穂波川流域に栄えた土師氏


狭い所に前方後円墳が集中桂川町
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古墳が集中するのは、穂波川と泉河内川の間です。川の氾濫原から一段高くなった丘陵の上に前方後円墳があるのです。
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右端に王塚古墳の墳丘が見えているはずですが、確認しにくいでしょうね。
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王塚古墳館の桂川町紹介(古墳)の画像を見てください。
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上の画像の古墳は、山が荒れていて見学不可能です。
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王塚古墳と天神山古墳は見学できます。
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この地域には7基の前方後円墳があるそうです。が、その経済を支えたのは何か、なんという氏族が政治経済を握っていたのか、わかっていません。
古墳時代の集落跡がほとんど見つかっていないのです。これだけの墳丘を続けて造るには、人手が必要ですし、技術も知識も必要です。よそから働きに来たとは考えられませんから、地域の住民がかかわったはずです。
僅かに古墳時代の遺跡が土師(はじ)地区で発掘されています。其の出土物は王塚古墳館に展示してあります。確かに須恵器の甕のようすから、古墳時代の遺跡ですね。
天神山古墳の八幡神社は土師地区から遷したということでしたから、古墳群を造ったという伝承が土師地区にはあったかも知れませんね。江戸時代までは。

更に古い伝承もあります。
『九〇一年(昌泰四年)正月、菅原道真は右大臣・従二位であったが、正月二十五日、大宰府に左遷された。この頃、土師郷に土師氏がいて、土師庄の領主であった。道真はもともと土師氏であったので、同じ土師氏であるからと、大宰府にいる道真と親交をむすんだ。九〇三年(延喜三年)二月二十五日に道真が大宰府で没したので、土師氏の人が道真をオオクニヌシノミコトを祀る神社に祭った。』という伝承が土師の老松神社神職の高森氏の家に残されているそうです。


土師地区の人は「同じ土師氏だから」とオオクニヌシをまつる老松神社に道真を祭ったのですね。なかなか面白い伝承です。
だって、大国主を祀る神社だったのでしょう!! 土師氏は大国主を祀っていたなんて?! です。
大国主命が大化改新までの倭国の神だったのではないかと、私は思っているのです。九州と日本海側と関東にその信仰は広がっていました。が、政変により大きな神社は祭神が変えられた、小さな神社は相手にされず見逃されたと思っているのです。人口の少ない集落に古い神々が残されていますものね。

時代が変わるたびに、鎌倉武士により神社の祭神の入れ替え、江戸時代の藩政による別の神社の勧請などで摂社・末社に主祭神が置き変えられるなど、いろいろあったということです。
桂川はなかなか面白い町ですよ。


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# by tizudesiru | 2017-09-25 15:48 | 286遠賀川流域・桂川町の古墳 | Comments(0)

初めて見た突堤の溝・天神山古墳現地説明会

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(上の写真は桂川町の王塚古墳です。奥の森の中にも古墳群があります)
筑前王塚古墳近くに天神山古墳があり、その墳丘の見学会がありました。
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大きく削られていますが、そこに豆田八幡神社があります。この神社は江戸時代に土師地区から遷されたものだそうです。その時、削られたのでしょうか。
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国道200号の上に陸橋がかかっています。渡ると天神山古墳です。
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遠賀川の支流の穂波川と泉河内川の間には古墳が集中しています。後日紹介します。
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神社の裏に回ります。
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古墳の突堤の一部が見えます。
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トレンチを見ると、地山を削り出して古墳を造ったことが分かります。前方部の角もトレンチで確認されていました。
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白い棒の先が前方後円墳の前方部の端ということでした。
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上の写真が前方部です。では、後円部へ進みましょう。
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今回の見学会のメインは、この突堤の切れ目でした。突堤に通路のような溝が造られているのです。このような溝は他に例がないとのことです。これは、1940年の調査の時も確認されていて、再確認されたのです。
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上の測量図が1940年の調査で造られたものです。左上の突堤に切れ目があります。
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決して大きくはない渠で、周溝に降りる所に一段、突堤から外へ出る所に一段階段がありました。周辺の腐葉土などの堆積物から判断して、この溝は築造時からあったということです。
それは、どういうことでしょうか。築造時、この溝は必要だったのです。
何かを運ぶために開けられたのか、お祭りをする時の通り道として掘られたのか、理由はわからないそうです。
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後円部の墳丘の上は平らになっています。瓦が落ちていますから、一昔前に社が建てられていたのでしょう。それにしても、この古墳には遺物がないのです。須恵器が神社の辺りで表採されたのみで、埴輪も葺石もないそうです。石室らしきものも未だ確認されてなくて、墳丘部を電波で探査したけれど、それらしい反応はなかったとのことです。
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怪しい古墳ですか? そうなのです、とても不思議です。
6世紀後半の古墳なら円筒埴輪だけでなく形象埴輪は伴うはずです。近くの王塚古墳のように、横穴式石室があるはずです。周溝が盾形ではなく、くびれ部で内側に突堤がカーブしているのも変です。
本当に6世紀後半でしょうか。

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私は、突然思いつきました。この溝は、古墳が出来上がった暁にはふさがれる予定だったのではないか、ということです。つまり、ここは途中で築造がストップした古墳だと思うのです。なぜか? それは、何らかの政変が起こったということでしょう。墳丘を作り、石室のための穴を掘り、石を運び込む、という手順で行われていた土木工事、その工事が途中で止まったのではないか!! だから、石室もないし、埴輪もなければ葺石もない、人々の祭祀の跡もないので生活用の土器も出ない、としか考えられないのです。そんな状況で被葬者の木棺直葬があったかも知れませんね。想像ですが。

今日、丁寧なご説明をしてくださった先生、ありがとうございました。大変面白かったです。
石室の調査をぜひお願いしたいですね。天神山古墳の築造時期は何時頃でしょう。
興味の湧く見学会でした。



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# by tizudesiru | 2017-09-24 00:07 | 286遠賀川流域・桂川町の古墳 | Comments(0)

香具山を詠んだ三人の天皇(2)

吾は山常の大王であるぞ

舒明天皇が香具山を詠んで主張したのは「香具山に降り立ったぞ。これからは私がヤマトの大王であるぞ」ということでした。
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万葉集の巻一の冒頭は雄略ですが、二番歌に舒明天皇の歌が置かれています。それは、明日香に入った初めての男王である舒明帝が、香具山で国見の儀式をして大王であることを宣言した歌であるからなのでしょう。
万葉集がどの大王を祖先とし、どの王朝の繁栄を願い、誰を慈しみ、誰を哀悼し、何を主張しようとしたのかという、万葉集の根幹にかかわることの、その一端が「舒明天皇の国見歌」からも読み取れるのです。


香具山を氏の守りの神山としたのは、舒明天皇です。舒明天皇は「山々が折り重なったようなヤマトの地に降り立ち、群山の中で鳥もよろけるような神山である香久山」を選びました。もちろん、周囲が開けた一等地の甘樫の丘は既に蘇我氏のものでしたから、そこに入り込むことはできなかったのです。
それでも、天香久山の周囲は開け畝傍も耳梨も見えて豊かな土地でした。

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舒明天皇はあんがい伊予国の人だったかも知れませんね。
案内板にもありました「伊予から天降った」という伊予の風土記と、萬葉集を合わせても読むとそういう結論も出てきますね。
巻一の六番歌の左脚に、「舒明天皇は讃岐に行幸されたことはない。ただ山上憶良の類聚歌林によると(日本書)紀には(舒明)天皇の十一年、己巳の朔の壬午に伊予の湯に行幸された」書かれています。
また、巻一の八番歌「熟田津に~」の歌の後に、「斉明天皇が熟田津の石湯の仮宮に行かれたとき、天皇は昔日の物がなおも残っているのを見て、たちまち感愛の情が起こり、哀傷のために歌をお読みになった」ことが書かれています。

34代舒明天皇は明日香の地に入った初めての男王でしたが、それを望んだのは蘇我氏でしょうか。
29代欽明帝の宮は桜井市で、30代敏達帝の宮も桜井市と河内長野です。明日香は田舎だったのでしょう。そこで馬子は飛鳥寺を作り華やかな仏教文化を取り入れました。しかし、用明帝の宮は桜井市、せっかく大王位に着けてやった崇峻帝も宮は桜井市倉橋でした。当時の物流を考えると、大和川を遡れる桜井市の方がずっと政治経済的には有用な土地だったのでしょう。明日香川はあまりに小さく水量も少なかったのです。
崇峻帝は愚かではなかったのですが、蘇我馬子は崇峻帝を暗殺してしまいます。


やっと明日香に迎えた舒明帝は、蘇我系の女帝・推古天皇の遺言のようなもので選ばれた天皇でした。どうしても明日香に「大王」宮を招致したいという推古帝の使命感だったのでしょう。明日香のために、蘇我氏の発展のために。
斑鳩の宮にいた山背大兄皇子は蘇我氏に除かれましたよね。
難波宮の孝徳帝の場合も、中大兄が背いた理由の中に、明日香から離れたことへの蘇我系氏の不満があったかも知れませんね。
経済を握ることが政治の目的だった、人民は関係ない、今も昔もかわらないのですね。

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以来、藤原宮に遷るまで、明日香がひとまず都でした。明日香から大津へ遷都するときの歌は、万葉集のどの歌も不安に満ち、寂しさに心おれそうです。つまり明日香を基盤に生れた王権が他へ遷ることは「本家」を捨てるように思えたのでしょう。
それでも、世は変わり都は遷っていきました。



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# by tizudesiru | 2017-09-22 11:15 | 285天香具山と所縁の三人の天皇 | Comments(0)

天の香具山を詠んだ三人の天皇(1)

衣干したり天香具山

飛鳥の天香具山を訪ねましたが、草が多くてちょっと登れませんでした。でも、少し紹介しましょうね。


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案内板に従って天香具山に向かって少し歩きます。152mほどの山ですが、一人で上るのはやめました。山頂への登山口が見えています。
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ここからは西の畝傍山がよく見えます。
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大和三山の畝傍山と耳成山は死火山です。香具山は多武峰からの山稜が伸びてきてそれが独立したすそ野の一部です。
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登山口に天香具山神社と天岩戸神社の道路案内がありました。此処から二つの神社は離れています。
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平成17年にできた説明板がありました。
香具山を詠んだと万葉集に残るのは、三人の天皇です。持統天皇・舒明天皇・天智天皇です。

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舒明天皇の国見歌の石碑が建てられていました。歴代の天皇は大阪の百舌鳥古墳群や近津飛鳥(磯長)や桜井市や天理市に陵墓があります。
明日香に所縁のある天皇は欽明天皇以降ですね。
舒明天皇が明日香を手に入れて登った国見山が「香具山」だったというのです。
新しい王朝なのでしょうね、舒明朝は。

香具山のお話はつづきます。


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# by tizudesiru | 2017-09-21 15:12 | 285天香具山と所縁の三人の天皇 | Comments(0)

檜隈寺跡は天皇の宮跡

キトラ古墳のすぐそばに檜隈寺跡
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中央の小高い丘にキトラ古墳があります。
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振り返るとくぼ地があり、坂道をのぼると森があります。中央の森が檜隈寺跡です。
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森の中に於美阿志(おみあし)神社があります。
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「檜隈は百済から渡来した阿智使主が居住したと伝えられ、於美阿志はその阿智使主を祭祀する。檜隈寺跡は」その神社の境内にあり、塔と金堂と推定される建物跡を残す。日本書紀、天武天皇朱鳥元年の条に桧隈寺の〇〇〇跡からは、7世紀末の瓦が出土する。〇〇〇ある十三重石塔は上層の一部を欠いているが、文化財に指定されている。」と、案内文にあります。
下の案内板には、大字桧前となっていて、地名は檜隈ではなく桧前(ひのくま)となっています。

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於美阿志神社の境内には、宣化天皇桧前廬入野宮址と書かれた石柱がありました。28代宣化天皇は、継体天皇の皇子です。
29代が同じ継体天皇の皇子の欽明天皇です。欽明天皇の陵は、明日香村大字平田にあり「檜隈坂合陵」と呼ばれています。

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更に奥に進むと石塔が見えてきます。
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石塔は於美阿志神社の社の隣の敷地に在ります。ここが塔跡のようです。
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於美阿志神社を挟んで北には講堂跡があります。近江の崇福寺・南滋賀廃寺、山城の高麗寺などで見られる瓦積基壇を持つ建物は、明日香では初めて見つかったものだと書かれています。
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基壇上には礎石が残っていました。
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於美阿志神社の神殿です。ここから北に30mほど歩くと、瓦を焼いた窯跡があります。
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古い瓦当文様もありますね。
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芝生の斜面が瓦窯跡で、すでに埋め戻されています。
奥の森は檜隈寺の講堂址ですから、古代には使用する瓦を寺院のすぐ近くで焼いたことが分かりますね。

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では、檜隈寺跡とお別れしましょう。
そうそう、わたしが何ゆえに檜隈(檜前)寺=宣化天皇宮址を取り上げたのか、大事なことを書いていませんでしたね。
わたしは日頃から飛鳥に関心を持っています。そこは「飛ぶ鳥=霊魂の国」だという意味の地名だと思うからです。しかし、其の思想は古代からの物ではありません。天香具山をトーテムとした氏族が生みだしたものです。
其の証拠に、書紀によれば、古代の歴代天皇の陵は、大阪府の百舌鳥古墳群や磯長(近つ飛鳥)や桜井市や天理市や橿原市にあるではありませんか。
その陵の事実関係はともかく、古代天皇の出身地は飛鳥ではないのです。
飛鳥に入るのは欽明天皇からで、それまでの天皇の宮跡もありません。飛鳥を宮とした宣化天皇が渡来系の氏族の寺跡と重なるのは、面白いと思ったからです。
縁もゆかりもない所に住んだりしないでしょう。何かしら関係があるのです。それは、瓦によっても分かりますからね。
では、また。


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# by tizudesiru | 2017-09-21 11:36 | 283檜隈寺跡は宣化天皇の宮址 | Comments(0)

呉音と漢音で「倭人伝」の役職名・人名を読む

初めて接した漢字の発音
倭国が初めて接した漢字の発音は、今日、呉音・対馬音とか呼ばれるものだったそうです。
万葉集は万葉仮名と呼ばれる漢字で書かれています。
やはり、多くは呉音の発音で読むようです。漢音と呼ばれる今日ではよく使われる発音は、八世紀になって唐と交流が始まって後に入って来た「発音」といわれます。
中国では本来漢字の読みは一つです。しかし、日本では漢字が取り入れられた時期が幾度もあるので、読みが幾通りもあるのです。
例えば「明治めいじ」や「明神みょうじん」などのように「明」をメイ(漢音)と読んだりミョウ(呉音)とよんだりします。呉音と漢音という入ってきた時期が違うので様々な音読みがあるのです。

一・二・三、壱・弐・参、イチ・ニ・サン、日本語そのもののようですが、これらは古代中国語の呉音の発音なのです。

過去の文献の個人名など呉音で読むか漢音で読むか気になります。

「倭人伝」も呉音で読まなくちゃいけませんよね。やってみましょうか。

赤(呉音)、色無し(漢音)、青(呉、漢、両方に共通)


倭(ワ・イ)国              *地方名(読み) ワコク・イコク

卑()狗(・コウ)           *対馬、壱岐(読み)ヒク=ひこ

卑 奴(ド・)母(ボ・)離()   *対馬、壱岐(読み)ヒヌモリ=ひなもり

爾(ジ・)支(シ)→イをつけて伎(キ・)*伊都国(読み)ニギ=にぎ・ねぎ

泄(エイ・セツ)謨(ボ・)觚(・ク) *伊都国(読み)エモコ

柄(ヘイ)渠(キョ・?)觚     *伊都国(読み)ヘゴコ

兕()馬(バ・)觚       *伊都国 (読み)ジメコ・シマコ

多()模(・ボ)       *不弥国(読み)タモ=たま

投(トウ・)馬         *投馬国(読み)ヅマ・=つま

彌(ビ・)彌          *投馬国(読み)ミミ

彌 彌 那(・ダ)利()   *投馬国(読み)ミミナリ

邪(ジャ・シャ・ヤ)馬 壹(イチ・イツ) *邪馬台国(読み)ジャマイチ・ジャメイチ      

伊()支 馬            *邪馬台国(読み)イキメ

彌 馬 升(ショウ)         *邪馬台国(読み)ミメショウ・ミマショウ

彌 馬 獲(クァク)支      *邪馬台国(読み)ミマワキ・ミメワキ 

奴 佳(カ・)鞮(テイ)      *邪馬台国(読み)ヌケテ 

勝手ながら呼んでみましたが、なかなか日本語らしくなりませんね。
中国の人が聞き取った日本語を漢字に変えているからでしょうね。

漢字が日本に入って来たとき、みんな苦労したでしょう。
どんな発音なのかが分かると、万葉集も古事記も文化的に何時の時代を反映するのか察しがつきますよね。
日本国になって、唐と交流するためには新しい漢字の発音が必要でした。急いで新しい読みを取り入れられたでしょうが、それまでに培った文化はなかなか消せるものではありませんから混乱したでしょう。
万葉集の時代には「雲・天・雨・日・月」など身近な言葉は既に訓読みが浸透していました。漢字を消化するには時間がかかったと思いますが、文字を手に入れることは大きな喜びだったことでしょうね。



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# by tizudesiru | 2017-09-18 16:23 | 282呉音で書かれた万葉集と古事記 | Comments(0)

キトラ古墳の被葬者は舎人皇子

キトラ古墳の被葬者は
舎人皇子
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古代史ファンの注目を集めた壁画を持つキトラ古墳の被葬者はだれでしょう。私は舎人皇子と思うのです。キトラは天武帝の家族の領域に位置しています。
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天武持統陵は藤原宮(白いポイント)の真南にあります。文武陵は天武陵のほぼ南にありますが、真の文武陵は中尾山古墳とされています。
高松塚古墳Ⓑは耳成山の真南にあり、藤原宮と結ぶと間に中尾山古墳が入ります。耳成山の真南に中尾山と高松塚古墳があるのです。
皇族のトップになる高貴な人の陵墓は、適当には造営されていません。ちなみにⒶ は菖蒲池古墳です。
同じ氏や家族の墓は意味のある場所に造られ、ゆかりの人の墓や寺とラインが引けます。すると、キトラ古墳の主は、天武朝の皇子ではないかと思うのです。
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(中尾山古墳)
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(高松塚古墳)
キトラ古墳は見晴らしのいい丘陵に造られた壁画を持つ古墳で、壁画も高松塚古墳に似ています。
キトラの被葬者も天武帝の皇子でしょう。それも皇位継承権があった皇子だと思います。
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天武天皇の皇子はあまた居ますが…
草壁皇子亡き後、持統天皇が皇位を受け、10年後に軽皇子(文武天皇)に譲位しました。軽皇子(文武帝)の立太子に異議を申し立てた弓削皇子は、文武三年(699)に薨じました。彼は兄の長皇子の方が軽皇子(文武天皇)より皇位継承の地位が高いと主張したのではないでしょうか。

若い文武天皇の崩御が慶雲四年(707)です。
持統天皇も既に崩御(702)されていたし、大変な事態となりました。しかし、文武天皇の母である元明天皇が即位したのです。孫の首皇子(聖武天皇)に皇位をつなぐためでした。

和銅七年(714)首皇子が元服

和銅八年(715)氷高皇女即位
いよいよと思われたこの年、有力皇子(親王)が次々と亡くなりました。
6月(長皇子)、7月(穂積皇子)、8月(志貴皇子)、そして9月に即位したのが、氷高皇女(元正天皇)だったのです。
(父の文武天皇も15歳で即位したのに、首皇子即位はかないませんでした。聖武天皇が即位したのは、10年後の養老八年(724)です)

和銅八年、有力皇子は次々と死亡しています。
長生きして50歳を超えたのは、新田部皇子と舎人皇子でしょうか。ふたりは、天平七年(735)に没しました。
二人の違いは母の出自でした。
新田部皇子の母は鎌足の娘・五百重娘ですが、舎人皇子の母は天智天皇の娘・新田部皇女です。二人の身分は全く違っているのです。長皇子も弓削皇子も母は天智帝の皇女でした。もちろん高市皇子の母も天智帝の皇女です。皇位継承権は天智・天武の皇統にこそあったのでしょう。
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(キトラ古墳)
発掘された歯のようすから50~60の皇子となれば
キトラに眠るべき皇子は舎人皇子(舎人親王)以外にはいないのです。
万葉集からも舎人皇子が皇位継承の立場にあったことが窺えます。
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人麻呂は708年に没した柿本佐留だと考えていますから、人麻呂の歌は舎人皇子の若い時に献じたものだとなります。
舎人皇子、皇子が皇位継承の対象である限り、ゆめゆめ油断召さるな。
多武峰の霧はいつでも厚く立ち込めて皇子を狙っているのですから。


長生きした舎人親王は王者として、しかし、こじんまりとしたキトラ古墳に葬られたと思うのです。薨去の時舎人皇子に残されていたのは、優良な皇位継承者だったという名誉だけだったのでしょうか。
だからこそ、舎人皇子の息子・大炊王(淳仁天皇)は藤原仲麻呂(恵美押勝)に担がれるのです。そして、父の舎人皇子に「天皇」の追号を望むのですが果たされませんでした。

キトラ古墳に戻りますが、皇子でなければ、天体図の元には眠れないと思うのです。舎人皇子は高市皇子と同じく行政のトップ(知太政官事)にありました。721~735の十五年間もです。その間には「長屋王の変」がありました。事件に遭遇した時、舎人皇子はどんなことを考えたのでしょうね。

もしかしたら、舎人親王は常々「皇位継承の正当性を正そう」と息子に語っていたのかも知れませんね。
大炊王はそれを現実のものにしたかったと…考えられないこともありません。


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# by tizudesiru | 2017-09-17 00:26 | 281終末期古墳・キトラ | Comments(1)

キトラ古墳の主は星空と四神と十二支神に囲まれた

キトラ古墳の被葬者は誰

キトラ古墳の被葬者として、歴史に名が残されている人を当てようとするのは、仕方がありませんね。何処の誰かが分かると、古墳の意味と時代の様相が格段に理解しやすくなりますからね。
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道の奥の斜面の木の間にキトラ古墳が見えています。

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キトラ古墳は見晴らしのいい丘陵の斜面にあります。すぐ隣にある集落は「阿倍山」といいます。
その地名があるからキトラの被葬者を「阿倍御主人(あべのみうし)」とする説があるのです。阿倍御主人は大宝元年(701)三月に右大臣に任命されています。

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(写真の集落は阿倍山です)(下の写真はNHK)
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さてさて、キトラ古墳の被葬者は誰なのでしょうね。出土した歯のようすから石槨に葬られたのは一人で、50~60歳の男性のようです。
そうなると、若くして亡くなった弓削皇子説などは消えますね。
40代の高市皇子説も消えるでしょう。
すると、阿部御主人説が有力になるのでしょうか。
しかし、小さい墳丘ながらもキトラ古墳の石槨の天上に天体図があります。
阿部御主人の墓なら、右大臣なのに北斗七星のもとに眠るのでしょうか。
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上の写真は、孝明天皇の即位の儀式で着用された礼服ですが、これに北斗七星の図が使われています。
北斗は、極位に登る方が礼服に使用されるべき星座というのでしょうね。
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(キトラ古墳の天上の天体図です)
三重の同心円は、内規・赤道・外規です。
内規は常に見えている星で、外規は季節ごとに見える星だそうです。赤道は太陽の通る道となります。
中心のずれた円は黄道で、月の通り道です。
この天文図は紀元前1世紀中ごろと推定されているそうです。


紀元前の星の位置を記録したという「石氏星経(せきしせいきょう)」とも整合したので、「中国からもたらされた星図をもとにして描かれた可能性が高い」とされています。
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中国ですか……古代の日本も月や太陽の観測はしていたはずですよね。神話にも「月読命」っておられますからね。神社の行事にも未だに月を観測する行為が残されていますからね。
それにしても古い天体図を描いたのですね。
キトラの絵師にも渡された下図があったはずですよね。それが是ですか。

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(体験館の図をお借りしました)
右大臣阿部御主人が被葬者とすると、右大臣の墓に天体図(体験館の写真を使わせていただきました)や十二支の人形図が書かれたのは何故でしょうか。
玄武に朱雀に青龍といった神聖な四神が墓に描かれたのですから、その社会的立場は相当に重要だったのではないでしょうか
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中国の山西省の金勝村7号墓の壁画にキトラ古墳の壁画が似ていると放送されていました。かなり前の放送だったので余り覚えていませんが、金勝村7号墳の被葬者は、どんな身分の人だったのでしょうか。
御存じの方がおられたら教えてください。

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そうそう、
高松塚古墳にも四神や星座が描かれていました。
何より高松塚は藤原宮大極殿の真南に位置していました。選ばれた墳丘墓でした。

では、
キトラ古墳は、どのような位置にあるのでしょう


つづく


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# by tizudesiru | 2017-09-14 15:40 | 281終末期古墳・キトラ | Comments(0)

キトラ古墳の被葬者

聖徳太子の墓は終末期の古墳でした。
それも、明日香の岩屋山古墳に近い石室とされました。では、飛鳥の終末期古墳・キトラ古墳も見てみましょう。

終末期古墳・キトラの被葬者は?


紹介文には「キトラ古墳は高松塚に続き日本で二番目に発見された大陸風の壁画古墳です。」と書かれていました。

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発掘された時のキトラ古墳。四角い穴は鎌倉時代の盗掘の跡です。
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盗掘の穴から覗くと、四神・天体図・獣頭十二支像などの壁画が見つかりました。
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高松塚古墳に続く発見となり、中でも天体図は魅力的でTVにも取り上げられました。
壁画の保存に伴い辺りは大きな公園になりました。
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それにしても、被葬者は誰なのかが話題になりました。7世紀末~8世紀初めにかけての終末期古墳ですから、被葬者もかぎられるはずですし、天体図や玄武などの四神が描かれ、獣頭の十二支像が描かれるなど、高貴な人に限られのです。

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天武天皇の皇子である高市皇子、同じく天武天皇の皇子の弓削皇子、高官であった百済王昌成、古墳の周辺が阿倍山という地名であることから右大臣の阿部御主人など、いろいろな人物が挙げりました。
石室は狭いのですが、副葬品を見ると金や銀を使った豪華な木棺など有りますから、身分の高い人だったに違いありません。
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壁画を見ると、将に王者のものですね。しかし、古墳は小さい…
この小さな古墳に眠っていたのは何処の誰でしょう。高貴な方には違いないのですが。

つづく


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# by tizudesiru | 2017-09-13 09:36 | 281終末期古墳・キトラ | Comments(0)

聖徳太子の墓と似ている飛鳥岩屋山古墳

聖徳太子の陵墓の石室は、飛鳥岩屋山古墳に似る

この夏、飛鳥の岩屋山古墳を訪ねてみました。
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明日香駅から線路を渡ります。
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古墳があるのは細い坂道の途中です。
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道なりに進むと、道標が見えます。
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線路を渡って、5分ほどで岩屋山古墳に着きます。
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みごとな切石の石室です。叡福寺の聖徳太子の墳墓の石室もこのようになっているのでしょうか。
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外観は削平されていて墳丘のかたちははっきりしません。
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小高い丘陵の途中なので辺りの景色がよく見えます。
この岩屋山古墳の主はどんな人だったのでしょう。
似ている石室だから、聖徳太子と同じ時代に活躍した人なのでしょうか。
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叡福寺の棺は漆塗でした。「藤原鎌足と阿武山古墳」の図によると、叡福寺は脱乾漆棺になっています。要するに布に漆を塗って固まったら、枠組を抜いていっそう軽くしたものです。
ということは、皇太子のために最高の技術を用いて棺を造ったのか、後世の人が棺を変えたか、または皇太子ではなく後世の人の墓だったのか、いずれでしょうね。

野口王墓(天武・持統陵)は切り石の石室でした
そこに、脱乾漆の天武帝の棺があります。脱乾漆は最高の技術だったのでしょうね。
図によると、終末期古墳の棺に漆がつかわれたようです。
叡福寺も漆塗りの棺ですから、高貴な人で最高の棺に葬られたということです。 
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聖徳太子は実在しなかったのか?と聞かれたことがあります。

どうでしょうか? 平安時代の一般の人は日本書紀など読みませんから、そう云うもので太子を知ったのではないでしょう。
しかし、太子信仰は平安時代に盛り上がり、所縁の寺や太子創建という伝承の寺があちこちに現れてもてはやされました。太子の誕生から逝去までの物語が広く世間に広がりました。信仰上の物語は太子の実像とずれるかも知れませんが、世の中が変わり始めた時に新しいものを取り入れていく人がいて、高貴な男性だったとしても、何の不思議もありません。

ただ、隋書の「日出る処の天子」は男性で、最高の身分だったはずですが、書紀によれば隋書に書かれたその時は女帝(推古天皇)になっています。皆さん十分にご存知です。

でも、なぜ? 

本当は、聖徳太子は皇太子ではなく天皇になっていた(この場合書紀と矛盾する、書紀は女帝)か、
または、「日出る処天子」は別の地域の天子だった(この場合よその地域の話を取り込んだことになる)か、
便宜上、聖徳太子が天子として国書を書いた(これだと、裴世清が倭国に来ているから嘘が露見したはず)か、


聖徳太子の話は、なかなか虚実ないまぜで、分かりにくいのです。

貴方はどう思いますか?


聖徳太子の実在と物語の接点にある叡福寺古墳の実態がはっきりしてくれば、これらの事のいくつかは解決されるかも知れませんね。

また、明日。


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# by tizudesiru | 2017-09-08 15:40 | 280聖徳太子の伝承の嘘とまこと | Comments(1)

明治まで石室内を見られた聖徳太子の陵墓

上之太子叡福寺の聖徳太子御廟
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叡福寺に太子の御廟があります。
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明治の初めの頃までは、この御廟の石室内に入ることができたそうです。
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御陵内を実検せり。即ち隧道の口を開くれば、

大沢清臣の実検記

「…御陵内を実検せり。即ち隧道の口を開くればその高さ六尺四寸、広さ6億尺、長さ二丈四尺許にして奥に石室あり。高さ広さ各一丈、長さ一丈八尺許なり。

而してしの隧道の左右は大石四枚を以って築並べ蓋うに三石を以ってせり。また、石室は左右大石各五枚、奥は二枚を以って築上げ蓋うに亦大石二枚を以ってせり。

而してその最奥の正面及び左右に石三枚を据えたり。正面の一枚は高さ一尺六寸、長さ六尺六寸、幅二尺五寸許あり。

その平面の正中を手水鉢のごとく深さ六寸許に彫り左右漸く深くして八寸余りあり。左右の横方に水抜きのごとく孔をえぐりたり、その仔細詳らかならず。又、右に据えたる一個は正面の石より三尺五寸許離れて前方によせて西面にすえたり。高さ二尺二寸、長さ八尺、幅三尺六寸五分、左にある一個は西方によせて、右なるに相対して東西に居たり。高さ二尺二寸、長さ七尺一寸五分・幅三尺あり。この左右に相対する二個は上面平らなり。ただし、この三箇の石は皆切り石にて側面は礼盤の側面如く彫れり。

又、この石の辺りに箱の破砕したるごとき板の腐朽せるあり。掻き集むるに凡そ二斗許あり。日光に照らし見るに布張黒漆の箱の腐朽してこの如くなれるなり。

是、全く御棺の破砕せるもの与」

上の実検記を検討した梅原末治の「聖徳太子磯長の御廟」で、問題点を提示しています。

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梅原末治は石室の様子を図にしたのです。それが上の第2図です。棺台が三箇あり、いわゆる三骨一廟。
奥が太子の母・穴穂部間人皇后、前面向かって左に膳郎女、右に聖徳太子の棺で、穴穂部間人皇后は石棺、他の二人は夾紵棺で、仏具の装飾などに用いられた格狭間を刻した石製の棺台にのせられていたそうです。


以上の資料を信頼すると、石室の構造は大和飛鳥の岩屋山古墳と似た切り石石室に、格狭間を刻した棺台を有し、漆塗りの棺をおさめる点では、磯長の御廟より北西2kmの御嶺山古墳と類似、これらから太子墓内部のようすを類推することができます。
ただ、石室が岩屋山式の切り石造りの横穴式石室であることは確実と思われますが、内部の棺および棺台については問題もあり、三骨一廟についても鎌倉時代の「聖徳太子伝私記」には記録されていますが古事記・日本書紀・延喜式などは全く触れておらず、果たして本当に三骨一廟であるかなど、問題点も多くあります。
このような問題点があるにも関わらず、被葬者=聖徳太子の最も確実性の高い古墳で、類似古墳の年代決定の拠所となる重要な古墳であるといえます。

以上、「王陵の谷・磯長谷古墳群」(竹内街道歴史資料館)の資料と文章を書き写させていただきました。

面白く読ませていただきましたし、大変参考になりました。
太子信仰の盛り上がりは理解できたのですが、太子の御廟かどうかには疑問が残りました。

太子の御廟ではないとなると、これは大変なことですね。

驚きました…では済まなくなりますね。

この古墳が類似古墳の年代決定の拠所となるのでしたら、安易な妥協はいけませんよね。

これらの問題点については、また、次に。


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# by tizudesiru | 2017-09-07 17:04 | 280聖徳太子の伝承の嘘とまこと | Comments(0)

聖徳太子の陵墓は、三骨一廟

聖徳太子が眠るのは叡福寺

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この夏、叡福寺を訪ねました。磯長山叡福寺は聖徳太子の御墓がある寺院です。
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「河内国 上之太子 磯長山叡福寺縁起」には次のようにかかれています。

叡福寺は聖徳太子の墓前に営まれた寺院で磯長山と号する。この寺は戦後単立寺院となったが、もとは古義真言宗金剛峯寺の末寺で、所在地であるかっての郡名や地名に因んで石川寺・磯長寺などと称されていた。

また、聖徳太子の磯長墓を祭祀守護する性格の寺院であるところから太子寺・御廟寺・聖霊院の号もあり、四天王寺・法隆寺と並んで太子信仰の中核をなした寺院である。

なお、一連の太子建立伝説を持つ八尾市大聖勝軍寺の「下の太子」羽曳野市野中寺の「中の太子」に対し、「上の太子」と俗称されしたしまれている。

寺院の創立は明らかではないが、寺伝によると推古天皇三十年(622)聖徳太子の陵墓を守護し永く追福を営むために一堂を構えたのが当時の始まりで、神亀元年(724)聖武天皇の勅願によって伽藍を造営されたといわれ、もとは法隆寺のように東西両院からなり、東の伽藍を転法輪寺、西の伽藍を叡福寺と称したと伝えられている

現在の伽藍は天正二年(1574)織田信長の兵火で焼失したあと相前後して再建されたもので広大な境内には金堂、聖霊殿、宝塔などの同塔が建ち並び由緒ある寺院としての風格を保っている。

また、境内北方の高所に営まれた磯長墓は、推古天皇二十九年(621)崩御の聖徳太子の生母穴穂部間人皇后、翌年二月大和斑鳩宮において、時を同じくして、亡くなられた聖徳太子、同妃膳部大郎子の三人が一か所に葬られているところから、三骨一廟とよばれ、この墓前には空海・親鸞・良忍・一遍・日蓮・證空の諸賢聖のほか、名僧知識の参籠が多く、現在も太子に会わんがために善男善女の参詣が絶えることがない。

当寺には重要文化財に指定された絹本着色文殊渡海図、高屋連枚人(ひらひと)墓誌の他、数多くの貴重な文化財を所蔵している。精霊殿(太子堂)は慶長八年(1603)豊臣秀頼が伊藤左馬頭(さまのかみ)則長を奉行として再建したもので、桃山時代の特長をよく示しており、宝塔は承応元年(1652)に建立されたもので、いずれも昭和五十二年一月重要文化財の指定を受けている。

棟札によって競歩十七年(1732)の再建が明確な金堂(附棟札)、肘木絵様と木鼻が聖霊殿とよく似ており十七世紀前半を下らない建築と考えられる鐘楼は、共に平成十三年二月二日に大阪府指定文化財となっている。

また明治初期に塔頭、石塔律院跡から客殿庭園内に移建された巨大な石造五輪塔は、源頼朝の供養塔と伝えられ、鎌倉末期の優作として、昭和五十二年三月大阪府有形文化財の指定を受けている。

 聖徳皇太子御廟所 磯長山叡福寺

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階段を登ります。
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「縁起」を読みましょう。先に全文を紹介しています。
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宝塔です。

横を通り過ぎて、まっすぐ廟に向かいます。

階段を上ると廟所です。

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此処に三人の棺があるのです。穴穂部間人皇后と膳部大郎女と聖徳太子。
「穴穂部間人皇后のために墓所を太子町太子の北側の丘陵斜面に決め、石室を築いた」との伝承があり、元々は母のために切り石の横穴式の墓を造っていたのです。

ふうん、すると推古天皇より古いタイプの陵墓となるはずですね。
叡福寺の寺伝では、「上宮太子を磯長陵に葬めまつる(書紀)」のあと、推古天皇の勅により、御廟を守るために叡福寺が建立されたとなっています。
しかし、古瓦や瓦器などは後世の物で、飛鳥から奈良時代のものは今のところ出土しておらず、7世紀前半に叡福寺が建立された証拠はないそうです。
更に
明治のはじめのころまでは廟内に入ることができたようです。明治12年に宮内庁から来て内部を記録した実検記が残されています。
それを読むと、聖徳太子の墓と決めてしまっていいのかなあと思います。もちろん、信仰上の廟所でもいいのですが、太子信仰とは切り離して考えると、この陵墓は新しいと思えるのです。


聖霊殿です。

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帰りの石段です。正面に何があるのかな?
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静かなたたずまいの町屋があります。
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聖徳太子信仰は今も根強いようです。
また、明日に続きます。



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# by tizudesiru | 2017-09-06 23:39 | 280聖徳太子の伝承の嘘とまこと | Comments(0)

西原の縄文土器の出現と退去

2017・9・5 縄文土器の紹介

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ほとんどの土器に文様があります。

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何種類の文様を見つけられましたか。

一度の探索で拾えるのはこの量で、結構な手ごたえがあります。

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様々な土器の縁だったり、底だったり、胴のふくらみだったり、出会ったときは、ありがとう、です。

遺物に出会いたいと思ったら、おまじないをしなくてはなりません。

「今、わたしの前に出ておいで。もし、そうしなかったら是からまた何千年もそのまま土の中に居ることになるでしょう。それでいいの? 寂しかったら、さあ、わたしの前に出ておいで。」

と、心で呼び掛けるのです。本当に心から話しかけると、次々に目に入ってきます。歩く足元に出ているのです。

「よく出てきてくれたね」

嘘みたいでしょう? でも、本当なんです。

あんまり石器に出会うので、父から

「お前には何かついているのではないか?!」

と云われたことがありました。それで、 わたしは石達に言いました。

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「ありがとう。もう、いいよ。そのままでいいよ。そのまま、ずっとそこに居ていいんだよ」

といいました。それから、探さないと出会えなくなりましたが、それでいいと思っています。

私よりずっと長く西原を見てきた遺物達に心から「ごくろうさま」といいたいですね。

今は、耕運機が畑を耕しますから畑では見つからないでしょうね。道路もアスファルトやセメントがかぶってしまいました。野原は草ぼうぼうで人間は入れません。

これから、土器も石器も静かに眠りにつくことでしょう。

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余談ですが、わたしは何処に行っても石に出会いました。25年ほど前、平尾台の近くの山道で道が通れるか見るために車を降りたら、水晶を拾いました。一緒にいた妹たちに見せると、そこに幾つか落ちていました。さらに、その道で小さな黒曜石も拾ったのです。

辺りは黒曜石の産地ではありません。古代人が何処かから運んできたものに違いないのです。

その時は、とても不思議な出会いを感じました。

石も何か人間の波長を感じるのかもしれませんね。まさか! ですけど。

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1988年12月、高齢の母と俵山に登りました。登り始めて三時間近くたって頂上に着きました。
「もう、登れないよ。これが最後ね」
と母が言いました。山頂でお弁当を開いたのですが、その腰かけた石の傍の砂地に鏃がありました。左の石鏃です。だいぶ風化していました。もともとは、右の石鏃のようなギザギザがあったのでしょうね。母との思いでの遺物です。
なぜ頂上にあったのでしょうか。今でも不思議です。

きょうは、土器と石との別れの日です。
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# by tizudesiru | 2017-09-05 09:58 | 278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル | Comments(0)

無理が通れば・小水城の不思議な版築

無理が通れば土塁ひっこむ?
小水城って何でしょう? 

大宰府を守る水城と同じでしょうか?
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大野城市教育委員会の「上大利小水城跡」の現地説明会に行ってきました。
天智天皇の治世につくられたという大野城(朝鮮式古代山城)から長く延びる土塁が水城です。
大宰府を守るために造られたとされています。
今回の現地説明会は、この水城ではなく「小水城」です。

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上大利の小水城が何処にあるかわかりましたか?
それは100mたらずの本当に短い土塁なのです。
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日本書紀・天智三年(664)以降に造られた水城とほぼ同じ時期に造られた「小水城」だそうです。
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右に何処にもあるような土手が見えます。これが削平された土塁です。
矢印のところで切れていますが、奥の丘陵に土塁は届いていたということです。

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矢印の辺りにトレンチがありました。
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版築土塁の基盤となるのは、谷部の底の花崗岩バイラン土でした。頑丈な部分まで掘り下げて版築をしているということでした。

1トレンチ

北側へ緩やかに傾斜している積土と土塁の裾部。積土のなかから須恵器(古墳時代)が少量出たそうです。黒い層は平安時代の土器が出土した腐植土層です。小水城の北側には、平安時代には水が溜まっていたそうです。
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版築はうすい層を何層にも重ねています。同じ土塁のはずですが、反対側の土塁の版築の層は厚いのです。明らかに工法が違っています。
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同じ土塁の中で版築の技法が違っていました。理由は、2トレンチのほうは基盤(花崗岩バイラン土)がしっかりしていたので版築も緻密ではなかったということでした。

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土塁の幅は緑の線の範囲と推定されています。
「土塁が東に向かって低くなっているのはなぜですか?」と尋ねました。
答は、木樋などの排水施設が見つかっていないので、排水のために東側が低いのかも知れないということでした。

それにしてもふしぎです。白村江敗戦後に造られたのは水城・小水城・大土居・前畑遺跡の土塁、そして大野城、基肄城・鞠智城だそうで、これらのすべてに版築技法がつかわれています。
どの土木工事を取り上げても、大変な人手と食料と統率力と経済力が必要です。
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見学会の会場の説明パネルに「巨大な防衛線」と書かれています。あの羅城説のことです。
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ここでも、羅城説が取り上げられていました。

羅城という大土木工事には、誰がかかわったのでしょう。
白村江敗戦後の筑紫國の人々が造ったという想定です。
二万の男性を亡くした筑紫国の婦女子と老人が、手弁当で版築の棒を握ったのでしょうか。食糧生産にもはげみながら…
白村江戦には兵糧として食料も持ちだしたでしょう。だから、備蓄されていた食料はすでに無かったでしょうに。残った人々は飢えていたでしょうに。


羅城があったとしても、白村江敗戦後に造るのは無理! ではないでしょうか。
無理が通ったというのでしょうか。無理が通れば道理は引っ込むのでしょうか。
…などと書きましたが、上の言葉は単なる疑問符です。
本音は、発掘している若者に頑張ってほしいのです。未来も彼らにかかっているのですが、過去も彼らにかかっているのです。彼らの真摯な思いが貫かれれば歴史は自ずから開いてくれると思うのです。

わたしは歴史のホントのところを知りたいのです。
不快な言葉があるかも知れませんが、本音は単純。歴史は世界の誰にとっても大切なものです。

今、熊本に来ています。
此処に来ると、過去の人々の努力と挫折と願いと喜びを感じることができるのです。

誰にも、素晴らしい明日を。


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# by tizudesiru | 2017-09-03 01:31 | 279小水城の不思議な版築 | Comments(2)

西原村は旧石器と縄文のタイムカプセル

西原村は旧石器と縄文の
   タイムカプセル

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八月の白川。熊本県大津町の橋から東を見ると阿蘇が」見えます。橋を渡ると、やがて西原村の入り口です。
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白川の水はくすんでいます。火山灰が混じっているのでしょう。
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上流の阿蘇方面は、珍しくはっきり見えました。
地震で崩れた山肌が少し見えています。立野を通る国道57は復旧していませんが、並行して白川の横を通る道路が、一週間ほど前に復旧したそうです。
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今日は西原村史の一部の紹介です。
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村史の写真で目を引く縄文時代の大珠(だいじゅ)です。石材は糸魚川産のヒスイだそうです。

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ちょっと気になる写真です。縄文時代の土器ですが、豊穣のシンボルとして描かれたのでしょうか。
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これは銅矛です。矛だということは、福岡平野とのつながりを示すのでしょうか。
有明海から白川を遡るとしたら、この銅矛が奉納された鳥子あたりが船着き場でしょうね。ここより上流は、速瀬と石が多くて舟での遡上には難渋するでしょう。その先数キロの立野では滝と絶壁でもちろんストップです。古代には白川を大津まで舟で来て、鳥子を通って桑鶴地区、俵山峠を越えて阿蘇谷に入ったのでしょう。古道が残っています。
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銅矛が奉納されていた鳥子の三之宮神社です。一之宮・二之宮・三之宮と、ご祭神によって神社の呼び名がちがうのです。
村史に「旧石器遺跡分布図」が掲載されていました。
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私たちが拾った遺物は上の赤丸の中に限られます。今更驚かされるのは、こんな狭い範囲にこれだけ大量に落ちているということです。もちろんトラクターで撹拌されなかったのでしょう。
ただ、父が地域の人から譲られたものも交じっているのですが。
下の写真は、村史に有る旧石器の細石刃です。貴重な黒曜石を小さく欠いて最大限に生かしたのだそうです。
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更に、下の写真は縄文時代の石匙です。小さなつまみには糸(紐)をつけて、首から下げて持ち歩いたそうです。動物の皮を剥ぐための道具だとききました。
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こんなミステリアスな西原村ですが、大断層の上に在るのです。今回の被害もその故に起こりました。布田川断層は怖いと思ってはいましたが、まさか実家が全壊になるとは思いませんでした。
傾いた家を起こし、屋根をなおし、石垣をなおし、床を張り替え、配水管をなおし、でもほとんどの家具や小物は捨てました。それでも、残された考古の遺物達です。
西原村に長く住んでいたこれら・古代の語り部を捨てるわけにはいかなかったのです。

将に西原村は古代人が現代に残したタイムカプセルです。
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流れ去った水は戻りません。そうして常に新しくなっていくのでしょう。
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最近紹介した石斧や石鏃やトロトロなどの考古資料は、阿蘇の外輪山の俵山の西麓に広がる西原村の特定の地域で拾ったものです。上の写真の中央の山(山頂が二重に見える)が俵山です。現在、阿蘇に入る俵山越えの道とトンネルがあります。
(熊本空港から南阿蘇に入るには、俵山トンネルを使ったが早いのです。俵山にも地震の爪痕が残ります。大雨が降ったらどうなるのでしょう。)

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付け加えです

これらは拾われたものですから(表採という。地層からの発掘品ではないので)、考古学的な価値はないそうです。私たち家族はもったいないと思ったのですが、今日までどうにもならなかったのでした。
しかし、拾った場所が特定しているのは大切だということで、石斧を見ていただくことになりました。
そう云って下さったのは、福岡市埋蔵文化財センターの先生でした。
良かった、の一言です。
西原にはこんなに落ちているのですから、発掘すれば他にも分かることがあるでしょうね。でも、発掘なんてお願いしているのではありません。そんなことは望んでいません。
手元の石や土器が捨てられないで済むようにと、それが何よりの願いなのです。




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# by tizudesiru | 2017-09-01 20:15 | 278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル | Comments(0)

黒曜石・白滝の赤と腰岳の黒

黒曜石北海道白滝の赤と九州腰岳の黒
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これは白滝の黒曜石です。十五年以上前に白滝を訪ねましたが、その時拾ったものです。
白滝(赤石山)は湧別川の上流に有るので、その河口のオホーツク海の海岸で拾えるのです。

湧別川の河の中には誰もが拾ったのでしょう。黒曜石はありませんでした。それならと思って、河原の氾濫原を探してみました。そこに落ちていました。でも、その石は上の写真のものではありません。河原で拾ったものは、川に流されて風化しているので、すりガラスのようになってガラス質の特色は見られません。

近くで北海道大学の発掘あっていて、見学がてらお話を聞きました。そこで黒曜石で石器を試作されていて、ナイフや槍先ができていました。外に出ると、素材の黒曜石が砕かれてプレハブの前に捨ててありました。
「分けてもらってもいいですか?」と、恐る恐る尋ねると「どうぞ!」といわれました。
嬉しかったのですが、一掬いだけいただきました。
たくさんあったのですが、さすがに遠慮してしまいました。

白滝の黒曜石は赤いのです。その中にマダラの黒が入っています。T大学のY教授から大きな白滝産の黒曜石を父がいただいていたので、それ以上は必要なかったのですが、わたしは拾ってしまいました。
今になって、この石は何処へ行ったらいいのか、迷っていることでしょう。
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こちらは九州の黒曜石、一番の産地は伊万里の腰岳です。これは道路のアスファルトの下敷きになりそうだったのを拾いました。伊万里にはたくさんあるのでしょうか。開いた道路にたくさん落ちていてもそのままにローラーをかけてアスファルト道路にするのです。

父が元気な頃でしたが、伊万里に出かけて道路工事に出くわして黒曜石の末路を見てしまったのでした。残念に思って、たまたま日曜日で工事があってなかったので、家族で拾いました。


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これは、25年前の甥の夏休みの自由研究です。この中にトロトロとよばれる珍しい石鏃があるのですが、分かりますか。
それは、鏃であってヤジリではない、祭祀に使われたのではないかという石器です。この時点で、日本には百五十数個しか登録されていないという貴重品です。
甥は西原村の父の住まいの近所の土手のようなところで拾いました。実は、父もそこで旧石器の台形石器を拾っています。
それは、博物館かどこかに預けたそうです。
さて、トロトロですが、4番ではないでしょうか
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決して鏃の役目はできないが、鏃のかたちをしているというものです。
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大きな発見につながるのは、子供の目と直感なのでしょうか。
なかなかのコレクションですね。

黒曜石は、大変魅力的な石です。

それから、とても大事なことを忘れていました。

黒曜石は大事な考古学の資料ですから、いらなくなっても何処にでも捨ててはなりません。
燃えないゴミとしてごみ処理する以外にないのです。
空き地などに捨てると、後々考古学的資料になってしまうからです。私も黒曜石などを人にあげる時は「決して、捨てないで。いらなくなったら燃えないゴミとして処分して」といいます。
何より処理できないものを、最近は拾わなくなりました。
国東の姫島の黒曜石が港(姫島)の周囲に落ちていましたが、一つも拾わずに帰りました。
石はその生れた場所にいるのがいいと思うようになったのです。遅いけど。


石達が嫁入り先で平安に過ごせるように祈ります。


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# by tizudesiru | 2017-08-29 22:36 | 278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル | Comments(0)

前畑遺跡は羅城の土塁?版築の様相を見る

以前のブログでNHKの番組を紹介しました
262「神籠石系山城を築造したのは中大兄皇子か?」で
この時「羅城」という皇都をまもる城壁のことが紹介されました。
その羅城が九州の太宰府を守るためにあったということでした。

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今回は羅城の土塁とされた「前畑遺跡」の紹介です
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NHK「英雄たちの選択」で白村江戦における中大兄皇子の決断が放送されました。
中大兄は従わない邪魔な豪族に百済救援の戦いに出兵させ、敗戦により彼らの勢力を一掃し、唐と新羅に備えるために大宰府の守りを水城・大野城・基肄城によって強化したという展開の番組でした。
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大宰府守備の為大きな羅城を築いたというのです。羅城の壁ならぬ土塁が筑紫平野の北に見つかったというのですが、それが筑紫野市の前畑遺跡でした。
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白村江敗戦後、朝鮮式山城(大野・基肄)ばかりではなく、神籠石系山城もこの時の築造となったというのです。工法も技術も朝鮮式山城とは違う神籠石系山城が。
あまりな展開に驚いたのでブログ(262)で取り上げました。

今回は、筑紫野市の前畑遺跡の写真の紹介です。
ここも、中大兄皇子の命令で作られたというのです。私にはそうは思えないのですが。
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羅城かも知れない?!

前畑遺跡の版築土塁が?!


貴方の目で確かめてください。版築の様相を。

現地説明会の写真を紹介します。
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この遺跡は壊される運命です。もうないかも知れません。立ち入り禁止の柵の奥で既に消えたかも知れません。
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この遺跡は360度のロケーション、辺りが一望できました。
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確かに版築土塁ですね。
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この土塁は白村江敗戦で疲弊しきった九州の豪族の、それも働き手が戦死した後に残された子女が、血涙を絞って造ったのでしょうか。

水城を作り、大野城を作り、基肄城を造り、鞠智城も造ったかもしれないのに、そのうえ神籠石系の山城も造ったという!!!考えられません。
人手・食料・経済の面から考えても難しいでしょうね。

私には理解できません。夫も息子も失った女たちは働く力もないでしょうし、土塁築造の働き手に食べさせる食料の生産も間に合わなかったでしょう。
彼らは農耕の片手間に土塁を造ったとは思えません。築造の指揮官もいたはずです。

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此処が羅城の土塁だとしたら、白村江戦以前のものではありませんか。
中国では羅城は皇都を守るために築造されたものです。倭国でも皇都を守るために土塁が作られたのかも知れません。
でも、そうなると皇都は九州にあったことになります。天子が九州にいたことになります。

それとも、九州でも皇都のような羅城を造ったのでしょうか。


羅城が九州にあったとなると、歴史が変わってしまいますね。
それも、面白いと思います。



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# by tizudesiru | 2017-08-27 21:35 | 262神籠石式山城の築造は中大兄皇子か? | Comments(0)

さらば愛しき小物たち

旧石器時代からの遺物が

落ちていた村・遺跡の村


約五十年前、西原村の山を買って父母が家を建てました。
その時、ブルトーザーで開いた土地に土器や石器がありました。
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わが庭から出た二つの石斧です。左は蛇紋岩で、右は火成岩で作られています。

父母の家は遺跡の上に建ったのです。それから、我が家は遺物拾いに目覚めました。ちょうど辺りには家も少なく平たい所は畑で田圃はありませんでした。山野を歩けば様々な土器・石器が落ちていました。

特に雨上がりは表面の土が流されていたので土器も石器もはっきりと姿を見せています。

仕事が休みになると父母の家に遊びに行って辺りを歩きました。月に一度くらいの訪問ですから、遺物は適度の雨に洗われて次々に姿を現すのです。

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チャート、サヌカイト(?)、黒曜石と材質もさまざま。石匙、石鏃、スクレーパーと種類もさまざま。
父と母、妹たち、孫たちが月に一つか二つ拾うことができました。


気が付いてみると、たいへんなコレクションになっていました。

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ほとんどはガラクタでしょうか。

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これは島根県の玉です。
右は二十年前に拾いました。
海岸で海を見ていたら、砂浜に変わった石が落ちていました。何か分からないので、拾って「石を加工販売している店」に行って「これは何でしょう」と尋ねました。

店主は少し沈黙した後、「玉」と教えてくれました。私が見つけたのは、玉だったのです。
私はすぐに父にこの石を送りました。思い出の深い石です。

十二年前、ふたたび島根に行きました。出雲から日御碕までドライブして、玉作温泉に立ち寄りました。
左のつるりとした石は、その時拾った島根の玉です。これは、玉作温泉の温泉川で拾いました。

お湯から上がって川の畔を歩いていました。浅い川の水は淀んでいて、温泉水が流れ込んだのか少し濁っていました。ふっと見ると、まわりとは違った色の石が水に沈んでいます。

玉かも知れないとは思いましたが、川水が汚れているので手を入れるのは嫌でした。しかし、拾わずに帰ったら後悔するだろうと思って、思い切って拾いました。

誰が見ても玉だと分かるものですね。これを見せたい父は既に亡くなっていたので、仏壇に置きました。
島根の二つの玉は懐かしい、思いでの品です。

思い出をありがとう

この思い出深い石達とサヨナラしようと思っているところです。妹たちとも話し合ったのですが、このまま手元に置いていても、やがては出自のわからないガラクタになることでしょう。

その前に、嫁に出そうということになりました。
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そのうち土器も紹介しましょう、縄文土器ですが。そのときは全て私の傍にはないかも知れません。



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# by tizudesiru | 2017-08-26 23:05 | 278西原村は旧石器縄文のタイムカプセル | Comments(0)

稲荷山鉄剣の辛亥年=531年が有力

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鉄剣の辛亥年は531年(大岡晋)

稲荷山鉄剣の辛亥年は471年が定説です。
しかし、発見当時、学者の皆さんのご意見では稲荷山古墳の築造時期は六世紀前半で、辛亥年は531年が有力だったのです。
それが、書紀の雄略帝に合わせて471年になってしまったようです。
(こんな定説でいいのでしょうか)

刀剣銘文百十五文字から見た日本語の源流 (学習院大学教授 大野晋)で、大野晋氏が「時」の前後をどうよむかで、解釈が変わると指摘している文を簡単にまとめました。 


「獲加多支鹵大王寺 在斯鬼宮時 吾左治天下」の「時」の前後を大岡氏は、①推量形 ➁現在系 ③過去形 の三つの読み方をしています。


では、①推量でよみましょう。
「ワカタケル大王の寺が、シキの宮に在るだろう時に、お助けしよう」となり推量形の読みは無理。



次は、②現在形でよみましょう。
「ワカタケル大王の寺が、今シキの宮に在るその時、吾 天下を治むることをお助けしている」又は、
「ワカタケル大王の寺が、シキの宮に在る時はいつでも、私は天下をお治めすることをお助けする



更に、③過去形でよむと、
「ワカタケル大王の寺が、シキの宮にあった時にわたしも天下を治めることをお助けした」となり自然だというのです。

ワカタケル大王の治世は書紀によれば456年から479年であり、倭王・武の上表文も478年である。
 従って、「ワカタケル大王の寺がシキの宮にあった時」という表現があることは、この文章を書いている時点は、479年以降であることを示す。とすれば「辛亥年」は471年に比定することはできず、降って531年に比定しなければならなくなる。

大体、「辛亥年」を471年に比定したのは、「ワカタケル大王」という名詞が確認されたとき、雄略天皇の治世は、456年から479年だが、「辛亥」の年紀が471年に有る。だから私は471年だという論理であった。
 それは、この全文の文意をよみ取った結果「471年」を考えたのではない。(略) 「辛亥年を471年」とする歴史家には、この文章全体をどうとらえ、この文章の目的・全文の意味について、どう見るのかをうかがえるとさいわいであると思う。

その事を考えるとき471年は困難になってくるのである。  (大岡晋)


「獲加多支鹵大王寺 在斯鬼宮時 吾左治天下」を大岡氏は過去形でよみ、その意味を考えようとされました。

これまでブログでお伝えしたように、埼玉新聞社の「稲荷山古墳」の記述によると、「稲荷山古墳の築造時期が六世紀の前半であれば、辛亥年は531年」では矛盾しませんね。531年の時点で乎獲居臣が百錬の刀を作って銘文を刻んだということになります。

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531年に鉄剣は作られたとなると、稲荷山古墳の被葬者が獲加多支鹵大王に仕えたのは、彼が若い時だったとしても6世紀の初頭でしょうか。


 日本書紀の雄略帝の治世456~479年に仕えていたとなると、無理が生じます。被葬者は杖刀人の首でしたから、若干二十歳ではないでしょう。三十歳くらいだとしても、六十年後に銘文の大刀を作った時は九十歳を越えていることになり、かなり無理です。


そうすると、獲加多支鹵大王は書紀の雄略帝とは別人かも知れません。では、もうひとりワカタケル大王(雄略帝)がいたことになるのでしょうか。


この被葬者は、自分が仕えた斯鬼宮の獲加多支鹵大王を非常に懐かしみ、大王に仕え天下佐治したことを誇りに思っています。当然、その大王はこの世の人ではありませんが、名前を云えばだれでも知っているような大王だったのでしょう。更に、礫槨とはいえ玉と鏡と剣を副葬し、自分の出自にも誇りを持っているのです。

それにしても、乎獲居臣が仕えた「獲加多支鹵大王」を日本書紀の「雄略天皇」に してしまっていいのでしょうか。雄略天皇は、「部民制」を導入したと社会科で習ったような…、日本書紀でも様々な「部」を創設しています。「部制」であって、決して「人制」ではありません。
九州の水沼君が献上した「養鳥人」も「鳥飼部」に変えています。
乎獲居臣は「杖刀人」ですし、江田船山古墳では「典曹人」です。役職には「人」がついているのです。明らかに雄略天皇の治世にはない役職でしょう。

わたしは、獲加多支鹵大王と書紀の雄略天皇はどこかでズレがあると思います。


九州と関東はつながっている。杖刀人と典曹人の人物は、同じ大王に仕えた可能性がある、と、思うのです。

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稲荷山古墳の築造時期の決め手は何でしょう。

稲荷山古墳の墳頂部には二つの亡骸を納める施設(攪乱された粘土槨・礫槨)

礫槨は、整然と副葬品が置かれており、攪乱の痕跡もなし

・頭の部分に当たる所に鏡(画文帯神獣鏡)、二つの銀環、一つの勾玉

・腹に当たる所には立派な帯金具

・右わきに三本の刀、左脇の頭よりに鉾、と刀

・左足よりに剣(金象嵌銘文のある鉄剣)

**遺物の下に木炭のような痕跡あり= 副葬品は木棺に納められていた

木棺の外

・頭のの辺りには鈴のついた杏葉(ぎょうよう)轡、辻金具、などの馬具

・足よりには小札(こざね)を貫いた挂甲(けいこう)、鉄鏃、


この中に、大事なものがまだあると思えてなりません。

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一緒に出土した画文帯神獣鏡なども、まだまだたくさんの事実を背負っていると思います。

あらためて埼玉新聞社の「稲荷山古墳」(昭和53年)を読んで、考えることが沢山ありました。座談会に出席された皆さんや大岡晋氏・直木浩二郎氏などが寄せられた文章に教えられることが多かったし、今でも解決されていないことばかりでした。

昭和53年12月に発信された言葉の一つ一つを忘れてはなりません。

「辛亥年=471年」定説は再度検討されるべきだと思いました。



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# by tizudesiru | 2017-08-26 00:15 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Comments(0)

稲荷山古墳の築造は六世紀(1)

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関東地方の前方後円墳の特色
=古い形式の主体部=稲荷山古墳

「さきたま古墳群の全体、それと将軍塚古墳(明治26年発掘)など終末期の古墳(横穴式石室が含まれる)ので、最初は横穴式の石室を探した。ただ、前方後円墳の場合、特に関東地方では古い形式の主体部が新しい古墳にも残されていることがある。」そうです。

いわば棺・あるいは槨的なものが墳丘の上に営まれることもあるので、(墳丘の)上も調べたそうです。


『稲荷山古墳』(埼玉新聞社)より座談会の抜き書き」

柳田 あの近所(さきたま古墳群)にある古墳を見ますとほとんど横穴なのですね。そこで横穴を想定して準備をしたのですが、斎藤先生から、上方の竪穴も想定しなきゃと注意されて、それが当たったのです。

  (略)

柳田 出土品の話にいきますと、特に多いなと思ったのは武器、武具の類と馬具ですね。それから、三種の神器(鏡・勾玉・剣)。武器では鉾から太刀(直刀)、剣、挂甲、鉄鏃が束になったのがあるのです。馬具も作りのいい鈴杏葉(すずぎょうよう)、環鈴、これは埼玉県では初めてです。

斎藤 あのような鈴杏葉は若干例がありますが、関東地方では面白い例だと思うのです。群馬県の宝塔山(ほうとさん)古墳ですが、江戸時代かにいい鈴杏葉が出ています。ここの場合は、あれより下るのじゃないかと思います。
この古墳の副葬品で特色のある物は、(象嵌のある)剣は別としても、馬具ともう一つは帯金具。長方形の板でバンドに直接取り付ける、龍のような文様があるのです。
熊本の江田船山古墳と装身具を比べてみますと、江田船山の方には冠が出ているのです。純金のたれ飾りのついている耳飾も出ています。

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(江田船山古墳の冠や耳飾・馬具は大伽耶系とされる。同じ大伽耶系の馬具が出土するのが、稲荷山・江田船山・和歌山大谷古墳)

斎藤 帯金具となると、同じようなものですね。
東国の古墳の被葬者というのは江田船山古墳に比べると帯金具は別として、やや質素というか、東国らしいと思うんです(略)

柳田 埼玉県内には前方後円墳が百十いくつかあると思うのですが。金井塚さん、あのような副葬品について、その辺りは。
金井塚 今度の辛亥鉄剣ではいろんな方のご意見が出されました。斎藤先生が『重要なのは考古学的な研究の事実の上に立って、問題を考えていかなければならない』といわれましたが、わたしも同感です。(略)現状では銘文が独り歩きしているような現象と思います。あくまでも考古学の成果が基礎になるのではないかと。(略)
最初に問題にしたいのは、稲荷山古墳がいつ造られたのかということなのです。築造年代は二転三転しました。最初の発掘の段階では六世紀の半ばないしそれ以前。次に埼玉県教育委員会の「稲荷山古墳発掘概報」では六世紀前半ということになった訳です。理由は(書紀の)安閑紀の国造の争乱に結び付けて、その頃の築造だろうとなったのです。三回目が「考古学ジャーナル」に発表された(栗原文蔵氏)五世紀の終末から六世紀の初頭というふうに、二転三転したのです。
いま文献の方のご意見を見ていますと、どうも五世紀の終末から六世紀の初頭の上に立って考えられているようです。
(略)私は六世紀初頭の築造だと考えざるを得ないような気がするんです。確かに出土遺物の大部分は五世紀代に持って行っていいだろうと思うのですが、その全てが年代比定がなされていないのです。鏡にしても、同じものが八幡観音塚古墳(群馬県高崎)出ていますから、五世紀というわけにもいかない。須恵器や馬具、埴輪、墳丘構造も考えてみる必要があるでしょう。
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金井塚 「須恵器」は出土状態がはっきりしないが、関西では五世紀のものとされる。が、北武蔵では竪穴住居から出ている(大西遺跡)三窓一段透の脚台付坏と坩(つぼ)は、「稲荷山古墳の須恵器とほとんど同じ時期と考えて間違いない」(さきたま資料館・金子真土斯)ということでした。大西遺跡は鬼高式土器を出す竪穴住居なので、六世紀初頭の竪穴住と考えていいだろうと思います。
稲荷山古墳から土師器も出ていますが、鬼高式土器だったと思います。六世紀初頭…かなり築造時期の決め手になると思います。
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金井塚 もう一つ鈴杏葉(すずぎょうよう)ですが、立派なもので、これに類似する鈴杏葉は群馬のもの、茨城県の国松古墳のものによく似ています。埼玉県では目沼九号墳から出た鈴杏葉もそっくりです。
問題は、ここからも鬼高式土器が出ているのです。一緒に副葬されていますから、時期は六世紀ということになります。

(国松古墳の鈴杏葉 と目沼九号墳の鈴杏葉)
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なるほど、鈴が三つついてるのですね。そういえば、
鈴杏葉って埴輪の馬を飾っていたような  

どこかで見たことがあると思ったら、江田船山古墳に出土していたと思います、鈴杏葉が。

稲荷山古墳の築造時期の決め手は何でしょう

古墳の副葬品には古いものもあるけれど、新しい時期の物もあるから、築造時期を考える時には一番新しいものを決め手にするということですね。
稲荷山古墳の墳頂部には二つの亡骸を納める施設(攪乱された粘土槨・礫槨)があったそうですから、そちらも見ましょう。
埴輪も築造時期の決め手になるかも知れませんね。
しばらく、出かけていたのでブログを休んでいました。
また、よろしくお願いします。

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# by tizudesiru | 2017-08-24 00:34 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Comments(0)

稲荷山古墳の被葬者と雄略天皇

「ワカタケル」は雄略天皇か

稲荷山古墳の被葬者は、獲加多支鹵大王に仕え助けたと書かれていました。獲加多支鹵大王とは雄略天皇の事でしょうか。
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(「稲荷山古墳・鉄剣が秘めた古代の謎」より写真と文章を抜き書きしました)

原島礼二
(埼玉大教授・古代史)わたしは「ワカタケル」は雄略でいいと思います。471年か、531年かはわからないけれども、皆さんのご意見を聞いていると471年の方がスムーズだなあという感じは受けていますけれども、最終的には古墳の問題もあるし(略)この「ワカタケル」をどうしても雄略であってはならないという問題が、逆に積極的に出されてくればどうなんでしょう。


柳田敏司
(埼玉県史編纂室・考古学)早稲田大学の水野祐先生は、これは雄略と解釈しなくていいんだ。大王というのは、地方の豪族でも名乗ったんだと。だから武蔵方面の豪族がこういうふうに名乗っても一向に差し支えないじゃないか、という説をとっていますよ。

 

斎藤忠(大正大学教授・考古学)全体を見ますと、これは雄略天皇と解釈するのが一番自然ではないか、これは一つの歴史の常識だとおもっているのですが。ただその場合、「寺」を最初は「やかた」というようなことで読んで、それが今まで続いているようですけれども、この「寺」とう言葉をなぜここに使ったかという疑問も出てきます。(略)(人偏をつけて)「侍る」とどうして読めないのか。

文献をやっている人は「ワカタケル大王に はべりて」では順序がおかしいと云うことです。

私は「ワカタケル大王にはべりて斯鬼宮に在りし時、吾天下を佐治しぬ」と読むと、いろんな点ですっきりすることがあるのではないか。


柳田
 「寺」という字は「ジ」とか「シ」とか読んで朝廷のことだという人と、人偏をつけて「はべる」と解すべきだと、二通りあります。


斎藤
 要するに、「ワカタケル大王の館」と「はべる」との場合は、「ヲワケオミ」が主人公になるんです。「ヲワケオミ」が「ワカタケル大王」に侍って斯鬼宮に在ったときに、私は天下を
(たす)け…ということです。


原島
 大王と当人の関係が少し変わってきますね。

柳田 「斯鬼宮に在った時」というんですが、この「斯鬼宮」をめぐってまた問題になっています。

 

黛弘道(学習院大学教授・古代史) それこそ埼玉県の「志木」だという古田説(古田武彦氏・古代史家)もありましたね。


金井塚良一
(埼玉県立歴史資料館・考古学) それは、遺跡の分布からいっても不可能でしょうね。


 (古田説は)東国に結び付けようとしているんですね。これは、(雄略天皇の)朝倉宮のことを「斯鬼宮」といったという方がオーソドックスですね。


柳田
 刀を向う(畿内)で作ったとなると、向こうでは(朝倉宮を)斯鬼宮と云っていたということになりますね。しかし、そういう遺跡もないと云うことになると…


斎藤
 岸氏辺りは、「斯鬼宮」を雄略天皇の時に考えてもいいと云うことでしょう。それと、その剣を一体どこで作ったかということです。象嵌の技術なり、剣を作る技術なり、剣を作る技術は東国でも十分あったと。しかし、あの百十五の銘文を作らせて、あそこに彫らせた技術はやはり畿内でなければできない。そこに当然渡来人というか、帰化人というか、そういう人が文章を作った。そうしか考えられないと思うんです。


柳田
 すると、「斯鬼宮」は大体、畿内にあった。そして、「天下を佐治した」と。また、「百錬利刀」というのは、一種の決まり文句ですよね。


斎藤
 最後のところですが、「吾奉事の根記す也」と、これが一つの疑問を持たれたのは、江田船山古墳の場合は、書く者は、作る者は、と帰化人の名前が出ているんです。これと同じではないかということで「根」は名前ではないかというのですが、江田船山の銘文の内容とこの剣の内容は違うと思うのです。


斎藤
 あれを持っている人がおめでたいという吉祥的なことで、今度(稲荷山)の場合は自分の系譜、それから歴代の身分、地位、それから「天下を佐治する」ということ。よくよくのことだと思うのです、この銘文を書いたということは。

(略)

金井塚 李進熙氏(明治大学講師)が盛んに言われていますけれど、おそらく百済系の渡来人達がこの字を最初に伝えたのだろうと。その場合、呉音でどう読むかということも検討する必要があるといわれている。

呉音

古代の漢字が伝わった初期の字音を平安時代に「呉音」と呼び、8世紀初頭に遣唐使が持ち帰った漢字の音を「漢音」と呼んでいる。要するに、呉音の方が古い音で、漢和辞典には呉音・漢音の両方の読みが書かれている。対馬音は呉音のことで、唐音は漢音のことである。


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ちょっと待ってください
刀剣を作る技術は畿内にしかなかった、なんてどうしていえるのでしょうか?!
地方には技術がなかったからと断定して、だから畿内で作った刀だとなって、そうであれば斯鬼宮も畿内にあったのだろう。じゃあ、朝倉宮を実は斯鬼宮と呼んでいたんだ、と想像でいいのですか、歴史ではなく空想の世界の話になっているではありませんか!!
是では、学者の皆さんが事実に基づいて論議しているとは…言いにくいと思うのですが。
是でいいのですかねえ?

明日は、稲荷山古墳の築造時期についてのご意見を紹介しましょう。

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またまた、遅くなりましたが、明日のことです。
熊本の和水町で少しお話することになりました。
稲荷山古墳について少し触れられたらいいと思うのですが、場所が江田船山古墳のすぐそばの公民館ですから。
遅ればせながら、紹介させていただきました。


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# by tizudesiru | 2017-08-19 13:31 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Comments(0)

稲荷山古墳鉄剣銘文・乎獲居臣の系譜から読めること

稲荷山古墳の鉄剣銘文(乎獲居臣の系譜)何が読めるのか
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ヲワケノオミとはどんなひと? 何をしていた? 幾つくらい?
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前回の座談会の記事から取り上げたのは「ワケ・スクネ・ヒコ」は称号であるということでした。今回は、称号が姓(かばね)へと変わっていくという所を抜き書きしました。
称号から姓(かばね)


姓とは古代貴族階級の身分表示のため(うじ)に付けた呼び名。
大別して語源は敬称などから来たもの(連・臣・君・直・宿禰・首)、天皇に奉仕する意のもの(造)、職能からするもの(史・曰佐・伎)などがある。初めは集団内の地位や宮廷における職能を表示したものが、次第に姓の間に尊卑の別が生じ、尊卑を表示するものと変わった。

柳田(埼玉県史編纂室・考古学) 系譜の上からも大事であると。ワケとか、スクネとか氏姓制度の姓ですね。これ(鉄剣の銘文)との関連はどうですか。

(学習院大学教授・古代史)ここに出てくるのは、いわゆる後世の整った形の姓ではなくて称号というふうに言った方がいいと思うんです。

称号ですから、オホヒコもそうなんですが、その後は「タカリ」でしょう。「カリ」でもいいですが、それから「テイカリ」「テヨカリ」、それから「タカハシ」「タサキ」。

これは、みんな一個の名詞ですよね。先祖は「オホヒコ」で、この「オホ」は形容詞なんです。後はみんな一つの名詞です。そして最後の「ヲワケ」の「ヲ」は、オホヒコの「オホ」に対して、こっちは小さい方です。

で、「ワケ」でしょう。そうすると、先祖たちの代々と比べると「タサキワケ」というのと「ヲワケ」というのは全然構造が違うわけですね。

その段階になって、初めて姓らしきものを必要として来る。

この「ワケ」は元来、称号だったんだけれども、この人にとっては「ヲワケ」というのがむしろ名前の本体に近くなって、それに「直」なり、「臣」なりという後世の姓に近いものがくっついているんです、一番最後の世代に。

この変化は大変面白いと思うんです。称号から姓へという変化のプロセスがここに出ているように思うんです。

(略)

原島(埼玉大学教授・古代史)この「ワケ」については佐伯有清氏が『日本古代の政治と社会』という本を書いていますが、そのご研究の結論とこの「ワケ」とが非常によく合うんです。

黛 佐伯さんは、四世紀に「ワケ」というのが中央と地方にありまして、五世紀中頃から六世紀にかけて、中央では「ワケ」は「大王」と「王」と「公(君)」に分かれている。地方では「ワケ」から「臣」、あるいは「直」あるいは「君(公)」あるいはまだ「ワケ」の連中が残っている。そして六世紀後半から七世紀になると「大王」が天皇になり、皇族は「王」と称し、臣下に下ったのは「公(君)」だと、そういうふうに帰納しているわけなんです。

そうするとね、今の段階は「ワケ」から「臣」か「直」かは問題だけれども、ここの段階だと五世紀中ごろ以降六世紀で合うんですよ。(略)

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ワケがスタートですか?

ワケが地方と中央にあった?! ワケから大王とか・王とか・公(君)が派生したのですか。しかし、ですよ。魏志倭人伝には、九州の伊都国には「世(代々)王がいて、官を爾支(にき)といい、副を泄謨觚、柄渠觚という。ワケという称号は見当たりません。

お隣の奴国を見ましょうか。官は兕馬觚(しまこ)といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。ここにもワケは有りません。

近隣の不弥国を見ると、官を多模(たま)、副を卑奴母離。

一大(壱岐)国は、官を卑狗(ひこ)、副を卑奴母離。
対馬国は、官を卑狗、副を卑奴母離。

南の投馬国(つまこく)は、官は弥弥(みみ)、副を弥弥那利。

要するに、5世紀になって九州辺りの官職名がごっそりなくなっていることは、魏志倭人伝の後の時代に何かが起こったということでしょうか。
忘れていました、女王国の官を付け加えることを。
官には伊支馬(イキマ)、次は弥馬升といい、次は弥馬獲支といい、奴佳鞮という。ここは、官が多いですね。
さすがに七万戸の女王国です。きっと広い平野・大きな川のある地に違いありません。七万戸ですから。まさか谷あいの小さな土地ではないですよね!
弥馬獲支を「みまわけ」とよむのでしょうか。しかし、官としては三番目ですね。ここから「ワケ」が進化していくとは思えないのですが。

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まだまだ、続きます。また、明日



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# by tizudesiru | 2017-08-17 22:22 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Comments(0)

乎獲居臣の八代の系譜

乎獲居臣の八代の系譜

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乎獲居臣(ヲワケノオミ)に到る八代の先祖
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黛弘道(学習院大教授)座談会より

「銘文が持つところの歴史的意義といいますか、これは非常に多岐にわたるわけでしてね。いろんな問題がここから引き出せるだろうと思うのです。国語の問題とか、技術的な問題とか云うこともありますが、中身だけについても、八代の系譜が五世紀なり、六世紀なりの銘文に出てくるわけですから、大変なことだと思うのです。文献では継体天皇系譜なんていうのがありますけど、この銘文は確かにこの時期に書かれた系譜ですから、その意味で画期的なものだと思いますね。

ただ大事な点は此処に書いてある八代が全部実在だ、などというふうに思い込んだらとんでもないことであって、これは「ヲワケノオミ」の時代に彼の先祖としてこういう人がいたといわれておった。まあ、それは彼より数代前くらいまでは実在したかも知れませんけれども、例えばオホヒコなんかはすぐに実在だというふうには言えない。
そこで問題になるのは、だからといってこれを記紀に出てくるオホヒコと結びつけることの良し悪しです。私はそれを悪いとは思わない。なぜならば、この時期にオホヒコという伝説上の人物があって、当時の人はすでに信用しており、自分の先祖だと主張する者もおったという事実がこの銘文から知れるし、「古事記」に出てくる『大毘古』が書物になったのは七、八世紀ですけども、ああいう伝承は一方ではずっと古くから伝わっておったと思います。ですから、すぐに両者を結び付けるのは短絡だという批判もあるけれども、案外そうでもないかも知れない。そういう意味で八代の系譜と云うのは古代史の問題として非常に興味があるわけなんです。

ヒコ・スクネ・ワケ

「ヒコ」(比垝)、「スクネ」(足尼)、「ワケ」(獲居)という称号ですね。この辺も「古事記」「日本書紀」などから抽出して、「彦ひこ」、「宿禰すくね」、「別わけ」を並べてみますと矛盾しないのですね。

だから、記紀に書いてある個々の記事が信用できるか、できないかということは別問題としても、記紀といえども時代の大勢には背くような記述はしていないという意味で、記紀の見直しをできる面がある。記紀をそのまま信用できるという意味では、もちろんないですけどもね。

(略)
「ヲワケオミ」を稲荷山古墳の主だとお考えの方が多いのではないかと思いますが、そう断定する根拠は何もないということですね。これはね、もしそういうふうに考えると佐伯有清氏(北海道大学教授)のように「臣」(おみ)じゃなくて「直」(あたい)の方が都合がいいのですよ。私の師の井上光貞氏(元東京大学教授)は、あれが出たときに、これは「直」だと具合がいいんだけどな、とおっしゃいましたが、歴史学の常識からすると「直」でなきゃいけないわけなんです。

ところが、これは武蔵国造の系譜と断定する根拠は何もないと思う。したがって被葬者を示すものでも何もない。武蔵国造かもしれないけど、そうでないかもしれない。ですから、その点はもう少し虚心に考えた方がいい。たとえば誰かから貰ってきた刀だと、例えば中央からですね。そういう解釈もできないことはないと私は思っているわけです。

特に「オミ」が姓(かばね)であるかどうかという問題もありますけれども、「直」でないことは岸俊男氏(京都大学教授)も断言されたようです。そうなると逆に武蔵国造とすぐに結びつけないで考えたらどうか。(略)

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銘文の読みについては、まだまだ色々あるのですが。
明日は、姓(かばね)について紹介します。




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# by tizudesiru | 2017-08-17 00:34 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Comments(0)

稲荷山古墳の金石文の訓み解きをめぐって

稲荷山古墳出土鉄剣の錯銘文
前回紹介した稲荷山古墳です。古墳公園の「見晴らし台」とするために、緊急発掘が行われ、そこで鉄剣が出土し、鉄剣の金象嵌が発見されたのです。
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鉄剣の裏と表に象嵌された文字。これを裏表に分ける作業がありまして、
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このような文に解読されたのです。
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これは、辛亥年(471年説、531年説)の7月に作られたものです。
これを作らせたのは、乎獲居臣(オワケノオミ)で、彼は杖刀人の首だったようです。仕えていた大王は斯鬼宮にいた獲加多支鹵で、その時自分は大王の政治を助けたというのです。
辛亥年・この時、乎獲居臣は幾つだったのでしょう。50歳前後だとすると、獲加多支鹵大王に仕え天下を佐治(天下を治めるのを助けること)した時期はいつ頃になるのでしょう。
辛亥年(471年)なら
20歳~45歳のころ務めたなら、440~465年ころですかね。
辛亥年(531年)なら
20歳~45歳ころ務めたとして、500~525年ころですかね。

乎獲居臣の前に先祖の名が連なっていますが、「八代の系譜は阿倍氏のもの」
と、『稲荷山古墳(埼玉新聞社)』に紹介されていました。
明日はその乎獲居臣について紹介しましょう。


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# by tizudesiru | 2017-08-16 11:31 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Comments(0)

稲荷山古墳は仁徳陵の4分の1

行田市の稲荷山古墳
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(発掘調査前の稲荷山古墳・埼玉新聞社「稲荷山古墳」より)
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さて、「稲荷山古墳」(埼玉新聞社発行・昭和53年)を妹から譲られました。彼女も知り合いから譲ってもらったのだそうです。
それは絶版になっているもので、貴重な当時の稲荷山古墳発掘に関わったトップの方々の座談会などが収録された出版物です。
福岡の県立図書館も所蔵していませんし、実に幸運なことでした。
何より、そこに書かれていたのは、将に驚愕の中身だったのです。


江田船山古墳の銀象嵌鉄刀の対して、稲荷山古墳は金象嵌の鉄剣

関東と九州の離れた地域に出土した考古資料、江田船山の鉄刀と稲荷山の鉄剣に錯銘された文字をめぐって新聞やテレビが大きく取り上げました。金石文の中に「典曹人」と「杖刀人」がほられていました。離れた二か所の金石文は互いに比較され、大王の名をどう読むのか、築造時期はいつか、日本中が大騒ぎしたのを覚えています。

その時の出版物を紹介したいのです。
稲荷山古墳は、仁徳陵の4分の1の大きさだそうです。二子山古墳も同じ墳形だそうです。(わたしは此処で大阪平野と関わりの深い古墳だろうかと思いました)

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稲荷山古墳の埋葬施設は、横穴式の石室とかではありません。墳丘頂上部の礫槨でした。

さて、この古墳についてネットには次のように紹介されています。
稲荷山古墳は5世紀後半に造られた前方後円墳で、埼玉古墳群の中で、最初に出現した古墳です。以前、古墳の上に小さな稲荷社があったことから、稲荷山と呼ばれるようになりました。
前方部は1937年(昭12)年に土取りで壊されてしまいましたが、1997年(平成9)年からの復原整備で前方部が復元され、現在では造られた当時のかたちを見ることができます。墳丘の全長は120mで、12m近い高さがあり、周囲には二重の堀が巡っています。
堀の整備などはこれからも続けて行きますが、墳丘の頂上には登れるようになり、周囲の古墳を見ることができますので、高さを実感してください。
さきたま風土記の丘を整備するために、1968(昭和43)年に稲荷山古墳の発掘調査をしたところ、頂上から2基の主体部が発見されました。』

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つまり、稲荷山古墳はほとんど偶然に見つかったのです。
当時、稲荷山古墳の発掘が目的だったのではなく、高度成長の時代に日本中の文化財の破壊が進んだので、破壊から文化祭を守る手立てとして価値のある物だけを文化財として残すのではなく、地域を一塊として公園化すること(風土記の丘)で、文化財指定を受けていない古墳も残そうとしたのでした。
その為に、古墳公園整備のために、古墳公園全体を見渡す「見晴らし台」として、稲荷山古墳が選ばれたのです。
そして、緊急発掘により墳丘頂上部から二基の埋葬施設が見つかったというのです。
土取りで破壊されかかっていた稲荷山古墳の礫槨と粘土郭。
粘土槨の方はかき回されていましたが、礫槨のほうは無事だったのです。整然と副葬品が置かれた埋葬施設が現れました。

発見の楽しさが、やがて驚愕の大発見へとつながっていくのです。

ドキドキ感が伝わりましたね。
また、明日


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# by tizudesiru | 2017-08-15 01:14 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Comments(0)

知っていそうで知らない江田船山古墳

江田船山古墳、急に熊本の古墳に話が飛んだ感じですね。
実は、家形石棺を見ていて、今回も疑問が生まれたのです。
艸墓古墳や蘇我系の墓制は、横穴式の石室に家形石棺を置いていました。そのルーツは何処だろうと再度思いました。
まず、家形石棺と云えば北部九州が発祥地ではないでしょうか。
ですが、「九州の墓制は石屋形に亡骸を納め、棺は密閉されていないから、他の地域と特に畿内とは墓制が違う。畿内の石棺は密閉型である」と、墓制の違いが強調されて来ました。しかし、九州には、石屋形だけでなく、密閉型の家形石棺も、舟形石棺も、長持ち型石棺も、組合せ式箱式石棺もみんな揃っています。そこに、装飾が施されているものがあり、大変複雑ですよね。このことには、皆さんがよくご存じだと思いますが。
畿内の石棺には、阿蘇溶結凝灰岩を用いて造られていたものがあり、後期になると畿内の二上山産の凝灰岩が用いられています。
是だけでも、素人は「石棺に凝灰岩を用いる」ことは九州から伝わったと思いますね。というわけで、畿内を飛び越えて、関東と九州の墓制をちょっとだけ見たいなと思ったのです。

知っていそうで知らない江田船山古墳


江田船山古墳は熊本県北部に在ります 
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この時も、きれいに草が刈られていました。いつ出かけてもきれいです。
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横穴式石室に家形石棺が納められています。
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九州の家形石棺には出入り口が穿たれているものがいくつもあります。もちろん密閉型もありますが。こんなに口がぽっかり空いているのは何故でしょう。
当時は盗掘者はいなかったのでしょうか。
墓泥棒には都合のいい造りですね。
この古墳から100mほど離れた古墳も横穴式古墳があり、石室内を見学できます。
塚坊主古墳といいます。
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石屋形と呼ばれるものでしょうか。
わたしには家形石棺のように見えます。

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石室の右横をよく見ると、家形石棺の屋根が見えて縄掛突起らしいものがあるのですが…。激しく破壊されていますね。
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どうですかねえ。
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菊池川流域には多くの装飾古墳があります。
塚坊主古墳も装飾古墳のお仲間だったのですね。


同じ古墳群の中に在りますから、江田船山古墳の被葬者とは所縁のある人なのですね。

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江田船山古墳には造り出(つくりだし)部があり、後円部の付け根に出っ張りがついています。この古墳がつくられた時期は何時なのでしょうね。
築造時期を考えるために、「治天下」と「杖刀人」という金石文が発見された埼玉県の稲荷山古墳の築造時期とも比べてみましょうね。江田船山古墳の鉄刀の銘文にも「典曹人」という役職が出てきます。離れた古墳には何等かのつながりがあることでしょうから。

また明日

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# by tizudesiru | 2017-08-13 17:43 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Comments(1)

阿倍寺の近くの艸墓古墳

前回の安倍倉橋麻呂の墓だという、安倍文殊院の西古墳、どうおもわれましたか?

倉橋麻呂の墓と思われましたか?実は、わたしは疑ったのです。
あの切り石加工は、八世紀の文武天皇陵や束明神古墳の石組みに似ていますし、技術的には八世紀と思ったのです。

では、安倍丘陵の他の古墳をみましょうか。


阿倍寺跡ではなく、安倍文殊院により近い

艸墓古墳は誰の墓
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艸墓古墳の家形石棺は、いろいろな古代史関係の本にも出て来るので気になりますよね。わたしは阿倍氏に関わる墓かも知れないと思ったのです。それで、訪ねてみました。
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この古墳は分かりにくくて、地元の人のお世話になりました。
よそ様の敷地の中に半分足を踏み込みそうになりながら、隙間を通ってたどり着きました。ほとんど道はありません。よそ様の家とよそ様の庭の間を通ります。
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安倍文殊院のこの辺りは、安倍丘陵という小高地です。そこに錐(きり)のような形の墳丘があり、長方形の方墳だというのです。石室の石の隙間に漆喰(しっくい)がつめられていて、奈良の竜山石(白い肌の凝灰岩)を用いた刳り抜き型の家形石棺が置かれているのです。
方墳・家形石棺となると、蘇我系の墳墓を思い出しますね。
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巨石の石室の奥に石棺が見えます。
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確かに縄掛突起も見えますね。ここは、家形石棺の時代の墓なのです。
安倍丘陵の日当たりのいい一等地にこの古墳です。見晴らしもよく、眼下に見渡せる谷を流れるのは寺川で、その奥の山は鳥見山だったのです。
艸墓古墳の被葬者は首長だったと思います。だって、鳥見山山頂のほぼ真西に艸墓古墳は造られていますから。
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鳥見山の北には、桜井茶臼山古墳があります。神武天皇東遷に出て来る鳥見の長脛彦の墓ですか。
甘南備型の247mほどの鳥見山の周囲には、舒明天皇陵、赤坂天王山古墳(崇峻天皇という説あり)、少し離れるけどメスリ山古墳と揃ってるんですが、同じ氏族の墓なのですかねえ。

そうそう、艸墓古墳の帰りに「聖徳太子が安倍に造ったという土舞台」を見に行きましたが、なにしろ草が深くて、足が止まりました。
一人旅の手弱女には深草は無理です。怖いです。
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では、また

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# by tizudesiru | 2017-08-11 14:30 | 276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓 | Comments(0)

左大臣安倍倉梯麿の安倍寺と墓

阿倍氏といえば阿倍晴明が有名です。彼は平安時代の人です。
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安倍寺を建てたのは、左大臣・安倍倉梯麻呂
阿倍氏の阿倍寺に行きました。阿倍倉梯麿の墓と言う古墳を見に行ったのです。
奈良県桜井市の安倍文殊院境内に西古墳と東古墳があり、どちらも7世紀の古墳です。
阿倍倉橋麻呂は、孝徳天皇の左大臣でした。孝徳天皇の寵妃・小足媛の父であり、有間皇子の祖父でもあります。孝徳天皇の薄葬礼が出ていたにも関わらず、大きな古墳を築いたとされ、それが境内の古墳かも知れないからです。
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山田寺から山田道(磐余道)を北上すると、阿倍寺跡に届き、少し坂道に入り込むと安倍文殊院があり、その境内に二つの古墳はあります。
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(現在の安倍文殊院の文殊池にあるお堂)
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倉梯麿は、645年乙巳の変(大化改新)後に左大臣となりました
阿倍文殊院に安倍倉梯麿の墓と言う古墳を見に行ったのですが、そこは彼が建てたという阿倍寺とは少し離れています。
阿倍倉橋麻呂は力を持った豪族の長
645年6月に乙巳の変が起きました。その直後に大王になった軽皇子(孝徳天皇)の左大臣でしたが、相当に年齢は高かったと思います。舒明帝に古くから仕えていたのでしょう。舒明2年(639)に百済大寺の造寺司となっています。舒明帝は信頼できる豪族に百済大寺を任せたのです。当然、倉梯麿は若くなかったでしょうね。
左大臣
 阿倍倉梯麿 6月任
右大臣 蘇我倉山田石川麿 6月任
内臣 中臣鎌子(鎌足) 6月任
孝徳天皇に任命されたのは、阿倍氏、蘇我氏、中臣氏の三人でしたが、五年目には二人の大臣は死亡します。不思議なことに、左右大臣は同年同月に死亡しています。何かあったのでしょうか。左右大臣が揃って死亡とは…
左大臣
 阿倍倉梯麿 3月没 (巨勢徳陀 4月任)
右大臣 蘇我倉山田石川麿 3月自殺 (大伴長徳 4月任)

さて、古墳を見ましょう。
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池を見ながら西に進むと、すぐに文殊院西古墳があります。
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綺麗な花崗岩の切り石の石室ですね。此処が、倉梯麿の墓だそうです。
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次は東古墳です。反対側に進みます。
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お社の左に東古墳があります。
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西古墳と比べると、こちらが古いようですね。
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文殊院の西古墳と東古墳をみました。さて、どちらが倉梯麿の墓でしょうか。それとも、彼の墓は別にあるのでしょうか。
安倍倉梯麿の墓が何処にあるのか、どんな墳丘墓なのか、それは重要です。
大化改新前後の安倍氏の文化力、彼の左大臣としての立場や影響力が想像できるからです。

安倍氏は孝徳朝の重要なポストに着きました。天武朝でも、安倍仲麻呂は遣唐使として唐に渡りました。優れた文化力を持った豪族だったのです。
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安倍仲麻呂の望郷の歌は有名ですね。
あまのはら 振りさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
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さて、阿部文殊院の近くには面白い古墳があります。そこもチェックしましょうか。
では、また明日

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# by tizudesiru | 2017-08-10 20:47 | 276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓 | Comments(0)

明日香・奥山廃寺に秘められた物語

奥山廃寺は、明日香の奥山にあります。
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奥山の久米寺、その境内に廃寺の塔跡が残っています。
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去年の秋、塔跡を見た時の写真です。よく見ると、左の柱礎石に穴が穿たれているのに気が付きますよね。今年も見に行きました。
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穴を確かめましたが、ヒビがあるので水は溜まっていません。
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これは石塔の下の敷かれた石、こちらには水があります。
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よく見ると穴が有ったりなかったりと、様々な塔の敷石です。
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他にも穴の穿たれた石が境内の隅に置かれていました。
まるで塔心礎のようではありませんか。そういえば、奥山久米寺の礎石が、明日香博物館に置かれていました。なんと、この礎石にも穴があります。講堂の礎石だそうです。
穴は必要なので彫られたはずです、扉の戸の軸穴などとして。すると、奥山久米寺の塔跡の礎石の穴も、扉の開閉のための戸の軸穴だったのでしょうか。
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帰りに橿原の博物館でも聞きました。「塔跡のこの穴は何ですか」
礎石の写真も見てもらいましたが、なぜ穴が穿たれているのか、「開閉のため戸の軸穴の可能性」を云われただけで、はっきりしませんでした。たくさんの穴があることが不思議という感じでしたね。
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実は、ここでスゴイ瓦を見せていただきました。(写真には撮らせていただきましたが、ネットに上げるのは遠慮させていただきます。)

スゴイ古瓦・
奥山久米寺の平瓦・朱が塗られた大きい平瓦

わたしも驚きましたが、同時に「やった!」と思いました。
わたしはかねてより明日香にあったはずのある館を探しているのです。
それが奥山久米寺の辺りなら申し分ありません。近くにあった邸宅が寺院になったと思うからです。

その館の主が没したあと、特別な寺院が造られた、または改造された、と思うからです。

その邸宅の出入り口には、多くの頑丈な門があったでしょう。門扉の軸穴が有って当然です。
その人は高貴な生まれの人だったでしょう。
その死後、四天王寺式の寺院が屋形の柱や礎石を使って建立されたと、わたしは思っているのです。


奥山久米寺、なかなか面白い所ですが、車は入れません。
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きっと、ここも歴史の扉を開ける鍵となることでしょう。


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# by tizudesiru | 2017-08-08 10:38 | 275飛鳥・奥山廃寺の謎 | Comments(0)

蘇我馬子の菩提を弔ったのは誰

よく質問されること「古代には測量技術はなかったのに、
何故ラインが引けるのか?」です。
またまた、テレビが教えてくれました。「国宝・投入堂・秘められた謎」です。
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二つのお堂ははるか遠くに離れています。
しかし、同じような建築様式です。それも、緯度がほぼ同じなのです。
投入堂の緯度・北緯35度23分47.5秒
笠森観音堂の緯度・北緯35度23分58・6秒

その答えは、「古代から太陽観測をして、かなり正確に位置を知ることができたから、離れていても二つのお堂の緯度の数値が近いのだ」というのです。
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投入堂と笠森観音を直線でつなぐと、大山の北側を通り熊野神社を通り出雲大社の参道入口までつながります。では、古代の都があった飛鳥でも、太陽を観測して位置を決めたのでしょうか。
調べてみましょうか。

ラインで見る石舞台
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藤原宮の大極殿から石舞台に直線を引くと、紀寺廃寺・飛鳥寺を通って石舞台につながります。持統天皇・高市皇子が造営した藤原宮ですが、飛鳥寺を取り込んでのことでしょうか。石舞台に直線が届いたのは、偶然と思えないのです。
此処はお互いに近いから、棒を数本使って目測で位置を確認できたでしょうね。


それから、石舞台古墳から西にむかって直線をのばすと、与楽鑵子塚古墳に行き着きます。
此処は渡来系の人の古墳だそうです。石舞台古墳のような大石を積んだ石室で高さもあります。
(地図があれば
、古代史の謎に迫ることができる!と思っている私には、面白い事実でした。
地図を見ることが、わたしの古代史の謎を解く時の基本的な方法です。)


蘇我大臣の墓という石舞台の直線は何を語る?
この三角のラインは、以前から気になっていました。藤原宮から与楽鑵子塚古墳に直線を引くと、本薬師寺がライン上に来るからです。飛鳥寺も本薬師寺も当時の官寺ですから、国家の行事も法事も行われていたでしょう。
そして、最近気が付いたのは、定林寺跡が石舞台古墳と与楽鑵子塚古墳の間に入ることです。


古代の寺、それも飛鳥の時期の古瓦が出土した定林寺

蘇我馬子は自分の為に寺を建てなかったのでしょうか。または、余るほどの財力を持っていた蘇我氏は、蘇我大臣のために菩提寺は建てなかったのでしょうか。
そんな思いで地図を見ていて、気になる廃寺がありました。
立部にある廃寺、定林寺です。


馬子が建立した寺は飛鳥寺・甘樫の丘の東に造営した。
では、蘇我馬子の菩提寺は?


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蘇我氏の甘樫の丘から飛鳥寺も槻の広場もよく見えたことでしょう。ただ、蘇我馬子は甘樫の丘ではなく島ノ庄の館に住んでいましたから、丘から飛鳥寺を眺めたのは、蝦夷や入鹿でした。
飛鳥寺は当時の外交の場であり、国内の豪族をもてなす場でもありました。飛鳥寺の横の槻の広場で様々な国家的行事が行われたとされています。
乙巳の変(645)の時、中大兄は蘇我入鹿を斬った後で飛鳥寺に立て籠もり、入鹿の父・蘇我蝦夷の反撃に備えました。その後も、飛鳥寺は官寺として大王のために読経しました。
ですから、蘇我氏が一族の為に造営した寺でしたが、結果的に官寺として多用されたということです。

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飛鳥寺は蘇我氏の寺であっても、蘇我氏の菩提寺ではなさそうです。では、蘇我氏の菩提寺は?
ほとんどの氏が自分の寺を持っていましたよね。

では、立部の定林寺跡に行ってみましょう。

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この道を上っていくと、春日神社がありました。
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定林寺跡が遺跡と認定されたので、この春日神社が移動させられたと云うことです。
道の奥に定林寺跡があり、道は行き止まりです。
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奥に少し広場が見えます。定林寺跡は、ここです。
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狭い丘の上に寺があったようです。見える範囲が全てです。春日神社まで寺域を広げると、塔と金堂が東西に並ぶ配置になるのでしょうね。

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奥の丸い岡の上あたりが定林寺でしょうか。
さて、この飛鳥時代の瓦をもつこの寺を造営したのは誰でしょうね。

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定林寺と他の寺とのかかわりを見ます。飛鳥寺と定林寺を結ぶと、ラインは文武陵まで届きます。

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同じ蘇我氏、石川麿の山田寺とラインをつなぐと、なんと川原寺が乗りました。
鞍作氏の坂田寺を本薬師寺とつなぐと、川原寺と蘇我蝦夷の館跡を通ります。

定林寺を建立したのは、どうも蘇我系の人のように思えます。



定林寺と直線でつながるのは、蘇我石川麿の山田寺・斉明天皇ゆかりの川原寺です。
川原寺は本薬師寺や蘇我本家の館(甘樫丘)坂田寺(鞍作氏の寺)などとつながります。
誰が定林寺を建立したのかですが、わたしは蘇我蝦夷だと思います。馬子大臣の菩提を弔ったのではないかと、思うのです。
では、また


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# by tizudesiru | 2017-08-06 22:19 | 274 古代の測量の可能性・飛鳥 | Comments(0)


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