飛鳥の明日香と呼ばれた霊魂の地が二ヵ所ある理由

飛鳥はいつからアスカと呼ばれたのか
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(藤原宮から天香具山)

和銅三年、「飛鳥の明日香の
里を置きていなば」と別れを惜しみ、元明天皇は明日香を去りました。

和銅三年(710)には、[飛鳥(とぶとり)の明日香]という言葉が定着していたのですね。
しかし、古事記(712年撰上)・日本書紀(720年撰進)では、アスカは「飛鳥」で統一されてます。712年頃までに「飛鳥」は、「とぶとり」ではなく「アスカ」に変わったのです。元明天皇は古風な言い回しを用いて古京を懐かしんだのでしょう。

それにしても、社会科では「あすか時代」を飛鳥時代と書き、博物館のこの時代の仏像にも「飛鳥仏」と書かれています。飛鳥(とぶとり)をアスカと読むようになったのは、いつからでしょう。

ブログにも書きましたように、万葉集には「飛ぶ鳥の明日香」は四例、それは柿本人麻呂の川嶋皇子の挽歌(持統五年・691年)、同じく人麻呂の明日香皇女の挽歌(文武四年・700年)、平城宮遷都の時の元明天皇の歌(和銅三年・710年)、巻十六の由縁雑歌(後期万葉)に一例です。

「飛ぶ鳥の明日香」は、限られた地域の限られた意味を持つ言葉となっています。しかも、挽歌と結びついた言葉です。元明天皇も死別した夫や息子を「君があたりは見えずかもあらむ」と偲びました。やはり亡き人につながります。「飛ぶ鳥の」を美称とかたずけるわけにはいかないでしょう。「アスカは亡き人を思い出させる地」として、霊魂の地「アスカ・飛鳥」となったのです。
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また、人麻呂が草壁皇子(持統三年・689年)の殯宮で詠んだ歌には「飛ぶ鳥の浄(きよみ)の宮」とありますから、「飛ぶ鳥の明日香」はまだ使われていません。
とすると、「飛ぶ鳥の明日香」が定着したのは、持統三年から五年の間となりましょう。「飛ぶ鳥の浄の宮」は、人麻呂にとっても、万葉集にとっても大変重要な言葉となります。

ただ、丁丑年(天武六年677年)十二月上旬に葬ったと記されている小野毛人墓誌銘に「飛鳥浄見原宮治天下天皇」とあり、丁丑は天武六年(677年)となるのです。が、この墓誌の作成年次には疑問が持たれています。後に作られた墓誌だというのです。
大方は、明日香が「飛鳥」と定着したのは、天武天皇の御病が重篤になった時、平癒を願って「朱鳥」と改元され、宮を飛鳥浄御原宮というようになったからだと日本書紀(720年)に書かれていますから、これを支持しています。


遠津飛鳥は捨てられた…蘇我氏の残像を払う為に
考えてみると、不比等はなぜ明日香を選ばなかったのでしょう。
平城宮遷都は「藤原不比等の暗躍の結果だった」と、このブログで書きましたが、明日香を捨てる理由は何でしょう。藤原氏所縁の談山神社も近くにあって、鎌足の産湯井戸跡もあるし、大原(小原)は藤原氏の出身地だったようですし。更に、中大兄皇子と藤原鎌足には「乙巳の変」の所縁の土地が方々にあります。でも、明日香は都として選択されなかった。
一つには、都を大きくするには飛鳥は狭かったし、水の供給に問題があったと云われています。確かに、明日香川の水では十分ではなかったでしょう。

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(明日香川のながれ・甘樫の丘の北)
しかし、飛鳥を切り捨てる理由はもっと他に、深い意味があったのではないでしょうか。そこには蘇我馬子も住んだという嶋荘には嶋宮という宮殿があり、岡宮があり、浄御原宮があり、天武朝の宮が集中していました。が、何より蘇我稲目以来の蘇我氏の影も強く残る土地だったというのが大きかったのではないでしょうか。昔は、大伴氏も中臣氏も蘇我氏の組織の中に組み込まれていたのですから。
だから、

蘇我氏の残像を捨て去ること、それが遷都の最大の目的だった。
舒明天皇の墓を押坂内陵(八角墳)に改葬した理由も、「明日香からの切り離し」です。天智帝と同じ八角墳にしたのは、同じ皇統であることを強調するためです(元の陵墓は明日香にあったが改葬されたとすると、そこは…)。
推古帝と竹田皇子の合葬墓も明日香から「近津飛鳥」に改葬された(前方後円墳ではなく方墳として改葬した)ということです。方墳ですから、舒明帝の八角墳とは形式を変えています。選ばれたのは、近津飛鳥でした。

近津飛鳥と呼ばれるようになったのは、いつ?その理由はは何か?
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用明天皇陵(方墳)も、孝徳天皇陵(円墳)もなぜか近津飛鳥に在ります。それも、改葬されたからです。同じく王家の墓を「明日香」から切り離したかったからです。
かし、王墓の改葬ですから、簡単に実行できません。だから、人々を納得させる(欺く)ために、都に近い霊魂の地として「近津飛鳥」と呼んだのです。「飛鳥」は奈良朝が作りだした「当て字」でしょう。
要するに、明日香に残したのは、蘇我氏と天武朝の人々の墓だった(天武持統陵は「八角墳」)……それが奈良朝の藤原(不比等)氏の構想でした。

誰かが計画し実行しなければ、なんとなく墓が改葬されるはずがありません。すると、舒明・用明・推古の陵墓の改葬は、ある時期(それは奈良時代か)に一斉に実行されたと云うことになります。それは、「近つ飛鳥」という呼び名から分かります。近い遠いは都を基準に使われましたから、「近津飛鳥」は明日香より平城京に近い明日香の意味です。そして、飛ぶ鳥が「飛鳥(あすか)」となった。
理由は様々にあったでしょうが、ある権力者は藤原宮の人々(天武朝)の霊魂を明日香に残した(藤原氏が封じた)ままにしたかったのです。

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(叡福寺・聖徳太子陵墓)
とすると、聖徳太子陵が近津飛鳥に在ることは不思議なことになります。

孝徳天皇の墓は聖徳太子廟ではないか

大王ではないのですから、聖徳太子が実在でも改葬の必要はないのです。では、叡福寺の陵墓は、誰の墓なのか。それは、もちろん孝徳天皇の改葬墓です。他に該当する天皇はありません。石室の構造、石室の切り石からして終末期、石棺の台には格狭間(こざま)が彫られていました。明らかに後世の仏具の装飾でした。すると、聖徳太子墓では有りえません。更に、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后(聖徳太子の母)も一緒ですからね。
大胆な説ではなく、孝徳天皇の改葬墓と考えたが自然なのです。三骨一廟の三骨とは、孝徳天皇・間人(はしひと)皇后・斉明天皇以外には考えられません。二人の女性は斉明天皇と間人皇后で、牽牛子塚古墳からの改葬です。この二人を明日香に残したままにするとは考えられません。舒明天皇陵の改葬をしたのなら、其の皇后(斉明天皇)の墓も改葬するはずでしょう。

改葬されたのです、二人の女性も近つ飛鳥に、「孝徳天皇の玉璽を守り、天智天皇に渡した中宮天皇として」間人皇后も合葬されたと考えるのが自然です。同じ間人皇后ですから、後の人々は伝承としての「穴穂部間人皇后」と名前の点で混同したかも知れません。
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これで、昨年から書いて来た「永福寺の聖徳太子陵墓の謎」の一部を書いたと思います。叡福寺聖徳太子陵の不思議については、去年のブログを見ていただきたいです。
昨年は、謎だらけであることを紹介していました。

明日香はなぜ「飛鳥」となったのか、それは何時なのか、いかなる意図があったのか、それと「飛鳥」と呼ばれる「近津飛鳥」はどうつながるのか、書きました。

七世紀から八世紀の王墓の改葬がなぜ多いのかも絡んでいましたが、そこには大王家と結んだ藤原氏の大きな野望と創作したい物語があったのです。
その物語の創作は、日本書紀を正史にする上に欠かせない作業だったのかも知れませんね。







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by tizudesiru | 2018-01-05 14:22 | 315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬 | Trackback
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地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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