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24  唐書から見た倭国と日本国

24 唐書から見た倭国と日本国
 「新羅本紀」によると、国号を日本と改めたのは、六七〇年で七世紀の事ある。そこには、「自ら言うところでは、日の出る処に近いからこれをもって名とした」だけではない、天智帝の大きな意志が働いているはず。この年には、庚午年籍が造られている。前年に鎌足を亡くし、高安城を修理し、「長門一と筑紫二の城を築く」と重出の条もある。天皇の胸のうちには、不安のようなものがあったのだろうか。
 「旧唐書」によれば、倭と日本という二国があったことになっている。倭国伝には白村江戦までの出来事が書かれ、日本伝には白村江戦後の事が書かれていると、ネットの情報にも詳しく書かれていう。
 倭国伝には「倭国は古の倭奴国なり。京師を去ること一万四千里、新羅の東南の大海の中にあり」「東西は五月行、南北は三月行、世々中国と通ず」「その王、姓は阿毎氏なり。一大率を置きて諸国を検察し、皆これを畏怖す」一大卒を置いていたのは、邪馬台国時代の伊都国である。では、卑弥呼の姓は阿毎だったのだろうか。世々中国と通じていたのだから、中国に遣使記事のある国である。「倭人伝」の萬二千里ではなく、萬四千里である。二千里増えているが、まだ畿内には届かない。百済・新羅の東南なら九州である。
 日本伝には、「日本国は倭国の別種なり。その国、日の辺りにある故に日本をもって名となす。或いは、倭  国自らその名、雅ならざるをにくみ、改めて日本となすという」「或いは、日本はもと小国、倭の地を併せもつと言う」続けて「その入朝する者、多く自ら矜大、實を以って対(こた)えず。故に中国、これを疑う」とある。
後に編纂された「新唐書」では、「倭国」が消え「日本伝」のみである。
 その新唐書「東夷伝」日本伝には、「日本は古の倭奴国なり。京師を去ること萬四千里、新羅の東南の海中にある」「東西五月行、南北三月行」と、「旧唐書」倭国伝と似ている。旧唐書の倭国伝と日本伝を合わせた文のようだ。率一人が検察する所も同じである。また、十二の官位があり、文字があり
「其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主」と書いてある。
 王の姓は阿毎氏で、天御中主を祖先に持つと自分で言っている。
皆以『尊』為號、居筑紫城」と書いてあるから、名前に「尊(みこと)」を付けて名乗り、筑紫城に住んでいたようだ。「彦瀲子神武立、更以『天皇』號、(行にんべんに歩)治大和州」彦瀲の子の神武は天皇と号し、大和州に移り治めた。そういえば、日本書紀を要約すれば、神武が東遷したという事になるそうだ。
 天智帝の時代、筑紫にはまだ王城の跡が残り、その末裔が居たのだろうか。
新唐書」には歴代天皇の漢風諡号が書かれていることから、日本国の資料をもとに編纂されたらしいが、阿毎氏の居城まで書かれている。阿毎氏は筑紫城に住み、神武天皇が移動して大和州を治めたと書かれているのだ。筑紫城とは、大宰府の事だろうか。他には考えられないが。日本国は、唐とはかなり交流があった。郭務悰も長く滞在し、遣唐使なども送られているし、中国語で会話もしたはずである。筑紫城や東遷を中国の知識人が空想して書いたとは考えられない。しかし、「新唐書」の資料的価値は低いとされる。
 とにかく阿毎氏は筑紫城に住んでいた。では、あの有名な、「隋書」の倭王・姓は阿毎、名は多利思北孤も筑紫城に居たのだろうか。 隋書の「日出処天子」は、聖徳太子とされている。天智天皇より更に歴史をさかのぼらねばならない。
六〇〇年の遣隋使の事が書かれているのは、「隋書」の「東夷伝」である。
推古帝は遣使を隋王朝に出しているが、六〇〇年の遣隋使の記録は、日本書紀にはない。ただし、隋書には倭国ではなく「俀国(たいこく)」と書かれている。しかし、これは「倭国」の間違いであろうと、大方の人が言っている。ひとまず倭国として書いてみた。
 「倭国は百済・新羅の東南にあり、水陸三千里である」魏と通じた事があり、里数を知らないので距離を日数でいい、「その国は東西五月行、南北三月行で、それぞれ海に至る。地形は東高西下で、都は邪靡堆で魏志にいう邪馬臺である。古に楽浪郡や帯方郡から一万二千里という。漢光武帝の時入朝し云々。倭奴国である」さらに、倭国大乱後「名を卑弥呼という女子があり、鬼道で衆を惑わしたが、この国の人は王に共立した」と続き、弟や宮室の様子は魏志と同じような描写である。開皇二十年(六〇〇年)、倭王の姓は阿毎、名は多利思北(比)孤で、阿輩雞彌(大王)と号し、隋の宮殿に遣使した。使者が言うには「倭王は天を兄とし、太陽(日)を弟とし、夜明け前に跏趺坐して政を聴き、日の出で務めを止め、弟に委ねる」、これを聞いた隋の高祖は、はなはだ「無義理」と言い、これを改めなさいと諭した。「王の妻は雞彌と号し、後宮に六、七百人の女性がいる。太子は利歌彌多弗利である。城郭はない。内官が十二ある」この後も服飾の説明が続き、武器の描写の後、「兵隊はいるが、征戦はせず、王の朝会で必ず儀式に武器を持ち連なり並び、その国の音楽を奏でる」と、驚くばかりである。その後、律による刑罰が書かれ、「沸騰中の湯の小石を探させる事」や「蛇甕の中に小石を取らせる事」など恐ろしい曲者の判別が書かれる。また、文字はなかったが、仏法を敬い百済に仏経を求めて、文字を使い始めたようである。
 結婚については、「婚嫁不取同姓」とあり、同じ氏族から嫁を取るのを避けている。また、「婦、夫家に入るに、必ず先ず犬を跨ぎ、すなわち夫に相見ゆ」とあるので、嫁は夫の家で暮らしている。古代は妻問婚だったと聞いたが、違うようだ。葬送の仕方の後に「阿蘇山あり。その石は故なくして火起こり、天に接する」とある。固有名詞の山は、これのみである。阿蘇の字も現在使われているままである。火山であり、人々はこれを祭っている。また、百済・新羅は倭国を大国で珍物が多いとして、敬迎して常に使を通じて往き来している
さて、大業三年(六〇七年)、多利思北孤が朝貢の使を遣わした。使者は言う「海西菩薩天子が重ねて仏法を興すと聞き、遣使して朝拝し、兼ねて沙門数十人が来て仏法を学ぶ」その国書には「日出処天子致書、日没処天子無恙云々」と、有名な文があった。帝はこれを悦ばず「蠻夷の書に無礼者あり。また聞くこと勿れ」と言った。翌年、文林朗輩清(裴世清)が倭国に使いしている。何のために来たのだろうか。倭王は、小徳阿輩臺に数百人を付けて鳴り物入りで出迎えさせた。十日後また大禮哥多田比に二百人余りの騎馬で町外れまで出迎えさせ、その都に向かえ、大悦びして「海西に大隋があり、礼儀の国と聞いていたので、朝貢しました。私は都に離れた海の隅の田舎者で礼儀を知りません」とへりくだって挨拶をしている。裴清も「皇帝の徳は二儀に並び、澤が四海に流れるように(四方に行き届いている)。王が(皇帝の徳)化を慕ったので、行人を遣わして此処に宣諭する」と言う。宣諭とは、何の事だろう。『天子の詔をさとす。申し渡す』という事だろうか。無礼な国書を出した倭国を諭しに来たのだろうか。「朝命はすでに達した」と、裴清は貢物と共に使に送られて帰国する。しかし、末文に「此後遂絶」(この後、国交は絶えた)となり、隋書「東夷伝」は終わる。この後、隋とは国交がなかったのか。

 日本書紀によると、六一八年に隋が滅びるまでに四回の遣唐使の記述がある。遣隋使ではなく、書紀には遣唐使と書かれている。日本書紀編纂の時期の中国の国号は、唐であったからであろうという説がもっぱらである。また、六〇〇年(開皇二十年)の遣使の記述は隋書「東夷伝」にあるが、日本書紀「推古紀」には書かれていない。その理由は、はっきりしない。
 (第一回は六〇〇年)、第二回は六〇七年から六〇八年小野妹子、第三回は六〇八年から六〇九年小野妹子・吉士雄成・倭漢直福因・高向漢人玄理・新漢人大圀・新漢人日文・南淵請安など活躍した人々である。彼らは十五年から三十二年間も中国にいたようである。第四回は六一〇年、第五回は六一四年から六一五年となっている。これらの遣使を命じたのは、書紀では推古帝となっているが、隋書の六〇〇年と六〇七年は阿毎多利思北孤である。
「百済本紀」には、六〇七年「隋が文林朗輩清倭国に送る。我が国(百済)の南路を経由した」と記録されている。此処には、隋と書かれている。裴清は確かに百済を通り倭国に来ている。書記によると、筑紫に寄り畿内に入っている。彼は、時の天皇に会っている。会えば男性か女性かの区別もつくであろう。彼は、旅行記も残しているそうである。聖徳太子は天皇にはならなかったのだろうか。
by tizudesiru | 2011-09-07 13:17 | 24唐書から見た倭国と日本国 | Trackback(12)
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地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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192軽太郎女皇女の歌
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195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
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217熊本・陣内廃寺の瓦
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240神籠石の水門の技術
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252瓦に込めた聖武帝の願い
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大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授柿本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272吉武高木遺跡と平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
320宇治天皇と難波天皇を結ぶ万葉歌
321孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年
322すめ神の嗣ぎて賜へる吾・77番歌
323卑弥呼の出身地を混乱させるNHK
324三国志魏書倭人伝に書かれていること
325冊封体制下の倭王・讃珍済興武の野望
327古代史の危機!?
和歌山に旅しよう
2018の夜明けに思う
日の出・日没の山を祀る
328筑紫国と呼ばれた北部九州
329祭祀線で読む倭王の交替
330真東から上る太陽を祭祀した聖地
331太陽祭祀から祖先霊祭祀への変化
332あまたの副葬品は、もの申す
333倭五王の行方を捜してみませんか
334辛亥年に滅びた倭五王家
335丹後半島に古代の謎を追う
346丹後半島に間人皇后の足跡を追う
345柿本人麻呂は何故死んだのか
346有間皇子と人麻呂は自傷歌を詠んだ
347白山神社そぞろ歩き・福岡県
348脊振山地の南・古代豪族と倭国の関係
349筑紫君一族は何処へ逃げたのか
350九州神社の旅
351九州古代寺院の旅
352日田を歩いたら見える歴史の風景
353歴史カフェ阿蘇「聖徳太子のなぞ」
354遠賀川河口の伊豆神社
355邪馬台国の滅亡にリンクする弥生遺跡
356甕棺墓がほとん出ない宗像の弥生遺跡
357群馬の古墳群から立ち上る古代史の謎
358津屋崎古墳群・天降天神社の築造年代
359倭王たちの痕跡・津屋崎古墳群
360大宰府の歴史を万葉歌人は知っていた
361 六世紀の筑後に王権があったのか
362武内宿禰とは何者か
363神籠石が歴史論争から外され、更に・
364 令和元年、万葉集を読む
365令和元年・卑弥呼が九州から消える
366金象嵌の庚寅銘大刀は国産ではない?
367謎だらけの津屋埼古墳群と宗像氏
368 北部九州で弥生文化は花開いた
369・令和元年、後期万葉集も読む
370筑紫国造磐井の乱後の筑紫
371三国志の時代に卑弥呼は生きていた
372古代史の謎は祭祀線で解ける
373歴史は誰のものか・縄文から弥生へ
374令和元年こそ万葉集を読み解こう
375大伴家持、万葉集最終歌への道
376神社一人旅はいかがですか
377花の写真はいかがですか
378杵島曲が切り結ぶ有明海文化圏と関東
379万葉集巻二十は鎮魂と告発の歌巻
380関東の神社は、政変を示しているのか
381九州の古墳の不思議と謎
382松浦佐用姫は何故死んだのか
383令和三年の奇跡を祈りましょう
384歴史は誰のものか・弥生から古墳へ 
法隆寺
大塚初重氏の仕事
385万葉集を片手に旅ゆけば
386今城塚古墳の謎・物語が見えない
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