持統天皇と倭姫皇后と倭姫の接点

崩御の時まで持統天皇が胸に秘めていたこと
今日はそのお話です。では、最後の行幸からまいりましょう。
持統天皇の最後の行幸はお気に入りの人を連れての旅だった、と前回書きました

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最後の行幸に従駕した人・万葉集には
長忌寸奥麿(意吉麻呂)、高市連黒人、与謝女王、長皇子、舎人娘子

東国行幸に従駕したのは、持統天皇の信頼する人物だったようです。長忌寸奥麿(ながのいみきおきまろ)は、二度の紀伊国行幸(690年・701年)に従駕し歌を詠みました。有間皇子事件を見事に詠み上げたその歌は持統天皇を感動させ、大宝元年の行幸では詔で歌を所望したほどです。高市連黒人も近江朝を偲び荒れた大津京を読んでいます。二人は行幸に従駕し、先々で歌を詠んだのでしょう。(既に紹介済)

長皇子は、天智帝の娘・大江皇女の嫡子です。人麻呂が歌を奉った皇子で、持統帝は行幸にも連れて廻るほど気に入っていたか、頼りにしていたのでしょう。(長皇子についても、既に紹介しています。)

舎人娘子は舎人皇子の養育を受け持つ氏の女性でしょうか。この人は舎人皇子と恋歌をやり取りしています。それなら、持統帝が目をかけた舎人皇子の関係者となりますね。
東国へはお気に入りの人々を従えての行幸だったのです。

では、人麻呂は? 従駕していなかったのでしょうか。それは分かりませんが、持統天皇はこの行幸ですべてを成し遂げたのでしょう。環幸の後、ひと月で崩御となるのです。旅は疲れるものですが、従駕した人々の歌を読んみると、旅愁はありますが悲壮感など有りません。

前年の紀伊国行幸の意味深な歌とは違うのです。旅先で持統帝は元気だったのでしょうか。

旅から帰った十二月二日、「九月九日、十二月三日は、先帝の忌日なり。諸司、この日に当たりて廃務すべしと勅が出されています。何とも、急な勅です。十二月三日の前の日に出した勅で「次の日は仕事をするな」というのですから。

しかも、九月九日は天武天皇の命日ですが、十二月三日は天智天皇の命日なのです。急な勅は天武天皇のために出されたのではないのです。天智天皇の忌日のために出されたのです。すると、持統天皇の意思なのでね。最後まで天智天皇への思いを抱いていた、最晩年に「隠す必要はない」と判断した、それが持統帝の真実の姿でした。

(十二月)六日、星、昼に見る(あらわる) *星とは太白で金星のことです。太白が昼に現れるのは「兵革の兆し」とされます。

十三日、太上天皇、不豫(みやまいしたまう) *不豫とは天子の病気のことです

天下に大赦が行われ、百人が出家させられ、畿内では金光明経を講じられました。しかし二十二日、遺詔(いしょう)して「素服挙哀してはならない。内外の文武の官の仕事は常のようにせよ。葬送のことはできる限り倹約するように」と言い残し崩じられたのでした。

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天智天皇量の真南に天武持統陵・大友皇子の屋敷跡は石上神宮へ)

持統天皇は「仕事は怠るな。葬儀は簡単に」とは伝えましたが、その他の気がかりについては何も言ってはいません。東国行幸で全てやり終えたというのでしょうか。

ですから、東国行幸が非常に気になるのです。その目的が天の香久山を詠んだ女帝が、実は天照大神の神祭りの場を探していた、とは。

以前、持統六年(692)の伊勢行幸のとき大三輪高市麿が冠を捧げて天皇の伊勢行幸を諫めた話をしました。「大三輪」ですから高市麿は三輪山の神祀りをする氏族でした。『三月は農繁期ですから伊勢行幸はやめてください(我が三輪山は、天智天皇も大切にしておられた。その神山を捨てて伊勢に行かれるのか)』と諫言したのでしょう。
考えてみると、伊勢の神祭りを始めたのは天武天皇でした。

天武十四年(685)初めて伊勢神宮に式年遷宮の制を定める
  
諸国の歌男・歌女らに命じ、歌笛を子孫に伝習さす。
     

 

壬申の乱に勝利したのは伊勢の神のおかげだとすると、天武十四年の「はじめて式年遷宮」は遅すぎです。神への御礼は一番でなければなりません。
また、天武天皇が伊勢神宮の神祭りを始めたのであれば、その皇后の持統天皇が伊勢に行くのを止める大義名分は誰にもありません。まして、大三輪高市麿にも。
上代の三月が今の四月くらいだとすると、農作業が忙しいのは上代の四月から(五月六月)でしょうね。

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最後まで天智天皇を慕いつづけた持統天皇が、三輪山ではなく伊勢に神祭りの場を求めたのは何故でしょうね。その聖地求めの旅が平安時代~鎌倉時代初期に「倭姫の伝承」として『倭姫命世記』に書き残されたのではないかと思ったのです。

すると、持統天皇こそが倭姫皇后だったのではないか。父は有間皇子で、皇位継承者の妃となるべき立場に生れた姫だった。有間皇子事件の後は間人皇后かくまわれたが見つけ出され、古人大兄皇子の娘として天智帝の妃とされた。
そう仮定すると、紀伊国行幸の歌で有間皇子を偲び続けることも、天智・天武の陵墓が同じ経度にあることも、難波宮に重要なことを決める時に行幸があることも、有間皇子事件に類似した宇治若郎子の事件が額田王や人麻呂によって歌われるわけも、天智天皇の葬送儀礼の歌が天武帝より多く残されていることも、天智帝の血統の草壁皇子が薨去した理由も、額田王と中臣大嶋が草壁皇子の菩提を弔ったわけも、持統帝が天智帝が築いた高安城に行幸する理由も、倭姫皇后が忽然と消えた理由も、大津宮を持統帝が懐かしむ理由も、事実を歌として「万葉集」に編集した柿本人麻呂が刑死した理由も、人麻呂に対して元明天皇が激怒したわけも、平城天皇が「万葉集」を編集しなおして事実が分からないようにした理由も……ほとんど同じ糸で結ばれていたので、意味がつながり謎が解け理解できるのです。

倭姫命が天智天皇の皇后と同じ称号で呼ばれているのなら、何らかの接点があると思いませんか。
いよいよ、倭姫命世記を読まなければならなくなりましたね。
長い物語ではありません。近くの図書館にも関係書はあると思います。
では、また。




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# by tizudesiru | 2017-11-21 23:49 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback | Comments(0)

持統天皇の最後の行幸と伊勢神宮

もうこの海を見ることもないだろう
あの方の霊魂を鎮める最後の旅となるだろう
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大宝元年の紀伊国行幸(秋九月、冬十月)は、万葉集の巻一、巻二、巻九に歌が乗せられています。大宝元年辛丑冬十月の紀伊国行幸は、女帝の心にあった永年の苦しみを払う行幸でした。文武天皇が持統天皇と合流したのは、十月だったのでしょう。その時、紀伊国での出来事を全て孫に伝えたのです。

持統天皇は、九月に孫の文武天皇より先に紀伊国に来ていました。その時の歌が巻一にありますが、巻九の「紀伊国十三首」と比べて軽いのですが、旅先の土地を誉め、旅の安全を祈ったのでしょう。
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大宝元年辛丑冬十月の紀伊国行幸は、特別でした。紀伊国の郡司をねぎらいながら一重に有間皇子の霊魂を慰め鎮めました。それが巻九の「紀伊国行幸十三首」でした。そのひと月前の持統太上天皇の紀伊国行幸、この時の歌を読んでみましょう。

54 巨勢の山のつらつら椿はさいてはいないけれど、つらつら思い偲んでみようか。巨勢山に椿が咲き乱れるその美しい春野を。
秋なので椿は咲いていませんからね。春野を想像して詠んだのです。

55 麻裳で知られる国、紀伊国の人がうらやましいことだ。この真土山をいつもいつも眺めることができる。わたしは旅の行き帰りに見るのだが、紀伊国の人は本当に羨ましいなあ。
真土山を越えると大和から紀伊國に入ります。その境の山を見ると旅情が高まるのでしょう。

56 川岸に咲き乱れるつらつら椿、巨勢の春の野はつらつら見ても見飽きないことだろうなあ、巨勢の春野は、きっと。
まだ、春は遠いけれど椿咲き乱れる春野を偲びながら、一行は紀伊国の行幸の安からんことを祈ったのでしょう。土地を誉めることがその地の神々に祈ることでもあったそうです。以前紹介した「紀伊国十三首」の重く切ない歌と比べると、九月の歌はかなり軽く感じますね。文武天皇を伴った行幸は特別だったことが分かります。


そして、最後の行幸が大宝二年
持統天皇の最後の行幸・美濃・三河・伊勢・伊賀

大宝二年、東国へ持統太上天皇は行幸しました。
大宝二年は女帝の崩御の年です。崩御のひと月前まで女帝は行幸の輿の上に在ったのです。行幸とは「幸を行う」ことでした。行く先々で、人々を労い褒美を与えることなのです。持統天皇も先々で褒美を与えて回りました。
その最晩年の行幸時の歌が万葉集に残されています。


大宝元年辛丑冬十月の紀伊国行幸では、紀伊国の郡司をねぎらいながら一重に有間皇子の霊魂を慰め鎮めました。もう思い残すことはないだろうと周囲は思ったでしょう。
しかし、持統天皇は旅に出ました。それも、特別のお気に入りを連れての行幸です。

今度の旅の目的は何でしょうか。

冬十月十日、太上天皇参河国に行幸 *今年の田租を出さなくて良しとする

十一月十三日、行幸は尾張国に到る *尾治連若子麻呂・牛麻呂に姓宿禰を賜う                                       *国守従五位下多治比真人水守に封一十戸

同月十七日、行幸は美濃国に到る *不破郡の大領宮勝木実に外従五位下を授ける *             
 *国守従五位上石河朝臣子老に封一十戸 

同月二十二日、行幸は伊勢国に到る *守従五位上佐伯宿禰石湯に封一十戸を賜う

同月二十四日、行幸は伊賀国に至る 

同月二十五日、車駕(行幸の一行)参河より至る(帰ってきた)

東国行幸では、尾張・美濃・伊勢・伊賀と廻り、郡司と百姓のそれぞれに位を叙し、禄を賜ったのでした。それが目的だったのでしょうか。大宝律令により太上天皇として叙位も賜封もできるようになっていました。太上天皇は新しい大宝令を十分につかったのです。

この行幸は、壬申の乱の功労者を労うことが目的だったと言われています。確かに天武軍は東国で兵を集め整えました。

行幸の目的については気になることがありますが、行幸で詠まれた歌を見ましょう。
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この行幸時の女帝のようすにただならぬ気配はなかったのでしょうか。十月から十一月まで五か国をめぐる旅が続きました。お疲れだったと思いますが。

歌に出てくる地名です。
引馬野(ひくまの)愛知県宝飯郡御津町御馬の地・音羽川河口付近に引馬神社がある。他に豊川市や静岡県浜松市の曳馬町付近とする説もある。
阿礼の崎(あれのさき)所在地未詳
隠(なばり)三重県名張市のあたり。
円方(まとかた)三重県松阪市の東部。東黒部町一帯後。「逸文風土器」に『地形が的に似る』とある。


持統天皇の行幸は「倭姫命世記」の倭姫の歩いた道と重なります。それは何故か、気になっていました。
それは、また明日。




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# by tizudesiru | 2017-11-21 00:10 | 305持統天皇と倭姫は同じ道を歩いた | Trackback | Comments(0)

倭姫皇后の運命を握った神とは有力氏族

いつまでもお慕いいたします

人はよしおもひやむとも玉蘰 影に見えつつ忘らへぬかも
天智天皇の崩御後にヤマトヒメ皇后は詠みました。
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149 人はよしたとえ大王を忘れてしまうことがあっても、わたしには大王の御姿がいつもいつも影のように見えていて忘れることはできない。

153 いさなとりをする海のように広い淡海の海、この海のはるか沖から漕いで来る船よ、岸辺近くを漕ぎ来る船よ、沖の船、櫂をひどく撥ねさせないでおくれ。岸辺の船の櫂もひどく撥ねさせないでおくれ。あの方の霊魂は鳥となってもまだ若い鳥だから、櫂がひどく撥ねると驚いて飛び立ってしまうでしょう。(だから強くひどく撥ねさせないで)
切々と皇后は訴えました。皇后の挽歌だけでなく、身近な女性たちの歌も紹介しましょう。中に、舎人の歌がありますから、葬儀の場では男性の歌も多く献じられたのでしょうね。

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婦人(姓氏は未詳)、額田王、石川夫人、舎人吉年の歌が残されています。冬の淡海はきっと暗く沈んでいたことでしょうね。
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この後、倭姫皇后の消息は分からなくなります。どうなったのでしょうね。大友皇子の即位まで、玉璽は預からなければならなかったでしょうし、泣いてばかりでは務まりません。

こんな大役を果たす皇后はどのように選ばれたのでしょう。

人麻呂の「日並皇子尊の挽歌」の中にヒントがあります。
「天地のはじめの時の ひさかたの天の河原に 八百万千万の神の 神集い集いいまして 神はかり はかりし時に 天照日女之命 天をば知らしめせと…」
人麻呂の長歌は、上記のように始まります。ここに、支配者を選ぶ儀式のことが書かれています。

神集い 集いいまして(たくさんの神が寄り集まって)
神はかり はかりし(神々が相談を重ねて)


この詞は祝詞(のりと)でもおなじみですよね。上代は神々が集まって相談して支配者を決めていたのです。それは、舒明天皇が即位する時も大臣たちが集まって決めていました。人麻呂は「神」と詠みましたが、それは現実の人間達だったのです。
支配者を決める風習を変えたのは、乙巳の変だったのでしょうね。合議制ではなく、大宮殿を作り役所を整え、律令によって政治を行うことを目指した時に、氏族の主張が優先した合議制は合理的ではなかったのでしょうね。


それで、皇后撰びに戻りますが、上代の大王が選ばれたように皇后も有力者が話し合って選んだと思います。ただ、選ばれる女子の氏は限られていたと云うことです。
古代豪族の中で大后を出した氏は限られていたと思います。

倭姫皇后が古人皇子の娘なら舒明天皇の孫ですから、選ばれるべき立場だったのでしょうね。

(ここで、わたしは妄想します。持統天皇が年に数回も吉野に行幸した理由は何だろうかと。吉野に出かける理由の一つに、誰かに会いに行くのだとしたら、それは誰だろうかと。
吉野太子に所縁の人か、太子に関わった人に会いに行っていたとしたら、それも心ひかれる物語になるでしょうね。)


さて、神々が寄り集まって皇后を決めたのだとしたら、その存在は特別ですし、その最後がどうなったのか、陵墓は何処にあるのか、書き残されねばなりません。
しかし、倭姫皇后については何もないのです。挽歌は残したものの、忽然と消えているのです。数百年前とされる仁徳天皇の磐姫皇后ですら、細かに記述されています。だから、大王となった天智天皇の皇后である倭姫が忽然と消えるのはおかしすぎます。

ヤマトヒメは何処へ行ったのか?
前の王朝の後宮の女性たちが次の政権の大王の後宮に入れられたのなら、倭姫も天武帝の後宮に入れられなければなりません。でも、倭姫は天武帝の後宮に入ってはいません。皇后となったのは、持統天皇です。
倭姫が消えたのは何故か?と思いませんか。
天武帝の持統皇后と天智帝の倭姫皇后の接点はないのか、非常に遠くしかし非常に近い存在、と考えませんか。わたしはここに釘付けになりました。二人の接点、それは、あるのです。

二人の皇后を結びつけるのは、倭姫です。
それはまた明日。



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# by tizudesiru | 2017-11-19 00:12 | 304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か | Trackback | Comments(0)

倭姫皇后の運命を握った神は

この一週間、トンデモ説を紹介しています
万葉集は妄想を誘う歌集です。中でも様々に妄想を膨らませてくれる不思議で魅力的な人は、倭姫皇后ですね。天智天皇の葬送儀礼の挽歌が残されているので実在の人には違いありません。今日は、その倭姫についてのお話です。トンデモ説ではありませんが。
天智帝の皇后・倭姫とは何者か

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知りたいですよね、倭姫皇后について。天智天皇の皇后はどのように選ばれたのか。
皇后になれる女性は決まっています。高貴な血統の姫しかなれません。
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大化改新の後も、皇后になれる条件は守られました。なぜなら、大王に事があれば皇后が玉璽を預かることになっていたからです。おろそかに玉璽を扱ってはなりませんから、皇后には大王家の血筋の娘が立てられたのです。どんなに高齢でも、若輩でも、役目は同じでした。
そういえば、年の差がありながら、間人皇女(舒明天皇の娘)が孝徳天皇の皇后に立てられましたね。大化改新後、立后されるべき女性がいなかったのでしょうか? 若い間人皇女以外には? そんなことはないでしょう。古人大兄皇子(舒明天皇の皇子)の娘・ヤマトヒメがいたはずです。それとも、ヤマトヒメはまだ幼く生まれたばかりだったのでしょうか。幼すぎたのか、政敵として父親を討ったばかりだったので孝徳天皇の皇后として具合が悪かったのか、でしょうか。

天智天皇の皇后の倭姫は、名前からして意味深ですね。カムヤマト磐余彦のように意味深な名前です。ヤマトは諱(いみな)ではなく、尊号でしょうか? 万葉集では高貴な方は名前が書かれていません。卿・大臣・天皇・太上天皇・大行天皇・皇后・皇太后などと書かれていますが、該当者が一人ならその人が誰なのかわかるのです。
誰を指すか特定されない場合もありますが、それでも二人ほどにしぼられます。
光明皇后の場合では、藤原皇后・皇后・太后・皇太后・籐皇后などと書かれて必要に応じて使い分けられていますが、諱は書かれていません。皇子皇女の諱は書かれていないのが普通です。


すると、倭姫の「倭」とは諱ではなく、その養育する氏を指し示すのでしょう。当時、倭氏がいたと云うことでしょうか。 皇太子・古人大兄皇子の娘ですから、まさに「倭の姫」だったのですね。
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古人大兄皇子は舒明天皇の皇子で、天智帝とは異母兄弟になります。吉野山に入ったので吉野太子とか、古人太子と呼ばれ、舒明天皇の太子(ひつぎのみこ)=皇太子と誰もが認めていたのでしょうね。しかし、謀反の罪により討たれました

大化改新(645)と呼ばれる乙巳の変は6月でしたが、その9月に古人大兄は謀反を計画したそうです、書紀によれば。蘇我田口臣川堀、物部朴井連椎子(もののべのえいのむらじしひ)、吉備笠臣垂(きびのかさのおみしだる)、倭漢文直麻呂(やまとのふみのあたいまろ)、朴市秦造田来津(えちのはだのみやつこたくつ)と相談したようです。しかし、吉備笠臣垂は、中大兄に自首しました。
その為、古人皇子とその子達ともに討たれ、その妃妾は自ら首をくくった、と書紀に書かれています。
この状況の中を倭姫は生き残ったのです。

ちなみに、 自首した大錦下吉備笠臣垂(しだる)は、天平宝字元年(756)に吉野皇子(古人皇子)の反を告げた功により、功田二十町を賜っています。裏切って何十年どころか、百年以上経っての功田の下賜でした。なぜ百年余後なのでしょうか? 不自然ではありませんか…
他に物部朴井連は饒速日の末裔なので「物部」と冠していたのです。舒明天皇に近い人だったのでしょうね。この人は討たれたのですかね。
朴市秦造田来津(えちのはだのみやつこたくつ)は、小山下(しょうせんげ)という身分で天智元年「百済救援」の役に出て戦死したと思います。天智帝に仕えていたと云うことは、古人大兄を裏切っていたのですね。裏切り者は、吉備笠臣垂だけではなかったのでしょう。
さて、吉備笠臣垂が功田を賜った年は、孝謙天皇が譲位して淳仁天皇が即位した年でした。
天平宝字元年(756)、草壁皇子に岡宮御宇天皇と追号しています。この年に、藤原仲麻呂が「大保」に任命され、「恵美押勝」の姓を賜りました。非常に意味深な年なのです。


廃除された古人皇子の娘という、そういう背景を持った倭姫皇后です。父と家族の命を奪った叔父の天智帝の皇后となったのです。
では、天智天皇の聖体不豫の時に詠んだ皇后の歌です。
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147 天の原を振り仰いでみると、その天上の高きより長く垂れているのような大王の御命は、はるかに何処までもつながっているのです。
皇后は天皇の傍で祈り続けたのでしょう。しかし、天智天皇の病は重篤となり、言葉を交わすこともできなくなりました。

148 青々とした木々が旗のように見える木幡の山、その木幡の山の上を大王の御魂が何度も通っていることは風や雲の動きで私にも分かりますが、大王と直にお話することはもはやできないとは。
どちらも不思議な歌ですね。

聖体不豫の時、皇后はそば近くで平癒を神に祈り続け、言霊によりその霊魂を現世にとどめようとしているのでしょうか。皇后の役割として皇位継承の中継ぎをするだけではなく、聖体不豫の時に言霊により聖体を浄め守る役目もあったのでしょう。大王が神に選ばれた存在であるように、皇后も神に選ばれた存在であったのでしょうね。

また、明日




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# by tizudesiru | 2017-11-18 10:06 | 304天智帝の皇后・倭姫皇后とは何者か | Trackback | Comments(0)

「野守は見ずや」と、額田王は大海人皇子をたしなめた

茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
天武天皇は、額田王に袖を振ったのか? 
と、問われました。厄介なので避けたい質問でしたね。
この歌が詠まれたのは天智七年で、天智帝が即位した年の五月です。蒲生野は天皇の遊猟(みかり)が行われた地で、公的な宴席での余興として額田王が詠んだということです。
書紀には「大皇帝、諸王、内臣また群臣、みな悉くに従なり」と書かれていますから、近江朝の人々はこぞって出かけたのです。ですから、当然、皇后も臨席していたでしょうね。そこで詠まれたこの歌は、本当に余興の歌でしょうか。額田王は非常に細やかな気配りのできる、しかも政治的な判断力を持った人でしたから、余興の歌ではないとしたらどのようなことになるのでしょうね。

昨日、中大兄の三山歌で紹介した畝傍之姫が倭姫皇后であったなら、大海人皇子(天武帝)の袖は皇后に向かって振られたことになるでしょうか。
おっと、これは危ないですね。妙なことになってしまいます。そこで、額田王は気を利かして「わたくしに袖をお振りになるなんて、いけませんわ。」と周囲の目を自分に向けて皇后から反らせ、大海人皇子をたしなめたことになるでしょうか。それも、面白い読みになりますね。

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額田王は非常に魅力的で有能な美しい女性でした
若い時、天武天皇との間に十市皇女をもうけました。
斉明天皇の紀伊国行幸に従駕し、有間皇子事件を目撃しました。
天智天皇に仕え、近江朝の宮廷で詔に応えて歌を詠みました。
そして、天智天皇に最後まで仕え、葬送儀礼の挽歌を詠みました。
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額田王の波乱の人生は此処で終わったのではありません。天智帝亡き後に壬申の乱が起こり、娘婿の大友皇子が近江朝の総大将だったのですから、その戦いの顛末の全てを見聞きしたのです。
そして、
壬申の乱で近江朝が敗れた後、傷心の娘と孫を連れて額田王は明日香に帰りました。


明日香に帰った額田王は、幸せだったでしょうか。
いいえ、苦しい日々が待っていました。天武朝の皇親政治の重みを一身に受けていた高市皇子に再婚させられていた十市皇女が薨去したのです。天武天皇が祭場へ向かった後、宮中での突然の皇女の薨去・自殺でした。さすがの天武天皇も葬儀で男泣きしたのです。
この悲劇が額田王を苦しめないはずはないでしょう。どんなに辛かったか、苦しかったか、それを思うとわたしでさえ苦しくなります。

どんな状況でも、額田王は堪えぬいたのでしょうか。弓削皇子との歌のやり取りが万葉集に残されていましたね。額田王は若い弓削皇子に優しい返事を送りました。弓削皇子の母は大江皇女(天智帝の娘)でしたから、天智天皇つながりでやはり特別かわいかったのでしょうね。
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若い時から斉明天皇の傍近くに仕えた額田王は、鏡王の娘といわれています。斉明天皇の息子の天武天皇との間に子どもをなしたのですから、身分の高い王家の娘だったでしょう。 
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額田王の歌は、万葉集巻一にも7・8・9番歌と続けて掲載されています。どれも非常に政治的な意味の深い歌でした。額田王は優しく聡明な人で、政治的な立場に居た女官だったと思います。

額田王は
草壁皇子のために寺を建立しました

十市皇女の突然死で苦しんでたのでしょうが、深く仏教に帰依し、藤原(中臣)大嶋と結婚し、大嶋亡き後はその遺言を守り粟原寺(おうばらでら)を完成させました。

草壁皇子の菩提を弔うために粟原寺を建立したのです。

それは、大嶋の遺言でしたから、大嶋も壬申の乱に無念の最後を遂げた叔父と共に、本来の主人である天智天皇の皇子の菩提を弔った、とわたしは思います。

そうでなければ、二人がここまで草壁皇子を思う理由がありません。
この流れからすると、比売朝臣額田は額田王以外には考えられません。

粟原寺の塔の露盤が国宝になっていてそこに銘文があります。そこに粟原寺は、「大倭國浄美原で天下を治められた天皇の時、日並御宇東宮のために造った寺である」とあります。よく見ると、天武天皇の時代の皇太子と書かれていますが、天武天皇の皇子とは書かれていません。

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銘文のなかみは、次のようになっていました。

この粟原寺は、仲臣朝臣大嶋が、畏れ謹んで、大倭國浄美原で天下を治められた天皇の時、日並御宇東宮(草壁皇子)のために造った寺である。

この寺の伽藍を比売朝臣額田が敬造し、甲午年に始まり和銅八年までの二十二年間に、伽藍と金堂、及び釈迦丈六尊像を敬造した。

和銅八年四月、敬いて三重宝塔に七科の宝と露盤を進上した。

この功徳により仰ぎてお願いすることは

皇太子の神霊が速やかにこのうえない菩提果をえられること。

七世の祖先の霊が彼岸に登ることができること。

(中臣)大嶋大夫が必ず仏果を得られること。

様々なものが迷いを捨て悟りに到り正覚を成すことができること。

甲午年は持統八年(694)です。

(この年の十二月に、藤原宮に遷都します。(しん)(やくの)(みやこ)藤原京)は、高市皇子が造り上げた初めての条坊を持つ都でした。)
このような額田王の人生を思う時、「茜さす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」の歌は、どのような状況で詠まれ、何を意味するのでしょうね。歌は言霊でもありましたから、公的な場では神の前で詠むのと同じだったと思います。遊びで詠むのは、後の時代と思いますが…
やはり、倭姫皇后に向かって大胆にも降られた大海人皇子の袖を、額田王が鮮やかにたしなめたと読んだほうがいいかも知れませんね。

また、あした。



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# by tizudesiru | 2017-11-17 00:49 | 303額田王は大海人皇子をたしなめた | Trackback | Comments(0)

持統天皇は天智帝と草壁皇子の皇統を守ると決意した

持統天皇の御製歌の意味は…
ずっと引き延ばしてきたこと、持統天皇がなぜ香久山を詠んだのか、このことについて書かなくてはなりませんね。前回の三輪朝臣高市麻呂の諫めが農繁期の「伊勢行幸」に対する抗議というより、「三輪山が見捨てられること、王朝の神祭りが伊勢に移ることへの深い憤り」から来たものであると書きました。
三輪山はもともと饒速日を祀る山でしたから、天氏系の氏の大切な聖地でしたからね。

では、持統天皇の御製歌を読みましょう。既に紹介したカードを使います。

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春過ぎて…冬という困難な時代を一人息子を守りながら耐え忍び、やっと春が来たと思ったら夏になってしまった…ついに、わたしがあの香具山の神祭りを引き継ぐ時がきたのだなあ
しかし
持統天皇は、「天武天皇の神祭りを引き継いでこれから自分が政をしよう」と歌ったのではありません。
引き継ごうとしたのは天智帝と舒明帝の「まつりごと」なのです。
香具山を詠んだのは三人の天皇、天智帝(中大兄)と舒明帝と持統帝でしたね。
その舒明帝や天智帝と同じ祭祀で、国の「まつりごと(政)」を行うと持統天皇は歌ったのでした。


持統天皇がこれほどまでに「天智天皇」の天香具山にこだわるのは何故でしょう。

壬申の乱という、まるで革命のような政権交代を成し遂げた天武天皇の皇后は「天智天皇のまつりごと」に倣おうとしました。天智天皇がつくりあげた戸籍「庚午年籍」を使い、天武天皇の皇親政治を止め、議政官を任命し律令政治を目指しました。夫の仕事をひっくり返したのです。でも、高市皇子に最高位を預け、内部の混乱を避けようとしたのだと考えます。

皇位継承に関しては「直系に継承」という天智天皇の意思に沿いました。具体的には天智天皇の「不改常典」(改めまじし常ののり)として、元明天皇の詔に登場します。天武朝の皇位継承を天智帝の法で縛ろうとするなんて、考えられないことでしょう。持統天皇をはじめ、まつりごとの基本は天智朝を手本としたと云うことです。なぜに?
持統天皇は心から天智天皇を慕い尊敬していたのです。それは、持統天皇の崩御の年まで続きました。
続日本紀からも、その思いが伝わります。
大宝二年(702)十一月二十五日、持統天皇は尾張・美濃・伊勢・伊賀への行幸から戻りました。その翌月の十二月二十二日に崩御となっているのです。
そんな大変な時期、崩御の二十日前、十二月二日に持統天皇は詔を出しました。
「九月九日、十二月三日は先帝の忌日(いみび)なり。諸司、この日に当たりて廃務すべし」
先帝とは天武天皇と天智天皇です。


九月九日は天武天皇の命日、十二月三日は天智天皇の命日。
その命日には仕事をしてはならないという詔ですが、十二月二日に次の日の仕事を休めという、かなり急な詔ではありませんか。それも、この勅は天武天皇の為に出されたのではありません。次の日の天智天皇の命日のために出されたのです。
崩御の二十日前までも、持統天皇は天智天皇を思い続けました。


その理由はもう分かりますね。
天智帝への愛以外にはありません。
今まで、万葉集で確かめてきたことが事実なら、持統天皇は有間皇子の所縁の人、妹か、許婚者か、娘です。となると、鵜野皇女こそ天智天皇に召された畝傍の媛だったと云うことになりますね。
ここで、持統天皇の一人息子・草壁皇子の父親は天智天皇だった、という天武朝にとって大変な展開となるのです。
しかし、考えてみると少しも矛盾はありません。天武天皇は「吉野盟約」で、自分の皇子と同じく天智帝の皇子も我が子として扱おうと約束します。おかしな話です。本当は自分の直系の皇子に皇位継承権を与えたかったでしょうに。天智系の皇子も我が子のように扱うと誓い、大喜びしたのでした。
吉野の盟約は、鵜野皇女の連れ子を我子とするための儀式だったと思います。

しかし、吾子・大津皇子への愛は断ちがたく、天武帝は「朝政を聴く」立場まで引き上げました。大津皇子の即位への道を開けて置いたのです。
草壁皇子は自分の出自を承知していたので、皇太子でありながら極位には着きませんでした。もちろん、草壁皇子は病弱ではありませんでした。万葉集の挽歌に詠まれた通り、狩が好きで阿騎野では御猟を楽しんでいたのです。健康な草壁皇子は大津皇子が極位に着くことを承知していたと思います。

その事は、大津皇子にも伝わっていて、草壁の意思を受けてもいいのか、天武帝の崩御後、伊勢の姉に相談に行ったのです。大伯皇女の不安は的中し、大津皇子は死を賜りました。その政治的判断は高市皇子がしたと思います。行政のトップは太政大臣の高市皇子でしたから。
高市皇子は最高権力を握った持統天皇に畏敬の念を抱き、その胸の裡を察したのでしょう。天智系の皇統を残したいと思っていることを。

大津皇子の死後、自責の念で草壁皇子は苦しみました。そのために、自死を選んだと思います。日本書紀は「薨去」のみしか伝えていません。病気平癒のために誰も出家していないし、大赦もなく、その葬儀をどのようにしたのか、一切書かれていません。(万葉集でその様子を知る以外にないのです。)
「乙未、皇太子草壁皇子尊薨」の一行のみです。弔いの使いの描写一つありません。

常々、持統天皇は、特定の皇子や皇女を大事にしています。
特に、明日香皇女の病の時は、沙門一〇四人を出家させました。人麻呂に挽歌も詠ませました。既に、紹介した通りです。しかし、大事な草壁皇子には沙門の出家はないのです。
特に寺を建立したとかもありません。草壁皇子の為に寺を建てたのは、中臣大嶋と比米額田です。
中臣大嶋は壬申の乱で斬られた中臣金の甥です。比米額田は額田王とされています。
二人は、なぜ草壁皇子の菩提を弔ったのか、答は一つです。草壁皇子が本来の主人・天智天皇の血統だからこそ菩提を弔う寺を建てたのです。
どの事実も、草壁皇子の出自と死の真実を指し示しているのです。
持統天皇は草壁皇子を失いました。その落胆と絶望はどんなに大きかったか。
しかし、残された道は一つしかありません。天智天皇の皇統・草壁皇子の皇統を守る以外にないのです。その決意の歌が「春過ぎて夏来るらし白妙のころもほしたり天の香具山」なのです。

つまり、持統天皇の御製歌は草壁皇子の出自を明かす歌なのです

持統帝が大事にした皇子・皇女は、長皇子(母・大江皇女)や舎人皇子(母・新田部皇女)、明日香皇女や阿
閇皇女・御名部皇女でした。
このような扱いをした理由はひとつ、なぜなら、彼らは天智帝の子孫だったからです。

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ですから、当然、持統天皇が大事にしたのは、先祖とつながる山田寺・川原寺・飛鳥寺・橘寺など蘇我氏・舒明帝や天智帝の所縁の寺院となりましょう。それは、同じ様式の瓦(山田寺式の瓦)が使用されていることでもわかります。
川原寺は九州で朝倉宮で崩御された斉明天皇の葬儀を天智天皇が執り行ったところでした。もともと宮殿で、後の世に寺とされたのです。橘寺は川原寺の正面の岡にある聖徳太子ゆかりの寺です。
吉備池廃寺も奥山廃寺も山田寺式の瓦が出土していますから、関係の深い寺だと云うことになりますね。
瓦は別の機会に紹介します。特に、奥山廃寺について紹介したいことがあります。

持統天皇の時代、大事にされた山田寺です。
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(冬の山田寺)
ここ山田寺は、蘇我倉山田石川麻呂の終焉の地です。其の霊魂は鎮められなければなりませんでした。

また、あした。



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# by tizudesiru | 2017-11-16 00:42 | 302草壁皇子の出自を明かす御製歌 | Trackback | Comments(0)

「中大兄三山歌」の畝傍山は倭姫を意味する

持統天皇の祖先の山は三輪山ではない
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昨日のブログでわたしはこのように言いました。もちろん、万葉集を読む中で導き出されたことです。

今日のテーマに入る前に、中大兄の三山歌を思い出してみましょう。この歌には、大事なヒントと意味があるのです。
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前回、持統天皇の祖先が神祭りをした山は何処か、それは畝傍山ではないかと書きました。カムヤマト磐余彦の山です。『先代旧事本記』では、この王統が饒速日の王統を滅ぼしたことになっていますね。
以前、「中大兄の三山歌」で述べたように、ヤマト三山は三つの氏族のシンボルの山で、それぞれの氏が祭祀をしていたと紹介しました。中でも新興勢力の二つの王統は伝統的な畝傍の王統の姫を妃にすることでその血筋の尊さを保とうとした、と紹介しましたね。それが耳成山と香具山が、畝傍山を争う歌となったのでした。

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三山歌を読むと、高貴な姫をめぐって争われたのが何時か分かりますね。神代である過去と現在です。過去にもあったでしょうが、現在も同じことが起こりました…それは、中大兄の時代です。
すると、中大兄が皇后にした倭姫皇后がまさに「高貴な血統の姫」となるのでしょう…
では、耳成山側の争いの当事者は誰でしょう。耳成山は藤原宮の北にランドマークのようにそそり立つ山です。藤原宮を造営した天武朝の象徴的山なのです。それでは、耳成山が象徴するのは天武天皇だと云うことになりましょうか。
では、では、通説のように「三山歌の畝傍の姫」は額田王で、中大兄と大海人が額田を争ったというほぼ定説になっている説は成り立つでしょうか? 


それは、歴史の結果で見てみましょう。天智天皇が皇后にしたのは倭姫で、天武帝が皇后にしたのは鵜野皇女(持統帝)でした。選ばれたのが倭姫と持統帝だと云うことは、大変重要なことです。額田王ではないのです。

三山歌が叙事詩だとすれば、この歌を知れば誰にも登場人物が分かったのです。
誰が高貴な姫かを世間が知っていたのであれば、天智天皇崩御の後「倭姫皇后が行方知れず」になるはずはありません。
高貴な姫を他の氏に奪われてななりませんからね。もちろん、高貴な姫ならば額田王もそれなりに大事にされたはずでしょう。しかし、天武帝の後宮には入れられていません。

更に、歴史の結果を見ると、天武天皇崩御後に称制(皇位継承の玉璽を手にした)したのは、持統天皇その人でした。行方知れずの倭姫皇后は何処へ行ったのか、なぜ鵜野皇女が皇后になれたのか、もうわかりましたね。高貴な畝傍の姫だったから、鵜野皇女は皇后に選ばれたのです。
額田王は中臣大嶋と結婚し、晩年は草壁皇子の為に菩提寺造りに励みました。
更に、面白いことに、「万葉集の人麻呂歌集」を読むかぎり、倭姫皇后は生き残り、天武帝に懇願されてその皇后となったとなります。その歌集も紹介するつもりですが。
結果、畝傍之姫・ヤマトヒメこそ持統天皇かも知れないと思うようになったのです、ある日、突然。
たぶん、わたしの思いは孤立しているでしょう。こんな出鱈目な解釈は、私自身が意外だったし、詠み続けている正史からは許されないでしょうから。
しかし、万葉集を読んでいると、出鱈目な発想が次々に生まれるのです。
そうして、だんだん「歌には言霊が宿るから、めったに書き直しは出来なかっただろう」という気分になりました。だから、平城天皇は侍臣に詔して『万葉集を撰ばしむ』と、編集によって攪乱したのだろうと想像したのでした。
最近、わたし自身も、万葉集はかなり事実を記録していると、確信するようになりました。
わたしは長い間書きたかったことをやっと少し書きました。
すべて万葉集を繰り返し読んで、ある日突然分かったことです。一つの仮説からすべての謎が解かれていった、そんな感じです。


では、今日のテーマ「持統天皇の祖先の山は三輪山ではない」に入りましょうか。
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これは、万葉集巻一の「伊勢国行幸時の歌」です。柿本人麻呂はこの時の行幸に従駕していません。しかし、都に残って行幸の持統天皇を思っています。行幸先の伊勢では、大宮人は毎日のように船に乗っているようですが、海は荒れるのにと人麻呂は心配しました。大宮人は船で何をしているのでしょうか、遊んでいるとは思えないのですが。歌の意味はそのまま理解してください。

この行幸が朱鳥六年(692)ならば、従駕した石上麻呂はまだ大臣になっていません。が、万葉集には最終の官職で「大臣」と書かれています。石上麻呂が大納言に任官されるのは大宝元年(701)で、右大臣になるのは慶雲元年(704)でした。没年は養老元年(717)で、左大臣にまで上り詰めました。持統・文武・元明・元正と四人の天皇に仕えた多分有能な人だったのでしょう。
その有能な人材が従駕して、伊勢に行幸したのですね。目的があったはずです。それは、伊勢行幸時の歌五首に付けられた「脚」から想像することができるでしょう。

次のような「脚」がつけられています。
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三輪朝臣高市麻呂は、持統天皇の伊勢行幸を諫めました。後世『霊異記』は、高市麻呂の農民愛撫の様を讃え、諸天も感応すると書きました。
では、高市麻呂は本当に「農民愛撫の立場」で天皇を諫めたのでしょうか。わたしにはそうは思えません。三輪朝臣
間違いなく三輪山につながる氏族です。彼が心から怒ったのは、三輪山ではなく伊勢に神祭りを求めた持統天皇に対してだったと思います。「我が三輪山を見捨てて、伊勢に神祭りの場を求めるとは何事ですか」女帝に対して、すべてを投げ打ち抗議したのでしょう。
彼は冠を脱いで天皇に捧げましたから職を賭したのです。事実、大宝二年、長門守に起用されるまで官位はなかったそうです。
それほど、三輪山が大事だったのです。
確かに、このあと三輪山は第一の神祭りの場ではなくなりましたからね。

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藤原宮から耳梨山を見る
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藤原宮から香具山を見る
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藤原宮から畝傍山を見る

藤原宮は、三山に守られていますね。
それにしても、なぜ持統天皇は「春過ぎて夏来るらし白妙の衣ほしたり天香具山」と、堂々とした香久山を詠んだのでしょうか。もちろん、これは大事な話です。
また、あした。
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# by tizudesiru | 2017-11-15 00:26 | 302草壁皇子の出自を明かす御製歌 | Trackback | Comments(0)

近江遷都で額田王が三輪山を詠んだわけ

近江遷都の時、額田王が三輪山を詠んだのは、天智天皇の祖先の山だったから!
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(大神神社)
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額田王は天智天皇に仕え任務を全うしました。
天武天皇との間に十市皇女をもうけたのは若い日・昔のことでした。
天智7年、蒲生野の宴で「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」と額田が天武に対して詠んだのですが、既に二人の間には何もありませんでした。
額田王は天智帝の長子大友皇子に娘を嫁がせ、人生の絶頂期にあったのです。
天智天皇の詔に従い歌を詠み、女官として力を注いでいました。(だから、天智天皇の葬送儀礼でも挽歌を献じたのでした。)
その近江朝が大津宮に遷る時の額田王の歌が万葉集にあります。
額田王がヤマトに別れを惜しみながら詠んだのがヤマト三山ではなく三輪山だったのは何故でしょう。以前にもこのブログで書いたように「三輪山は饒速日の山」でした。饒速日はアメ氏でしたね。
 
17 酒を入れる甕と同じミワとよぶ神山、三輪山よ。あおによし奈良の山に隠れてしまうまで、道の曲がり角が幾重にも重なって見えなくなるまで見ながら行きたいのに。何度も何度も見はるかしたい山なのに、無情にも雲が隠していいものか。
18 神山の三輪山をそんなにまで隠すのか。せめて雲だけでも心があってほしいのに。三輪山を隠したりしてよいものか。

この歌は、三輪山こそ我が神山だ、その山を隠すなんて雲も心無いこと!と、額田王は天智天皇に代わって詠んでいるのです
天智天皇は三輪山を神山としていたとわかりますね。天智天皇の時代には、三輪山は饒速日を祀る山だったでしょう。
だから、同じアメ氏として「天の香久山」を氏山とする天智天皇にとっては、三輪山はさらに祖先の山だったということですね。だから、近江へ遷都すれば大事な三輪山までも見ることができなくなると嘆いたのです。すると、天智天皇の祖は三輪山の一帯から明日香の香久山に降臨した天氏ということになりますね。

この二種の後には次のような左脚があり、続いて井戸王の歌が載せられています。

 右の二首の歌は、山上憶良大夫が類聚歌林には「都を近江の国に遷す時に、三輪山を御覧(みそこなは)すうたなり」といふ。日本書紀には「六年丙寅の春の三月、辛酉の朔の己卯に都を近江に遷す」といふ。


19 ()麻形(そかた)の 林のさきの さ野(はり)の  (きぬ)につくなす 目につくわが背

 右の一首の歌は、今(かむが)ふるに和ふる歌に似ず。ただし、旧本、この次に載す。この故になほし載す。

  

額田王の歌は、17・18で、19は井戸王の歌ですが、井戸王の歌は額田王の歌には応えていないようだが、旧本通りに載せていると説明されています。
棕麻形とはよくわかりませんが、伊藤博「万葉集釋注」によると、三輪山の伝承「三輪山神話」の、娘のもとに毎夜通ってくる男の衣の裾に棕麻(へそ)を通した針をつけて男の家を知ろうとした。次の日、糸は戸の鍵穴から出て、三巻(三輪)の糸が残されていた。その糸をたどると三輪山に着き、神社のところで糸は絶えていた。男が三輪山の神の子であることを知ったので、人々はこの地を名付けて「三輪」というようになったというのです。
(*本文を要約して書いています。)
上記の説明によると、棕麻形とは三輪山のことらしいですね。
19 三輪山の林のさきのほうにある野の榛の色が衣にはっきりと染むように、はっきりと目につく(目立つ)いとしい人
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さて、持統天皇も天香久山を詠みました。
では、天智天皇と同じ天氏だったということでしょうか?
実は、持統天皇はもとは天氏ではないようです。結論を言えば、持統天皇は畝傍山を神とする「日の神」系の人のようです。つまり、天照神をまつる氏です。
持統天皇が香久山を詠んだのは、もちろん天智天皇の皇統を称えたからです。

この辺のところは、また、ゆっくり。




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# by tizudesiru | 2017-11-14 00:43 | 301額田王は香久山ではなく三輪山を詠む | Trackback | Comments(0)

持統天皇と呼子鳥をめぐる謎

続・持統天皇を呼び続ける呼子鳥
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歴史書を無視した話になってしまいました? 持統天皇の出自について、
前回のブログを見てびっくりですか? 確かに、無茶な展開でしょうね。

鵜野皇女は正史では蘇我石川麿右大臣の娘と天智天皇の間に生まれた皇女となっています。が、巻九の「紀伊国行幸の時の十三首」を繰り返し読んで、わたしには疑問が湧いて来たのです。持統天皇は何故にこれほど「有間皇子」を偲び続けるのかと。
はじめは、十三歳の鵜野皇女は有間皇子の許婚者だと思いました。孝徳天皇の跡を継ぐべき有間皇子と鵜野皇女は孝徳天皇の意思で婚約し、有間皇子は極位を継ぐべき立場にあったと思いました。そうなると、岩代まで有間皇子を追ってきた中皇命の歌の意味が分かりにくくなります。なぜに、父親の皇后という立場の女性が有間皇子を追って岩代まで来たのか、不思議です。兄の中大兄皇子の為に有間皇子に付き添ってきたという通説が成り立つでしょうか。

巻九と巻一と巻二(挽歌)を読むかぎり、中皇命は自分の意思で有間皇子を追って兄や母とは別に紀伊国に入っていたのです。「幸す」と「往く」と使われた漢字が違っていますから、それは揺るぎません。

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有間皇子に玉璽を伝えようと思っていたから、有間皇子が追っ手によって殺された後、中皇命(間人皇后)は逃げたと思います。日本海側の間人(たいざ)と呼ばれる港町に。間人(たいざ)に難を逃れた間人皇后は聖徳太子の母ではなく、孝徳天皇の間人皇后が追っ手から逃れたのだと思います。同じ「間人」ですから、聖徳太子信仰と結びついて伝承が残されたのだろうと。
だから、天智天皇は妹の間人皇太后が薨去した後、母の斉明天皇と合葬した後でなければ、即位できなかったのではないでしょうか。玉璽が手元にないのだから。
天智天皇は玉璽を得て初めて正式の大王になったのでした。

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では、持統天皇の母は誰でしょう。山田寺に封が下されたり見事な瓦が葺かれたり、天武朝の手厚い扱いを見ると持統天皇が蘇我系の女子であることは間違いないでしょう。

それでも、有間皇子が薨じた時十九歳だったという日本書紀の記述が、「持統帝は有間皇子の家族」説の大変な障害となりました。

それで、「日本書紀」が意図的に有間皇子の年齢を一回り(十二年)操作したという怪しげな説を持ちだす以外にないのですが…

あえて、次のような内容をブログに紹介してきたのです。ほとんど、去年から書いていることです。


・孝徳天皇の四十歳すぎに生れた後継者としては遅すぎるので、有間皇子はもっと早くに生れていたのではないか。
・中大兄皇子(三十歳過ぎ)がライバル視する年齢なら有間皇子は同年代に近いのではないか。
・難波宮には後宮も東宮もあったようだが、中大兄皇子は東宮には入らなかったし、妹も母も連れてヤマトへ戻っているので、皇太子ではなかっただろう。
・政権が変われば、後宮の女性たちは次の後継者の後宮に入れられたのではないか。孝徳朝の女性は有間皇子の後宮へ。有間皇子の後宮の女性は天智朝へ。天智朝の女性は天武朝へ。政権が変わるたびに女性は次の政権に引き継がれることになっていたので、十市皇女や吉備采女(近江朝の采女)の悲劇となった。
・中皇命は次の後継者である有間皇子の妃となることを承知していた。
・十市皇女の自殺によって後宮の中に不安が広がったので、天武天皇は「吉野の盟約」と呼ばれる儀式で、天智朝の皇子も含めて「家族になる儀式(謀反は起こさない)」をしたのではないか。それによって、天武天皇は満足して「吉野よく見よ」の歌を詠んだのではないか。

などなど、少しずつ書いて来ました。それは、有間皇子が十九歳ではないという前提によって引き出されたことですが、万葉集を読むかぎりこのようなことになってしまうのです。

わたしは古代史研究家ではないので平気で「とんでも説」を書けますが、日本書紀を読めるような研究者は「とんでも説」は出されませんね
もちろん、わたしも長い間「正史」に書かれていることを疑うなんてことはありませんでした。
しかし、元々好きだった万葉集を時々読むうちに疑問に思う事が次々に出て来たのです。「なぜ」を重ねていくうちに「持統天皇の出自って正史の通りなのかな?」という気分になったのでした。
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(紀伊国の春)
そして、巻九を何度も読むうちに「もしかしたら持統天皇は有間皇子の所縁の人!」ではないかと思うようになったのでした

だって、持統天皇は草壁皇子を亡くした翌年に息子の妃を連れて紀伊國行幸に出たのに、有間皇子の岩代の海岸を訪れ結松に涙しているのです。息子を思って泣くならともかく、三〇年も前に謀反の罪で刑死した有間皇子の謂れある地を訪ねて涙するなんて、所縁の人ではなくて考えられなかったのです。草壁皇子を偲んで泣いたのは、嫁の阿閇皇女(元明天皇)でした。嫁はむしろ他人でしょうに、母は息子ではなく更に縁の薄い有間皇子の霊魂を鎮めようとするなんて。
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更に、四〇年後、大宝令の完成した大宝元年に持統太上天皇は文武天皇と紀伊国行幸に出ますが、徹底して有間皇子を偲ぶ旅でした。若い文武天皇に伝えたいことがあった行幸で、有間皇子事件を辿るなんて信じられない展開です。
しかも、皇子終焉の地・藤白坂では涙を流し「皇子は無実だった」と読み、紀伊國には「止まず通わん」と十三首を締めくくったのでした。
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もちろん、天智天皇の罠に落ちた悲劇の皇子(皇位継承者だった)の霊魂を慰めることは、これから築こうとしている王朝の繁栄を盤石なものとするための儀式だったと考えられなくもありません。文武天皇にも祟り神としての有間皇子を祀らせ、先々の災難を避けようとしたと。

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しかし、考えてみてください。有間皇子の「まさきくあればまたかえり見む」の歌を思い出してください。「命永らえて戻ってきたら、また、お前を見よう。おまえに会いたい」と詠まれています。皇子は独りではなかったのです。再会したい人や家族があったから濱松が枝を結んだのでした。
皇子が再会したかった家族はどうなったのか。わたしはそれが気になりました。
もし連座をまぬかれるとしたら、誰が守ったのか、それは有りえるのか、などなど考え続けたのです。そして、

藤白坂でその運命を受け入れた有間皇子は霊魂となって、忘れかたみの娘を呼び続けた呼子鳥である、わたしにはそう思えたのでした。

では、天智天皇の皇女だという正史はどうなる? という段階ですね。実は、このことも万葉集を読むかぎり「一つの答え」しかないのです。




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# by tizudesiru | 2017-11-13 01:47 | 300持統天皇を呼び続ける呼子鳥 | Trackback | Comments(0)

謎の鳥・喚子鳥は持統天皇を呼び続ける

300万葉集に詠まれた謎の鳥・呼兒鳥
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持統天皇が吉野に行幸した時、高市黒人が「呼兒鳥」を詠む。
「よぶこどり」を万葉集事典で調べると「かっこうか。郭公、渡り鳥、夏鳥。ほととぎすより大きい。灰青色。尾が長く白斑。蛾の幼虫などを捕食。おおよしきり、ほおじろ、もずなどの巣に托卵。声は人を呼び人恋しさを誘う。カッコウと鳴く。他に容鳥(かおどり)は霍公鳥などの説も。」と書かれています。

実は、呼子鳥とはどんな鳥なのか分からないのです。万葉集の謎の鳥です。その鳴き声が「アコー=吾子」と聞こえるので、呼子鳥と呼ばれたというのです。呼子鳥は夫が妻(又は恋人)を呼ぶ鳥ともされますが、わたしには親が吾子を呼ぶイメージしかありません。 

ではでは、高市連黒人の「呼子鳥よぶこどり」を読んでみましょう。だって、この歌は「持統天皇の吉野行幸」で献じられた歌なのです。持統天皇の為に詠まれたとしたら、そこにどんな意味があるのでしょう。公的な場で、謎の鳥を詠んだ高市黒人は、何を考えていたのでしょう。


70 倭には鳴きてか来らむ呼子鳥きさの中山呼びぞ越ゆなる

倭には鳴きながら来たでしょうか、呼子鳥は。ここ吉野では、さきの中山を吾子と呼びながら越えていきます。

この歌が詠まれたのは吉野、それも持統天皇の行幸時で、公的な場と既に言いました。「呼子鳥は大和に向かって吾子を呼びながら越えて行く。よほど吾子を恋しく思っているのでしょうね」と高市黒人は詠んでいるのです。
それは霍公鳥ではなく、呼子鳥と呼ばれる鳥…ということは、呼子鳥が何なのか、その場にいる持統太上天皇をはじめ従駕の人々は知っていたと云うことですね。
鳥は亡き人の霊魂と古代の人は考えていたと、何度も書きました。この呼子鳥も誰かの霊魂なのでしょうね。

吉野で「あこー」と吾子を呼びながら、その吾子のいる倭へ向かう鳥とは誰なのか。そして、その鳥となった霊魂が恋しく思うのは誰なのか?


呼子鳥となった霊魂は〇〇、呼ばれているのは持統天皇だと、わたしは思います。
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(紀ノ川・妹背の山の辺り)
呼子鳥となった人物は、吉野川・紀ノ川につながる人です。
吉野川は、紀伊国では紀ノ川と呼ばれます。(下流と上流では呼び名が違っているのです。持統天皇の吉野離宮はこの川の上流に、聖武天皇の離宮は河口の玉津嶋の辺りに後世造られました。吉野川は天武朝の人々には所縁の深い河なのです。)
持統天皇が在位中に三十回以上も行幸した吉野、その離宮で詠まれた歌は沢山ありますが、「呼子鳥」の歌は、持統天皇が譲位した後の行幸で詠まれたものです。
譲位した太上天皇が心行くまで自分の時間を過ごした時、呼子鳥がよまれた…

紀伊國といえば、持統四年と大宝元年の紀伊國行幸を思い出しませんか。
15歳で即位した文武天皇(大宝元年には19歳)を連れて、持統太上天皇は紀伊国に行幸しました。そこで詠まれた「紀伊国行幸時の十三首」(既にこのブログで何度も取り上げました。)それ以前には、草壁皇子の妃の阿閇皇女(元明天皇)を連れて、持統四年に紀伊国に行幸しています。この時も、有間皇子の鎮魂の為に結松をよんでいます。
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山上憶良は「結松」の歌を知って、後で追和しました。長忌寸意吉麻呂の歌に触発されたのでした。
憶良は、「鳥となった霊魂が何度も何度も通って見ているのを人は誰も気が付かないけれど、松はちゃんと知っている」と詠みました。
憶良が詠んだ鳥となった霊魂は、有間皇子でしょう。有間皇子の霊魂は、愛する人と結んだ「結松」を何度も何度も見に来た、または、松の場所にくれば愛する人に会えると思って見に来たと詠んでいるのです。
有間皇子が愛したのは、松が枝を共に結んだ中皇命(間人皇后)でありついてきていた家族だと思います。

また、高市黒人は32「いにしへの人に吾ありや楽浪のふるき京を見れば悲しき」、33「楽浪の国つ御神のうらさびて荒れたる京見れば悲しも」と詠んだ高市古人と同人とされます。また、持統太上天皇最後の行幸(大宝二年)にも従駕し歌を詠んでいます。長忌寸奥麻呂と並んで、持統天皇のお気に入りだったと云うことです。ですから、

高市黒人は持統天皇の気持ちに沿って、常に歌を詠めたということでしょうね。

呼子鳥となった霊魂は有間皇子、呼ばれているのは持統天皇だと、わたしは思います。
吾子と呼ばれているのですから、持統天皇は有間皇子の子どもだとわたしは思います。(何度か書きましたが)その物語も万葉集で読みましょうね。
その数奇な運命を物語る歌集を。

参考の為に、呼子鳥の歌を探してみましょう。

下の四首で「呼子鳥」が詠まれていますが、この内の二首が吉野宮で詠まれています。やはり、公的な場で女帝の為に詠まれているのです。
呼子鳥を詠めば、太上天皇の心を慰めたのでしょうね。

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呼子鳥は謎の鳥ではありません。
万葉集はその鳥が誰を呼んでいるのか、ちゃんと教えているのです。

また、あした。



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# by tizudesiru | 2017-11-10 01:59 | 300持統天皇を呼び続ける呼子鳥 | Trackback | Comments(0)

柿本人麻呂は宇治川に天智朝のはかなさを詠んだ

近江の国より上り来る時に、宇治の川辺に至りて作る歌
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人麻呂は近江の国を過ぎる時、十分に近江朝を偲びました。その帰り道、宇治川の川辺に到りました。当然、見て来たばかりの淡海の風景がよみがえり、あの都があった近江から流れてきた川なのだと思ったのです。しばし川面を眺めて、近江朝の為に戦い死んでいった武人のことを偲んだのでしょうか。
264
 もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも

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「近江の国より上り来る時に宇治の川辺に至りて作る歌一首」と書かれていますから、264の「もののふの」歌のみを指しているのは確かです。しかし、266番歌も人麻呂が近江朝を詠んだ歌です。なぜ、二首は離れているのでしょう。
264と266の二首は内容的にもつながっているように思うのですが、間に長忌寸奥麻呂(ながのいみきおきまろ)の歌が挟まれています。
なぜ、奥麻呂の歌がここに置かれたのか、今でこそ編集の意図が分かりませんが、平安時代までは特別の地位の人はわかっていたのかも知れません。

『新古今集』藤原定家の「駒止めて袖うち払うかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮れ」の有名な歌は、奥麻呂の歌を「本歌」として『本歌取り』したものです。定家はこの歌に心惹かれたのです。
その隣に人麻呂の秀歌があるのに、敢て奥麻呂の歌を本歌取りして「名句」にして見せたのでしょうか… 
わたしは「古今伝授」の当事者であった藤原定家は『奥麻呂の歌が人麻呂歌の間に置かれた意味を知っていた』のだと思います。奥麻呂は歌人として持統天皇のお気に入りでした。
持統四年の紀伊国行幸で「有間皇子の鎮魂の為に結松の歌」を見事に詠んだことで奥麻呂は持統帝に認められたのでした。大宝元年の紀伊国行幸では天皇の詔に応えて「見る人なしに」と還らぬ人を詠みました。だからこそ、持統天皇の最後の行幸にも従駕しています。誰もが奥麻呂を羨んだと思います。人麻呂の歌の間に奥麻呂の歌を置いたのは、その辺の暗示があるのかも知れません。
佐野の渡り・みわの崎は和歌山県新宮市とされていますから「紀伊国」行幸を引き出しますね。

万葉集の編者は、何を伝えたかったのでしょう。
平安時代になって、万葉集を編集させた高貴な人の意思がそこにはあるはずです。その人は「古今伝授」により人麻呂と持統天皇の秘められた愛を知っていたでしょう。その愛に奥麻呂が入ってきたのだと、それは紀伊国行幸の時からはじまったのだと、藤原定家は読み解いたのでしょうか。それで、本歌取りの「佐野のわたりの雪の夕暮れ」を読んだのでしょうね。「雪の野原のような現実の中で心やすめる処すら持たなかった」人麻呂の心情をせつせつと。

初期万葉集を編纂・編集したのは人麻呂だと、わたしは幾度も言いました。人麻呂が持統天皇の遺勅に応えて、文武天皇のために力を尽くしたのだと…。そして、万葉集は文武天皇亡き後、元明天皇に献上されたのですが、それは元明天皇を激怒させ人麻呂は断罪されました。その後、大伴氏に預けられた万葉集は、晩年罪を得た大伴家持の遺体と共に彷徨っていましたが、平城天皇によって召し上げられ編集の手が加えられて世に出たと、紹介してきたのでした。
その決定的な平安時代の編集「あることを分かりにくくするための編集」が、数多くの万葉集の謎を造り出したのだと思います。手が入れられたのは、ほとんどが人麻呂編纂の部分に対してでしょう。後期の家持関係の歌にはほとんど編集の手は入っていないと思います。
ですから、初期万葉集と後期万葉集では、内容も編集意図も微妙に違うのです。
そういう目で、人麻呂の歌を詠むと長忌寸奥麻呂の歌が置かれた意味も想像できると思うのです。

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266 淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば こころもしのに古おもほゆ
この歌は、直接的に近江朝を偲んでいます。鳥は霊魂を運ぶ、または亡き人の霊魂そのものと思われていた時代です。いにしえの都の址にたたずんで淡海を眺めている時、夕暮れの中に飛び交う鳥は大宮人のあまたの霊魂と思われたことでしょう。
鳥と化した数多の霊魂が飛び交う岸辺、そこで鳴く鳥は滅びた王朝の物語を語るのでしょうか。それを聞くと心はしおれてしまい、王朝のはかなさと天智天皇を思って人麻呂は立ち尽くしたのでした。
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何故に、ここまで人麻呂は近江朝を思うのか、不思議ですよね。
人麻呂が近江朝を詠む時、天智天皇の傍にそっと立っているのは持統天皇の思いだったのではないでしょうか。わたしにはそう思えます。

では、また。



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# by tizudesiru | 2017-11-08 00:14 | 299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ | Trackback | Comments(0)

柿本朝臣人麻呂・近江朝を偲ぶ

もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも
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(電車で宇治川を渡る時の一枚)
宇治川を渡る時に思い出すのが、万葉集巻三の264番歌・柿本朝臣人麻呂の歌です。しかし、考えてみると、ちょっと違和感というか、変ですよね。
宇治川を見て、天武朝に仕える人麻呂が偲ぶのは滅ぼした近江朝だったとは…ちょっと、不思議ではありませんか。
確かに、宇治川の上流には琵琶湖があり、広い淡海が少し狭くなる辺りに天智天皇の近江朝の都がありました。大津京が京だったのはほんの数年ですが、万葉集では深い哀悼の思いを込めて繰り返し詠まれました。
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万葉集巻一に、人麻呂は「天智天皇こそ日知王の皇統を継いだ大王だ」として歌に詠みました。そして、「その大王が石走る淡海国の楽浪の大津宮で天の下を統治したのに、その王朝は滅び、都は荒れ果てた」と嘆いたのでした。この歌は人麻呂の個人的な哀悼の歌ではなく、公的な場での歌です。
この歌が詠まれた時、持統帝も天武朝の皇族も、壬申の乱で天武側に加担した氏族も、その場にいたでしょう。人麻呂だけでなく誰もが近江朝を偲んだというのでしょうか。壬申の乱の功労者の高市皇子も…傍にいたのなら微妙ですね。

そして、反歌二首では「ささなみの志賀」と詠んでいます。使われたのは「楽浪」と「左散難弥乃」の漢字でしたが、「ささなみの」という枕詞は、近江朝を引き出す言葉として人々の胸に残りました。それまでは「天さかる夷(ひな)=遠い田舎」であった淡海の国でしたが、「ささなみ」の志賀といえば、滅びた王朝と深く結びつくようになったのでしょう。
「ささなみの」が一句目にある歌は、万葉集には11首あります。その中で「神」がつくささなみのが四首あります。154番の石川夫人の歌は「天智天皇の葬送儀礼に詠われた挽歌」です。206番の置始東人の歌は、弓削皇子の挽歌として詠んだ歌です。
「神楽浪」は、高貴な人の霊魂漂う地として「楽浪」に特別な場所と意味を与えているのでしょう。
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弓削皇子は大津京で薨去されたのではありません。しかし、ささなみの志賀のさざれ波に例えて「いつまでも生きながらえていたかった」という皇子の思いを詠んだのでした。母が天智帝の娘の大江皇女だったから、天智帝の皇統を継ぐ皇子だと、神楽浪の志賀の浪に例えているのでしょうか。
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そして、宇治川の歌です。人麻呂は宇治川を見ても近江朝を思い出したのでした。

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この人麻呂の秀歌については、また明日、語り合いましょう。




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# by tizudesiru | 2017-11-07 00:43 | 299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ | Trackback | Comments(0)

沖ノ島は誰が祭祀したのか・ヒストリア謎の結論

沖ノ島祭祀誰がしていたか・NHKヒストリアが謎の結論

とても興味の湧くテーマなので、期待しました。 
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世界遺産になってしまった福岡県宗像市の宗像大社の辺津宮(土壇場でひっくり返り、当初は外されていた辺津宮が世界遺産になりました)。これで、観光資源になったのですが。そして、関連遺産群として津屋崎古墳群(福津市)も一緒に宗像氏の奥津城になってしまいました。ホントですか? それでいいのですかね。
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元々、宗像氏の祭祀に不思議に思っていた私は昨日放送(2017・11・3)の「歴史秘話ヒストリア」に驚きました。でも、宗像氏が磐井の乱の後も生き残ったと云う所は、そう思います。彼らが磐井を裏切ったのか、利用したのか、チャンスをつかんだのか、ですよね。

わたしは宗像大社は大好きで学生時代から何度も通いました。遠方の客が来ると、大島の中津宮や宮地嶽神社や宗像大社に案内するのです。
特に、宗像大社の裏の高宮のがらんとした空間は如何にも祭祀場のようです。わたしが学生の頃、高宮ができたばかりだったと思いますが、真新しい玉石と木立も低かったのでサンサンと陽が降り注ぎ風が吹き抜け気分がよかったのを思い出します。今は木々に覆われ暗くて静かですが…

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辺津宮本殿もある実業家の援助により中津宮(大島)の社をモデルに建て替えられました。その信仰の厚みが世界遺産になったのでしょうか。



分からないことが多すぎて何処から書いたらいいのか

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では、祭祀の変遷から行きましょうか。沖の島には弥生時代の土器などが出土していますので、嵐の時など避難していたと思われますし、ささやかな祈りも捧げたでしょう。それが突然大きな祭祀へと変わりました。武器や鏡や玉など古墳の副葬品と同じような豪華な奉献品が岩の上に置かれるようになりました
だから、「ヤマト王権の祭祀」となったそうです。豪華な奉献品だから九州の田舎豪族にはできないとのことでした。岩の上に豪華な品物が置かれ陽を浴びて輝いたことでしょうね。
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岩上には三角縁神獣鏡も奉献されていました。
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確かに、大きな権力を持つ人物の祭祀でしょう。4世紀半ばから岩上祭祀とよばれる祭祀が始まり、5世紀で終わります。(最近は祭祀が連続する形式のパンフレットが配られていますから、祭祀は終わってはいません。岩陰祭祀にかわりますが。)

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ところで、5世紀半ばでは福岡地域で最大の津浦峯ノ畑古墳(福津市)の副葬品の中の鏡が、沖ノ島の岩上遺跡のものと同范とされています。この古墳の被葬者は何者なのでしょう。沖ノ島祭祀と関わりがあると思われる、そうです。
この人達は宗像氏なのでしょうか。津屋崎古墳群の被葬者達です。

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数年前にラインを引いてみました。草崎の石祠から勝島の最高部を通り、大島の遥拝所を通り、沖ノ島の岩上祭祀場に直線が通りました。見事にライン(白)の上にすべてが乗りましたが、宗像大社辺津宮からライン(黄緑)を引いても何も乗りませんでした。
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このラインは何を示したのでしょうね。石祠の付け根にあった勝浦漁港(福津市)は今は反対側の神湊に大きな港湾施設ができたので消滅状態です。が、福岡県で一番長い砂浜を持つ勝浦地区には古代にはたくさんの前方後円墳が造られ繁栄していたのでした。
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ここは万葉集にも詠まれるように入り江が入り込み(水色の部分)、とても農業で栄えたとは思えません。では、何をして富を築いたのか、自明のことでありましょう。

では、ここが、宗像氏の奥津城だったのでしょうか。
でも、宗像氏は豪族でしたが、盟主的存在ではなかったようですね。

地図でも分かるように、現在は勝浦漁港に行くには海岸を通る以外にはありません。道の半分から宗像になっているのです。勝浦の名が残る以上、昔は勝浦地区が広がっていたはずです。
世の移り変わりの中で、勝浦は小さくなったのでしょう。勝浦海岸の南の岬は「渡半島」です。何処に渡るか? 当然、外国・朝鮮半島に渡るのです。ちょうど倭の五王の時代でした。

ここが倭の五王の船出の地ではありませんか?

勝浦・勝島・桂岳(勝浦岳)・対馬見山(つしまみやま)・渡(わたり)半島・草崎(いくさざき・戦崎)、それらしい名前が何でもそろっているではありませんか。
NHKは、津屋崎古墳群があるとは紹介しましたが、桂川町の王塚古墳や八女の岩戸山古墳を取材して、ヤマト王権とは関係ないという説明になっていました。桂川も八女も宗像氏との接点・沖ノ島との接点は見いだせないですよ。


津屋崎古墳群の被葬者達、彼らが半島に攻め入る時、沖ノ島で勝ち戦を祈ったからこそ「武器・武具」を奉献したのではないでしょうか、5世紀まで。と、思います。

しかし、祭祀が途絶えた。途中で半世紀以上の空白ができたと、考古学者の話です。

岩上祭祀をした氏は滅んだか、衰退したのでしょうか。
次の祭祀は岩上ではありませんでした。岩陰です。

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空白の後に、6世紀の後半から岩陰祭祀が始まるのです。この空白は何故起きたのか。それは「磐井の乱の影響だと考古学者が云う」と説明されていました。
わたしも「なるほど、磐井の乱で祭祀どころではなかったのか」と納得したのですが、この2,3年でこの文言は消えました。どうなったのでしょう、報告書にもあった文言なのに。空白の意味をしりたいです。

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それから、良かったと思う事がありました
栄山江流域の前方後円墳は6世紀の学説を紹介
このことを紹介してくれたことです。韓国の前方後円墳が、日本の前方後円墳のルーツだと一時騒がれたことがありました。でも、日本とのかかわりはあるけれど、日本から入った墓制だという研究をNHKは取材していました。
なぜ倭人の墓制が入ったのかついては、倭人が半島で鉄を求めたからだとされていました。納得の展開でした。倭人は弥生時代から鉄を求めて海を渡りましたからね。
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それから、青銅器が一つの遺跡から15本出るのも珍しいと紹介されました。木棺墓からの出土です。(ここには、福岡平野のような青銅器の埋納はなかったのでしょうか。筑前筑後では青銅器は大量に埋納されていましたが。)
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(15本の青銅器が出た田熊石畑遺跡)
確かに、たくさんの青銅器です。
宗像には甕棺墓はないとも言われます。朝町遺跡では、木棺墓・土壙墓は173基に対し、甕棺墓は2基で、有力者は木棺墓です。鏡の副葬はほとんどありません。
田熊石畑遺跡には、銅戈・銅矛・銅剣・勾玉・管玉・ガラス小玉などが副葬されていました。やはり、鏡はなかったようですね。

鏡が大量に副葬される福岡平野と若干違いますね。すると、宗像氏は北部九州では祭祀などを見る限り、別の文化を持つ集団だったのでしょうか。
では、では、津屋崎古墳群ともつながらないのではないでしょうか。

宗像氏は確かに不思議な氏族です。歴史の深い意味を背負った氏族だと思います。だからこそ、NHKさんに結論を急いでほしくないと思います。せっかく韓国にまで取材したのだから、結論を出したいのでしょうけれど…
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そうそう、かなり前の嘉麻市のシンポジウムで面白い一言がありました。
磐井の乱後に屯倉がどっと造られたのは、王権の侵入があった証拠ということで、地図上に屯倉の位置を確かめると「宗像は屯倉の空白地帯になっている」ということでした。なるほど、おもしろいなあ、と思いました。宗像氏はかなり前から王権と結びついていたのでしょうか。

では、では、王権にとって宗像は特別だったというのでしょうね。
7世紀後半の天武朝で活躍した高市皇子は、宗像氏とつながる人でしたね。

文章がまとまりませんでした。
疑問点を一部書きましたが、気になったことはまだあります。が、沖ノ島が大事な位置にあり、歴史の語り部であることには何の反論もありません。大切に守ってほしいと思います。
又、明日。






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# by tizudesiru | 2017-11-04 17:27 | 298沖ノ島祭祀・ヒストリアが謎の結論 | Trackback | Comments(0)

297鉄の副葬も甕棺墓の時代から

鉄製品も甕棺墓の時代から製造していた
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甕棺の中に鉄剣と鉄戈が副葬されていました。甕棺の中の鉄製品ですから、銅と鉄はほとんど同じ時期に倭国にもたらされていたのです。しかも、甕棺に副葬された大型鉄戈は国産です。鋳造の大型鉄戈は我が国にしか出土しないそうですから、鉄を輸入して熔かして型に流して戈を造ったということです。大型甕棺を製作し焼成する力があったのですから、鉄を熔かすこともできたでしょう。北部九州では細形銅剣・細形銅矛などとともに銅戈が甕棺の中に副葬されました。その中で、矛を大事にする集団や剣を大事にする集団、戈を大事にする集団と各々の神祭りに使う祭器が違っていったのでしょう。
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安徳台は本当に台地になって他と隔離されています。この後の古墳時代になってつくられた墳丘墓は、ここ安徳台にはありません。なぜでしょうか、この台地は次の時代には使わなかったのです

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古墳時代は明らかに弥生時代とは違っています。
三角縁神獣鏡が出土した妙法寺古墳は、前方後方墳で方形の組み合わせです。同じ那珂川町なのに甕棺墓の時代とかなり違った社会になったのではないでしょうか。

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この古墳の時代の人たちの埴輪や土製品は、弥生の甕棺の技術を反映していません。
近隣の弥生時代の祭祀土器を見ましょう。みごとな丹塗の祭祀土器です。
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夜須町や糸島市の祭祀土器です。
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すごく出来がいいですね。しかし、溝に捨てられていました。なぜ大事な神祭り祖先祭りの品を溝などに捨てたのでしょう。
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生活用具も……
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この技術は何処へ行ったのでしょう。

祭祀用の青銅器が大型化した時代に、弥生集落に異変が起こりました。祭祀具の埋納です。
進んで村祭りの祭器を埋めたことになっています、土中に。
考えられません、何かがあったとしか。大型銅矛をまとめて埋めた集団。銅戈も、銅剣も埋められました。異なる地域の離れている集団が、同じことをするなんて不思議です。
埋めるしかなかった、村はずれの人目につかない処に埋めて隠したかった、見つかれば収奪されたのでしょう。弥生人たちは万に一つの運に懸けて祭祀具を土中に葬ったと思います。氏(集団)の宝を埋めて場所が分からなくなって掘りだせずに今日まで残った! なんて嘘でしょう。
埋めさせられたか、泣く泣く埋めるしかなかったと、わたしは思います。

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鋳造鉄製品を作る技術を持ちながら、彼らは何処へ行ったのでしょう。持ちだした青銅器もあったでしょうね。それらは、あの薄いけれど三角縁によって形を保っている銅鏡に姿を変えたとわたしも思います。
また、あした。




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# by tizudesiru | 2017-11-03 20:00 | 297鉄製品も弥生から製造していた | Trackback | Comments(0)

幻住庵の虚白院に住んだ仙厓和尚のエピソード

仙厓和尚は文化八年(1811)法席を湛元に譲って虚白院に隠退しました。
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62歳の楽隠居ではなく、これからは心のままに大いに教化に務めようと偈を作っておられたそうです。それからの二十年間が仙厓和尚らしい面目を発揮した時代だったようです。来るものを拒まず接してくれる仙厓さんは博多の街の人気者となったのです。
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仙厓百話・第九話 諫言の褒美「雲居の梅」
藩主黒田斉清候は幼少から厳しく教育され、亀井南冥などに師事し和漢並びに蘭学を修めた人でした。特に菊花をこの上なく愛し、天下の名品を庭園に集めて自ら研究もしていたのでした。ところがある日、菊園に園丁某の飼い犬が入り込み幾本かの枝を折ってしまいました。藩主は烈火のごとく怒り、園丁を手打ちにすると言い渡しました。
これを聞いた仙厓さんは早速夜半に庭園を訪ねて鎌で藩主が大事にしていた菊を刈り取ってしまいました。当然、次の日は大騒ぎでした。
仙厓さんは藩主の前に進み「自分が菊を刈り取った」と申し出て、人命と菊とどちらが大切かを問い、「藩内の大飢饉の状況を救いもせず花いじりや菊見の宴でもありますまい」と諫めたのでした。
藩主は自分の非を認め「和尚にしてこそ」と感謝して、お礼に「雲居の梅」を賜ったと云うことです。それが、幻住庵の玄関の梅なのです。


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第二十二話 首斬役人の辞職
ある雪の日でした。仙厓さんが静かに雪景色に見とれていると、一人の男が訪ねてきました。男は藩の首斬役人で、しかもその仕事に不思議な魅力を感じていたのでした。仙厓さんのところに来て、この男はなまくさい自慢話をするのです。
「あんたその首斬役人は大抵でやめたらどうな。後生が恐ろしいとは思いならんな。」
「そら又、なしでっしょうかい。命令するたアお殿様で、殺さるるたア悪い事したものですバイ。罪やら恨みのあるならー、殿様にたたりましょうたい、わたしが何ば知りますな。」
「そうばいな。そこで、あんたに用があるがその腰の刀であの庭の竹ば一本伐ってきちゃんない。」
男は庭に下りて示された竹を鮮やかに伐り倒しました。すると、竹に降り積もっていた雪が男の頭にどっと落ちてきました。仙厓さんは男が竹をもって来るのを見ていいました。
「その竹にはもう用はなか。あんたはびしょねれになったが仙厓はびしょぬれにならんとな。」仙厓さんは続けます。「命令したのは仙厓ばい。あんたがびしょ濡れになるわけはないじゃなかな」と。
役人は唸り、仙厓和尚の言葉で男の仏心が目覚めました。彼はただちに首斬役を辞職して、ひたすら仏の道を求めて和尚の教えを乞い、後生を懺悔減罪の行に励んだそうです。

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幻住庵のあちこちには仙厓さんのエピソードが残っています。

博多の中に溶け込んだ仙厓さんは来るものを拒まず、歌や描画で世間の愚や悪を風刺したり、様々の奇行や頓智で世人に教誨を与えたりしたのです。子どもたち・武家・文人墨客・町人と集まってきました。その中に揮毫依頼者が混じっていましたから、さすがの和尚もほとほと困ったようです。
米屋甚太郎に描いた画の画賛に、
こりゃ甚太郎 虚白院へ行き書きものねだるまいぞ
また合甫長右衛門に与えた歌に、
うらめしやわが隠れ家は雪隠か 来る人ことに紙おいてゆく

仙厓和尚も八十三歳の高齢になると、さすがに書きものに筆をとるのが億劫になってきたのでしょう。
墨染の袖の湊(みなと)に筆すてて書にし愧(はじ)をさらす浪風

と、石工岸田徴平に刻ませて庵の傍に立て「絶筆の碑」としました。

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たまたま講座で会った知り合いが「午後から、菩提寺のご住職がお話をされるので聞きに行くことになっている」というので、突然わたしも聞かせていただくことにしました。突然だったのですぐに自宅に帰り、ひとまず着替えてご講話を聴くことができました。その後、境内を案内していただいてお寺の隅々にまですごく興味を引かれました。
たまたま誘ってくれた知り合いに感謝です。この催しは「博多っ子講座」として計画されていた中の一つでした。ブログの中身は、幻住庵のご住職・山根玄眞様の資料とお話の中から要約して掲載させていただきました。
まだまだ、たくさんの面白くかつ意味の深いお話がありましたが、掲載しておりません。
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博多は何処もおもしろいですね。




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# by tizudesiru | 2017-11-02 16:43 | 296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵善寺 | Trackback | Comments(0)

仙厓さんが住んだ天目山幻住庵に寄り道

雨の日、幻住庵の歴史を拝聴
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天目山幻住庵は博多の聖福寺の隣にあります。
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幻住庵は禅宗の寺院ですが「〇庵」と呼ばれる寺院は、通常「〇寺」と呼ばれる大きな寺の住職がその役目を終えて「〇院」に入り、更に「院」からも隠居して「庵」に入るという、隠居寺のような意味合いを持つ寺院の名称です。更に、規模が小さくなって「軒」となるそうですが、わたしはまだ「軒」という寺院を訪ねたことはありません。
ですから、寺ではない庵なのに「天目山」という山号を持つと云うことは、不思議ですね。通常ではないことです。ですから、ここにはもともと山号を持つ寺院であったと云うことでしょうね。

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元は馬出(馬出)にあったのです。昔は馬出や箱崎の辺りはほとんど寺院か神社の土地だったそうです。筑紫哲也氏の本によれば、見える限り実家の寺院の土地だったそうですから。戦後、寺社は自分の土地を切り売りして困難を切り抜けたのでした。
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お話は本堂でご住職がされました。福岡の西方沖地震では、本寺院は甚大な被害を受け建て替えとなったので本堂も新しくなっていました。
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敷地は5千坪で、寺院の中に仙厓さんの隠居所だった虚白院がありました。
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ここで、博多の人々との様々なエピソードが生まれたのですね。
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又、中国からもたらされた茶の木の栽培地で、いにしえの茶園の跡もありました。当時のものはこの大石が残るのみということでした。

そうですね、ここの寺院が天目山と称する理由もここにあります。天目茶碗といえば、最高級の茶碗ですし高貴な方や身分の高い方に差し上げる時に使われるものです。油滴天目といわれる窯変天目茶碗は国宝でもありますね。天目茶碗は此処で生まれたということです。

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それから、寺院の由来ですね。中国では僧は山中で修行をしますが、其の修行をした山に在る寺院だから「〇山」とつくのです。ですから、開山した無隠元晦(むいんげんかい)和尚の師匠が天目山で修行したということです。それで、師匠の教えを守り、帰国して「天目山幻住寺」を開いたということでした。
「幻住庵」の由来

無隠元晦が参禅した中峰明本という禅僧は、当時の中国の国家管理の「五山十刹制度」・寺と僧侶の格付けする制度を嫌いました。中峰明本は五山第一位に住持するよう求められるほどの中国禅宗界屈指の禅僧であったそうですが、名誉欲を捨て行脚の旅に出ました。そして、行く先々で庵を造り、この庵をすべて「幻住庵」と名付け自らも「幻住」と号しました。

中峰明本のような世俗と一線を引く禅僧の下に多くの地域や国から僧侶が集まりました。無隠元晦もその中の一人です。(中峰明本に学んで日本に帰国した禅僧は六人いるそうです)
無隠元晦は師の墓を三年間守り、博多へ戻って天目山幻住庵を馬出に開山しました。当時の幻住庵は山内に塔頭(たっちゅう)が六ケ所あり広大な大伽藍は巍然として禅門の威を示し、聖福寺・承天寺とならび称されたと伝わるそうです。


中峰明本の法系は日本では「幻住派」と呼ばれ、中世から江戸にかけて日本禅宗に大きな影響を与えました。聖福寺の住職も幻住派から出たそうです。
しかし、戦国時代の博多は海外貿易の拠点であり多くの大名の為に翻弄され兵火に焼かれました。幻住庵も焼失してしまいました。復興に尽力したのは、聖福寺の110代耳峯玄熊と博多商人の大賀宗久、宗伯親子でした。聖福寺から西門の土地をもらい、大賀家からその住居地を寄進され、馬出から現在地に移ったのです。

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天目山幻住庵は三笠川のほとりにあります。この辺りは博多商人の広大な屋敷があったのですね。川岸の森が幻住庵の敷地です。

仙厓和尚のエピソードはまた明日。


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# by tizudesiru | 2017-11-02 01:02 | 296仙厓和尚が住んだ天目山幻住庵善寺 | Trackback | Comments(0)

三角縁神獣鏡は甕棺からは出土しない

国産鏡だった・弥生後期の平原王墓出土の国宝の鏡
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国産鏡という平原王墓の鏡ですが、三角縁神獣鏡はありません。前漢鏡は甕棺からしか出土しないと聞きました。平原王墓は方形周溝墓です。弥生後期にはこれだけの鏡を生産できるようになっていたのです。ですが、古墳時代になると三角縁神獣鏡が出土します。
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しかし、古墳からは三角縁神獣鏡が出土する


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原口古墳は甕棺墓の上に築造された全長80mの前方後円墳です。主体部は粘土槨で木棺を安置していたと思われます。ここから三角縁神獣鏡3面、直刀3振、鉄斧4個、管玉・丸玉5個が副葬されていました。
この古墳の首長は甕棺墓群の集団の墓地を無視して自分のための墳丘を築きましたから、前の首長とは別の集団なのでしょうね。


鏡の製造技術が微妙に変化するのは何時でしょう。
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周防灘に面した福岡県京都郡の徳永川ノ上遺跡は、方形周溝墓(隅丸方形)に箱式石棺・甕棺・土壙墓などが同居した遺跡ですが、そこから内向花文鏡・方格規矩鏡などと共に三角縁神獣鏡が出土しています。

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福岡市の藤崎遺跡でも方形周溝場から三角縁神獣鏡が出土しているのです。
そして、初期の古墳から三角縁神獣鏡が出土するようになるのですね。
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画像は伊都国歴史博物館の「王の鏡」という祈念展示会の資料をデジカメで写したものです。
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三角縁神獣鏡が混じり始めるころが、その製造の開始でしょうね。
それは、方形周溝墓の時代ということでしょうか。

また、あした。


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# by tizudesiru | 2017-10-31 23:31 | 295三角縁神獣鏡の製造の時期は何時? | Trackback | Comments(0)

景行天皇と倭武尊が詠んだ平群の山は飯盛山

古事記にある平群山は福岡市の飯盛山
先に「倭は国のまほろば・倭建命の国偲び歌」と「虚実ないまぜ?古事記と書紀の倭建命の父」(カテゴリ・272平群を詠んだ倭建命)で「平群の山の熊白橿の葉を髻に挿せ」という歌詞をとりあげました。
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この倭建の絶唱に詠われた平郡の山は福岡市の山だと既に紹介していました。その早良郡史のコピーが見つからなかったのですが、家の隅から見つけました。やはり、
飯盛山こそ平群の山だった
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吉武高木遺跡の西に在る飯盛山です。かって、この辺りは平群村でした。将にこの遺跡を中心とした一体です。
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飯盛山から西山麓の室見川を挟んだ一帯を平群郷が占めていました。飯盛・金武・吉武・羽根戸が室見川の西側にあり、田(でん)四ケ(しか)は室見川の東側です。地形的にも近畿の平群と似ていますね。ここ早良郡には伊都国とつながる三カ所の峠がありました。飯場峠や日向( ひなた)峠などは有名ですよね。
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室見川は北に向かって流れています。額田郷で海に注ぎますが、そこには山門(やまと)郷があり、小戸の青木ヶ原が広がり壱岐真根子神社(武内宿祢の身代わりになった真根子を祀る)があります。額田郷も弥生遺跡の宝庫です。奥の島影は残島(能古島)で、オノコロ島(?)とも……だそうです。

この川の中流域・この辺りに平群郷はあったのです。
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西の飯盛山を神山としたのは当然でしょうね。山頂では伊弉冉尊を祀ります。創建時から山頂に伊弉冉尊で、中宮には五十猛命を祀っていました。山頂の玉石は南北朝の戦乱以来、下宮に安置されています。
平安時代になって、廃れていた神社に平城天皇の孫・在原清平から手紙が届き、途絶えていた祭事を復活させたと、神社の由緒にありました。
以来、年間26の行事を執行し、正月十四日の粥占の行事には勅使の参向があったと町史に書かれています。最盛時には神官も十三家あり、七カ所の末寺もありました。

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(飯盛神社・流鏑馬が行われています)
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平群郷の辺りには、伊弉冉命を祀る神社が沢山あります。不思議なことに伊弉諾尊を祀る神社はありません。伊弉冉命と共に祀られているのは、事解男命、速玉男命です。
他の神社には、素盞鳴命(スサノウ)、埴安神、大山祇神、熊野三神、事代主命、少童大神、保食神等々さまざま祀られているのに、伊弉諾命は他の地域に行かないとありませんし少ないです。姪浜の鷲尾愛宕神社には、天忍穂耳命、伊弉諾命、伊弉冉命、火霊産命が祀られています。やはり、伊弉諾命だけの神社はありません。男神は霊験あらたかではなかったのでしょうか。
早良郡は女神を信仰する土地柄なのですね。それは、古代から引き継がれたものでしょうか。すると、中心の神山は飯盛山です。平群郷の神山は、飯盛山です。
ここが、古事記に詠まれた「平群の神山」と思うのです。地名だけでなく古代の神祭りを伝えていますから。

この山に伊弉冉命だけしか祀られていないことを不思議に思ったのは、後の世に進出した氏族、ここの歴史を知らなかった為政者でしょうか。相対する男神を若杉山に太祖神社として祭りました。
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要するに、伊弉諾命が祀られたのは、後の時代ですね。
古代から祭祀をする時、飯盛山を神山として、起点にしてラインを引いたと思います。わたしも古墳や神社や山頂とラインを結んでみました。すると、この十年余りでたくさんの神祭りのラインを見つけました。二点ではなく、山頂・山頂・古墳古墳・古墳・山頂山頂・古墳・山頂神社・古墳・山頂、などなどの三点以上を結んだのです。有効なラインもありますが、偶然もありましょう。でも、地図にのせられた有名どころをつなぎますよ。
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こんなに通過点として、起点としてラインが集まる山はかぎられます。無視できない状況だと思います。これは、古代から神祭りの山だった、祖霊の集まる山だった、ということではないでしょうか。
では、平群郷についてはおわりましょう。



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# by tizudesiru | 2017-10-29 16:01 | 272平群を詠んだ倭建命 | Trackback | Comments(0)

青銅鏡は紀元前に北部九州で国産が始まった

青銅鏡は紀元前に国産品があった!!
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もう数年前の新聞記事です。春日市で多鈕細文鏡の鋳型が見つかりました。
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紀元前に銅を熔かし鏡を作ることができたのです。大きな甕棺を製作していた人たちですから、決して無理ではなかったでしょう。その技術は進んでいったようで、糸島の平原弥生王墓の大型鏡も国産品ということです。
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40面の鏡のうちの内向花文鏡は、直系46.5cm重さは8kgです。これほどの技術は何処へ行ったのか。答は自明のことでありましょう。
そして、なぜこのように鏡を量産したのか? ですが、そこには太陽信仰があったと云うことになりますね。
太陽のように光り輝く鏡は、人々を引き付けたことでしょう。福岡平野には早くから太陽信仰があり、太陽を暦代わりに使っていたと思います。
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何度も紹介しますが、春日の須玖岡本王墓吉武高木王墓三雲南少路王墓は、飯盛山・大城山・宝満山の東西ラインの上に乗っています。この三か所の弥生王墓は鏡を大量に副葬していました。
古代から飯盛山は神の山でした。宝満山も最近まで修験道の山でした。大城山には神武天皇が山城を造っていたという伝承があります。
飯盛・大城・宝満山のラインは古代からの首長の祖先の神祭りの山であったのでしょう。福岡平野では吉武高木の王が、山々を暦とした祭祀を始めたと思います。
それが、春日丘陵に伝播したと思います。
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吉武高木の時代は、飯盛山の上から陽を見たでしょう。
須玖岡本の時代には、日知り王の祭場があったでしょう。
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熊野神社のやや南が丘陵の高地になります。そこに夏至と冬至の日の出・日の入りのラインが偶然にも交叉します。東西ラインの春分秋分の陽は宝満山から出て、飯盛山に沈みます。このラインも同じ処で交差します。
見渡せる山頂を使って、太陽を暦代わりに観測し祭祀できたはずです。
そして、伊都国最大の一貴山銚子塚古墳はこのラインの延長上にあるのです。糸島でも飯盛山を神の山としたと思います。
太陽信仰と鏡は将にセットなのです。
下の写真は、糸島(伊都国)の二見が浦です。太陽信仰の象徴のように思えますね。伊勢より大きいですね。

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太陽が沈む飯盛山には、伊弉冉尊が山頂に祭られています。母の山であり死者の山だったのでしょうね。
そして、ここは以前ブログで紹介した「景行天皇が詠んだ平群の山」であり、倭建命が詠んだ「平群の山」なのです。
それは、また後で。




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# by tizudesiru | 2017-10-29 02:05 | 294青銅鏡は紀元前に国産が始まった! | Trackback | Comments(0)

赤塚古墳の三角縁神獣鏡はヤマトから来たのか?

大分風土記の丘・三角縁神獣鏡
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赤塚古墳には三角縁神獣鏡が5面副葬
パンフレットを見ると、ここも三角縁神獣鏡はヤマト王権との絆とされています。では、大分の三角縁神獣鏡を見ましょう。博物館の鏡は撮影できませんからパンフレットをデジカメで写したものになります。

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唐草文帯二神二獣鏡(21・7㎝)同型鏡(徳島県宮谷古墳、岡山県鶴山丸山古墳(伝) *傘松文様があります
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天王日月鋸歯文帯四神四獣鏡(23・0cm)同型鏡(大阪府石切神社(伝)、京都府椿井大塚山古墳、奈良県黒塚古墳)
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天王日月獣文帯三神三獣鏡(22・5cm)
同型鏡(京都府物集女付近(伝)、三重県筒野古墳、福岡県原口古墳、滋賀県岡山古墳)
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天王日月獣文帯三神三獣鏡(22・4㎝)同型鏡(福岡県原口古墳、同県天神森古墳、同県石塚山古墳、京都府椿井大塚山古墳)
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波文帯盤龍鏡(25・3㎝)同型鏡(なし)*この鏡は被葬者の頭部側にあったという
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赤塚古墳は風土記の丘の北東にあります。全長57・5m。拾遺には8・5m~11mの空濠があります。大分県では、赤塚古墳以外の古墳には三角縁神獣鏡の出土は1面のみです。それで、ここがヤマトと絆の深い重要な古墳とされ、3世紀後半の築造となっています。
ふううむ…では、福岡県の原口古墳・天神森古墳・石塚山古墳も三世紀後半になるのでしょうか?
福岡県ではそうなっていないと思います。福岡市の藤崎遺跡6号方形周溝墓は弥生の集落にあるようですし、若八幡古墳や那珂八幡古墳も古いと思いますが、三世紀ではありません。一貴山銚子塚古墳には後漢鏡が頭部に置かれていたのですが、三世紀後半か四世紀の始めとされています。

古墳の築造年代については、博物館に説明されたとおりに受け留める以外にありません。しかし、あちこち古墳を見て歩いていますと時々不思議に思います。年代は確かなのでしょうか?
赤塚古墳は三角縁神獣鏡が出土することと、前方部が奈良県の箸墓古墳と同じ特徴である「撥型(ばちがた)」になっているとして、三世紀後半となったそうです。
この赤塚古墳が位置する川部高森古墳群には、他にも古墳が五基ほど残されています。免ヶ平古墳、角房古墳、車塚古墳、福勝寺古墳、鶴見古墳ですが、鶴見古墳は六世紀半ばとか。
三〇〇年に渡って同じような墳丘の古墳がつくられたと云うことですね。他の地域では墳丘は形が変わっていきますけど…
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川部遺跡南西地区方形周溝墓は一辺18mの墓で、中央には石棺がありました。中はベンガラが塗られ、水銀朱も見つかっています。副葬品は三種の神器とよばれる玉・鏡・剣でした。上の写真がそれです。
わたしは、副葬品を見ると福岡平野とのかかわりが大きいと思いますが。ヤマト王権との結びつきを強調とすると、歴史はゆがめられませんか?

では。また明日。



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# by tizudesiru | 2017-10-26 21:24 | 293彷徨える三角縁神獣鏡?赤塚古墳 | Trackback | Comments(0)

彷徨う月ノ岡古墳の三角縁神獣鏡

三角縁二神二獣鏡三角縁神獣鏡に入らない
そんなことないでしょう!?
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(月ノ岡古墳の三角縁神獣鏡(上)と吉井町の若宮八幡宮)
最近でしたが、吉井町の若宮八幡を紹介しました。この広場に享保一揆と宝暦一揆の農民たちが集結したと云うことなどを。ここは、古来より人々の心の拠所だったと思うのです。

この神社を挟んで二つの古墳があります。月ノ岡古墳(西側)と日ノ岡古墳(東側)です。月ノ岡は竪穴式石室で長持形石棺があり、日ノ岡は横穴式石室で全面にに装飾があります。二つの古墳は150mほどしか離れていませんが、埋葬儀礼が異なる古墳なのです。月ノ岡古墳からは眉庇付冑などが出土し長持形石棺ということから、ヤマト王権がこの地に入り込んできた証拠だとされています。このことは、既に「そうではないだろう」ということを述べました。

今回は、副葬されていた鏡について書きたいのです。ここの三角縁神獣鏡ですが、前回紹介した「三角縁神獣鏡の出土地リスト」には、掲載されていません。仲間から外れているのです。


三角縁神獣鏡の出土地リストによると、次の古墳や遺跡が福岡県の出土地です

祇園山古墳、神蔵古墳、大願寺、原口古墳、御陵古墳、妙法寺2号墳、一貴山銚子塚古墳、大日古墳、老司古墳、藤崎遺跡6号方形周溝墓、藤崎遺跡第一地点、若八幡宮古墳、那珂八幡宮古墳、香住ヶ丘3町目古墳、天神森古墳、名島古墳、忠隈古墳、御坐1号墳、豊前石塚山古墳、沖ノ島(16号、17号、18号、御金蔵、遺跡)ほか伝来地2か所

ということで、月ノ岡古墳は入れてありません。なぜでしょう。鏡の縁は確かに三角ですが、直系が16.3cmと小さいからだと思います。

技術的には三角縁神獣鏡であり大きさが小さいということは、初期の三角縁神獣鏡だと云うことになりませんかね?
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吉井町教育委員会の「若宮古墳群(2005)」の写真をデジカメで撮ったのを紹介します。月ノ岡古墳は江戸時代から知られていました。
1805年に石室の発掘が行われ『月岡宮掘開記』『月岡所獲古器図』安元大炊祀官により記録が残されています。その後、1853年に矢野一貞が『筑後将士軍談』のなかで「若宮村古墳」「若宮月岡併古物図」と題して発掘の経緯や主要な出土物についての詳細なと説明を残しています。
その絵図を吉井町の発掘報告書から紹介します。

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スゴイ記録ですね。矢野一貞はこれらが腐ってしまう前に記録しなければならないと分かったのですね。写真は、眉庇付冑と鎧の破片、帯金具、脛当です。
では、吉井町の報告書の武具の写真を紹介します。デジカメで写しました。

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龍文透彫銙帯金具(上)は大阪府七観古墳の出土物に似ているそうです。七観古墳は、帯金具のみだけでなく、馬具類、革綴短甲、武器の大量副葬など、月岡古墳と共通するそうです。しかし、三角縁神獣鏡は七観古墳では出土していないようです。
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月ノ岡古墳の鏡は一面だけではありません。矢野一貞の記録には5面ですが、現在は4面が吉井町の博物館に展示されています。
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1号:同行式画像鏡(三角縁二神二獣鏡) 16.3cm *朱が付着している 
2号:獣形文鏡  11.9cm
3号:四乳渦文鏡 9.5cm
4号:珠文鏡  6.9cm

(5号は不明です)
2・3・4号は三角縁ではないし、前・後漢鏡のように縁は平たいですね。末永雅雄は「増補 日本上代の甲冑」(1981)で、4面をすべて仿製鏡としています。国産としても、モデルとなったのは弥生の漢鏡でしょうね。
この鏡は技術的にも高度だったのでしょうね。前回のブログで紹介したように三角縁神獣鏡の鈕孔は方形でした。しかし、1号鏡の鈕孔は丸いのです。
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鈕孔を見ると、たくさん出土した三角縁神獣鏡とは違いますよね。
では、この鏡はどんな位置付けになるのでしょう? 三角縁であって、三角縁とは呼ばれない、重要な古墳からの出土なのに「行き場」がないのです。

このまま「彷徨う三角縁神獣鏡」として、吉井町の博物館に鎮座するのでしょうか。
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月ノ岡古墳の三角縁神獣鏡は、和製鏡の大量生産の発祥地を教えてくれるかも知れませんね。

吉井町若宮にある月ノ岡古墳の竪穴式石室の蓋石は、石碑として、月讀神社(墳丘の上に在る)の社の敷石として使われています。
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石棺は社の中に御神体として祀られているのです。
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今回も隙間から覗きましたが、まったく見えませんでしたので、吉井町の報告書の写真を紹介します。あいにく雨だったので余計に暗かったのでしょう。
では、墳丘も紹介しましょう。前方部は草が刈られていましたが、雨で少々けぶって見えます。
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後円部もかすんでいます。木立の中に月讀神社があります。
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同行式画像鏡が何者なのか、その出自がはっきりする日が来ることを願っています。

同じ若宮地区には、日ノ岡古墳だけではなく、塚堂(つかんどう)古墳があります。ここは、副葬品・埴輪もあり出土遺物も面白いのですが、文化財指定を受けていません。古墳としての残存面積が少ないからだそうです。びっくりしました。
なかなか面白い古墳です。わたしは文化財指定を受けていないなら、町が独自で復元して、埴輪を並べ古墳公園にしたらいいと思いました。見ごたえがあると思いますよ。どうですか? 吉井町の方はいいものをお持ちですよ。
では、これにて。



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# by tizudesiru | 2017-10-24 00:56 | 292彷徨う三角縁神獣鏡・月ノ岡古墳 | Trackback | Comments(0)

三角縁神獣鏡はなぜ大量生産されたのか?

三角縁神獣鏡は卑弥呼が魏から下賜された鏡ではない
最近、既に多くの人がこう考えているようです。
それはそれでいいのですが、では何故大量に生産されたのでしょうか。
三角縁神獣鏡が人気商品だった理由があるはずです。
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弥生時代の甕棺から出土する鏡は、一つの鋳型で一つの鏡しか造らないそうです。しかし、三角縁神獣鏡は一つの鋳型でたくさんの同范鏡を作っているのです。
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同范・同形鏡は全国で出土しています。その供給元が椿井大塚山の被葬者だったというのですが、本当でしょうか。

椿井大塚古墳出土の三角縁神獣鏡と同范・同形鏡を手元の資料でみますと。

天皇日月獣文帯四神四獣鏡、獣文帯五神四獣鏡、獣文帯四神四獣鏡、などなど文様もさまざまですが。

茶臼山古墳(奈良)・奥津社古墳(群馬県愛西市)・備前車塚古墳(岡山市)・秦上沼古墳(岡山県)・西求女塚古墳(神戸市)・長法寺南原古墳(長岡京市)・寺戸大塚古墳(日向市)・石塚山古墳(福岡県苅田町)・赤塚古墳(大分県宇佐市)など挙げられます。
全国の古墳と共通するのですね。それも、大きな古墳から多く出土するというのです。そうなんですね。
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でも、ですね。ちょっと気になることがあります。
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それは、鏡の数ではなく出土地の数です。
確かに、近畿に400面以上の三角縁神獣鏡はスゴイです。黒塚古墳33面、大塚山古墳33面を考えると、二ヵ所で66面になります。では、出土地の数はどうなるのでしょうね。「三角縁神獣鏡辞典(吉川弘文館)」のデータで調べてみましょうか。
ただ、出土地はそのままでいいのですが「伝来品」はどうしましょう。他所から持ち込まれたかも知れないし、偽物として造られたかも知れません。このことも考えてみましょうね。

県名 (出土地の数)#(出土地の中で5面以上の出土地数)*伝来品の数 
鹿児島県 (1)
宮崎県 (3)
熊本県 (0)*伝来3 
佐賀県 (3)
福岡県 (24)
#5面以上3出土数内に沖ノ島の遺跡5*伝来2 
大分県 (3)#5面以上1 *伝来3 
愛媛県 (2)
香川県 (5)*伝来1
徳島県 (2)*四国の伝来1
山口県 (4)*伝来1
島根県 (5)
鳥取県 (5)*伝来1
広島県 (5)
岡山県 (8)#5面以上 *伝来2 
兵庫県 (20)#5面以上 *伝来2 
和歌山県 (1)
大阪府 (17)#5面以上 *伝来3 
京都府 (15)#5面以上 *伝来6 
奈良県 (16)#5面以上 *伝来16 
滋賀県 (7)
三重県 (6)*伝来4
福井県 (1)*伝来1
石川県 (0)*伝来1
岐阜県 (8)#5面以上 *伝来4 
愛知県 (8)*伝来3
静岡県 (8)*伝来1
長野県 (2)
山梨県 (2)*伝来1
神奈川県 (2)
千葉県 (2)
埼玉県 (1)
茨城県 (0)*伝来1
群馬県 (6)*伝来2
福島県 (1)
出土地不明 (42)

*福岡の場合、沖ノ島では16号,17号,18号、御金蔵など出土遺跡がことなっています。

こうして見ると、福岡・兵庫・大阪・奈良・京都が多いようですね。これは、三角縁神獣鏡のデータです。古墳時代になって、鏡の生産を担ったのは何処なのでしょう。弥生の鉄も銅鏡も出なかった地域に鏡造りが急に盛んになったのなら理由があるでしょう。鏡を持つことで氏族の家格を引き上げたとか…でしょうね。

経済力を持ち権力を手にした氏族が次に求めるのは、高貴な血統と家柄の格上げでしょう。鏡は古代王家のシンボルであり、光り輝く物でした。威信財として、魔よけとして、家格の向上の為にも必要だったのでしょう。
鏡を多く手にした氏族は新興勢力だったと云うことです。そして、其の鏡の材料として北部九州の銅鏡や銅剣・銅矛・銅戈が持ち込まれて熔かされたと思います。
だって、伊都国の平原王墓でも分かるように、鏡の大量副葬は王墓級では当たり前のことでしたから、それに倣おうとしたのでしょう。

椿井大塚山の被葬者が鏡の生産に携わったかどうかはわかりません。ただ、彼は他の古墳群と離れた木津川の畔で氏族の栄華を願い、ひたすら鏡を集めていたと云えると思うのです。鏡制作者を集めたという可能性も否定はできませんね。わたしはその結果として様々な地域との同范同形鏡が手もとに集まったのだと、思うのです。

では、鏡を作っていたのは何処の誰なのでしょう。
銅製品を早く弥生時代から加工していたのは、北部九州でした。

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30面以上の漢鏡を副葬していた須玖岡本遺跡の王墓があった春日丘陵は弥生の工場地帯でした。57面の前漢鏡を副葬した三雲南少路王墓のある伊都国にも、産業があったのです。
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そこでは銅製品も作っていました。春日市では弥生時代の初期に移入したとされる多鈕細文鏡の鋳型が破棄された状態で出てきています。大事な鋳型を残したら技術を盗まれるからでしょうか。ただ、広形銅矛の鋳型は、時代が不必要としたので捨てられたのでしょう。弥生の終わりに突然に埋納された銅矛たちの鋳型です。春日市でも鋳型が出土しています。

弥生集落の発掘調査によると、北部九州では政治的大異変が起こったようです。弥生集落が突然捨てられました。人々は生活道具を周濠に捨て、又は家屋にそのまま残して何処かへ去りました。大型甕棺の時代に忽然と人々が消えたのです。文化的にも栄えていた時に、何かがあったのです。弥生集落の遺跡はそこが捨てられた時代を教えています。福岡平野でも、南の筑紫平野でも、同じように集落が捨てられました。捨てられた理由は地震でも洪水でもありません。福岡平野も筑紫平野も農業用地としては一等地が捨てられているのです。

銅製品製作の技術を持った人々は何処へ行ったのでしょうね。
大型甕棺の製作技術を持った人々は何処へ去ったのでしょうね。
わたしは技術を持った人々は何処に行っても歓迎されたと思います。
彼らは、新天地で自分の生業に汗を流し励んだことでしょう。そして、権力者に取り込まれていったと思います。

この人々の移動を引き起こした政治的大事件が、倭国大乱の後の卑弥呼の死であり狗奴国との戦争だったと思います。つまり、史書に残る倭国の中心地は北部九州にあり、そこから人々が拡散して行ったと思うのです。

また、明日。


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# by tizudesiru | 2017-10-23 01:41 | 291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は? | Trackback | Comments(0)

三角縁神獣鏡を製造した?椿井大塚山古墳

椿井大塚山古墳に行きました
三角縁神獣鏡を製造した首長の墓?

椿井大塚山古墳の被葬者が、王権の委託を受けて三角縁神獣鏡を製造したと、いう説がほぼ定説です。この古墳を線路が横断していますので、前方部と後円部は線路で分断されています。
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だから、時々電車が通ります。
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ここは、木津川市の椿井大塚山古墳です。
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では、大塚山に登ってみましょう。線路のガード下を通って、墳丘に登ります。
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ここを上って行くと、後円部につきます。
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周囲は竹林になっていました。
山城の二大古墳群は、乙訓古墳群と久津川古墳群です。木津川古墳群の椿井大塚古墳群(全長75m)は少し離れた所にあります。
南部の比較的小さな古墳群の中に椿井大塚山古墳はあります。
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地図の一番南に在ります。木津川がカーブして北上する辺りです。
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では、鏡のことはまた明日。



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# by tizudesiru | 2017-10-20 22:47 | 291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は? | Trackback | Comments(0)

続・黒塚古墳の三角縁神獣鏡


黒塚古墳にいきました



黒塚古墳の三角縁神獣鏡の続き

黒塚古墳は三角縁神獣鏡が33面出土した古墳でした。33面は棺外に置かれていましたね。戦後には「卑弥呼の鏡」として話題を呼びましたが、大量に見つかってしまった上に棺外に置かれていたので、これら三角縁神獣鏡が中国からの下賜品とは考えにくくなり、今では「三角縁神獣鏡」に考古学者でもふれない人が多いということです。が、今でも三角縁神獣鏡の中でも出来のいいものは「舶載品」出来の悪いものは「国産品」と分けられて論じられてもいるのです。
最近、ちまたでは三角縁神獣鏡の代わりに、「画文帯神獣鏡こそ卑弥呼の鏡だ」と主張されているようです。
黒塚古墳でも画文帯神獣鏡は棺内にありました。
では、昨日の続きで33面の鏡の残りの写真を紹介しましょう。
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こんな33枚の三角縁神獣鏡が棺外に置かれていたのですね。そして、画文帯神獣鏡は,棺内に置かれていました。
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この画文帯神獣鏡は13.5cmと小さいのです。が、棺内に置かれていたと云うことは、大変意味のある鏡なのでしょう。
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三角縁神獣鏡の出土は、奈良も京都もダントツですね。それは、一つの古墳に出土する数が多いからですが、この地域の首長はどうしてたくさん副葬することを願ったのでしょうか。理由があるはずですよね。
①鏡を副葬することは弥生時代から九州の首長のステイタスだった。鏡や武器はステイタスシンボルとして憧れの威信財だった。その思想が畿内に伝播した。
➁鏡製造の技術を持った集団が、何らかの理由で東へ移動した。そこで、生業にしてきた鏡作りをして地域の有力者と取引をした。銅を手に入れる手順を熟知していた。
③鏡や威信財を手に入れた首長達は、近隣の首長より多く手に入れようとした。
④祖先の葬送のしきたりの鏡・刀・剣などの武器や武具を埋葬する習慣を強調するために、大量に副葬品として墓に入れた。
と、なるのでしょうか。

500面近くの鏡の材料(銅)は、どのようにして手に入れたのでしょうね。輸入するにしてもそうそうには大量の銅は手に入らないでしょうし、それは大量の鉄にしても同じでしょう。
古墳時代になって、近畿で鉄製産が爆発するにしても、その技術者が全くいなかった(鉄の出土のない)地域に「鉄生産が急に始まる」には、理由が必要でしょう。ミステリーではありません。歴史的な意味や理由があるはずです。
古墳や石棺に朱を塗る習慣も九州が発祥ではありませんか。
埴輪を赤く塗るのも、九州の弥生の祭祀品の丹塗土器の伝播ではありませんか。九州で朱やベンガラが使われなくなった後に、近畿で朱が使われるようになったと考古学の先生から聞きましたが、そうだろうなと思いました。
その時、近畿の銅鐸は、九州から持ち込んだ鏡を鋳つぶして造ったとも聞きました。

いろいろ聞いて思う事は、三角縁神獣鏡も最初は九州で生産されたのではありませんか、という簡単なことです。



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# by tizudesiru | 2017-10-19 20:00 | 291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は? | Trackback | Comments(0)

黒塚古墳の三角縁神獣鏡


黒塚古墳に行きました
三角縁神獣鏡を見ました

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資料館では黒塚古墳の竪穴式石室を再現していました。正面からも上からものぞくことができます。三角縁神獣鏡が棺外に並べられていたことがわかりますね。
ここは写真撮影はOKでしたよ。
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18号を写していないようです。
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33枚はやや多いので、次にまわします。
また、後で。




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# by tizudesiru | 2017-10-18 14:46 | 291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は? | Trackback | Comments(0)

三角縁神獣鏡を33面も副葬した黒塚古墳

黒塚古墳に行きました

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春に行ったときは資料館が閉館していましたので、再度、夏に行きました。
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後世に城が造られているので、元々どんな古墳だったのか分からないのです。
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後円部の縁を廻って前方部から墳丘の上に登りました。
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墳丘の頂上は平らになっていて、石室のようすが陶板で紹介されていました。
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周囲を全部見渡せる位置に墳丘墓は作られていました。
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木が高くて十分に辺りが見えませんでした。辺りには大型古墳が揃っているのです。
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ここは三角縁神獣鏡が文様もはっきり残っています。資料館内には古墳石室が原寸大に復原されていました。大きな木棺あとでした。
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三角縁神獣鏡は棺外に置かれていたのです。鏡の力で棺を守ったのでしょう。
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黒塚古墳の時代は、まだまだ鏡の力が墓に必要だと考えられていたのですね。
それも一枚じゃ心細かった、できる限り手に入れようとした、のですね。
鏡の紹介は、次にまわします。

では、次回お会いします。



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# by tizudesiru | 2017-10-17 12:28 | 291黒塚古墳の三角縁神獣鏡の出自は? | Trackback | Comments(1)

人麻呂は弓削皇子の挽歌を詠まなかった!

人麻呂は弓削皇子の挽歌を詠まなかった!何ゆえ?
それは何故なのか、詠まなかったのか、詠めなかったのか、詠もうとしなかったのか?
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(香具山と藤原宮)

弓削皇子の挽歌を詠んだのは、置始東人(おきそめのあづまひと)でした。

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東人は「皇子はいつまでも生きていたいと願っていた」と詠みました。その通りだったのでしょう。弓削皇子は日頃から「我が命は長くはない」と話すことがあったようです。そんな不安を持って生きていたことが万葉集からも読み取れます。いつからそんな漠然とした不安を持つようになったのでしょう。
だいたんに想像するなら、軽皇子立太子の後ではないでしょうか。当時は二十歳ほどの若者でした。多少青臭い言動もあったでしょうが、賢い青年でした。その言動には藤原氏が鋭い視線を向けていたと思われます。
多感な青年は滅びた近江朝にも関心があったようです。天智天皇の葬儀に最後まで仕えた額田王に弓削皇子は親しく歌を贈っています。
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いにしへに恋ふる鳥かもゆづりはの御井の上より鳴き渡りゆく
吉野のゆづりはの繁る御井の上を鳴きながら飛び去って行ったあの鳥は、あの古を恋う鳥なのでしょうか。あんなに鳴いて飛んでいくから、わたしも古に思いをはせました。あなたは古を思う事はありますか。
弓削皇子は近江朝に最後まで仕えた額田王を信頼していたのです。あなたも昔(近江朝)が恋しいのではありませんか? と。
そのころの弓削皇子には、持統天皇の吉野行幸について行っても心に不安があったのです。額田王は若い皇子に歌を返しました。

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額田王は若い皇子に応えました。
まあ、殿下、古を恋うる鳥ですか、それは霍公鳥だったのではありませんか。その鳥はきっと昔を偲ぶように鳴いたのでしょうね、まるでわたくしの思いのような懐かしそうな鳴き方をして。


額田王は人生の辛苦をなめ尽くしていました。娘の夫(弘文天皇)は壬申の乱で殺され、娘は突然死(自死)し、孫(葛野王ら)を抱えて苦労したでしょうね。だからこそ、優しかったのかも知れません。

弓削皇子を取り巻く状況はどんどん変化していきました。軽皇子立太子の半年後、文武天皇の即位です。夫人となったのは、藤原宮子で不比等の娘でした。不比等は文武天皇の乳母だった犬養美千代を妻とします。文武天皇の周囲は藤原色に染まっていきました。

そして、弓削皇子の不安は現実となり、文武三年(699)薨去となりました。
この後ですが、不比等は美千代に女子を生ませ、その女子を文武天皇の皇子の夫人としていくのです。文武天皇の皇子の乳母はなんと犬養美千代でした!文武天皇と聖武天皇の双方の乳母は美千代だったのでした!)

持統天皇は自ら太上天皇となり、必死で文武天皇を支えていました。若い天皇が政治をするのは大変なことでしたから。文武天皇も必死で祖母に答えました。そして、大宝二年(702)持統天皇の崩御となったのです。

こんな状況では人麻呂は弓削皇子の挽歌を詠めなかったでしょうね。だけど、人麻呂が密かに挽歌を詠んだとすれば、万葉集のどこかに置かれているでしょうね。

(太上天皇亡き後(702年以降)、文武天皇も無理がこうじて倒れ長く臥せることになったのでしょう。
夫人の宮子も首皇子(701生)を生むと我が子を抱くこともできないほど精神的に追い詰められ、閉じこもって(閉じ込められて)いったのでした。)


人麻呂は世の移ろいを見ていたでしょう。持統天皇の遺勅を受けて、万葉集を完成させるために日を過ごしていたはずです。才能に恵まれながら若くして世を去った天武帝の男子を人麻呂は惜しんだのだと思います。
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万葉集編集者は弓削皇子の歌を多く残していますから、この若者の死を惜しんだに違いありません。編集者は誰ですか。
わたしは「初期万葉集を編纂させたのは持統天皇、実行したのは人麻呂だった」と思っています。その後いろいろあって万葉集は大伴氏から平城天皇に渡り、勅撰集のごとく編集されたと思っているのです。何度もしゃべりましたが。
なぜ、平城天皇は万葉集に興味を持ち、都を平城京に戻すように望みかつ実行したのか。それは、万葉集を読んで王朝の本当の姿が見えたから、桓武天皇が捨てた平城京こそ王朝のルーツであり意味があると理解したからと、わたしは思っているのです。

ところで、何故こんなに話が飛ぶのか
(古墳・神社・万葉集・近畿から大阪・熊本・福岡と話が飛ぶのは、何故なのか) 
是についての私の言い訳を書いて見ますと、わたしの中では全てつながっているのです。そんなこと当然のことですが、一つのことを書いていると関係ない事象が結びつくのです。そして、謎が解けていく…
例えば、万葉集の歌を和歌(倭歌)というなら、倭国の歌ではないか。倭国で生まれた歌なら、倭国は何処にあったのだ? 万葉集に倭国の地を探る手がかりがあるだろうか。万葉集の編纂者はどのような認識を持って編纂したのだろうか。となるのです。そして、倭国に徐々に近づいていくのです。まだ答は書いてはいませんが。
さらに、古墳ですが畿内の古墳は箸墓を基準に考えられています。明らかに三世紀の古墳ではありません。しかし、編年がぐちゃぐちゃで副葬品や墳丘の形が納得できるようになっていないのです。たとえば、有名なメスリ山古墳には鏡の副葬はありません。すると、鏡副葬の後の時代に造られた古墳となり、多くの副葬品はどこかからか運ばれたことになるでしょう。では、何処から?
一つ一つの事実は独立しているのではなく、必ずつながっています。
わたしは古代史のパーツを拾い集めています。ジグソーパズルのようにそれらはある結論を導き出すと信じて、ひたすらはめ込んでいるのです。


というわけで、次は黒塚古墳に飛びますね。
ミステリーは、人を引き付けてしまうものですね。


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# by tizudesiru | 2017-10-16 20:58 | 290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達 | Trackback | Comments(0)

柿本人麻呂は舎人皇子に警告した!危機が迫っている!

柿本人麻呂は舎人皇子に警鐘の歌を献上

ご用心召され、皇子は狙われておいでです!
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天武帝にとって草壁皇子と大津皇子と、壬申の乱後に生まれた天武帝の皇子の中で天智帝の皇女を母に持つ男子が特別でした。
天武帝は近江朝の後宮の女性を外に出しませんでした。全部自分の後宮か家族の妃としたのでした。高貴な血をほかに伝えるのを避けたのです。次の火種となりますから。

それが、天武帝が天智帝の皇女を何人も妃にした理由なのです。大江皇女は長皇子(674?生)と弓削皇子を生み、新田部皇女は舎人皇子(676生)を生みました、壬申の乱後に。天智帝が弟との結びつきを深めるために娘を出したのではないのです。皇女が後宮に入れられたのは壬申の乱後で、天智帝は既に崩御していたのですから。皇女の運命を決めたのは天武帝、高貴な血統を守るために天武帝が判断したことです。
それは、孝徳朝から難波朝に移るときも、天智朝に移る時も実行されました。天武朝でも同じだったのです。


特別だった長皇子のことは、前回紹介しました。今日は舎人皇子のことを紹介します。
皇子、ご用心なさいませ!と人麻呂は詠む 
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天武帝に愛され朝政を聴くまで成長していた大津皇子(663~686)が謀反の罪で死を賜り、草壁皇子(662~689) が薨去した後、残された若い皇子の成長が待たれていました。人心は長皇子と舎人皇子に集まっていたでしょう。

ふさ手おり多武の山霧しげみかも細川の瀬に波の騒げる
この歌が詠まれたのはいつでしょう。多武の峰といえば藤原不比等と兄の定恵が父・鎌足の遺体を移し祀ったという寺のあった所です。藤原氏を象徴する山に霧が立ち込めている…霧や雲は霊魂や人の思いや下心の現れたものというのが古代人の認識でした。
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(別格官幣社 談山神社)


多武峰に厚く立ち込めた山霧だけではなく、細川の瀬も音が激しくなっていると、人麻呂は詠みます。山の上ではすでに嵐になっているのです。藤原氏が暗躍し不穏な空気が流れています。なぜでしょう?
もちろん、舎人皇子が人心を集めるほどに成長しているからです。だから、時間がないと軽皇子(草壁皇子の忘れ形見)を擁立しようとする藤原不比等が策を練っている、亡き父・鎌足の元で。だから、ご用心なさいませと、人麻呂は歌に託して危機を知らせたのです。

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おや?と、思いますよね。持統天皇の忠臣がなぜ長皇子を称えたり、舎人皇子に危機を知らせたりするのでしょうか。幼い軽皇子にとってはライバルではありませんか。
持統帝は軽皇子を後継者とするために即位したのではありませんでしたか?
そうなんです。これらの歌から読めるのは、持統天皇は長皇子に期待し舎人皇子も愛していたことになるのです。なぜ? それは、天智帝の血統の皇子だったからでしょう。
持統帝は常に天智帝につながる人を大事にしています。


冬こもり春部を恋ひて植し木の実のなる時を片待つ吾等ぞ
皇子の成長を待っていたのは人麻呂だけでなく、大勢いたようです。だからこそ、危険が迫った。その警鐘の歌を読んで、舎人皇子も歌を返します。

黒玉の夜霧はたちぬ衣手の高屋の上にたなびくまでに
人麻呂の意図は皇子にも伝わり、皇子もこたえました。真黒な夜霧がとうとう高屋(高貴な方がお住まい)の高殿の上にまでたなびいてしまった、わたしは心して日を過ごそう…これは、持統天皇も取り込まれたと舎人皇子が理解したということでしょうか。


人麻呂が二人の皇子に献じた歌を読む限り、持統天皇がはじめから軽皇子のみを後継者としていたとは思えないのです。女帝は天智帝の血統の子供たちを十分に愛していたと思うのです。


それにしても、「冬こもり春部を恋ひて」の歌、難波津の歌にイメージがにていませんか? 以前にも書きましたが、王朝の始まりを寿ぐ歌でしたね。人麻呂は同じような思いを舎人皇子に抱いていたのでしょうね。
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では、今日はここまで。




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# by tizudesiru | 2017-10-15 11:59 | 290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達 | Trackback | Comments(0)

柿本人麻呂は長皇子を皇太子のごとく歌に詠んだ!何故?

人麻呂が称えた長皇子
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持統天皇の即位は、将来的に孫の軽皇子(文武天皇)に譲位するためだったと、史家は語ります。事実、歴史はそのように動きました。

万葉集も確かに歴史書の通りに読めますが、ところどころに「おや? なぜ?」と歴史の流れと反すると思う箇所があります。
天武朝の皇子に対する柿本朝臣人麻呂の歌もしかり、それは何か所もありますが、今日は人麻呂が長皇子に献じた歌を詠んでみましょう。
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やすみししわご吾大王高光る日の皇子
とたたえる言葉が続きます。まるで皇太子のようです。

更に、「あめゆく月を網に刺し、キヌガサにした」大王だと反歌に詠みました。長歌に重ねて、反歌でも「大王」と飾りたてたのでした。この御猟は天皇の儀式のように馬を並べて行われ、狩場の鹿も鶉もはいつくばって大王を敬ったと詠んだのですから、驚きます。
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「或本の反歌」として、
おほきみは神にしませば真木のたつ荒山中に海を成すかも
の歌が付けたされています。「おほきみは神にしませば」の修飾詞は「天武朝の皇子達と天武朝にしか使われていない」と、万葉学者の指摘です。
天武朝の皇族は「神である」という思想を強く打ち出したのです。だから祖先の時代を神代として正史に残したのでしょう。

皇子の高貴な血統
長皇子は天武天皇と大江皇女(天智天皇の娘)に生れた男子です。弟に弓削皇子がいて、母の弟・叔父は川嶋皇子(天智帝の男子)です。天智帝と天武帝の血統だから長皇子に人麻呂が歌を献じたのでしょう。もちろん、この歌が詠まれた時点では持統帝も認める皇子だったので、公の場で称えられたのです。ほとんど次の皇太子的存在だったのでしょうか。
大津・草壁皇子が没したあと、周囲の目は天智帝と天武帝の二人の血統の男子に向いていたと思います。
長皇子、弓削皇子、舎人皇子は特別な存在だったでしょう。


持統十一年(697)軽皇子立太子(14歳)
人麻呂の歌が献じられた皇子や皇女は特別な存在だったとなると、では何故、長皇子は皇太子にならず軽皇子(文武天皇)が立太子したのでしょう。

軽皇子は14歳でしたが、長皇子は8歳年上ですから凛々しい青年になっていたはずです。持統天皇が孫を愛していても、周囲の豪族や高官を納得させることは難しい状況だったかもしれません。

弓削皇子は「軽皇子の立太子」に異議を申し立てました。
それは、当時の状況を反映してのことでしょう。彼は「兄の長皇子がより皇太子にふさわしい」と思っていたかもしれません。しかし、弓削皇子の異議申し立ては葛野王(大友皇子の子)に一喝されました。


長皇子の立太子を望んでいた勢力は、権力が何処に動いたのか思い知らされたでしょうね。

この後、高貴な皇子たちがどうなるか想像できますね。
弓削皇子は三年後寂しく薨去し、長皇子は文武天皇崩御後に再度脚光を浴びるのですが……舎人皇子は自分の立場を理解し一歩下がり臣下のように振る舞うという……

その歌の紹介は、また。


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# by tizudesiru | 2017-10-15 01:10 | 290柿本人麻呂が献歌した天武朝の皇子達 | Trackback | Comments(0)

聖徳太子の存在は証明できたのか?ヒストリア

NHK歴史ヒストリアは、聖徳太子の実在を証明したのか?
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(最近、教科書ではこの画像を聖徳太子と教えていません)
聖徳太子は実在しなかったという説もあります。
また、隋書のアメノタリシホコは奈良の聖徳太子ではないという説もあります。
だって、日出処天子は男性でその姓は阿毎(アメ)、あざなは多利思北弧(タリシホコ・タリシヒコ)。彼には妻がいて、その号は阿輩鶏弥(アハキミ)です。

天子と名乗る以上、それなりの財力・統制力・組織力・元号・税制など持たねばならないものが多々ありますが、隋書の天子は持っているのです。また、天子が男性であるか女性であるかも重要でしょう。隋書に書かれた天子は男性です。

「倭王は天を以って兄と為し、日を以て弟と為す。天いまだ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺(かふ)して坐す。日いづれば、すなわち理務をとどめ、わが弟にゆだねんと言う」とかかれています。


奈良の推古天皇は女帝で、夜のうちに仕事をし昼は弟に任せるなんてことは、一つもありません。全く違うシステムで政治をしているのです。


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更に、釈迦三尊の光背の銘文です。
光背の裏に銘文があり、字はタガネで彫ったのではなく、蝋書きし(蝋に字をほり土で固め)熱で蝋を溶かしたところに銅が流れ込むという技法で作られています。でも、その技法で時代を特定できるでしょうか。
以前から、光背の銘文は後にはめ込まれたもので太子の時代の事ではないという説が有力で、研究者の間でも問題になっていました。

わたしは十数年前に「銘文は本物だ」という説を読んだことがあります。研究者の名も本も忘れましたが、その中で印象に残っている箇所があります。
銘文の真偽を十分に展開したあと、
光背にはめ込まれた銅板に銘文は彫られている。文章を彫り込んだ板を出来上がった光背に後世はめ込んだということは、十分に考えられることである。しかし、光背には鍍金(金メッキ)が施してある。それが何時為されたのか、それがはっきりすれば問題は解決する。
光背と銘文銅板の間の永年の汚れを取り除けば、光背に鍍金が成された時、銅板が既にはめ込まれていたのか、銅板の鍍金が後の時代のものか、光背完成時期か、明らかになるだろう。
国宝に手を入れるのではなく、光背と銅板の間の一部の付着物を取り除けば鍍金の時期を確定できるのではないか。それを実行してほしい」

という内容でした。わたしは感激したので、よく覚えています。図書館で借りた本なので探せば分かると思います。
問題はこの後です。この銘文の主人公は最高位についた人なのです。皇太子ではありません。日本書紀の聖徳太子ではなく、極位についた天子であり法皇となった人なのです。

是が本物なら、新しい歴史上の問題となるのです。

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尺寸王身であれば、法隆寺の夢殿の秘仏「救世観音」とよく似た体形だとか…
そして、叡福寺古墳(聖徳太子の廟)の棺の話でした。棺は漆塗の挟紵棺ということでした。その破片が石室内から出土しているのです。わたしはこの石室も挟紵棺(きょうちょかん)も、後の時代のものと思っていました。
NHKもその辺りを取材していました。野口王墓や牽牛子塚古墳(斉明天皇陵と考えられている)の漆塗り木棺・挟紵棺が取り上げられていました。つまり、後の時代になって、聖徳太子が取り上げられ、棺が作り直されたという説の紹介でした。

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しかし問題はそのあと、明日香のそれらは麻布に漆を重ねた棺ですが、叡福寺古墳のものは麻ではなく絹だったのです。それも漆を塗った棺は100Kgあったというのです。
絹の消費量を考えると、何処で調達したのでしょうね。飛鳥・奈良時代ですら絹の産地は筑紫です。万葉集にも「筑紫のわた(絹)」の歌があります。叡福寺の棺だけ特別調達したのでしょうか? 何ゆえに?
そのうえ、光背銘文と日本書紀が大きく食い違うのは何故でしょう。隋書とは食い違ってはいませんよね。


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それに棺が乗せられた棺台(石材)ですが、そこに格狭間(こざま)という仏具につく文様があるのです。
わたしはこの紋様を持つから、叡福寺の石室は新しいと思って、ある大学で質問をしました。答は、
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この格狭間(こざま)は、中国では早い段階に使われているから、後代の文様とは入ってきた経路が違うと、答えていただきました。
そうなんですか。
太子町では、叡福寺古墳の棺を早い段階における技術の導入だと、主張していたと思います。現に漆棺の破片が出ていて、聖徳太子伝承があるからです。その伝承がどのような経緯で出来上がったのか、問題にならないまま信仰と結びついて、真実が見えなくなったと、思うのですが。

多くの検討がないまま様々な主張がなされているので、NHKはよく検討して番組を作ってほしいと思いましたね。

日本書紀の聖徳太子のところは、後からの挿入と考えられる漢文的にもちぐはぐであると読んだことがあります。書紀の推古朝には多くの問題があるのです。
a0237545_00233056.jpg
髄は使者を倭国に送りましたから、使者である文林朗裴世清は倭国王に会いました。まさか、女帝が宮室に隠れて代わりに皇太子が使者に会ったなど、想像できますか?
そんなことできるわけがないでしょう。ですから
日出処の天子は書紀の聖徳太子ではない、と思います。

ヒストリアでは、阿武山古墳の藤原鎌足の挟紵棺の画像や、明日香の岩屋山古墳(聖徳太子の墓に似ている)の紹介もありました。
わたしもこのブログで、紹介しています。
カテゴリ 240「藤原鎌足の墓」
藤原鎌足の墓は何処か 
カテゴリ 280「聖徳太子伝承の嘘とまこと」
 ~聖徳太子の陵墓は三骨一廟、明治まで石室内を見られた聖徳太子陵墓、聖徳太子の墓と似ている飛鳥岩屋山古墳

良かったら、ブログを見ていただければ嬉しいです。

では、また。


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# by tizudesiru | 2017-10-14 01:09 | 289聖徳太子の実在は証明されたのか? | Trackback | Comments(0)


地図に引く祭祀線で分かる隠れた歴史


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299柿本人麻呂、近江朝を偲ぶ
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