歌集に出」と左脚があり、人麻呂歌集(人麻呂自身の作歌)の歌です。それは、「宇治若郎子の宮所の歌一首」と「紀伊国に作る歌四首」の合わせて五首でしたね。
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宇治若郎子の宮所の歌は、
1795 妹らがり 今木の嶺に茂り立つ 嬬待つの木は古人見けむ
紀伊国に作る歌は、
1796 黄葉葉の過ぎにし児らと携はり 遊びし磯を見れば悲しも
1797 塩気立つ荒磯にはあれど往く水の過ぎにし妹が形見とそ来し
1798 いにしへに妹とわが見しぬばたまの黒牛形を見ればさぶしも

1799 
玉津島磯の浦廻(うらみ)の真砂(まなご)にもにほいて行かな妹も触れけむ
上記の四首は、持統天皇の死後に人麻呂が紀伊国を訊ね、持統天皇の形見の地で霊魂に触れ、元明天皇に『初期万葉集』の奏上をしてもいいのか(文武天皇が崩御された後なので元明天皇に)霊魂に訊ねに行った旅だと、わたしは書いています。その事は既に紹介しました。
人麻呂が紀伊国に旅したのは、「過ぎにし妹」の形見の地を訪ねた時ばかりではありません。大宝元年(701)辛丑冬十月、持統天皇と孫の文武天皇に従駕して紀伊國に来ています。この時は、有間皇子の所縁の地を訪ねる旅で「結松」を詠みました。人麻呂は有間皇子事件には遭遇していませんから、「又も見むかも」とは人麻呂の心境ではなく、皇子の所縁の人に代わって詠んだものとなります。つまり従駕した太上天皇の思いに重ねて詠んだのでした。

146 後見むと君が結べる磐代の子松がうれを又も見むかも
無事に還って来た後にまた見ようと、皇子が結ばれた磐代の松が枝、あの無念の結松の枝をわたしは再び見ることがあろうか

そして、最晩年の持統天皇の「最後の紀伊国行幸」は、有間皇子への別れの儀式でもありました。この旅には孫の文武天皇も同行しました。文武帝とは途中で合流したのかもしれませんが、一行は、黒牛方・藤白坂・白崎・牟婁の湯と所縁の地を訪ねています。玉津島は紀の川の河口にありますし、景勝地ですから、行幸の人々が立ち寄ったと思われます。小さな島には宿泊は無理でしょうから、行宮は湾の玉津島が見える辺りに作られたのでしょう。
山部赤人が「雑賀野ゆ そがひに見ゆる沖津島」と読んでいますので、聖武天皇の時代には雑賀崎側に行宮はあったのです。更に「神代よりしかぞ貴き玉津島山」とその長歌を結んでいますし、「和歌の浦に潮満ち来れば」と反歌も伴いますから、赤人の見ている風景と人麻呂が「玉津島磯の浦みの真砂にも」と詠んでいる風景は、重なるはずです。二人が詠んだのは、同じ風景でしょう。
「神代よりしかぞ貴き」とは、聖武天皇の先祖(天武・持統)の時代からずっと尊い地であるというのです。つまり神代である持統天皇の時代からこの地に天皇が代々訪れていたので、ここが尊ばれたということなのです。
妹も触れけむ」と詠まれた真砂は、塩気立つ片男波の砂嘴の砂だったのでしょうね。
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(古墳時代の紀ノ川)
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(今は紀ノ川の流路は変えられている)
万葉集には玉津島の辺りを詠んだ和歌は多く残されていますが、祀られた神に関するものは有りません。玉津島神社の信仰はいつ始まったか分かりませんが、万葉集巻七の1216に、
潮満たばいかにせむとか海神(わたつみ)の神が手渡る海人娘子(あまおとめ)ども
という歌があるように、もとは海神の男神が祭られていたのかも知れません。それが女神に代わったとなれば、神代(持統帝のころ)となるのでしょう。
わたしには持統帝か文武帝により衣通姫の伝承が持ち込まれ「稚日女尊」として祭られたのではないかと思えてなりません。もちろん、有間皇子を追ってきた間人皇后がモデルです。(紀伊國の道成寺の「安珍清姫伝承」にも、間人がモデルとなったのではないかと、間人皇后が追って来た話と重ねて読んでしまうのです。道成寺は文武天皇が藤原宮子のために建てた寺となっていますが、この寺のご本尊の視線は真っ直ぐ岩内一号墳に向いているというではありませんか。岩内一号墳は有間皇子の墓と言われている方形の古墳です。紀伊国行幸の後、文武天皇が有間皇子の墓を改装し、寺を建てたと考えられなくはありません。もちろん、ゆかりの人だからです。)
持統帝が紀伊国行幸で文武帝に見せたかったのは、有間皇子の所縁の地と結松、藤白坂でした(紀伊國十三首で紹介しました)。
稚日女尊が祭神であることを十分承知していた光孝天皇が、あえて衣通姫を合祀したのは、持統帝や文武帝の紀伊国行幸の故事を踏まえてのことだったと思うのです。
また。


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# by tizudesiru | 2017-04-22 21:21 | 243 柿本人麻呂と玉津島 | Comments(0)

玉津島神社の春・衣通姫の歌

神代よりしかぞ貴き玉津島山
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玉津島が景勝地として知られるようになったのはいつのことでしょう。
「神代」とは、持統天皇や天武天皇の時代を云うのだそうですが。

万葉集巻七 1222には、次のような歌があります。玉津島 見れども飽かず いかにして 包み持ち行かむ 見ぬ人のため
玉津島神社の周辺には、六つの小高い島山(玉津島六山)があります。いにしえ、これらの島山は潮が引くと陸続きとなり、満ちて来ると玉が連なるように海中に並んだといいます。しかも、紀ノ川は現在と違い、古代には玉津島神社の横の和歌川の流路を流れていました。紀伊国行幸の時、天皇の輿は上流の吉野川から紀ノ川へ船を使って玉津島まで至ることができ、この景勝地を楽しめたのでした。
山部赤人の歌でもその様子が分かるというものです。「やすみしし わご大王の常宮と」歌われたように、各天皇が玉津島の近くに常宮(とこみや)としました。「常宮と仕へ奉れる雑賀野ゆ」と赤人が歌っていますから、宮は和歌浦湾の北の雑賀崎方面にあったのでしょう。そこから、島々が見えました。聖武天皇は奠供山(てんぐやま)に登り、弱浜を明光浦と名をかえ、称徳天皇は玉津島に望海楼を造営したのでした。
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(説明板・奠供山)
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(玉津島の西・雑賀崎方面)
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(玉津島の東・片男波の砂嘴と和歌の浦)
さて、今日は衣通姫のはなしでしたね。
玉津島神社の祭神・稚日女尊は女性神でしたね。衣通姫が五八代光孝天皇の夢枕にたったという故事により玉津島神が「和歌三神」の一つとして崇められたということは、実に唐突で不思議な話に思えます。
衣通姫が夢枕に立ったという光孝天皇(830~887)とは、どのような方なのでしょう。在位は短く四年です。
光孝天皇は仁明天皇の第三子、陽成天皇が藤原基経により廃位された後、五十五歳で即位した方でした。即位と同時にすべての子女を臣籍降下させ、後に皇位継承の憂いを残さないようにしていたのですが後継者が決まらないうちに病に倒れられたため、臣下となっていた源定省(後の宇多天皇)を親王に復し、翌日に立太子させ、同日に崩御となられたのでした。この立太子が、光孝天皇の意思だったのか定かではありません。藤原基経としては、仲の悪い妹(藤原髙子)の子の立太子を避けたかったというのがことの真相でしょう。

光孝天皇は優れた文化人であり、「三代実録」には、『天皇若くして聡明、好みて経史を読む。容止閑雅、謙恭和潤、慈仁寛曠、九族を親愛す。性、風流多く、尤も人事に長ず」と記されています。帝は優れた資質を持ちながら、自らの親族から皇位継承者を出さないことに強い意志を持っていたようです。
上記のような光孝天皇の夢枕に立ったのが、衣通姫でした。その衣通姫尊を合祀したのが玉津島神社なのです。

では、衣通姫はどのような歌で神となったのでしょう。
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玉津島神社の由緒には「第十九代允恭天皇の妃で絶世の美人であられ、その麗しさは名の通り『衣を通して光り輝いた』と伝えられ、また尊は殊のほか和歌の道に秀でられたことはよく知られるところである。」と書かれています。
衣通姫は、「古事記では允恭天皇の皇女、軽大郎女の別名」とされ、兄の軽太子との姦通事件に巻き込まれ、伊予に流された兄を追って行きともに死ぬという物語の美女です。「日本書紀では衣通姫は允恭天皇の皇后(忍坂大中津姫)の妹・弟姫(おとひめ)、允恭天皇の寵妃」と描かれています。允恭天皇に寵愛された衣通姫は、姉の皇后の嫉妬を理由に河内の茅渟宮に移り住んだのでしたが、それでも皇后の嫉妬は止まず、ついに允恭天皇の足は遠のいたのでした
上記のように、古事記では軽大郎女皇女=衣通姫は同一人物ですが、書紀では允恭天皇の妃で皇后の妹、軽大郎女とは別人です。さて、玉津島に祀られたのは後者となっています。

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姉の皇后の意に反して允恭天皇に召し出された弟姫はひとり待ちながら、「わが背子が来べき夕なり ささがねの 蜘蛛の行ひ 今夕(こよい)著しも」と詠んだので、允恭天皇は聞いて感動し「ささらがた 錦の紐を解き放けて あまたは寝ずに ただ一夜のみ」と仰せられたというのですが、皇后の嫉妬のため、弟姫は茅渟宮に移りました。そこで、
とこしへに 君もあへやも いさなとり 海の浜藻の 寄る時々を

何時もいつもあなたは逢って下さるわけではないのです。せめて、海の浜藻が浜辺に寄って来る時があるように、その時だけでもあってくださいませ。 

その容姿だけではなく、衣通姫の心根にも允恭天皇は感動して、藤原部という御名代を定めたというのです。
一方、古事記の軽太子事件の時に大郎女皇女歌が詠んだのは、
君が行き け長くなりぬ 山たづの 迎えを行かむ 待つにはまたじ
貴方がお出かけになってから日もずいぶん経ちました。あなたをお迎えに行こうと思います。とても、待ってなどおられません。
という激しい思いの歌です。皇位継承の争いの中に在って、愛を貫こうとしたのか、軽大郎女皇女は迎えに行って心中したというのです。
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ここで、玉津島神社の由緒にある歌を思い出してみましょう。
立ちかへり またもこの世に跡垂れむ その名うれしき 和歌の浦波
この歌を詠んだ衣通姫は、軽大郎女でしょうか、弟姫でしょうか。わたしには、前者に思えます。皇位継承の事件に巻き込まれた絶世の美女の無念を偲び、その霊魂を慰め、自らも決意(皇位継承者を自家からは出さない)を新たにするという光孝天皇の深い意図が、あったのではないでしょうか。以後、衣通姫に奉納する「宮中の歌会」に光孝天皇の思いが受け継がれたのではないでしょうか。
結果として、光孝天皇は崩御の間際では藤原基経の策に何もできなかった…それとも、何もご存じなく崩御されたのか、そこは想像するのみです。源定省(後の宇多天皇)の立太子の日に、即日崩御ですから。事実が重すぎますね。
ここでの結論は、衣通姫は軽大郎女皇女だったのではないか…ということです。
光孝天皇は衣通姫の伝承を十分に承知し、万葉集の軽太郎女と結びつけたうえで、子孫の平穏な将来を祈念しつつ、玉津島神社に衣通姫を合祀したと。

また明日。


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# by tizudesiru | 2017-04-17 13:56 | 242紀伊国・玉津島神社 | Comments(0)

紀伊国・玉津島神社の春

玉津島神社不思議
紀伊国の春を楽しむ旅に出かけていました。昨日、帰ったところです。
和歌山市和歌浦中三丁目四番二六号に玉津島神社は有ります。この辺りは、玉出島ともいわれ、万葉集の時代には島山がまるで玉のように海の中に連なっていたと推察されています。山部赤人の歌に「神代より然ぞ貴き玉津嶋山」と詠まれているように、昔から風光明媚な景勝地だったのです。ここは、聖武天皇や称徳天皇、桓武天皇の玉津島行幸の地でもあります。

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赤い鳥居に桜が華やかに寄り添っています。鳥居の横には万葉歌碑がありました。
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神亀元年甲子の冬十月五日 紀伊国に幸す時に、 山部赤人の作る歌一首 併せて短歌
やしみしし わご大王の 常宮と 仕え奉れる 雑賀野ゆ 疎外に見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒ぎ 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より しかぞ貴き 玉津島山

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沖つ島 荒磯の玉藻 潮干満ち い隠り行かば 思ほえむかも
若の浦に 潮満ちくれば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る

赤人の「若の浦に潮満ち来れば潟を波…」の歌は有名ですね。この玉津島神社のご祭神は、稚日女尊(わかひるめのみこと)息長足姫尊(おきながたらしひめみこと)衣通姫尊(そとおりひめみこと)明光浦靈(あかのうらのみたま)の四柱です。四柱の神々はどんなつながりがあるのでしょうね。玉津島神社の周囲には美しい風景が広がります。
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ご祭神は、
稚日女尊…玉津島の神。イザナミ・イザナギの御子で、天照大神の妹、またの名を丹生都比売神(にふつひめのかみ)
息長足姫尊…神功皇后。皇后が海外に軍をすすめた時、玉津島(稚日女)の神の霊威を尊崇し、和歌山県伊都郡かつらぎ町天野と玉津島の二か所に鎮め祭り、自身も玉津島に合祀せられた。
衣通姫尊…58代光孝天皇天皇の夢枕に衣通姫が現れて「立ちかえり またもこの世に跡垂れむ その名うれしき 和歌の浦波」と詠まれたので、光孝天皇の勅命でこの社に合祀された。
明光浦靈…名光浦の霊。聖武天皇はこの地の「弱浜(わかのはま)」の名を改めて「名光浦(あかのうら)」となし、守戸を置き「春秋二季官人を差遣し玉津島の神・明光浦靈を奠祭せよ」と詔勅を発した。
玉津島の神は丹生都姫尊でもあり、この神を神功皇后が二ヵ所で祭り、皇后自身も神として後に祭られ、聖武天皇が詔勅で稚浦靈も祭らせた、という…ここまでは理解できます。しかし、衣通姫尊の歌はなんだか、前の三神とは話がかみあいません。

光孝天皇の夢枕に衣通姫が立ったのは、何処なのでしょう? 京の御所での夢でしょうか? 紀伊國の玉津島での夢でしょうか? 夢枕に立って読まれた歌の故事により、
玉津島の神は「住吉大神(摂津)・柿本大神(明石)と共に『和歌三神』として朝廷はもとより広く一般文人墨客から崇められたそうなのです。後世、玉津島の神に和歌を奉納する歌会「法楽和歌会」が、後西帝・霊元帝・桜町帝・桃園帝・後桜町帝・後桃園帝・光格帝・仁孝帝の各天皇の御代に宮中で催されたそうです。
玉津島の神(稚日女尊)は、衣通姫尊と一体となったということでしょうか。それにしても、玉津島の神が急に「和歌の神」になったのは、衣通姫の夢枕の故事に因ります。
衣通姫は、次のように詠んでいます。
立ちかえり またもこの世に跡垂れむ その名うれしき 和歌の浦なみ
一度この世を去ったけれども、またこの世に跡を残したくなりました。 その名がうれしいことに和歌の浦となったのですもの。寄せくる波のように、何度でもこの世に。
何とも意味深い、そして、ある歴史的な事件を彷彿とさせる歌ではありませんか。後の多くの天皇が心惹かれた「和歌の浦の玉津島神社」には、古くから衣通姫が祭られていたと、どこかで詠んだことがあります…衣通姫の名は「万葉集」にも出てきます。しかし、玉津島神社の由緒書きにある「衣通姫(十九代允恭天皇の妃で絶世の美女)」とは別の女性として出ているのです。
また、明日。

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# by tizudesiru | 2017-04-16 00:42 | 242紀伊国・玉津島神社 | Comments(0)

241神籠石と古墳の石組みの技術

切り欠き加工が古墳に!
数年前に大野窟古墳のパンフレッツを見た時、え?と思いました。切り欠き加工が使われていたからです。
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パンフレットの画像を見たので、熊本県氷川町に古墳を訪ねました。この古墳は見学が可能です。なぜか説明板には円墳と書かれていますが、違っているようです。パンフレットでは前方後円墳ですね。
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入口
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羨道
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玄室の刳り貫きの家形石棺と石棚でしょう。
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側壁は少しずつせり出していて、持ち送りの技術が使われていますね。天井には巨石が置かれています。
井寺(いてら)古墳は同じような技術を使って、馬門石(ピンク石)=阿蘇溶結凝灰岩で石室が作られています。石室はベンガラが塗られているようです。井寺古墳の石室は鍵がかけられていて見学はできません。切り欠き加工を見つけやすいですね。側壁は持ち送りで石が組まれ、一番上には巨石が置かれています。
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この古墳は直弧文で有名ですね。画像は、古墳関係の本からいただきました。熊本ではかなり知られた古墳です。この紋様は石障に線彫され彩色されているのです。
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神籠石の水門に使われた切り欠き加工は、肥後の古墳の技術に使われていたのです。この石組みの技術が伝わったのは、もちろん両方の地域に深いつながりがあったからです。巨石の古墳も福岡に伝わっています。
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(番号はわたしがプレゼンする時に付けたものです)
福岡県の宮地嶽古墳は、6世紀後半の円墳です。相島の玄武岩を使った巨石の古墳です。欽明陵と言われる見瀬丸山古墳の次の長さをもと古墳で、日本では二番目に長いそうです。見学はできます、不動神社となっていますので。
大野窟古墳は、明日香の石舞台古墳より玄室の天井が高く、日本一だとか。

さて、今日は古墳の話ではなく、石組みの技術の話でしたね。古墳の石組が神籠石に使われたということは、肥後の技術が北部九州に伝わっていたということですが、それは、文化として伝わったのでしょうか。それとも、何らかの政治的変化の後に浸透していったのでしょうか。
気になりますね。鍵になるのは墓制でしょうか。先祖の霊を祀る方法が変わるとしたら、大きな社会的変革があったということでしょうから。わたしは、大きな変化が北部九州を襲ったと思います。
(旅行に行くので少しお休みです)


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# by tizudesiru | 2017-04-09 23:59 | 241神籠石と横穴式古墳の共通点 | Comments(0)

240神籠石の水門の技術は共通する

神籠石・水門の石組みの技術は共通する
雷山・阿志岐・女山・おつぼ山・御所ヶ谷神籠石の水門を見ましょう。
雷山神籠石の北水門
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阿志岐神籠石の第一水門
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女山神籠石の水門
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おつぼ山の水門
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御所ヶ谷神籠石の水門
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御所ヶ谷神籠石の中門は、あまりにも有名です。この石組みは「布積の水門石積の後に、重箱積の石積が乗る」と報告者に書かれていました。つまり、途中で技術者の交替とか、時間の経過とか、指導者の交替とか、何らかの異変があったのでしょうか。長く忘れられていた遺構を別の時代になって再利用した時、前時代の技術は使わなかったなどなど考えられます。また、御所ヶ谷は列石でも不思議でしたね。切り石が版築の中に隠れている所と、版築の外に露出している所とありましたね。何らかの工事変更があるには、社会的な出来事がかかわったと思うのです。
それは何時の出来事か、そこはわかりませんが、少なくとも6世紀の出来事でしょう。6世紀の土器の欠片が出土するのですから。

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列石の写真で、共通する技術に気がつかれましたか?
それは幾度も出て来た「切り欠き加工」です。この技術は古代にしか使われていないそうです。それは何故でしょう。こうして千数百年も壊れずに残る技術なのに、何故伝わらなかったのでしょう。技術を必要とされる時代が終わったとか、別の地域に一斉に流れて行ったとか、技術者集団が全滅したとか、様々な理由があるのでしょうね。
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他にも、阿志岐神籠石(阿志岐古代山城)の水門には、階段状に少しずつずれて行く技法が使われています。「持ち送り」の逆ですね。持ち送りは徐々にせり出して最後に大石で抑えるという「古墳築造」の技術ですね。ただし、阿志岐山城の説明会の時、学芸員さんは「持ち送り」とか、「古墳の技術」とか、云われてません。これは、わたしのかってな意見です。「階段のように石組みがずれながら上がっていくのが特色」「切り欠き加工は古代にしか使われていない」「水門の石組みの技術で、鬼ノ城と共通するものもある」とは言われました。
では、次は古墳の技術と比べてみましょうね。
また、明日



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# by tizudesiru | 2017-04-08 10:42 | 240神籠石の水門の技術 | Comments(0)


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