21  七世紀の政変と天智天皇

21 七世紀の政変と天智天皇
 太宰府を造り変えたのが天智天皇だったなら、その理由がなければならない。何のために近畿から遠い九州の地に情熱を注いだのか。それが見えなければ、地図上のただの偶然のなせる技になってしまう。
 七世紀に起こった政変とは、言うまでもなく六四五年「大化の改新」である。そして、六六三年「白村江の戦い」、六七二年「壬申の乱」と政変が続く。この三つの事件にかかわったのは、天智天皇である。天智天皇に関しては、謎が多い。大化改新で中臣鎌足と謀り蘇我氏を滅ぼしたが、皇位にはついていない。叔父の即位を願っている。百済救済のため九州に入っていた時も、九州まで来ていたにも関わらず、母の斉明天皇崩御後は飛鳥へ戻り川原宮で殯をしている。斉明天皇崩御後、六年間も称制をとり、天智天皇の即位は遅い。在位は、六六八年から六七一年と短い。が、その四年間は重要な時間だったはずである。出来上がった天智王朝を倒した天武天皇は、「壬申の乱」について日本書紀の巻二十八で詳しく述べている。天智朝の後継者大友皇子を倒した天武朝の正統性を説かねばならなかったのだ。
社会科で学習したことの他に、天智天皇の事はほとんど何も分からない。大化改新の首謀者であり、蘇我入鹿に皇極天皇の前で斬りつけたという行為にたいして疑問は抱かず、若い皇子とはいえ人に斬りつけることができるのだと驚いたものだった。蘇我氏という明日香の豪族を倒した事が、大きな革命に当たるほどの政変だった事に改めて気付かされたのは、かなり後の事だった。大化の改新の首謀者は孝徳帝だったのではないかという説も聞いた事があるが、即位後の孝徳帝の追い込まれた状況から考えると、革命の首謀者には思えないのである。
(ア) 天智天皇は、いかなる宿命を背負った天皇なのか
 日本初期の天智紀の冒頭に「息長足日広額(舒明)天皇の太子なり。母を天豊財重日足姫(皇極)天皇と申す」と書かれている。舒明天皇の太子であったが、父天皇の崩御後、母が皇位につき、太子ではなく中大兄は「皇太子」と書かれている。皇極四年の乙巳の変による皇極天皇の譲位で、叔父の天万豊日(孝徳)天皇が皇位についた。「位を軽皇子に譲り、中大兄を立てて皇太子としたまう」とあり、この時も皇太子のままである。孝徳帝の崩御後、再度皇位に着いたのは母の斉明(皇極)天皇だった。しかも、斉明天皇崩御後は、皇位につかず長く称制をとっている。なかなか天皇にならなかった人である。年齢的にも充分皇位につけるのだが、ずっと皇太子である。また、皇位に着いた時、皇太子に立ったのは、弟の大海人皇子である。皇位について四年後に崩御。壬申の乱がおこった。
大海人皇子の妃として、天智天皇は娘を四人も出していたのにも関わらず(大田皇女、鸕野皇女、新田部皇女、大江皇女)王権を二分しての戦いだった。他にも、御名部皇女は高市皇子妃、阿陪皇女は草壁皇子妃(元明天皇)、山辺皇女は大津皇子妃、皇女はことごとく天武天皇の家族となり、他の皇女も伊勢の斎宮となったり、独身のままだったり、亡くなったりしている。尋常な婚姻関係ではない気がする。固い絆も役に立たなかったとは。
 天智・天武の両天皇の確執は、平城京にまで引き継がれた。

(イ)ひとつの物語 
 二人の間に何があったのか。物語のような展開になってしまった。
 一つの物語として考えれば「天智天皇は斉明天皇の皇子であり、舒明天皇の実子ではなかった」と言えないだろうか。皇太子として舒明天皇が望んだのは、大海人皇子(天武天皇)の方であった。それが故の二人の確執であったと。他に出自の問題で何かあるかも知れないが、今のところ思いつかない。
 母の天豊財重日足姫天皇は、渟中倉太珠敷天皇( 敏達)天皇の曾孫で押坂彦人大兄皇子(舒明天皇の父)の孫であり、茅渟王の王女である。はじめは、橘豊日(用明)天皇の孫である高向王に嫁ぎ、漢皇子を生んでいる。それから、舒明天皇に嫁ぎ二男一女をもうけたと書紀に書かれ、舒明天皇の二年に皇后に立っている。何故、舒明二年なのだろう。即位元年に皇后・皇太子を立て玉座につかれるべきとは思うが。元年には他の血筋の強い方が皇后に立たれていたのだろうか。たとえば、敏達帝と推古帝の血を引く田眼皇女はどうなったのだろう。敏達天皇も広姫皇后が立后後に一年足らずで亡くなり、後の推古天皇が皇后に立っている。同じ事が、舒明帝のときも起こったのか。
 舒明天皇の十三年、天皇崩御。この時、一六歳の中大兄皇子が、「東宮開別皇子(中大兄)、年一六にして誄(しのびごと)をたてまつりたまう」とあり、弔いの言葉を述べた。大臣や有力者が申し述べる誄を皇子が述べている。中臣鎌子が蘇我氏を誅する為に近づいた皇子である。中大兄皇子には野心があった? それとも、身内としてより一歩下がって、高貴な人におくる弔いの言葉を述べたのだろうか。または、実子ではなかった? ここに至って、天智天皇には「舒明天皇の実子ではないという説がある」ことを知った。誰の説かは知らないが、やはりそうかも知れないと思った。
 母の皇極天皇が皇后に立って十一年目に、舒明天皇は崩御された。この時、大海人皇子は九歳くらいだろうか、舒明三年の生まれというから。皇太子の中大兄は、一六歳である。立后の前に高向王との間に生まれた漢皇子ではないかという説もあり、推古三四年(六二六年)生まれという天智天皇。大津遷都の翌年六六八年即位し、天智十年(六七二年)崩御である。
 次に、「称制」であるが、史記・呂后紀に「大后称制」とあるように、中国では本来『天子が幼少のとき皇太后が代わって政令を行う事を意味する』という。
 日本では天智天皇が斉明天皇崩御後に称制して七年正月に初めて即位したこと、また、天武天皇崩御後に持統天皇が「臨朝称制」し、四年正月に即位したことが知られているが、先帝が崩じた後、いまだ即位の儀が行われず執政することのようである。別の資料「家伝」には、斉明天皇崩御後には朝倉行宮にて「皇太子素服称制」とあり、「斉明一四年皇太子摂政」とある。六四五年には十九歳くらいになっていた中大兄皇子は、六六三年、白村江の戦には三十半ばを越えていたはずである。しかし、称制をとったという事は、天皇になるべき人の成長を待っていたことになる。その皇子が、大海人皇子だったのだろう。 
(ウ) 崩御後に送られる諡号に込められた業績と血統
 更に、和風諡号についても考えてみたい。諡号とは、天皇の死後に贈られた名前であるが、「天」という字が用いられるのは、欽明朝からである。そこに王朝の血筋が述べられているようである。
 漢風諡号は、奈良時代に淡海三船により、それまでの歴代天皇にふさわしい謚(おくりな)として考えられ贈られたもの。では、和風(国風)諡号はどうかと言えば、はっきりしない。大宝三年(703年)、持統天皇の火葬の前に「謚(おくりな)たてまつりて大倭根子天之広野日女尊ともうす」と、「続日本紀」に書かれているのが初出である。先帝崩御後に送葬儀礼・殯(もがり)の一環として、先帝の血筋が正しく継承されたものであること、正統性を称揚するとともに先帝に和風諡号が贈られたのである。謚が葬送儀礼に用いられたのは、欽明天皇からだとする説もあるという。欽明天皇は、父継体天皇の後に即位したとも言われている。継体天皇は、磐井の乱のときの天皇である。大和に入るのに数十年を要した事でも有名で、この天皇は、武烈帝の姉の手白香姫皇女を「礼儀を正して」迎えている。そうして、生まれたのが欽明天皇になる。幼年だったので武烈帝の血筋ではない兄の安閑・宣化天皇が先に即位したと書紀には書かれている。欽明天皇と在位が重なるのである。ちなみに安閑・宣化の両天皇の諡号には、「天」の字は用いられていない。「広国押武金日」「武小広国押盾」である。共通して「広」が使われている。
 継体天皇は皇統を継承する欽明天皇を大事にしたようで、「父の天皇はこの皇子を大変可愛がり常に傍に置かれた」のである。手白香姫によって、雄略帝・武烈帝の皇統が欽明に継承され、欽明は宣化天皇の皇女・石姫を皇后に立て、敏達天皇に皇統をつたえた。敏達が皇后に立てたのは、息長真手王の娘・広姫である。皇后広姫が立后の年に亡くなったので、次に皇后に立ったのが、蘇我氏の血筋の推古天皇だった。推古の同母弟の用明天皇も、異母弟の崇峻天皇も蘇我氏の血筋である。用眀天皇の皇子の聖徳太子が亡くなると、山背大兄(聖徳の子)と田村皇子(舒明)との間に皇位継承の争いの兆しが見えたが、蘇我氏自らが山背大兄一族を滅ぼしたことにより、皇位は再び敏達の嫡孫の舒明天皇(母は糠手皇女)に移ったのである。
 つまり、舒明天皇の皇統をより強く継承しているか否かが、天智・天武の明暗を分けたのではないだろうか。斉明天皇の皇子となると、欽明→桜井皇子→吉備姫・茅渟王→斉明→天智となり、欽明→敏達→押坂彦人大兄→舒明・斉明→天武となれば、天地の方が皇位継承の可能性が薄くなると思われる。二人に贈られた諡号を見ても、天智は欽明の血筋を主張し、天武は敏達の皇統を主張している。
より強い継承者はどちらと思っていたのだろうか、諡号の贈り手は。
欽明 天国排開広庭天皇(アメクニオシハラキヒロニワ)
敏達 渟中倉太珠敷天皇 (ヌナクラフトタマシキ)
用明 橘豊日天皇(タチバナノトヨヒ)
崇峻 泊瀬部天皇(ハツセベ)
推古 豊御食炊屋姫天皇(トヨミケカシキヤヒメ)
舒明 息長足日広額天皇(オキナガタラシヒヒロヌカ)
皇極 天豊財重日足姫天皇(アメトヨタカライカラシヒタラシヒメ)
孝徳 天万豊日天皇(アメヨロズトヨヒ)
斉明 皇極に同じ
天智 天命開別天皇(アメミコトヒラカスワケ)
天武 天渟中原瀛真人天皇(アメノヌナカハラオキノマヒト)
持統 高天原広野姫天皇(タカマノハラヒロノヒメ)

 欽明天皇か、持統天皇の時代のどちらかに諡号を贈る儀礼が生じたとしたら、天智・天武は当然のことながら業績や血筋を主張した諡号になっているはずである。が、決定的なものが見えて来ない。

 淡海三船が造り贈ったという漢風諡号は、どんな意味を持っているのだろう。
天智」は、「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けられたとされる。「天武」は、「天は武王を立てて悪しき王(紂王)を滅ぼした」から付けられたとされるらしい。二人の関係を象徴している諡号なのだ。殷の紂王とは帝辛の事で、殷の三十代皇帝である。暴虐な政治を行った事で有名である。「義を損ない、善を損なう事を紂という」そうだ。ネットに書かれていた。淡海三船は十分に理解して贈ったのである。奈良時代には、まだ七世紀の出来事が様々な形で言い伝えられていただろうし、貴族達はその出自をはっきり伝承していたであろう。漢風諡号と和風諡号から、一つの結論が見えないだろうか。
(エ) 天智天皇の王朝樹立まで
 中大兄が王朝を樹立するためには、数多くの困難と障害があった。それを乗り越えて、王朝は築かれた。その為に、何をしたのか。その事が九州とどんな関係があるのだろうか。暴君の代名詞の殷の紂王にたとえられた天智天皇。はたして、暴君だったのだろうか。
 日本書紀の中で、天智天皇の暴虐は記録されているのだろうか。
 まず、大化の改新である。孝徳帝と交流のあった中臣鎌足が中大兄に近づき親密になり、蘇我入鹿の暗殺計画を立てる。その為に、蘇我倉山田石川麻呂に近づき、謀を打ち明ける。そして、入鹿を大極殿に討つ。父親の蘇我臣蝦夷は誅殺される時、聖徳太子と編纂した天皇記、国記、珍宝などを焼く。蘇我の本家は滅亡した。中大兄は鎌足と相談して孝徳帝に即位を進め、大化と改元し、妹の間人皇女を孝徳帝の皇后に立てる。様々な改革が進む大化元年九月、古人大兄の謀反が起こる。
 古人大兄は蘇我馬子の孫で、舒明天皇の皇子である。彼は入鹿が斬られた後、家に逃げ帰り門を閉ざし、その後吉野に入って出家した。しかし、吉備笠臣垂が自首して「吉野の古人大兄の謀反」を中大兄に告白した。中大兄は佐伯部子麻呂等に命じて、古人大兄と子を斬らせた。妃妾は首をくくっている。馬子の孫の皇子一家は絶えた。
 佐伯部子麻呂は最後まで中大兄に仕え、天智五年に病気に倒れた時、長年の功績を感謝され天皇に見舞いを受けている。
 大化五年三月、蘇我臣日向が異母兄の倉山田石川麻呂を皇太子に讒言「遠からず謀反するであろう」、皇太子は信じ、孝徳帝に知らせる。天皇は使いを送り問いただすと、「直に天皇に申し述べる」との答えだったが、大臣の邸宅を軍兵が囲んだ。大臣は大倭の自分の寺に入り、三男一女と共に首をくくった。蘇我日向達は軍衆をひきいて大臣の寺を囲み、遺体を斬刑にした。連座して斬られた者は田口臣筑紫など十四人、絞刑に処せられた者九人、流刑は十五人。没収された大臣の邸宅に「皇太子のもの」と書かれた良書・重宝が残されていたことが分かり、中大兄は大臣の潔白を知る。大臣の娘で皇太子妃になっていた造姫(美濃津子娘)は嘆き悲しみ、やがて亡くなるのである。この後、蘇我日向は筑紫太宰師になっている。世の人は「これは隠流か」といったという。太宰府市の古刹、武蔵寺は、日向の創建と伝わる。彼は太宰府で活躍したのだろうか。
 大化が白雉と改元されて四年、皇太子は「倭京に戻りたい」と、間人皇后と母の皇太后を奉じて飛鳥河辺宮に移り住んだ。新築した難波長柄豊崎宮に一人残された孝徳帝は怒り、皇位を去ろうと山崎に移り住む。怒りの中に病気に倒れ、翌年、五年冬に難波宮で崩御。斉明即位後の二年、孝徳帝の子の有間皇子は狂人をよそっていたが、とうとう斉明四年、天皇が紀の湯に行幸中、中大兄の策に落ちた。十一月三日、留守官(るすのつかさ)として全権を任されていた蘇我赤兄は有間皇子に語る。「天皇(斉明)の政治に三つの過失がある。大きな倉を建てた事、長い溝を掘った事、石を積んで岡にした事」と。皇子は喜び、赤兄の家で謀をめぐらしたが、その夜中に赤兄は皇子の家を囲ませ、駅馬を天皇の許へ走らせ、謀反を奏上した。十一月九日、皇子と、坂合部連薬、守君大石、塩屋連鯯魚(このしろ)は捕らえられ、紀湯に護送された。皇太子は問う。「何故、謀反する?」一九才の有馬皇子は、「天(あめ)と赤兄とが知っている。私は全く知らない」と答えるが、十一日には藤白坂で絞刑に処される。万葉集に護送中の皇子の和歌が残されている。「家なれば けに盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」「岩代の 浜松が枝を引き結び 真幸くあればまたかえり見む」斉明帝について紀湯にいた中皇命(間人皇后)は、「君が世も 我が世も知るや 岩代の 岡の草根をいざ結びてな」と詠んだ。間人皇后(中皇命)は、義理の息子の運命を見つめた。事件にかかわった者のうち塩屋連鯯魚と舎人の新田部連米麻呂は、斬刑。坂井部連薬と守君大石は、流罪となった。しかし、坂井部連薬は壬申の乱で近江方の将として戦死、守君大石は白村江の戦の時には百済救援軍の将軍となり、天智四年には唐に派遣されているのである。流罪の二人は、密かに中大兄の指示を受けて有間皇子を陥れる片棒を担いだのだ。皇太子の全幅の信頼を得ていた蘇我赤兄は、天智の下で左大臣の位まで上り詰め、壬申の乱では大友皇子に忠誠を誓っている。
 次は白村江の戦であるが、百済は六六〇年にすでに滅びている。畿内の人々は百済救援に出発する前から、「夜中に理由もなく船の舳先の向きが反転していた」と、敗れる事を予想していた。女帝はその事を承知して出かけたのだろうか。書紀の斉明七年正月六日、「御舟は征西して初めて海路に着いた」と書かれ、熱田津を経て、三月一日に娜大津に至る。救援軍ではなく征西とは、如何なる意味だろう。九州を平定に行く意味なのか。中世の後醍醐天皇の皇子の懐良親王は、九州へ征西大将軍として遣わされた。「征西」とは、同じ意味で使われたのだろうか。一行は娜県の磐瀬行宮に入り、娜津を長津と改めた。五月、朝倉の橘広庭宮に入り、七月、斉明天皇は朝倉にて崩御。皇太子は、長津宮で素服して称制。十月、棺は帰途に着く。十一月、飛鳥川原にて斉明天皇の殯。
 征西の途中、伊予の熱田津で「熱田津に船乗りせむと月待てば潮もかないぬ今は漕ぎ出でな」万葉の額田王のこの歌の後に、「御舟西つかたに征き、始めて海路に就く」とある。同じ文面である。書紀をなぞっている。同じ意図のもとに編纂されたのである。
 これまでの皇太子中大兄は、紂王と言えるのだろうか。
 斉明紀までの天智天皇の記述から浮かび上がるのは、圧倒的な政治力である。蘇我入鹿に始まり、異母兄の古人大兄、皇太子妃の父・蘇我倉山田石川麻呂、叔父の孝徳帝、有馬皇子と、身近な人々を眼前から払い落したかに見える。しかも、皇太子の命令に従った人物に対しては、その最後まで手厚く扱っている。義理がたい人だ。記述が見当たらないのは、蘇我日向である。異母兄の蘇我倉山田石川麻呂が無実であった為、太宰府から召還するのが難しかったのだろうか。それにしても、である。蘇我日向臣が太宰府に居たのなら、そこは役所があったであろう。彼が初代大宰帥だそうである。役所はあっても、宮はなかった。神功皇后と同じように、斉明帝も太宰府に立ち寄らなかった。朝倉の橘広庭に入っている。皇太子が素服称制した宮は、長津宮である。政務をとるにも筑紫大宰府の役所は使わなかった。大宰府政庁が白村江以後に建造されたのなら、六四九年時点で大宰帥蘇我日向は何処に居たのか。六五四年(白雉五年)孝徳帝の病気平癒を祈願し建立したという伝承の般若寺も、大宰府市朱雀にある。奈良県にも般若寺があり、どちらも同じ伝承がある。また、どちらも奈良時代の瓦が出土したそうである。日向臣は何時まで太宰府にいたのか。白村江戦後、唐の使者・郭務悰が居た都督府は何処にあったのか。疑問は次々に湧いてくる。疑問符を持ちながら、天智紀を見てみよう。
まず、近畿の斉明帝一行の目的は、征西だったのだろうか。派遣された将軍は、誰の命令を受けていたのだろうか。
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by tizudesiru | 2011-09-10 15:23 | 21七世紀の政変と天智天皇 | Comments(1)
Commented by いしやま at 2013-12-14 21:25 x
最近珍しい書籍を教えてもらいましたので、紹介したいと思います。
安土桃山末期、江戸初めの1608年に、ロドリゲスというポルトガル人が日本での布教のため、日本語から日本文化まで幅広く収集し表した、「日本大文典」という印刷書籍です。
広辞苑ほどもあるような大部です、家康の顧問もしていました。
興味深いことにこの本の終わりに、当時ヨーロッパ外国人により聞き取られた、日本の歴史が記載され、古代年号から大和年号に継続と思われるものが記載されていることです。この頃の古代からの日本の歴史についての考を知ることができるのでしょうか。もう既に見ていますか。
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156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
239藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩

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