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223古代山城シンポジウム

223 ほんとに変わりました!

古代山城シンポ!
2017年2月18日~19日の九州国立博物館と熊本県境域委員会の合同シンポジウム、ほんとに変わりました。今まで、まともに取り挙げられて来なかった神籠石について論議されていました。それも、王権側の公的な遺構だとして。
驚き桃の木!!!でした。あれほど言及を避けて来た神籠石が、一転ヤマト王権側の山城だった!!??
驚きませんか?

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昨年も、熊本のパレアホールでこのシンポジウムはありました。発表者が若い研究者だったので非常に面白かったです。それで、今年も参加しました。今回も若い研究者の発表で内容的にもすごく面白かったですね。ただ、急に神籠石を論議に入れた経過は何も語られませんでした。
むしろ神籠石という呼び名を早く無くさねばならない、古代山城として「ひとくくり」にすべきだという言葉が飛び交いました。
神籠石・古代山城については、わたしも何度もブログに取り上げ、自著「太宰府・宝満・沖ノ島」でも自分なりの考えを紹介しています。
しかし、ヤマト王権側の遺構だということは書いていません。思ってもいないからです。
朝鮮式山城の前身として、同じ地に山城が造営されていた可能性は指摘しています。そこに、後にヤマト王権側が朝鮮式山城を築いたのだと。
そこは、もともと九州の権力者の山城として築造されていた可能性があると。
とりあえず、ここまで。
昨日は撮影可能でしたので、デジカメ写真を使いながら内容を少し紹介しましょう。
では、また午後に。



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# by tizudesiru | 2017-02-20 11:30 | 223古代山城シンポジウム | Comments(0)

222 「沖ノ島と大和朝廷」に行きました

222 沖ノ島と大和朝廷展驚きました
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まず、船の埴輪が展示されていました。どこかで見たと思ったら、大阪・高廻り2号墳出土(5世紀前半)の舟形埴輪にそっくり。
[この岡古墳の舟形埴輪は4世紀になっている。船のそこに大木を刳り抜いた一枚板が取り付けてあるようだ。外洋に出れば、波のうねりで鉄釘を打った程度の船底ではバラバラになってしまう。船の両端は立ち上がり波除になっている。この船より、5世紀末の宮崎・西都原古墳170号出土の舟形埴輪の方が未熟だという。?] 
外海で命を守る大事な船の技術は、伝わらないものですかね? それとも、どちらかの年代が判定ミスなのでしょうか。
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おや、これも船ですが、奈良・寺口和田1号墳(5世紀)出土の小型船。準構造船だとか。
「沖ノ島と大和朝廷展」だから海に関する「船」なのでしょうが、九州の船は展示がありませんですね。そういえば、九州の博物館に行っても船の埴輪は印象に残っていませんね。船は日常使うもので特別ではなかったのでしょうか。
すると、古墳に入った船は特別の使用目的があったということですね。
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三重・宝塚1号墳の船です。レプリカが展示されていました。明らかにこの船の役割は、大刀に守られ、蓋(きぬがさ)で権威付けられた「石見型(いわみがた)表飾品」(木製品)を運ぶことのようです。石見形木製品と云われる表飾は、古墳に建てられるものです。九州では木製品もありますが、熊本などで大型の石人石馬のような石製装飾品として、蓋や靭や太刀などがあります。その中に岩見形表飾があるのです。
どれも墓制に関わるものでしょうか。それを船で運ぶなら、目的は限られますね。先祖の霊魂を運ぶための道具です。船に乗せて別の土地に祖霊を運んだのでしょう。祖先霊の依代としての木製品です。わたしには、それ以外に考えられません。
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船の次は人物埴輪でした。奈良・岩見遺跡からの出土です。豪族と紹介されていますが、この人物が腰かけている椅子は、直弧文が描かれています。石人山古墳の家形石棺は、蓋の屋根部に直弧文が描かれています。
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この人物はただの豪族なのでしょうか。
この展覧会は、中に入ってすぐにスタートからこんがらかってしまいました。最初の展示がこれらでしたから。
色々考えさせられましたので、ちょっと紹介しました。
また明日







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# by tizudesiru | 2017-02-19 00:59 | Comments(0)

221 不思議と謎の寺・法隆寺

221 法隆寺は不思議だらけ

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奥の門前の右手に、若草伽藍址への出入り口があります。いつもは閉ざされていて、のぞき見すらできません。天智九年(670)に焼失した法隆寺
が、
若草伽藍(斑鳩寺)だったとされています。若草伽藍は燃えたのに、仏たちは無傷でした。先に西院伽藍に移されていたのです。まるで焼失が予測されたかのようです。では、誰が仏を遷したのか?
過去のNHKの放送では、天智天皇の時代と年輪年代測定で出たということでした。
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法隆寺の塔と金堂は東西に並んでいます。法起寺とは並びが逆で、塔が西、金堂が東です。塔と金堂を回廊が取り囲み、回廊に講堂が取り付いています。
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講堂の仏たちは、真実を知っているのに違いありません。しかし、仏にくちなし…です。

では、若草伽藍の瓦を見ましょう。写真は、森郁夫「一瓦一説」から。デジカメで撮影。
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パルメット文様です。手彫り忍冬紋軒平瓦。飛鳥寺や豊浦寺などでは、軒平瓦は使われたないそうです。百済にはパルメット文様はありません

この時点で、初めて軒平瓦が作られたとされています。それが現在の定説だそうです。わたしは、ある瓦研究者に質問してみました。
「軒平瓦は我が国で考案されたもので、百済には出土しないと書かれたものを詠みましたが、そうなのでしょうか」
その研究者は答えられました。軒平瓦は新羅にも出ると
そうなんですね。百済だけを見ては分かりませんよね。

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これは、金堂の軒丸瓦です。古代寺院では金堂が最初に建てられた
そうですから、塔の瓦より金堂の瓦の方が古いのです。おや、これはどこかで見た文様です。飛鳥寺にもありました。
若草伽藍の星組と同范の軒丸瓦は、瓦当范を使って粘土にスタンプするように作られています。あきらかに軒平瓦とは工法が違いますね。
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塔の瓦は、スタンプを交互に忍ながら作っているそうです。
同様な瓦は、斑鳩宮跡(夢殿がある辺りの東院伽藍)や、中宮寺跡(現在地から法輪寺や法起寺の近くに400mほど離れた場所)からも出土します。
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若草伽藍と飛鳥寺の星組と云われる文様の瓦が同范だそうです。では、同じ時期ですか?
しかし、瓦研究者はおっしゃいました。瓦当の范は長くて40年近く繰り返し使われるものだそうです。だから、「瓦当范の傷を見ながら時期を判断するのだが、時間を特定するのはなかなか難しい」と。瓦の中丸を「中坊」と言いますが、そこの「連子」(小粒の点)は、数が少ないほど古い瓦のようです。

この星組系の軒丸瓦は、福岡の上岩田遺跡でも出土していますが、一点だけの出土なので創建瓦と認めることはできないということでした。では、何故似たものが出土したのでしょう。
工房がつながっていた。同じ文化圏にあった。他にも様々なことを教えてくれますね。
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斑鳩は魅力的な土地です。
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また明日
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# by tizudesiru | 2017-02-17 15:55 | 221斑鳩寺は若草伽藍 | Comments(0)

220 斑鳩の法輪寺の瓦

220 斑鳩の法輪寺の瓦
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始めて法輪寺に行った時、塔はまだ再建されていませんでした。材料になる木材を調達していると聞きました。あれから何十年!? 見事に三重の塔は再建されていました。近くに来ても此処には寄らなかったのです。今思うと残念ですね。静かな冬の境内に美しい塔が立っていました。
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幸田露伴の娘の幸田あや氏が奈良に住んでこの塔の再建に尽力したという話は有名ですね。
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法輪寺は、法隆寺のように塔と伽藍が東西に並んでいます。
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斑鳩町三井にある法輪寺は、実に不思議な寺です。聖徳太子の息子の山背大兄王と、その子の由義王(ゆぎおう)が建立したとされるのに、太子建立七寺に含まれず、太子建立伝承寺がどんどん増える中世にも太子建立四十六院にも名前が無いのです
斑鳩四寺に入り斑鳩三塔(法隆寺・法起寺・法輪寺)があり、世間に知れ渡っている太子所縁の寺なのにです。
塔基壇の発掘に寄れば、塔心礎は地下式で掘り込み地業により版築が施されています。地下式心礎は古いタイプの塔の工法です。
その版築土から「単弁蓮華文軒丸瓦」と「重弧文軒平瓦」が出土しています。
山田寺のように蓮華文の中に子葉は有りません。連子(中心の小さな点)は、1+8です。これは、七世紀前半の様式と言います。
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(上野瓦の写真は、森郁夫「一瓦一説」の写真をデジカメで撮りました)
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再建瓦にはどのデザインが使われたのでしょうね。
法輪寺は山背大兄王の邸宅だったとか、その広い敷地の一部が寺になっているのです。門の前の低い山に山背大兄王の墓があるという伝承もあります。しかし、そこには埴輪の欠片が出土するとかで、六世紀くらいの円墳らしく山背大兄王の時代と合致しないということでした。
非業の最後を遂げた王の一家が邸宅の前の山に葬られるのは納得です。遠くよりは、まず近くに埋葬し、時を経て改葬することはあるとは思います。暗殺された崇峻天皇もその日のうちに埋葬されています。
近くの古墓を利用した? のかも知れませんよね。それは、余りに失礼でしょうか。
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法輪寺は黙して語りませんが、この小さな丘を見守り続けてきたのでしょうか。伝承という深い悲しみを持って。
また明日
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# by tizudesiru | 2017-02-17 01:03 | 220斑鳩の法輪寺の瓦 | Comments(0)

219 法起寺式の伽藍

219法起寺式伽藍は塔が東
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法起寺に行きました。日本で一番古いという三重塔があります。斑鳩のパンフレットにもそう書かれています。法隆寺から近いので自転車で行きました。
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なかなか美しいロケーションです。

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塔は古を留めていますが、金堂は今は有りません。金堂の跡が石で囲まれたところです。
わたしは今まで法起寺を「ほっきじ」と呼んでいましたが、最近世界遺産に登録される時、「ほっきじ」から「ほうきじ」へと読みを変えたそうです。法隆寺の法にあわせて「ほう」と読むことにしたのだそうです。ほう、そうなんか…です。
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美しい三重の塔です。法隆寺の五重塔の一層目・三層目・五層目と、この塔の三層はほぼ同じだとか。やはり、法隆寺と深い関係にあるのでしょうね。
この寺は、斑鳩町岡本にあるので、岡本寺と呼ばれたり、池尻寺と呼ばれたりしました。
上宮王家ゆかりの寺で山背大兄王が亡くなったので、完成まで工事がはかどらず長期に渡りました。
「法起寺塔露盤銘文」(永保元年・1081年に書き写されたものが「聖徳太子私記」に転写されているのですが、露盤そのものが失われ、銘文そのものも疑われている状況です)
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上の瓦の写真は「一瓦一説」(森郁夫著)からデジカメで写したものです。
軒瓦もきわめて少なく、「重弧文軒平瓦」が見つかっていますが、これは斑鳩ではごく限られた使われ方をしているとのことです。この瓦、山田寺式の重弧文の平瓦から考えると、法起寺は七世紀半ばから七世紀後半の寺院だと考えられるそうです。
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また明日
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# by tizudesiru | 2017-02-16 00:39 | 219法起寺式伽藍 | Comments(0)

218 熊本の古代寺院・浄水寺

218 浄水寺は法隆寺式の伽藍

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ここには、石碑があります。
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建立の由来やそれにかかわる人名などが書かれています。
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何とか保存して欲しいものですが、ここはレプリカにして本物は特別な覆いをするとか…
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寺の敷地内には礎石が残されていました。

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東に金堂。西に塔ですから法隆寺式の伽藍ですね。これが逆になると、東に塔、西に金堂となると法起寺式の伽藍となります。熊本や福岡の人の古代寺院の伽藍は、東西に塔と金堂が並ぶようですね。
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寺院があれば、それを建立した豪族がいてその祖先の墓があり、権力を手にするための役所が近くに有り、それに伴う施設があるということです。また、その経済を支える財力の本は何かも、同時に考えることが大切ですよね。
さて、ここの豪族を支えた経済力は、何処でどのように育ち出来上がったのでしょうね。
また明日







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# by tizudesiru | 2017-02-14 12:46 | 218熊本の古代寺院・浄水寺 | Comments(0)

217九州の伽藍は法起寺式

217 陣内廃寺の瓦(熊本・城南町)
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陣内廃寺は法起寺式の伽藍を持つ古代寺院です。古代では寺を建てる時は、鍛冶工房、瓦工房、仏師、建築技師など寺の近くにそれぞれが工房を構えていました。注文して瓦や釘を購入するのではなかったのです。必要な材料をその場で調達しながら寺を造っていたのです。
だから、陣内廃寺の近くにも瓦窯跡があります。
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ここで焼かれた瓦でしょうか。
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瓦をよく見ると時期的な違いがありますね。すると、どのくらいの時間で瓦は葺き替えられたのでしょうね。
博物館は写真OKでした。城南町の塚原古墳群の資料館です。






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# by tizudesiru | 2017-02-13 22:11 | 217熊本・陣内廃寺の瓦 | Comments(0)

216上岩田遺跡とその時代展

上岩田遺跡は飛鳥時代の

「評衙」の址!

評衙に寺が付属する!初期の寺は金堂から建てられた。

七堂伽藍は、後の時代である。仏教が伝来したころは当然でしょう。
まず、金堂が建てられたのは納得。
しかも、上岩田評衙の場合は、役所に寺が付随する。
役所に金堂の基壇がある! 公的に仏教を取り入れていた!

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小田富士夫氏の講演、すごくよかったです!!
上岩田遺跡の寺の基壇は、筑紫大地震せひび割れた後が残っています。678年の天武地震で評衙の建物が壊れたので、役所が移動した。
先生のお話は、郡評論争から始まって、遺跡の破壊と保存の問題、上岩田遺跡の意味と意義について等々、二時間たっぷり。八十三歳とは思えないほど、明確に資料を示して話されました。

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大事なことがたくさんありました。評の成立年代と風土記と木簡の「評」の表記を紹介されて分かりやすかったです。
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山田寺式の瓦です。山田寺の再建時より、上岩田遺跡の瓦使用の方が早いとのこと。山田寺に先んじて、九州に瓦を供給した!のではないかということでした。なんと!!
瓦当は四十年ほど使いまわしするので、その木型の痛み具合で使用時期を判断するので、時期を特定するには問題が多いそうです。
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瓦を見ると、文化の伝播が分かります。どの文化圏とつながっていたかが分かります。
面白かったです。

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また明日

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# by tizudesiru | 2017-02-13 01:06 | 216小郡市埋蔵文化財センター | Comments(0)

215中大兄の三山歌を読み解く

中大兄(天智天皇)の三山歌
有名な、いわゆる「ヤマト三山歌」と呼ばれる歌が、巻一の13番歌にあります。
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(川原宮跡より橘寺を望む・斉明天皇の宮跡であり、殯宮の後でもある)
天智天皇は九州で崩じた斉明天皇を飛鳥に連れ帰り、ここ川原宮を殯宮の地としました。
斉明天皇が崩御しても尚、中大兄は即位していません。二十年以上も皇太子のままでした。
長い皇太子時代のどこかで詠んだ「(ヤマト)三山歌」は、明日香の三山を有名にしましたね。
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この歌の題詞に中大兄とあり、中大兄皇子とは書かれていません。それに。皇太子の歌なのに「御歌」とも書かれていません。なぜなのか、大方が疑問を投げかけているのです。
「中大兄」という単なる家族内の地位を示しているのでしょうか。もう一つ上の大兄がいる(古人大兄皇子、中大兄の異母兄)という意味ですね。

さて、万葉・巻一では三山を、高山(かぐやま)、雲根火山(うねびやま)、耳梨山(みみなしやま)と表記しています。
13 
香具山は以前から畝傍山(女性)を失うのは惜しいとおもっていて、その事で耳成山と争った。神代からこのようなものであるらしい。昔も、このように争ったのだろう。だからこそ、今の世でもこのように妻を取り合って争うものらしい。

14 
香具山と耳成山が妻争いをした時、わざわざ仲裁に来たのだろうか。伊南国原の神は。

15 
まるで海神のような豊旗雲が空を流れ、そこに入日が射して輝いている。今夜はきっと澄みきった素晴らしい月夜になるだろう。

この堂々とした歌は中大兄が本当に詠んだのか。二人の男性に争われた女性は誰だろうか、などなど様々な憶測が飛び交う歌でもあります。
更に、畝傍を惜しと、これには「雲根火雄男志等」の万葉仮名が使われています。この字から畝傍を男性と読み、「二人の女性が一人の男性(嬬)をあらそった」と読む人もいます。
しかし、ホントに、三角関係の歌でしょうか。よく考えてみましょう。この歌には、政治的なにおいが漂います。
        (藤原宮の北に耳成山)
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(西に畝傍山、ゆったりとすそを広げる)
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耳成山の近くには、この時代の宮の跡や古墳がありません。耳成山をトーテムとしたのは、高市皇子でした。天武朝になって、藤原宮を造営する時、表に出て来た山です。中大兄の時代、この勢力はなりを潜めていますが、力をのばしていたのです。
畝傍山には、神武・綏靖、懿徳など、なんだか古い王たちの墓があります。事実はわかりませんが、中大兄の時代にも古い伝承の氏族の本貫だったのでしょう。
天香具山は、万葉集巻一の2番歌の「舒明天皇が国見をした山」です。将に、舒明天皇の氏族の山なのです。
甘樫丘の蘇我氏は滅んでいます。すっかり臣下の地位に成り下がっていますから、問題ないのです。

ですから、耳成山と香具山が畝傍を取り込もうと、争っているのです。まるで妻を争うかのように。しかし、伊南国原の神が心配したかも知れないが、争いは終わるだろうと、中大兄は予祝しました。
それを、寿ぐかのように豊旗雲が大空にはためくように流れているではないか。きっと、素晴らしい御代になるだろうと、次の代を寿いでいるのです。

ここで、改めてはっきりしたことは、中大兄は舒明天皇の系譜であることです。そして、耳成山の勢力と対峙していた。鍵を握るのは、磐余彦系の古い勢力だったということです。
中大兄とは何者か。ひとまず、これまで。
また明日
あ、ひとつ、付け加えておかなければなりません。人麻呂の歌では「中大兄」は畝傍山の系統と書きました。ここでは、人麻呂の歌と三山歌とを合わせて考えなければなりません。
舒明天皇は、応神天皇と継体天皇という大和への侵略者の家系とされています。そうであれば尚更最初の侵略者である神倭磐余彦の家系を取り込みたいはずですね。女系で取り込んできていますよね。だから、畝傍山は女性なのです。必要なのは、男ではありません。

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# by tizudesiru | 2017-02-11 21:20 | 215中大兄の三山歌を読む | Comments(0)

214 天智天皇が建てた寺・崇福寺

天智天皇も寺を建てていた

扶桑略記によると崇福寺は668年建立です
写真は崇福寺です。下の写真は、大津市歴史博物館の売店で買った「かわら」から撮りました。
天智天皇はこんな山の中に寺を建てたのですね。持統天皇の御代に、山寺として万葉集にも出ています。崇福寺は尾根の上に寺院があり、深い谷が間にあります。
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万葉集巻二の115は、但馬皇女の歌です。
但馬皇女は天武天皇と藤原鎌足の娘(氷上娘)との間に生れました。穂積皇子は、天武天皇と蘇我赤兄の娘(太蕤娘おおぬいらつめ)との間に生れています。どちらも、祖父は天智天皇の腹心の部下でした。
それで、二人は近づいたのでしょうか。高市皇子は 当代きっての権力者であったはずなのに、です。高市皇子はどう思ったでしょうね。どうでもよかったのかな?

但馬皇女、高市皇子の宮に在す時に、穂積皇子を思いて作らす歌一首
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秋の田の穂向きの寄れる片寄りに君に寄りなな言痛(こちた)くありとも
  穂積皇子に勅して、近江の志賀に山寺に遣わす時に、但馬皇女の作らす歌一首
115 
後れいて 恋つつあらずは追いしかむ道の隈みに標結へわが背
  
但馬皇女、高市皇子の宮にいます時に、ひそかに穂積皇子に接い、事すでにあらわれて作らす歌一首
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人言を繁み言痛(こちた)み おのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る

但馬皇女は、高市皇子の妃となっていたのです。それなのに、穂積皇子に恋してしまった。皇女の恋歌は、高校でも学習するし、よく知られていますよね。
さて、滋賀の瓦ですが、天智天皇の崇福寺より古い寺があるんですが、実はその穴太廃寺を訪ねて行ったのですが、大雪だったしとうとうたどり着けませんでした。それで、大津市歴史博物館で本を買ったのです。では、穴太廃寺の瓦を見てみましょう。

7世紀前半の寺を近江京に合わせて造り変えた」? なんじゃ??意味不明の説明ですね。
これはですね、もともと古寺が穴太にあったのですが、天智天皇が近江に遷都した時、その古寺を造り変えて、方向を近江京に向けた伽藍にしたというのです。私は、向きを変える前の伽藍と瓦のことが知りたかったのです。
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百済系というより新羅系の古瓦です。多くのことが分かりました。もともとの伽藍は、東に塔、西に金堂でした。創建寺院を取り壊して、再建寺院を造らねければならなかった理由って何でしょう。東西に塔と金堂が並ぶ古代寺院の伽藍は、まるで九州ですよね。

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# by tizudesiru | 2017-02-11 00:06 | 214天智天皇が建てた寺 | Comments(0)

213柿本朝臣人麻呂、近江京を詠む

柿本朝臣人麻呂、近江京を詠む
人麻呂は持統天皇にすべてを捧げて尽くした官人でした。公の儀式の場で歌を詠み、皇族の葬儀でも挽歌を詠んでいます。
人麻呂が近江京を感傷する歌を詠んだのは、持統天皇の御代でした。
持統天皇はこの歌をどんな思いで、どんな顔をして聞いたのでしょう。微笑んだのか、涙を流したのか、知りたいものです。

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人麻呂が荒れた近江京を感傷する歌を詠んだのは、持統天皇の御代です。万葉集巻一「藤原宮御宇天皇代」の冒頭は、持統天皇の御製歌です。
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春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣乾したり 天の香来山
この歌に続くのが、29番の 「近江の荒都を過ぎる時、柿本朝臣人麻呂の作る歌」です。
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持統天皇が大津の宮を偲んだという、そこに込められた思いは何でしょうね。
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(大津の錦織遺跡の掘立柱跡)

人麻呂の歌から、中大兄が何者であったかが、読み取れます。では、
玉だすき畝傍の山の橿原の→神霊漂う畝傍山の聖なる橿原におられた
日知の御代ゆ→日を知る(暦を知る・聖ヒジリでもある)王の御代からずっと
あれましし神のことごと→お生まれになった神々(日知王)の悉くが
樛の木のいや継ぎ継ぎに→つがの木のように次々に続けて
天下知らしめししを→
大和で天の下をお治めになったのに
?????????そうです。
すると、天智天皇の皇統は
、いわゆる神武天皇に始まり、大和を治めて来たということです。

始まりは、天照大神だとは言っていません。
伊勢を目指した天武天皇とは祖先の扱いが違うのです。
どいうこと??
天智天皇は、カムヤマト磐余ビコの皇統だと、確認しておきましょうね。

これは、重要な歌ですね。人麻呂は、皇統の出自を歌っているのです。
そらみつ大和をおきて→それなのに、神武以来の大和を捨てて
あおによし平山(ならやま)を越え→
青土を平らに「ならす」と同じ「なら山」を越えて
いかさまに思ほしめせか→
いったい何と思われたのであろうか
天離ひなにはあれど石走る淡海国の楽浪の大津宮に天下知らしめしけむ→
都から遠い田舎の、水が滔々と流れる淡海国の楽浪郡の大津の宮で天の下をお治めになったという
天皇の神の御言の大宮はここと聞けども→
その天皇の神命の大宮はここだと聞くけれど
大殿はここと云えども春草の茂く生いたる→
大殿はここだというが、そこには春草が繁茂する
霞立つ春日の霧れる→
そこは、白く春霞がかかったように涙に曇ってよく見えない
百磯城の大宮処見れば悲しも→あの素晴らしかった大宮の址を見ると、万感の思いが寄せて来て悲しい
この後に「反歌」が二首続きます。人麻呂は、反歌と短歌を使い分けています。長歌の後に、長歌と同じ内容を繰り返し歌うときは、反歌です。内容が重複しないときは、短歌となります。
ここは、反歌ですから「大津宮とすぎにし大宮人を偲ぶ歌」として反復していることになります。
更に、題詞が「近江の荒都を過ぎる時」と地名が先に書かれ、人麻呂の名は後に有ります。
このように歌人が後にくる場合は、公の場での詠歌だそうです。
ですから、この歌は公の場で献じられたのです。もちろん、持統天皇に。
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持統天皇はこの歌をどんな思いで、どんな顔をして聞いたのでしょう。微笑んだのか、涙を流したのか、知りたいものです。
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また明日

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# by tizudesiru | 2017-02-09 11:05 | 213人麻呂、近江京を詠む | Comments(0)

212 中大兄の遅すぎる即位

中大兄の遅すぎる即位
その事には理由があるはずでよね。
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錦織遺跡を見たいと思って、近江神宮の近くを探しました。道端にひっそりとありました。小さな公園になっていました。ここに、天智天皇も大友皇子も額田王もいたのですね。
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(錦織遺跡・大津宮は掘立柱の宮殿だったのです。だから瓦はありません
天智天皇の大津宮は最近発掘された錦織遺跡の辺りにあったらしいです
大津宮で持統天皇は草壁皇子(662~689)を生んでいます。父の宮殿で出産したということですね。しかし、大津京に都が遷るのは、白村江敗戦後(663)の天智六年(667)です。
白村江戦の前に大津遷都を考えていたので、宮を造っていたというのでしょうか??
そもそも鵜野讃良皇女(持統天皇)は、何処にいて出産したのでしょうね。

天智称制六年(667)三月、近江大津宮に遷都
(書紀には、人々は遷都を願わず誹謗し、風刺の童謡も多く、日夜処々に失火したと書かれている)。
天智四年二月、間人大后が薨去しています。三月、天智帝は三百三十人を得度させました。
天智六年二月、間人大后と斉明天皇を小市岡上の陵に合葬しました。三月、近江遷都。

天智七年(668)三月中大兄即位。
倭姫王立后・崇福寺建立・蒲生の遊猟
天智八年(669)藤原鎌足没(大織冠と大臣の位を授ける・藤原の姓を賜う)
天智九年(670)庚午年籍作成・法隆寺炎上
天智十年(671)大友皇子太政大臣・蘇我赤兄左大臣・中臣金右大臣・冠位法度を施行
         十月大海人皇子吉野に引退・
十二月天智天皇崩御

長い称制の末の僅か四年の在位でした。
日本書紀によると、中大兄は舒明天皇の皇子で、皇極天皇の皇太子(皇子を皇太子と記述したものか?)、孝徳天皇の皇太子、斉明天皇の皇太子と、皇太子の時代が長すぎます。
何で?と思いますよね。
二十年以上も皇太子のまま即位しなかったのですから、不思議ですよね。
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天武元年(762)、無情にも壬申に乱で天智天皇の築いた大津京は廃墟となりました。

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人麻呂が近江京の跡を通ったのはいつでしょう。公の場で詠まれた歌ですから、一人荒れた皇都を懐かしんだのではありません。人麻呂が奏上した歌に耳を傾けた人は、持統天皇以外にありませんよね。
持統天皇の心の内に、近江京は深く刻み込まれていたのです。
近江県の物語が、持統天皇のために語られたかも知れません。






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# by tizudesiru | 2017-02-08 16:03 | 212中大兄の遅すぎる即位 | Comments(0)

211中大兄とは何者か

中大兄とは何者か・乙巳の変の首謀者
川原寺に行きました。斉明天皇の宮跡です。
斉明天皇が崩御された時、中大兄はここで母の葬式を済ませました。
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川原寺が川原宮跡に重なっています。奥に見えるのが川原寺です。
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川原寺の南に聖徳太子誕生の地とされる橘寺があります。
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川原寺の南門がまっすぐ橘寺に繋がっています。川原寺にもゆかりの深いお寺なのでしょうね。
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グーグル地図で見ると、この二寺の結びつきが偲ばれます。
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川原寺の瓦。複弁八葉蓮華文軒丸瓦・瓦当文様です。写真は森郁夫氏の「一瓦一説」の画像をデジカメで写しました。これは、明日香・奈良時代(7世紀後半~8世紀中)に多く見られる新羅系の瓦当文様ですね。川原寺が造営された時期をしめしているのでしょう。
福岡の観世音寺からも同范の瓦が出ているようです。
さて、今日は、「中大兄とは何者か」がテーマでしたね。
乙巳の変の首謀者となっている中大兄とは何者か、実は気になるのです。
蘇我入鹿が殺された時、中大兄の異母兄である古人大兄皇子は驚き畏れました。そして、言います。
韓人(からひと)、鞍作臣を殺した。私は心が痛い」
古人大兄皇子は、中大兄のことを韓人と表現しているのです。そして、入鹿は鞍作と)
この古人大兄の言葉がが昔から気になるのです。中大兄は何者か? 中大兄が即位して、住んだ天智帝の大津宮の枕詞は「楽浪の」でした。「ささなみの」とは読みますが、韓国の楽浪郡(魏志倭人伝にも出て来る地名)を思い出させますよね。韓人と結びつきますね。
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まだあります。中大兄は入鹿を誅殺する時、「どうして天孫がつないできた日嗣の位を鞍作なぞに代えられましょうか」と、母の皇極天皇に訴えました。日嗣の位を脅かすほど鞍作の勢力があったというのです。おまけに、国の歴史書も大臣蘇我蝦夷が持っていたという。国の歴史書は最高権力者の天子が持つものであって、国記を蘇我氏が持つなどもってのほか、のはずですよね。
まだあります。
中大兄と鎌足が宮殿を島宮の家に接して建てたのは、大義を図って入鹿を謀殺するためだったというのです。??どこにどのように宮殿を建てたというのでしょうか
甘樫の丘の周囲を地図で見ましょう。
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中央の白いポイントが発掘された石垣などのある邸宅跡です。甘樫丘の東には豪族や皇族の住居や寺が集まり、甘樫丘の主側には陵墓が集中しています。甘樫丘は、天樫丘だったのかもしれませんね。地図を見る限り、そう思います。そうなると、天樫の丘は聖なる丘だったことになりますね。蘇我氏は天孫系でなくとも、皇位継承権を持っていた……
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更に、斉明紀の冒頭には「漢皇子」のことが書かれています。他に記述はなく、この人がどうなったのか全く分かりません。しかし、斉明天皇は漢皇子を生んでいるのです
わたしは、以前、自分の本に「中大兄は漢皇子だった」と書きました。
そうかも知れないと、今も思うのですが。







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# by tizudesiru | 2017-02-07 15:59 | 211中大兄とは何者か | Comments(0)

210持統天皇の祖父は、未完成の山田寺に死す

大化改新(645)の功労者・蘇我倉山田石川麿の寺
持統天皇の祖父は、ここで自死を遂げました
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山田寺は、見事な塔と金堂が、南北に一直線に並ぶ百済の伽藍様式を取り入れた寺でした。しかし、石川麿が存命中には完成していません。造営中に兄弟の蘇我日向(そがのひなた)の讒言(ざんげん)にあい、一家共に山田寺で自死に到りました。

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(塔跡と金堂跡の基壇)
石川麿は持統天皇と元明天皇の祖父になります。持統天皇の生母・越智娘は中大兄皇子(天智帝)の夫人でしたが、父の石川麿の非業の死を知り嘆き悲しんで亡くなりました。越智娘(おちのいらつめ)は、大田皇女、鵜野讃良皇女(持統帝)、建王(8歳で没)の三人の母でした。越智娘の死後、三人の子どもたちを守り育てたのは誰だったのでしょうね。元明天皇は、石川麿の娘・姪娘(めいのいらつめ)に生れています。

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(南門から塔基壇、金堂基壇が直線に並ぶことが分かる)

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2002年に「山田寺の発掘」の報告書が奈良文化財研究所から出されています。驚いたことに回廊などそのまま倒れたようでおびただしい遺物が出ました。一部は組み立てて展示されているということです。
寺が一度に倒壊したのなら、写真のように柱も礎石も瓦も共に出土します。しかし、ほとんどの古代寺院址では、少しの礎石とわずかな瓦しか出土しません。つまり、材料は再利用されて、他へ運ばれたということです。瓦の場合はほとんど移動しています。よく似た瓦は、移動した瓦をもとに製造されたということでしょうか。

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山田寺の瓦を見てみましょう。吉備池廃寺の瓦とよく似ています。右下は山田寺の金堂の瓦です。ということは、寺院では金堂が最初に造られたということですから、これが創建瓦ですかね。
中心の小さな点(珠)が若干数が違っているようですが、蓮弁=花びらの中に更に小さな花弁が重なっています。これを子葉と言います。
ですから、単弁八葉軒丸瓦ということでしょう。平瓦を伴います。文様は弧線が重なっていますね。
この組み合わせの丸瓦と平瓦は、福岡でも出土しています。福岡県小郡市の上岩田遺跡
です。
どんな関わりがあるのでしょうね。

それにしても、山田寺を完成させたのは誰で、山田寺がそのまま放置されたわけは何でしょうね。ここに、新しい寺が建てられたなら基壇の破壊などあったでしょう。発掘では、回廊など立派な木材が残っていました。放置してそのまま朽ちさせるのはもったいない気がしますが。「続日本紀」で山田寺は封戸を施されていますから、持統天皇や元明天皇が健在な間は大事にされたということでしょうか。

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この広い敷地のどこかに倉山田石川麿の血が流されたことでしょう。
蘇我日向は石川麿を追い詰めて罪人として誅殺するつもりでしたが、山田寺まで駆けつけると兄が先に自死を遂げていたので腹をたて、屍を斬り刻んだのでした。
石川麿の無実は、やがて明らかになりました。
日向は中大兄のために事を起こしたのですが、大宰府に左遷されました。人々は「しのび流し」と噂したのです。
石川麿は無念だったでしょうね。その霊魂は鎮めなければなりません。
寺を再建し荘厳したのは、石川麿の祟りを畏れた人か、石川麿の所縁の人だったのではないでしょうか。
では、また明日



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# by tizudesiru | 2017-02-06 15:54 | 210石川麿の山田寺 | Comments(0)

209 石舞台古墳の近くに都塚と坂田寺

蘇我馬子は、石舞台古墳(方墳)に埋葬された
ですが、石舞台古墳は封土をはがれ破壊の限りを尽くされています。乙巳の変後に、逆賊の汚名のもと、墳墓を汚されたのでしょうね。孫の入鹿は 斬り殺され、息子の蝦夷は館に火を放って自殺したそうですから。馬子も何らかの制裁を受けたでしょう。
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石室の中には、凝灰岩の欠片が残されていたので、馬子が眠ったであろう家形石棺が、古墳の敷地内に復元されていました。すると、蘇我氏は家形石棺に眠ったということですね。
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そういえば、石舞台のすぐ近くにある都塚古墳も、方墳で家形石棺でしたね。
都塚古墳にも行ってみました。

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ここには、二上山産の凝灰岩で造った刳り抜き式家形石棺と書かれています。蘇我稲目(そがのいなめ)の墓という説もあるとか。それにしても、家形石棺のルーツは九州だと八代の博物館は主張しています。奈良県の博物館は、「九州は石屋形で、畿内とは墓制が違う」と主張しています。石屋形は確かに、磐井の乱後に熊本から福岡に広がりました。しかし、熊本には家形石棺、舟形石棺、長持型石棺、石屋形とあらゆるものが揃っています。馬門石が九州から畿内に運ばれたことを考えると、やはり九州からの発信ですかね。
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石舞台の近くに都塚古墳と坂田寺跡があります。寂しいことに案内板があるだけです。でもね、都塚のすぐ近くです。どう考えても蘇我氏の寺でしょうね。
では、瓦を見てみましょう。
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ここには平瓦がありますね。飛鳥寺の創建瓦には平瓦は有りません。百済の寺院にも平瓦はないそうです。つまり、平瓦は日本で工夫考案された瓦なのです。古代瓦を見る時、平瓦が伴うかどうか、大事なんですね。すると、馬子の寺と云われる飛鳥寺に平瓦が無いのですから、ここは飛鳥寺より新しい寺ということになりますね。
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では、また明日。





蘇我氏が眠る家形石棺

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# by tizudesiru | 2017-02-05 22:27 | 209石舞台・都塚・坂田寺 | Comments(0)

208飛鳥寺は面白いけど…真実は何?

208 飛鳥寺は面白い
明日香寺は、蘇我氏の氏寺だったが、官寺の役目を果たした。なぜ?
公私混同でしょう? いや、そうではなくて蘇我氏こそが公だった!?

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飛鳥寺は、冬の日差しの中で、ほんのり古代が漂っていました。

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写真撮影もOKでした。ここは、何度も訪れている寺院でしたが、やっぱりいいですね。
西門の外に蘇我入鹿の首塚があり、645年の大事件が偲ばれました。
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昔、ずいぶん前に来たときは、首塚は道端にあり、云われなければ見逃すほどでした。その後、整備されてきれいな石敷きができた時、歴史がぼやけたように思いましたが、こうして更に年月が過ぎると、入鹿の無念でしょうか、そこはかとなく寂しさが漂っていました。
ここは、飛鳥寺の西の広場(公の広場)、外地の客人をもてなす場、辺地の民の服属儀礼をおこなった場所だったそうです。そこは神聖な神に見守られた場所です。そして、仏も見守る場となっていたのでしょう。
中大兄皇子と藤原鎌足が知り合ったのも此処、法興寺(飛鳥寺)の槻木の下です。
そこに入鹿の首が捨てられた。蘇我氏が滅びたのは、その絶頂期だったのです。

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蘇我氏の寺には、どんな瓦が葺かれたのか。
蘇我氏は何処とつながっていたのか。飛鳥大仏の屋根を飾った瓦の文様を知りたいです。
今回は瓦を見るのが目的でした。飛鳥寺の瓦は、ほとんどの
博物館や資料館に置かれていますが、やはり飛鳥寺で見たかったのです。
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飛鳥寺の創建瓦の文様は、蓮弁(花びら)の数が10枚とか11枚とかです。百済瓦の蓮弁には10とか11は有りません。真似して造ったのでしょうが、10や11とは、造りにくいでしょうね。
飛鳥寺の伽藍は一塔三金堂で、金堂が三つあるのは珍しく、ここだけです。NHKは百済の王興寺の影響だと云ってました。でも、王興寺は三金堂ではないらしいですね。
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飛鳥寺の創建瓦には二種類の瓦当文様があるそうです。いわゆる星組と呼ばれる瓦と、花組と呼ばれる瓦です。どちらかというと、花組の方が古いそうです。
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創建瓦は、どちらも「素弁蓮華文軒丸瓦」と同じ名称ですね。
だけど、蓮弁の先が違います。花弁の端に丸い珠が置かれているものと、花弁の先がハート型に割れているものと、微妙にちがいますね。
飛鳥寺の瓦は、当時の職人が丁寧に試行錯誤しながら造り上げたのがよくわかります。
どの瓦もきちんと作られています。
蘇我氏の氏寺として、馬子はさぞや財力を投じたことでしょう。
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でもね。わたしは我が国に仏教が受け入れられた初めての地域は、明日香ではなくて、九州だったと思っているんです。
その話は、また明日。
ああ、万葉集も書きたいのです。人麻呂歌集の物語を、ですが…瓦も。




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# by tizudesiru | 2017-02-03 13:59 | 208飛鳥寺は面白い | Comments(0)

207 唐津で不思議な話

207 唐津の神社見学の帰りにご一緒した婦人に不思議な話を聞きました。
田島神社を見ての帰りでした。
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西九州自動車道で糸島を通過する時、その人は「糸島市の高祖神社に参拝したのは、夢の中で指示されたからだった」というのです。高祖のバス停の文字が浮かんできて、高祖と書いて「たかす」と読むことも夢で教えられたとか…へえ、それはスゴイと思いました。
「たかそ神社」とキーボードには打ち込みますが、土地の人は「たかす」と呼びます。
高祖神社に参拝することで様々な出会いがあり、家族の難病が治ったとか。自分の先祖に関わる神社や寺との交わりとか、驚くばかりでした。
最後に、鏡山(唐津)の話になって、「藤原広嗣が反乱に失敗して、五島に逃げたけれど風に押し戻されて、唐津で斬られたんですよね。鏡神社は広嗣を祀っているんです。」と私が言うと、その人は「え、広嗣を御存知ですか?」と驚かれました。
「私は広嗣のことは何も知りませんでした。実在の人物だと知って驚いたのです。そろそろ首と体を合わせる時が来た」と夢で指示があったというのです。
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奥の水平線は唐津湾、台形の島は神集(かしわ)島、右の奥の緑が鏡山。山頂に鏡神社があります。藤原広嗣は唐津の海岸で斬られたというのですが、更に、その人は言いました。
「そろそろ首と体を合わせる時が来たという指示があったので、唐津の宏嗣を祀る神社の宮司さんに話して理解してもらい、体と首を合わせるために五島に行った」そうです。
首は五島にあるというのです。
五島に向かっている時、友人から電話があり「頭が痛くてたまらないが、どうしたらいいか」と聞かれたので、「今、五島に向かっているが、首と体が合ったら頭の痛みはとれると思うから、治ったら電話ください」と応えたそうです。
それから、五島の神社の宮司さんに祀りをしてもらって、やがて頭の痛かった友人から電話があって「治った」ということだったそうです。不思議な話でした。
広嗣と言えば、首が都に飛んで行ったとか、玄昉が広嗣の祟りで死亡したとか、怪しげな話の主役です。その首が五島にある?
その人の話は確かに不思議ですが、実際に五島にまで行って神主に神事をしてもらっているんですから、思い込みでは無いようです。
確かに、広嗣は刑死していますが、斬られたのは唐津なのに首は五島とはどういう意味でしょうね。続日本紀の広嗣の乱の記述は、なんだか変です。朝廷の命令の前に広嗣は斬られているようですし、藤原氏族内の権力争いに広嗣は巻き込まれたのかも知れませんね。
「その話、ブログに載せてもいいですか?」と聞いたら「いいですよ」と答えられたので、こうしてあらましを書きました。
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不思議な話もあるものですね。


また、明日。



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# by tizudesiru | 2017-02-01 20:59 | 206古墳散歩・唐津湾 | Comments(0)

206松浦川のほとりを歩く

206唐津で黒曜石と桜貝を拾う
唐津に行くと、必ず松浦川のほとりを歩いていました。そして、虹の松原のレストランで食事をする…松の香りが素晴らしい松原ですよ。
今は護岸工事をやってしまってるので、なかなか拾えませんが、十数年も前には、松浦川の岸辺で黒曜石の欠片をいろいろ拾えました。スクレイパーも、石鏃も落ちていました。土手が雨にあらわれて、ガラスのようにぽつぽつ地表に落ちていたのです。
海岸では紅色の蝶貝と、薄いピンクの忘れ貝を拾いましたね。今も小瓶に詰めていますが…
さて、松浦川のほとりに三世紀後半の古墳があります。最近は、四世紀初めと書き換えてありますが。確かに、四世紀初めとされる一貴山銚子塚(糸島市)より古いタイプの前方後円墳です。だから、三世紀後半でも構わないと思うのですが。
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何度も紹介していますが、久里双水古墳のど真ん中を通る主軸線が真っ直ぐ延びると、浮嶽に届き一貴山銚子塚に届き、志賀島と向き合う毘沙門山に届きます。
二〇〇七年に取った久里双水古墳の墳頂から浮嶽を取った写真です。古墳の主軸線がまっすぐ浮嶽に延びていたので驚きました。

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ここには、後漢の盤龍鏡が副葬されていました。
この古墳は、全長108m(後円部62m)の地山を削り出した上に盛り土をしています。竪穴式の石槨に舟形木棺があった可能性があるそうです。
周りには縄文時代からの遺跡や、弥生王墓と思われる遺跡があり、唐津の菜畑遺跡には早期の水田跡が発見されています。
糸島地方の一貴山銚子塚(いきさんちょうしつか)古墳には、後漢鏡と金メッキの後漢鏡と足元に三角縁神獣鏡・鉄製素環頭大刀(3)、直刀(3)、短刀(1)、剣形槍身(14)硬玉製勾玉(2)碧玉製管玉(33)が副葬されていましたから、久里双水古墳よりは新しいでしょうね。一貴山銚子塚古墳は103mの柄鏡形の前方後円墳です。一貴山は未盗掘の古墳でしたから、竪穴式石室の中にどのような副葬品がどのように置かれたかを知る手がかりとなりました。

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その浮嶽から志賀島の志賀海神社にオレンジのラインがつながっています。このラインには、一貴山銚子塚古墳と釜塚古墳が乗っています。このラインは、釜塚古墳のど真ん中を通って行きます。そして、延喜式内社の9志賀海神社に当たります。
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一貴山はラインが集まる最重要古墳ですが。
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今日は一貴山には行きませんでした。
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参拝したのは、湊疫神社です。
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神集島(かしわじま)に渡る港にある神社です。
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肥前鳥居がありました。
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次に田島神社に行きました。宗像三女神と大山祇と稚武王を祀ります。
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神社の裏には磐座があります。
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この田島神社が宗像市の田島にある宗像大社の元宮だという話も聞きました。
なかなかおもしろいですね。
神の集まる神集島も、そこにわたる港もある。
なるほどですね。



今日は、少し息抜きでした。
また明日





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# by tizudesiru | 2017-01-29 21:07 | 206古墳散歩・唐津湾 | Comments(0)

205藤原宮の御井を寿ぐ歌

205広い敷地で繰り広げられたまつりごと
藤原宮跡に行きました。朝堂院東門の柱の奥に耳成山が見えます。わずかに見える林は大極殿です。車両があるのは、整備しているのです。
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この宮殿の造営に尽力したのは高市皇子です。
天武天皇と宗像徳善の娘・尼子娘の間に生まれた第一子です。
壬申の乱(672)後、天武天皇は皇親政治を望みましたから、高市皇子は大活躍でした。
持統帝の時代には高市皇子は太政大臣にまで上り詰めています。
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遠くに西門が見えます。
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こちらは東門です。
右を向いても左を見ても、ただ広い空き地です。
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北の耳成山。そして、南に南門が見えます。
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一番広くて便利な場所に藤原宮を造ったということでしょうね。
万葉集に「藤原宮御井歌」が掲載されています。作者はわかりません。

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この歌に詠まれている「日の経(たて)」は「東」ですが、本来「日の経」は東西として使われています。「日の緯(よこ)」は南北のことですが、ここでは「西」として使われています。
藤原の宮は、東西南北守られている。東は香久山、西は畝傍、南は吉野、北は耳成山。そこに湧く真清水は永遠にあるだろうと、歌い上げているのです。







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# by tizudesiru | 2017-01-28 00:12 | 205藤原宮の御井の歌 | Comments(0)

204吉備真備の挫折と王朝の交替

204吉備真備の挫折と王朝の交替
真備の目の前で王朝交代劇がありました。真備はそれをどう見たのでしょう

波乱万丈の81年の生涯を送ったのは、吉備真備(695~776)です。

優秀な人材であり、孝謙天皇の教育係でしたが、これまでも紹介したように不遇でした。

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藤原氏によって九州に遣わされて、怡土城を築いたのは天平勝宝八年(756)で、真備は六十歳を超えていました。

天平宝字八年(764)、久しぶりに造東大寺長官として都に戻りました。

この年に、恵美押勝の乱が起こります。

孝謙上皇は真備を頼り、従三位を授け中衛大将として追討軍を指揮させました。

その後、真備は参議・中納言・大納言・右大臣と昇進したのです。

しかし、称徳天皇(孝謙上皇)崩御後、藤原氏の陰謀により白壁王が立太子されました。

真備は長屋王の血統(天武天皇系)の皇太子を立てることができませんでした。

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白壁王の妃が、聖武天皇の第一子である井上内親王でした。

伊勢斎王・酒浸り皇族の妻から皇后、廃后、幽閉の末に毒殺

井上(いがみ)井上(いのえ))内親王の生涯は、まことにお気の毒。内親王に産まれながら幼い時から権力争いの犠牲となり、寂しい思いをしなかった時はほんのわずかという、聖武天皇の第一皇女です。母は犬養(いぬかい)(ひろ)()()した

広刀自は井上内親王の他に、不破(ふわ)内親王と安積(あさか)親王を聖武天皇との間に儲けました。

広刀自に遅れて一年後に、光明子(安宿(あすかべ)媛)も阿倍内親王(孝謙天皇)を聖武天皇の第二子として出産しています。


井上内親王はわずか五歳で伊勢斎王とされました。五歳から家族と離れて潔斎しなければなりませんでした。実際に伊勢に下ったのは、十一歳になってのからでした。伊勢に赴き神祭りに奉仕するのです。

六年間も都の郊外で斎王となるための精進潔斎を続けるのは大変なことだったでしょう。

神亀四年(727)九月、井上内親王は伊勢斎王として旅立ちました。同じ年の(うるう)九月に、光明子に(もとい)王が生まれています。光明子には十年ぶりに第二子の出産でした。男子の誕生に聖武天皇も嬉しかったよう生後一月で基王を皇太子とします。

聖武天皇も幼くして斎王となった娘の寂しさなど忘れることもあったでしょう。

しかし、翌年、基王は一歳になる前に亡くなりました。

その半年後に、長屋王の謀反事件が起こりました。

(長屋王は左大臣でしたから、トップの位置にあったのです。謀反を企てる必要はなかったでしょうに。藤原氏側の陰謀ですね。)

井上内親王が都に帰って来るのは、天平十六年(744)です。

既に、737年、藤原四兄弟が揃って疫病に倒れ、

738年、妹の阿倍内親王が立太子し、

740年、藤原広嗣の乱が起こりそして終息し、

741年~742年、天皇は恭仁京、紫香楽宮、と遷移を繰り返し、

743年、大仏鋳造の詔を出し、

744年、弟の安積親王が薨去。井上内親王、伊勢斎王の任を解かれる。

弟の安積親王の死後に、ようやく斎王の任を解かれました。

28歳の井上内親王が嫁いだのが白壁王でした。

白壁王は志貴皇子(天智天皇の皇子)の子で和銅二年(709)の生まれで、皇位継承の争いに巻き込まれないように酒に親しむ生活をしていたようです。

まあ、酒好き? ですか?
まさか、アルコール中毒ではないでしょうね。

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(白壁王が光仁天皇となり、その皇子が桓武天皇です。)
白壁王の妃となったのに、皇后にまで上り詰めたのに、井上内親王は廃后され、息子の皇太子と共に幽閉され、あげく毒殺されるというのです。
余りにひどい結末ですが、藤原氏がここまでやれたのは何故でしょうね。

あ、そうでしたね。
天武朝とか、天智朝とか、言葉に「--朝」と使っていますが、これは正確な使い方ではないでしょう。天智系とか天武系と使うべきでしょうね。
だけど、桓武天皇は天智系に皇統が戻ったことを「易姓革命」として扱っています。将に、王朝が変わったのだと。
意識的には王朝が変わった! ということでしょうか。
それとも、本当に王朝が変わっていたのでしょうか?
また明日・・・


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# by tizudesiru | 2017-01-26 11:18 | 204吉備真備の挫折と王朝の交替 | Comments(0)

204淳仁天皇の甥・和気王の謀反

204政変の果てに


藤原仲麻呂のの反乱で、藤原氏の氏族内の権力争いが決着したのではありません。まだ、聖武天皇と犬養広刀自との間に生まれた三人の子どもたちが残っています。称徳天皇には後継者はいませんから、誰が次の玉座に昇るのか、都には噂ばかりではなく呪詛も充満したことでしょう。

天武系の王子達も、密かな期待を持ちました。
和気王も舎人皇子の孫であり、淳仁天皇の甥であることから皇位を望んだようです。

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天平宝字八年(764)仲麻呂の乱は鎮圧されました。
和気王は淳仁天皇の甥でしたが、臣籍降下していました。
舎人親王に崇道盡敬皇帝の尊号が追贈されると、和気王は皇籍に戻っています。

淳仁天皇としては舎人親王に「天皇」と追贈したかったのですがかなわなかったのです。天皇と皇帝では、意味が違ったということです。

祖父の舎人親王の歌は万葉集に三首残されています。
万葉集の時代には、叙景歌はほとんどないとされます。純粋に景色や風景のみを詠むことはないのです。詞の中に意味があり、出来事や神事が詠みこまれて叙事詩となっているのです。すると、舎人親王の歌も、ただの叙景詩ではありませんね。

1706 黒玉の夜霧ぞ立てる衣手の高屋の上にたなびくまでに

この歌は、「右、柿本朝臣人麻呂の歌集に所出」と書かれた歌群(1682~1709)の中にあります。1704と1705は、人麻呂が舎人皇子に献じたものです。次が、1706で舎人皇子の歌と続いています。

    
「舎人皇子に献ずる歌二首」
1704 
ふさ手折り多武の山霧繁みかも細川の瀬に波の騒げる
1705 
冬こもり春へを恋ひて植えし木の実になる時を片待つ吾ぞ
人麻呂は舎人皇子に何を伝えようとしているのでしょうね。

1704 
木の枝をためるという「たむ」と同じ多武の山の霧が深いからだろうか、細川の瀬の波が立ち激しい音を立てている。
1705 
冬の間に春になったらと期待して植えた木に、花が咲いて実がなる時をただ待ち続ける私なのだ。
多武の峯には藤原氏ゆかりの談山神社があります。多武山は藤原氏を意味しているのでしょう。藤原氏の権力への欲望はその山霧のように深く、細い山川は瀬の音高く事件が起こりそうだと騒いでいる、とでも読めそうです。

更に、まるで冬のような時に何をしてもうまくいかない、春になったらと期待して実のなる木を植えておいて、花が咲いて実になるまでただひたすら待ち続ける以外に道はない、それが生き残る道なのだから、と人麻呂が伝えていると読めませんか。

そうして、次に舎人皇子の1706の歌です。
1706 ぬばたまのように黒い夜の暗闇に霧が立ち込め、高い館の上までも包みたなびいている。こんなに夜霧が深ければ、私には何も見えないし、何もすることはできない。
舎人皇子は、自分の置かれた状況を冷静にしかも正確に把握していたのでしょう。
しかし、子の淳仁天皇も孫の和気王も的確な判断ができなかったのか、または藤原氏の方が一枚上手だったのか。
哀しい結果となりました。

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また、明日






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# by tizudesiru | 2017-01-25 00:59 | 204和気王の謀反 | Comments(0)

203藤原仲麻呂、琵琶湖畔に死す

203藤原仲麻呂の最後


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琵琶湖;風がない日は穏やかです。古代には、嵐ともなれば波が立ち小さな船では対岸に渡れなかったでしょう。藤原仲麻呂は家族と共に逃れようとして、琵琶湖を渡り切れませんでした。仲麻呂は光明皇后の甥でしたが、罪人として家族ともども湖岸に絶命しました。そのお話です。
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万葉集に残された藤原仲麻呂の歌は二首(42424487)です。既に紹介しています。


4242 天雲の(ゆき)(かへ)ゆえ(おも)(あが)


4487 いざ()(ども)天地(あめつち)やまと


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伯母の光明皇后を後ろ盾に権力の頂点に上り詰めた藤原仲麻呂は、道鏡の存在に恐怖を覚えました。

政敵をことごとく退けて来た仲麻呂でしたが、道鏡は僧侶なので手の打ちようがありません。そこで、道鏡を除くために淳仁天皇を連れ出しクーデターを起こそうとしたのでした。

しかし、密告者が相次ぎ、淳仁天皇も連れだせず、仲麻呂は追われる身となりました。

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淳仁天皇(47代)の父は、舎人親王です。
舎人親王は、天武天皇と新田部皇女(天智帝の娘)の間に生まれています。
仲麻呂の反乱は次のように展開しました。


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仲麻呂は、武智麻呂の後を継ぐべきと思っていたのでしょう。息子が没した後、その妻の婿に迎えた大炊王を天皇に押し上げたまでは、うまくいったのでしょうに。
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*上の人名に間違いがあります。「淳仁天皇が藤原恵美押勝の乱で、押勝を殺させたのは坂上苅田麻呂」です。坂上田村麻呂ではありません。


此の後の道鏡事件はあまりにも有名ですね。
和気清麿が宇佐神宮に御神託を確認に行くのです。
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では、琵琶湖の湖畔にたたずんで対岸を見ましょうか。淡海を渡ることなく滅んだ仲麻呂の家族が流した涙は、この湖に流れ込んだことでしょう。後の世に、この風景を見て、涙を流したのはどこの誰だったのでしょうね。
また、明日



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# by tizudesiru | 2017-01-23 12:14 | 203藤原仲麻呂の最後 | Comments(0)

202藤原仲麻呂暗殺計画

202藤原恵美押勝仲麻呂暗殺計画・陰謀の果てに

藤原仲麻呂は、身内からも嫌われたようです。仲麻呂暗殺計画を練ったのは、藤原北家の藤原良継でした。それが、今日のお話です。

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藤原仲麻呂の権力へ執着、そして強引なやり口への反発と不満は、有力氏族のみならず同族内にも根深くありました。

中でも、北家の人々は不満でした。藤原宇合(うまかい)北家)藤原広嗣(ひろつぐ)北家不遇藤原朝臣宿奈(すくな)麿(まろ)(よし)(つぐ)一人

良継は大伴家持とも親交がありました。

天平勝宝七年(755)防人部領使(ことりづかひの)(かみ)とし防人八首家持進上ていす。拙劣五首万葉集良継剛毅のあったしょうの進上された三首紹介


この三首は防人の歌として進上されたものです。元は八首あったのですが、拙劣な五首は万葉集に残されていません。作者は、助丁(すけのよぼろ)丈部(はせつかべ)麿上丁(かみのよぼろ)丹比部(たじひべ)国人上丁(かみつよぼろ)丸子連(まろこのむらじ)(おほ)麿(まろ)の三人です。防人は歌が詠める人達だったのです。



4328 大君(おおきみ)命畏(みことかしこ)(いそ)()海原父母

4329 八十(やそ)(くに)難波

4330 難波津に(よそ)(よそ)今日

4328 大王のご命令を畏んで承り、磯や海原を渡っていくのだ。父母を置いたまま。

4329 多くの国から来た防人は難波に集まり船出の舟飾りをする。その日の私の晴れ姿を見る人がいてくれたらいいのに。

4330 難波津にできる限りの舟飾りをして、今日いよいよ命令に従って任地に行くのだ。その私を見送る母もいないのに。

進上された歌の後ろに、家持が「追いて防人の(わかれ)ぶる(いた)一首があす。家持良継えて歌を詠み

二人は非常に親密でした。

天平宝字六年(763)、良継は藤原恵美押勝暗殺計画を練るのですが、発覚しました。


伯母の光明皇后を後ろ盾に皇后直属の官吏として運命の糸を操った藤原仲麻呂。しかし、多くの反感と恨みを買っていました。

仲麻呂に陰りが見え始めるのは、

天平宝字四年(760)光明皇后薨去の辺りからです。

母の看病に疲れた孝謙上皇も病に臥せっていました。そこに道鏡が現れ、上皇の病を見ます。

道鏡は、孝謙上皇をどれほど安心させたことでしょう。

長い間病に苦しんだと、平安な日々を過ごせる都を求め続けたと、一人は、三人そろって仏門に入っていました。

国分寺も造り、東大寺の廬舎那仏も造りましたが、それでも救われないのです。道鏡以外に女帝を救える人はいなかったのです。しかし、仲麻呂は不安になりました。道鏡に権力が移っていくと思ったのです。淳仁天皇に「道鏡への上皇の寵」を諫めさせました。

当然、上皇は激怒しました。

道鏡は、志貴親王(天智天皇の皇子)の王子ともいわれています。道鏡は僧侶ですから、後継者をもうけることはできません。上皇も同じです。

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藤原良継の仲麻呂暗殺計画は、失敗しました。

そのころ、藤原恵美押勝の反乱計画も密に進んでいました。

藤原仲麻呂は、皇族だけが登れた太政大臣と同じ「大師」にまで上り詰めましたが、孝謙天皇の寵が道鏡に集まるとそれを妬み、都督使となり兵を集めました。

孝謙上皇は吉備真備を呼び寄せ、全権を与えます。

そうして、仲麻呂は寂しい末路を辿るのですが。その話は、また後で。


橘奈良麻呂は生き延びていた?

この話は、付け加えです。

奈良麻呂の謀反発覚で、大量の処分者を出し、仲麻呂の独裁体制となりました。

道祖王も大伴古麻呂の杖下に絶命しました。

しかし、奈良麻呂は逮捕されましたが、死亡の記述は「続日本紀」にはないのです。歴史的には、他のものと同じく死没したと扱われています。

しかし、私は佐賀県橘町で不思議な説明板を見ました。

おつぼ山(こう)()(いし)見学ったす。案内板さい。りう

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長崎街道が墓地をカーブしながら通っています。墓地の正面100メートルほどで、おつぼ山神籠石です。
次は、「仲麻呂の最後」ですね。
また、あした

(数日旅行してました。飛鳥の写真を撮りに行っていました)



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# by tizudesiru | 2017-01-22 21:10 | 202藤原仲麻呂暗殺計画 | Comments(0)

201大伴家持が見た奈良麻呂の謀反事件

201大伴家持が見た橘奈良麻呂の謀反事件

橘宿祢奈良麻呂の謀反発覚は、長屋王事件と同じくらい世間を驚かせました。四百人以上の処罰者を出し、有力者が杖下に刑死したからです。

同時に、「とうとうこの日が来た」と世間は思ったでしょう。

大伴宿祢家持は、この日を予感していました。

だから、家持は先手を打ち連座を免れたのでした。

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天平勝宝八年(756)聖武太上天皇崩御。遺詔により(ふな)()王立太子

聖武太上天皇は、娘の孝謙天皇に跡継ぎがないので皇太子として道祖王を立てるように遺詔を残していました。

(ふな)()王は新田部(にいたべ)親王の子です。新田部親王(父・天武帝、母・五百重娘)は、長屋王宅に窮問使として遣わされ、長屋王家の滅亡に関わりました。

そのことを聖武天皇は忘れていなかったのでした。

兄の塩焼(しおやき)王には不破(ふわ)内親王(父・聖武天皇、母・犬養(ひろ)()())を室とさせ、弟の道祖王を皇太子としたのです。

新田部皇子(親王)は長屋王の無実を知って窮問したかも知れません。三十年後に、長屋王事件関与に対する聖武太上天皇の配慮があったのでしょうか。新田部皇子に無実の者を裁かせたので、その見返りに手厚くしたという。兄に内親王を与え、弟を皇太子に成したのですから。五百重娘(いほえのいらつめ)は鎌足の子で不比等の妹ですから、光明子の身内から後継者を出そうとしたのかも知れません。五百重娘は不比等との間に藤原麿を儲けていますから、新田部親王は麻呂の兄になります。

しかし、その全ては藤原氏によって奪われてしまいます。

万葉集二十・に道祖王の歌があります。


4284
新しき年の初めに思うどちいむれておればうれしくもあるか

新年に心許した仲間と一緒に集まって宴していると、なんと楽しく嬉しいことだろうか。*どちとは親しい仲間のこと

公卿に仲間入りした初々しい公達の歌です。


しかし、元気な公達はむしろ邪魔だったのです。二月に橘諸兄が薨去しました。すると、聖武天皇の喪中に不謹慎なことをしたと、道祖王は廃太子されました。


翌月に立太子されたのは、
大炊(おおい)王(父・舎人皇子)です。

舎人皇子も長屋王事件の窮問使の一人でした。

天平勝宝九年(757)

(1月)橘諸兄(もろえ) *光明子の兄の諸兄の死亡

3月)(ふな)()王廃太子 *聖武天皇の遺言を無視

4月)大炊(おおい)王立太子 *大炊王は仲麻呂の娘の入り婿

5月)藤原仲麻呂紫微(しび)内相養老(ようろう)律令(りつりょう)施行 *新体制を整える

6月)橘奈良麻呂大弁、大伴家持大輔 *謀反事件の直前に人事

7月)橘奈良麻呂の謀反発覚奈良麻呂逮捕、黄文(きふみの)(おほきみ)・道祖王・大伴()麻呂(まろ)・小野東人ら拷問死。藤原豊成を大宰府員外(そち)に左降。*兄も降ろす

8月)改元(天平勝宝→天平宝字)

黄文王は、長屋王の王子です。吉備内親王に産まれた四王子は自経しましたが、他の女性(藤原不比等の娘)に生れた男女などは許されていました。天平九年(737)には、安宿(あすかべ)黄文(きふみ)円方(まとかた)王、()女王、(おし)海部(みぬべ)女王位階ていす。757年、長屋王の王子の藤原系の黄文王も、藤原系の道祖王も刑死しました。

聖武天皇の崩御後、皇位継承者を断罪し抹殺したのです。

万葉集に、大伴家持、大炊王、藤原仲麻呂の歌が残されています。

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家持は謀反事件と取りざたされそうな兆候を感じたのでしょうか。
藤原氏側にすり寄ったのでしょうか。時勢の移り変わりを見つめています。
対して、仲麻呂の驕りは何でしょうか。彼の末路が読めるようです。


六月二十三日の家持の歌は、謀反事件の一週間ほど前の詠歌です。

4483 いろいろなことが時と共に変わっていく。時勢の変化を見るごとに心が痛み、懐かしい古人が偲ばれてならない。(世の中とは、こんなものか。)


4484
 美しく咲いている花は時が来ればしおれていくものだが、山に生えているヤブランの根は地中深く根を下ろして長くかわらないのだろうなあ。(地中深く隠れるように、今の世を過ごす以外に道はない。)


4485
 季節の花はなかなか良いものだが、このように時の花を見ながら心を明るくして行こう。これから秋になるごとに。(花を眺めて心を晴らす以外にないのだ)


まるで、事件を予知して、身に降りかかる火の粉を避けたような歌です。

奈良麻呂の謀反事件が一段落した後、大炊王と仲麻呂の歌。


4486
 天地を照らす日月の極みが無いように、治世と繁栄はこの国に極みなくゆきとどいているから何も心配することはないのだ。

4487 さあ、お前たち、たわけた真似などするのじゃない。この大和の国は天地の神々が固めた国であるぞ。


前記の二首は、天平宝字元年(
757)十一月十八日に内裏で宴の席で詠まれたものでした。

家持は事件を見ていました。

44834487の五首は、家持の孤独と大炊王と仲麻呂の驕りが臭います。

身内の大伴古麻呂の最後も見ました。大伴古麻呂は、遣唐使として唐に渡っています。唐の皇帝の朝賀の席順を新羅と争い、日本の方が上席だと主張し勝利したのです。ちなみにこの遣唐使の中に阿倍仲麻呂や吉備真備などがいました。

大伴古麻呂は、大伴氏の期待の星となりました。しかし、奈良麻呂謀反に巻き込まれ死亡しました。

家持は大伴氏を守ろうと耐え忍びます。翌年(758)六月、因幡守(鳥取県)として都から離されました。八月に孝謙天皇は譲位し、大炊王が即位しました。

藤原仲麻呂は大保に任命され、淳仁天皇から恵美押勝の姓名を賜ったのでした。

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画像はNHKのテレビの画像・デジカメで撮ったもの

この後、孝謙天皇と淳仁天皇が対立します。
そして、悲しい末路が




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# by tizudesiru | 2017-01-16 20:49 | 201家持と橘奈良麻呂謀反事件 | Comments(0)

200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独

200東大寺大仏開眼会の影にスキャンダル

今度は、孝謙天皇(阿倍内親王)の話です。孝謙天皇は、聖武天皇と光明皇后の娘です。
藤原宮子が文武天皇の夫人となり、妹の光明子が聖武天皇の夫人となりましたので、阿倍内親王は藤原氏が実権を握った時に生まれたのです。
光明子の生んだ男子(基王)が1歳で死亡しましたので、阿倍内親王の他に藤原氏系の皇位継承者はいません。藤原氏としては、阿倍内親王を皇太子に立てるほかはありませんでした。

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天平十年(738)に立太子して十五年を経れば、
孝謙天皇は三十五歳を過ぎていました。母に守られていたとはいえ、女の盛りを帝王学に明け暮れた日々は、孝謙天皇にとっていかなる意味を持っていたのでしょう。

そこには、女性としての華やかな青春の思い出があったのでしょうか。

孝謙天皇のこれまでの三十五年間には、様々な事件と権力闘争が絡っていましたので、たとえ内親王でも何らかの噂は聞こえたでしょうに、聖武天皇が娘を守り続けていました。


「姫様こそ、わが日本国の極位に昇られる方でございます。ゆめ恋をなさってはなりません」

と、奸臣は囁いたでしょう。内親王からの即位は、元正天皇(氷高皇女・父は文武天皇)という例がありましたから、奸臣どもは男性が内親王に近づくことを極力妨害したはずです。元正太上天皇と聖武天皇は、皇太子の教育係に吉備真備を採用しました。真備の才能を承知していましたから


それは、藤原氏側には不満だったと思います。

光明皇后に働きかけて、藤原氏の権力回復を図りました。

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天平十六年(746)仲麻呂は式部卿になっています。しかし、橘諸兄の長子の奈良麻呂が着実に父の後を追いかけていました。

前年(745)に、都は再度「平城京」に戻っていましたし、大養(やま)()大倭(やまと)戻りました。聖武天皇の病気平癒の為でしょうか。

光明皇后は、天皇の病平癒のために新薬師寺を建立(747)しています。

天平二十年(749)五月に聖武天皇は「薬師寺」に遷御されました。

そして、七月に譲位でした。

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天平二十一年・天平勝宝元年(749)孝謙天皇即位

藤原豊成右大臣、藤原仲麻呂大納言・紫微令、藤原清河参議と、一氏族から一官職という慣例を再び藤原氏が破る状況になってきました。


更に、光明子は
「紫微中台」という皇后の勅を出せる官位を制定しました。当然、仲麻呂が実権を握るのです。

藤原豊成と仲麻呂は、南家(藤原武智麻呂)の長子と二子です。

藤原清河は、北家(藤原房前)の四子でした。

右大臣が豊成で弟が仲麻呂であれば、清河に未来はないでしょう。


天平宝勝二年(750)

吉備真備を筑前守にして九州へ飛ばします。(さらに、751年には、真備を遣唐使の入唐副使に任命する)

藤原清河(北家)を第十次遣唐使に任命します。(唐で客死する)

意に沿わない藤原乙麿(南家)を大宰帥にして飛ばします。



天平宝勝四年(751)

東大寺廬舎那仏開眼会となったのですが、誰に孝謙天皇を諫めることができたでしょうか。開眼会が行われたその夕べ、孝謙天皇は仲麻呂宅に泊まりました。

藤原氏、それも仲麻呂の思うツボにはまった…としか言いようがありません。孝謙天皇は、仲麻呂の田村第を御在所としたのです。


遣唐使も唐へ出発して行きました。この時の、皇后、清河、仲麻呂の歌が万葉集に残されています。三者の状況が詠める三首です。


春日神祭の日に藤原太后の御歌一首

4240大船に()(かじ)しじ貫きこの吾子(あご)韓国(からくに)へやる いはへ神たち


・大使藤原朝臣清河の歌一首

4241春日野にいつく()(もろ)の梅の花栄えて在り待て還り来るまで


・入唐使等の宴の日、主人卿の作る歌一首

4242 天雲のゆき還りなむものゆえに思いぞ吾する別れ悲しみ

(光明皇后)大きな船に立派な梶を取り付けた船で、藤原の血を受けた大事なこの子を韓国に遣らねばならない。春日野の藤原を守る氏神よ、旅路を神力で祝い清め守ってください。


(清河)
この藤原を守る春日野には神がおられる。そこに栄えて咲く梅の花よ、私が帰って来るまで毎年咲き続けていてくれ。必ず還って来る。


(仲麻呂)
天を流れる雲は流れ去って戻ってくることはない。それだからこそ、私はこの別れをお前との最後かも知れないと思い悲しくなっているのだ。無事に帰ってくれよ。


光明皇后は権威を見せつけ、清河は還って来たいと願い、仲麻呂は是が最後の対面だと内心考えている…三者三様の心の内を万葉集は書き留めているのです。

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また明日


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# by tizudesiru | 2017-01-14 13:55 | 200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独 | Comments(0)

199光明皇后の病・既に年月を経たり

199光明皇后の病・既に年月を経たり

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天平元年(729)、八月に藤原夫人・光明子は、皇后となりました。六月が長屋王事件でしたのに、事の運びが早すぎました。光明子が思い悩んだのは当然だったかも知れません。そのための病だったのでしょう。

天平五年(733)、皇后の病により大赦(たいしゃ)がありました。

長屋王の事件以来、皇后はうつ状態だったのかも知れません。


(みことのり)
には、『
皇后、枕席安(しむせきやす)からむこと、すでに年月(としつき)()たり』光明皇后は、長い間何年も寝込んでいたのです。枕席(ちんせき)とは枕と寝床のことす。百方(ひゃくはう)治療(いや)せども、その可なることを見ず』いろいろ手を尽くしたけれど、よくなりそうな気配がない。『この(ぼん)()を思ひて、(しん)(そん)とを忘る』この苦しみのために眠ることも食べることもできないので、『天下に大赦して、この(やまひ)()()ふべし』大赦を行い病気を治そうというのです。『常赦(じょうしゃ)(ゆる)さぬも、(みな)(ことごと)くゆるせ』 ふつうは許さない者も全て許せというのです。そして、強窃(ごうせつ)の二の外は軽重をつけてみな赦したのです。


大赦を考えたほど、光明皇后の病は深刻でした。



独り雪を見た光明皇后の孤独


巻八 1658
は、(とう)皇后(こうごう)(光明皇后)、(聖武)天皇(すめらみこと)に奉る御歌一首

吾が背子とふたり見ませば幾ばくかこの降る雪のうれしくあらまし

雪が降っております。わが背の君とふたりで一緒にこの雪を見ることができましたなら、この寂しい雪もどんなにか嬉しく思われたでしょうに。

この歌は、広嗣の乱(740)の後の詠歌ですね。

四十歳の光明皇后は独り都に残り、聖武天皇は広嗣(ひろつぐ)の乱(740)の後東国への旅の途中でした。この時、天皇は()()京におられたのでしょう。一人雪を見ていた皇后は、何を思っていたのでしょうね。

亡くした基王のこと、その為に滅ぼした長屋王家のこと、聖武天皇が心許した長屋王、その死(身内の陰謀)に目をつぶったこと…

夫が太上天皇と共に長屋王の新室(にいむろ)まで訪ねたのに、長屋王家の後継者の全てが自刃という結末。藤原氏が長屋王に手を下したことは、世間には周知のことだったでしょう。ですから、藤原四兄弟の死は、長屋王の祟りと思われたかも知れません。

甥の広嗣の乱の結末や、一人で旅をしている夫のことも…思い出すと耐えられなかったでしょう。

四月、七月、八月と、兄たち四兄弟が死没した後、大倭(やまと)大養(やま)()文字

この数年にいろいろありました

天平十年(738)阿倍内親王の立太子、(たちばなの)諸兄(もろえ)右大臣

長屋王事件から十年経っていました。

この年になっても、長屋王事件は人々の記憶から消えていませんでした。大伴子(おおとものこ)(むし)長屋王でいる」密告中臣(なかとみの)東人(あずまひと)た。年経ていず、長屋王に恩を受けていた子虫には恨みが残っていました。

続日本紀に子虫の事件が書き残されたということは、事件に世間の風潮が反映しているということでしょう。

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木津川が大きく蛇行し北上する地に恭仁京が造営されました。

天平十二年(740)広嗣の乱

四兄弟没後、聖武天皇が頼りにしているのは、橘諸兄(もろえ)葛城(かつらぎ)王でした。諸兄を退けようと広嗣は立ち上がったのです。皇后の甥だという甘えがあったのかも知れません。

しかし、皇后にも分かっていました。藤原氏が築いた権力構造に、橘氏が入り込む隙を作ってはならなかったのだと。諸兄(もろえ)ら、皇后った

そして、この後もことが起こりました

天平十五年(744)

光明皇后が夫に尽くそうと思っても、当の聖武天皇は都から遠ざかっていきます。()()難波京官人民意安積(あさか)皇子薨去た。突然た。

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光明皇后の娘の阿倍内親王が立太子していたとはいえ、藤原氏側には安積皇子(744没)は大きな存在だったのでしょう。光明皇后は、経論を書写させました。こんな時こそ、経論を唐より持ちかえった玄昉に頼りたくなったでしょうね。しかし、広嗣の乱を見て来た藤原氏は、玄昉を大宰府に左遷(745)しました。光明皇后に安易に近づいてもらっては困るのでしょう。玄昉は、翌年没(746)しています。
尋常な死ではなかったでしょう。
光明子の心を癒すことができた人はいなかったのでしょうね。
光明子は強い人でしたから耐えられましたが…大変気の毒な人だと思います。

また明日




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# by tizudesiru | 2017-01-14 00:51 | 199光明皇后の深い憂鬱 | Comments(0)

198光明皇后の不幸と不運

198光明皇后の不運と不幸

当時の女性たちの中で最高の権力と財力を手にしたのは、光明皇后でした。

しかし、不運で不幸な女性でもありました。もちろん、聖武天皇の皇后になったからです。

権力が光明子を不幸にしたのです。

光明子は生まれた時から聖武天皇((おびと)皇子)の妃となるべく育てられました。母譲りの気丈な女性だったようで、聖武天皇に尽くすことが藤原の娘としての自分の使命だと確信していたようです。

しかし、(もとい)王(728没)の他に男子をもうけることはできず、女子の阿倍(あへの)内親王(ひめみこ)を皇太子にする(738年)ほかは有りませんでした。母として、それでよかったのでしょうか。阿倍内親王が立太子されたのは二十一歳の女盛りです。過酷な判断だったのではないでしょうか。

この時、光明子は三十八歳、基王を生んだ時の光明子は二十七歳でしたが。十年間子供に恵まれなかったのです。

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長屋王の事件以来、光明皇后はふさぎ気味だったでしょう。
あの日、

天平元年(729)、長屋王の事件は世間を揺るがせました。

世間では長屋王への同情が広がりました。「長屋王は無罪だったのに」と。

噂を鎮めるための勅には「長屋王は悪人だったから除かれ滅ぼされたのだ。衆は三人以上集まって話をしてはならない」と書かれました。

異端を学んだ者、勅禁を破る者、呪詛をする者は罰する」という勅も出ました。(呪詛は大流行していたのです。)

天平二年(730)、光明皇后は興福寺の五重塔を建てたりしましたが、男子を授かることはありませんでした。それは、長屋王の怨霊でしょうか。世間は様々に取りざたしたでしょう。

長屋王の館は官に没収され、光明皇后のものとなりました。これを世間はどう思ったでしょう。皇后は平城宮に隣接する長屋王の住居跡が欲しかったのではないか… そこに、皇后となった藤原夫人は、「皇后宮職」を新設していました。

そこに、疫病の流行でした。


天平九年(737)、大宰府に疱瘡が流行し、たちまち都に伝染しました。そのため、藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麿)が揃って疫病で没しました。まるで天罰。世間はそう思ったでしょう。

この年、遣唐使の玄昉が持ち帰っていた経論を皇后宮職で写経させました。皇后が仏教にすがったのは無理からぬことでした。そして、

天平十年(738)、阿倍内親王の立太子。四兄弟が没した以上、どうしても政権の安定を図らねばなりませんでした。

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天平十二年(740)

そんな時に、藤原広嗣の乱は起こりました。広嗣は大宰府に左遷されたと、不満を感じていました。それを上表文にしたためました。そして、

弟と九州の兵を使って都に攻め上がろうとしますが、失敗しました。

天皇を誹謗することは、それだけで大罪でした。極刑となります。

広嗣は上表文を出した時点で大罪を犯していました。

彼は都からの「光明皇后と玄昉のよからぬ噂」に、怒り心頭だったようです。

しかし、噂です。噂で兵をあげるなど、考えられない事でした。このように、実際に兵を動かした大罪は、この時代には藤原氏だけがおかしました。(他の謀反事件は密告などで露見し、兵など動かしてはいません)

藤原四兄弟の没後に「広嗣の乱」。怨霊の仕業でしょうか。

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大仏鋳造の発願の詔が出されたのは、光明皇后が一番苦しい時でした。光明皇后は仲麻呂を優遇します。(が、光明皇后没後、4年で仲麻呂も乱を起こし斬られました。この時代、二度も藤原氏は乱を起こしました。)
更に、犬養三千代の子であり、兄であった橘諸兄が没すると、甥の橘奈良麻呂は謀反で断罪されました。光明子は、長屋王事件・橘奈良麻呂事件・藤原広嗣の乱と、苦しめられました。

光明子の不運と不幸の遠因は、「皇后」だったからです。

聖武天皇の皇后だったからです。

聖武天皇の崩御後に天皇遺愛の品を正倉院に納めたのは、光明皇后です。

その宝物は寺によって守られ今日まで伝わりました。

「正倉院展」は、毎年大盛況です。宝物の豊富さと豪華さ技術の高さなどに毎回驚かされました。そして、この天皇だけ、何故このように遺愛の品が残されたのかと不思議に思います。他の天皇の私物はほとんど残されなかったのに。


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考えてみると、遺愛の品は「開かずの倉庫」に納められました。

皇后としての苦痛の年月を思い出す品々を、光明皇后は見たくなかった、見るのが辛かった、二度と目に触れないものとしたかったと、思うのです。

それは、封印。それは、聖武天皇への決別だったのかも知れません。

そして、権力によって大事なものを失ったことの後悔でしょうか。

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また明日




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# by tizudesiru | 2017-01-12 22:18 | 198光明皇后の不幸と不運 | Comments(0)

197 光明子の苦悩と懺悔

197光明皇后の苦悩と懺悔        

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701年生まれの光明子は、夫の聖武天皇(首皇子)と同じ齢でした。

(おびと)皇子(聖武天皇)の乳母は光明子の母・犬養三千代です。

首皇子と光明子は、生まれた時から運命の糸に縛られていました。

県犬養橘宿祢(あがたのいぬかいのたちばなのすくね)三千代(みちよ)(県犬養命婦(みょうぶ)

東人の娘。()(のの)(おほきみ)に嫁し、葛城(かつらぎ)王(橘諸兄)()()王・牟漏(むろ)女王)を生む。

後に藤原不比等の室となり光明子(光明皇后)を生む。

養老(ようろう)元年(717)従四下より従三位、養老五年(721)正三位になるが、同年5月に元明天皇不予(ふよ)により入道。天平五年(733)の薨去。

葬儀は散一位で行われ、同じ年に贈従一位。

天平八年(736)葛城王・佐為王に橘の姓を下賜。

(おびと)親王は三千代と藤原不比等に深宮の奥で大事に育てられました。

成人した首親王と光明子は結婚させられました。

光明子が阿倍(あへ)内親王(こう)(けん)天皇)を生んだのは、十七歳か十八歳の時です

幼いまま母となりました。

皇后になるための特訓は受けていたはずですが、まだ精神的には子供だったと思います。

夫の聖武天皇には犬養広刀自という女性が仕えて、三人(安積(あさかの)皇子(みこ)・井上内親王・不破(ふは)内親王)の男女に恵まれました。安積皇子が生まれたのは、光明子が生んだ皇太子・(もとい)王(九月没)が薨去した翌月でした。

自分が産後の憂鬱にイライラしている時に犬養(いぬかいの)(ひろ)()()懐妊し、更に自分が愛息を亡くした時に広刀自が出産するという現実、後宮の女性の言の葉に上った噂はどんことだったでしょうね。

光明子の嘆きと恨みは大きかったと思います。

基王の没年(728)の年、長屋王家の殲滅計画がなされたとしても、光明子は反対しなかったでしょう。

聖武天皇はそれを知らずに、安積皇子の誕生を喜んでいたでしょうね。

藤原氏にとっても、ゆくゆくは広刀自の生んだ皇子皇女の権力への道は閉ざさねばなりませんでした。

そして、藤原氏にとって気になることは、聖武天皇のまじめさでした。

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聖武天皇は叔母の元正天皇と約束を交わしていたようで、即位の年(724)には紀伊国行幸をしました。その時、冬十月、

山部赤人(やまべのあかひと)の長歌に「やしみしし 我ご大王の常宮(とこみや)と仕え奉れる」

という詞が使われています。聖武天皇は、紀伊国の雑賀(さいか)の宮を仮宮ではなく常宮として使うつもりだったようです。紀伊国には特別の思い入れがあった、特別の所縁の地としていた、ということです。

何のための行幸か、すでに何度も述べた通り、「大宝元年辛丑冬十月の持統太上天皇の紀伊国行幸」は「有間皇子の所縁の地への鎮魂のための行幸」でしたから、聖武天皇もその行幸をなぞり亡き人を偲んだのです。

そして、紀伊国には「止まず往来」しょうと、常宮としたのでした。

持統帝の死後の柿本人麻呂の紀伊国の旅も、亡き人をしのぶ旅でした。

亡き人の所縁の地を訪ねることは、霊魂に触れるための行為でした。

聖武天皇は那珂(なか)郡と海部(あま)郡に長逗留し、名草(なぐさ)と海部の二郡の田租を許し、(わかの)(うら)明光(あか)浦と地名も変えました。

聖武天皇は誠実だったのです。気弱とか意志薄弱とか云われますが、権力におごらず心優しい人だったのでしょう。三十年以上も母の藤原宮子にも会えず、寂しかったと思います。

そんな聖武天皇が安積皇子や長屋王の王子達を皇太子としないように、藤原氏はことを急ぎました。

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神亀六年(729)

二月十日に密告があり「ひそかに()(どう)を学びて国家を傾けむとす」

その夜、兵が長屋王の宅を囲みました。

指図したのは藤原武智麻呂、長屋王宅に向かったのは式部卿の藤原宇合、その他もろもろの官人、そして長屋王の館を囲ませたのです。王家の人々に、逃げる道は何処にも有りませんでした。

*左道とは、良くない道、邪道ということで、長屋王が何か具体的にしたというのではありません。何もなかったのです。

二月十一日、取り急ぎ官の人事を仮に済ませ、

朝十時には、舎人(とねり)親王、新田部(にいたべ)親王と皇族のトップをそろえ、大納言・多治比(たじひの)真人(まひと)池守(いけもり)、中納言・藤原(ふじはらの)武智(むち)麻呂(まろ)長屋王の罪を(きゅう)(もん)しました。

長屋王には、もはや妻や子を救うことはできません。

たぶん、王は自分の身と引き換えに妻子の命乞いをしたと思います。

神亀六年(729)長屋王の謀反の密告は二月十日

二月十二日、王をして自ら()なしむ。その室二品吉備(きび)内親王、男従四位下膳夫(かしはで)王、無位桑田(くはた)王、葛木(かつらぎ)王、(かぎ)(とり)王ら同じく亦自ら(くび)る。

身分の高い皇族を手に掛けることはできませでした。自ら死なせたというのです。男子四人は立派な皇位継承者でした。

続日本紀には、長屋王についてはさんざん誹謗していますが、吉備内親王については『罪無し』と書いています。

事は起ってしまいました。聖武天皇がどんなに嘆かれたか知れません。

長屋王家の滅亡の後、光明子は皇后となれたのです。

長屋王事件は、光明子の中に何を残したでしょう。

光明子の業績を見れば、その事が分かります。

天平二年(730)、興福寺の五重塔の建立を発願し、年の暮には完成させた。

五重塔建立は長屋王事件の翌年でした。

五重塔を造らねば落ち着いておれなかったのです。

天平五年(733)、興福寺の東金堂に対面する西金堂は、橘三千代の一周忌に間に合うように造りました。

天平五年~八年には、多数の財物を法隆寺に施入しました。

天平十一年(739)、法隆寺の東院を建立

天平十九年(747)、聖武天皇のために新薬師寺を建立

中でも

天平八年(736)、僧玄昉が持ち帰った経論の書写を発願し、皇后宮職の写経所で写経させました。写経は天平勝宝元年(749)まで続きました。

この皇后宮職が置かれた場所は、何処でしょう!

他でもありません。

あの長屋王の邸宅跡でした。

あの忌まわしい事件の館跡に、光明子は「皇后宮職」という役所を置いたのでした。そこで、玄昉の持ち帰った経論を十年以上もかけて写経させたのです。なんということ、長屋王の屋敷は官に没収され光明子のために使われたのです。

懺悔のつもりの写経でしょうか。

僧玄昉は、光明子の心の闇を解きほぐしたのかも知れません。

光明子も藤原氏という権力者集団を背負って、時折、心が折れそうになったことでしょう。


また明日


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# by tizudesiru | 2017-01-11 16:41 | 197光明子の苦悩と懺悔 | Comments(0)

196玄昉の墓は沈黙する(広嗣の乱)

196玄昉の墓は沈黙する

太宰府に行きました。以前に撮った写真を消してしまったからですが、観世音寺と戒壇院に寄りました。
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正式に僧になるためには一定の条件(修行)が必要でした。戒律を受けなければなりませんでした。それを授けるために、そのために、鑑真が招かれました。ここは、西国でただ一つの戒律を受けられる場所でした。
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静かなたたずまいの中に山茶花の花が散っていました。
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戒壇院の裏に、僧玄昉の墓があります。
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右奥のブロックで囲まれた小さな敷地に、それは有ります。
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彼が何をしたというのでしょう。
藤原宮子が閉じこもり、息子の聖武帝にも会えない状態だったのに、玄昉の治療ですぐに治って、聖武帝との親子の対面となったのです。
そして、光明子も玄昉に近づいたとか…玄昉は太宰府の観世音寺に左遷されました。
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戒壇院と観世音寺は並んでいます。観世音寺の裏には、僧房跡の礎石が並んでいます。
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観世音寺も静寂に包まれていました。
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塔の心礎の石が中央に見えます。奥の鐘楼には、国宝の梵鐘が下げられています。妙心寺の鐘と兄弟と云われています。
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観世音寺は塔と金堂が東西に並んでいます。
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観世音寺を見ながら、玄昉は何を考えていたのでしょうね。

また明日




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# by tizudesiru | 2017-01-10 14:56 | 196玄昉の墓は沈黙する | Comments(0)

195聖武天皇と元正天皇の約束

195聖武天皇と元明天皇の遺言

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元明天皇
(43)は、草壁皇子の妃であった阿閇皇女です。

天智天皇の皇女で持統天皇には姪であり妹であり、更に息子の嫁でした。元正天皇は、元明天皇と草壁皇子の長女です。

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元明天皇は、実に賢い人で愛情も豊かでした。

草壁皇子との間に、三人の子どもに恵まれていました。

氷高皇女(元正天皇)、軽皇子(文武天皇)、吉備皇女(内親王)の三人です。

草壁皇子は、大津皇子が政争に巻き込まれ命を落としたことを深く嘆き、自分は即位しませんでした。

妃の阿閇皇女はその嘆きを十分に知っていたので、夫の意志を貫こうとしました。

それは、天武の直系に皇統を譲ることでした。というより、その可能性を残したというべきでしょうか。

その為に、吉備皇女を長屋王の正室としました。生まれた子どもたちの身分を二品とし、皇位継承の候補としました。


そして、
藤原氏の思惑に反して娘の元正天皇に譲位したのです。


和銅八年、霊亀元年(715)
のこの年には、大江皇女(天智帝の皇女)が生んだ長皇子が六月に没しています。

それは、重要な皇位継承者の死でした。

七月には穂積皇子が没し、万葉集では八月に志貴皇子も没しています。九月に、元正天皇の即位です。

(志貴皇子の王子が後に光仁天皇となるのです)

穂積皇子は藤原氏系の皇子で、志貴皇子は天智帝の皇子でした。志貴皇子の挽歌が万葉集に残されています。



元明天皇はなぜ聖武天皇に譲位しなかったのか

確かに、藤原氏の思惑通りに事を運びたくなかったのでしょうが、元明天皇は首親王(聖武天皇)のやさしさを知っていたのです。

何もかも持っている人は、人に分け与える以外にすることは有りません。

聖武天皇はその何もかもを人に与えると、元明天皇は危惧したと思います。

与えてはならない皇位までも。


だから、元正天皇に十分な遺言をしたのでしょう。それは、

草壁皇子の意思を忘れてはならない。

有間皇子と持統天皇をわすれてはならない。

でした。

元正天皇は聖武天皇に譲位した後、二人そろって長屋王の新室に行幸しました。また、紀伊国や難波宮に行幸したりしています。

それは何のためだったのか。すでに、お分かりですよね。

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聖武天皇は、時間をかけて、紀伊國行幸をしています。

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即位したときは、叔母や祖母の意志を守ろうと聖武天皇も努力したのです。
しかし、周囲を藤原壁と光明子壁に挟まれて、いかに苦しかったか。
想像に難くありませんね。


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# by tizudesiru | 2017-01-09 11:30 | 195聖武天皇と元正天皇の約束 | Comments(0)


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112都を守る天皇陵
113神となった斉明天皇
114天武朝の都の守り
115こんにちは万葉集
116大王は神にしませば
117太宰府・宝満・沖ノ島
118石人山古墳と王塚古墳
119基山とは何か
120九州国博「美の国・日本」
121博物館の『金印祭り』
122宮地嶽神社の筑紫舞
123寿命大塚古墳の被葬者
124宇佐神宮の呉橋を渡る
125「新・奴国展」博物館の諦め
126邪馬台国から倭国へ
127倭国を滅ぼした?国
128倭国の墓制
129?国の墓制・巨石横穴墓
130素材が語る古代Ⅰ
131素材が語る古代Ⅱ
132箸墓は卑弥呼の墓ではない
133ホケノ山古墳
134邪馬台国シンポ・久留米
135阿蘇ピンク石の井寺古墳
136古代の土器焼成
137方保田東原遺跡の庄内式土器
138武士の祭祀線・徳川と足利
139大祖神社と志登神社に初詣
140猫大明神のネコとは
141熊本大震災
142光の道は祭祀線
143大汝小彦名の神こそは
144紀伊國に有間皇子の跡を訪ねて
145和歌山と九州の古墳
146有間皇子の墓は岩内1号墳か
147糸島高校博物館
148光の道は弥生時代から
150草壁皇子を偲ぶ阿閇皇女
151有間皇子を偲ぶ歌
152有間皇子の霊魂に別れの儀式
153有間皇子の終焉の地を訪ねた太上天皇
154 有間皇子は無実だった
155持統帝の紀伊国行幸の最終歌
156人麻呂は女帝のために生きた
157持統帝の霊魂に再会した人麻呂
158草壁皇子の形見の地・阿騎野
159草壁皇子の薨去の事情
160大津皇子の流涕して作る御歌
161天武朝の女性たちの悲劇
163持統天皇の最後の願い
164持統天皇との約束・人麻呂ことあげ
144有間皇子事件の目撃者
165天武大地震(筑紫大地震)678年
166高市皇子と高松塚古墳
167持統帝の孫・文武天皇の仕事
168額田王は天智天皇を愛し続けた
169額田王の恋歌と素顔
170額田王が建立した粟原寺
171額田王の歌の紹介
172糸島の神社
173但馬皇女の恋歌
174高市皇子の死の真相
175草壁皇子の挽歌
176大化改新後の年表
177持統帝と天武帝の絆の深さ?
熊本地震・南阿蘇への道
178天武帝の霊魂は伊勢へ
179天武帝と持統帝の溝
180天智天皇と藤原鎌足
181藤原不比等とは何者か(1)
181藤原不比等とは何者か(2)
181藤原不比等とは何者か(3)
182鎮魂の歌集・初期万葉集
183元明天皇の愛と苦悩
184氷高内親王の孤独
185長屋王(高市皇子の長子)の悲劇
186 聖武天皇の不運と不幸
187難波宮を寿ぐ歌
188孝徳帝の難波宮を寿ぐ
189間人皇后の愛と悲劇
191間人皇后の難波宮脱出
192有間皇子と間人皇后の物語
192軽太郎女皇女の歌
193人麻呂編集の万葉集
194万葉集は倭国の歌
195聖武天皇と元正天皇の約束
196玄昉の墓は沈黙する
197光明子の苦悩と懺悔
198光明皇后の不幸と不運
199光明皇后の深い憂鬱
200大仏開眼会と孝謙天皇の孤独
201家持と橘奈良麻呂謀反事件
202藤原仲麻呂暗殺計画
203藤原仲麻呂の最後
204和気王の謀反
204吉備真備の挫折と王朝の交替
205藤原宮の御井の歌
206古墳散歩・唐津湾
208飛鳥寺は面白い
209石舞台・都塚・坂田寺
210石川麿の山田寺
211中大兄とは何者か
212中大兄の遅すぎる即位
213人麻呂、近江京を詠む
214天智天皇が建てた寺
215中大兄の三山歌を読む
216小郡市埋蔵文化財センター
217熊本・陣内廃寺の瓦
218熊本の古代寺院・浄水寺
219法起寺式伽藍
220斑鳩の法輪寺の瓦
221斑鳩寺は若草伽藍
223古代山城シンポジウム

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