NHKは日本の歴史を変えるつもり?

はたまた驚きの展開神籠石式山城を

築造したのは天智天皇?!

NHKの番組「英雄たちの選択」を見ました。驚きました、いつの間に古代史が変わったの??
a0237545_00050231.jpg
今年、九州国博で開かれた「山城シンポジウム」でのことですが、大変驚きの展開だったのでブログでもお知らせしました。それは、『神籠石系山城』とか『神籠石』とか一切使われず言葉そのものが消滅し、朝鮮式山城と呼ばれていた正史に残る基肄城・大野城なども全て含めて「古代山城」という言葉でくくられて、すべてヤマト王権側の築造だとされていた、そういうシンポジウムだったということでした。
今まで、歴史書にも古代史にも取り上げられて来なかった神籠石系山城が、急に王権側が白村江敗戦後に築造したというのですから驚きました。
全くどうなったんでしょう? まるで寝耳に水で、なぜそうなったのか分からないままシンポジウムが終わりました。

今度は、NHKの番組「英雄たちの選択」で同じく白村江敗戦後に王権側が造ったとしていました。いつ歴史が変わったのでしょうか?
(下は、難波宮跡・孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮遺構はほぼ重なる)
a0237545_19383042.jpg

大化改新で律令による中央集権国家を目指していた中大兄と鎌足は、まだ改新の道半ばであったとという所から、番組を見ました。中央集権化はまだ不十分だった証拠として、難波宮跡出土の木棺が示されていました。そこに「戊申年(大化4年)」の墨書がありました。大化とうい年号があったのに使われていないと云うことは、各地の豪族に改新の詔が浸透していなかった、中央集権化はまだ途中であったというのでした。改新に反発する豪族がいたというのです。

a0237545_21083574.jpg

中央集権化が進んでいない中に、大陸の政治状況が絡んできました。
大陸では唐が高句麗侵略の足掛かりとして新羅と結び、その為に百済を滅ぼしたという状況で、中大兄は「百済復興を救援するのか、しないのか」どちらを選択したのか、という
なかみでゲストがおしゃべりをするという番組でした。内容的には…
a0237545_20243983.jpg
百済の王族でもあった鬼室福信は、日本にいた王子・扶余豊璋を滅びた百済の王として迎え、百済を復興したいと申し入れました。鬼室福信は唐の捕虜百人を献上していました。福信は今なら唐に勝てる可能性があるというのでしょうか。
a0237545_20394880.jpg

a0237545_20432813.jpg
王権は扶余豊璋に五千の兵をつけて半島に返しました。その後、すぐ兵を派遣したのではありません。兵を集めるのに時間がかかったというのです。豪族の納得もなかったし、戸籍もできていなかったからです。その中で「備中国風土記」逸文に、「すぐれた兵二万人を得る」よって、その邑を「二万(にま)の郷と名づける」という記述があるのですが、この兵は救援軍とはならず、百済ではなく新羅へ向かったのでしょう。
a0237545_21133498.jpg
a0237545_21212573.jpg
一方、百済の救援に向かった兵は全滅しました。唐の船団の装備と策略を知らなかったのでしょうか。二日で大敗したのです。唐の船は楼舡といって装備した武器も軍船としてもすぐれていました。救援軍は惨敗でしたが、なぜこの結果を招いたのでしょう。
それも、この結果を中大兄側は承知していた・予測していたというのです。

a0237545_21225960.jpg
a0237545_20535649.jpg
まつろわぬ豪族の兵力を「外国に遣ってそこで死なせてしまう」という、中国が取って来た政略が使われたと紹介されました。つまり百済救援で打撃を受けた豪族は王権側には邪魔な勢力だったと云うことです。白村江戦を利用したというのです。では、そこで戦死した九州の勢力は、王権とは対立していたのですね。

白村江敗戦後、羅城築造?
a0237545_21415267.jpg
今まで知られていたのは、白村江敗戦後に大野城・基肄城・水城が造られたということでした。それも、亡命百済人の指揮の元、急ピッチで造られたと。
そこに羅城構想が加わりました。筑紫野市の前畑遺跡の土塁です。ここも慌てて作られたのでしょうか。
前畑遺跡は水城や大野城などの土塁と同じ技術で造られたのでしょうか?そこも分からないまま、羅城説が出されていました。
そもそも羅城とは王都の周りに作られる外壁だということですが…大宰府が王都だったと証明したいのでしょうか。
大宰府は百済の泗沘東羅城の敷葉工法が水城土塁の工法に共通することからも、強い関連性が指摘されています。一方、新羅の王都である慶州にも山城の配置など類似点は指摘されているけれど、羅城は設けられてないそうです
a0237545_23131699.jpg
a0237545_23181604.jpg
いったいこの羅城は何処を守るのでしょうか?
なにより、百済により近しい関係だった地域は何処でしょうね。そして、ついに

白村江敗戦後に古代山城
a0237545_23150778.jpg
そして、古代山城が築かれ、天智天皇は近江に都を移し即位した、という番組になっていました。そこに、神籠石系山城が入れられていたのです。
神籠石が古代山城となって、消滅するのでしょうか。100年続いた神籠石論争は終了するのでしょうか。
a0237545_23263057.png
a0237545_23274018.png
発見されている九州の神籠石は、きちんと東西ラインと夏至の日の出のラインに並んでいます。工法も切り石技術も共通しています。この計画性を見ると、豪族たちが協力し同じ思想のもとに築造したと思われます。これらの神籠石系山城に付いては、このブログで何度も取り上げてきました。画像もありますから見ていただければ嬉しいです。朝鮮式山城の大野城・基肄城・鞠智城についても、ブログに紹介しています。
わたしは神籠石が天智天皇によって造られたとは思えないのです。
もし、天智天皇であれば、彼は九州の王だったことになります。そうでなければ、まつろわぬ豪族たちの勢力圏で国家的な土木工事はできないでしょうし、百済救援の兵を死なせた状況で土木工事の強要は難しいでしょう。
国家を挙げて取り組んだとしか思えないのが、神籠石なのですから。
国家的土木工事は、人・もの・金がないとできません。人を動かすためには戸籍が必要で、これがないと何もできないでしょう。その事を痛感したからこそ、天智天皇は戸籍を造ったのでした。大宝律令でも、この庚午年籍を基本とし、廃棄しませんでした。
逆に、戸籍がなければ何もできないことを証明したのです。
a0237545_23540723.jpg
さて、天智天皇とは……だったのでしょうね。
a0237545_23464676.jpg
ここまでにします。


 歴史ランキング
神社・仏閣ランキング


[PR]
by tizudesiru | 2017-07-01 23:28 | 262神籠石式山城の築造を命じた首長は誰 | Comments(0)
名前
URL
画像認証
削除用パスワード


地図で分かる生活と歴史


by tizudesiru

プロフィールを見る
画像一覧

最新の記事

邪馬台国論争・TBSの着地も..
at 2017-07-23 14:29
大国主を追放したのは、何処の..
at 2017-07-22 17:27
269彷徨える大国主命と宗像..
at 2017-07-20 11:20
人麻呂の妻は火葬された
at 2017-07-19 01:35
鬼のまな板の上で霊魂は語る
at 2017-07-15 12:56
世界遺産になった三女神・お仕..
at 2017-07-10 16:15
海の正倉院沖ノ島・世界遺産になる
at 2017-07-10 02:12
264古今伝授に柿本人麻呂と..
at 2017-07-07 00:19
三輪山は饒速日の山だった
at 2017-07-06 01:45
天香具山(物部氏の山?)を詠..
at 2017-07-02 22:00
NHKは日本の歴史を変えるつ..
at 2017-07-01 23:28
大国魂神社は大化改新後に総社..
at 2017-06-27 10:33
隅田八幡神社の国宝・人物画像鏡
at 2017-06-26 01:20
太政大臣高市皇子を苦しめた皇女達
at 2017-06-24 00:05
三輪山の周囲を根拠地とした氏..
at 2017-06-23 08:55
蘇我氏の本貫・寺と瓦釜と氏神
at 2017-06-19 00:29
257平城天皇、侍臣に詔して..
at 2017-06-16 17:42
256高野山に生きる空海の結界
at 2017-06-15 23:38
255東大寺は聖武天皇の希望..
at 2017-06-14 21:55
255新薬師寺門前に淡海三船..
at 2017-06-14 00:03

記事ランキング

カテゴリ

全体
初めての地図旅
地図のたのしみ
1大宰府の位置
2竹原古墳
3間夫という山
4筥崎八幡宮
5弥生王墓・吉武高木・須玖岡本
6平原王墓ラインから分かること
7八女丘陵の古墳のライン
8高良玉垂命の目的
9渡神山から英彦山へ
10雷山
11羽白熊鷲と脊振山
12羽白熊鷲と古処山
13九千部山と香椎宮
14国守りの山は何処に?
15神籠石が教えてくれる古代
16六世紀の都
17神功皇后伝説の空白地
18太宰府と大保と大分
19畿内に近い豪族たち
20大倭とは何か
21七世紀の政変と天智天皇
22天智天皇の十年間
23日本書紀の中の日本
24唐書から見た倭国と日本国
25/26文林朗裴清が見た倭王
27倭の五王の行方
28倭国の空白
29筑紫城の最後
30山岳の名と歴史や文化
31国内最古の暦が刻まれた太刀
32阿蘇山と高良・高千穂
33筑紫舞(宮地嶽神社)
34志賀海神社の山ほめ祭
35栂尾神楽(宮崎県椎葉)
36神籠石から分かること(1)
37神籠石から分かること(2)
38神籠石からわかること(3)
39神籠石から分かること(4)
40神籠石から分かること(5)
41神籠石から分かること(6)
42愛宕山が見た早良国の光芒
43古代の宮殿は何処に?(1)
44江田船山と筑紫君磐井
45筥崎宮から見た太宰府天満宮
46高千穂の峰から阿蘇へ
47雲仙が守った首長は、何処
48神籠石の謎解き
49宮地岳(阿志岐)古代山城
50醍醐天皇の都の守り
51十世紀の国守り
52淡路国伊弉諾神社
53空海の霊力
54出雲大社と熊野本宮大社
55大山古墳の謎
56天智天皇陵墓と天武天皇陵墓
57宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ
58石上神宮の視線
59続石上神宮の視線
60藤原京の守り
61高松塚古墳の被葬者
62石舞台古墳と藤原宮
63あおによし奈良の都は
64続・あおによし奈良の都は
65継体天皇陵墓のラインを読む
66崇俊天皇の真実とは
67石城山神籠石ライン
68式内社の偏りの意味
69最北の式内社・大物忌神社
70陸奥国の式内社
71尾張国の式内社
72紀伊国の式内社
73近江国の式内社
74但馬国の式内社の秘密??
75筥崎宮の「敵国降伏」その1
76筥崎宮の「敵国降伏」その2
77筥崎宮の「敵国降伏」その3
78筥崎宮の「敵国降伏」その4
79孝徳天皇の難波宮
80倭女王墓を教える香椎宮
81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳のライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社の不思議
92薦神社の不思議2
93金富神社と鉾立山
94 金富神社と鉾立山 2
95 金富神社と鉾立山3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
99北部九州のミステリー2
101宇佐神宮と九州の神々
100日知王の山々
261大化改新後、大国魂神社は総社となる
256平城京と平安京
219法起寺式伽藍
207中大兄とは何者か
149有間皇子を愛した間人皇后
102安心院の二女神社
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
239藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造を命じた首長は誰
263天智天皇は物部系の皇統か
264柿本人麻呂と持統天皇
265消された饒速日の王権
266大宰府・宝満・沖ノ島
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか

画像一覧

以前の記事

2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2014年 07月
2013年 10月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 05月
2013年 02月
2012年 11月
2012年 09月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月

タグ

フォロー中のブログ

絵本ぶろぐ

検索

メモ帳

その他のジャンル

外部リンク

ファン

ブログジャンル

歴史
旅行・お出かけ