高松塚古墳の被葬者は高市皇子

再度、高松塚古墳の被葬者
NHKの番組「歴史秘話ヒストリア」で、高松塚の被葬者について追及していました。石棺・壁画とその陵墓の位置を分析しながら。面白く拝見しました。最後まで視聴者を引っ張って面白かったのですが、最後に疑問が残りました。被葬者が高市皇子ではなく刑部(忍壁)皇子となったからです。わたしは被葬者は高市皇子だと思っています。彼こそ新益京(藤原京)を造営した人だからです。最高権力者としてその大極殿と朱雀大路の南の直線上に眠るべくして永眠したと思うからです。
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画像はNHKテレビをデジカメで撮りました。
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藤原宮(新益京)は耳成山の南に作られた最初の条坊を持つ都とされ、藤原宮は初めて瓦が葺かれた宮殿とされています。その藤原宮の大極殿の南に野口王墓(持統・天武陵)があり、その南に中尾山古墳と高松塚古墳があることは、今までに繰り返しお知らせしてきました。
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高松塚古墳は石室(石槨)の壁に人物像や四神の玄武と青龍がえがかれ、被葬者が権力者であることは間違いありません。
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更に、さしかけられた笠が深緑であることから、被葬者が一位であることが分かりました。やはり最高権力者です。そこで,被葬者の候補が忍壁(刑部)皇子と高市皇子にしぼられたのです。また、「海獣葡萄鏡」が副葬されていたことから、遣唐使が持ち帰った鏡ではないかということで、705年没の刑部皇子と決まったという展開でした。
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それでは、四神が描かれたキトラ古墳が高市皇子の陵墓というのでしょうか。しかし、キトラ古墳は藤原宮より伸びたラインからずれています。大極殿を通るラインのみが、中尾山古墳と高松塚古墳を通るのです
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天智陵から南下したピンクのラインに乗るのは、菖蒲池古墳・天武持統合葬墓です。藤原宮から熊野大社に引いたラインにはキトラは乗るかもしれませんが、他の陵墓はラインからずれます。
耳成山から南下した緑ラインには、中尾山古墳と高松塚古墳が乗ります。赤いラインを藤原宮から高松塚古墳までひきました。すると、ラインは大極殿から朝堂院南門を通りました。高松塚古墳は正確に測量して作られたということがわかるのです。

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ここまで藤原宮にこだわった被葬者です。高市皇子以外に考えられないのです。それに、被葬者は頭蓋骨がなく抜き取られた可能性がある(首を斬られたのではない。下あごの骨はのこっていたので40歳~60歳の男性の骨とわかった)、大刀の刀身が抜かれ、玄武の顔が削られていたと、調査報告がありました。そんな仕打ちを受けた可能性のある一位の人物は、高市皇子以外に考えられません。長屋王事件の後、謀反の罪が埋葬されていた父親の高市皇子まで及んだとも考えられるし、軽皇子(文武天皇)の立太子に対して何らかの咎を受けたかも知れません。軽皇子は高市皇子薨去後半年で立太子、その後半年で即位してるのですから。
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ヒストリアで最後にラインを熊野大社に持っていくという不思議な画面の挿入がありました。藤原宮と熊野大社を結びつけるなんて、何か意図があったのでしょうか。平安時代から確かに熊野は聖地となり、あまたの皇族貴族が詣でました。テレビでは意味が分からないまま終わったのですが、わたしは日頃から三本の棒があれば測量し直線を引けると言っているので、ラストの熊野ラインはちょっとおもしろかったです。しかし、正確に言うと、藤原ぐうから熊野まで直線を引くと、天武持統陵や高松塚はラインに乗りません。大雑把なことでいいなら別ですが…
古代は建築や墳丘造営や旅行や意味づけをする時、方角を大事にしました。命や運勢に関係すると思っていたからです。ですから、いい加減な測量はしなかったと思います。
だからこそ、高松塚古墳の位置は大事で、なぜその地が選ばれたか考えなければならないと思います。


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# by tizudesiru | 2017-05-22 21:32 | 249再び高松塚古墳の被葬者 | Comments(0)

続々・岩戸山古墳と八女丘陵

続々・岩戸山古墳と八女丘陵
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岩戸山歴史資料館から東に向かって八女丘陵の古墳を訪ねました。これまで、乗場古墳・善蔵塚古墳・茶臼塚古墳・鶴見山古墳・釘崎2号墳・立山山古墳をみました。更に東に向かいます。やがて見えてくるのが丸山古墳です。
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未調査だということですが、墳丘には円筒埴輪の破片が落ちています。
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この破片について質問がありました。「持って帰ったのか?」ということです。残念ながらお墓の祭祀用土器ですから、怖くて持って帰れません。欲しくもありませんから。でも、丸山古墳を円筒埴輪が取り囲んでいた証拠ですよね。それに、以前から遺跡の上に置かれていたと思います、誰もが持ち帰りを敬遠したのでしょうね。
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丸山古墳を過ぎると、古墳群の東端の童男山古墳群です。ここまでくると、これまでの古墳とは異なる様式の墓だと感じます。
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上の写真は童男山11号墳の馬具です。この古墳群は円墳に巨石の横穴式石室を持つのです。この石屋形を持つ墳丘墓こそ磐井の乱後の古墳の様式ではないでしょうか。つまり、童男山古墳の氏族は、侵入者か次の権力者なのでしょう。まず、一号墳。
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1号墳と同じ斜面にあるのが、2号墳と3号墳です。
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この辺り一帯が古墳群ですが、いずれも巨石で石室が組まれています
八女丘陵には他にも様々な古墳群があります。
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資料館では「八女丘陵の首長墓の系列」を上の図のようにまとめられていました。首長の墓はどんどん東に築かれていったということでしょうか。こうしてみると石人石馬という石製品は、九州の特色というより磐井一族の限られた人々が使用したものと云えるのではないでしょうか。八女丘陵の古墳には埴輪も多く使用されていますから。石人山古墳などの古墳は、当然磐井の一族だということになりますね。
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立山山8号墳の形象埴輪には、どんな意味があり氏族のどんな主張があるのでしょうね。石ではなく埴にこだわり固執したのですから。彼らが磐井を裏切ったのかも知れませんし、または、古来の伝統を守り磐井亡き後の北部九州を守ろうとしたのかも知れません。八女丘陵の墓の変遷が、わたしたちに歴史上の何かを知らせているのです。
では、ひとまずこれにて。

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# by tizudesiru | 2017-05-21 10:57 | 247岩戸山古墳と八女丘陵 | Comments(2)

続・岩戸山古墳と八女丘陵

続・岩戸山古墳と八女丘陵
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岩戸山古墳資料館から八女丘陵を歩いてみましょう。まず乗場古墳、善蔵塚古墳、茶臼塚古墳と見ました。次は、数年前に発掘された石人で有名な鶴見山古墳(前方後円墳)です。その石人は博物館に展示されています。発見された時は、たくさんの石の下敷きになっていて、発掘している方は下から何が出て来るのかドキドキしながら石を除いていったそうです。出土品は、円筒・朝顔形・形象埴輪、須恵器、馬具、銅鏡破片、石製品などがあります。特に、玄室内から出土した銅鏡破片には、表面にヒメクロバエの蛹と毛髪痕が残っていました。それが殯(もがリ)が行われた根拠となったのです。ヒメクロバエは日光の下でしか成長しないからです。

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鶴見山古墳は岩戸山古墳の後の築造とされ、筑紫君葛子の墓ではないかと言われています。

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鶴見山古墳から更に東に進むと、下り坂の途中の釘崎2号墳に当たります。近くには1号墳がみえています。ここは前方後円墳4基を中心にした12基の古墳群です。
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釘崎2号墳から更に下り、集落の中に入ると目の前に石垣が現れ、立山山20号墳にぶつかります。
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あの有名な金製耳飾を出土した立山山8号墳ではありません。これは、立山山20墳です。立山山地区にも多くの古墳がありましたが、8号墳など既に壊されて今はありません。8号墳の副葬品は次の通りです。装飾品の他に馬具などがあります。
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立山山13号墳からは須恵器の祭祀土器がたくさん出土したのですね。
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こうして、古墳を見ると不思議な気分になります。どの古墳も労力と時間と財力を使っているからです。
日本列島の6世紀とは、いったいどんな時代だったのでしょうね。こんなに葬送儀礼に財力を投じるなんて。どの古墳も馬具や武具でいっぱいです。そして、須恵器も溢れています。豪族を支えた経済力は何によって生み出されたのでしょう。更に、墓造りという技術を持った庶民の生活はどうだったのでしょうね。
明日も八女丘陵を歩きます。



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# by tizudesiru | 2017-05-21 00:51 | 247岩戸山古墳と八女丘陵 | Comments(0)

岩戸山古墳と八女丘陵

岩戸山古墳と八女丘陵
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江戸時代までは、石人山古墳が筑紫君磐井の墓だとされていました。岩戸山が磐井の墓とされるようになったのは、この百年余のことなのです。岩戸山にはたくさんのラインが引かれます。既に紹介してると思いますが。直線の先にあるのは、有名古墳の墳丘や地域の信仰の対象になった山の山頂です。宝満山・脊振山・高祖山・九千部・阿蘇山・普賢岳、数か所の神籠石、江田船山古墳などの首長墓です。それはさておき、今回は八女丘陵の古墳群の紹介です。
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岩戸山古墳の東300メートル、博物館のすぐ近くにあるのが乗場古墳です。前方後円墳ですが、昭和30年代に周溝は削られて、今はありません
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副葬品は、玉・馬具・土器などは東京国博にあるのですが、人物埴輪・環頭大刀(福島高校に)など、岩戸山歴史博物館に展示されていました。
さて、磐井の乱後は大きい前方後円墳は作られなくなり、装飾のある円墳に代わるそうですから、横穴式石室に装飾を持つ乗場古墳(前方後円墳)は、磐井の一族ではないということでしょうか。または、一族の中の別の家系だったのかも知れませんね。同じく磐井の乱後に築造されたという装飾を持つ弘化谷古墳は、大円墳で石屋形があります。別の氏族の墓なのでしょうね。
更に、岩戸山古墳(磐井の墓)の石製の大刀には勾金(まがりかね)がついています。大刀の束を飾るものですが、環頭大刀は大刀の頭に輪がついているものです。このような飾大刀は、勾金のついた大刀より古い大刀のように思われますが、どうなのでしょう。岩戸山古墳より新しいということですから
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乗場古墳を過ぎ、福島高校の前を通り抜け丘陵の尾根を下ると、途中に善蔵塚古墳(前方後円墳)があります。
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そのまま丘陵を下りて行くと、茶臼塚古墳(円墳)が見えてきます。道からがけ下を覗くと、ため池と丸山古墳があります。
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丸山古墳の祭祀土器です。
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崖下に下りずに進むと、目の前に茶臼塚古墳が見えてきます。
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八女丘陵は歩けば様々な古墳に出会います。
また明日。




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# by tizudesiru | 2017-05-19 21:48 | 247岩戸山古墳と八女丘陵 | Comments(0)

賀茂神社の古墳・うきはの春

賀茂神社の古墳浮羽の春
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水のきれいな此の地に京都の下鴨神社から祭神を勧請したとか…この神社を守る氏子の代表という方のお屋敷を訪ねるというので、四月の日曜日にわたしも出かけました。賀茂神社は以前にお参りした神社でしたので、今回は拝殿など写真を撮るのを忘れました。
この境内に古墳があるのですが、それは知りませんでした。筑後の耳納山の北と南は古墳群が集中しています。南は家形石棺とか巨石横穴の古墳群が多いようですし、北は日ノ岡古墳とか装飾古墳が多いようです。築造時期もややズレるので、別の氏族がそれぞれに栄えたということです。
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この古墳は形を見ると円墳でしょうか。墳丘が南に延びているのを見ると前方後円墳かも知れません。過去に発掘調査があったようで、記念碑が建てられていました。
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石室内の全面には朱が塗られ、頭がい骨と直刀が出たと書かれています。
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賀茂神社から歩いて河北家に向かいました。
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河北家は河北倫明の生家ということで、記念館がありました。下は河北家の倉を使用する時の入口でしょうか。
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広いお庭のある河北邸は文化財の指定を受けていました。河北家には自家の山北神社があり、この地に移入してきた先祖を祀っておられました。神社を「山北神社」と呼ぶのにも歴史があって、ご当主にお話を聞くことができました。楠森河北家は、浮羽の地に800年間27代続く旧家なのです。壁結(かべゆい)や台所に巨大な海老の注連縄など、 中世を偲ばせる民族的にも貴重な祭事が今でも多く残っています。楠森(くすもり)は河北家の古くからの屋号です。
鎌倉時代の初めに大分の日田に、室町時代の初めに山北小柳館に居を構え、天正年間に現在の楠森に住みつかれ、武家から庄屋として生業を変えて家を守られたということです。山北神社は山北小柳館に由来する社だということです。
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山北神社の敷地内にハルリンドウが咲いていました。九州の日の当たる山地に見られる花ですが、宿根ではなく毎年種で命をつなぐので、一度絶えると次の年から咲きません。ここが昔から守られたことを示す春の花でしょうね。
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どちらも河北家の家紋です。
先の大戦後の「農地改革」で農地のほとんどが無くなったうえに社会の変化により、先代まで残されてきた地域の行事などが消えて行く中、ご当主は農業を続けながらなんとか楠森河北家を守って来られたのです。大変だということでした。近くには河北家がお世話する神社が何か所もありました。屋敷裏の神社もその中の一つだそうで、三次神社と云いました。
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以前、知り合いから貰ったお茶があって、「茶ノ木はほとんど挿し木で増やすから主根が浅いけれど、このお茶樹は原木だから根が岩盤まで達していて、深い所のミネラルを吸い上げているから美味しい」という話がついていました。煎茶と番茶でしたが、たまたま河北家がお茶を生産されているということだったので、買わせていただきました。すると、わたしがいただいたお茶と同じでした。廻りあわせで生産者にお会いしたということです。が、唐突なので「以前からいただいています」とは伝えませんでした。お伝えすればよかったです。味わい深いお茶ですから、様々な方にお勧めしたいと思いました。道の駅でも買えるそうです。
福岡県浮羽郡浮羽町大字山北の河北氏に感謝いたします。お邪魔いたしました。



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# by tizudesiru | 2017-05-17 14:15 | 248賀茂神社の古墳と浮羽の春 | Comments(0)

熊本地震後の塚原古墳群

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塚原歴史博物館は閉鎖中
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外側は片付いているようでしたが、中の展示物はまだ整理の途中でした。壊れたりして散乱したのを片付け展示できるようにするには時間がかかるのでしょう。少ない職員さんが館内の整理や掃除などで忙しそうでした。そこにお邪魔して一枚のパネルの写真を撮らしていただきました。ごめんなさい、お邪魔しました。(パネルには気になる写真があったから、確かめと撮り直しに行ったのです。それは、後に書きましょう)倒れかかった弥生住居や倉庫の展示物は 修理されるのでしょうか。7月には開館の予定だそうです。
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近くの道路はまだ工事中だったし、緑川には渡れない橋があってひどく迂回しました。塚原古墳群の下を九州高速道路が貫通しています。活断層の上の道路がガタガタになったのでしょう。高速道は通れれるようになっていますが、側道はこれからのようでした。
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この方墳はガラス屋根の上から石室を見ることができます。
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大きな石屋形のような、家形石棺のような、変わった石室を持つ石之室古墳は地震で壊れました。奥の二本の木の間に丸く見える古墳がそれです。琵琶塚古墳は墳丘に綱が張られていましたが、大丈夫だったのでしょうか。
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花見塚古墳古墳の石室も家形石棺のようです。
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方形周溝墓から前方後円墳、円墳と揃っていますね。公園として残されたのはこの部分だけですが、十分に楽しめますね。東屋の方は立て直されていましたが、中のテーブルは壊れたままでした。
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さて、こんな状況の閉鎖中の博物館(公園は公開)を訪ねた理由ですが、それは一枚のパネルの為でした。とても気になることがあったのです。前回(地震前)に訊ねた時、おや!?と思ったのです。デジカメで写真を撮って後で調べようと思っていたら、写真がぼけていて肝心の文字が読めませんでした。その写真が下の画像です。今度は文字が読めました。
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玉名郡の郡衙と立願寺の古瓦で、同范か同文になっています。もし、郡衙に瓦が葺かれたのであれば、その時期を調べたいと思ったのです。で、「郡衙と立願寺の文字」を確かめに行ったのです。そうであれば、福岡の場合、評衙の仏堂には瓦は葺かれましたが、その後の郡衙は掘立柱に瓦無しですから、九州の郡衙の状況にややズレがあります。その違いは何によって生まれたのか、玉名の郡衙に古平瓦が葺かれる意味を知りたいと思ったのです。
その時期は福岡の郡衙とどのようにリンクするのか。とにかく、玉名の古瓦の出土は面白い事実ですよね。
五月晴れの塚原古墳群はなかなか美しく心なごみました。親切な資料館の職員さんに感謝します。



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# by tizudesiru | 2017-05-14 12:23 | 246熊本地震後の塚原古墳群 | Comments(2)

雲居の桜

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ここにても雲居の桜咲きにけり
後醍醐天皇は吉野に逃れても決して都を忘れることはありませんでした。ある日、雲居の桜という名の桜を献上された時、都を思い出して詠まれた御製歌と以前聞いたことがあります。
こんな吉野の山の中でも、雲居の桜が咲いた。雲居とは「遠く離れた所」「宮中や皇居」「皇居のある都」のことを云いました。「雲居の桜」と聞いて、都が思い出されていよいよ都への思いが強くなったことでしょうね。しかしながら、大事な長男で戦力でもあった大塔宮を毒殺され、他の皇子たちも東国から西国の戦場に貴種のシンボルとして差し向けられた帝の無念が吉野にはありました。
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後醍醐天皇の宮跡、吉水神社に行きました。
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ここは「吉水院」という僧坊でしたが、明治になって後醍醐天皇の皇居跡であることから「吉水神社」となったのです。義経と静御前が弁慶と共に住んだとの伝承もあります。

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後醍醐天皇の所縁の吉水神社が、放火された勝手神社の仮の遷座所にもなっていました。こんな山の奥の神社に何ということをしたのでしょう。
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後醍醐天皇の皇子の中で二条家の血を引く宗良親王はわたしの好きな歌人です。南北朝の戦いの間は歌が詠めなかったようですが、それでもたくさんの秀歌を残されました。
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沢山の宝物を見て庭に出ると、北闕門(ほっけつもん)がありました。
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都の方向を望んで号泣したという公家や武将が偲ばれました。後醍醐天皇はそういった人々に命を捧げられたのですが、彼らをどう思っていたのでしょうね。吉野に来ると命を賭して戦った男たちの哀しみを思わずにはおれません。
今回の吉野では「おりこう犬」に逢いました。どの子もおとなしく賢く愛らしかったのです。今度の旅で一番うれしかったのは、彼らが幸せそうだったことでした。
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今も幸せしてることでしょう。グッドラック!!




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# by tizudesiru | 2017-05-06 22:20 | 245雲居の桜 | Comments(0)

花の吉野の別れ歌

花の吉野の別れ歌
今年四月十二日、吉野山は中千本が満開でした。
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吉野と云えば、後醍醐天皇の所縁の地でもあります。桜に見とれながら如意輪寺を訊ねました。
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桜に埋もれた宝塔も見事でしたね。数年前に来た時もほんとうにきれいでしたが、今年も何処も素晴らしかったです。
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帰りのシャトルバスで出会ったお嬢さん、義経に惹かれて吉野に来られたようでした。短い間におしゃべりできてちょっと嬉しかったです。その方、後醍醐天皇や楠木正成や正行(まさつら)の話はご存知ないようでしたので、つい「♪青葉茂れる 桜井の♪」と唄ってしまいました。こんな歌、ご存知ですか? お返事は「いいえ、ぜんぜん知りません」でした。
わたしもこの歌を覚えたのは大人になってからです。楠木親子の理不尽な別れと忠誠心が憐れに思えて、いつの間にか幾度も口遊むようになりました。 「♪木の下陰に駒止めて 世の行く末をしみじみと♪」 幼い息子に死地に向う父親の正成は静かに諭したという物語。「お前は生きて、いつの日か父の意志を引き継ぐように」と父の言葉、十年後、約束通りに息子の正行は、後醍醐のために四条畷の戦いに出て討ち死にしました。忠誠心より本当は生き抜いてほしかったのではないかと、吾子の死を願う父親はいないと、わたしは思うのです。
戦前の話ですが、祖父は楠木正成に感動し、港川の墓を訪ねて正成の墓の寸法を測り、同じような墓を建てていましたから、墓参りの度にその話を聞きました。その墓も父が改葬し、今はありませんが、お彼岸や盆暮れの墓掃除の度に、楠木正成の名を思い出しましたね。
ところで、シャトルバスで会ったお嬢さん、神奈川の人でしたね。お健やかにお過ごしですか?
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お嬢さんは、如意輪寺には足を運ぶ時間がなかったのでしょうね。ここには、鏃で御堂の扉に書き残したという、楠木正行の辞世の歌があります。彼は、既に鬼籍に入っていた帝の御陵に参拝し、如意輪堂で髻(もとどり)を切り、過去帳に姓名を残した後に辞世の句を詠んだのです
かゑらじと かねておもえば梓弓 なき数に入る 名をぞとどむる
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正行を慕った弁内侍(べんのないし)は、討ち死を知った後、髪を下ろし正行の菩提を弔ったと云います。「内侍」とは天皇に仕える高位の女官のことです。吉野は桜の影に男の物語、女の物語が散らばっているのです。



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# by tizudesiru | 2017-05-01 21:46 | 244花の吉野の別れ歌 | Comments(0)

柿本朝臣人麻呂と玉津島

玉津島磯の浦廻の真砂にもにほひてゆかな妹も触れけむ
この歌は、すでに紹介しました。万葉集巻九の挽歌の冒頭五首は「右五首、柿本朝臣人麻呂歌集に出」と左脚があり、人麻呂歌集(人麻呂自身の作歌)の歌です。それは、「宇治若郎子の宮所の歌一首」と「紀伊国に作る歌四首」の合わせて五首でしたね。
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宇治若郎子の宮所の歌は、
1795 妹らがり 今木の嶺に茂り立つ 嬬待つの木は古人見けむ
紀伊国に作る歌は、
1796 黄葉葉の過ぎにし児らと携はり 遊びし磯を見れば悲しも
1797 塩気立つ荒磯にはあれど往く水の過ぎにし妹が形見とそ来し
1798 いにしへに妹とわが見しぬばたまの黒牛形を見ればさぶしも

1799 
玉津島磯の浦廻(うらみ)の真砂(まなご)にもにほいて行かな妹も触れけむ
上記の四首は、持統天皇の死後に人麻呂が紀伊国を訊ね、持統天皇の形見の地で霊魂に触れ、元明天皇に『初期万葉集』の奏上をしてもいいのか(文武天皇が崩御された後なので元明天皇に)霊魂に訊ねに行った旅だと、わたしは書いています。その事は既に紹介しました。
人麻呂が紀伊国に旅したのは、「過ぎにし妹」の形見の地を訪ねた時ばかりではありません。大宝元年(701)辛丑冬十月、持統天皇と孫の文武天皇に従駕して紀伊國に来ています。この時は、有間皇子の所縁の地を訪ねる旅で「結松」を詠みました。人麻呂は有間皇子事件には遭遇していませんから、「又も見むかも」とは人麻呂の心境ではなく、皇子の所縁の人に代わって詠んだものとなります。つまり従駕した太上天皇の思いに重ねて詠んだのでした。

146 後見むと君が結べる磐代の子松がうれを又も見むかも
無事に還って来た後にまた見ようと、皇子が結ばれた磐代の松が枝、あの無念の結松の枝をわたしは再び見ることがあろうか

そして、最晩年の持統天皇の「最後の紀伊国行幸」は、有間皇子への別れの儀式でもありました。この旅には孫の文武天皇も同行しました。文武帝とは途中で合流したのかもしれませんが、一行は、黒牛方・藤白坂・白崎・牟婁の湯と所縁の地を訪ねています。玉津島は紀の川の河口にありますし、景勝地ですから、行幸の人々が立ち寄ったと思われます。小さな島には宿泊は無理でしょうから、行宮は湾の玉津島が見える辺りに作られたのでしょう。
山部赤人が「雑賀野ゆ そがひに見ゆる沖津島」と読んでいますので、聖武天皇の時代には雑賀崎側に行宮はあったのです。更に「神代よりしかぞ貴き玉津島山」とその長歌を結んでいますし、「和歌の浦に潮満ち来れば」と反歌も伴いますから、赤人の見ている風景と人麻呂が「玉津島磯の浦みの真砂にも」と詠んでいる風景は、重なるはずです。二人が詠んだのは、同じ風景でしょう。
「神代よりしかぞ貴き」とは、聖武天皇の先祖(天武・持統)の時代からずっと尊い地であるというのです。つまり神代である持統天皇の時代からこの地に天皇が代々訪れていたので、ここが尊ばれたということなのです。
妹も触れけむ」と詠まれた真砂は、塩気立つ片男波の砂嘴の砂だったのでしょうね。
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(古墳時代の紀ノ川)
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(今は紀ノ川の流路は変えられている)
万葉集には玉津島の辺りを詠んだ和歌は多く残されていますが、祀られた神に関するものは有りません。玉津島神社の信仰はいつ始まったか分かりませんが、万葉集巻七の1216に、
潮満たばいかにせむとか海神(わたつみ)の神が手渡る海人娘子(あまおとめ)ども
という歌があるように、もとは海神の男神が祭られていたのかも知れません。それが女神に代わったとなれば、神代(持統帝のころ)となるのでしょう。
わたしには持統帝か文武帝により衣通姫の伝承が持ち込まれ「稚日女尊」として祭られたのではないかと思えてなりません。もちろん、有間皇子を追ってきた間人皇后がモデルです。(紀伊國の道成寺の「安珍清姫伝承」にも、間人がモデルとなったのではないかと、間人皇后が追って来た話と重ねて読んでしまうのです。道成寺は文武天皇が藤原宮子のために建てた寺となっていますが、この寺のご本尊の視線は真っ直ぐ岩内一号墳に向いているというではありませんか。岩内一号墳は有間皇子の墓と言われている方形の古墳です。紀伊国行幸の後、文武天皇が有間皇子の墓を改装し、寺を建てたと考えられなくはありません。もちろん、ゆかりの人だからです。)
持統帝が紀伊国行幸で文武帝に見せたかったのは、有間皇子の所縁の地と結松、藤白坂でした(紀伊國十三首で紹介しました)。
稚日女尊が祭神であることを十分承知していた光孝天皇が、あえて衣通姫を合祀したのは、持統帝や文武帝の紀伊国行幸の故事を踏まえてのことだったと思うのです。
また。


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# by tizudesiru | 2017-04-22 21:21 | 243 柿本人麻呂と玉津島 | Comments(0)

玉津島神社の春・衣通姫の歌

神代よりしかぞ貴き玉津島山
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玉津島が景勝地として知られるようになったのはいつのことでしょう。
「神代」とは、持統天皇や天武天皇の時代を云うのだそうですが。

万葉集巻七 1222には、次のような歌があります。玉津島 見れども飽かず いかにして 包み持ち行かむ 見ぬ人のため
玉津島神社の周辺には、六つの小高い島山(玉津島六山)があります。いにしえ、これらの島山は潮が引くと陸続きとなり、満ちて来ると玉が連なるように海中に並んだといいます。しかも、紀ノ川は現在と違い、古代には玉津島神社の横の和歌川の流路を流れていました。紀伊国行幸の時、天皇の輿は上流の吉野川から紀ノ川へ船を使って玉津島まで至ることができ、この景勝地を楽しめたのでした。
山部赤人の歌でもその様子が分かるというものです。「やすみしし わご大王の常宮と」歌われたように、各天皇が玉津島の近くに常宮(とこみや)としました。「常宮と仕へ奉れる雑賀野ゆ」と赤人が歌っていますから、宮は和歌浦湾の北の雑賀崎方面にあったのでしょう。そこから、島々が見えました。聖武天皇は奠供山(てんぐやま)に登り、弱浜を明光浦と名をかえ、称徳天皇は玉津島に望海楼を造営したのでした。
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(説明板・奠供山)
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(玉津島の西・雑賀崎方面)
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(玉津島の東・片男波の砂嘴と和歌の浦)
さて、今日は衣通姫のはなしでしたね。
玉津島神社の祭神・稚日女尊は女性神でしたね。衣通姫が五八代光孝天皇の夢枕にたったという故事により玉津島神が「和歌三神」の一つとして崇められたということは、実に唐突で不思議な話に思えます。
衣通姫が夢枕に立ったという光孝天皇(830~887)とは、どのような方なのでしょう。在位は短く四年です。
光孝天皇は仁明天皇の第三子、陽成天皇が藤原基経により廃位された後、五十五歳で即位した方でした。即位と同時にすべての子女を臣籍降下させ、後に皇位継承の憂いを残さないようにしていたのですが後継者が決まらないうちに病に倒れられたため、臣下となっていた源定省(後の宇多天皇)を親王に復し、翌日に立太子させ、同日に崩御となられたのでした。この立太子が、光孝天皇の意思だったのか定かではありません。藤原基経としては、仲の悪い妹(藤原髙子)の子の立太子を避けたかったというのがことの真相でしょう。

光孝天皇は優れた文化人であり、「三代実録」には、『天皇若くして聡明、好みて経史を読む。容止閑雅、謙恭和潤、慈仁寛曠、九族を親愛す。性、風流多く、尤も人事に長ず」と記されています。帝は優れた資質を持ちながら、自らの親族から皇位継承者を出さないことに強い意志を持っていたようです。
上記のような光孝天皇の夢枕に立ったのが、衣通姫でした。その衣通姫尊を合祀したのが玉津島神社なのです。

では、衣通姫はどのような歌で神となったのでしょう。
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玉津島神社の由緒には「第十九代允恭天皇の妃で絶世の美人であられ、その麗しさは名の通り『衣を通して光り輝いた』と伝えられ、また尊は殊のほか和歌の道に秀でられたことはよく知られるところである。」と書かれています。
衣通姫は、「古事記では允恭天皇の皇女、軽大郎女の別名」とされ、兄の軽太子との姦通事件に巻き込まれ、伊予に流された兄を追って行きともに死ぬという物語の美女です。「日本書紀では衣通姫は允恭天皇の皇后(忍坂大中津姫)の妹・弟姫(おとひめ)、允恭天皇の寵妃」と描かれています。允恭天皇に寵愛された衣通姫は、姉の皇后の嫉妬を理由に河内の茅渟宮に移り住んだのでしたが、それでも皇后の嫉妬は止まず、ついに允恭天皇の足は遠のいたのでした
上記のように、古事記では軽大郎女皇女=衣通姫は同一人物ですが、書紀では允恭天皇の妃で皇后の妹、軽大郎女とは別人です。さて、玉津島に祀られたのは後者となっています。

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姉の皇后の意に反して允恭天皇に召し出された弟姫はひとり待ちながら、「わが背子が来べき夕なり ささがねの 蜘蛛の行ひ 今夕(こよい)著しも」と詠んだので、允恭天皇は聞いて感動し「ささらがた 錦の紐を解き放けて あまたは寝ずに ただ一夜のみ」と仰せられたというのですが、皇后の嫉妬のため、弟姫は茅渟宮に移りました。そこで、
とこしへに 君もあへやも いさなとり 海の浜藻の 寄る時々を

何時もいつもあなたは逢って下さるわけではないのです。せめて、海の浜藻が浜辺に寄って来る時があるように、その時だけでもあってくださいませ。 

その容姿だけではなく、衣通姫の心根にも允恭天皇は感動して、藤原部という御名代を定めたというのです。
一方、古事記の軽太子事件の時に大郎女皇女歌が詠んだのは、
君が行き け長くなりぬ 山たづの 迎えを行かむ 待つにはまたじ
貴方がお出かけになってから日もずいぶん経ちました。あなたをお迎えに行こうと思います。とても、待ってなどおられません。
という激しい思いの歌です。皇位継承の争いの中に在って、愛を貫こうとしたのか、軽大郎女皇女は迎えに行って心中したというのです。
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ここで、玉津島神社の由緒にある歌を思い出してみましょう。
立ちかへり またもこの世に跡垂れむ その名うれしき 和歌の浦波
この歌を詠んだ衣通姫は、軽大郎女でしょうか、弟姫でしょうか。わたしには、前者に思えます。皇位継承の事件に巻き込まれた絶世の美女の無念を偲び、その霊魂を慰め、自らも決意(皇位継承者を自家からは出さない)を新たにするという光孝天皇の深い意図が、あったのではないでしょうか。以後、衣通姫に奉納する「宮中の歌会」に光孝天皇の思いが受け継がれたのではないでしょうか。
結果として、光孝天皇は崩御の間際では藤原基経の策に何もできなかった…それとも、何もご存じなく崩御されたのか、そこは想像するのみです。源定省(後の宇多天皇)の立太子の日に、即日崩御ですから。事実が重すぎますね。
ここでの結論は、衣通姫は軽大郎女皇女だったのではないか…ということです。
光孝天皇は衣通姫の伝承を十分に承知し、万葉集の軽太郎女と結びつけたうえで、子孫の平穏な将来を祈念しつつ、玉津島神社に衣通姫を合祀したと。

また明日。


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# by tizudesiru | 2017-04-17 13:56 | 242紀伊国・玉津島神社 | Comments(0)

紀伊国・玉津島神社の春

玉津島神社不思議
紀伊国の春を楽しむ旅に出かけていました。昨日、帰ったところです。
和歌山市和歌浦中三丁目四番二六号に玉津島神社は有ります。この辺りは、玉出島ともいわれ、万葉集の時代には島山がまるで玉のように海の中に連なっていたと推察されています。山部赤人の歌に「神代より然ぞ貴き玉津嶋山」と詠まれているように、昔から風光明媚な景勝地だったのです。ここは、聖武天皇や称徳天皇、桓武天皇の玉津島行幸の地でもあります。

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赤い鳥居に桜が華やかに寄り添っています。鳥居の横には万葉歌碑がありました。
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神亀元年甲子の冬十月五日 紀伊国に幸す時に、 山部赤人の作る歌一首 併せて短歌
やしみしし わご大王の 常宮と 仕え奉れる 雑賀野ゆ 疎外に見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒ぎ 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より しかぞ貴き 玉津島山

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沖つ島 荒磯の玉藻 潮干満ち い隠り行かば 思ほえむかも
若の浦に 潮満ちくれば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る

赤人の「若の浦に潮満ち来れば潟を波…」の歌は有名ですね。この玉津島神社のご祭神は、稚日女尊(わかひるめのみこと)息長足姫尊(おきながたらしひめみこと)衣通姫尊(そとおりひめみこと)明光浦靈(あかのうらのみたま)の四柱です。四柱の神々はどんなつながりがあるのでしょうね。玉津島神社の周囲には美しい風景が広がります。
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ご祭神は、
稚日女尊…玉津島の神。イザナミ・イザナギの御子で、天照大神の妹、またの名を丹生都比売神(にふつひめのかみ)
息長足姫尊…神功皇后。皇后が海外に軍をすすめた時、玉津島(稚日女)の神の霊威を尊崇し、和歌山県伊都郡かつらぎ町天野と玉津島の二か所に鎮め祭り、自身も玉津島に合祀せられた。
衣通姫尊…58代光孝天皇天皇の夢枕に衣通姫が現れて「立ちかえり またもこの世に跡垂れむ その名うれしき 和歌の浦波」と詠まれたので、光孝天皇の勅命でこの社に合祀された。
明光浦靈…名光浦の霊。聖武天皇はこの地の「弱浜(わかのはま)」の名を改めて「名光浦(あかのうら)」となし、守戸を置き「春秋二季官人を差遣し玉津島の神・明光浦靈を奠祭せよ」と詔勅を発した。
玉津島の神は丹生都姫尊でもあり、この神を神功皇后が二ヵ所で祭り、皇后自身も神として後に祭られ、聖武天皇が詔勅で稚浦靈も祭らせた、という…ここまでは理解できます。しかし、衣通姫尊の歌はなんだか、前の三神とは話がかみあいません。

光孝天皇の夢枕に衣通姫が立ったのは、何処なのでしょう? 京の御所での夢でしょうか? 紀伊國の玉津島での夢でしょうか? 夢枕に立って読まれた歌の故事により、
玉津島の神は「住吉大神(摂津)・柿本大神(明石)と共に『和歌三神』として朝廷はもとより広く一般文人墨客から崇められたそうなのです。後世、玉津島の神に和歌を奉納する歌会「法楽和歌会」が、後西帝・霊元帝・桜町帝・桃園帝・後桜町帝・後桃園帝・光格帝・仁孝帝の各天皇の御代に宮中で催されたそうです。
玉津島の神(稚日女尊)は、衣通姫尊と一体となったということでしょうか。それにしても、玉津島の神が急に「和歌の神」になったのは、衣通姫の夢枕の故事に因ります。
衣通姫は、次のように詠んでいます。
立ちかえり またもこの世に跡垂れむ その名うれしき 和歌の浦なみ
一度この世を去ったけれども、またこの世に跡を残したくなりました。 その名がうれしいことに和歌の浦となったのですもの。寄せくる波のように、何度でもこの世に。
何とも意味深い、そして、ある歴史的な事件を彷彿とさせる歌ではありませんか。後の多くの天皇が心惹かれた「和歌の浦の玉津島神社」には、古くから衣通姫が祭られていたと、どこかで詠んだことがあります…衣通姫の名は「万葉集」にも出てきます。しかし、玉津島神社の由緒書きにある「衣通姫(十九代允恭天皇の妃で絶世の美女)」とは別の女性として出ているのです。
また、明日。

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# by tizudesiru | 2017-04-16 00:42 | 242紀伊国・玉津島神社 | Comments(0)

241神籠石と古墳の石組みの技術

切り欠き加工が古墳に!
数年前に大野窟古墳のパンフレッツを見た時、え?と思いました。切り欠き加工が使われていたからです。
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パンフレットの画像を見たので、熊本県氷川町に古墳を訪ねました。この古墳は見学が可能です。なぜか説明板には円墳と書かれていますが、違っているようです。パンフレットでは前方後円墳ですね。
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入口
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羨道
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玄室の刳り貫きの家形石棺と石棚でしょう。
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側壁は少しずつせり出していて、持ち送りの技術が使われていますね。天井には巨石が置かれています。
井寺(いてら)古墳は同じような技術を使って、馬門石(ピンク石)=阿蘇溶結凝灰岩で石室が作られています。石室はベンガラが塗られているようです。井寺古墳の石室は鍵がかけられていて見学はできません。切り欠き加工を見つけやすいですね。側壁は持ち送りで石が組まれ、一番上には巨石が置かれています。
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この古墳は直弧文で有名ですね。画像は、古墳関係の本からいただきました。熊本ではかなり知られた古墳です。この紋様は石障に線彫され彩色されているのです。
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神籠石の水門に使われた切り欠き加工は、肥後の古墳の技術に使われていたのです。この石組みの技術が伝わったのは、もちろん両方の地域に深いつながりがあったからです。巨石の古墳も福岡に伝わっています。
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(番号はわたしがプレゼンする時に付けたものです)
福岡県の宮地嶽古墳は、6世紀後半の円墳です。相島の玄武岩を使った巨石の古墳です。欽明陵と言われる見瀬丸山古墳の次の長さをもと古墳で、日本では二番目に長いそうです。見学はできます、不動神社となっていますので。
大野窟古墳は、明日香の石舞台古墳より玄室の天井が高く、日本一だとか。

さて、今日は古墳の話ではなく、石組みの技術の話でしたね。古墳の石組が神籠石に使われたということは、肥後の技術が北部九州に伝わっていたということですが、それは、文化として伝わったのでしょうか。それとも、何らかの政治的変化の後に浸透していったのでしょうか。
気になりますね。鍵になるのは墓制でしょうか。先祖の霊を祀る方法が変わるとしたら、大きな社会的変革があったということでしょうから。わたしは、大きな変化が北部九州を襲ったと思います。
(旅行に行くので少しお休みです)


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# by tizudesiru | 2017-04-09 23:59 | 241神籠石と横穴式古墳の共通点 | Comments(0)

240神籠石の水門の技術は共通する

神籠石・水門の石組みの技術は共通する
雷山・阿志岐・女山・おつぼ山・御所ヶ谷神籠石の水門を見ましょう。
雷山神籠石の北水門
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阿志岐神籠石の第一水門
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女山神籠石の水門
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おつぼ山の水門
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御所ヶ谷神籠石の水門
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御所ヶ谷神籠石の中門は、あまりにも有名です。この石組みは「布積の水門石積の後に、重箱積の石積が乗る」と報告者に書かれていました。つまり、途中で技術者の交替とか、時間の経過とか、指導者の交替とか、何らかの異変があったのでしょうか。長く忘れられていた遺構を別の時代になって再利用した時、前時代の技術は使わなかったなどなど考えられます。また、御所ヶ谷は列石でも不思議でしたね。切り石が版築の中に隠れている所と、版築の外に露出している所とありましたね。何らかの工事変更があるには、社会的な出来事がかかわったと思うのです。
それは何時の出来事か、そこはわかりませんが、少なくとも6世紀の出来事でしょう。6世紀の土器の欠片が出土するのですから。

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列石の写真で、共通する技術に気がつかれましたか?
それは幾度も出て来た「切り欠き加工」です。この技術は古代にしか使われていないそうです。それは何故でしょう。こうして千数百年も壊れずに残る技術なのに、何故伝わらなかったのでしょう。技術を必要とされる時代が終わったとか、別の地域に一斉に流れて行ったとか、技術者集団が全滅したとか、様々な理由があるのでしょうね。
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他にも、阿志岐神籠石(阿志岐古代山城)の水門には、階段状に少しずつずれて行く技法が使われています。「持ち送り」の逆ですね。持ち送りは徐々にせり出して最後に大石で抑えるという「古墳築造」の技術ですね。ただし、阿志岐山城の説明会の時、学芸員さんは「持ち送り」とか、「古墳の技術」とか、云われてません。これは、わたしのかってな意見です。「階段のように石組みがずれながら上がっていくのが特色」「切り欠き加工は古代にしか使われていない」「水門の石組みの技術で、鬼ノ城と共通するものもある」とは言われました。
では、次は古墳の技術と比べてみましょうね。
また、明日



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# by tizudesiru | 2017-04-08 10:42 | 240神籠石の水門の技術 | Comments(0)

239神籠石は消されるのか

神籠石は何処へ消えた?!
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慣れ親しんだ神籠石系山城という歴史用語は、無くなるのでしょうか。確かに神籠石が世間に知られた時、高良大社の神域を囲む列石と古くから使われて来た「神籠石」という言葉が、混同して使われたので理解に混乱が生じたのでしょう。しかし、正史に登場する朝鮮式山城と区別するために、明治以来ずっと神籠石・神籠石系山城という用語が使われて来たのは事実です。しかし、何故か歴史学者の歯牙にはかかりませんでした。その存在を認めることは間違いでああるかのような意見は有りました。ほとんど地方(主に九州)の自治体が地域おこしのために時々使うマイナーな用語でもありました。もちろん、大野城や基肄城、鞠智城といった正史に残る山城のイベントとは比べられないほど小さなものだったと思います。
そのささやかな歴史さえも、突然、奪われようとしていると、わたしは思いました。つい一年前の山城シンポでさえ、若い研究者が馬鹿にした笑いで「僕は神籠石は大野城より新しいと思いますよ」と、これまた若い研究者仲間に喋り掛けているのを見ました。そばを通り抜ける時、「ああ、やはり神籠石について考えてくれる人はいないのかな。九州になんで神籠石が集中するのか、少しは考えてほしいな」と、非常に残念に思いました。しかし、一転、「古代山城」という一語で、朝鮮式山城も神籠石もひとくくりにされてしまったのです。いつの間に? 何があったというのでしょう。分けて考えて来たのではありませんか、今までは。なぜ、急に変わったのでしょう。それも、近畿政権の建造物だったとは、仰天の展開ですよ。つい昨年まで、下の画像のように、朝鮮式山城と神籠石系山城は分けて示されていました。資料は、山城シンポジウムだったと思います。
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列石と版築を持つ神籠石系山城は九州から瀬戸内に分布します。それも絶妙な位置に置かれているのです。例えば、おつぼ山神籠石、帯隈山(おぶくまやま)神籠石、御所ヶ谷神籠石は一本の直線で結ぶことができます。その山城の高所にピンを立て直線で結べばいいのです。誰にでもできます。
驚いたのは、この直線がほぼ夏至の日の出のラインだったからです。
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夏至の日の出は、冬至の日没のラインでもあります。東西のラインは春分秋分の日の出・日の入りのラインではありませんか。南北のラインは、太陽が毎日南中するラインです。そこに、神籠石系山城があるのは、非常に驚きでした。これは、自著「太宰府宝満沖ノ島」でも取り上げたと思います。
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これらの神籠石に共通する列石を見てみましょう。
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雷山神籠石の列石。番号は昨年の講座(市民センターであった)で、わたしが使ったスライドの番号です。写真の日付けは、撮影に行った2013年です。写真を撮るには冬がいいかなと思います。ただ、一人で行くのは危険だと思います。
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杷木神籠石の列石は、江戸時代に筑後川の工事に使われたらしくほとんど抜き取られています。大石堰は五庄屋の伝承と共に大変な工事だったようです。古墳の石室も壊されたとか…
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鹿毛馬(かけのうま)は歩きやすく、40分ほどで列石を一周できます。列石はほとんど残されています。

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御所ケ谷神籠石は、様々な時代がごちゃ混ぜに盛り込まれた神籠石です。途中で工事の変更もあったとか…

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女山(ぞやま)神籠石には切り欠き溝がはっきりと残っています。

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高良山神籠石が、神籠石という用語の発祥の地です。列石は高良大社(延喜式内社・筑後国一宮)の神域にほぼ重なるそうです。

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阿志岐神籠石(阿志岐古代山城)の列石は、二段に積まれている場所があります。丁寧に敷石もしかれています。急斜面を列石が滑り落ちないようにしているのでしょう。もちろん、一段の列石もあります。
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唐原神籠石は見学できませんでした。ここは列石が抜き取られた跡が残っていました。抜き取られた石が中津城の石垣に転用されているということでした。


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列石の共通点は見つかりましたか。いずれも切り石でした。切り欠き溝がありましたね。版築のための木材を据えるて見のものだそうです。
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雷山神籠石の説明板によると、切り欠き溝が彫られた理由が分かります。下は、御所ヶ谷神籠石の報告書の中の説明図です。イラストををデジカメで撮りました。
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次は、水門をみましょう。
また明日。




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# by tizudesiru | 2017-04-08 00:23 | 239神籠石は消された? | Comments(0)

240藤原鎌足の墓は何処か

鎌足の墓は何処か?
藤原鎌足は明日香村の大原で生まれたといいます。飛鳥寺や飛鳥坐神社のある辺の東で大原神社があり、今は小原という地名になっているそうです。飛鳥で生まれた鎌足が摂津の安威山に葬られたとはどういうことでしょうね。
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というのは、吉川弘文館「藤原鎌足と阿武山古墳」を読んで、再び鎌足墓に興味を持ったからです。かなり前に、阿武山古墳が新聞に取り上げられた時は、阿武山は鎌足関係の伝承地の近くであり、織冠をもらったのは鎌足以外にいないから、鎌足の墓の可能性が極めて高いと書かれていました。では、多武峯の鎌足の墓は嘘で、梅原氏の説のように「多武峯の十三重塔の下に眠るのは定恵かもしれない」と思ったものでした。しかし、今回この本を読んで、見落としていた事実にぶち当たりました。当然、気が付かなければならなかった事実です。
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(中央が阿武山古墳です)
メディアのおかげで玉枕と織冠は有名になりましたね。上の写真は吉川弘文館の本の表紙ですが、織冠と玉枕(ガラス製の玉の枕、布にまかれていたであろう)の復元品となっています。織冠には金糸で刺繍がされていて模様があったと思われますが、そこまでは復元されていなくて、縦横の線だけです。わたしが「アッ」と思ったのは、これらではありません。
藤原鎌足とされた人物は、脱活乾漆棺(だっかつかんしつかん)に眠っていたということです。脱活乾漆棺とは、木枠に布を数枚から数十枚重ねて布着せをし漆を塗重ねる技術で作られ、最後には木枠を取り外した乾漆棺です。棺に漆を塗っただけでも高級品なのに、布着せをして漆を塗るとは超高級品なのです。
この技法で作られた棺は、野口王墓(天武・持統帝)、牽牛子塚古墳(斉明帝・間人皇后)などでも使用されています。牽牛子塚古墳は二つの石槨の双方ともに脱活乾漆棺ですね。なるほど。
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(天武天皇の棺の身が脱活乾漆棺で、蓋は漆塗木棺らしいです)
それにしても、高級な棺が阿武山古墳に使われていたとなると、この被葬者が只者ではなかったということになりますね。
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上記の「本」の挿入写真です。昭和九年の発見だったので、写真や管内の資料の一部しか残されていませんが、その資料を探し出し(地震観測所の倉庫に保管されていた)検討を加えてのシンポジウムのまとめに出された本でした。なかなか面白かったので、おすすめです。
さて、藤原鎌足とは何者だったのでしょうか。
この阿武山古墳を造営したのは、息子の不比等になりますね。そして、定恵がここから鎌足の遺体をほりだして多武峯に移したことになっています。えっ、何で? 墓はここにあるし、遺体もあるし、どうなっているの? と、思いませんか。

この本には、まだ面白いことがたくさん書かれていました。来週は、近畿に出かけてその一部を確かめて来ようと思っています。

また明日


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# by tizudesiru | 2017-04-07 20:54 | 240藤原鎌足の墓 | Comments(0)

238米原長者伝説の鞠智城

米原長者伝説鞠智城   
この長者原には昔から焼き米が出ました。伝説の通りの灰も出ました。
鞠智城が始めて文献に登場するのは、698年の「太宰府に菊池城を修繕させた」という記事です。(続日本紀)

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鞠智城は誰が造ったのか、実は不明なのです。ですが、たぶん大野城や基肄城と同じように亡命百済人の指導で作られたのだろうと想像されています。
この八角形の建物は鼓楼と呼ばれています。突然鳴り出したという怪奇な現象が史書に記録されていますが、この八角形建物のことらしいです。(文徳実録)同じく、「三代実録」にも「兵庫の戸が勝手に鳴る」と書かれています。
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鼓楼があるのは長者原という中心の広場です。この一帯を中心に5期にわたって建物が建てられています。
最初の建物群が掘立柱建物です。

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長い建物。倉庫ではない建物は兵庫だそうです。
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大野城も基肄城も見晴らしがいいのですが、菊池城の見晴らしも特別にいいようです。灰塚に登ると雲仙から阿蘇の外輪、福岡の南の山から金峰山・熊野岳、八方ヶ岳、鞍岳、360度全部見えます。
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奥の山は八方ヶ岳。下の池は貯水池跡です。ここからたくさんの遺物が出土しました
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遠くの山並みは阿蘇の外輪山の鞍岳です。其の前の瓦屋根の岡が「長者山」です。
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さて、下の瓦はこの山城の何処で一使われたのでしょうね。
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こんなふうに葺かれていたのでしょうか。
出かけていたので、ブログを休んでました。
また、明日




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# by tizudesiru | 2017-03-12 22:12 | 238米原長者伝説の鞠智城 | Comments(0)

237パルメット文様は何処から?

パルメットってなんですか?
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パルメットって、ヤシの葉の文様らしいですね。実は「瓦」でも出て来た文様です。法隆寺の若草伽藍にも使われていました。
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この紋様は何処から入ったのでしょうね。若草伽藍の平瓦が平瓦の初出だそうですから、この紋様が気になるのです。
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これは藤ノ木古墳の馬具の文様です。藤ノ木古墳は若草伽藍のすぐ近くの古墳です。この馬具の文様を瓦職人が知っていたとか、そんなことはないよね。
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同じ馬具でも、古墳によって形も文様の複雑さも違っています。移入の時期が異なるのでしょうね。
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馬具の杏葉です。ハート形(心葉)の杏葉で、ここに使われている文様は?なんでしょうね。牧野古墳と平林古墳の杏葉(ぎょうよう)は似ています。
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こちらも同じ文様のようです。ここも、ハート形の杏葉ですね。平林古墳と牧野古墳は築造時期が近いということでしょうか。
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こちらは技術的に進みましたかね。
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大伽耶系の文物といえば、江田船山古墳(熊本)大谷古墳(和歌山)稲荷山古墳(埼玉)は百済系と云うことですね。
江田船山古墳は副葬品のほとんどが外来品だとか。この時期の古墳でこれほど外来品を副葬する古墳はないということでした。

しかし、パルメットの文様を持つ藤ノ木古墳の馬具は新羅系だそうです。
沖ノ島の馬具も新羅系だそうです。「沖ノ島と大和王朝展」にも、宗像大社の馬具が展示されていました。沖ノ島に奉納されていたものでしょうか?
比べると、藤ノ木の方はパルメットだけではなく幾つもの文様が組み合わさっていますね。
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新羅系の馬具は、藤ノ木古墳(奈良)、将軍山古墳(埼玉)沖ノ島(福岡)綿貫・将軍塚(群馬)などから出土しています。埼玉の将軍山古墳からは馬胄が出土しました。
ここは6世紀後半とかかれていました。
福岡の船原3号墳も馬胄が出土しましたが、ここは6世紀だそうです。
大谷古墳も馬胄が出土しましたが、ここは5世紀後半から6世紀前半の築造古墳だそうです。同じようなものが出土しても、時期は同じではないのですね。

ううう、難しいです。
結局、パルメットが何処を通って若草伽藍の瓦までたどり着いたか、想像することもできませんね。
いろいろ見ただけでした。
また、明日。



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# by tizudesiru | 2017-03-08 17:32 | 237パルメットの謎 | Comments(0)

236藤ノ木古墳の築造時期の謎

藤ノ木古墳は本当に6世紀
あ、そうそう一月に藤ノ木古墳に行きました。法隆寺に立ち寄ったついでに行ったのです。そしたら、「沖ノ島と大和朝廷展」に藤ノ木古墳の出土物が展示されていたので、どんな関係かな?と、やや驚きました。
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「沖ノ島と大和朝廷展」に展示されていたのは、どういうわけか金銅製円形金具でした。そこには、6世紀と書かれていました。6世紀、これが定説になったのですね。
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藤ノ木古墳にはたくさんの問題がありました。まず、築造時期とされるのは前方後円墳の時代。が、此処は円墳です冠も大帯も副葬された人物が眠る墳丘なのに。
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そこに副葬されたガラス玉は、オレンジ・黄・グリーンの明るい色が主流。6世紀の日本列島でガラス玉はダークブルーが普通です。しかし、藤ノ木古墳は違います。こんな明るい色の配色は、和歌山県の大谷古墳や韓国の武寧王(ぶねいおう)
など、数例があるのみだそうです。
「玉の世界では、このガラス小玉は古墳時代後半の好みというよりもむしろ正倉院の世界ですね。時代が下がるというのではなく、これは藤ノ木古墳の特異性でしょうね」(森)とい
う意見もあります。聞き過ごすことはできませんね。
6世紀後半の古墳にはありえない状況が揃いすぎているのです。

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(大谷古墳のガラス玉)
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(石棺には朱が塗られていました)
藤ノ木古墳の石棺には二人が埋葬されていたそうです。その二人の身分を証明するような冠と大帯が、二人の足元に折りたたまれて置かれていました。ぞんざいに飾履(しょくり)と棺璧の間に挟みこまれていたとか…
飾履とは、死者が履く金銅製の靴ですが、二足の飾履は片方ずつが壊れていたそうです
冠も大帯も飾履も権威のシンボルですが、それを折りたたみ壊すことは権威の否定という側面があるらしいです。以前読んだ本に、このように書かれていました。

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橿孝研の展示物図録に掲載されている写真をデジカメで撮りました。
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棺内には飾大刀もありました。伊勢神宮の遷宮ごとに作り替えられる玉纏大刀(たままきのたち)によく似ているということです。この大刀の柄の所にサーベルのように三輪玉があります。三輪玉は埴輪にもありますし、岩戸山古墳の石材の大刀にもついていました。
実物が出て世間をおどろかせたのです。この伝統が伊勢神宮に伝わったとは、どういうことでしょうね。

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わたしには冠も大刀も時期は新しいと思えます。

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刳り抜き式の家形石棺です。藤ノ木古墳にはまだまだ多くの謎があります。石棺の中には布も残っていました。その織物の見事さ、スパンコールの新しさは、とても6世紀とは思えないのです。石棺の中の二人の人物は同時に棺内に置かれたらしいです。なぜに、冠を持った人物を同時に? 同じ石棺に埋葬したのでしょうか。
わたしは、これは大きな政変があった証拠ではないかと思うのです。
法隆寺のすぐそばですから、聖徳太子という説もありますが。
それは、どうでしょうね。
また、明日。


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藤ノ木古墳の横にお地蔵さんが祀られていました。ここが昔の村境だったのでしょうか。





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# by tizudesiru | 2017-03-07 22:09 | 236藤ノ木古墳は6世紀ですか? | Comments(0)

235 基肄城の水門石組

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235 基肄城の石組み

   そして、瓦のなぞ
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絵地図の現在地と云う所に来ました。*基肄城は福岡・佐賀の両県に属しています。
日本書紀には「天智四年秋八月(665)に、逹率億礼福留(だちそちおくらいふくる)・達率四比福夫(だちそちしひふくぶ)を筑紫国に遣わして、大野及び椽(き)、二城を築かしむ」と記録があります。
達率とは百済の冠位(高官)です。
さて、百済は660年には滅びていましたが、救援を求められた倭国は出兵し大敗したのが663年でした。664年に水城を大宰府に築き、翌年に大野・基肄城を築いたとなっています。
では、百済の高官の指導で作られた石垣を見てみましょう。

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石組みはこの狭い谷に在ります。右は急な崖で間に谷川が流れ、左に石垣があります。
この川は高原(たから)川と云います。高良山神籠石の高良川とも似てますね。

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これは案内板の写真です。修復前でしょうかね? 
数年前に修復されていますので、下が現時点での写真です。
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水門です。人が通り抜けできるほどの広さがあります。この石組みは山側と麓側の間に柵のようになっているのです。山側に入り石組みの裏を見ると、人家があり石垣が組まれていました。
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昔は、谷全体に橋のように石柵があったのでしょうか。分かりません。
裏側(山側)から水門を見ました。大きな底石が見えます。きちんと大石を組んで
作られていました。
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麓側の人影が見えますね。
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山側から水門を見た写真です。小石が多く積まれているのは、人力で運ぶのによい大きさだったからでしょうか。あまり上手な組み方には見えませんね。神籠石の水門や列石はなかなか丈夫にできていますからね。
これを見ると大野城の百間石垣が浮かんできますね。あれは、確か「白村江敗戦後に慌てて作ったので石組みが乱雑になっている」と中学社会科で教わりました。ここも同じく乱雑なのでしょうか。
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ここには米倉もありました。倉庫群と呼ばれるところの礎石群です。郡衙も掘立柱建物だったのに、山城は礎石建ちだったのですね。 むむむ…
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というわけで、小郡市の埋蔵文化センターに展示されている基肄城の瓦の写真に戻ってきました。これを見るたびに、山城に瓦を葺く不思議を思うのです。
大事な役所を飾るのではありません。誰も見ない(?)山城を飾るのです。
山城で鍛冶を行ったという事実もありますし、山城の不思議はまだ続くのでしょうね。

では、大野城の百間石垣もついでに見ましょうか。
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ここにも川が流れています。
では、また
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# by tizudesiru | 2017-03-06 11:27 | 235 基肄城の水門石組み | Comments(0)

234 小郡官衙の見学会

小郡の三か所の官衙見学
飛鳥時代の評衙・上岩田遺跡
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遺跡の東北に花立山が見えます。上岩田遺跡の北には宝満山が控えます。

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基壇は仏堂の後です。ここには山田寺系の瓦が葺かれていました。しかし、678年の天武大地震(筑紫大地震)で倒壊し、瓦は近くの井上廃寺に再利用されました。
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井上廃寺は小郡市井上公民館の辺りに在りました。横の小さな坂が「瓦坂」と呼ばれるほど瓦が落ちていた道です。
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井上廃寺はどのくらいの敷地を持っていたか、伽藍配置はどうだったのか、不明です。人家が密集しているので発掘できていません。
この井上廃寺の古いタイプの瓦は、上岩田遺跡のものと同じです。
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次の小郡官衙は、天武地震の後に造営されたようです。発掘の結果、三期に渡る建物群が確認されています。
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ここには瓦の出土はありません。敷地内には溝が彫られていました。長者の泉という湧き水もありました。長く使われていたそうです。
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次に、下高橋官衙跡に行きました。ここは小郡官衙の次の時代の役所跡だそうです。
立て看板がなければ見過ごしてしまいそうです。背後の山は九千部山と基山です。基山に基肄城があります。
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ここにも瓦は出土しません。結局、役所や倉庫には瓦は葺かれていないのです。瓦が葺かれたのは仏堂だけ。7世紀後半には、小郡のこの辺りは財政的に行き詰まり瓦を葺けなかったというのでしょうか。それとも、瓦は仏教に伴うもので、役所は掘立柱のカヤ葺きだったのでしょうか。
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ここには柱の復元もされていませんでした。ただ広い草地の下に遺跡は眠り続けているのでしょう。
それにしても、基肄城の城門には瓦が葺かれていました、7世紀の後半にです。防火のために山城には瓦を葺いたそうです。
明日は、基肄城の水門と瓦を紹介しましょう。
見学会で行きましたから。
埋蔵文化財センターの皆さん、お世話になりました。










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# by tizudesiru | 2017-03-05 21:53 | 234小郡官衙見学会 | Comments(1)

233 耳飾のルーツは何処?

233 似ている金製耳飾
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綺麗で繊細な加工ですね。
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よく似てますね。上の写真は「大谷古墳とその遺物」(2000年・和歌山市立博物館出版)の写真をデジカメで撮ったものです。昨年、博物館に行きました。
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これは、「沖ノ島と大和朝廷展」の展示物の図録です。多くの共通点がありますね。
見た感じだけですが。
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では、③を見てください。福岡県の日拝塚古墳の耳飾です。④は奈良県の新沢千塚古墳群126号墳の耳飾です。不思議なことに、④の千塚126号墳は5世紀後半となっています。①②③は6世紀とされています。
新沢千塚古墳群は、群集墳です。
古墳の常識では、群集墳は6世紀とされています。奈良県は時期を前倒しにしているのでしょうか。常に、こんなふうなので素人は不思議に思うのです。
「沖ノ島と大和朝廷展」指輪でも同じことを思いました。
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指輪の加工技術を見ると、①と➁は共通しています。ところが、⑤はリングの先が細くなり技術が向上していますが、こちらが①②より古いことになっています。
③は国宝の指輪で出土は沖ノ島ですが、岩上祭祀ではないので、岩陰祭祀は6世紀半ば以降ですね。岩上祭祀と岩陰祭祀の間には50年以上の空白があるそうです。
その空白に、磐井の乱が関係しているのではないかと、学者の意見があります。
それにしても、新沢千塚126号墳は5世紀となっていて、①②③よりこちらが古いことになります。
日拝塚古墳を見てみましょう。バチ型の前方後円墳で、大谷古墳にもよく似ています。
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大谷古墳を見ましょうか。
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大谷古墳は丘の上に在り、日拝塚は平地に在ります。そこは違うけれど、大谷古墳の家形石棺は、九州の阿蘇溶結凝灰岩だそうです。
九州とは深い関係がありそうですね。
耳飾の形や加工技術を見る限り共通点があると思います。九州から和歌山まで、こぞって朝鮮半島南部から輸入したのでしょうか。
鎧冑などの武具も国産化されているこの時期に、装飾品の金細工が輸入品だったとは思えないのですが、どうでしょうか。すると、九州と和歌山の耳飾りは九州で作られた可能性もあると思うのです。
それも、伝わったのは6世紀!! 
わたしは磐井の乱後に第二波の人の大移動があったと思うのです。
(最初の波は、熊本の狗奴国に敗れた人々の移動です)
熊本と豊前の勢力に敗れた磐井に関わる豪族が、和歌山から近畿に入って行ったと思うのです。もちろん、家財道具だけでなく祖先の霊をともなったと。
それが、クスの木であり、家形石棺文化であり、横穴式石室文化であると思うのです。
(第三の波もあります。白村江敗戦後に亡命百済人と共に人の移動もあったと思います)


墓制を見るとそうしか思えないのです。

また明日





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# by tizudesiru | 2017-03-04 21:55 | 233似ている耳飾のはなし | Comments(0)

232岩戸山歴史資料館の新館三年目

岩戸山古墳資料館の新館

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誰が葬られたか認められている6世紀の唯一の古墳だと聞きました。これはスゴイです。
だって、6世紀の始めの古墳ですから同時代の古墳の様式の指標となるからです。
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この別区と呼ばれる場所に石の古墳表飾物が並べられていました。
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筑後国風土記(逸文)にも岩戸山古墳が取り上げられています。

岩戸山古墳の特色は、別区と呼ばれる首長の功績を称える方形の場があることです。そういえば同じような首長の功績を称える埴輪群がありました。NHKで群馬の保渡田(ほどた)八幡塚古墳の埴輪群です。火砕流にそのまま埋められていたので、在りし日のまま出て来ましたね。

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埴輪で「王の公の場」での装束が分かりました。首長が顔に朱(水銀朱)を塗る習慣は、熊本にもあります。そのため生身の体に異常があったことが分かっています。また、九州の古墳・石棺・石室に朱が用いられています。関東と九州の結びつきは深いのです。
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(NHKのテレビをデジカメで写しました)
さて、岩戸山古墳の資料館に戻りましょう。
立山山古墳13号墳の埴輪がありました。

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立山山13号墳からこの人がこの地域の首長であったことが分かります。
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馬に乗る首長であったことも分かります。当然、馬具も出土していますね。
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わたしが何時も気にかけているのは、立山山8号墳の耳飾です。
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この技術は何処で生まれ、何処を通り、何処に広がったか、ということです。出所は、朝鮮半島南部だとか、では百済地域ですか?
「沖ノ島と大和朝廷展」でも、国宝の指輪が展示されていました。明日は、その事を書きましょうね。
岩戸山歴史資料館に出かけませんか。
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# by tizudesiru | 2017-03-03 12:05 | 232岩戸山古墳の歴史資料館 | Comments(0)

231雷山神籠石は国家的事業だった

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(雷山神籠石には最近行ってませんので2013年の写真です。)

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雷山仙如寺残る伝承
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雷山は曽曽伎山と呼ばれていました。千如寺の敷地内には不思議な伝承が数多くあり、仏像も見事でなかなか面白いお寺です。
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千如寺は桜と黄葉の名所でもあります。


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明治になってたくさんの寺が閉じられ、人々は山を下りました。千如寺とはそういった「たくさんの寺」という意味を持つ名称なのだそうです。政治が代わるとは、そういうことなのですね。誰かが住むところを失うという。
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福岡市の博物館の掛け軸を見ると、神仏習合の時代は山全体に寺が建ち人々の心の拠り所となっていたようです。

雷山神籠石は千如寺から更に山手に登ったところです。途中に雷神社があります。

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杉の大木も黙して何も語りません。
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雷山神籠石は昭和七年には史跡名勝天然記念物として保存されていたのです。
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水門には切り欠き加工も見られます。
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何キロにもわたってこのような切り石を並べるような仕事を一豪族がやれるでしょうか。
それも九州だけではないのです。しかし、九州には神籠石が集中します。
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神籠石の築造は国を挙げての大事業だったと、思うのです。
「瓦の話」の中で、神籠石にも少し触れました。
また明日





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# by tizudesiru | 2017-03-01 11:17 | 231神籠石築造は国家的大事業 | Comments(0)

229 残された上岩田遺跡

229 天武地震(678)で倒壊した上岩田遺跡
上岩田遺跡のある小郡市一帯は弥生遺跡が集中している所でもあります。古代にもここは交通の要衝として、工業製品の供給地として、物流の拠点として栄えていたのです。
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赤いラインは古代の官道です。この地域には三段階の官衙があります。
①上岩田遺跡→ ②小郡官衙遺跡→ ③下高橋官衙遺跡 と役所が移動しています。
①上岩田遺跡は飛鳥時代の評衙の址とされています。

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少し遡って弥生時代を見てみましょう。
上の写真は、弥生時代の銅戈(どうか)と石製武器です。下の画像は広形銅矛の鋳型です。この辺りで生産していたのです。

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下の画像のえらく錆びていますが鉄剣でしょうか。方格規矩鳥文鏡もあります。
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弥生の半ばに大型甕棺文化が急に消滅します。ほぼ一斉に消滅しました。政治的な変化があったのでしょうね。
その後、古墳に馬具が副葬されるようになります。小郡の埋蔵文化財センターの展示はそうなっています。これらの展示物は、上岩田の役所の出入りした人々の先祖なのでしょうか。

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そして、上岩田評衙の時代に近づくのですが、すぐに役所が作られたのではないそうです。
①豪族の館の敷地内に役所があった
➁役所と仏堂が同じ敷地内に置かれた
③役所と仏堂は切り離された
上岩田遺跡は➁の段階になり、小郡官衙遺跡は③の段階だそうです。

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仏堂の基壇ですが、天武地震(678)で大きな亀裂が入っています。修理不可能だったのでしょう。
瓦は井上廃寺に再利用されました。
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山田寺の系統の軒先瓦です。
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軒先瓦も垂木先瓦も鬼瓦も同じ様式の文様で飾られるのが自然だと思います。
沢山の墨書土器も出土しています。
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天武地震の後、小郡官衙に役所が移転したのです。この時、仏堂は有りません。役所と寺が分離したのです。七堂伽藍の寺が建つのは後の時代ということです。
ということは、仏教が入って来た時の姿は、上岩田遺跡で探れるのではないでしょうか。
それも、役所に仏堂ですから、公が仏教を取り入れていたということですね。
公(国)が民の心を仏教によって教化しようとしたのですね。
納得しました。





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# by tizudesiru | 2017-03-01 00:55 | 229 残された上岩田遺跡 | Comments(1)

228 古代山城の瓦

228 公開セミナーで伝えたかったこと

2月25,26日、久留米大学比較文化研究所主催の公開セミナーに参加させていただきました。
そこで伝えたかったことは、古代瓦が九州で発掘されていること、そこは寺院ではなく山城であること、瓦伝来ルートは畿内経由と考えなくていいのではないかということです。

まず、 古代山城の瓦何処から来たのか??

朝鮮式古代山城は、天智天皇四年(665)に築造されたという。その古代山城に瓦が出土します。七世紀の山城に瓦です。仏教文化と共に我が国にもたらされたという瓦。寺院の屋根を荘厳した瓦が、寺ではなく山城に葺かれた? 驚きますよね。それも7世紀後半です。
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わが国最初の寺と言われる飛鳥寺(元興寺)ですが、ここに葺かれた単弁蓮華文軒丸瓦とは違う文様の瓦が山城から出土しました。新羅系という鎬(しのぎ)を持つ瓦と、花弁の先が反転するかえり弁を持つ百済系と云われる瓦。
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この古瓦が福岡県の大野城から出土しました。この写真は、九州歴史資料館の特別展「四王寺山の1350年」からデジカメで撮っています。となりは、昨年の「山城シンポジウム」で発表された九州歴史資料館の報告の図をデジカメで撮ったものです。

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では、飛鳥寺の瓦を見直してみましょう。花組・星組と呼ばれる瓦です。
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飛鳥寺の瓦は、山城の瓦とは文様が違いますね。大野城の瓦は、どのルートで福岡に入って来たものでしょうね?
そもそも山城に瓦とは不思議です。その事を、発表者に聞いてみました。
「なんのために山城に瓦を葺いたのでしょうか?」
「防火です」

では、防火のために、文様のある軒先瓦を葺いたのですね。
防火なら丸瓦だけでいいと思うのですが。
瓦の文様にこだわるのは、時代によって瓦当文様が変わっていくからです。

その事は、時間の流れだけではなく文化の伝播や政治の動向も教えてくれると思うからです。
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隋書によれば、7世紀初頭、阿毎多利思比弧が仏教を受け入れていたことが分かります。
おや、国家が受け入れていたのですか
確か、明日香では氏族が受け入れて氏族が寺を建てていました。
国家ではありません。それとも、蘇我氏が大王だったのでしょうか?

隋書では、国家の組織ができ上がり、80戸ごとに伊尼翼(いなぎ)を置き、10の伊尼翼は一つの軍尼(くに)に属しているというのです。
人々は税を取り立てられる体制に組み込まれているのです。
仏教は人々に浸透し人々が信仰したとも書かれています。
大化改新などしなくていいほど、国家の体制ができていたのです。

そして、その国には阿蘇山がありました。
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これは、熊本地震の十日前の阿蘇です。阿蘇山と云えば、この山しかありません。隋書に詳しい「阿蘇山」表記も発音も、九州の阿蘇山ですね。
 
素直に隋書を読むと、九州にも天子がいて隋と交流していた。日本書紀を素直に読むと、近畿にも大王がいて隋と交流していた。

別々に交流していてもいいんじゃないの!! と、なるのです。
九州のタリシヒコ側は隋に絶縁されますが、近畿王権は交流が続きましたから。

瓦の話はまだまだ続きます。
画像の①②などの番号は、セミナーでお配りした文章に対応するので消さずに残しました。
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# by tizudesiru | 2017-02-26 23:05 | 228古代山城の瓦 | Comments(11)

227 大野城から神山を遥拝した

227 弥生の日知王であった(須玖岡本の王達)は大城山から

真東の宝満山
神山として

遥拝した

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大城山とは大野城のことです。朝鮮式古代山城と呼ばれる山城があることで知られています。
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では、九州の古代山城のうち基肄城・鞠智城・大野城の位地を見てみましょう。北から、大野城・基肄城・鞠智城です。
白いポイントです。赤は須玖岡本遺跡。青は三雲南遺跡(伊都国)です。
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鞠智城はえらく離れていますね。それも、山の中です。有明海を攻める敵にこの山奥で対処したのでしょうか。見晴らしもよくないと思いますけどねえ。のろしなどの伝達手段があったのでしょうか。
今日は、大野城でしたね。

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「天智三年(663)に水城を築き、翌年(664)に百済の亡命貴族億礼福留、四比福夫に命じて大野城と基肄城を築かせた」と正史に書かれています。白村江で大敗した後の九州の遺族たちが必死になって山城を築いたとしても、人手は足りなかったでしょうね。
女性も子供も働いたとして、どのくらいかかったのでしょう。


そして、大野城の説明板に気になることが書かれていますね。「四王寺山の名前は、宝亀5年(774)仏教の力で新羅を降伏させようとして、大野城内に四天王を祀る寺を建てたことに由来」しているとあります。
古代の戦争は呪力戦でもあったのです。
新羅が日本を呪詛しているから、こちらも負けないように呪詛してやろうというのです。

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尾花地区は、焼米ヶ原と呼ばれています。礎石群もあります。
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礎石群が一番多いのは、主城原地区です。
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主城原とはよく言ったものですね。ここに、中心の倉庫(?)群があったのでしょうか。
古代瓦は、主城原地区、クロガネ門跡、原八坊などから出土しています。

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こんな大野城は、弥生時代には遥拝所だったと思います。「大城山に在った山城で神武天皇が神祭りをしていた」との伝承が王城(おうぎ)神社に残されています。王城神社は、大城山(大野山)の山頂から麓の太宰府に移された神社です。
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東から、宝満山、大城山(大野城)、須玖岡本遺跡、吉武高木遺跡、飯盛山、三雲南王墓、一貴山銚子塚古墳。
このラインは福岡の弥生王墓と言われる三か所を貫き、糸島(伊都国)で最大の柄鏡形前方後円墳(3世紀後半~4世紀初め)まで一直線なのです。
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須玖岡本の熊野神社の辺りは、偶然にも山の山頂と山頂を結ぶラインが交叉します。
それも夏至の日の出のラインと、冬至の日の出のラインもちろん春分秋分のラインが、宝満山と飯盛山を結ぶ直線です。ここに存在した首長は、ここから見える日の出の山をヒジリ(日知り)の山としたと思います。
この話は、至る所でしましたから、ご存知の方もおられるでしょうか。

大城山がもともと神祭りの場であったので、大野城に新羅を呪詛する役目が回って来たのでしょうか。
また明日





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# by tizudesiru | 2017-02-24 22:22 | 227 古代山城・大野城 | Comments(0)

226 基肄城の不思議

226 基肄城の不思議
さすがに古代山城、当たりがすっかり見渡せます。
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西には、脊振山(奥)と九千部山(左)
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北には福岡市と博多湾、北北東に筑紫野町(市)と宝満山、北東に三笠山と大根地山、ちょっと待って!
三笠山って、現在の宮地岳ですか? 宮地岳神籠石(阿志岐古代山城)がある、宮地岳となっています。この時、友人が嬉しそうに指摘してくれたのよね。
この方位台が作られた時は、宮地岳は三笠山だったのね。
じゃあ、神功皇后伝説の「皇后の御笠が突風に吹き飛ばされた」ので名付けられた山は、宮地岳だというの? なーあんて。
貝原益軒の紹介では、宮地岳は「天の香久山」って書かれていた記憶があるけど…
なんてこと、基山で話したなあ。今、又思い出しちゃったね。

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白村江敗戦後に築造されたと、日本書紀に書かれています。すると。「こんなところに立て籠もってどうするん?武器も食料のいるだろうし」と、疑問の声が。ふむふむ、のろし台としてなら役立つかも知れないけど、古代の戦争には山城は使われてないという発表もあったけど、確かに、夜討ち朝駆け奇襲・交通路の封鎖だよねえ。
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南北に廻っている土塁遷外側は急崖
内側は車路と称する平坦地が続いて
門跡は、北側の北御門門跡、東北の萩原口文跡、仏谷門跡の三か所
この城跡には、二十数か所の礎石群があり、古瓦が出土している。
この中には城山関係のものも含まれていると推定され *
城山(きやま)とは、基山のこと

と、読み取れます。そうなんです。山城に瓦ぶきというんです。
「誰も見ない山奥の山城に瓦を葺く理由はなんでしょうか?」
昨年の山城シンポでわたしは質問しました。答は「防火のため」でした。
はあ、防火なら瓦当文様のある手間のかかる装飾瓦はいりませんよね。と思ったのです。
それにしても、基肄城は不思議です。大野城は大宰府の官人がいざという時逃げ込むための 城だと聞きました。基肄城にも逃げ込む人がいるのでしょうか。大野城・菊池城は人里が近いのですが、ここはどうなんでしょうね。
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また明日


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# by tizudesiru | 2017-02-23 21:57 | 226古代山城・基肄城 | Comments(0)

225 鞠智城の八角形鼓楼

225 鞠智八角形鼓楼
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八角形の鼓楼と言われています。構造上からも人が住むところではありません。ここは熊本県の鞠智城です。
八角形建物と言えば、難波の宮がすぐ浮かびます。

大阪の博物館から大阪城と難波宮が見えます。
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難波宮の朝堂院と内裏の境目に東西に八角形の建物が置かれています。使用目的は何だったのでしょうね。
前期難波宮で孝徳天皇は崩御されましたね。
その後、内裏には誰が住んでいたのでしょうね。わたしは孝徳天皇から玉璽を預かった中皇命(間人皇后)が住んでいたと思います。
その宮殿の内裏への入口の八角形の建物は見事だったでしょうね。
難波の人々はその素晴らしさをほめたたえたことでしょう。
それにしても、鞠智城は山城です。山の中の山城です。(私は菊池で育ったので、そう思うのです)そこに太鼓をたたく八角形の建物が必要だったのでしょうか。誰が見てくれるのでしょうか。そこに住んでる少数の人が見て満足したのでしょうか。
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山城を装飾する理由は何だろうと思うのです。高貴な方がおられたのでしょうか?
難波宮のような宮殿なら私も納得するのですが。
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木が茂っている所が建物跡。異様なほど大きな八角形の建物だったそうです。
また明日。









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# by tizudesiru | 2017-02-23 01:04 | 225 古代山城・鞠智城 | Comments(0)

224百済観音は樟の一木彫なのに

224未だに出自が分からない百済観音?!

修学旅行のガイドさんが、中学生に説明していました。そういうことですか! 分からないでいいのでしょうか?

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(画像はNHKテレビ)
先月、法隆寺に行った時のことです。冬の一月半ばの就学旅行一行に法隆寺で会いました。中学生だと思うのですが、西院伽藍と宝物殿を見ていました。東院伽藍(夢殿)には来ませんでした。今どきの子どもはお寺巡りには興味がないのですね。
宝物館でガイドさんの説明が聞こえました。「この百済観音は、日本で作られたのか、百済
で作られたのか、今の時代になっても分からないそうです。」思わず振りかえりました。
何度も言ったと思いますが、百済観音はクスノキの一木彫です。楠は南の木で、福岡県の立花山が北限です。九州より北には自生地はないのです。韓国では済州島でさえ大木に育つことはできません。飛鳥仏は九州で作られたとしか考えられません。法隆寺の四天王像もクスノキです。
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(国博の展覧会の図録)
分からないとは都合のいい言葉ですが、下々には分からなくてもいいのでしょうか。
中学生に樟の自生地の話をしたらどう思うでしょうね。仏教が最初に伝わった地域は九州かも知れない。そこで、ご神木の樟をつかって仏像が作られた等々、考えるのではないでしょうか。
では、九州の古代寺院は何処にあったのでしょうね。

そうそう、昨年の秋に和歌山に行きました。その時、クスの大木の根を見ました。
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それから藤白神社でもクスを見ました。
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ここの樟は「子守樟神社」の神木で楠神さんと呼ばれたそうです。むかし飢饉で村が困った時、氏子が相談して樟を伐り救済資金にしたそうです。切株から四本が発芽しうち三本が今に至るということです。昭和の初めまでその切り株が見られたとか。
楠は虫よけの樟脳の材料でした。切株はいい香りがします。将に樟神だったでしょうね。
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和歌山には、九州と同じように樟がご神木の神社があります。それは、和歌山に九州からの移入者
が多くいたことの証でしょうか。そういえば、あの有名な紀伊川沿いの大谷古墳の家形石棺は、組み合わせ式で材料は阿蘇溶結凝灰岩で造られていました。やはり!!
余分なことまで思い出しました。百済観音の話でしたね。
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法隆寺の東院伽藍の仏は、百済観音・救世観音と、どちらも観世音菩薩ですね。飛鳥寺は「丈六の大仏」です。おや?と思いませんか。飛鳥と斑鳩では仏の姿が違います。ほっとけませんネ。

そして、救世観音のお顔、人間ぽいですね。神々しいというより威厳に満ちた権力者の顔ですね…
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また明日





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# by tizudesiru | 2017-02-21 11:37 | 224樟が語る古代 | Comments(2)

223古代山城シンポジウム

223 ほんとに変わりました!

古代山城シンポ!

2017年2月18日~19日の九州国立博物館と熊本県境域委員会の合同シンポジウム、ほんとに変わりました。今まで、まともに取り挙げられて来なかった神籠石について論議されていました。

それも、王権側の公的な遺構だとして。
驚き桃の木!!!でした。あれほど言及を避けて来た神籠石が、一転ヤマト王権側の山城だった!!??
驚きませんか?

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昨年も、熊本のパレアホールでこのシンポジウムはありました。発表者が若い研究者だったので非常に面白かったです。それで、今年も参加しました。今回も若い研究者の発表で内容的にもすごく面白かったですね。ただ、急に神籠石を論議に入れた経過は何も語られませんでした。
むしろ神籠石という呼び名を早く無くさねばならない、古代山城として「ひとくくり」にすべきだという言葉が飛び交いました。
神籠石・古代山城については、わたしも何度もブログに取り上げ、自著「太宰府・宝満・沖ノ島」でも自分なりの考えを紹介しています。
しかし、ヤマト王権側の遺構だということは書いていません。思ってもいないからです。
朝鮮式山城の前身として、同じ地に山城が造営されていた可能性は指摘しています。そこに、後にヤマト王権側が朝鮮式山城を築いたのだと。
そこは、もともと九州の権力者の山城として築造されていた可能性があると。

昨日は撮影可能でしたので、デジカメ写真を使いながら内容を少し紹介しましょう。

今回のシンポジウムは「徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生」という表題でした。
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正史に出てこない神籠石は〇で、朝鮮式山城は■でポイントされています。これは、斉明天皇の橘廣庭宮は大宰府にあったという説を出された研究者の基調講演での画像です。
大野城の太宰府口城門址から出土した木柱の年輪年代についての確認がありました。わたしも自著に書きましたが、既に多くの人が650年ごろの伐採の木(コウヤマキ)であることは知っています。水城の築造年代(665年)と15年のズレがありました。しかし、切った後に他の部材として使われていた可能性、伐採後に乾燥のために数年ねかされていた可能性も否定できません。
しかし、木柱には他の部材としての加工跡が見られなかったこと、コウヤマキは木の特色として伐採後にすぐ使える材だそうで、乾燥時間を取る必要はいらない、ということでした。では、大野城築造のために伐採した木材と云うことですね。
また、このコウヤマキの年輪は近畿地方の気候の変動にぴったり重なるそうです。もしかして、近畿から運ばれた木材ではないかということでした。はあ? では、いかなる理由でわざわざ城門の木材を運んだのでしょうね。
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(版築で水城を築いている想像図です。)
同じ研究者から次のような指摘があります。「昨年、筑紫野市の前畑遺跡が羅城の土塁ではないかという見方がだされた。羅城とは都城の外城である。仮にその羅城が大宰府地域に囲繞されていたとすると、水城から大野城・基肄城などを取り込んだ都城の構想が664年段階ですでに実現されていたことになる。そのようなマスタープランはいつ構想されたことになるのだろうか。また、羅城で守護される主体はどのような人たちであったのかという興味がますます湧いて来る。」 全く納得の御指摘です。続いて、次のように書かれています。
大宰府は百済の泗沘東羅城の敷葉工法が水城土塁の工法にも共通することからも、強い関連性が指摘される。一方で、新羅の王都である慶州にもその山城の配置など類似点を指摘でき、羅城は設けられていないことを以前に指摘した。今後も構想だけではなく明瞭な羅城遺構の存在によって議論は深めなければならないと思う」
大変面白いですね。王都とはその国の首長が住む宮殿がある場所です。首長は畿内にいたのに、王都は九州なのですか? 理解しかねますけど、面白いですね。
この話は、基調講演なのです。このシンポジウムはいろいろな意味で大変素晴らしかったです。

ご希望があれば、山城シンポ、また書きましょうね。



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# by tizudesiru | 2017-02-20 11:30 | 223古代山城シンポジウム | Comments(0)


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46高千穂の峰から阿蘇へ
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81ブログのスタートに還る
82再度神籠石へ
83悲劇の好字
84船原3号墳の馬具
85飯盛山&こうやの宮
86奈良の長谷観音
87福岡の長谷観音
89古墳のライン
90筥崎宮百八回目の神事
91 薦神社の不思議
92薦神社の不思議2
93金富神社と鉾立山
94 金富神社と鉾立山 2
95 金富神社と鉾立山3
96宇佐神宮と北部九州
97宇佐神宮と北部九州・2
未分類
98北部九州のミステリー
99北部九州のミステリー2
101宇佐神宮と九州の神々
100日知王の山々
219法起寺式伽藍
207中大兄とは何者か
149有間皇子を愛した間人皇后
102安心院の二女神社
103安心院の妻垣神社
104安心院の佐田神社
105大富神社と和気清磨と
106宮地嶽不動古墳
106宮地嶽古墳と石塚山古墳
107寄り道・邪馬台国
108ふたたび香椎宮
109倭国王の侵略
110瀬戸内の神籠石再び
111京都の守り・再び
112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 古代山城・鞠智城
226古代山城・基肄城
227 古代山城・大野城
228古代山城の瓦
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の資料館
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
239藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者

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