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119基山とは何だったのか

基山とは何だったのか
                      
 現在、基山は「古代山城」=椽肄(基肄)城跡 として知られている。その山城を築いたのは、663年の白村江敗戦後であると「日本書記」に書かれている。天智天皇の御代である。
 基山の東側山麓に延喜式内社である筑紫神社が鎮座しているが、ここにある由緒の中に「城山から天智天皇が椽肄城を築くために祭祀されていた神を降ろした」と書かれている。「城(き)山とは基(き)山のことである」ことを、十年ほど前に地元の教育委員会の文化財課で確かめた。
これらのことから、古代より基山の頂上に神が祀られていた・天智天皇の時代に神祭りの場が変えられ、山の下に降ろされた・そこは筑紫神社だという・基山に椽肄城(朝鮮式山城)が築かれた・筑紫神社は延喜式の時代に名神大社となった、ということが分かる。

1・古代の基山の山頂で行われていた祭祀は、いつの時代から始まったのだろうか
 古代の神祭りを知る手がかりはなかなか見つけられないが、地形(山頂)と墳墓の位置などを参考に考えることはできると思う。山頂は古来「神の座ます處」として聖地とされていたようだし、古代の信仰が時代により若干変わったとしても、山頂は残されているからである。登山にしても、明治になるまでは楽しみではなく信仰の行為であった。古来より人々は山を見て天候を見極め、朝夕手を合わせて豊穣を願ったのである。つい最近まで山頂には古代の祭祀が残されていたので、どんな神をどのように祀っていたか少しは分かる、と思われるのである。
その山頂が三か所も直線で連なるとき、人々は崇敬の念を厚くしたのだろう。
基山とつながる山々のことを考えてみよう。まず、九千部→基山→砥上岳の三山である。
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九千部のもともとの山名(古代における山名)は不明であるが、ここが古代の聖地であったことは別に取り上げるとして、九千部から見れば基山は夏至の日の出の山である。このラインは砥上岳にまでは延びる。更に延びるのだが、ひとまず砥上岳に留めておく。砥上は神功皇后の伝説の山であり、筑紫野の宮地岳と東西に並ぶ神の山である。
「とがみ」と言えば、大分県日田市にある「津江三山」と呼ばれる渡(と)神(がみ)岳・釈迦岳・御前岳の中の渡神にも神功皇后伝説がある。それは、「古くは水晶山と呼ばれたが、神功皇后が三韓征伐戦勝の礼に神を迎え祭ったことから渡神岳と呼ばれるようになった」ということである。山頂には雨乞いの神事に使われる祠が祀られているという、釣鐘型の急峻な山である。
 同じ「とがみ」の名を持つのは偶然とも思えないが、砥上がもともと渡神だとすると、いずれの神が渡られたのか、と展開することになる。一方、大分の津江三山のほうは直線でつなぐと、久留米の高良大社にまでラインが届く。高良大社の祭神は武内宿祢というから神功皇后に結びつき、このラインはまんざら出鱈目でもないようだ。大分の渡神岳に降りた神は、まっすぐ高良大社に向かわれたとして、その神の出発地については思うところがあるので後述したい。
次に、基山から大分の渡神岳にラインを引いてみよう。すると、耳納山地の最高峰の鷹取山を通る。基山からのラインは、二か所の「とがみ岳」につながり、古代には意味を持っていたと考えていいだろう。目視できる三か所の山頂が連なるのは特異な特別なことであろう。その起点は基山である。
ちなみに鷹取山は高良大社の真東の山だが、東に鷹取山を置いて、大社は不思議に北を向いている。
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 基山の神祭りはいつの時代に始まったかであるが、当然7世紀の半ば(白村江戦後)よりさかのぼる。それも、政変に近い出来事が起こった頃、つまり権力者が交代して神を何処からか連れてきたからである。二か所の山にそれぞれに神が渡来られた時、「とがみ岳」が神の山とされた時代はいつだろうか。それも九千部が聖地であった頃である。
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 高良大社に武内宿祢が祀られた時なら、渡神岳から渡ったのは武内宿祢となるのだろうか。武内宿祢を武人神と考えるなら、砥上山頂に今も武宮(たけみや)として武神がまつられているし、神功皇后が勧請したという武甕槌神とも重なってくる。砥上は「新羅征討の時、兵士を集め兵器を研がせた」ので砥上と呼んだそうだが。古代に祭られていた神は武神であり、武内宿祢か武甕槌の可能性があるとして、次に進もう。
では、他の砥上岳ラインからも神祭りの時期を探ってみよう。
おつぼ山神籠石→帯隈山神籠石→砥上岳→御所ヶ谷神籠石という砥上岳を通るラインがある。神籠石を結ぶラインである。神籠石とは、神籠石式山城と呼ばれる古代山城のことで、朝鮮式山城と呼ばれる椽肄城や大野城とは工法や仕組みが異なるとされる古代建造物であるが、書紀などの史書には登場しないので謎の古代建造物とされている。その三か所をつなぐラインが砥上山頂を通過することには何らかの意味があると考えられる。
が、ここではその築造時期を問題にしたい。神籠石が正史に記載がないとすれば、正史の編纂者はその建造物を知らなかったようだ。もしくは、知っていたが書かずに済ませることができたし、誰に咎められることもなかった。すると、政権側の建造物ではないのだろう。白村江敗戦時からずっと無視され続けたということは、その時点で築造されていたのであれば、政権側とは関わりないことは間違いない。人が踏み込まないような山の斜面に高さの揃った(規格品)切り石が隙間なく数キロにわたって並ぶなど、一部の人間の思い付きでつくれるものではない。国家的な事業であるというのは大方の見方である。が、目的や施行者が不明なのである。
 神籠石は交通の要衝に置かれているし、いずれも同じ工法であるということから、国を挙げて築造したのは、白村江敗戦後ではなく、出土土器の編年から6世紀半までは遡るだろう。砥上岳が三か所の神籠石をつなぐとしたら、砥上山頂で神祭りも行われていたかもしれないが、目測して方向を決めるためには重要な地形・位置にあったためであるとも思われる。また、知られている神籠石は山城として必要な倉庫跡などの痕跡が見当たらないし、古墳を中に取り込んでいる例もあり、単なる山城とも考えられず神祭りの場としての視点も残されているようだ。この三か所の神籠石ラインは夏至の日の出ラインであり、その間に砥上岳は存在する。神の山・砥上から日が昇ることは信仰の対象だったのだろう。だから砥上を取り込んだライン上に神籠石を築造した・・・
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神籠石の時代に砥上が聖地であったからこそ、九千部・基山から見た日の出の方向としても重要だったと思われる。ここで、九千部→基山→砥上のラインと神籠石→砥上ラインが、平行ではないことに疑問が出てくる。前者は九千部の山頂から見た場合の6月22日の日の出をパソコンで確認したものである。どちらのラインも太陽が山頂に来る。
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 図のように、黄色のラインも黄緑のラインも目測できる夏至の日の出のラインである。黄緑と黄色ラインは理論上では平行になりそうであるが、これらは平行ではない。雷山→若杉山、井原山→砥石山、九千部山→砥上山の黄緑ラインに共通するのは高い山からの目視ということであろうか。しかし、脊振→王塚古墳は黄色であるが、このラインは王塚が平地にあるので、王塚から見た冬至の日没のラインと考えることもできる。これは、夏至や冬至のラインが古墳時代には重視されていたことの証ともなるかもしれない。
念のために、北からライン上に乗る社寺や遺跡と山を上げておこう。
大祖神社(糸島市)→灘山(糸島市)→志賀海神社の元宮(外海側)→宮地嶽神社の古宮
・一貴山銚子塚古墳→宮地岳(糸島市)→小戸→香椎宮本殿裏→遠見山→六嶽(遠賀川流域)
・飯盛山(山頂は伊弉冉命)→博多区の住吉神社(延喜式内社)→鉾立山(香椎宮の東)
・雷山(そそぎ山)→若杉山の太祖神社→若杉山
・井原山→須玖岡本遺跡の高地→砥石岳
・脊振山→観世音寺の講堂→天開稲荷神社(太宰府)→宝満山→寿命王塚古墳(主軸線)
・九千部山→基山→砥上岳
・おつぼ山神籠石→帯隈山神籠石→砥上岳→御所ヶ谷神籠石

他に、九千部からの6世紀より遡るラインがある。九千部は福岡平野の南に広がる山塊である。九千部からラインを北上させると、香椎宮に当たる。香椎宮は大嶽と鉾立山の東西ラインのほぼ中心に位置する。大嶽は磐座を持つ古代信仰の場であり、今も神社が祀られている。香椎宮は神功皇后伝承地・仲哀天皇の香椎宮跡伝承地で廟であり、今日でも官幣社ならぬ幣を奉られる神社である。香椎宮と九千部のほぼ中央に弥生時代の須玖岡本遺跡がある。
 九千部が古い神祭りにかかわっていたと思われるのは、須玖岡本遺跡を通って香椎宮に届くからである。須玖岡本遺跡は弥生中期の中心地であったと考えられる。ここには中国と交流した王墓があり、鏡・銅矛・鏃の鋳型が出土する弥生の最先端の一大工業地帯である。この春日丘陵の南に九千部山頂があり、須玖岡本より基山山頂も望める。福岡平野をはさんで北に立花山と南に九千部山。立花山は本来「二神山」と呼ばれる香椎宮のご神体山である。
また、香椎宮の東にある鉾立山は、玉依姫伝承地である。玉依姫が宝満山に降りる前に鎮座地を探していた時、矛を立てて菅岳と高さを比べたという山である。この鉾立山から南北ラインを南下させると、鉾立山→砥石山→宝満山→宮地岳→高良大社と山頂を直線がつなぐ。まことに不思議な有難い太陽時計のラインができている。須玖岡本から見ると夏至の陽は砥石山から、春分秋分の陽は宝満山から、冬至の陽は宮地岳から昇る。宮地嶽は江戸時代までは「天の香久山」と呼ばれていたという。
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九千部が古代の人々にとって重要な山であったことは、上記のことからもうなずけることだろう。

更に、基山と志賀海神社の元宮(勝間側の外海に面している)と結ぶ線上には、基山→日拝塚古墳→福岡城天守跡(築城前の赤坂山?)→志賀海神社元宮とならぶ。日拝塚古墳は春分秋分に大根地山から日が昇るのが見えるので命名された前方後円墳である。この日拝塚の位置は、焼ノ峠古墳→天拝山→日拝塚→愛宕神社とか、脊振山→日拝塚→(須玖岡本)→竹原古墳とか、平原王墓→飯盛山→日拝塚→観世音寺とかの様々なラインが通過する。まさに古代の信仰のラインの通過点となっている。
基山からのラインが日拝塚を通るのはそこに意味があったからである。日拝塚古墳が築造される時、重要だった山は、飯盛・脊振・天拝・大根地・基山の山々であった。そして、古墳築造に欠かせないのが過去の王墓や首長の墳丘墓であったようである。墳丘墓は盛り土のおかげで目印となりやすかったのだろう。
重要だったと思われる山々には、それぞれに神が祀られていた。イザナミ・五十猛・荒穂などその土地のゆかりの神であり、各地の首長が祀っていた神々だろう。
九千部南北ラインと宝満東西ラインの交点が須玖岡本遺跡であり、ここを中心に考えると、砥石・宝満・宮地岳(筑紫野)が太陽時計の山頂であり、重要だったことがうかがえる。そして、九千部は太陽が毎日かならず南中する山である。ここが信仰の対象になるのは想像に難くない。
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 さて、これまでの山々の連なりと寺社と古墳の状況から考えると、九千部・基山・砥上・宝満・飯盛・鉾立・宮地(筑紫野)の山頂が重要な意味を持っていた頃とは、古墳時代となるのだろう。もちろん、その時代前の弥生の風習や伝統も受け継いでいたのであろう。須玖岡本のある春日丘陵の状況からして、この時代には弥生の信仰や伝統が色濃く残り、そこに新しい人々(侵入者)により新しい神が持ち込まれたという構図になる。

2・入り乱れた神々の出自を少しだけ考える
 では、侵入者が持ち込んだ信仰(神々)とはどんな様相を示していたのだろうか。これまでに侵入者としての可能性があるのは、高良大社の武内宿祢や宝満山の玉依姫である。
 延喜式内社の志登神社(小社)が鎮座する糸島市の志登は、古来より玉依姫上陸の聖地とされてきた。ここでも、玉依姫は外から来た神のようだ。鉾立山の伝承は玉依姫が鎮座地を求めていた時、菅岳より気に入った山を見つけたので鉾立山に矛を立てて高さを図ったという。やはり外からの侵入した神であることがうかがえる。
また、平安時代(九世紀)の大宰府の官人は穂波の大分宮に幣を奉るため参詣しなければならなかったが、その為に伯母(玉依姫)の山・宝満山を越えるのは不敬であるとして、十世紀になって大分宮は筥崎宮(福岡市東区)に遷宮された。侵入した玉依姫は、長く宝満山に留まっていたようである。
 玉依姫は何処からやって来たのか。菅岳や鉾立山を知っていて、穂波町など複数の町の町史に同じ伝承が書かれていることから、福岡県の東北部からの侵入ということになろうか。のちに、玉依姫は神武の母として「宝満大神」と呼ばれ、方々の宝満神社に祭られていく。平安時代になっても、宝満山は「伯母の山」として大宰府の官人に重要視され、穂波町の大分宮に国司が幣を捧げるのに宝満山を越えねばならないことが不敬であるとされたのである。

 ほかにも、延喜式内社の名神大社としてより、宗像三女神の神社として有名になっている宗像大社は、基山のほぼ北になる。三重県の伊勢神宮のほぼ真北にある気多神社は、もともと伊勢神宮の北の神社として作られたという。気多とは北のなまったものであるとか。とすると、宗像大社も「ある神社(地点)」の北を意識して造営されたのだろうか。宗像大社そのものにも、もともとの祭神は大国主命だったという説もある。万葉集を詠む限り、その可能性もかなりありそうである。
近隣では祭神のほかに大国主命を密かに祀る神社が点在する。三女神も他からの侵入した神の可能性も高い。もとは三女神ではなかったという話も方々でなされている。祭神の入れ替えは政変時の条件であろう。
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紫色(基山→宗像大社)
薄茶色(基山→日拝塚古墳→舞鶴城天守→志賀海神社元宮)
黄緑色?(基山→英彦山・高住神社→宇佐神宮の旧社→熊野本宮大社・大祓)*有名どころを結ぶ?
基山のほぼ真南に荒穂神社があるのは気になるところである。荒穂神社→基山→天拝山の荒穂神社と、基山は南北の荒穂神社を結びつける。


 次に、渡神岳に渡った神であるが、江田船山古墳→国見山→渡神岳のラインから察すると、肥後から渡り来られた可能性がある。
渡神岳→英彦山の北岳→御所が嶽(神籠石がある)
 渡神岳→鷹取山→基山(すでに紹介している)
 渡神岳→釈迦岳→御前岳→高良大社(すでに紹介している)
 渡神岳に渡来た神は北部九州に浸透したことがうかがえるだろう。渡神がその侵入の起点となった。まさに渡神岳なのである。また、その出発地として菊池川流域が考えられるということである。江田船山古墳からのラインがそれを示す。
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 さて、肥後の勢力と言ってもそれは江田船山古墳が在る菊池川の下流域のみではない。次の図でも分かるように、阿蘇の神もかかわっているようである。
①八方ヶ岳→男岳→岩戸山古墳
②草壁吉見神社→阿蘇中岳→八方ヶ岳→脊振
③八方ヶ岳→国見岳→鷹取山→大巳貴神社→宮地嶽古墳(福津市)
④高千穂神宮→阿蘇中岳→高良大社
⑤阿蘇中岳→釈迦岳→熊渡山→宮地嶽古墳
 こうしてみると、肥後の神々が侵入した跡がうかがえそうである。そして、古墳時代に入って更に広い範囲からの侵入となったと想像される。
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3 基山とは何か
 基山のことを考えるとき、近隣周辺の神社や山との関係のみに注目すると「基山」を見失う。脊振山系の端に何気なく存在する山だが、古代の祭祀線を求めるときに目視するために使われたようである。つまり、神の通過された場所である。ラインをたどるためには重要な位置にあり、神が通過された土地として後々までも払い清めたのであろう、と想像するのである。その根拠は、山頂と神社、山頂と墳丘墓を結びつけるラインである。
 時を経て、聖地として伝えられ土地に地元の神が祀られたり、政権交代により新しい神が渡来られたりしたのであろう。そこが聖地であることは、長く人々の生活や気持ちの中に残っていたということでもある。だからこそ、白村江敗戦の大転換期に古来からの神が降ろされた。いや、聖地であるからこそ、国守り(政権を守る)の山城が築かれたのである。他の神籠石も神祭りを背景に築造されたようである。朝鮮式の山城も、基本的には神籠石と同じ思想の基に築造されたとしたら、それも十分に理解できるし考えられることである。
 「基山とは何か」という問いに対する私の答えは「古来より基山は聖地であった。神が渡るときに通過する神の道の通過点であった。」となる。
 
 ひとまず、ここまでにします。
by tizudesiru | 2015-09-25 23:40 | 119基山とは何か | Trackback(8)
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地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授柿本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける
373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ
374令和元年こそ万葉集を読み解こう
375大伴家持、万葉集最終歌への道
376神社一人旅はいかがですか
377花の写真はいかがですか
378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東
379万葉集巻二十は鎮魂と告発の歌巻
380関東の神社は、政変を示しているのか
381九州の古墳の不思議と謎
382松浦佐用姫は何故死んだのか
383令和三年の奇跡を祈りましょう
384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ 
法隆寺
大塚初重氏の仕事
385万葉集を片手に旅ゆけば
386今城塚古墳の謎・物語が見えない
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