持統天皇の紀伊国行幸・紀伊路を歩けば見えてくる謎

玉津嶋磯の浦見の真砂にもにほひてゆかな妹も触れけむ
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と、紀ノ国で四首を詠んだ人麻呂。こ歌の女性は人麻呂の妻とされています。しかし、私には妻とは思えません。確かめてみましょう。人麻呂は紀伊国で生活したのではないのです。此の歌の人麻呂は、旅の途中です。
紀伊国は、黄葉(もみじば)のようにはかなく逝ったその人の思いでの地です
その人と過ごした(遊んだ)磯を再び訪れるのは、人麻呂にとって悲しく寂しい…そこは形見の地なのです。
形見の地だからこそ、すぎにし人の霊魂が漂っている地だからこそ、ここに来たのです。
その人の霊魂に再会するために、その人が幾たびも来た海辺、思いで深い磯を求めて。
そこは、いにしえに、あの人と一緒に見た「黒牛方」という有名な岩場が見える所。
帰りには「玉津嶋の磯の真砂の臭いを染みこませていこう。あの人も触れた砂なのだから」と
玉津嶋の磯はその人には特別なところだったから、人麻呂はその真砂に触れたいと思ったのでした。


誰の霊魂に触れるために、玉津嶋の磯まで人麻呂は出かけたのでしょうか。わたしは持統天皇の霊魂だと書きました。
。(過去に人麻呂が紀伊国に来たのは、持統天皇の行幸に従駕してのことでした。)

この「紀伊国に作る歌四首」の旅は、ゆったりした観光旅行ではありません。
深い思索と決意のもとに、人麻呂が紀伊国を再訪問した時の歌です。四首には甘い感傷もありません。有るのは亡き人への深い恋慕と敬慕の思いです。
万葉集を読むかぎり、この歌の女性は、普通の人と考えられてはいません。人麻呂がその霊魂に触れに来た女性、霊力のある高貴な女性ということです。霊力は高貴な人に備わったのです。(この時代の人は、そのように考えていたと、古事記などを読むかぎり思います。わたしがこう考えているのではありません。)

この時代の男女は、対等ではありません。女性の性は、すべて族長のものでした。何処に輿入れするかだけでなく、姫君でさえ宴会の引き出物として、お土産のようにやり取りされていたのです。古事記や日本書紀を読んでみてください。少しも対等ではありませんよ。その運命に従うことが、女性の美徳でした。主人の男性が死を賜ったら、女性は共に死んだのです。選択肢は有りません。女性が生き残れるかどうか、すべて男性側の社会が決めたのです。(現代から見ると非常に残念なことですが)

しかし、人麻呂のこの歌の女性は普通の人とは違います。すぎにし人は、霊力を持った人です。「黄葉のすぎにし人」という言葉を、人麻呂はそのように使っています。

この事を確かめに、紀ノ國に出かけてみませんか?
人麻呂が如何なる女性を敬慕したのか、その足で紀伊国を訪ねて確かめてほしいのです。

玉津嶋から始めませんか。持統天皇の紀伊国行幸の跡を訪ねる旅を。スリリングでミステリアスな万葉集の謎を解くために、ぜひ。
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玉津嶋神社
山部赤人の万葉歌碑
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玉津嶋神社の裏山の奠供山には5分で登れます。そこから片男波公園を眺めましょう。古代の紀ノ川の河口は、ここでした。吉野から紀ノ川を下って、玉津島まで来れたのです。奠供山には孝謙天皇の望海楼がありました。聖武天皇も持統天皇も文武天皇も見た風景を偲んでみるのもいいですね。
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名草山
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片男波公園の砂嘴が見えます。
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何処を見ても桜、山桜が素晴らしい。
柿本人麻呂の「紀伊國に作る歌四首」については、既に紹介しています。カテゴリ157「持統天皇の霊魂に再会した人麻呂」その他でも。
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玉津島神社は不思議な伝承の神社です。鏡山に竈門神社もあります。
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そして、牟婁の湯まで行きましょう。
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春は和歌山へ・紀伊国の旅をおすすめ
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紀伊国国分寺の春も最高に美しいですね。

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# by tizudesiru | 2018-01-21 01:12 | 701年紀伊国行幸・持統天皇が触れた砂 | Trackback

間人皇后伝承の拡散・安珍と清姫

間人皇后伝承は衣通姫伝承と合体した
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今日も、間人皇后について、もう少し捕捉説明をさせてください。前回の衣通姫に関わることです。
和歌山県の玉津嶋神社の御祭神
のことは、カテゴリ242「紀伊国・玉津嶋神社」のところで紹介しました。(『玉津島神社の春・衣通姫の歌』など)

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不思議なことに、玉津嶋神社のご祭神は「海の神様」ではありません、玉津嶋は古代には海に浮かぶ島だったのに、です。最初に祭られたのは「稚日女尊(わかひるめのみこと)=丹生都比女神」で「丹生=水銀朱の神」であったのでしょうか。そこに「息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)」が加わり、聖武天皇が「明光浦靈(あかのうらのみたま)」を祀らせ、第58代光孝天皇が「衣通姫尊(そとおりひめのみこと)」を祀らせたとなっています。衣通姫は新しい祭神なのです。


光孝天皇は皇位継承の争いを回避するために「衣通姫」を祀る

第58代光孝天皇(830~887)は、父は仁明天皇、母は藤原沢子。甥の陽成天皇が叔父の藤原基経により若くして廃位となり、光孝天皇は55歳での即位となりました。在位は4年(884~887)

光孝天皇は即位と同時にすべての子女を臣籍降下させ、子孫に皇位を継承させないことを決めていました。
然しながら、皇太子が確定しない内に光孝天皇は病に倒れ、臣籍降下していた源定省(後の宇多天皇)を親王に復し、翌日には立太子。即日、光孝天皇の崩御となりました。御子の立太子は光孝天皇の意思だったかどうかわかりません。
むしろ、藤原基経が仲の悪かった妹(藤原高子)の子に即位させないための策だったのでしょう。

光孝天皇は自分の家族が皇位に着くことを望んでいなかった!
そんな光孝帝の夢枕に立った衣通姫、その歌は

立ちかえり またもこの世に跡垂れむ その名うれしき 和歌の浦波

一度は去ってしまったこの世に、またも戻って来て、生き直してみたい。和歌の浦とうれしい名前になった、そのなつかしい浦に寄せ来る波のように。

この衣通姫は書紀の允恭天皇の妃となった弟姫(皇后の妹)ではありません。古事記允恭記「軽太子と衣通王」の軽大郎女皇女のことです。軽太子は妹との姦通罪よりに皇位継承権を弟の穴穂皇子に奪われ自殺しました。

衣通姫の物語は書紀・古事記・万葉集で知られていましたから、聡明な光孝天皇は当然学んでいました。親族で殺し合うような愚かなことはしたくないと思っていたのです。
だから、極位に昇ることになった時、子女を臣籍に落としたのです。光孝天皇は皇位継承の殺し合いなど、自分の家族にはさせたくなかったのです。


だからこそ、
光孝天皇は紀伊国の玉津島神社を選び、衣通姫を祀りました。
なぜなら、そこは天武朝の聖地でした。天武朝のように政変で滅んではならないので、敢て政変で滅んだ衣通姫を選んだのです。
玉津嶋は持統天皇も立ちより、文武天皇も元正天皇も聖武天皇も立ち寄りました。聖武天皇と孝謙天皇は行宮として使いました。
山部赤人の「若の浦に潮満ち来れば潟をなみ 葦辺をさして鶴鳴き渡る」は、神亀元年の聖武天皇行幸の時の歌です。
有間皇子事件にもかかわる藤白坂は、目の前の名草山の奥の山にありました。

天武朝の天皇が玉津嶋を聖地にしていた理由は持統天皇の遺言
持統天皇が最後の紀伊国行幸で詠ませた十三首があるからです。「紀伊國に止まず往来(かよは)む 妻の杜 妻よし来せね 妻と言いながら」これは、遺言のような歌でした。
妻の杜の神様、紀伊国にはずっと通い続けるつもりです。あなたが妻の杜という名の通りなら、わたしの大事なあの人を連れて来て下さい。紀伊国に止まず通いますから、お願いです。

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約束通り、天武朝の人々は紀伊国に通いました。
だから、光孝天皇は玉津嶋神社で滅びた天武朝の霊魂を鎮めさせ、滅亡の危機にさらされている天智朝の繁栄を願ったのです。

もちろん、「万葉集」巻二の衣通姫が誰を指すのか、「間人皇后=中宮天皇」だと光孝天皇は承知していました。だから衣通姫は「和歌の神」となり、宮中では玉津嶋の衣通姫に歌を捧げたのです。

衣通姫が合祀された後、玉津島神社は「和歌三神」の一つとなり、後西帝、霊元帝、桜町帝、桃園帝、後桜町帝、後桃園帝、光格帝、仁孝帝の御代に、「法楽和歌会」と称し、玉津島の神に和歌を奉納する歌会が宮中で催されました。

女の執念が蛇となった・安珍と清姫

紀伊国・道成寺は、大宝元年(701年)に文武天皇が建立したといわれます。皇后の藤原宮子の願いを受け建立されたそうです。そうでしょうか? 
大宝元年(701)、文武天皇は持統太上天皇と紀伊国行幸をしました。それは、「紀伊國十三首」でも分かるように、有間皇子事件の所縁の地を訪ねる旅でした。
その後、道成寺の建立ですから、藤原宮子の為というより有間皇子の為だったのではないでしょうか。
道成寺の観音像の瞳は、まっすぐ有間皇子の墓とされる「岩内一号墳」を向いていると云うことです。文武天皇が持統天皇の案内でその墓を知ったとしたら、菩提を弔う寺を発願したでしょうね。

(宮子は聖武天皇を生むと産後の回復が進まず、この後三〇年以上吾子も抱けない状態だったのです。道成寺の「髪長姫伝説」はその辺のところを伝えるのでしょうか。)

さて、紀ノ國で起こった有間皇子事件は、人々の耳目を集めたことでしょう。しかし、人々は事の真相も顛末も十分に知っていたわけではありません。様々な噂話が拡散していたでしょうね。そこへ、道成寺の建立ですから、その噂話に火が付いたのではないでしょうか。それが、

紀伊国・道成寺の伝承・安珍と清姫の物語となった


と思います。安珍が有間皇子で、清姫が間人皇后です。約束を交わした男が逃げるので、女が執念で追いかけ、遂には愛する男を殺してしまうという…物語に変化していったと、思うのです。

有間皇子事件は、大きな政変でした。王家の人々が有間皇子事件を繰り返し思い出し戒めとしても、藤原氏の抗争に巻き込まれました。その中で、和歌に親しむことは慰めだったでしょうね。
では、また。

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# by tizudesiru | 2018-01-19 02:26 | 319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや | Trackback

間人皇后の華麗なる生涯・光と影

間人皇女は十代で孝徳帝の皇后に立つ
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間人皇女は、舒明天皇と斉明天皇の間に生まれました。
乙巳の変(645)で蘇我氏本家が滅んだ時、中大兄皇子は十九歳の青年でした。間人皇女は中大兄の妹ですから、立后された時はうら若い乙女だったのです。孝徳天皇は推古五年(597)の生まれですから、間人皇女との結婚はかなりの年の差婚でした。高貴な姫君が恋をすることもなく、老人のもとへ輿入れしたと云うことです。
ですから、大人になるにつれて姫君の心は空しくなっていったでしょう。

華麗なる宮廷生活、しかし、皇女の心の空白は埋められなかった
白雉四年(653)、突然、兄の中大兄皇子が母の斉明皇太后と妹の間人皇后を連れて倭京に帰る事態となりました。そこには孝徳天皇と中大兄皇子との確執もあったでしょう。それは、東宮=皇太子に関わる問題だったかも知れません。であれば、中大兄皇子は自分だけ倭京に帰ればいいのです。しかし、皇后まで連れ出したとは…これは犯罪です。
この状況を古代の視点ではなく現代の視点で見れば、皇后は孝徳朝での宮廷生活に苦しみ精神的な限界に来ていたということではないでしょうか。見かねた兄が救いの手を出した、それに母も賛同した、ということです。しかし、同時に、


皇后の家出は、政治の改革に努力していた孝徳天皇にはダメージだった
若い皇后を気遣う時間が少なかったとしても、孝徳天皇は皇后を大事にはしていたのです。ですが、基本的には対等の夫婦というより「金木つけ吾がかう駒は引き出せず」ですから、皇后は後宮の飾りの一つのようなものだったのでしょう。それが故に、皇后が家出したのです。前代未聞のことでしたから、孝徳天皇は激怒し極位を下りるとまで言い出しました。

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孝徳天皇の最後をみとった間人皇后の決断
白雉五年(654)、心労がたたり孝徳天皇は病に倒れました。中大兄皇子は皇后と共に見舞いに訪れます。そこで間人皇后の目に映ったのは、弱り果てた老いた天皇の姿だったでしょう。そこで、孝徳天皇は毅然として言ったはずです。

「□よ、あなたには大変つらい思いをさせた。しかしながら、あなたは皇后(大后)である。皇后である以上天皇(大王)亡き後は玉璽を守らなければならない。それを、次の天皇に継承するという役目がある。全てあなたの肩にかかる大事だが、あなたはやり通さなければならない。」*□は間人皇后の実名
間人皇后は改めて自分の置かれた立場を理解し、皇后として自覚したでしょう。そこで、「後宮」が次の天皇に引き継がれることも確認したと思います。大勢の役人も後宮の女官もお払い箱にはなりません。
皇后が明日香に戻ったという記事はありませんから、間人皇后は改めて「皇后」になる決心をしたと思います。次の天皇がすべてを引き継ぐまで。
この時、東宮=皇太子は誰だったのでしょう。中大兄皇子が難波宮を去った時に東宮がどうなったのか、書紀には書かれていません。が、有間皇子が皇太子になっていたと思われます。


「後宮」の間人皇后を支えたのは有間皇子だった
皇后が帰ってきても、天皇崩御ともなれば役人も女官も複雑な思いだったでしょうね。そこで、中宮天皇となった間人皇后を支えたのは皇太子=有間皇子だったと思います。万葉集で中皇命は有間皇子を「吾が背子」と詠んだのですから、かなり近しい間柄だったと思います。

しかし、中大兄皇子から見れば由々しき事態です。妹が中宮天皇となったことには異存はなかったでしょうが、孝徳帝の息子にすべてが移譲されることは納得できなかったでしょう。
そこで、皇后=中宮天皇への不敬罪・不謹慎な行為が取り上げられたと考えます。連行された有間皇子に対して中皇命=中宮天皇は、何とか助けたいと「孝徳天皇の遺詔」を以って追いかけたから「紀伊国に往す」となったのです。

万葉集巻二の冒頭歌・磐姫皇后の「難波天皇を待ち続ける歌」は、この事件を暗示しているのです。難波天皇が連行された理由は、前歌に続く
軽太郎皇女の歌が示すように「禁断の愛」だったでしょう。磐姫皇后と軽太郎皇女の歌は、偶然並んだのではありません。難波高津宮天皇とは、後に贈られた有間皇子の諡号かも知れませんね。
(また、有間皇子の父・孝徳天皇は、皇子とよばれました。木梨皇子や太郎女皇女とも「」という名で有間皇子事件を引き出そうとしていると思います。)
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(丹後半島・間人の祭り)
有間皇子事件後、間人皇后は間人(たいざ)に身を隠した
丹後半島の間人(たいざ)には、聖徳太子の母・穴穂部間人皇后が身を隠したという伝承があると紹介しました。それも、聖徳太子の母ではなく、孝徳朝の間人皇后の伝承ではないかと書きました。聖徳太子信仰の高まりの中で、間人皇后に「穴穂部」が付いたと云うことです。「御所・中宮」と付く場所が伝承地として残されていることもありますから、ここに高貴な女性が来られたのは事実でしょう。
さて、どちらの皇后でしょう。まず、穴穂部間人皇后ですが、弟の穴穂部皇子が物部守屋に三輪君親子を殺させたり(586)、守屋と組んでいた中臣勝美が殺されたり(587)と、物部蘇我の争いが続きました。穴穂部皇子が馬子に殺され(587)、遂に物部守屋も蘇我氏との戦いに敗死(587)しました。この間、用明天皇が崩御(587)し、崇峻天皇が即位(587)しました。穴穂部皇子も泊瀬部皇子(崇峻天皇)も穴穂部間人皇后の弟です。夫が病気・弟が皇位継承の時期に、一人丹後半島に避難したと云うことですかね。
孝徳朝の間人皇后は、有間皇子が殺害された(658)後、中宮天皇として玉璽を持って逃げたとしたら、その住まいは「御所」と呼ばれ、「中宮」と崇められたことでしょう。こちらが、より伝承に近づくと思います。そして、伝承は拡散し膨らんでいったのです。

物語や伝承は、どんどん膨らんんでいく
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万葉集巻十三に木梨軽皇子の歌が掲載されています。3263番歌ですが、「古事記」の允恭記の「軽太子と衣通姫」の歌謡にそっくりです。少し違っているのは「国にも 家にもゆかめ 誰がゆえか行かむ」のところで、古事記では「家にも行かめ 国をも偲はめ」となっています。古事記には、「反歌」「或本の反歌」は有りません。後期万葉集の巻十三が編集された時、古事記(712年完成)は既に出来上がっていますから、古事記の歌謡をもとに造られた物語歌ですね。。古事記では上の長歌の後に「かく歌ひて、すなはち共に自ら死にたまひき」となっています。軽太子の悲劇をなぞりながら、人々は少しずつお話を付け加えていくのですね。後期万葉集になると、叙事詩にかなり脚色がなされるようです。

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# by tizudesiru | 2018-01-17 21:08 | 319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや | Trackback

間人皇后の愛・君が代も吾が代も知るや磐代の

中皇命は有間皇子を愛した中宮天皇
前回の「難波天皇の運命の人・間人皇后」が長くて分かりにくかったようなので、少し説明を捕捉しますので、過去のブログを思い出していただきたいと思います。

10 君之齒母 吾代毛所知 磐代乃 岡之草根乎 去来結手名(君がよも 吾代もしるや 岩代の 岡の草根を いざ結びてな)

ドラマチックなこの歌は、将に政変の歌であり、悲恋の歌でもありました。それも、万葉集の巻一の10番歌なのです。万葉集の重要な位置にあり、人麻呂が十分に配慮と校正を重ねた痕が残る部分なのです。万葉集の巻一が巻九と響き合うように構成されていることは、「紀伊國行幸の十三首」のところで既に書きました。
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中皇命は、紀伊温泉(きのゆ)に、斉明帝の行幸について行ったのではありません。目的があって自ら往(いでま)したのです。そこで詠まれた三首から一人の男性が浮かび上がりました。その人は「神に祈らねばおれない局面に立たされている人・それも命の危険にさらされていて、仮廬に夜を明かす旅寝の状況にある人」であり、「仮廬をお造りになるなら小松の下の草をお刈りくださいませ」と、中皇命が敬語を以って対する高貴な人であると読むことができました。

「吾が背子」が誰を意味するのか。有間皇子以外に選択肢はありません。間人皇后が中大兄の恋人という説で、兄に対して「貴方や私がいつまで生きるか分からないから」とか、「仮廬をお造りくださいませ」とか、詠んだとして、これらの歌の緊迫感と悲壮感は理解できません。中皇命がわざわざ紀伊国に出向いて歌を詠む意味も必要もありません。まして、草を結んで神に祈ろうなど、今を時めく中大兄皇子には不要です。
このように、中皇命の歌が有間皇子事件の時に詠まれたものであることは、何度も紹介したのです。それも、有間皇子を思って追いかけて来た間人皇后が詠んだ歌だと。
更に、今回、もう少し踏み込んだ紹介をしたいと思います。

更に、「岡の草根をいざ結びてな」という誘いに応じたのは、万葉集中にただ一首「磐代の濱松が枝を引き結び」と応えた有間皇子の歌以外にありません。中皇命の歌と有間皇子の歌は、本来は「相聞歌」ではなかったでしょうか。お互いの消息や愛を確かめる相聞歌です。しかし、「相聞」に掲載されなくて「雑歌」と「挽歌」に引き裂かれています。が、本来は並べられていたと思われます。人麻呂は並べていたと。
しかし、平城天皇に編纂を任された学者達がおもんばかって(忖度して)入れ替え差し替えたと思うのです。
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試しに有間皇子の自傷歌と、巻九の冒頭から二首目に置かれていた不思議な歌(1665歌)を並べてみました。1665番かは「岡本宮御宇天皇(斉明天皇)紀伊国に幸す時の歌」と題詞に有りますから、「妹が為吾玉拾う奥辺なる玉よせもち来奥津白浪」は、有間皇子事件の時、斉明帝と中大兄皇子が紀伊国にいた時の歌なのです。作者は未詳となっています。
そして、40年以上も経った大宝元年の持統太上天皇の「紀伊国行幸の時の十三首」の冒頭の歌に酷似しています。それが、次の歌です。
1667番歌「妹が為我玉もとむ おき辺なる白玉寄せ来 おきつ白浪
1667番歌は、1665番歌を意識して四十年以上も経った大宝元年に詠まれたのです。
紀伊国行幸の十三首の冒頭歌には、大きな意味があったでしょう。有間皇子の歌をそのまま「本歌取り」したと思うのです。
もちろん、紀伊国十三首の冒頭歌は、柿本人麻呂作だと思います。人麻呂でなくて、誰が冒頭歌に「有間皇子事件当時の歌」に似せた歌を掲載するでしょうか。
紀伊國行幸十三首は、有間皇子の歌を思い出すところから始まったのです。もともとは、見事な編集になっていたのでしょう。
しかし、現在の万葉集ではわかりにくくなっている…

ここに、のちの世の編集の作為や意図が見えませんか?


万葉集はあまりによくできた「魂鎮めの歌集」でした。非業の最後を遂げた有間皇子(難波天皇)の霊魂を慰め、皇子を追いかけた間人皇后の愛と献身に応えた歌集です。その歌集の編纂を望んだ人は、有間皇子・間人皇后に所縁の人、そう結論する以外にないのです。
明日も、もう少し捕捉する予定です。


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# by tizudesiru | 2018-01-16 22:17 | 319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや | Trackback

難波天皇と持統天皇の運命の人・間人皇后

持統天皇の難波宮行幸

持統天皇と難波宮とは深い因縁があるということでしょう。

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朱鳥元年に前期難波宮は全焼したと書かれていますし、発掘の結果でも掘立柱の焼け跡が確認されています。その後に建てかえられたのでしょう。持統天皇即位以後も、節目ごとに各天皇の難波宮行幸がありました。各天皇と難波宮のかかわりを見ましょう。
白雉三年~五年(652~654)孝徳天皇の皇居(五年に崩御)
斉明六年十二月(660) 斉明天皇行幸(百済救援の武器をそろえるため) 
天武八年十一月(679) 天武天皇、羅城を築く
天武十二年十二月(683) 天武天皇、難波宮を第一の陪都と定める
朱鳥元年正月(686) 難波宮全焼

持統六年四月(692) 有位の親王以下、少初位下相当に至るまでに、難波大蔵の鋤を賜う
持統□年 (69□)  持統太上天皇行幸(万葉集に行幸時の歌あり)
文武三年ー~二月(699) 文武天皇行幸(大宝令成定の前年)
慶雲三年九月(706) 文武天皇行幸(崩御の前年)
養老元年二月(717) 元正天皇行幸(即位三年目)
神亀二年十月(725) 聖武天皇行幸(即位二年目)
神亀四年二月(727) 聖武天皇、難波宮を造営(後期難波宮)

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難波長柄豊崎宮(なにわのながらのとよさきのみや)は、白雉三年(652)に完成しました。この都は経済的・政治的な面だけではなく、外交の面からも重要な港を持ち、選び抜かれた本格的な皇都だったのでした。「乙巳の変」後の新しい政治を象徴する都だったのです。
この皇都から、白雉四年に中大兄は母(斉明天皇)と妹(間人皇后)や役人らを率いて倭京に帰っています。東宮という立場でありながら、天皇の皇后まで連れて倭京に帰るとは、異常事態です。(天智天皇は難波宮を捨てたのです。だから、持統天皇が難波宮を重視するのは天智天皇との関わりからではありません。他に理由があるのです)
中大兄皇子の倭京への引き上げは、孝徳天皇にも信じられない状況でした。
孝徳天皇が間人皇后に贈った歌が書紀にありましたね。
金木つけ 吾が飼う駒は引き出せず 吾が飼う駒を人見つらむか
後宮の皇后を連れ出せる人とは、それは誰なのか、様々に取りざたされました。間人皇后と中大兄皇子が恋仲だったという説もあります。翌年の白雉五年に孝徳天皇が病に倒れたので、間人皇后は中大兄と難波宮に天皇を見舞いました。皇后はそのまま難波宮に残ったのでしょう。玉璽を預かり中宮天皇となったのですから。

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中宮天皇の存在については、これまでも紹介してきました。
難波宮天皇(孝徳天皇)は病が重篤となった時、間人皇后(はしひとのこうごう)=中宮天皇に玉璽を渡したので、「玉璽を持たない天智天皇は、中宮天皇が薨去するまで極位につけなかった」といいました。
また、中宮天皇の実在は、野中寺の小さな仏像の「野中寺弥勒菩薩半跏像銘(やちゅうじみろくぼさつはんかぞうめい」文の干支で確認されています
。この銘文の中宮天皇として斉明天皇と間人皇后が考えられていますが、さて銘文は、母の斉明帝(661年没)、娘の間人皇后(665年没)のどちらを指すのでしょうか。「丙寅年四月大旧癸卯」の丙寅癸卯が重なるのは、天智五年(666)だけです。
しかし、二人の没年を見ると、天智五年(666)に病気平癒をねがったのなら、どちらも没しているので該当しません。では、銘文を読みましょう。

丙寅(ひのえとら)四月大旧(だいきゅう)八日 癸卯開に記す。栢寺(かしわてら)の知識等、中宮天皇の大御身、労(いたづ)き坐(ま)しし時にいたり、誓願し奉る弥勒像也。友等人数一百十八、是に依りて六道の四生の人等、此の数に相(あ)うべき也。

「栢寺」について*何処にあったのか不明です。
「大旧」について*持統四年に採用された新暦では四月は29日で、旧暦(元嘉暦)では30日となり、29日を「小の月」30日を「大の月」ということで、「大旧」とは「四月が旧暦では大の月だった」という意味だそうです。(では、旧暦と新暦が同時に使われている時期に銘文が彫られた弥勒像だとなりますね。すると、銘文は持統四年より後の時代のものです。)
癸卯開の「開」について*「開」は暦用語で、造営・治病に良いとされる日だそうです。

「大旧」が「旧暦の大の月」であれば、銘文が持統四年より後に彫られたとなり、中宮天皇の病が重篤になった時に像が作られ、銘文はその後に由来を知る人により彫り込まれたとなりますね。では、誰が彫ったのか。そもそもどなたの病気平癒を願って、誰が造らせたものなのでしょう。
仏像が間人皇后のために造られたのであれば、天智天皇の時代の誰か、中宮天皇の身近な人が造ったとなりましょう。さて、間人皇后の没年ですが、野中寺の銘文が正しいとすると、書紀の没年とは一年ずれることになりますが、そのずれの原因は書紀の記述の混乱かも知れません。その例を書紀から探してみましょう。

日本書紀の斉明紀・天智紀には一年ずれる重出記事がある
一つ例を挙げてみました。
斉明六年(660)の十二月に、斉明天皇は難波宮に行幸しますが、それは百済救援のための武器を調達するためでした。660年に百済の王たちは唐に連行されていますから、事実上百済は滅びました。王家の血族でもあった鬼室福伸が救援軍を要請したので、斉明帝が難波行幸したとなっています。そして、七年(661)の正月に出航して三月に筑紫の娜大津(なのおおつ)に到着するのです。(斉明帝の行動が早すぎます。)
高句麗の僧・道顕の「日本世記」によれば、七年(661)四月に鬼室福伸より「王子・豊璋を迎えることを乞う」と使いが来ています。斉明天皇は朝倉宮に遷り、七月には崩御となるのです。中大兄皇子が称制し、九月に豊璋に五千の護衛の兵をつけて百済に送りました。そして、明日香に戻り、天皇の殯宮は川原宮で行われました。一旦、明日香に引き揚げたということです。(この後、中大兄皇子は筑紫に行かなかったのでしょうか)
天智一年(662)五月に安曇比羅夫が軍船百七十艘を率い、
豊璋を百済に送りました。
百済の王子・豊璋は百済に二度も帰国したことになります。
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(福岡の恵蘇八幡神社・木の丸殿の址といわれています)

書紀の記述に重出があることはよく知られています。記録が二重にあって、どちらが正しいか分からないのでしょうか。そうであれば時期の整合性も無くなります。わたしは「間人皇后の没年記事も、一年早いのではないか」と思うのです。
斉明天皇の筑紫への征西(661正月)は早すぎます。難波宮で調達した武器はあっても、船も兵もないのです。書紀では、百済救援の武器を修繕し、船舶を準備し、軍兵の食料を蓄えるのは、天智一年(662)になっています。二万七千人の出兵は天智二年(663)のことです。


間人皇后の没年は正確ではない可能性があると思うのです。
野中寺の仏像は、中宮天皇の関係者が病気平癒を弥勒像に祈ったか、平癒を願って仏像を造らせたか、です。白村江敗戦後に手に入れた仏像に、中宮天皇の病気平癒を祈っただけかも知れません。その事を後の時代になって、「この仏像には高貴な方との特別な関わりがあることを忘れてはならない」として彫らせたものかも知れません。仏像と銘文の製作は一致しないと思うのです。ただ、中宮天皇という女性の実在は動かせないのです。

中宮天皇は誰だったのか、それが問題です。万葉集には「中宮天皇」という言葉はありません。中皇命とはありますが、それは、間人皇后を置いてほかにはないのです。玉璽を預かる立場の后と考えるならば。

他に、中皇命と同じ立場の女性を表す詞として、次のような資料があります。
「仲天皇」・天平九年『大安寺伽藍縁起幷流記資財帳』天智后倭大后
「中都天皇」・『続紀』巻三〇、神護景雲三年十月詔  草壁皇子妃、のち元明天皇
「中宮天皇」・河内野中寺弥勒菩薩像台座銘 (斉明天皇・間人皇后)


「中・仲・中都・中宮」天皇という言葉には、中継ぎとして玉璽を受け継ぐべき立場の女性という意味があります。しかも、間人皇后=中皇命=中宮天皇 を指すという、理由がまだ野中寺にあります。
この寺は「中の太子」と呼ばれ、「聖徳太子の命によって蘇我馬子が建立した」と伝えられています。叡福寺が「上の太子」、八尾市の大聖将軍寺が「下の太子」と呼ばれています。この辺りを本拠地としていた船史(ふなのふひと)氏の氏寺として創建されたそうです。創建当時は、東西に金堂と塔が並ぶ伽藍であったそうです。
百済系渡来人の船史氏の寺が、何ゆえ「聖徳太子と結びついた」のでしょう。ここで、叡福寺古墳の三骨一廟が思い出されます。穴穂部間人皇后が共に埋葬されているという伝承です。この事は以前にも書きました。(穴穂部間人皇后は、義理の息子と再婚しているのです。聖徳太子の母として同じ墓に入る理由はうすいのです。既に、大后ではありません。玉璽を預かる立場ではないのです。)
最近のブログで、叡福寺古墳は孝徳天皇と間人皇后と斉明天皇の墓であると紹介しました。そうです、同じ間人皇后に関わるのです。野中寺は間人皇后の病気平癒を願い、薨去の後は菩提を弔ったのかも知れません。聖徳太子信仰の高まりにより、同じ名を持つ間人皇后の関係で「中の太子」と呼ばれるようになったのでしょう。
伝承には深い意味があると思います。

持統天皇は、大宝律令が完成する前に難波宮に行幸した

行幸の目的は、亡き難波天皇への報告ではないでしょうか。いよいよ律令が完成し、元号も建てることになりましたと、それまでの天皇ができなかった建元をしたのです。画期的な事だったはずです。だからこそ、文武天皇も行幸したのです。
前回に万葉集巻二の冒頭歌の題詞に出てくる「難波高津宮天皇」について紹介しました。
この難波天皇は、大方の解説者のいうように「仁徳天皇、または孝徳天皇」とは考えられないと書きました。難波天皇は「ある日出かけたまま帰って来ない天皇」で、その帰りを待ち続ける皇后(磐姫)がいて、「白髪になるまでも待ち続けよう」という歌でした。続く軽太郎女皇女の歌は、皇位継承事件を詠んだものでした。「皇太子が行ってしまってから日が経ってしまったが、迎えに行こう、待ち続けることはできない。」と進みだした歌でした。
巻二の冒頭歌六首は、有間皇子事件を知らしめる歌だった。そのように編集されたのが巻二だったのです。と、紹介しています。


難波天皇に所縁の深い乙女(持統天皇)を救ったのは、中皇命(中宮天皇)を置いて、他にはないでしょう。将に、中皇命が持統天皇の命運を握り、守ったと思います。なぜなら、愛する人の忘れ形見だったから、ではありませんか。

持統天皇は難波宮に行幸していますし、その時の歌が万葉集に残されているのです。しかも歴代の天皇は、必ず難波宮に行幸していますから
難波宮とは深い因縁があったということです。この深い因縁は尋常ではありません。歴史の闇に取り残された事実を、「万葉集・野中寺の仏像・難波宮への行幸」が語り続けていると思います。


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# by tizudesiru | 2018-01-16 03:04 | 318難波宮の運命の人・間人皇后 | Trackback

万葉集巻二の難波天皇・持統天皇の出自を暗示する

皇都の遷都は政変と重なる
欽明・敏達・推古・舒明帝の時代は、大王の館が政治の中心でしたから皇居は次々に変わりました。が、難波宮・近江京・藤原宮・平城京・長岡京・平安京などの遷都は、いずれも政治の転換点であり、政変が絡んでいました。また、最初の皇都である孝徳天皇の難波宮(652年完成)は、先達として後世の都のモデルとなりました。天武十二年(683年)、天武天皇は難波宮を第一の陪都と定めました。難波宮に持統天皇や文武天皇が何度も行幸しましたが、それは何を意味したのでしょうか。藤原宮は難波宮をモデルに作られたのです。朝堂院内の堂の並びや数、敷地の東西の幅など、両者には共通点があります。高市皇子や持統帝の意思で作られた藤原宮には難波宮への特別な思いが窺えますが、それは何ゆえに生まれたのでしょうか。
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難波宮大極殿と天香具山をラインでつなぐと、直線は藤原宮の大極殿を通りました。孝徳天皇が難波宮に暮らしたのは、白雉三年から五年の間(652~654)わずか二年です。藤原宮が難波宮を意識して造営されたとしても、白雉五年での持統天皇は九歳くらいで高市皇子は生まれたばかりですから、関わりがあっても高市皇子ではないでしょう。では、藤原宮御宇天皇である持統天皇にとって、難波宮はどんな意味があったのでしょう。
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難波宮天皇と持統天皇陵のつながりは?

藤原宮は15年(足かけ17年)で捨てられましたが、難波宮は百年以上使われました。この違いはなんでしよう。難波宮は持統天皇にとってどんな意味があったのか、ラインでも見ます。
難波宮から天武持統陵(野口王墓)にラインを引きました。すると、ラインは真の欽明陵といわれている見瀬丸山古墳(五条野丸山)を通り野口王墓に届きました。
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このラインが王墓造営の時に意識されたと、断定はできません。しかし、持統天皇と難波宮には何かしらつながりがあると、思いました。宮殿にしても陵墓にしても、造営する時に何の意味もない土地が選ばれることはないと思うのです。
そこには、陵墓を造った人の意思、宮殿を造った人の思いが絡んでいるはずです。
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天智陵を天武持統陵と結ぶ(ピンクのライン)と、藤原宮の大極殿を通ることは、何度も紹介しました。王墓はその位置に意味がある、都も然りです。

では、難波宮と持統天皇とを結びつけるものは、何なのか。
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ここで、万葉集の巻二に気になる天皇の存在があります。
万葉集巻二の冒頭歌に「難波高津宮天皇」が登場するのですが、(その皇后の歌・四首は既にブログでも紹介しています。)難波天皇は仁徳天皇とされ、その皇后・磐姫が「帰って来ない天皇を待ちのぞむ」歌でした。しかし、古事記や日本書紀では逆で「出て行って帰って来なかったのは磐姫皇后」の方で、皇后に「帰って来てほしい」と歌を詠み続けるのは仁徳天皇の方なのです。二人の状況が記紀と万葉集では逆転しているのです。
万葉集の歌は叙事詩と云われていますから、物語を創作してお話の世界を詠んだ歌とは考えられません。それも、巻二の冒頭歌ですから、ただ偶然に掲載されたのではないでしょう。(万葉集の各巻の冒頭歌には深い意味があります)
すると、難波天皇は何かの事情で長い間不在と云うことになります。しかも、仁徳天皇ではない可能性が大きいと思います。(仁徳天皇の難波高津宮はまだ不明です、長い間探し続けられていますが。)

いったい、万葉集の難波天皇は何処へ行かれたのでしょう。

当時、万葉集を読んだ人たちには、巻二の冒頭歌の意味も、難波天皇の不在の理由も分かったのでしょうか。分からなかったなら、脚注などが付けられたでしょうから。

 難波の高津宮に天の下知らしめす天皇の代(大鷦鷯天皇、諡して仁徳天皇という)
 磐姫皇后(いわのひめのおほきさき)、天皇を思(しいの)ひて作らす歌四首

85 君が行き けながくなりぬ 山たづね 迎えか行かむ 待ちにか待たむ

磐姫皇后の四首(85・86・87・88)に続けて、「或本の歌一首」が古歌集より載せられています。「89 居明して君をば待たむ ぬばたまの吾黒髪に霜はふるとも」、白髪になっても待ち続けますというのです。そこまで長い不在なんて、状況として考えにくいです。

難波天皇の長い不在の理由は何でしょうか。実は、その理由が暗示されていると思うのです、次の歌を使って。ある事件が暗示されていると…

そこに、政権に巻き込まれた高貴な人の運命が
次にあるのは、軽太郎女(かるのおおいらつめ)=衣通姫(そとほりひめ)の歌です。

90番の歌の前後に長い題詞と長い左脚があり、この歌について説明されています。
古事記に曰く
軽太子(かるのひつぎのみこ)、軽太郎女に姧(たは)く。その故にその太子を伊予の湯に流す。この時に、衣通王(そとほりのおおきみ)恋慕(しのひ)に堪(あ)へずして追い往く時に、歌ひて曰く


90 君が行き けながくなりぬ 山たづの 迎えを行かむ 待つには待たじ


まるで磐姫皇后の歌に似ています。
古事記によると、軽太郎女皇女は木梨軽皇子の妹で、その美しさのために同母兄の木梨軽皇子に愛されてしまった人でした。木梨軽皇子は皇位継承者でしたが、禁断の愛の為にその権利を奪われ、遂には軽太郎女と共に自殺してしまうのです。

不思議な運命の糸が絡む歌・巻二の冒頭歌に続く「木梨軽皇子の事件」の歌
木梨軽皇子は允恭天皇の皇太子で、允恭天皇は仁徳天皇の御子ですから、軽皇子は仁徳天皇(難波天皇)の孫になります。つまり難波高津宮天皇の孫の皇位継承者の悲劇的な事件の歌なのです。その事件の歌が、磐姫皇后の歌に並べられているのです。よく似た歌として。
木梨軽太子は皇太子ですから、めったなことでは皇位継承権を奪われることはありません。そこへ「禁断の愛」です、書紀では「汁物が凝ったので占ったら、事が明らかになった」というのです。古事記では、「皇子が二人の関係を歌にした」から人々が知ったことになっています。
占いと歌でしたから証拠は曖昧なもので、弟の穴穂皇子側の陰謀の臭いもしてきます。


万葉集巻二の冒頭歌(85~90)は、難波天皇の事件にかかわる歌ではないか

万葉集が持統天皇の意思を汲んで編纂されたものであるなら、そこに女帝の願いや思いがあるでしょう。難波天皇と呼ばれる人は決して架空の天皇ではない、とわたしは思います。
その人は、皇位継承者であり、近親者によりおとしめられ、陰謀により皇位継承権を奪われ、そして命も奪われた。更に、彼を愛した女性は皇女であり(皇后でもあった)、更に、帰らぬ天皇を追って迎えに行った人、となるのです。
すると、難波天皇は仁徳天皇ではない。難波天皇は実在した人であるが、孝徳天皇でもない。

では、誰なのですか? 答は既に何度も何度も書いてきました。

難波天皇と呼ばれる人物は、有間皇子事件の当時者=有間皇子以外にいないのです
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その人は、持統天皇の所縁の人です。持統天皇は難波宮に行幸していますし、その時の歌が万葉集に「太上天皇、難波行幸の時の歌」掲載されているのです。持統天皇は難波宮を特別に思っていたのです。しかも、
万葉集巻二の冒頭は、「有間皇子事件」に関わる歌となっています。そして、同じ巻二の「挽歌」の冒頭も「有間皇子の自傷歌」です。
万葉集の巻二の編集の目的、それは「有間皇子事件」の告発なのかも知れません。誰もが知っている「事件」だったのでしょう。事件は歌の形を借りて、文武帝に伝達されようとしたのです。が、文武帝は奏上の前に崩御されました。
難波天皇が有間皇子を想定しているのなら、皇子は即位していたか、即位してもいい状態だったか、皇太子として準備をしていたか、いずれでしょうか。その皇子が突然あらぬ疑いをかけられて、連行された。誰もが心配したでしょう。
孝徳天皇の後宮は有間皇子の後宮に移動していたでしょうから、間人皇后は当然『次の天皇の後宮に遷る』ことを承知していたはずです。

だから、間人皇后は有間皇子の後を追いかけて行ったのでした。「君が行き日(け)ながくなりぬ」だったからです。
しかし、事件は悲惨な結果となり、間人皇后は、しばらく日本海側の間人(たいざ)という港に隠れたのです。一人ではなかったでしょう。後宮の女性たちが一緒だったでしょうし、その中に有間皇子の子女もいたと思います。
そして、皇后は玉璽を守っていたのです。
やがて、皇后は摂津に返ります(難波宮かもしれません)が、そこで病に倒れたのでした。
人々は勇気のある、しかも賢く美しい皇后=中宮天皇の病気平癒を願ったことでしょう。
皇后が摂津に戻った時、鵜野皇女が間人皇后から引き離されていたかも知れません。
高貴な乙女であれば、後宮に召される他に選択肢はありませんでした。だから、当然、天智帝の後宮に入れられたのです。


藤原宮は捨てたのに難波宮は大事にされるとは
更に、727年に聖武天皇は難波宮を瓦葺の宮殿に建てかえました。その理由は、簡単です、所縁の宮殿だったからです。聖武天皇と難波宮との深い因縁無くして、考えられないことです。

その難波宮を捨てるのは桓武天皇で、延暦のころ、平安京遷都(延暦十三年・794年)の二年ほど前です。桓武天皇はどんなに立派でも難波宮はいらなかったのです。

持統天皇は、大宝律令が完成する前に難波宮に行幸しています。しかも歴代の天皇は、必ず難波宮に行幸しています。行幸の目的は古を偲ぶことでしょうか。
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難波宮と持統天皇は深い因縁があったということです。
ここで、これまでに書いて来たことを確認しました。次は、持統天皇の難波行幸の歌を詠みましょう。
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では、また後で。




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# by tizudesiru | 2018-01-12 17:32 | 318難波宮の運命の人・間人皇后 | Trackback

桓武天皇・平安京遷都の意味をラインで読む

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(大阪市難波宮址)
前回のブログで、わたしはラインを使って難波宮と平安京と延喜式の話をしました。(延喜式とは十世紀に奏上された「律令を使う上での行政の細則」で、細かな令の取り扱いをまとめたもの、それを「式」といいます。)
前回のブログで書いた難波宮と三都(藤原宮・平城京・平安京)のことですが、お気づきのように、難波宮は7・8世紀の皇都ですから、10世紀の延喜式の時代と同じ次元で扱えば齟齬が生じるでしょうね。とはいえ、ラインで読むと面白い世界が広がると思います。今回はラインを使って都の姿を読み解きましょう。前回の捕捉であり、祭祀ラインの紹介になります。

長岡京から平安京へ都は遷った
平安京遷都は、桓武天皇の延暦十三年(794)です。
桓武天皇は母の身分が低位であったために極位に登ることはないと思っておられたようです。しかし、井上皇后と他戸親王の廃后・廃太子に続く薨去により、極位への道が開いたのです。
そこには藤原氏内部の争いが絡んでいました。桓武天皇は弟の早良親王を皇太子としましたが、ほどなく政争に巻き込まれ早良親王は四国に流され憤死されました。(桓武天皇には心痛の種となったようです。歴史書から早良親王の記述は削除されているそうです。)


では、平安京遷都のはなしに参りましょう
万葉集の時代の平城京から話が飛びますが、桓武天皇は平安京の土地をなぜ選んだのか、その理由を考えてみましょう。ラインを使えば、一つの答が導き出されます。
天武朝はあまたの政変に翻弄され遂に皇統が絶えたのですが、続日本紀によると、桓武天皇は「天武朝から皇統が天智朝に戻ったことは易姓革命である」と考えたようです。

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平安京は、東西関係にある大津宮を意識して造られた
桓武天皇が京に選んだ土地は、天智天皇の大津宮の西でした。そして、大友皇子(弘文天皇)の宮の西でもありました。そのラインが平安京の一条と二条にほぼ重なります。
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(白ポイント・大津宮錦織遺跡・ここからラインを引いています)
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ラインを見ると、平安京が選ばれた土地であると分かります
東西のラインを見る限り、桓武天皇は天智朝を引き継ぐ決意をしていたと言えます。お気づきのように、最初の大極殿は、現在の御所の地ではありません。現在の御所より西にずれています。度重なる火災によって元の位置より東に建てかえられたのです。
羅城門から都に入ると、九条に東寺と西寺があります。
都の南の入り口の羅城門は、黄色のライン上にあったのです。
桓武天皇は、都内に平城宮のように寺院を建立させませんでした。
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錦織遺跡(近江京)からの紫ラインが一条と重なり、三井寺からの水色ラインが二条と重なりました。赤のラインは東堀川と西堀川です。この四角の中に御所は造営されていました。
何処を終点にしたらいいのか分からなかったので、紫ラインは仁和寺に、水色ラインは愛宕山に向けて引きました。どんな方法で測量したのか分かりませんが、結果として御所が何処に作られるべきか分かりますし、それをラインが教えてくれるのです。
そこを選んだ人と、選ばれた理由が分かるのですね。

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嵯峨天皇の時代には、空海の霊力で平安京は守られた
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さて、平安京を守る空海の結界を何度も紹介しました。上賀茂神社と南北に向き合うのは東寺です。これは何故? 実は、空海が国家守護の祭祀を始めるのは、嵯峨天皇の御代です。桓武天皇崩御により皇位を受け継いだ兄の平城天皇は、三年で弟の嵯峨天皇に譲位しました。病気がちであったというのですが、譲位後には元気になり再度極位に登ろうとされました。なにより「都は平城京に戻すべきだ」と主張し、遂には「薬子の変」まで引き起こし、その為に出家するという事態となったのです。嵯峨天皇の御代は政変から始まったのです。そこで、

嵯峨天皇は、国家守護の仏教を学んだ空海に東寺を任せ、天皇家と都の平安を守る寺としました。(明治まで東寺の僧が御所で一月一日に護摩焚きの祈祷を行っていました。明治以後は、東寺のみで祈祷を続けているそうです。)

その空海の守りの結界が上のラインです。

九世紀の後半に皇統存続の危機
しかし、肝心の皇統が切れそうになる事態が起こります。そこで、宇多天皇は皇籍に復帰し、即位しました。そして、在位十年で御子に譲位。譲位された醍醐天皇は、延喜式により全国の「神社の祭祀」を見直し、神祭りを強化したのです。当然、天皇家の安定と安寧の為の祭祀です。(ここで、大きく祭神の入れ替えなど有ったのでしょう。)

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すると、三か所の延喜式内社に御所と難波宮が挟まれた時期は、上の図を見ると、焼失した御所が建てなおされる時でしょうか。神聖なラインの上に御所改築の場所が選ばれたかもしれません。
更に、御所が移動したら結界も変わるのでしょうか。貴船神社のラインは新しい御所を守っています。都の守りは時代の変化に合わせて徐々に変わって行ったのです。それが、祭祀ラインで分かります。

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緑ラインが行き着くのは、東は伊勢神宮(内宮)、西は淡路島の伊弉諾神宮です。伊弉諾・伊勢の東西ラインは、文武天皇陵のすぐ南を通ります…
何とも面白い結果を見せてくれます。

今日は祭祀ラインを紹介しました。グーグルアースを使って、ラインを引くのは誰もができることです。神社は移動していますからなかなか難しいのですが、山と古墳を結んでみると古代史の謎が解けるかも知れません。
貴方もやってみませんか。



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# by tizudesiru | 2018-01-08 21:48 | 317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ | Trackback

孝徳天皇の難波宮から聖武天皇の難波宮へ激動の百年

孝徳天皇の難波宮から聖武天皇の難波宮へ激動の百年
藤原宮は15年で捨てられたが、難波宮は生き延びた
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(大阪城南・難波宮址)
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(歴史博物館画像・難波宮)
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難波宮は交通の要衝にあり、外交・経済活動の要の地にありました
何処と深くつながっていたか、ラインで見ましょう

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東西に意味があるなら、藤原氏が難波宮の真東に社殿を建てた理由はひとつ
藤原宮は捨てられましたが、難波宮は長く使われ続けています。平城京遷都を計画した時、為政者にとって難波宮はどのような意味があったのでしょう。春日大社の位置を考えれば、その答えは自明のことでありましょう。

難波宮から見ると平城京はほとんど真東に当たりますが、難波宮大極殿に対応するのは平城京の大極殿ではないのです。難波宮大極殿からの東へラインを引くと、東西の関係に収まるのは藤原氏の氏神・春日大社です。春日大社は難波宮の位置を意識して造られたのです。藤原氏の氏神と孝徳天皇霊の霊的な一体化です。
聖武天皇は難波宮を副都としましたから、難波宮はずっと重要な位置に在りました。

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新しい体制(律令政治)への転換を目指して「大化の改新」の詔をだした孝徳天皇の難波宮。そこは、律令政治の出発の地であり、理想の地でありました。
律令政治を藤原鎌足も孝徳天皇と共に目指しました。豪族の合議ではなく、律令によって国を動かす。富の分配を豪族以外で行うためには、律令が必要でした。
春日大社の社殿の位置は、鎌足と孝徳天皇(軽皇子)は深く結びついていたと強調したかったから選ばれたのでしょう。

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孝徳天皇の難波宮は人々を驚かせた
第一次難波宮は掘立柱の宮殿でしたが、「表現できないほど素晴らしい」と人々を驚嘆させました。この難波宮を詠んだ歌が「難波津の歌」であると、去年このブログでも書いています。仁徳天皇の代を寿ぐ歌ではなく、孝徳天皇の宮を寿ぐ歌に他ならないと。
発掘された難波宮の壮大な宮殿跡を見ると、「大化改新はなかった」などとは思えません。大化改新の詔は、孝徳天皇の理想が具現化したものに違いないでしょう。藤原鎌足は孝徳天皇(軽皇子)と理想を語り合っていました。
(鎌足は軽皇子を尊敬していたし、皇子も鎌足を気に入っていたのです。)
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その後、難波宮は火災にあいながらも存続し続けました。天武天皇も持統天皇も難波宮を使いました。文武天皇も行幸しています。
瓦葺の第二次難波宮の宮殿は、第一次難波宮とほぼ同じ位置に同じ配置で造営されました。奈良時代には、藤原氏は鎌足と軽皇子を結びつけ、春日大社の地を大極殿の真東としたのです。東西ラインは難波宮の重要性を肯定していますが……他のラインはどうでしょうか。

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不思議なことに、難波宮は平安時代の「延喜式式内社」に挟まれているのです。
延喜の帝(醍醐天皇)の代に奏上された延喜式、その中の式内社の中でも官より奉幣されるべき名神大社がありますが、その名神大社に難波宮が挟まれるという、由々しき事態になっているのです。

醍醐天皇は、皇統が切れそうになった時、皇籍に復帰された宇多天皇の御子で、宇多天皇の在位十年に譲位を受けた天皇でした。そして、どうしても果たさなければならない使命が、皇統の継続と維持でした。だからこそ、全国の神祭りを見直し、皇統の弥栄と継承を祈るための神社が選ばれました。
皇統への祟り神は封じ込められ、退座させられ、古代の氏族が祭祀する神々の霊力は断ち切られました。そのために式内名神大社は配置されました。(このことを紹介することが、このブログを始めた理由でもありました)
古代には霊力は信じられていたし、それは日常生活も政治も経済も左右したのでした。


画像を見てください。
下鴨神社・御所・酒解神社・難波宮・生国魂神社のラインは、難波宮大極殿を見事に挟みます。下鴨神社など三社は、みな式内名神大社になります。式内社の三社に挟まれることは、めったにありません。しかもラインは天皇のお住まいそのものを通ります。すると、御所と難波宮は三か所の式内社の霊力で守られたことになりますね。

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舒明天皇・天智天皇・持統天皇が詠んだ天香具山にもラインが届く
また、明日香の天香具山と結ぶと、越智神社(若干ずれている)を通り、藤原宮の大極殿をラインが通ります。平安京・平城京・藤原宮がこんなラインで結ばれるとしたら、どんな意味があるかわかります。藤原宮の大極殿(白ポイント)を通るのですからね。

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不思議なことに、天香具山と結ぶと藤原宮が、下鴨神社と結ぶと御所が取り込まれるのです。こうして、十世紀には三都は新しい物語に組み込まれていくのです。
ラインは自然にできたものではありません。その時代を生きた為政者の切なる願いや、暗躍する野望を背景に作られたものなのです。
孝徳天皇崩御の654年から聖武天皇崩御の756年の約百年間、その後も難波宮は激動の時代をずっと見まもりました。藤原宮や平城宮より長く存続した宮処なのです。
それは、万葉集のほとんどの歌が詠まれた時期ともだいたい重なります。

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あらためて、難波津の歌を読みかえしましょうか。孝徳天皇を偲びながら。


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# by tizudesiru | 2018-01-07 12:30 | 316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮 | Trackback

飛鳥の明日香と呼ばれた霊魂の地が二ヵ所ある理由

飛鳥はいつからアスカと呼ばれたのか
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(藤原宮から天香具山)

和銅三年、「飛鳥の明日香の
里を置きていなば」と別れを惜しみ、元明天皇は明日香を去りました。

和銅三年(710)には、[飛鳥(とぶとり)の明日香]という言葉が定着していたのですね。
しかし、古事記(712年撰上)・日本書紀(720年撰進)では、アスカは「飛鳥」で統一されてます。712年頃までに「飛鳥」は、「とぶとり」ではなく「アスカ」に変わったのです。元明天皇は古風な言い回しを用いて古京を懐かしんだのでしょう。

それにしても、社会科では「あすか時代」を飛鳥時代と書き、博物館のこの時代の仏像にも「飛鳥仏」と書かれています。飛鳥(とぶとり)をアスカと読むようになったのは、いつからでしょう。

ブログにも書きましたように、万葉集には「飛ぶ鳥の明日香」は四例、それは柿本人麻呂の川嶋皇子の挽歌(持統五年・691年)、同じく人麻呂の明日香皇女の挽歌(文武四年・700年)、平城宮遷都の時の元明天皇の歌(和銅三年・710年)、巻十六の由縁雑歌(後期万葉)に一例です。

「飛ぶ鳥の明日香」は、限られた地域の限られた意味を持つ言葉となっています。しかも、挽歌と結びついた言葉です。元明天皇も死別した夫や息子を「君があたりは見えずかもあらむ」と偲びました。やはり亡き人につながります。「飛ぶ鳥の」を美称とかたずけるわけにはいかないでしょう。「アスカは亡き人を思い出させる地」として、霊魂の地「アスカ・飛鳥」となったのです。
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また、人麻呂が草壁皇子(持統三年・689年)の殯宮で詠んだ歌には「飛ぶ鳥の浄(きよみ)の宮」とありますから、「飛ぶ鳥の明日香」はまだ使われていません。
とすると、「飛ぶ鳥の明日香」が定着したのは、持統三年から五年の間となりましょう。「飛ぶ鳥の浄の宮」は、人麻呂にとっても、万葉集にとっても大変重要な言葉となります。

ただ、丁丑年(天武六年677年)十二月上旬に葬ったと記されている小野毛人墓誌銘に「飛鳥浄見原宮治天下天皇」とあり、丁丑は天武六年(677年)となるのです。が、この墓誌の作成年次には疑問が持たれています。後に作られた墓誌だというのです。
大方は、明日香が「飛鳥」と定着したのは、天武天皇の御病が重篤になった時、平癒を願って「朱鳥」と改元され、宮を飛鳥浄御原宮というようになったからだと日本書紀(720年)に書かれていますから、これを支持しています。


遠津飛鳥は捨てられた…蘇我氏の残像を払う為に
考えてみると、不比等はなぜ明日香を選ばなかったのでしょう。
平城宮遷都は「藤原不比等の暗躍の結果だった」と、このブログで書きましたが、明日香を捨てる理由は何でしょう。藤原氏所縁の談山神社も近くにあって、鎌足の産湯井戸跡もあるし、大原(小原)は藤原氏の出身地だったようですし。更に、中大兄皇子と藤原鎌足には「乙巳の変」の所縁の土地が方々にあります。でも、明日香は都として選択されなかった。
一つには、都を大きくするには飛鳥は狭かったし、水の供給に問題があったと云われています。確かに、明日香川の水では十分ではなかったでしょう。

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(明日香川のながれ・甘樫の丘の北)
しかし、飛鳥を切り捨てる理由はもっと他に、深い意味があったのではないでしょうか。そこには蘇我馬子も住んだという嶋荘には嶋宮という宮殿があり、岡宮があり、浄御原宮があり、天武朝の宮が集中していました。が、何より蘇我稲目以来の蘇我氏の影も強く残る土地だったというのが大きかったのではないでしょうか。昔は、大伴氏も中臣氏も蘇我氏の組織の中に組み込まれていたのですから。
だから、

蘇我氏の残像を捨て去ること、それが遷都の最大の目的だった。
舒明天皇の墓を押坂内陵(八角墳)に改葬した理由も、「明日香からの切り離し」です。天智帝と同じ八角墳にしたのは、同じ皇統であることを強調するためです(元の陵墓は明日香にあったが改葬されたとすると、そこは…)。
推古帝と竹田皇子の合葬墓も明日香から「近津飛鳥」に改葬された(前方後円墳ではなく方墳として改葬した)ということです。方墳ですから、舒明帝の八角墳とは形式を変えています。選ばれたのは、近津飛鳥でした。

近津飛鳥と呼ばれるようになったのは、いつ?その理由はは何か?
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用明天皇陵(方墳)も、孝徳天皇陵(円墳)もなぜか近津飛鳥に在ります。それも、改葬されたからです。同じく王家の墓を「明日香」から切り離したかったからです。
かし、王墓の改葬ですから、簡単に実行できません。だから、人々を納得させる(欺く)ために、都に近い霊魂の地として「近津飛鳥」と呼んだのです。「飛鳥」は奈良朝が作りだした「当て字」でしょう。
要するに、明日香に残したのは、蘇我氏と天武朝の人々の墓だった(天武持統陵は「八角墳」)……それが奈良朝の藤原(不比等)氏の構想でした。

誰かが計画し実行しなければ、なんとなく墓が改葬されるはずがありません。すると、舒明・用明・推古の陵墓の改葬は、ある時期(それは奈良時代か)に一斉に実行されたと云うことになります。それは、「近つ飛鳥」という呼び名から分かります。近い遠いは都を基準に使われましたから、「近津飛鳥」は明日香より平城京に近い明日香の意味です。そして、飛ぶ鳥が「飛鳥(あすか)」となった。
理由は様々にあったでしょうが、ある権力者は藤原宮の人々(天武朝)の霊魂を明日香に残した(藤原氏が封じた)ままにしたかったのです。

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(叡福寺・聖徳太子陵墓)
とすると、聖徳太子陵が近津飛鳥に在ることは不思議なことになります。

孝徳天皇の墓は聖徳太子廟ではないか

大王ではないのですから、聖徳太子が実在でも改葬の必要はないのです。では、叡福寺の陵墓は、誰の墓なのか。それは、もちろん孝徳天皇の改葬墓です。他に該当する天皇はありません。石室の構造、石室の切り石からして終末期、石棺の台には格狭間(こざま)が彫られていました。明らかに後世の仏具の装飾でした。すると、聖徳太子墓では有りえません。更に、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后(聖徳太子の母)も一緒ですからね。
大胆な説ではなく、孝徳天皇の改葬墓と考えたが自然なのです。三骨一廟の三骨とは、孝徳天皇・間人(はしひと)皇后・斉明天皇以外には考えられません。二人の女性は斉明天皇と間人皇后で、牽牛子塚古墳からの改葬です。この二人を明日香に残したままにするとは考えられません。舒明天皇陵の改葬をしたのなら、其の皇后(斉明天皇)の墓も改葬するはずでしょう。

改葬されたのです、二人の女性も近つ飛鳥に、「孝徳天皇の玉璽を守り、天智天皇に渡した中宮天皇として」間人皇后も合葬されたと考えるのが自然です。同じ間人皇后ですから、後の人々は伝承としての「穴穂部間人皇后」と名前の点で混同したかも知れません。
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これで、昨年から書いて来た「永福寺の聖徳太子陵墓の謎」の一部を書いたと思います。叡福寺聖徳太子陵の不思議については、去年のブログを見ていただきたいです。
昨年は、謎だらけであることを紹介していました。

明日香はなぜ「飛鳥」となったのか、それは何時なのか、いかなる意図があったのか、それと「飛鳥」と呼ばれる「近津飛鳥」はどうつながるのか、書きました。

七世紀から八世紀の王墓の改葬がなぜ多いのかも絡んでいましたが、そこには大王家と結んだ藤原氏の大きな野望と創作したい物語があったのです。
その物語の創作は、日本書紀を正史にする上に欠かせない作業だったのかも知れませんね。



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# by tizudesiru | 2018-01-05 14:22 | 315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬 | Trackback

草壁皇子と天智天皇の関係は秘密ではなかった

天智天皇は草壁皇子と義淵を共に岡宮で育てた
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竜蓋寺(岡寺)は吉野の竜門寺と共に義淵僧正が国家の隆泰と藤原氏の栄昌を祈って建立したものであると、「竜門寺縁起」に書かれています。
岡寺(竜蓋寺)には草壁皇子の宮跡を賜って、義淵が寺にしたと伝わります。が、寺の建立の目的が国家と藤原氏のためだったと「竜門寺縁起」はいうのです。ここで分かるのは、義淵と藤原氏を結びつける何かがあった、草壁皇子の宮跡を賜る縁もあった、と云うことです。
また、「竜蓋寺伝記」は、『高市郡に住む津守氏と阿刀氏の夫婦が多年子どもがないので観音に祈ったところ、夜に柴垣の上に白帖に包まれた小児を得、養育していたが、その事を聞いた天智天皇が引き取って日並皇子(草壁皇子)とともに岡宮で育て、やがて長じて義淵になった、その義淵が岡宮を賜って寺とした』と書かれています。
義淵が僧正に任ぜられたのは、大宝三年(703)でした。その数年前の文武三年(699)に義淵はその学行を賞され稲一万束を賜っています。それは、持統太上天皇の目に留まり、「天智天皇の元で草壁と共に育ったあの義淵がここまで成長したのか」という思いの結果だったのでしょうか。

ここで、「天智天皇が育てた」という文言が気になります。以前、わたしは持統天皇と天武天皇が草壁皇子と義淵を共に育てたと思っていました。しかし、「竜蓋寺伝記」では、天武帝ではなく天智帝なのです。
この時代の結婚の形として、娘の生んだ子供は実家が面倒をみたという意味で「天智天皇が岡宮で育てた」と書かれたのでしょうか。では、天智天皇は岡宮に住み、鵜野皇女の実家は岡宮だった? となるのでしょうか。
それとも、「竜蓋寺(岡寺)伝記」は、草壁皇子の父親は天智天皇だったと伝えているのでしょうか。
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義淵は草壁皇子と共に育ち、後に賜った岡宮を寺として「国家の隆泰と藤原氏の栄昌を祈った」と云うことは、藤原氏の後ろ盾があって僧正になったのでしょう。では、藤原氏が「僧正」に義淵を押した理由です、どんなつながりがあったのでしょうか。

藤原氏と義淵を結びつけたのは、やはり天智天皇でしょう。藤原氏は鎌足以来、「藤原」の姓を賜った天智天皇を如何なる時も主上と仰いできました。「天智天皇が育てた義淵」として、僧正に押したと思います。
義淵は神亀四年(727)に俗姓「市往(いちき)」氏を改めて「岡連」の氏姓を賜りました。新撰姓氏録によると、市往(いちき)公は百済国明王の出自で、岡連と共に百済系の人です。
すると、義淵はいつ百済から大和に来たのでしょうか。白村江敗戦後でしょうかね。白村江敗戦後、天智天皇は百済人を多く起用しています。大友皇子に百済人を仕えさせたように、草壁皇子の傍にも百済の少年を置いたのかも知れませんね。


今日の結論として、義淵と草壁皇子の関係から、育てた天智天皇とのつながりはまだはっきりしません。しかし、万葉集を読むかぎり、持統天皇(鵜野皇女)の父親は天智帝とは考えられません。しかし、鵜野皇女の天智天皇に対する思慕は尋常ではありません。それで、父親ではないなら夫だった、草壁皇子の父だったと読んだのです。

万葉集は、その事を隠してはいませんでした。見えなくしたのは、平城天皇です。この事は何度も書きましたね。
今年も、万葉集を読みます。一つの読みで万葉集のほとんどが変わる。その事を紹介したいと思っています。


万葉集は文武天皇の為に編纂された
編纂を命じたのは持統天皇、実働したのは柿本人麻呂
草壁皇子の皇統の正しさを文武天皇に伝えるために、万葉集は編纂された
文武天皇は十五歳で即位しましたから、周囲の政治的状況も十分にはつかんでいなかったでしょう。その困難な政治的状況を生き抜いていくには、ゆるぎない皇統であるという確信が必要だったのです。皇統や血統やどの氏に属するかが何より大切で、それによって地位が決定されるという、血統が財産と同じであった時代ですから。
故に、孫に譲位した持統天皇には伝えたいことがあり、「人麻呂に「遺言としての万葉集を編纂」させたと思います。

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持統→草壁→文武の皇統がどのような運命をたどり、誰の皇統を引き継いだのか、これから誰に受け継がれていかなければならないのか、持統天皇は「近江県の物語」を人麻呂に託したのです。愛する者の為に「皇統の真幸」を願って、歌集を編纂させたのでした。
万葉集で、すぎにし人を意味する「葉(もみじば)」、それはただ一人「草壁皇子」を象徴する詞でした。万葉集で人麻呂は黄葉を「すぎにし人=死者・故人」として使いました。集中に「もみじば」として黄葉・紅葉はあっても「葉」だけで「もみじば」と読むのは、一か所だけです。それは、草壁皇子を意味しました。皇位継承の霊魂に触れる儀式の時に使われた詞でした。
万葉集は、文武天皇に「父・草壁皇子の皇統の真実」を伝えるために編纂されたのです。
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(去年の一月に訪れた岡寺)
岡宮で草壁皇子と一緒に義淵をそだてたのは、天智天皇だった
それは、草壁皇子に教養を身に着けた子どもと共に育ってほしかったからです。父親としての教育の一貫だったと考えられませんか。

そして、天武朝でも、吉野盟約の時も、秘密にしていなかったと思います。少なくとも、持統天皇が生きている間は。
しかし、文武天皇崩御の後、元明天皇が即位する時、大問題になったと思うのです。天武帝の皇統の皇子達が存命中なのに、天智帝の娘の阿閇皇女(元明天皇)が即位するのですから。天武朝の皇統ではない女帝が即位するなんて、壬申の乱で勝利した氏族には我慢ならなかったでしょう。軽皇子(文武天皇)即位の場合は持統天皇の孫としてまだ筋が通りましたが、阿閇皇女(元明天皇)の場合は、誰の目にもにも異例だったでしょう。そこを乗り越えて、なんとか元明天皇が即位しようという時に、万葉集が献じられたとしたら…大混乱になったはずです。
だから、人麻呂は処断されたと思うのです。言霊をつかって世を混乱させようとした、として。
それが、柿本人麻呂の刑死の理由でした。では、また。



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# by tizudesiru | 2018-01-03 02:11 | 314草壁皇子と天智天皇の関係 | Trackback

彷徨う霊魂・飛ぶ鳥の明日香

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今年宜しくお願いいたします
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2017年のブログを振り返えると、どこかで聞いた話だな、と思ったことはありませんでしたか?
万葉集の時代は、悲しい時代でした。


有力な皇位継承者が追い詰められ、家族ともども自ら命を絶つ話が、万葉集の時代には数多くありました。
歴史の中で似たような事件がずっと繰り返されていると思います。政敵は近親者で、結果として皇位継承者が命を奪われています。

宇治若郎子を追い詰めたのは兄の仁徳天皇で、宇治若郎子は自死しました。
木梨軽太子と軽太郎皇女の話も、結果として弟に皇位を奪われ二人は自殺しました。

山背大兄皇子は従兄弟の蘇我入鹿に攻められ家族と共に斑鳩で最後をとげました。
古人大兄皇子も吉野で家族とともに
異母兄弟の中大兄皇子に討たれました。
有間皇子も従兄弟の中大兄皇子のために藤白坂で命を絶たれました。
大友皇子(弘文天皇)も、叔父の大海人皇子側に壬申の乱で敗れ自経しました。
天武天皇の願い空しく大津皇子も死を賜りました。


後期万葉集の時代も、悲劇は続きました。

長屋王も叔父たちに糾問され自尽し、家族も共に死を撰ばされました。

聖武天皇の遺言で皇太子となった道祖(ふなど)王は、橘奈良麻呂事件でと共に杖下に絶命しました。
長屋王の遺児も次々に事件に巻き込まれて露と消えてゆきました。

この忌まわしい時代を生きた人の歌が詩歌として残されましたから、万葉集は歴史のタイムカプセルとなりました。
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数年前、何気に詠んだ万葉集の歌が思わぬ事実を突きつける、そんなことが度重なって、わたしは万葉集そのものを読み直そうと思ったのです。そして、この数年の間に、思いもよらなかった結論に行きついてしまったのです。その一つ一つを少しずつ書いてきました。
万葉集の時代を生きた人の喜びと愛と悲しみと無念を、わたしが感じたままに伝えたいと思っています。今年も読んでいただきたいと思います。
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そして、地図を楽しもう
蘇我馬子がどんな館に住み、本当の墓が何処なのか、万葉集では読めません。島の大臣と呼ばれていたので、明日香の嶋庄にある石舞台が馬子の墓と言われています。手に入るわずかな情報を使って地図にラインを引くと、様々な事が分かります。
わずかな情報でも、蘇我蝦夷や入鹿の墓が何処かを考えることができます。
わたしはかならず直線(ライン)で探します。
石舞台古墳と真の欽明天皇といわれている見瀬丸山古墳をラインでつなぎました。すると、二つの遺跡をラインが通りました。
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小山田遺跡と菖蒲池古墳です。
大小の二つの墓が甘樫丘の南すそに並んでいますから、これが、書紀にも書かれた並び墓、蘇我の蝦夷と入鹿の生前造られた壽墓という説がもっぱらです。

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甘樫丘の裾部にある二つの遺跡。ラインを引いた結果を見ると、小山田遺跡と菖蒲池古墳は蘇我氏関係の墓である、という説と矛盾しません。ラインは有効なのです。
そして、見瀬丸山古墳が真の欽明陵なら蘇我馬子大臣との関係は他人ではない・一族の可能性あり、と云うことになります。

(では、磯長(大阪府)・近津飛鳥 にあるという馬子の墓はどう考えればいいでしょうか…という新たな問題も出てきますが。磯長には、推古陵・用明陵・孝徳陵・敏達陵の他に聖徳太子陵墓もあります。)この事は、書くつもりです。
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蘇我馬子の死後ですが、石舞台と呼ばれる墓が破壊されたのは何故でしょう。封土ははがされ、あったはずの石棺は破壊されたらしく欠片しか残されていません。その副葬品の一つも伝わってはいないのです。7世紀の方墳とされながら、被葬者の伝承もありません。645年の乙巳の変は、大変な出来事だったのでしょう。石舞台が破壊された理由はここに求める他ないでしょう。

他にもいろいろラインを引いてみました。すると、藤原宮の大極殿から石舞台にラインを吹くと、紀寺跡と飛鳥寺がラインの上に乗ります。藤原宮の大極殿からまっすぐ南にラインを伸ばすと、天武持統陵にラインが届きます。
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このラインは、なんとあの菖蒲池古墳を縦断していました。そもそも、このラインはあの天智陵から南に伸ばしたラインなのです。すると、菖蒲池古墳の被葬者は何者なのでしょうか? 蘇我入鹿なら、彼は高貴な重要な人だったとなるのですね。
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さて、三角形が平安京を守っています
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天智天皇陵は三角形の底辺から南に延びたピンクのラインの起点です。この陵墓は、平安時代には聖地となりました。
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天智帝の陵墓は、平安京が造られる時、都の守りとなりました。平安京が天武帝の皇統から天智天皇の皇統に変わったことが、このラインを使った大きな理由だと思います。①は皇居でしたが焼失したので、現在地➁に皇居が遷っています。平安京の守りの神社は上賀茂神社、寺は東寺でした。皇居が➁に遷ったあとピンクのラインの北の端に貴船神社がありますが、ここが都と皇居を守りました。

ラインはその時代の権力者の思いを伝えています。
地図を見ると、上賀茂神社と東寺の間に二条城(江戸時代)が入り込んでいます。二条城は、平安京の大事な霊力を断ち切りました。上賀茂神社と松尾大社の間には金閣寺(室町時代)が入り込んでいます。室町幕府もちゃんと考えて金閣寺を建てたのです。二条城や金閣寺によって霊力を遮っているのです。武士は天皇家や皇族貴族が持っていた霊力を畏れたに違いありません。

と、このようにラインでよめるのです。
ラインの話はまだありますが。

また、今度。



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# by tizudesiru | 2018-01-01 00:10 | Trackback

天武天皇の後宮に召されなかった明日香皇女・持統天皇との深い関係

天武天皇の後宮に召されなかった明日香皇女
人麻呂の挽歌に わが王おほきみの御名忘れせぬ

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特別だった明日香皇女・それは何故?
柿本朝臣人麻呂に歌を献じられた皇子皇女は、天智天皇の皇統につながる子女で、持統天皇の覚えめでたき高貴な人たちだったと書きました、前回までに。
草壁皇子(689没)川嶋皇子(691没)明日香皇女(700没)高市皇子(696没)のための人麻呂が献じた挽歌が万葉集に残されていますが、挽歌を献じられた四人は、それぞれに特別でした。

中でも、明日香皇女と持統天皇の深い関係を書紀には「持統六年八月十七日、明日香皇女の田荘(なりどころ)に幸す」とあります。田荘は「私有地」ですから、天皇が自ら皇女の私有地に出かけたのです。
また、「持統八年八月十七日、皇女明日香のために沙門百四人を得度せしむ」とあります。104人もの出家者を出したのです。皇女の病気平癒のために。
明日香皇女は、文武四年四月に薨去しました。続日本紀に「弔賻(ちょうふ)は天智天皇の皇女なればなり」と書かれています。公の手厚い弔いの使者が出されたのです。続日本紀からも「天智天皇の皇女として大事にされた」ことがわかります。
でも、その理由は天智帝の御娘だったこと、なのです。それだけなのです。
柿本人麻呂の挽歌を読みましょうか。
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挽歌をみますと、川嶋皇子より長いです。

長歌の長さだけ比べると、草壁皇子=皇太子の挽歌と変わらないか、それ以上の量があります。

併せて短歌が二首
「短歌」とは長歌の中身を繰り返さない歌。「短歌」と「反歌」は使われ方が違っています。長歌の後の「反歌」は長歌と同じ内容を繰り返し歌う時に使われ、新しい内容を詠う時は短歌と書かれます。
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人麻呂は皇女の死を嘆き、明日香の地名がのこるように、皇女の名も忘れないと詠みました。
この人麻呂の挽歌は個人的に献じた歌ではなく、「城上の殯宮の時」の儀式歌です。文武四年に公の葬儀の場で献じられた挽歌なのです。文武天皇と持統太上天皇は、明日香皇女の葬儀を「忍坂部(刑部)皇子の妃」ではなく「天智天皇の皇女」として行わせたのでしょう。
考えてみると、持統八年に行われた病気平癒を願っての百四人の得度は不思議です。
草壁皇子の長女・氷高皇女の病気の時は、百四十人が得度しましたから、幼い皇女でも氷高皇女(元明天皇)は特別な存在でした。明日香皇女も同じように特別だったと云うことです。それは、なぜ?(草壁皇子=皇太子には得度の記事はありません。
特別だった理由が「天智帝の皇女だった」だけでは、他の皇子皇女との釣り合いがとれません。)

こんな特別な姫君なのに、なぜか天武天皇の後宮に召されませんでした。

壬申の乱後(672)、天武朝では滅ぼした王朝の女子を一人も他へはやりませんでした。高貴な血統を他に漏らすつもりはなかったのです。
天智天皇の妃には皇族では倭姫皇后一人でしたが、天武天皇は四人の皇女(太田・鵜野・大江・新田部皇女)を後宮に入れ、他の皇女達は息子に与えました。天智朝の姫君を妻に迎えることができたのは、吉野盟約の天武朝の皇子でした。草壁皇子(阿閇皇女)・大津皇子(山部皇女)・高市皇子(御名部皇女)・刑部皇子(明日香皇女)です。他に皇女がいますが、泉皇女は伊勢斎宮となり、水主皇女は不明です。つまり、皇女には自由に相手を選ぶことなどできなかったのです。
(近江朝の総大将・大友皇子の妃であった十市皇女は天武帝の皇女でしたが、子連れで高市皇子の妃となりました。十市皇女にとって高市皇子は敵将であり異母兄であったので、その悩み苦しみが突然の皇女の薨去(自死)につながったことは既に書きました。)

明日香皇女は、天武朝の皇子の中で身分的には最も下位だった刑部皇子の妃になりました。
当時の女性は、其の嫁ぎ先で地位も生活も左右されたのです。妹の新田部皇女は天武天皇の妃となり、姉の明日香皇女は天武帝の御子の忍壁皇子に嫁いでいる、どういう判断でこのような嫁ぎ先になったのでしょう。
母方の出自を見ても明日香皇女は申し分ない氏の出身でしたのに。
明日香皇女の母の橘姫は孝徳天皇の左大臣・阿倍倉梯麿の娘で、父は天智天皇です。
同じ阿倍倉梯麿の娘に小足媛がいました。小足媛は孝徳帝に嫁ぎ有間皇子を生んでいます。橘娘と小足姫は姉妹なのです。明日香皇女は有間皇子の従妹になります。

持統天皇が明日香皇女を特別にした理由は、ここにあるのかも知れません。持統天皇が霊魂を鎮め続ける有間皇子との繋がりです。
だから、明日香皇女を持統帝は特別待遇にしたのです。

持統天皇が有間皇子(孝徳帝の皇子)につながる人であれば、小足媛や橘姫とも深い縁があるのです。明日香皇女が有間皇子の従妹だったから、持統帝は皇女に特別の思いを懐いたのではないでしょうか。

では、天武天皇の後宮に召されなかった理由は何でしょう。
それは、明日香皇女の父は天智帝ではなく有間皇子、または孝徳帝だった、という可能性です。
孝徳朝後宮から有間皇子後宮へ、有間皇子後宮から天智天皇後宮へ、天智天皇後宮から天武天皇後宮へ、女性たちの移動があったと万葉集では読めました。すると、明日香皇女は天智天皇の御娘ではなかったかも知れません。それを知っていた天武天皇は、自分の後宮に明日香皇女を召し入れなかった、のかも知れません。

これが、明日香皇女が天武天皇の後宮ではなく刑部皇子の妃になった理由、です。
阿倍氏の出身で、母が小足媛の姉妹で、有間皇子の従妹で、天智帝の御娘であれば、当然天皇の後宮に召されたでしょうから。

明日香皇女の謎はまだありますが、長くなるので、ここ辺で。





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# by tizudesiru | 2017-12-29 22:36 | 313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌 | Trackback

人麻呂の挽歌に詠まれた天智帝の皇統・持統天皇は見捨てなかった

古事記・日本書紀は「飛鳥」、万葉集には「飛鳥の明日香」…今日は、歌に込められた「飛鳥の意味を考えます。万葉集には「飛鳥の明日香」は四例あり、先に紹介した「元明天皇の御製歌」ともいわれる歌一首と、柿本人麻呂の挽歌二首と由縁雑歌(巻十六)の一首です。では、「飛鳥」について人麻呂の歌で考えましょう。

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(飛鳥川・豊浦)

 人麻呂は天武朝の皇子のために挽歌を読んだのではなく

天智帝の皇統のために挽歌を献じた

柿本朝臣人麻呂は、長皇子や舎人皇子に献歌していました。なぜ二人の皇子に献歌したのか、その理由は二人が天智天皇の御娘の大江皇女と新田部皇女の所生だったからだと書きました。天智帝の皇統として皇子達を持統帝が認め、人麻呂に献歌させた。天智帝天武帝の孫にあたる二皇子には皇位継承者として、持統天皇も特別に目をかけていたと、書きました。


持統天皇が寵愛していた皇子皇女だったから人麻呂が歌を献じたのであれば、挽歌でも同じことが言えるのではないでしょうか。人麻呂は、草壁皇子、高市皇子、川嶋皇子、明日香皇女に挽歌を献じています。


草壁皇子は持統帝の一人息子ですし、妃は天智帝の御娘・阿閇皇女です。挽歌は当然献じられたでしょう。しかし、後に作られた高市皇子の挽歌よりはるかに短くなっています。そこには「神々に選ばれた皇太子であったのに、自ら天原の岩戸を開き神上がりされた。」と詠まれていました。挽歌から読めるのは病死でも事故死でもなく、自死であったということです。日並皇子尊の覚悟の死を人麻呂は嘆きました。続いて、皇子の急な薨去で途方に暮れる舎人の歌が二十三首ありますが、彼らも皇子の急死に動揺しているのです。既に紹介しています。

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次に、高市皇子の長い挽歌は太政大臣としての地位を示し、妃の御名部皇女を慰めもしたでしょう。御名部皇女は天智帝の御娘で、阿閇皇女(元明天皇)の姉でした。大津皇子・草壁皇子亡き後、高市皇子の存在がいかに大きかったか、人麻呂は皇子の立つ位置をきちんと周囲に挽歌で示しました。高市皇子の子ども達が悲惨な最後を迎える要因はこの挽歌からも詠めるのです。高市皇子の存在は大きすぎましたからね。既に紹介しました。



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(飛鳥川の夕暮れ)
草壁皇子と高市皇子の挽歌は既に紹介していますから、今日紹介するのは「川嶋皇子」の挽歌です。
川嶋皇子は天智帝の御子で、大江皇女の弟です。吉野盟約の時の六人の皇子の一人でもありました。大津皇子の親友でしたが、その親友の謀反を密告しています。
川嶋皇子は持統四年(690)の紀伊国行幸に従駕しています。そこで、持統天皇に歌を献じました。

巻一「紀伊国に幸す時、川嶋皇子の作らす歌 或書に高市連黒人という」
34 白浪の濱松が枝の手向け草幾代までにか年の減るらむ

白波が打ち寄せる浜の松の枝を手向け草として(結ばれて)神に祈られたという。有間皇子が祈られた時からどれほどの月日がたったのだろうか。松はまだここにあるのに。(わたしは有間皇子に逢ったことはないが、話は十分に聞いている。あの方は謀反の罪で命を落とされたが無実だったのだ。わたしは親友だった大津皇子を思い出す。大津皇子も無実ではなかったかと。)

紀伊国行幸(690)の翌年、河嶋皇子は薨去しています。早すぎる死だったのではありませんか。書紀には「皇子川嶋」と書かれ、名より皇子が先に書かれ「皇子川嶋」は敬称とはなっていません。静かに、罪人扱いをしているのです。本当に彼は罪を犯したのでしょうか。

では、万葉集巻二「柿本朝臣人麻呂、泊瀬部皇女・忍坂部皇子に献づる歌一首併せて短歌」を見ましょう。
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「飛鳥明日香」が長歌の冒頭に来ています。この詞で、この長歌が挽歌であると聞き手に理解させてしまうでしょう。「飛鳥」とは「鳥が飛び交う地・霊魂が漂う地・祖霊が鎮まる地」という意味があるからです。「呼兒鳥」でも紹介したように、万葉集の鳥は霊魂の顕れでもありました。

人麻呂は、川嶋皇子の挽歌では敬語を「嬬の命」以外には使っていません。人麻呂は川嶋皇子の薨去を嘆きながら、妻であったという泊瀬部皇女(天武帝の御娘)の立場で歌を詠み、敬語を避けたのです。

人麻呂が心のどこかで皇子川嶋を責めていた、のであれば、持統天皇も同じように皇子川嶋を責めていたのでしょうか。川嶋皇子は天武帝崩御年(686)の八月に封戸を加増されています。九月崩御、十月大津謀反密告の前に封戸の加増だったのです。やがて来る天皇の死「その時は、よろしくな」と、頼んだ人物がいるのです。
そして、紀伊国行幸(690)で「結松」の歌を詠んだ翌年の一月にも封戸の加増があり、同じ年の九月に没しています。この流れを見ると、川嶋皇子は高貴な人に利用されたようにも見えます。

しかし、人麻呂は川嶋皇子の挽歌を読みました。そこに持統天皇の気持ちがなかったはずはありません。持統天皇は知っていたでしょう。皇子川嶋が皇位継承に関して「草壁皇子か、大津皇子か、どちらの皇統を選ぶか」と迫られた時、深く苦しみ悩んだことを。
天武帝の病が重篤になるにつれて、周囲が暗躍したのは間違いありません。川嶋皇子も「吉野盟約の六人の皇子」として、判断を迫られたでしょう。
その時、川嶋皇子が判断の拠所としたのは何だったのか。それが問題です。


彼はなぜ親友の大津を選ばなかったのか。
そこには、皇統の秘密が絡んでくると思うのです。川嶋皇子は天智天皇の御子なのです。大津皇子は天武天皇の御子でした。二人の皇統は違っていました。
天智と天武のどちらの皇統を選ぶのか、河嶋皇子は迫られたのです。

草壁皇子が天智天皇の御子だったからこそ、皇子川嶋は親友を捨てることができたと思うのです。それは断腸の決断だったことでしょう。

結果として、大津皇子を指示した勢力を納得させる理由が謀反だった・・・そして、結果として川嶋皇子の決断が利用されてしまったのです。

皇子川嶋は苦しんだでしょうし、それを知った草壁皇子も苦しんだでしょう。その皇位継承のごたごたは、草壁皇子の死を招きました。その翌年、持統天皇は川嶋皇子を見捨てず紀伊国にも連れて行った、そう思いませんか?

持統天皇は天智天皇の皇統の皇子を決して見捨てなかったのです。だから、人麻呂は挽歌を読みましたが、そこには敬語はなく「高光る」という皇統を示す言葉もありません。皇子川嶋は「飛ぶ鳥の明日香」の霊魂となったと詠んだのです。

人麻呂の歌には、持統天皇の川嶋皇子への哀惜の情がせつせつと漂うのです。
挽歌を読むかぎり、持統天皇は決して天智天皇の皇統の川嶋皇子を見捨てなかったと、わたしは思います。 


飛鳥」が「アスカ」となったのは、人麻呂の歌より後の時代です。
明日香が霊魂の地として定着したから、平城遷都の時に元明天皇に「飛ぶ鳥 明日香の里を…」と詠まれたのです。飛鳥は決して明日香の美称ではないし、とても政治的な言葉でもあります。

過ぎ去った人々の霊魂が漂う地であり、都ではない、という意味です。
「飛鳥の明日香」という言葉を造り出したのは、人麻呂なのかも知れませんね。

次は、明日香皇女に献じられた挽歌です。



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# by tizudesiru | 2017-12-26 12:27 | 313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌 | Trackback

明日香と泣いて別れた元明帝と不比等の演出


飛鳥明日香と藤原宮を捨てて平城京へ

それは、不比等の演出だった
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和銅三年(710)、藤原不比等は五十歳を越えていました。
これまで、娘の宮子を文武天皇の夫人として深く後宮に入り込み、持統天皇崩御(701)後から平城宮遷都をもくろんでいました。
和銅三年、平城宮遷都がついに実現し、元明天皇は藤原宮を去りました。

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万葉集巻一78に、元明天皇の明日香への別れ歌があります。
和銅三年、平城宮遷都の時の歌です。わずか16年で藤原宮は捨てられました。あの瓦葺の条坊を持った周易の風水にかなったという藤原宮が捨てられた、のです。いかなる理由があったのでしょう。

和銅三年庚戌の春の二月、藤原の宮より寧樂の宮に遷る時に、御輿を長屋の原に停め、古郷をを廻望(かえりみ)て作らす歌 
 一書には「太上天皇の御製」といふ

78 飛ぶ鳥の明日香の里を置きていなば君があたりは見えずかもあらむ
  一に云う 君があたりを見ずてかもあらむ

飛ぶ鳥の明日香の里、この里を置いて行ってしまったならば、あの方の眠っていらっしゃる辺りは見えなくなってしまうのだろうか。

 一書 がいらっしゃる辺りを見ないですごすのであろうか、これから。

平城宮の辺りの新城への遷都の話は、天武五年(678)から始まりました。しかし、天武十二年(683)に方針が変わり、藤原の地が選ばれ持統天皇八年(694)に藤原宮に遷りました。藤原宮での16年間に、高市皇子・弓削皇子・新田部皇女・大江皇女・明日香皇女・大伯皇女・持統天皇刑部皇子文武天皇但馬皇女が世を去りました。持統天皇崩御(702)から遷都話は起こり文武天皇崩御(707)の翌年、和銅元年(708)平城京地鎮祭が行われました。
そして、和銅三年の遷都、遂にその時が来て詠まれた歌です。
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それは、不比等の演出だった
藤原宮を去る時、宮殿跡はさら地になっていました。宮殿の移築で瓦も柱も平城宮に持って行ったからです。それを見た時の元明天皇の心のうちは如何ばかりだったでしょう。
行列が長屋の原にさしかかると、御輿は停まりました。平城宮と藤原宮の中間点(長屋の原)で…そこで古京を振り返ります。耳成山が見え、畝傍が見え、天香具山が見える、そんな処で御輿を停めて歌が詠まれました。

飛ぶ鳥の明日香の里を置きていなば君があたりは見えずかもあらむ
ここで、元明天皇は涙されたでしょう。

夫であった草壁皇子、愛しい吾子の文武天皇、心の支えであった持統天皇と共に過ごした飛鳥の明日香をすてるのです。
元明天皇の心情がそのままに詠まれ、女帝は涙されたはずです。「一書に、太上天皇の御製という」のは、女帝の心裡をそのまま詠んでいたからだと思います。女帝を泣かせる演出をしたのは、藤原不比等でした。
彼は明日香と藤原宮への未練を断ち切る儀式を中ッ道の中間点で行ったのです。
この時の左大臣は石川麻呂、右大臣は藤原不比等です。左大臣石川麿は藤原宮の留守司に任命されていました。藤原宮で天皇の御輿を見送ったでしょう。

別れの儀式を演出できたのは、藤原不比等を置いて他にはおりません。彼は文武天皇の外戚として元明天皇に寄り添い、その心裡までおもんばかっていたでしょう。
左大臣石川麿は、上手に廃除されていたのでしょうか。

よく考えてみると、彼がこれから元明天皇を誘う平城京は、藤原氏のための都となっていました。藤原氏の興福寺が帝のお住まいを見下ろす位置に造営されていますからね。


なぜ飛ぶ鳥の明日香は捨てられたのか

其の答は、単純です。そこは、藤原宮は高市皇子が造営した都だったからです。大津皇子の意見を取り入れて選ばれた都だったからです。天武帝の純血統の都だったからです。
持統天皇はそれでもよかったのですが、藤原氏は嫌だった、のです。

天智系の草壁皇子系の都が欲しかったのです。真の王朝として、北に天子の宮殿を戴く都が欲しかった、そして、その京を我が藤原氏が守ると、密か計画し堂々とやってのけた、のでした。
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78 飛ぶ鳥の明日香の里を置きていなば君があたりは見えずかもあらむ
この歌は、元明天皇の涙と不比等の野心と暗躍を伝えてくれるのです。

また、ブログの内容が万葉集に飛びました。
目まぐるしいかも知れませんが、万葉集こそ歴史の真実を語ってくれると、「言霊」として世に残されたと、思っているのです。
日本書紀と矛盾する箇所もありますし、補間する箇所もあります。
万葉集は地図と共に、歴史の扉を開く鍵だと思います。

その鍵を探しに旅をしている…
次は、「飛ぶ鳥の明日香」と詠んだ人麻呂の「挽歌」を読みましょう。




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# by tizudesiru | 2017-12-23 11:35 | 313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌 | Trackback

天智九年法隆寺炎上、そして法隆寺は残った

天智九年夏四月法隆寺炎上
なぜこの事件が大きく取り上げられているのだろうか
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天智九年(670)夏四月三十日の夜明け、法隆寺は焼失しました。
書紀によると、「法隆寺に災(ひつ)けり。一屋ものこること無し。大雨ふり雷鳴る」全焼だったのです。五月に童謡(わざうた)がその意味を語りました。
内橋の つめの遊びに 出でませ子 玉手の家の 八重子の刀自 出ましの 悔いはあらじぞ 出でませ子 玉手の家の 八重子の刀自

板を渡した仮橋のたもとの 歌垣の遊びに 出ておいでなさい。立派な玉手の家の貴人よ、八重子の奥様よ、出ておいでなさい。後悔することはないはずです。出ておいでなさい。玉手の家の 八重子の奥様。(立派なお霊屋(たまや)の素晴らしい仏たちよ。早く出てお出でなさい。そこは火事になりますから、出てきて後悔することはありません。さ、出ていらっしゃい。お霊屋のたくさんの仏たちよ

童謡は世相を表し、人の本音や事件の真相を謡ったのです。それも影口のような、云いにくいことを謡ったのです。立派な玉手の家の女主人を歌垣に誘うなんて、とんでもないことですが、後悔することはないと教えました。
どうやら、「火つけ・つけ火」だったようです。では、若草伽藍に誰が火をつけたのでしょう?!

決断したのは、天智天皇でしょうか。
西院伽藍の金堂は天智九年の再建だと紹介してきましたし、施主は天智天皇だと書きましたし、みなさん認める所です。
その人がなぜ? 
それは… 
白村江敗戦後に俀国(倭国)から運ばれたのは、一流の仏像ばかりではなく、仏具、荘厳具、侠侍・台座など様々あったと思います。高貴な人の貴重品などは川原寺に、個人の念持仏は橘寺に運ばれたとして、残りの諸々があったでしょうから。運び込まれた斑鳩寺も困っていたでしょうね。
だから、いっきに焼いて処理した…大事な仏は再建法隆寺に運び終わった後に、です。吟味してえり分けていたと思うのです。
ですから、冷静に判断した後に焼いたと思います。

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そうでなくては、天智九年(670)以前の釈迦三尊像(623年造)の仏像は残りません。
そして、釈迦三尊像より古い金銅仏があります。仏の御姿もよく似ていますから同じ工房・時期に造られたものでしょう。
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池邊大宮治天下大王天皇とは、用明天皇のことです。小治田大宮治天下大王天皇とは、推古天皇を指し、東宮聖王とは聖徳太子のことと読まれます。

おや? ここでは東宮聖王と書かれていますから歴史とは矛盾しません。
聖徳太子は法王でも大王でもなく、東宮=皇太子でした。書紀とは人間関係では矛盾しませんが、釈迦三尊像の銘文とは大きく違います。さらに、大王天皇と彫られていて、天皇という称号が使われています。用明天皇の時代にはまだ「天皇」号はなかったはずです。ですから、この銘文は明らかに後世の彫り物です。漢文の日本語化も釈迦三尊の漢文より進んでいるそうですから、あきらかに釈迦三尊像より新しい銘文であることは定説です。では、誰が、いつ何のために彫った、彫らねばならなかったのでしょう。法隆寺の仏像に銘文を彫らせた人物は、権力者・高貴な人と考えられます。

すると、銘文が作られ彫られたわけは?
もちろん、彫らせたのは天智天皇でしょう。彼は聖徳太子と同じく長く皇太子のままでしたから、深く共感していた。そこに、銘文を彫る理由があったと思います。
銘文にある、聖徳太子が薬師如来を造ったという六〇七年(丁卯)は隋の裴世清が倭国を訪れた年です。そして、六〇年後の六六七年(丁卯)は近江大津に遷都した年です。そして、翌年六六八年一月に天智天皇は即位しました。丁卯に意味があったのです。

天智帝が即位できなかったのは、中宮天皇(間人皇后)の存在があったからでした。孝徳天皇の皇后だった間人皇后(中宮天皇)は玉璽を持っていました。その間人皇后が六六五年に薨去し、殯宮の儀式が終わり母の斉明帝と同じ陵墓に埋葬した後の近江遷都でした。


近江遷都の年、天智天皇の万感の思いを込めて銘文は彫られたと思いました。東宮聖王(聖徳太子)と同じく困難な政治を補佐し続けた二十数年、やっと即位の時が巡ってきた、そういう意味で彫られたのです。東宮としての最後の年(丁卯)に、推古女帝と同じように中継ぎの女帝がいて、皇太子としての自分がいる、そこに、改めて意味を見つけたのです。
そこで、法隆寺の仏に銘文を彫らせた、釈迦三尊像の銘文に合わせて。しかし、誰が像を造ったのか書かれていません。それは、不明だったからでしょう。何しろ、運んできた仏像だったのですから。

天智天皇とは何者だったのか。これから、まだまだ書くことはあるのですが…

ですから、鬼前太后・上宮法皇・干食王后は実在したのです
光背銘文と日本書紀は、なぜ矛盾するのか。それは、もともと安置されていた場所から移動したからでしょう。

止利仏師は、上宮王家の三人を知っている…
仏師といえば、鎌倉時代の仏師の運慶・快慶のような慶派が有名ですが、古代の司馬鞍首止利の時代には「仏師」という職名は使われていないそうです。それで、この銘文に仏師があることから、銘文は後世のものという説もあるのです。銘文が後の世のものとしたら、なぜ「正史とは矛盾する人物」のことを彫り込まねばならなかったのでしょうか。おかしなことです。
前回も再建法隆寺に残された623年造の釈迦三尊像のことを考えましたが、この金銅仏の光背には、鞍首止利仏師が造ったと彫られていました。
止利仏師は何処に住んでいたのか。飛鳥なのか、九州なのか、興味の湧くところです。日本書紀に「鞍作・鞍部・鞍・鞍部司馬」が出てくるのは推古朝です。斉明朝の「鞍作臣」は、全て蘇我臣入鹿のことです。つまり、鞍作の活躍は推古朝にしか書かれていません。活躍の場は或所で切れるのです。飛鳥仏の作風が途切れるのもそのためかもしれません。古事記も先代旧事本記も推古朝で終わりますから、ここが一つの変わり目だったのでしょうね。

止利仏師は、上宮王家の三人を知っていた…

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此の願力を蒙り、病を転じて寿を延べ、世間に安住せむ。
若し是れ定業にして以って世に背かば、往きて浄土に登り、すみやかに妙果に昇らんことを」と。二月二十一日癸酉、王后即世す。翌日法皇登遐(とうか)す。
癸未年三月中、願いの如くつつしみて釈迦尊像併せて侠侍、及び荘厳具を造りおわる。その微福に乗じ、道を信ずる知識、現在安穏にして、生を出て死に入り、三主(太后・王后・法皇)に随い奉り、三宝を紹隆し、遂には彼岸を共にし、六道に普遍せる、法界の含識、苦縁を脱するを得て、同じく菩提におもむかんことを。司馬鞍首止利仏師をして造らしむ。
それにしても、書紀には法隆寺の建立の記事はありません。法隆寺がいつ建てられたのか、記録としては分からないのです。炎上の記事はあるのに、です。


天智九年(670)というのは、「金堂の本尊の天井に張られた板の年輪年代で導きだした」年代なのです。樹木が切られた年を年輪で探る方法です。
金堂建立時期は670年でも、本尊は古い(623年)と云うことでした。
釈迦三尊像より古いとされる金銅仏(607年)がありました。が、それは、技術的にも漢文としても釈迦三尊像より新しいというのです。


参考までに釈迦三尊の銘文(漢文)
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天智天皇にとって、法隆寺は自分の王朝の弥栄を願う為の寺でした。そして、過去の王朝の菩提を弔う寺でもありました。本尊に彫られた銘文の意味を天智天皇は熟知していたでしょう。しかし、それを消し去ることはなく、むしろ大王になれなかった皇太子霊を供養したのです。
その天智天皇の思いをヤマトヒメである持統天皇は承知していました。だから、法隆寺を大事にしたのです。

司馬鞍首止利仏師は、過去の王朝を証明する人である、それが今日の結論です



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# by tizudesiru | 2017-12-21 16:41 | 312法隆寺に残る日出処天子の実像 | Trackback

法隆寺・釈迦三尊に残る日出処天子の実像

日出処天子・其の姿が残る!
1400年前の御姿が残されているんです!!
法隆寺のご本尊・釈迦三尊像の光背に銘文

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釈迦三尊像は、法隆寺の御本尊
釈迦三尊像は尺寸王身に造られた上宮法皇の御姿
西暦621年12月鬼、前太后が死去し、翌年(622年)正月22日に上宮法皇が病に倒れました。干食王后は看病に疲れ、並んで床につかれたので、これを憂いた王后王子と諸臣たちは、法皇の等身大の釈迦像を作ることを発願しました。

上宮法皇!? ちょっと待ってください。

では、この方は聖徳太子ではありません。法皇とは、大王になった人が出家した後に号するものではありませんか。厩戸皇子は太子でしたから、大王にはなっていないのです。
622年あたりで大王だったのは推古帝です。
それに、この大王は「法興」という年号も持っています。この年号は「私年号」とされています。自分勝手に作った年号という意味です。


上宮法皇は自分勝手に年号を作っていた、のでしょうか
自分の年号を建てることができるのは、天子のみです。それまでは干支を使って、中国の天子の年号を使うことで臣下の態度をとっていたのです。日出処天子と称した以上は、日没処天子と対等の立場で年号を持っていた、のではないでしょうか。

私年号」について
年号として、書紀に「大化・白雉(孝徳帝)、朱鳥(天武・持統帝)」など、時々記録されていることはありますが、今日まで続く年号が始まるのは、大宝(文武天皇・701年)からです。それも「続日本紀」には、「はじめて年号を建てた」と書かれています。それまでの王朝は、年号を持たなかったということです。ですから、「法興」はなかったとされるのです。(しかし、九州でも大宝より古い時代の年号が、寺社の由緒書きなどに伝わっていますし、最近も「九州年号」と呼ばれる年号の一覧が旧家の蔵から見つかっています。)
書紀に記載がない年号は、すべて私年号なのです。
聖徳太子は大王にもならなかったけれど法皇と号し、天子にもならなかったけれど年号を持っていた、天子のつもりになっていた、なんてありえません。
隋書によれば、タリシホコは裴世清に会っています。隋国の使者をごまかせるはずはありません。
天智天皇が立てた金堂のご本尊の光背に、「法興」はあるのです。
ですから、法隆寺の釈迦三尊光背の銘文が、なかった年号を自作自演しているとは思えません。
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年号を建てた王朝があったのです!それは何処に?
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開皇20年、タリシホコは隋に遣使を出しました。百済から仏経を得て文字を使い始めていたのですね。阿蘇山が紹介されていました。

良好な関係で始まった外交だったでしょうに、煬帝が即位して三年、大業三年(607)タリシホコは対等な「天子」としての国書を出してしまったのでした。
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「蛮夷の書、無礼なる者(こと)あり。復た以って聞するなかれ」
次の年、煬帝は文林朗裴世清(裴清)を俀(倭)国に派遣しました。裴清に相見したタリシホコは大いに悦んだのでした。
が、その後、国交は絶えました。


日本書紀には国交が絶えたとは書かれていません。
すると、やはり聖徳太子とタリシホコは別人です

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尺寸王身・王の肉体と同じ大きさの仏を作る!
そんな文化圏は何処にあったのでしょう? 
それは、阿蘇山のある九州の文化だった。すると、永い間秘仏とされた「救世観音」も聖徳太子の御姿を写したという伝承も理解できますし、クスで造られているのですから、九州で造られた仏像に違いないでしょう。俀国(倭国)は九州にあった、これが此処で辿りつける結論です。

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釈迦三尊像の銘文は、まだ残りがあります。それによると、止利仏師が出てくるのです。飛鳥大仏を造ったという止利仏師でしょうか。

次は、明日香と法隆寺の関係も考えなければなりませんね。



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# by tizudesiru | 2017-12-19 01:03 | 312法隆寺に残る日出処天子の実像 | Trackback

聖徳太子所縁の法隆寺・法起寺が語るまぼろしの寺院

聖徳太子所縁の法隆寺の不思議
前回、法隆寺の7世紀の木彫仏像が、クスで造られていることを紹介しました。

樟材で造られていたのは仏像だけではなく、薬師如来像と釈迦三尊像の台座の彫刻部分もクスでした。
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聖徳太子所縁の寺の釈迦三尊は金堂の御本尊(623年造)

また、同じ金堂の薬師如来は、銘文によると607年造となっています。同じ飛鳥時代の金銅仏です。この二つ仏像の台座(前回、紹介)にクスが用いられていました。(樟は九州北限の樹木で、ご神木として古代には船にも用いられました。命を賭して海原を渡り外国に行く船の材としたのでした。)
七世紀の九州と法隆寺の間にはただならぬ御縁が…、これが前回のお話でした。
今日は、クスではなく寺院の伽藍のお話です。
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塔と金堂が東西に並ぶ法隆寺と法起寺
法隆寺の金堂は天智天皇の時に建てられたことが、年代年輪に依っても証明されました。では、天智九年以後、五重塔を金堂の西に置いたのは、誰でしょう。天智天皇が塔を何処に建てるか決めていなかったとして、ですが。
持統七年(693)には仁王会(にんのうえ)が行われ、天皇が天蓋を施入していますから、金堂が完成したということでしょうか。法起寺の三重塔より法隆寺の五重塔が古いので、法起寺三重塔の竣工の慶雲三年(706)までには五重塔は完成していたでしょう。


物部蘇我戦争(仏教をめぐる戦い)の時、聖徳太子が戦勝祈願して四天王寺が建てられました。その伽藍は東西ではなく、南北に一直線です。若草伽藍も発掘の結果、塔と金堂が南北に並んでいたそうです。
山田寺大官大寺(塔は東にずれる)も伽藍は南北に並んでいます。南北が主流だったのです。
しかし、法隆寺西院伽藍は東西に塔と金堂が並ぶ配置となりました。それは、東西に意味があったからでしょう。

まぼろしの古代寺院は何処に

九州の古代寺院は、ほとんど塔と金堂が東西に並びます。法起寺式と呼ばれています。塔が東、金堂が西(法隆寺は金堂が東、塔が西)です。


声はすれども姿は見えずという状態ですね。
古瓦は出土していますが、寺院が見つかっていません。
日本で一番古い丸瓦は福岡で出土しましたが、役所の屋根に葺かれていたとされています。日本中が掘立柱で寺院すらもできていない時、九州では瓦が葺かれていた… 普通の屋根に?
役所とされたのは、寺院の跡がないからだそうです。しかし、律令がしかれても九州の役所のほとんどは掘立柱の草ぶきだったと思います。


不思議なことに、古代山城に瓦が葺かれていた…
不思議なことに、白村江敗戦後に造られたという大野城や菊池城に素弁の古瓦が葺かれていました。それも、一次、二次、三次と建てなおされた山城の一番古い段階で古瓦が使われているのです。その後は太宰府政庁に伴った複弁の瓦に変わりますが。
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(鞠智城出土の瓦です)
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もしかして古代寺院があった?
しかし、仏教が伝わってすぐに、塔・金堂・講堂が揃ったのではないでしょう。まず、個人的な仏堂ができて、官が仏教を使って民を教化する政策がとられて、寺院が造られていくのではないでしょうか。その痕跡は九州に在ると思います、上岩田遺跡のような役所を含む敷地の中に仏堂が取り込まれているかたち…です。
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(筑紫観世音寺・塔と金堂が東西に並び、講堂と回廊が囲む)
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(法起寺の三重塔・天武十四年に計画され、慶雲三年に竣工)

法起寺式の伽藍配置とは

このような伽藍配置(東西に塔と金堂)の寺院ですが、その意味は何でしょう。
同じ文化・思想を共有する集団は、同じ形式の寺院を建てるのではないでしょうか。すると、東西に塔と金堂が並ぶ伽藍配置を選んだ天皇は、どのような文化圏の人なのでしょうか。
わたしは天智天皇と持統天皇の深い結び付を考えますから、東西の伽藍配置は天智天皇の意思だったと思います。持統天皇は、最後まで倭姫としての立場を貫いたと思うのです。
または、太政大臣だった高市皇子が伽藍配置を決定したのでしょうか。気になるところです。決定した人物は、九州との結びつきが深いことになるでしょうね。
確かに、高市皇子の母は九州の宗像氏の娘でしたからね。
このことは、まだ金石文を通して考えなければなりませんが。ここまでにします。
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参考までに明日香の資料館の日本の伽藍配置のパネル
資料館のパネルを見ると、近畿の寺院の伽藍はバラエティに富んでいます。
一塔三金堂の飛鳥寺が瓦葺きの寺院の始まりとなっています。飛鳥寺の創建瓦と思われる丸瓦が、四天王寺(難波宮の遺構の下層)若草伽藍から出土しています。

同じ時期の建物なのです。
それにしても、短い間に目まぐるしく伽藍配置は変わったのですね。権力の交替が激しかったのでしょうか。


では、このへんで



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# by tizudesiru | 2017-12-16 01:05 | 311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺 | Trackback

法隆寺は怨霊の寺なのか・隠された十字架再び!

法隆寺・救世観音は聖徳太子なのか
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聖徳太子は実在したのか? その実在をを疑う説があります。推古天皇(女帝)の太子だった厩戸皇子は、日本書紀で活躍しています。しかし、同時代の隋書に残る俀国(倭国)の首長タリシホコは女性ではなく男性であり、しかも「天子」と自称しているのです。俀国から使者も沙門も隋に到達していますし、隋から文林朗裴世清が俀国に来ています。裴世清はタリシホコに謁見したのです。隋書では阿蘇山の詳しい記述もあるし、風俗も詳しく紹介されています。
「日出処天子」から「日没処天子」に国書を出したのですが、隋の煬帝は「無礼だ」と怒り国交は結局絶えたとまで書かれています。さて、日出処天子は、何処に住んでいたのでしょうね。隋書には「竹斯国より以東、皆な倭に附庸たり」ですからね。筑紫より東は、倭国に附属していたのです。

倭王、隋都大興(長安)に使を派遣(600年)

隋書に名前が残る阿毎タリシホコと聖徳太子は同一人物? 別人?
もし、タリシホコが聖徳太子なら救世観音(聖徳太子の姿を写したとされる)を秘仏にした理由は何でしょうね。

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聖徳太子建立とされる法隆寺は670年に焼失した
「日本書紀」によると、天智九年(670)に法隆寺は焼失しました。しかし、西院伽藍には焼失を立証する址はなく、仏像も残っていたので、火災後の再建説と火災はなかったとする説が長く対立していました。しかし、今日では焼失したのは若草伽藍とされ、金堂は天智九年頃の再建で、塔は和銅四年(711)頃に竣工とされています。
不思議なことに、法隆寺(若草伽藍)は一宇も残さず焼失しましたが、飛鳥仏は残りました。

ということは火事の最中に(六七〇年)、に大量の仏像を金堂に運んだのでしょうね。
火災の業火が堂宇に及んでいる時、台座から仏まで持ち出せるほどの怪力を持った僧が数百人かいたとしても、火事場で運び出す人数は足りたと思えないのですが。

再建法隆寺に数多くの仏像が残されたのは何故か
木彫仏の用材は楠なのです。
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観音菩薩立像・勢至(せいし)菩薩立像・伝日光菩薩立像・伝月光菩薩立像(飛鳥時代・七世紀)いずれも樟から彫り出されています
(六観音のうちの四体。観音・勢至の二像は、金堂西の間の阿弥陀如来像の下にあった、そうです。日光・月光の二像は、食堂の本尊薬師如来の両脇に安置されていた、そうです。金堂の本尊は釈迦三尊像です。)

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持国天・多聞天もクス材で造られていますが、肩先・腰の天衣・両沓などは檜材での補修となっています。なぜ、このようになったのでしょうか。台座から全てクス材だった四天王(前日紹介)とは、違いますね。面相も掘りなおしてありますし。
補修の時、近くに樟がなかったか、手に入らなかったのでしょうね。

樟が使われたのは、仏像だけではありません
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薬師如来の台座ですが、請花と反花のみが、クス材です。それも、上座と下座では様式が違っているそうです。
釈迦三尊像の台座も、同じように上座・下座の様式が違う
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請花・反花のみがクス材で、あとは檜材です。下座(したざ)の下框(したがまち)を形成する巨大な檜板は、本来は建物の扉であったものが仏像台座として再利用されたものだそうです。
「樟は日本に現存する七世紀の木彫仏のほとんどの作例に共通する用材である」と、国宝法隆寺展の図録には書かれています。なぜ七世紀だけに? 

七世紀にはわざわざ九州から樟を手に入れることができたが、八世紀になるとできなくなった、のでしょうか。


用材に樟が使われていた理由

わたしは、白村江敗戦後に俀国(倭国)から仏像を運んできたと思います。仏像の用材は産地を示すだけでなく、その製作地も示しているのです。

救世観音も百済観音も、そのほかの法隆寺の飛鳥時代の木彫仏はクス材で造られています。これは、九州で造られたことを示していると思います。クスの北限は福岡市ですから、古代に自然木としての樟は九州にしかないのです。
8世紀になって、近畿では楠材が簡単には手に入らなくなって檜を使用した、檜が思いのほか適した用材だったので、以後仏像に多用されるようになった、のではないでしょうか。

それにしても、明日香から遠い斑鳩の法隆寺に仏像が運ばれたのは何故でしょう、飛鳥でもよかったでしょうに。当時は明日香が京だったのですから、最高の宝物は都(明日香)に置かれるべきです。が、天智帝はそうはしなかった。
天智天皇は斑鳩の地を選んだ、そこに法隆寺を造営して、大量の飛鳥仏を運び入れた、のです。案外、交通の便(大和川の舟利用)が作用したのかも知れません。

それに、すべて死者の持ち物だったから、怨霊の持ち物だったから、封じるために斑鳩を選んだ、その祟りを思うと厚く供養せざるを得なかった、鎮魂の為に一か所に集めた、のでしょうか。
それとも、多くの霊魂を供養するためには多くの仏像が必要だったのでしょうか。
そして、安置されていた元の寺院の伽藍(塔と金堂が東西にならぶ)に倣って西院伽藍を建立したと思います。


霊魂を鎮める寺が法隆寺
東西に塔と金堂が並んだ寺院、金堂と塔が入れ替わる場合もありますが、法隆寺・橘寺・川原寺は伽藍配置が東西だし、同じ目的の寺院でしょうね。
三寺院には、白村江敗戦で怨霊となった高貴な人の霊魂を鎮める務めがあった

今日の結論です

仏像の写真は1994年「国宝法隆寺展」の図録をデジカメで写したものです。
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また、あした。


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# by tizudesiru | 2017-12-13 16:15 | 310法隆寺は怨霊の寺なのか | Trackback

白村江敗戦後、橘寺は彷徨える仏たちを供養した

飛鳥仏四十九体の悲運を受け止めた橘寺
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昨日から注目している橘寺は、川原寺の南に位置し千数百年の歴史を刻んできた古刹です。元は尼寺で、聖徳太子誕生の地とされ、聖徳太子建立の七大寺に上げられています。(上宮法王帝説)

今日は、昔ここ橘寺に集められていた仏像の話です。その金銅仏は、現在国宝になっています。飛鳥仏と呼ばれる四十九体の金銅仏がなぜ、橘寺に集められていたのか、その理由は不明です。

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これらの仏像は今では国宝ですが、これまで過酷な運命を乗り越えて来ました。それは、日本中の仏像が遭遇した困難と混乱でもありました。
明治になって、廃仏毀釈のあおりを受けて日本中の寺院が困窮しました。有名寺院の仏像も襖絵も、どんどん外国に売られました。法隆寺すら困窮し、困り果てた住職が皇室に仏像を献上して、その見返りに金銭を得る道を選んだのです。苦渋の選択だったでしょう。

明治十一年に法隆寺から皇室に献納されたいわゆる「御物金銅像四十九体」はもとは
橘寺に在ったものと云われ、法隆寺金堂の仏像などの目録を記した「金堂日記」には、「橘寺の常住僧が少なくなったので、安全を期するため仏像を承暦二年(1078)十月に法隆寺に移し、金堂の大厨子内に安置した」と、次第が記されています。

橘寺から法隆寺へ、法隆寺から皇室へ、更に現在は東京国博へ
御物金銅像四十九体はもともと何処にあったのか?
現在、東京国博にある飛鳥仏の内四十九体は、橘寺に在ったものであることに異存はありませんが、では、それらの仏像はもともと何処にあったのでしょう。個人の持ち物が集められたとして、その理由は何でしょう。飛鳥仏・白鳳仏ですから同じ時期の仏像です…それが官寺でもない橘寺に集められたのは何故でしょう。
これらの仏像を有力者が自分の館や仏堂に安置し、そこで念仏を唱えていたというのです。それであれば私有物ですから、集める必要はありません。ほとんどが七世紀の仏像ということです。或日、念仏を唱えていた信心深い人が仏像を手放した…

白村江敗戦後に俀国(倭国)で集められた金銅仏ではないか
わたしは白村江敗戦で疲弊した地域から持ち込まれたと考えました。仏教が浸透していたと、隋書にある俀国(倭国)からです。二万人もの戦死者を出した地域は働き手を失った上に、敗戦後は未曾有の経済的混乱に直面したと思います。その時に集められた仏像だと思うのです。四十九体すべてがそうだとは思いません。が、かなりの仏像がそのような過去を持っていると思うのです。

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165号は語る
宝冠を戴き顔を正面に向け、腰を前に出して直立する。左手に宝珠を載せ、右手は宝珠の上に伏せる。このように腹前で宝珠を奉持する菩薩像は、「観無量寿経」が流布する以前の初期観音像を伝えた姿とされます。
このような菩薩立像の日本での作例は、法隆寺夢殿の観音菩薩立像(救世観音)が代表として挙げられます。救世観音は、古式の観音の形式で造られているのです!(わたしは、この救世観音も俀国のものだったのではないかと思っているのです)
さて、165号には銘文が刻まれています。「辛亥年の七月十日に逝去した笠評君(かさのこおりのきみ)のため、遺児と伯父の二人が造像を発願した」と。地方行政単位の「評」を使用しているので、辛亥年は白雉二年(651)に比定されています。では、651年あたりは、まだ「観無量寿経」は流布していなかったのですね。それとも…651年より60年も前に「評」を使っていた地域があったのでしょうか。

他にも銘文のある金銅仏・156号
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156号には銘文が彫られています。
「丙寅の年に高屋大夫が、亡くなった韓(半島)の婦人・阿麻古のために鋳造した」と読めるようです。丙寅年については606年(推古朝)・666年(天智朝)が考えられています。同じ丙寅年の野中寺の仏像は年月日と干支の組み合わせで666年であることが確定しています。が、作風を比べると156号の方が古いそうです。
では、156号の仏像が606年だったすると、仏教が浸透している地域は限られます。韓半島の婦人を妻とした男性が妻の為に仏像を造らせたという、その地域は何処でしょう。そこは半島と近く、深く交流している処です。

法隆寺の7世紀の木彫仏は全てクス材で造られている
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以前にも取り上げました、クスは福岡市の立花山が北限であることを。韓国では寒くてクスは育ちません。仏像のクス材は九州で調達されたのです。(法隆寺の百済観音も救世観音もクス材ですから、九州で造られたのでしょうね。クス材は、飛鳥時代7世紀のすべての木彫仏像の共通点です!)
さて、台座の鬼から付属品まで全てクスで造られた多聞天立像の光背にも、文字が刻まれています。
「薬師徳保(くすしのとくほ)
上而」、「鍛師□古(かぬちしのまらこ)二人作也」、「汗久皮臣(うくはのおみ)」と刻まれています。薬師・鍛師は工人でしょうが、汗久皮臣の「うくは」とは、浮羽のことでしょうか。
「薬師光」の針書もあるそうですが、刻銘とは違いますよね。「薬師光」は運ばれた仏像の傷んだところを修復でもしたのでしょうか?


橘寺の仏像が安全のために法隆寺に移されたことの意味
法隆寺と橘寺の結びつきは深く大きいのです。二つの寺の共通点は何でしょう。
わたしは両寺ともに「白村江敗戦後に俀国の仏像を守ろうとして運んできた」と思うのです。それでなければ、法隆寺の釈迦三尊像の銘文の謎も解けません。法隆寺に何体もの本尊がある理由が分かりません。
川原寺には俀国の王族の愛蔵品が運ばれ、橘寺には有力者の持念仏が運ばれたのではないかと、思うのです。
多聞天像の頭部に打ち込まれた光背を留める釘がありますが、それらの技術の共通する仏像は、製作地が近いのではないでしょうか、、、、、、。

都が平城京に遷る時、川原寺と橘寺は明日香に残り、彷徨える戦死者の霊魂と行き場のない仏を供養した…そう思うのです。
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写真は、国立博物館の「美の国日本」展の図録を使わせていただきました。
また、明日。


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# by tizudesiru | 2017-12-12 00:58 | 309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像 | Trackback

蘇我馬子は飛鳥の大王だった

蘇我馬子の墓は方墳・家形石棺
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(石舞台古墳は約50mの方墳)
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(石舞台古墳・横穴式石室に家形石棺が置かれていた。馬子の石棺を復元したもの)
石舞台古墳石室に大量の石棺の破片が出土しています。家形石棺が破壊されたのだそうです。

方墳に石棺が蘇我氏の墓制だったようです。下の写真は、石舞台の近くの都塚古墳(方墳)の家形石棺です。同じ蘇我氏の墓と思われます。
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馬子の墓にはたくさんのラインがかかりました。例えば、水色のライン、大阪府の磯長の「伝・馬子の墓」に向かって直線を引きました。どちらが本当の馬子の墓でしょうね。
石舞台と磯長の「伝・馬子墓」を結ぶと、磯長神社をラインが通りました。
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ここには、叡福寺の聖徳太子の墓(用明天皇の皇子)、用明天皇陵(蘇我堅塩媛の所生)、敏達天皇陵とその皇后の推古天皇陵(堅塩媛の所生)、竹内街道沿いには孝徳天皇陵があるのです。そして、ここには、蘇我馬子と蘇我倉山田石川麻呂(馬子の弟)の墓もあるそうです。天皇陵の近くに馬子の墓がある…どういうことでしょうか? 馬子が近津飛鳥の王家の谷に眠っているとは。それも、上宮王家の聖徳太子の墓の前に「伝・馬子の墓」は在るのですから、馬子は上宮王家と関係の深い存在となりますね。

二上山は黄泉の国の入り口

石舞台から二上山にラインを引くと、橘寺を通りました。
二上山は天武陵から見ると夏至の日没の方向となります。天武朝では、二上山があの世の象徴(入口)でした。だから野口王墓(天武・持統陵)の位置が選ばれ陵が造られたのです。大津皇子は、守り神として二上山に改葬されました。謀反の人の霊力は大きかったのです。
さて、石舞台古墳から二上山を望む時、死者として誰を思うでしょう。
当然、石舞台なら蘇我馬子ですね。では、大臣馬子も大王のように二上山を黄泉国の入口としたのでしょうね。

二上山・聖徳太子建立の七寺の一つ橘寺・石舞台
黄色のラインです。
橘寺が造られたのは、いつでしょうか。飛鳥寺は蘇我氏の寺というより官寺として、公的な行事が行われ、宮殿の一部のように機能していました。飛鳥寺は私的な寺では無かったのです。
では、橘寺はどうでしょう? いつ橘寺が造られたか分かりませんが、創建瓦とされるのは「複弁蓮華文軒丸瓦」で、すぐ北にある川原寺と同范もあるそうですから、川原寺と前後した時期に寺になったのでしょう。川原寺は僧寺、橘寺は尼寺です。
聖徳太子建立の七寺は、法隆学問寺、四天王寺、中宮尼寺、蜂岳寺(広隆寺)、池尻尼寺(法起寺)、葛城尼寺、橘尼寺、です。(上宮聖徳法王帝説)
尼寺が多いようです。古代の寺は、尼寺で始まりました。女子が仏(男子)に仕えるという考えです。巫女が神(男子)に仕えたように、仏を男子と見たからです。橘寺は古い寺ですね。
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(東を正面として、中門・塔・金堂・講堂が東西に並んでいた。講堂前に石列?)
古い橘尼寺の正面は東でしたから、黄色ラインは古代なら塔と金堂の上を通っていたでしょう。塔心礎は一辺1.5mの方形造り出しに丸い穴、その三方に添木を受ける半円形穴が彫られています。これは、河内の西琳寺や野中寺、法隆寺若草伽藍の心礎と似ているそうです。
河内の野中寺に伝わる「丙寅年の年記のある弥勒菩薩像の銘文に「橘寺知識」とあり、これをこの橘寺とすれば、天智五年(666)には「橘寺」は存在したことになります。

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(写真は、橘寺塔心礎「明日香村史・上巻」より)

大王は火振り山を支配した
余談ですが、橘寺の南には「ヒフリ山」▲ があります。飛鳥を中心に「ヒブリ山」「火振り山」と呼ばれる山が9か所もありますが、何をしていたのでしょう。ヒフリ山は、火を振り回す山ではないでしょう。交通の要衝にあるから、烽火などに関係する山と云われています。
しかし、集落の近くや豪族の館の近くに在りますから、人々の生活に直結した山だったでしょう。山を暦として使っていたのだと思います。各豪族は自分の暦の山を持っていたのです。
下の地図も「明日香村史」の挿入図ですが、16・15番は川原寺と橘寺です。其の南の▲がヒフリ山です。地図上に三か所ありますね。図中の2の豊浦寺の西にも在ります。現在まで「山名」として残されたとは驚きです。
豊浦寺が推古天皇の豊浦宮址とすると、推古帝はヒフリ山を持っていたと考えられます。また、蘇我蝦夷は豊浦大臣とも呼ばれましたから、このヒフリ山を支配したのは蝦夷かもしれません。山田寺の隣の岡もヒフリ山ですから、ここは蘇我山田石川麻呂の暦の山だったでしょうね。そうして、よく見ると火振り山のほとんどを支配したのは、蘇我氏のようです。

更に、蝦夷が畝傍に家を持っていたことも書紀に在りますから、稲目・馬子・蝦夷・入鹿らの邸宅が、畝傍山の麓から軽・豊浦・島などにあったと云うことは、蘇我氏こそが飛鳥の支配者だったと云うことになります。
そうです、蘇我氏が飛鳥の大王だったのでしょう。
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馬子は推古天皇の叔父で、厩戸皇子と国記・天皇記を編纂しました。
馬子こそ明日香の大王だった

わたしは蘇我氏こそ明日香の大王だったと思います。それでなくて、どうして国記や天皇記を編纂できるでしょうか。また、祖廟の高宮で八佾(やつら)の舞が舞えるでしょうか。八列六十四人の舞は、天子のみに許されたものです。臣下に許されるはずはありません。それを蘇我蝦夷が行ったと非難されていますが、あんがい事実だった、大王だったのではないでしょうか。
大王だから、大陵(おほみささぎ)小陵(をみささぎ)を造ったのでしょう。

日本書紀は真実を「臣下のくせにけしからん」といった口調で書いたのではないでしょうか。
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石舞台は非常に意味深な位置にあります。
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藤原宮と石舞台を結ぶと、飛鳥寺がラインに乗りました。飛鳥寺は重要な位置にあり、政治的な場所でした。飛鳥寺の横の広場(庭)で国の行事が執り行われ、外国の使者や客人をもてなし、帰順した人々の宴会も行いました。
飛鳥寺は、馬子の建てた寺です!! 馬子は官の役所を建てていたのではありませんか。
飛鳥寺は単なる私有寺ではなく公共の場所だったのです。蘇我馬子が住んだ島宮には、天武帝・持統帝・草壁皇子が住みました。公的な館だったのでしょう。乙巳の変の時、中大兄皇子は飛鳥寺に立て籠もりました。当然、役所のようなものだったからです。


石舞台(蘇我馬子の墓か)、小山田遺跡(蘇我蝦夷の墓か)、菖蒲池古墳(蘇我入鹿の墓か)、見瀬丸山古墳(欽明陵か)は、直線でつながります。同じ氏の墓だとすると、このラインに眠る人は大王の家系になります。見瀬丸山古墳はこの地域で最大の前方後円墳であり、日本で最長の横穴式石室の羨道を持ちます。これが本当の欽明天皇の墓であれば、蘇我氏はその有力な一族となりましょう。

王家の血を受けながら、蘇我氏は抹殺されていったのです。
また明日





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# by tizudesiru | 2017-12-10 22:11 | 308蘇我氏の墓がルーツを語る | Trackback

川原寺に残る万葉歌は、白村江敗戦を伝えるのではないか

倭琴の面に書かれた二首
川原寺の仏堂の内にある倭琴に書かれた歌は何を語るのか
 
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万葉集巻十六「世間の無常を厭ふ歌二首」
3849 生き死にの二つの海を厭(いと)はしみ 潮干(しほひ)の山をしのひつるかも

3850
 世の中の繁き借廬(かりほ)に住み住みて 至らむ国のたづき知らずも

右の歌二首は、川原寺の佛堂の裏(うち)に、倭琴の面にあるのなり

「生死の二つの海」とは、現世の生と死の苦しみであり、その苦しみを渡り仏智の世界(山)に入るという仏典で譬えられる世界を詠んだのだそうです。

3849 
この世で生死の苦しみに振り回されるのが煩わしいので、潮が干いたように苦しみのない極楽浄土のような山を恋しく思うのだ。

3850 様々な事がある煩わしい仮の住処のような現世に住みつづけているが、これから行くべき国(極楽浄土)がどんな様子なのか、何も知らないのだ。 

右の歌二首は、明日香の川原寺の仏堂にある倭琴(やまとごと)の面に書かれたものである

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世間之 繁借廬尓 住々而 将至國之 多附不知聞

この歌に惹かれ何度も読むうちに或る思いが突き上げて来て、どうしても頭の中から消えませんでした。それは、仏教思想が受け入れられるには時間がかかっただろうと云うことです。まして、その思想が一般化するには相当に時間がかかりましょう。

しかし、ある地方の民は早くから広く仏教に帰依していました。そこは、阿毎タリシホコの俀国(倭国)です。隋書にはそう書かれています。そこには「世間」を極楽浄土と対立する世界として捉える思想が浸透していた、と思ったのです。
古代の琴・倭琴は女子の持ち物ではありません。古代では教養のある男性の持ち物でした。男性が琴で音楽を奏で詩歌を読んだのです。では、上記の二首も男性の歌ですね。それも世間を「よのなか」と読む文化圏の男性です。

そこで、この歌は仏教が浸透していた俀国で詠まれた歌ではないか、百済救援に遠征した男性が自分の体験を詠んだのではないか、戦火に倒れた高貴な人の愛用の琴が川原寺に奉献されたのではないか、と様々に考えました。

白村江敗戦を伝えるのではないか
(このことは、数年前に或る公開講座でお話をしました。)

万葉歌は事実を詠んだ叙事詩だと何度も聞かされました。仮想して物語や思想を詠んだのではなく、事実や実体験・実感を詠んだ歌集でしたよね。二首も思想ではなく事実が詠まれているのです。

事実として読み取ってみました。微妙に解釈が変わります。

3849 この世の生と死の二つの海(苦しみ)を、同じように倭国の海と隣国の二つの海を渡り戦う、その苦しみを避けたいと、潮が干いたような苦しみのない世界をどんなに恋しく思ったことか(だが、世間の無常を避けることは出来なくて、琴の持ち主=主人は、先の敗戦で亡くなられた。)

3850 大変なことが多いこの世を仮の住処として主人と長く住んできたが、無情にも主人を亡くした我が身=琴は、これから知らない国に行くことになった。その国の様子を何一つ知らないのだ。(まるであの世のことを何一つ知らないように、遠い知らない国に行くのだなあ。)

ある高貴な方の持ち物だった倭琴の嘆きとして、亡き主人を偲ぶ歌として、二首が残されたと思ったのです。二つの海を渡った(白村江敗戦に翻弄された)高貴な人、その人は還らなかったが、琴は帰ってきた、そして、川原寺に奉納された。

二首は琴の由来を詠んでいるに違いありません。遠く仏教の浸透した地方から来た楽器であること、無情な運命に翻弄された人の持ち物であったこと(川原寺では、その人物が誰なのか分かっていたでしょう。…寺に所縁の人の奉献か、寺になった時に琴の持ち主を供養したとか)。

川原寺に奉納された時期を考えると、平城宮遷都(710)以前だろうと思うのです。それは、平城遷都後は、高貴な方はほとんど新京に引っ越したと思うからです。遷都後なら川原寺よりも都に近い寺に奉納するでしょうから。

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明日香川原寺跡の万葉歌碑
この万葉歌があるのは、川原寺跡の道路横です。
橘寺の前に道を挟んで川原寺跡がありますが、橘寺の石柱から川原寺を見ると、筋向いに歌碑が見えます。

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現在の弘福寺(もと川原寺)の前は、広い公園になっています。川原宮は、板蓋宮が焼失した後、一年余り斉明天皇の仮宮となりました。

中大兄皇子(天智天皇)称制の時に、母の斉明天皇の葬儀を川原宮で執り行いましたし、川原寺が飛鳥では重要な位置にあることは前回のブログでも紹介しました。(山田寺からのラインは、高松塚にも届く。)

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平城京遷都の時、明日香に残った川原寺
四大寺のひとつであった川原寺は、創建の時期も事情もはっきりせず謎の大寺と云われています。また、平城京遷都の時に、ほかの三大寺(飛鳥寺・薬師寺・大官大寺)は都に移りましたが、川原寺は明日香に残りました。


川原寺式と呼ばれる「複弁蓮華文」軒先瓦の文様は、この後の軒先丸瓦の主流文様となりました。後の瓦に多大な影響をもたらしたのですから、川原寺の立つ位置は大きかったのです。それなのに、遷都の時に、明日香に残されたのでした。

川原寺が特別な寺であり、歴史の事実を伝える寺だと、わたしは日頃から思っているのです。そして、巻十六の上記の二首は心を揺さぶられる名歌だと思います。

鹿児島と宮崎にお出かけしていました。また、明日。



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# by tizudesiru | 2017-12-09 15:30 | 307倭琴に残された万葉歌 | Trackback

明日香・天智天皇が戻った倭京は何処にあったのか

天智天皇の倭京は何処にあったのか
大化改新後に、難波に都が遷りましたが、孝徳天皇を難波に置いて中大兄は倭京に戻りました。その倭京は何処にあったのでしょう。ヤマトヒメと同じく、倭京の場所も大きさも組織も分からないことが多いのです。が、天香具山と蘇我氏の寺や墓や神社は、その位置を探すカギになるはずです。
倭姫皇后は持統天皇か

さて、天智天皇の皇后の倭姫は、古人皇子の娘であると書紀に書かれています。古人皇子は中大兄皇子(天智天皇)によって誅殺されました。吉野太子とも呼ばれ、吉野に逃れた皇太子でした。その次期天皇の娘だというので、倭姫は皇后になれたのでしょうか。素直に書紀を読むとそうなります。記述を疑わなければですが、そうすると倭姫皇后がなぜ正史から消えてしまったのか(墓すら不明)、持統天皇はなぜ深く天智天皇を慕い、有間皇子を追悼するのか、最後の東国行幸や天皇の忌日の詔の意味が分からなくなります。
元明天皇(天智帝の皇女)は「天智天皇の不改常典」をもって皇位継承の根拠としました。天武天皇の王朝代に滅ぼした前王朝の法を持ちだすのは、異常です。それも皇位継承に関して、です。もろもろの事実は、一つの答えを指し示しているのです。
倭姫皇后が持統天皇だった可能性です。そうすると、もろもろの疑問が解けて、額田王が中臣大嶋と立てた粟原寺の意味もはっきりするではありませんか。
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古人大兄皇子について、おさらい

舒明天皇の第一皇子。母は蘇我馬子の娘・法提郎女(ほほてのいらつめ)、娘は倭姫。蘇我入鹿は次期天皇に古人大兄皇子を望み、古人大兄は太子となっていたと思われる。


古人大兄皇子と並んで皇位継承者とされたのは、厩戸皇子の子・山背大兄王で、その母も蘇我馬子の娘・刀自子郎女でした。古人と同じ蘇我系の母を持つ男子でした。

その山背大兄王は蘇我入鹿に襲撃されて、一族もろともに自害してしまいました。

やがて、乙巳の変。この時、古人太子は皇極天皇の傍に侍していたのですから、重要な立場で儀式に参加していたことになります。自分の支持者であった蘇我入鹿が暗殺された後、古人大兄は自宅へ逃げ帰り門を閉ざし「韓人が入鹿を殺した。わたしは心が痛い」といいました。その意味は何だったのでしょう。

殺したのは「韓人」、それは古人大兄を苦しめたのですが、この時、事件の黒幕(孝徳天皇とされる)を知っていたわけではないでしょう。太子が見た通りの無残な光景に対する気持ちを吐露したのなら、渡来系の人物が入鹿を殺したが、その原因は自分とは無関係ではないと思ったということです。

入鹿が殺されれば皇位継承権は遠のき、自分の身が危ないという意味でしょうか。書紀によればその後、倭姫は父を殺した男の妃となったのでした。

蘇我倉山田石川麻呂右大臣の娘たちも、父を死に追い込んだ中大兄の夫人となりました。越智郎女と姪郎女がそうでした。その皇女達(太田・鵜野・大江・新田部)も父の王権を倒した叔父(天武天皇)の妃となったと書紀に書かれています。これは大事な記述です。当時、この女子たちを他の豪族に分け与えるわけにはいかなかった、その血統を他に分けることはできなかった、のでしょう。「皇后となれる倭姫」となるべき女子だったから。古代では高貴な血統こそが財産でした。それは、中世まで、いえ近世まで続いた伝統的な考え方でした。落ちぶれても血統には威力がありました。だから、倭姫は望まれて天智帝の皇后となったのでした。皇位継承者となるには、高貴な女性を皇后に立てなければならなかった、まるでエジプトの王のように王家の血を引く女性を皇后にすることが必須だったと思います。


中大兄が戻りたかった倭京は何処にあったのか
飛鳥に倭京はあったのでしょうか。それとも三輪山の麓にあったのでしょうか。
其の天智天皇の権力を見るために、石神遺跡や川原宮をラインで見ましょう。石神遺跡からは木棺が出ていますし、河原宮は斉明天皇の葬儀を行ったところですし、後に寺院となりました。天智天皇の所縁の場所です。
天武・持統天皇も四大寺の一つとして大事に扱ったようですね。

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まず、右斜め上から左に下りるのラインを見ましょう。山田寺・川原寺・定林寺とラインが引けます。左上から斜め右下に下りるラインは、本薬師寺・蘇我氏の邸宅跡・川原寺・坂田寺とつながります。
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山田寺・川原寺・定林寺・坂田寺・本薬師寺、この寺院は既に紹介しています。

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(山田寺)

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(川原寺)
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(坂田寺)
坂田寺は鞍作氏の寺でした。石舞台や都塚古墳の近くの寺ですから、蘇我氏の同族でしょう。
では中央のラインです。本薬師寺から川原寺・橘寺に届きます。

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要するに、川原寺は斉明天皇・天智天皇所縁の重要な宮であり、寺院であったことがわかります。天武朝では、大官大寺・飛鳥寺・川原寺・薬師寺は四大寺とよばれ、官寺の代表の役目を果たしていました。国家的な仏教行事や僧尼の取り締まりを行っていたのでした。ただ、薬師寺は皇后の病気平癒のために造られて寺ですが、造営の途中で天武天皇の崩御となりました。在位中にはでき上がっていなかったのです。持統天皇二年に天武天皇追善の無遮大会が、大官・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田の五寺で行われたのですから、薬師寺は間に合っていないのです。

四大寺は朝廷が重視した寺です。
では、朝廷が重視した神社は何処で、どの神々でしょう。
それは、時代の浪にもまれて分からなくなっているかも知れません。しかし、位置情報は残されているかも知れません。遷座された可能性もありますが。国常立神社のある天香具山からラインを引いてみました。

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国常立神社のある天香具山からのラインを飛鳥坐神社(水色ポイント)に引くと、そのまま延びて石舞台に直線が届きます。では、天香具山から定林寺にラインを引くと、雷丘と蘇我氏邸宅跡がラインに乗ります。蘇我氏を抜きにしては何もできませんね。
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蘇我氏の飛鳥寺は真神原に建てられましたから、辺りは聖なる地だったのです。すると、斉明天皇に関わる板蓋宮・川原宮、草壁皇子が育ったという岡宮(治田神社)辺りも聖地だったことでしょう。

では、天智天皇が間人皇后や斉明皇太后やもろもろの役人を引き連れて、難波から戻って来たという倭京はどの辺りでしょうね。やはり天香久山を取り込んで考えましょうか。後の藤原宮が造られた辺り橿原市辺りかも知れませんが、わたしは北上する飛鳥川の東岸辺りに倭京はあったと思うのです。

倭京には、天照太神が祀られているでしょう。「天照太神を度会(わたらい)の五十鈴河上に遷し奉る」と倭姫命世記に書かれていましたから、倭京の頃は祭祀がなかったとしても、持統天皇の時代には天照太神を祀る社も置かれたでしょう。神祭りが入り乱れてはいるでしょうが、痕跡はのこっているはずです。



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# by tizudesiru | 2017-12-05 21:06 | 306倭京は何処にあったのか | Trackback

倭姫を探せ

倭姫は何処に?倭姫を探せ!
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「倭姫命世記」の倭姫命モデルは持統天皇ではないか、と書きました。そして、持統天皇は「倭姫」という皇位継承者の妃になるべき立場に生れた女性だったとも書きました。推古帝も持統帝も元明帝も蘇我系の女性でした。日本書紀の執筆者たちは、その辺を知って書いたと思います。倭姫皇后も父は古人大兄(吉野太子)で舒明天皇の第一子、母は蘇我馬子の娘・法提郎女でしたから、蘇我系の女子です。その辺りを祭祀線でみてみましょう。蘇我氏が絶大な力を持っていたことが分かります。
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蘇我馬子の墓と云われている島荘の石舞台古墳は、藤原宮と直線でつなぐと石神遺跡や紀寺廃寺がラインに乗ります。もちろん、飛鳥寺もラインに乗ります。
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藤原宮から南に直線を伸ばすと、Ⓐ 菖蒲池古墳(蘇我入鹿の墓と云われる)を通り、天武持統陵にラインが届きます。
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壁画で有名なキトラ古墳を藤原宮(水色)や耳成山(黄緑)と直線でつないでみましたが、微妙に天武・持統陵のラインには乗りません。天皇のピンクラインに乗るのは、Ⓐ の菖蒲池古墳ですね。ここピンクラインは、天智天皇陵から南に延びたラインでした。
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石舞台と小山田遺跡(蝦夷の墓という)菖蒲池古墳(入鹿の墓と云う)を結ぶと、真の欽明天皇陵と云われる見瀬丸山古墳にラインが届きます。石舞台古墳はとても重要な位置にあるのです。
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石舞台古墳と甘樫丘の蘇我氏の邸宅跡を結ぶと、現在、神武天皇陵と呼ばれる陵の中心部に当たります。これはどうしたことでしょうか。畝傍山と結ぶと川原寺を通り、天武・持統陵と結ぶと鬼まな板や岩船古墳に届きます。

蘇我系女子が「倭姫」という特別の立場に立つのであれば、このような強いラインの中にその聖体は埋葬されたでしょうね。

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では、天武・持統陵と難波宮(大極殿址)を直線で結んでみましょう。すると、見瀬丸山古墳の墳丘部を通ります。遠く離れた難波宮とどのようにして直線を引いたのでしょうね。(白いポイントは、わたしが勝手に置きました。何かあるとしたら、白のポイントです。懿徳天皇と安寧天皇陵の間ですから、何かありそうだなと思いました。)
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天武・持統陵を横切るピンクの直線は何処につながるでしょうね。これは、天香具山と中尾山古墳(文武陵が有力)を結んだラインです。
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天香具山・天武持統陵・中尾山古墳とつながると、中尾山古墳はやはり文武天皇陵でしょうかね・・・でも、文武天皇陵も次のようになります。
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帝・文武天皇陵(中尾山古墳ではない)と見瀬丸山(五条野丸山)古墳と結ぶと、高松塚古墳が間に入ります。(文武陵とされる古墳は十分な調査が行われていないのですが、切り石の横穴式石室の図が残されています。)大王の古墳は所縁の宮処や、所縁の寺とラインがつながりますから、文武陵ではないとしても高貴な方の墓ですね。

沢山のラインが出てきました。持統天皇のラインはまだまだあるので、また明日にしましょう。



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# by tizudesiru | 2017-12-02 01:12 | Trackback

倭姫命と倭姫皇后と持統天皇

倭姫命世記(やまとひめみことせいき)を読んでいます。

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倭姫命ってどんな人でしょうね。

前回の続きです。豊鋤入姫から御杖代を受け継いだ倭姫命は、お伴の神達と共に祭殿の地を求めて放浪して、阿佐加国に着きました。

阿佐加国の阿佐加の峯に荒ぶる神・伊豆速布留(いつはやふる)神があり、行き来する人を取り殺していました。そこで、倭姫命に大若子が「種々の下賜品をその荒ぶる神に奉げてお鎮めください」と進上したので、倭姫命は阿佐加の山の峯に社を作り、その神を祀ると神は「うれし」と鎮まりました。

一書には、同じ話(阿佐加の山の神)について次のように書かれています。

{天照太神が美濃国より廻り阿濃の藤方片樋宮に至り鎮座された。この時、安佐賀の山に荒神がいて道行く人を取り殺していたので、倭姫命は度会郡の宇遅村五十鈴川上の宮に入られず、藤方片樋宮に神を祀られたのだった。

そこで、倭姫命は中臣大鹿嶋命、伊勢大若子命、忌部玉櫛命を遣わして、天皇に相聞された。

すると、天皇が『その国は、大若子の祖先の天日別命が平定した山であるから、大若子命がその神を祀りたいらげて、倭姫命を五十鈴宮に入れ奉らしめよ』と詔を出された。

こうして、大若子は引き返し種々の幣によって荒神を祀り平らげ、社を安佐駕に定め祀った。この後、倭姫命はお入りになることができた。}


上記の文は極めて意味深なのです。

そこは、大若子命の祖神(天日別命)が平定した地だというのです。
その地の「荒神を鎮めるために大若子命の力を借りよ」というのですからね。

その荒神が鎮まらなければ、「倭姫命は五十鈴宮に入ることができない」とは、すごい話です。


大若彦命は、下宮祀官の度会(わたらい)氏の祖神なのです。豊受太神宮禰宜補佐次第にその事績を記されているそうです。つまり、五十鈴川流域は、もともとは度会氏の祖先の地だったと云うことです。度会氏の聖域にヤマトヒメ命が入っていったと書いてあるのです。


さて、倭姫命は、すぐに五十鈴宮に入ったのではありませんでした。阿佐加の藤方片樋宮から更に移動しています。


次に、飯野の高宮に遷る

この時、櫛田神社(櫛を落とした処)を定め、御船に乗って幸行し魚見社(魚が船に飛び込んで来た)を定め、更に幸行して真名胡神社(御饗を奉る神がいた)を定めたのでした。


また、乙若子命が祓いをして、従う人々に弓剣を留め、兵と共に飯野の高宮に入られたので、遂に五十鈴宮に向かうことを得た、と書かれています。ここで、初めて兵という言葉を見ました。どういうことでしょうか。


ここから幸行して佐佐牟江に御船を泊めて、佐佐牟江宮を作り定め、更に幸行して大淀社(風波無く海潮よどむ)を定められたとあり、多くの社を定められました。

この時、天照太神が倭姫命に教えて云われたこと

「この神風の伊勢の国は、すなわち常世の浪の重波よする国なり。傍国(かたくに)のうまし国なり。
この国に居らむとおもふ」故に、太神の教えのままに其の社を伊勢国に立てたまふ。
よりて斎宮を五十鈴川に興し立つ。これを磯宮といふ。天照太神始めて天より降ります処なり。」

次に、飯野の高宮より伊蘇宮に還幸なりて座す

ここも、「百船(ももふね)度会(わたらい)国、玉ひろふ伊蘇国」でした。
南の山の端に良き宮処があるように見えたので、倭姫命は皇太神を戴き奉り船で幸行(みゆき)されました。

そうして、次々に出会いがあり社が立てられます。


倭姫命は幸行しながら、速河狭田社、坂手社、御船神社、御瀬社、久求社、園相社などを定めながら「よき宮処ありや」と尋ね廻りました。
「佐古久志呂宇遅(さこくしろ)の五十鈴の河上によき宮処在り」と聞いて更に御船で幸行しました。御饗神社を定め、二見の浜、堅多(かたた)社、五十鈴河後に江社、神前(かみさき)社を定め、更に幸行して矢田宮に。


次に、家田の田上宮に遷り幸行し座す

ここでいろいろな神々が出てきます。度会の大幡主命、出雲の神の子・吉雲建子(よしくもたけこ)命(伊勢都差神・櫛玉命)、その子、大歳神・桜大刀命・山の神大山罪命・朝熊水〈あさまのみなと〉神)、猿田彦の末裔・宇治土公の祖先大田命などと出会い、倭姫命は「よき宮処ありや」と問いかけました。

大田命は、「佐古久志呂宇遅の五十鈴の河上は、これ大日本国の中に、殊に勝りて霊地(あやしきところ)に侍るなり」と、答えました。その地には見たこともない霊物(あやしきもの)があるというのです。

倭姫命がその地に行き御覧になると、なんと昔大神が誓願して「伊勢加佐波夜(かさはや)の国はよき宮処在り」と見込まれて天上より投げ降ろしたもの。

天の逆太刀(さかたち)、逆桙(さかほこ)、金鈴などだったのです。

倭姫命は喜んで事挙げされました。ついにたどり着いたのでした。

 

天照太神を度会の五十鈴河上に遷し奉る

倭姫命は五十鈴川の河上に宮処を見つけて大喜びされたのですが、普通に読んでみると先に祭られていた神があったことは事実のようです。そこへ倭姫命の導きで天照太神が降臨されたのですから、倭姫命は侵入者となりますね。
また、天上では豊受太神と天照太神が幽契(かくれちぎり)していたのですから、二神は同格でした。しかし、ここまでの「倭姫命世記」では、天照太神のことが書かれていて豊受太神のことはほとんど読めませんし、同格とはあつかわれていないようです。
倭姫命は、はじめから二神を同格と扱わなかったし、出発時からはっきりと「天照太神を戴き奉りて行幸す」と書かれています。この「行幸」は、途中から「幸行」と微妙に表現を変えていますが。行幸とは「天皇の外出。上皇、法王、女院の外出」に使われた言葉です。倭姫命とは如何なる人でしょう。
豊鋤入姫と倭姫命は時間軸をずらしてありますが、同じ目的「天照太神を奉り、宮地を求める」を持ち、但馬・倭国・木ノ国・吉備国・倭国(弥和の御室嶺上宮)までさまよいました。豊鋤入姫は架空の存在でしょうが、鏡を護身のために造らせたとありますから、鏡文化が広まった時代の人と設定されています。

倭姫命は大和國・伊賀国・近江国・美濃国・尾張国・伊勢国と移動しました。
この辺りが、持統天皇の最後の行幸と重なるのです。

倭姫命世記は「日本書紀」の記述に基づいて書かれていますから、豊鋤入姫の設定は無視できなかったのでしょう。

倭姫命は実在の女性だと思います。それも、実際に伊勢と関わった権力を持った女性です。すると、持統天皇が浮かび、消えた倭姫皇后と倭姫命が重なるのです。倭姫命がかかわって伊勢の神祭りや催しや他の神々との関係が整って行くからです。その過程が細かに語られ、神々に軽重・主従・役割を決めているようです。
これは、律令により祭祀を統制しようとしたことを意味するのではないでしょうか。
大きな権力でなければ、従来の祭祀や神々にランク付けをすることはできませんし、新しい神祭りを定めることもできないでしょう。権力を持った倭姫命こそ、持統天皇がモデルだったと考えます。そして、「倭姫」という皇位継承者の妃になるべき立場にいた女性だと思うのです。

倭姫世記は此処で終わりではありません。
嶋国の伊雑(いさわ)宮のことや豊受大神のことが語られるのです。
(その事は、また、別の機会に考えましょうね。)



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# by tizudesiru | 2017-11-29 01:15 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback

「倭姫命世記」の倭姫命、聖地を求めて放浪す

一昨日は、万葉集の不思議の一つ、高市皇子の挽歌についてお話しました。今日は、『倭姫命世記』についての話を少しさせていただきます。

『倭姫命世紀』は特異な性格の書とされています。

伊勢神道の経典として五部書が挙げられていますが、『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』、「伊勢二所皇太神御鎮座伝記」、『豊受皇太神御鎮座本紀』の三部書に、『造伊勢二所太神宮宝基本記』、『倭姫命世記』 を加えられて取りあげられるようになったのは、江戸時代だそうです。この中で、『倭姫命世記』と『造伊勢二所太神宮宝基本記』は、神道の教義ともいうべきものを明確に主張していて、その主張も他の三部書とは微細な点で違っているそうです。


倭姫命世記は、『天地開けし初め、神宝日いでます時』という詞で始まりますが、このスタートの詞は「中臣祓訓解」の文に同じだそうですから、同じ理解と思想の元に書かれた文章なのでしょうね。


続いて『御饌都神(みけつのかみ)と大日孁貴(おおひるめのむち)と予め幽契(かくれちぎり)を結び、ひたぶるに天が下を治め、言寿(ことほぎ)宣たまう』とあります。

御饌都神(伊勢下宮の祭神で月神)と大日孁貴(天照大神の別称、伊勢内宮の祭神で日神)が、ひそかに天上で約束をして天下を治め寿いできたと書かれています。天照大神と豊受大神は常にセットなのです。

この二神が月となり日となってきたので、永く世界が保たれてきたのだ、と始まるのです。

倭姫命世記が書かれたのは、日本書紀が広く読まれるようになった後でしたから、この正史に合わせて文章もつづられたはずです。ですから、「倭姫命世記」から正史と離れた個別の真実や事実を引き出すことは難しいかも知れません。しかし、当時の人々が何を思い、何を云おうとしたのかは想像することはできます。

例えば、神々が集まって皇御孫(すめみま)の天下りを決めて、水穂の国を平定するために遣わされた神は、オールスターですね。その初めは、天穂日です。

天穂日(あめのほひ)命 返言(かえりごと)をしなかった。

健三熊(たけみくま)命 父と同じく返言しなかった。

天若彦(あめのわかひこ) 返言しなかった。

布津主(ふつぬし)命・健雷(たけいかづち)命を降して(布津主と健雷が命令して)、

大己貴(おほなむち)神は、その子の事代主(ことしろぬし)に国を平定した時の広矛でもってあまたの鬼神をかり払わせ「葦原中津国を平定した」と復命した。


そこで、三種の神器(神財)を持たせて天津彦火瓊瓊杵(あまつひこほのににぎ)尊を天下りさせた。伴に天児屋(あめこやね)命、太玉(ふとたま)命が従った

降臨した場所は、筑紫の日向の高千穂の槵触(くしふる)の峯であった


上記の展開を読むと、矛文化圏のオオナムチ命が先に葦原中津国を平定していたことは認めています。その子の事代主が天孫のために鬼神を退治したのですから、天下りの為に協力し活躍したのは、オホナムチの一族でした。少なくとも前政権の力を借りて、すんなりと権力が交代したというのですね。更に言えば、矛文化圏の広形銅矛は弥生の末に北部九州一帯では埋納させられていますから、弥生末に大変革があったのは間違いないでしょう。スタートは将に北部九州の説話なのです。


この天孫降臨の時、斎部(中臣氏や忌部氏)の始祖が伴として関わったとするのは、正史と同じでしょう。後世の神官の書き加えなのかも知れません。

天津彦火瓊瓊杵命、その第二子彦火火出見(ひこほほでみ)尊、彦火火出見の太子・彦波瀲武鸕草葺不合(ひこなぎさうがやふきあわせず)尊、彦波瀲武鸕草葺不合の第四子・神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)天皇までの四代は、九州に住んでいたのでした。

神日本磐余彦は、その元年に「日本国に向かひたまふ。天皇みずから諸の皇子の舟をひきいて、師(いくさ)東に征(う)ちたまふ」と、東征し、神武天皇の八年、都を橿原に建てました

九州から侵攻した集団が最初に拠点を置いたのは、橿原だったようです。それから九代、神祭りは為政者と同じ屋根の下で行われていましたが、崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖みまきいりひこいにえ天皇)の時、倭の笠縫に天照太神と草薙劔を遷し奉った、と書かれていました。

この後から、崇神天皇の皇女・豊鋤入姫(とよすきいりひめ)命による国国処処に大宮処を求める旅が始まるのです。

斎部(いんべ)氏が、石凝姥(いしこりどめ)神と天目一箇(あめのまひとつ)の末裔を引きつれ、鏡と剣を作らせ、身を護る御璽としました。斎部氏は「弥生の威信財・鏡と剣の役割を熟知してたようです。

次々と祭祀場を求めて還る

はじめは但波(たんば)の吉佐宮に還幸(みゆき)なる。そこは丹波国余社郡です。「ここより更に倭国を求めたまふ」たのですから、まだ倭には入っていません。「この年、豊受の神天降りまして御饗(みあへ)奉る」をありますから、はじめから豊受大神の放浪が始まるようです。


次に、倭国の伊豆加志元(いつかしのもと)宮に遷る

次に、木乃国の奈久佐浜(なくさのはま)宮に遷る

次に、吉備国の名方浜(なかたのはま)宮に遷る

次に、倭の弥和(三輪)の御室嶺(みむろのみね)上宮に遷る


ここで、豊鋤入姫命の妹・倭姫に事依(ことよ)さしめ、御杖代(つえしろ)と定める。

「ここより倭姫命は、天照太神を戴き奉り行幸す」

ここに大きな転機があります。天照太神が特に取り出されて奉られているからです。また、これまでは宮が「遷る」でしたが、ここから倭姫命の「行幸」となるようです。

倭姫命は特別な存在だったというのでしょうか。

更にここから、相殿神に天児屋命・太玉命、御戸開きの神に天手力男命・𣑥幡姫命がきて、御門の神に豊石窓命・櫛石窓命、ならびに五部伴の神がそい仕えるのです。

倭姫命が御杖代になった時に、社殿の形式が揃ったようですね。


次に、大和国の宇多秋(うだのあき)宮に遷る *倭ではなく大和国とかかれている

ここで倭姫命の夢に「夫に嫁がざる乙女にあうように」とお告げがあり、行幸すると八佐加支刀部(やさかきとめ)という娘に会い、仕えさせました。


行幸して、佐々波多の宮に座す

次に、伊賀国に還幸し、市守の宮に隠れる *伊賀国ができたのは天武天皇の時代

次に、同国の穴穂宮に遷る

次に、伊賀国の敢都美恵(あへとみえ)宮に遷る

次に、淡海の甲可の日雲宮に遷る

次に、同国の坂田宮に還幸(みゆき)なる

次に、美濃国の伊久良河(いくらがわ)宮に還幸(みゆき)なる

次に、伊勢国の桑名野代(くわなのしろ)宮に還幸(みゆき)なる

次に、阿佐加の藤方片樋(ふじかたかたひ)宮に遷り座す *


*ここで荒ぶる神との説話が挿入され、一書の逸話も入ってきます。どのような思想と人々の手によりこの書が出来上がったのか、少しは想像できますね。
倭姫命は実在の誰をモデルに書かれたのでしょうね。単なる空想にも思えないのです。
今日は、ここまで。




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# by tizudesiru | 2017-11-27 13:19 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback

持統天皇が霊魂となって北へ向かったわけ

持統天皇は霊魂となって北の天智陵へ向かった
未来永劫、霊魂のままでいい!
それは女帝の望みでした。太上天皇は望み通りに白い骨となり、ヨミガエリを望むことなく霊魂となって北へ向かったと、わたしは思います。葬儀を指示したのは文武天皇です。十分に太上天皇の望みを知って執り行ったことでしょう。
天智陵と持統天武陵が同じ経度にあることには意味があるはずです。それは、持統帝と天智帝に深いつながりがあったからだと思うのです。
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また、天智陵が平安京を守る位置にあるということにも意味があるでしょう。
平安京は天智帝の皇統の都として造られました。
しかし、持統・天武天皇の陵墓ともつながらないわけではありませんね。天智陵の真南には持統天皇が眠っているのですから。
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新しい皇統の都のために天智陵は移されることなく守護神となりました。
ここで、また振り返ってみましょう。
意思の強い女帝が貫いたことは天武帝の皇統を守ること。何度も書きましたが、草壁皇子の皇統を守ることでした。しかし、ここで立ち止まりましょう。草壁皇子が天武天皇の皇子であり、持統帝・元明帝・元正帝が天武帝の皇統を大事にしたのであれば、天武帝の他の皇子達の皇位継承権を認めたはず、だと。
では、元明天皇が長屋王の子どもたちのを身分を引き上げたのは何故でしょうか、例外でしょうか。
娘を長屋王に嫁がせていた元明天皇は長屋王の皇統に皇位継承権を認めてもいいと考えたようです。それは、「真の天武帝の皇統に継承してもらいたい」というのが草壁皇子の遺志だったからです。大津皇子を死なせてしまったことを悔やんでもいましたから。妃の元明天皇は夫の遺志を承知していたと思います。万葉集を読むかぎり、元明天皇の夫・草壁皇子への思いは、深く強いと思います。
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それでも、天武帝の皇統は抹殺されてしまいました。
藤原氏が外戚として権力を握るようになって、ことごとく天武帝の皇統は抹殺されていきました。ついに天武帝の皇統が絶え、天智帝の皇統が皇位継承者(光仁天皇)となりました。その息子の桓武天皇は平安京に遷都した時、怨霊・悪霊から都を守ることに腐心しました。その時、天智天皇の陵墓は守り神とされたのです。

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では、神祭りはどうでしょう。伊勢の神祭りが天武帝の祭祀であれば、そのまま次の平安京の権力者・皇統の祭祀となったでしょうか。
明治になって、たしかに天皇家の神祀りとして伊勢神宮が神道のトップとなりました。それまで、天皇の行幸が何百年もなかった伊勢神宮が…です。
ここで、やはり立ち止まり考えさせられます。
天武天皇の壬申の乱を勝利に導いた渡会(わたらい)の神は、天照大神ではなかったのではないか。それは、豊受大神だったのではないか。それを証明しているのが、「人麻呂の高市皇子の挽歌」の一節ではないかと、わたしも思うようになりました。すると、天照大神が伊勢に入ったのは豊受大神より後で、壬申の乱より後、となるでしょう。

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ここで、伊勢の神の鎮座地を求めた倭姫命とその物語は、遠い昔の人でも話でもなく天武天皇以降の時代のことだと思うのです。天智帝の消えた倭姫皇后と、持統天皇の伊勢行幸の大三輪高市麻呂との逸話を考えると、倭姫皇后は消えたのではなく天武天皇の後宮に召されたのではないか、持統天皇の行幸の目的が鎮座地探しだったのではないか、などと考えてしまうのです。
だから、持統天皇の霊魂は北へ向かった。天智陵へと。

では、また明日



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# by tizudesiru | 2017-11-24 22:07 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback

倭姫命と伊勢・度会の神

高市皇子を助けたのは渡会の神?

では、天照大神ではなく豊受大神だったというのですか?

十二年ほどまえ伊勢に入った時、下宮の傍のホテルに泊まりました。そこで自転車を借りて伊勢を廻ろうと思ったのですが、なかなかでした。その時、倭姫命神社に寄りました。そこで、創建についてお尋ねしました。すると、女性の神官の方が
「この神社は明治になって建造されました。伊勢を求めてお出でになった倭姫を祀る神社がないのはどうしたことかと、その時できたお宮ですので、まだ新しいのです」
と説明されました。
式年遷宮に合わせて御社は建てかえされているそうで、神殿は交互に建てかえられるように空聖地が社の隣に設けられていました。その時、思ったのは『倭姫命の宮地はどのように選ばれたのだろうか』ということでした。
それで、その時に持っていた或旅行雑誌の地図を広げて内宮・外宮・倭姫命神社の位置を当たりました。三社を結びつけたラインは三角形だったと思います。これは測量して聖地を選んだのかな?と思いました。(この時の写真は全部ないのです。パソコンのコードを愛犬が噛んでショートして、データが無くなりました。電気屋さんに見せたけどダメだと云われて、パソコンも廃棄にしたのです。こんなことは何度もありましたから…データが無くなることを常に考えておかなければなりませんが)

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(下宮の東に倭姫命神社は造られています)
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(内宮は五十鈴川のほとりにあります)

伊勢を廻っていた時は、内宮と外宮はずいぶん離れていることを何とも思わなかったのです。が、倭姫命を調べている時「万葉集の渡会の神は、豊受大神である」という文章を読みました。その時は読み過ごしたのですが、後になって気になり始めました。そうして、伊勢神道の五部書を見ると、内宮と外宮は二所大神としてセットになっているのです。しかし、「倭姫命世記」では、聖地を求めて歩くのは、天照大神の御為です。

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歌を読むと、たしかに伊勢の渡会の神が高市皇子を助けてくれていますね。
柿本人麻呂が高市皇子のために造った挽歌のはじめから途中までを掲載しました。(以前に紹介しています)
伊勢の内宮は五十鈴川の上流にあり、下宮の近くを流れるのは宮川です。二つの川はともに海に流れ込み、合流はしません。
高市皇子が渡会の神(豊受大神)に助けられたのだとすると、倭姫命は渡会の神より後に伊勢に入り、宮川は既に豊受大神が鎮座していたので、五十鈴川を遡ったことになりますが…
そうなのでしょうか。また明日。




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# by tizudesiru | 2017-11-23 12:51 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback

持統天皇と倭姫皇后と倭姫の接点

崩御の時まで持統天皇が胸に秘めていたこと
今日はそのお話です。では、最後の行幸からまいりましょう。
持統天皇の最後の行幸はお気に入りの人を連れての旅だった、と前回書きました

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最後の行幸に従駕した人・万葉集には
長忌寸奥麿(意吉麻呂)、高市連黒人、与謝女王、長皇子、舎人娘子

東国行幸に従駕したのは、持統天皇の信頼する人物だったようです。長忌寸奥麿(ながのいみきおきまろ)は、二度の紀伊国行幸(690年・701年)に従駕し歌を詠みました。有間皇子事件を見事に詠み上げたその歌は持統天皇を感動させ、大宝元年の行幸では詔で歌を所望したほどです。高市連黒人も近江朝を偲び荒れた大津京を読んでいます。二人は行幸に従駕し、先々で歌を詠んだのでしょう。(既に紹介済)

長皇子は、天智帝の娘・大江皇女の嫡子です。人麻呂が歌を奉った皇子で、持統帝は行幸にも連れて廻るほど気に入っていたか、頼りにしていたのでしょう。(長皇子についても、既に紹介しています。)

舎人娘子は舎人皇子の養育を受け持つ氏の女性でしょうか。この人は舎人皇子と恋歌をやり取りしています。それなら、持統帝が目をかけた舎人皇子の関係者となりますね。
東国へはお気に入りの人々を従えての行幸だったのです。

では、人麻呂は? 従駕していなかったのでしょうか。それは分かりませんが、持統天皇はこの行幸ですべてを成し遂げたのでしょう。環幸の後、ひと月で崩御となるのです。旅は疲れるものですが、従駕した人々の歌を読んみると、旅愁はありますが悲壮感など有りません。

前年の紀伊国行幸の意味深な歌とは違うのです。旅先で持統帝は元気だったのでしょうか。

旅から帰った十二月二日、「九月九日、十二月三日は、先帝の忌日なり。諸司、この日に当たりて廃務すべしと勅が出されています。何とも、急な勅です。十二月三日の前の日に出した勅で「次の日は仕事をするな」というのですから。

しかも、九月九日は天武天皇の命日ですが、十二月三日は天智天皇の命日なのです。急な勅は天武天皇のために出されたのではないのです。天智天皇の忌日のために出されたのです。すると、持統天皇の意思なのでね。最後まで天智天皇への思いを抱いていた、最晩年に「隠す必要はない」と判断した、それが持統帝の真実の姿でした。

(十二月)六日、星、昼に見る(あらわる) *星とは太白で金星のことです。太白が昼に現れるのは「兵革の兆し」とされます。

十三日、太上天皇、不豫(みやまいしたまう) *不豫とは天子の病気のことです

天下に大赦が行われ、百人が出家させられ、畿内では金光明経を講じられました。しかし二十二日、遺詔(いしょう)して「素服挙哀してはならない。内外の文武の官の仕事は常のようにせよ。葬送のことはできる限り倹約するように」と言い残し崩じられたのでした。

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天智天皇量の真南に天武持統陵・大友皇子の屋敷跡は石上神宮へ)

持統天皇は「仕事は怠るな。葬儀は簡単に」とは伝えましたが、その他の気がかりについては何も言ってはいません。東国行幸で全てやり終えたというのでしょうか。

ですから、東国行幸が非常に気になるのです。その目的が天の香久山を詠んだ女帝が、実は天照大神の神祭りの場を探していた、とは。

以前、持統六年(692)の伊勢行幸のとき大三輪高市麿が冠を捧げて天皇の伊勢行幸を諫めた話をしました。「大三輪」ですから高市麿は三輪山の神祀りをする氏族でした。『三月は農繁期ですから伊勢行幸はやめてください(我が三輪山は、天智天皇も大切にしておられた。その神山を捨てて伊勢に行かれるのか)』と諫言したのでしょう。
考えてみると、伊勢の神祭りを始めたのは天武天皇でした。

天武十四年(685)初めて伊勢神宮に式年遷宮の制を定める
  
諸国の歌男・歌女らに命じ、歌笛を子孫に伝習さす。
     

 

壬申の乱に勝利したのは伊勢の神のおかげだとすると、天武十四年の「はじめて式年遷宮」は遅すぎです。神への御礼は一番でなければなりません。
また、天武天皇が伊勢神宮の神祭りを始めたのであれば、その皇后の持統天皇が伊勢に行くのを止める大義名分は誰にもありません。まして、大三輪高市麿にも。
上代の三月が今の四月くらいだとすると、農作業が忙しいのは上代の四月から(五月六月)でしょうね。

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最後まで天智天皇を慕いつづけた持統天皇が、三輪山ではなく伊勢に神祭りの場を求めたのは何故でしょうね。その聖地求めの旅が平安時代~鎌倉時代初期に「倭姫の伝承」として『倭姫命世記』に書き残されたのではないかと思ったのです。

すると、持統天皇こそが倭姫皇后だったのではないか。父は有間皇子で、皇位継承者の妃となるべき立場に生れた姫だった。有間皇子事件の後は間人皇后かくまわれたが見つけ出され、古人大兄皇子の娘として天智帝の妃とされた。
そう仮定すると、紀伊国行幸の歌で有間皇子を偲び続けることも、天智・天武の陵墓が同じ経度にあることも、難波宮に重要なことを決める時に行幸があることも、有間皇子事件に類似した宇治若郎子の事件が額田王や人麻呂によって歌われるわけも、天智天皇の葬送儀礼の歌が天武帝より多く残されていることも、天智帝の血統の草壁皇子が薨去した理由も、額田王と中臣大嶋が草壁皇子の菩提を弔ったわけも、持統帝が天智帝が築いた高安城に行幸する理由も、倭姫皇后が忽然と消えた理由も、大津宮を持統帝が懐かしむ理由も、事実を歌として「万葉集」に編集した柿本人麻呂が刑死した理由も、人麻呂に対して元明天皇が激怒したわけも、平城天皇が「万葉集」を編集しなおして事実が分からないようにした理由も……ほとんど同じ糸で結ばれていたので、意味がつながり謎が解け理解できるのです。

倭姫命が天智天皇の皇后と同じ称号で呼ばれているのなら、何らかの接点があると思いませんか。
いよいよ、倭姫命世記を読まなければならなくなりましたね。
長い物語ではありません。近くの図書館にも関係書はあると思います。
では、また。




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# by tizudesiru | 2017-11-21 23:49 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback

持統天皇の最後の行幸と伊勢神宮

もうこの海を見ることもないだろう
あの方の霊魂を鎮める最後の旅となるだろう
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大宝元年の紀伊国行幸(秋九月、冬十月)は、万葉集の巻一、巻二、巻九に歌が乗せられています。大宝元年辛丑冬十月の紀伊国行幸は、女帝の心にあった永年の苦しみを払う行幸でした。文武天皇が持統天皇と合流したのは、十月だったのでしょう。その時、紀伊国での出来事を全て孫に伝えたのです。

持統天皇は、九月に孫の文武天皇より先に紀伊国に来ていました。その時の歌が巻一にありますが、巻九の「紀伊国十三首」と比べて軽いのですが、旅先の土地を誉め、旅の安全を祈ったのでしょう。
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大宝元年辛丑冬十月の紀伊国行幸は、特別でした。紀伊国の郡司をねぎらいながら一重に有間皇子の霊魂を慰め鎮めました。それが巻九の「紀伊国行幸十三首」でした。そのひと月前の持統太上天皇の紀伊国行幸、この時の歌を読んでみましょう。

54 巨勢の山のつらつら椿はさいてはいないけれど、つらつら思い偲んでみようか。巨勢山に椿が咲き乱れるその美しい春野を。
秋なので椿は咲いていませんからね。春野を想像して詠んだのです。

55 麻裳で知られる国、紀伊国の人がうらやましいことだ。この真土山をいつもいつも眺めることができる。わたしは旅の行き帰りに見るのだが、紀伊国の人は本当に羨ましいなあ。
真土山を越えると大和から紀伊國に入ります。その境の山を見ると旅情が高まるのでしょう。

56 川岸に咲き乱れるつらつら椿、巨勢の春の野はつらつら見ても見飽きないことだろうなあ、巨勢の春野は、きっと。
まだ、春は遠いけれど椿咲き乱れる春野を偲びながら、一行は紀伊国の行幸の安からんことを祈ったのでしょう。土地を誉めることがその地の神々に祈ることでもあったそうです。以前紹介した「紀伊国十三首」の重く切ない歌と比べると、九月の歌はかなり軽く感じますね。文武天皇を伴った行幸は特別だったことが分かります。


そして、最後の行幸が大宝二年
持統天皇の最後の行幸・美濃・三河・伊勢・伊賀

大宝二年、東国へ持統太上天皇は行幸しました。
大宝二年は女帝の崩御の年です。崩御のひと月前まで女帝は行幸の輿の上に在ったのです。行幸とは「幸を行う」ことでした。行く先々で、人々を労い褒美を与えることなのです。持統天皇も先々で褒美を与えて回りました。
その最晩年の行幸時の歌が万葉集に残されています。


大宝元年辛丑冬十月の紀伊国行幸では、紀伊国の郡司をねぎらいながら一重に有間皇子の霊魂を慰め鎮めました。もう思い残すことはないだろうと周囲は思ったでしょう。
しかし、持統天皇は旅に出ました。それも、特別のお気に入りを連れての行幸です。

今度の旅の目的は何でしょうか。

冬十月十日、太上天皇参河国に行幸 *今年の田租を出さなくて良しとする

十一月十三日、行幸は尾張国に到る *尾治連若子麻呂・牛麻呂に姓宿禰を賜う                                       *国守従五位下多治比真人水守に封一十戸

同月十七日、行幸は美濃国に到る *不破郡の大領宮勝木実に外従五位下を授ける *             
 *国守従五位上石河朝臣子老に封一十戸 

同月二十二日、行幸は伊勢国に到る *守従五位上佐伯宿禰石湯に封一十戸を賜う

同月二十四日、行幸は伊賀国に至る 

同月二十五日、車駕(行幸の一行)参河より至る(帰ってきた)

東国行幸では、尾張・美濃・伊勢・伊賀と廻り、郡司と百姓のそれぞれに位を叙し、禄を賜ったのでした。それが目的だったのでしょうか。大宝律令により太上天皇として叙位も賜封もできるようになっていました。太上天皇は新しい大宝令を十分につかったのです。

この行幸は、壬申の乱の功労者を労うことが目的だったと言われています。確かに天武軍は東国で兵を集め整えました。

行幸の目的については気になることがありますが、行幸で詠まれた歌を見ましょう。
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この行幸時の女帝のようすにただならぬ気配はなかったのでしょうか。十月から十一月まで五か国をめぐる旅が続きました。お疲れだったと思いますが。

歌に出てくる地名です。
引馬野(ひくまの)愛知県宝飯郡御津町御馬の地・音羽川河口付近に引馬神社がある。他に豊川市や静岡県浜松市の曳馬町付近とする説もある。
阿礼の崎(あれのさき)所在地未詳
隠(なばり)三重県名張市のあたり。
円方(まとかた)三重県松阪市の東部。東黒部町一帯後。「逸文風土器」に『地形が的に似る』とある。


持統天皇の行幸は「倭姫命世記」の倭姫の歩いた道と重なります。それは何故か、気になっていました。
それは、また明日。




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# by tizudesiru | 2017-11-21 00:10 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback

倭姫皇后の運命を握った神とは有力氏族

いつまでもお慕いいたします

人はよしおもひやむとも玉蘰 影に見えつつ忘らへぬかも
天智天皇の崩御後にヤマトヒメ皇后は詠みました。
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149 人はよしたとえ大王を忘れてしまうことがあっても、わたしには大王の御姿がいつもいつも影のように見えていて忘れることはできない。

153 いさなとりをする海のように広い淡海の海、この海のはるか沖から漕いで来る船よ、岸辺近くを漕ぎ来る船よ、沖の船、櫂をひどく撥ねさせないでおくれ。岸辺の船の櫂もひどく撥ねさせないでおくれ。あの方の霊魂は鳥となってもまだ若い鳥だから、櫂がひどく撥ねると驚いて飛び立ってしまうでしょう。(だから強くひどく撥ねさせないで)
切々と皇后は訴えました。皇后の挽歌だけでなく、身近な女性たちの歌も紹介しましょう。中に、舎人の歌がありますから、葬儀の場では男性の歌も多く献じられたのでしょうね。

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婦人(姓氏は未詳)、額田王、石川夫人、舎人吉年の歌が残されています。冬の淡海はきっと暗く沈んでいたことでしょうね。
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この後、倭姫皇后の消息は分からなくなります。どうなったのでしょうね。大友皇子の即位まで、玉璽は預からなければならなかったでしょうし、泣いてばかりでは務まりません。

こんな大役を果たす皇后はどのように選ばれたのでしょう。

人麻呂の「日並皇子尊の挽歌」の中にヒントがあります。
「天地のはじめの時の ひさかたの天の河原に 八百万千万の神の 神集い集いいまして 神はかり はかりし時に 天照日女之命 天をば知らしめせと…」
人麻呂の長歌は、上記のように始まります。ここに、支配者を選ぶ儀式のことが書かれています。

神集い 集いいまして(たくさんの神が寄り集まって)
神はかり はかりし(神々が相談を重ねて)


この詞は祝詞(のりと)でもおなじみですよね。上代は神々が集まって相談して支配者を決めていたのです。それは、舒明天皇が即位する時も大臣たちが集まって決めていました。人麻呂は「神」と詠みましたが、それは現実の人間達だったのです。
支配者を決める風習を変えたのは、乙巳の変だったのでしょうね。合議制ではなく、大宮殿を作り役所を整え、律令によって政治を行うことを目指した時に、氏族の主張が優先した合議制は合理的ではなかったのでしょうね。


それで、皇后撰びに戻りますが、上代の大王が選ばれたように皇后も有力者が話し合って選んだと思います。ただ、選ばれる女子の氏は限られていたと云うことです。
古代豪族の中で大后を出した氏は限られていたと思います。

倭姫皇后が古人皇子の娘なら舒明天皇の孫ですから、選ばれるべき立場だったのでしょうね。

(ここで、わたしは妄想します。持統天皇が年に数回も吉野に行幸した理由は何だろうかと。吉野に出かける理由の一つに、誰かに会いに行くのだとしたら、それは誰だろうかと。
吉野太子に所縁の人か、太子に関わった人に会いに行っていたとしたら、それも心ひかれる物語になるでしょうね。)


さて、神々が寄り集まって皇后を決めたのだとしたら、その存在は特別ですし、その最後がどうなったのか、陵墓は何処にあるのか、書き残されねばなりません。
しかし、倭姫皇后については何もないのです。挽歌は残したものの、忽然と消えているのです。数百年前とされる仁徳天皇の磐姫皇后ですら、細かに記述されています。だから、大王となった天智天皇の皇后である倭姫が忽然と消えるのはおかしすぎます。

ヤマトヒメは何処へ行ったのか?
前の王朝の後宮の女性たちが次の政権の大王の後宮に入れられたのなら、倭姫も天武帝の後宮に入れられなければなりません。でも、倭姫は天武帝の後宮に入ってはいません。皇后となったのは、持統天皇です。
倭姫が消えたのは何故か?と思いませんか。
天武帝の持統皇后と天智帝の倭姫皇后の接点はないのか、非常に遠くしかし非常に近い存在、と考えませんか。わたしはここに釘付けになりました。二人の接点、それは、あるのです。

二人の皇后を結びつけるのは、倭姫です。
それはまた明日。



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# by tizudesiru | 2017-11-19 00:12 | 304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か | Trackback


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173高市皇子の妃・但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
190間人皇后の難波宮脱出
191有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍は九州に多い
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム
224樟が語る古代
225 九州の古代山城の不思議
229 残された上岩田遺跡
231神籠石築造は国家的大事業
232岩戸山古墳の歴史資料館
233似ている耳飾のはなし
234小郡官衙見学会
235 基肄城の水門石組み
236藤ノ木古墳は6世紀ですか?
237パルメットの謎
238米原長者伝説の鞠智城
239神籠石は消された?
240藤原鎌足の墓
240神籠石の水門の技術
241神籠石と横穴式古墳の共通点
242紀伊国・玉津島神社
243 柿本人麻呂と玉津島
244花の吉野の別れ歌
245雲居の桜
246熊本地震後の塚原古墳群
247岩戸山古墳と八女丘陵
248賀茂神社の古墳と浮羽の春
249再び高松塚古墳の被葬者
250静かなる高麗寺跡
251恭仁京・一瞬の夢
252瓦に込めた聖武帝の願い
253橘諸兄左大臣、黄泉の国に遊ぶ
254新薬師寺・光明子の下心
255 東大寺は興福寺と並ぶ
256平城京と平安京
257蘇我氏の本貫・寺・瓦窯・神社
258ホケノ山古墳の周辺
259王権と高市皇子の苦悩
260隅田八幡・人物画像鏡
大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる
262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か?
263天智天皇は物部系の皇統か
264古今伝授に本人麻呂と持統天皇の秘密
265消された饒速日の王権
266世界遺産になった三女神
267氏族の霊魂が飛鳥で出会う
268人麻呂の妻は火葬された
269彷徨える大国主命
270邪馬台国論争なぜ続くのか
271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成
272平群を詠んだ倭建命
273大型甕棺の時代・吉武高木遺跡
274 古代の測量の可能性・飛鳥
275飛鳥・奥山廃寺の謎
276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓
277江田船山古墳と稲荷山古墳
278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル
279小水城の不思議な版築
280聖徳太子の伝承の嘘とまこと
281終末期古墳・キトラの被葬者
282呉音で書かれた万葉集と古事記
283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址
285天香具山と所縁の三人の天皇
286遠賀川流域・桂川町の古墳
287筑後川流域の不思議神社旅・田主丸編
288あの前畑遺跡を筑紫野市は残さない
289聖徳太子の実在は証明されたのか?
290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達
291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は?
292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳
293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳
294青銅鏡は紀元前に国産が始まった!
295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時?
296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵禅寺
297鉄製品も弥生から製造していた
298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論
299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
300持統天皇を呼び続ける呼子鳥
301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む
302草壁皇子の出自を明かす御製歌
303額田王は大海人皇子をたしなめた
304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か
305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた
306倭京は何処にあったのか
307倭琴に残された万葉歌
308蘇我氏の墓がルーツを語る
309白村江敗戦後、霊魂を供養した仏像
310法隆寺は怨霊の寺なのか
311聖徳太子ゆかりの法隆寺が語る古代寺
312法隆寺に残る日出処天子の実像
313飛鳥の明日香と人麻呂の挽歌
314草壁皇子と天智天皇の関係
315飛ぶ鳥の明日香から近津飛鳥への改葬
316孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮
317桓武天皇の平安京遷都の意味をよむ
318難波宮の運命の人・間人皇后
319間人皇后の愛・君が代も吾代も知るや
701年紀伊国行幸・持統天皇が触れた砂
320孝徳・斉明・天智に仕えた男の25年

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