稲荷山古墳の被葬者と雄略天皇

「ワカタケル」は雄略天皇か

稲荷山古墳の被葬者は、獲加多支鹵大王に仕え助けたと書かれていました。獲加多支鹵大王とは雄略天皇の事でしょうか。
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(「稲荷山古墳・鉄剣が秘めた古代の謎」より写真と文章を抜き書きしました)

原島礼二
(埼玉大教授・古代史)わたしは「ワカタケル」は雄略でいいと思います。471年か、531年かはわからないけれども、皆さんのご意見を聞いていると471年の方がスムーズだなあという感じは受けていますけれども、最終的には古墳の問題もあるし(略)この「ワカタケル」をどうしても雄略であってはならないという問題が、逆に積極的に出されてくればどうなんでしょう。


柳田敏司
(埼玉県史編纂室・考古学)早稲田大学の水野祐先生は、これは雄略と解釈しなくていいんだ。大王というのは、地方の豪族でも名乗ったんだと。だから武蔵方面の豪族がこういうふうに名乗っても一向に差し支えないじゃないか、という説をとっていますよ。

 

斎藤忠(大正大学教授・考古学)全体を見ますと、これは雄略天皇と解釈するのが一番自然ではないか、これは一つの歴史の常識だとおもっているのですが。ただその場合、「寺」を最初は「やかた」というようなことで読んで、それが今まで続いているようですけれども、この「寺」とう言葉をなぜここに使ったかという疑問も出てきます。(略)(人偏をつけて)「侍る」とどうして読めないのか。

文献をやっている人は「ワカタケル大王に はべりて」では順序がおかしいと云うことです。

私は「ワカタケル大王にはべりて斯鬼宮に在りし時、吾天下を佐治しぬ」と読むと、いろんな点ですっきりすることがあるのではないか。


柳田
 「寺」という字は「ジ」とか「シ」とか読んで朝廷のことだという人と、人偏をつけて「はべる」と解すべきだと、二通りあります。


斎藤
 要するに、「ワカタケル大王の館」と「はべる」との場合は、「ヲワケオミ」が主人公になるんです。「ヲワケオミ」が「ワカタケル大王」に侍って斯鬼宮に在ったときに、私は天下を
(たす)け…ということです。


原島
 大王と当人の関係が少し変わってきますね。

柳田 「斯鬼宮に在った時」というんですが、この「斯鬼宮」をめぐってまた問題になっています。

 

黛弘道(学習院大学教授・古代史) それこそ埼玉県の「志木」だという古田説(古田武彦氏・古代史家)もありましたね。


金井塚良一
(埼玉県立歴史資料館・考古学) それは、遺跡の分布からいっても不可能でしょうね。


 (古田説は)東国に結び付けようとしているんですね。これは、(雄略天皇の)朝倉宮のことを「斯鬼宮」といったという方がオーソドックスですね。


柳田
 刀を向う(畿内)で作ったとなると、向こうでは(朝倉宮を)斯鬼宮と云っていたということになりますね。しかし、そういう遺跡もないと云うことになると…


斎藤
 岸氏辺りは、「斯鬼宮」を雄略天皇の時に考えてもいいと云うことでしょう。それと、その剣を一体どこで作ったかということです。象嵌の技術なり、剣を作る技術なり、剣を作る技術は東国でも十分あったと。しかし、あの百十五の銘文を作らせて、あそこに彫らせた技術はやはり畿内でなければできない。そこに当然渡来人というか、帰化人というか、そういう人が文章を作った。そうしか考えられないと思うんです。


柳田
 すると、「斯鬼宮」は大体、畿内にあった。そして、「天下を佐治した」と。また、「百錬利刀」というのは、一種の決まり文句ですよね。


斎藤
 最後のところですが、「吾奉事の根記す也」と、これが一つの疑問を持たれたのは、江田船山古墳の場合は、書く者は、作る者は、と帰化人の名前が出ているんです。これと同じではないかということで「根」は名前ではないかというのですが、江田船山の銘文の内容とこの剣の内容は違うと思うのです。


斎藤
 あれを持っている人がおめでたいという吉祥的なことで、今度(稲荷山)の場合は自分の系譜、それから歴代の身分、地位、それから「天下を佐治する」ということ。よくよくのことだと思うのです、この銘文を書いたということは。

(略)

金井塚 李進熙氏(明治大学講師)が盛んに言われていますけれど、おそらく百済系の渡来人達がこの字を最初に伝えたのだろうと。その場合、呉音でどう読むかということも検討する必要があるといわれている。

呉音

古代の漢字が伝わった初期の字音を平安時代に「呉音」と呼び、8世紀初頭に遣唐使が持ち帰った漢字の音を「漢音」と呼んでいる。要するに、呉音の方が古い音で、漢和辞典には呉音・漢音の両方の読みが書かれている。対馬音は呉音のことで、唐音は漢音のことである。


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ちょっと待ってください
刀剣を作る技術は畿内にしかなかった、なんてどうしていえるのでしょうか?!
地方には技術がなかったからと断定して、だから畿内で作った刀だとなって、そうであれば斯鬼宮も畿内にあったのだろう。じゃあ、朝倉宮を実は斯鬼宮と呼んでいたんだ、と想像でいいのですか、歴史ではなく空想の世界の話になっているではありませんか!!
是では、学者の皆さんが事実に基づいて論議しているとは…言いにくいと思うのですが。
是でいいのですかねえ?

明日は、稲荷山古墳の築造時期についてのご意見を紹介しましょう。

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またまた、遅くなりましたが、明日のことです。
熊本の和水町で少しお話することになりました。
稲荷山古墳について少し触れられたらいいと思うのですが、場所が江田船山古墳のすぐそばの公民館ですから。
遅ればせながら、紹介させていただきました。


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# by tizudesiru | 2017-08-19 13:31 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Comments(0)

稲荷山古墳鉄剣銘文・乎獲居臣の系譜から読めること

稲荷山古墳の鉄剣銘文(乎獲居臣の系譜)何が読めるのか
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ヲワケノオミとはどんなひと? 何をしていた? 幾つくらい?
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前回の座談会の記事から取り上げたのは「ワケ・スクネ・ヒコ」は称号であるということでした。今回は、称号が姓(かばね)へと変わっていくという所を抜き書きしました。
称号から姓(かばね)


姓とは古代貴族階級の身分表示のため(うじ)に付けた呼び名。
大別して語源は敬称などから来たもの(連・臣・君・直・宿禰・首)、天皇に奉仕する意のもの(造)、職能からするもの(史・曰佐・伎)などがある。初めは集団内の地位や宮廷における職能を表示したものが、次第に姓の間に尊卑の別が生じ、尊卑を表示するものと変わった。

柳田(埼玉県史編纂室・考古学) 系譜の上からも大事であると。ワケとか、スクネとか氏姓制度の姓ですね。これ(鉄剣の銘文)との関連はどうですか。

(学習院大学教授・古代史)ここに出てくるのは、いわゆる後世の整った形の姓ではなくて称号というふうに言った方がいいと思うんです。

称号ですから、オホヒコもそうなんですが、その後は「タカリ」でしょう。「カリ」でもいいですが、それから「テイカリ」「テヨカリ」、それから「タカハシ」「タサキ」。

これは、みんな一個の名詞ですよね。先祖は「オホヒコ」で、この「オホ」は形容詞なんです。後はみんな一つの名詞です。そして最後の「ヲワケ」の「ヲ」は、オホヒコの「オホ」に対して、こっちは小さい方です。

で、「ワケ」でしょう。そうすると、先祖たちの代々と比べると「タサキワケ」というのと「ヲワケ」というのは全然構造が違うわけですね。

その段階になって、初めて姓らしきものを必要として来る。

この「ワケ」は元来、称号だったんだけれども、この人にとっては「ヲワケ」というのがむしろ名前の本体に近くなって、それに「直」なり、「臣」なりという後世の姓に近いものがくっついているんです、一番最後の世代に。

この変化は大変面白いと思うんです。称号から姓へという変化のプロセスがここに出ているように思うんです。

(略)

原島(埼玉大学教授・古代史)この「ワケ」については佐伯有清氏が『日本古代の政治と社会』という本を書いていますが、そのご研究の結論とこの「ワケ」とが非常によく合うんです。

黛 佐伯さんは、四世紀に「ワケ」というのが中央と地方にありまして、五世紀中頃から六世紀にかけて、中央では「ワケ」は「大王」と「王」と「公(君)」に分かれている。地方では「ワケ」から「臣」、あるいは「直」あるいは「君(公)」あるいはまだ「ワケ」の連中が残っている。そして六世紀後半から七世紀になると「大王」が天皇になり、皇族は「王」と称し、臣下に下ったのは「公(君)」だと、そういうふうに帰納しているわけなんです。

そうするとね、今の段階は「ワケ」から「臣」か「直」かは問題だけれども、ここの段階だと五世紀中ごろ以降六世紀で合うんですよ。(略)

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ワケがスタートですか?

ワケが地方と中央にあった?! ワケから大王とか・王とか・公(君)が派生したのですか。しかし、ですよ。魏志倭人伝には、九州の伊都国には「世(代々)王がいて、官を爾支(にき)といい、副を泄謨觚、柄渠觚という。ワケという称号は見当たりません。

お隣の奴国を見ましょうか。官は兕馬觚(しまこ)といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。ここにもワケは有りません。

近隣の不弥国を見ると、官を多模(たま)、副を卑奴母離。

一大(壱岐)国は、官を卑狗(ひこ)、副を卑奴母離。
対馬国は、官を卑狗、副を卑奴母離。

南の投馬国(つまこく)は、官は弥弥(みみ)、副を弥弥那利。

要するに、5世紀になって九州辺りの官職名がごっそりなくなっていることは、魏志倭人伝の後の時代に何かが起こったということでしょうか。
忘れていました、女王国の官を付け加えることを。
官には伊支馬(イキマ)、次は弥馬升といい、次は弥馬獲支といい、奴佳鞮という。ここは、官が多いですね。
さすがに七万戸の女王国です。きっと広い平野・大きな川のある地に違いありません。七万戸ですから。まさか谷あいの小さな土地ではないですよね!
弥馬獲支を「みまわけ」とよむのでしょうか。しかし、官としては三番目ですね。ここから「ワケ」が進化していくとは思えないのですが。

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まだまだ、続きます。また、明日



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# by tizudesiru | 2017-08-17 22:22 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Comments(0)

乎獲居臣の八代の系譜

乎獲居臣の八代の系譜

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乎獲居臣(ヲワケノオミ)に到る八代の先祖
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黛弘道(学習院大教授)座談会より

「銘文が持つところの歴史的意義といいますか、これは非常に多岐にわたるわけでしてね。いろんな問題がここから引き出せるだろうと思うのです。国語の問題とか、技術的な問題とか云うこともありますが、中身だけについても、八代の系譜が五世紀なり、六世紀なりの銘文に出てくるわけですから、大変なことだと思うのです。文献では継体天皇系譜なんていうのがありますけど、この銘文は確かにこの時期に書かれた系譜ですから、その意味で画期的なものだと思いますね。

ただ大事な点は此処に書いてある八代が全部実在だ、などというふうに思い込んだらとんでもないことであって、これは「ヲワケノオミ」の時代に彼の先祖としてこういう人がいたといわれておった。まあ、それは彼より数代前くらいまでは実在したかも知れませんけれども、例えばオホヒコなんかはすぐに実在だというふうには言えない。
そこで問題になるのは、だからといってこれを記紀に出てくるオホヒコと結びつけることの良し悪しです。私はそれを悪いとは思わない。なぜならば、この時期にオホヒコという伝説上の人物があって、当時の人はすでに信用しており、自分の先祖だと主張する者もおったという事実がこの銘文から知れるし、「古事記」に出てくる『大毘古』が書物になったのは七、八世紀ですけども、ああいう伝承は一方ではずっと古くから伝わっておったと思います。ですから、すぐに両者を結び付けるのは短絡だという批判もあるけれども、案外そうでもないかも知れない。そういう意味で八代の系譜と云うのは古代史の問題として非常に興味があるわけなんです。

ヒコ・スクネ・ワケ

「ヒコ」(比垝)、「スクネ」(足尼)、「ワケ」(獲居)という称号ですね。この辺も「古事記」「日本書紀」などから抽出して、「彦ひこ」、「宿禰すくね」、「別わけ」を並べてみますと矛盾しないのですね。

だから、記紀に書いてある個々の記事が信用できるか、できないかということは別問題としても、記紀といえども時代の大勢には背くような記述はしていないという意味で、記紀の見直しをできる面がある。記紀をそのまま信用できるという意味では、もちろんないですけどもね。

(略)
「ヲワケオミ」を稲荷山古墳の主だとお考えの方が多いのではないかと思いますが、そう断定する根拠は何もないということですね。これはね、もしそういうふうに考えると佐伯有清氏(北海道大学教授)のように「臣」(おみ)じゃなくて「直」(あたい)の方が都合がいいのですよ。私の師の井上光貞氏(元東京大学教授)は、あれが出たときに、これは「直」だと具合がいいんだけどな、とおっしゃいましたが、歴史学の常識からすると「直」でなきゃいけないわけなんです。

ところが、これは武蔵国造の系譜と断定する根拠は何もないと思う。したがって被葬者を示すものでも何もない。武蔵国造かもしれないけど、そうでないかもしれない。ですから、その点はもう少し虚心に考えた方がいい。たとえば誰かから貰ってきた刀だと、例えば中央からですね。そういう解釈もできないことはないと私は思っているわけです。

特に「オミ」が姓(かばね)であるかどうかという問題もありますけれども、「直」でないことは岸俊男氏(京都大学教授)も断言されたようです。そうなると逆に武蔵国造とすぐに結びつけないで考えたらどうか。(略)

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銘文の読みについては、まだまだ色々あるのですが。
明日は、姓(かばね)について紹介します。




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# by tizudesiru | 2017-08-17 00:34 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Comments(0)

稲荷山古墳の金石文の訓み解きをめぐって

稲荷山古墳出土鉄剣の錯銘文
前回紹介した稲荷山古墳です。古墳公園の「見晴らし台」とするために、緊急発掘が行われ、そこで鉄剣が出土し、鉄剣の金象嵌が発見されたのです。
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鉄剣の裏と表に象嵌された文字。これを裏表に分ける作業がありまして、
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このような文に解読されたのです。
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これは、辛亥年(471年説、531年説)の7月に作られたものです。
これを作らせたのは、乎獲居臣(オワケノオミ)で、彼は杖刀人の首だったようです。仕えていた大王は斯鬼宮にいた獲加多支鹵で、その時自分は大王の政治を助けたというのです。
辛亥年・この時、乎獲居臣は幾つだったのでしょう。50歳前後だとすると、獲加多支鹵大王に仕え天下を佐治(天下を治めるのを助けること)した時期はいつ頃になるのでしょう。
辛亥年(471年)なら
20歳~45歳のころ務めたなら、440~465年ころですかね。
辛亥年(531年)なら
20歳~45歳ころ務めたとして、500~525年ころですかね。

乎獲居臣の前に先祖の名が連なっていますが、「八代の系譜は阿倍氏のもの」
と、『稲荷山古墳(埼玉新聞社)』に紹介されていました。
明日はその乎獲居臣について紹介しましょう。


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# by tizudesiru | 2017-08-16 11:31 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Comments(0)

稲荷山古墳は仁徳陵の4分の1

行田市の稲荷山古墳
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(発掘調査前の稲荷山古墳・埼玉新聞社「稲荷山古墳」より)
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さて、「稲荷山古墳」(埼玉新聞社発行・昭和53年)を妹から譲られました。彼女も知り合いから譲ってもらったのだそうです。
それは絶版になっているもので、貴重な当時の稲荷山古墳発掘に関わったトップの方々の座談会などが収録された出版物です。
福岡の県立図書館も所蔵していませんし、実に幸運なことでした。
何より、そこに書かれていたのは、将に驚愕の中身だったのです。


江田船山古墳の銀象嵌鉄刀の対して、稲荷山古墳は金象嵌の鉄剣

関東と九州の離れた地域に出土した考古資料、江田船山の鉄刀と稲荷山の鉄剣に錯銘された文字をめぐって新聞やテレビが大きく取り上げました。金石文の中に「典曹人」と「杖刀人」がほられていました。離れた二か所の金石文は互いに比較され、大王の名をどう読むのか、築造時期はいつか、日本中が大騒ぎしたのを覚えています。

その時の出版物を紹介したいのです。
稲荷山古墳は、仁徳陵の4分の1の大きさだそうです。二子山古墳も同じ墳形だそうです。(わたしは此処で大阪平野と関わりの深い古墳だろうかと思いました)

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稲荷山古墳の埋葬施設は、横穴式の石室とかではありません。墳丘頂上部の礫槨でした。

さて、この古墳についてネットには次のように紹介されています。
稲荷山古墳は5世紀後半に造られた前方後円墳で、埼玉古墳群の中で、最初に出現した古墳です。以前、古墳の上に小さな稲荷社があったことから、稲荷山と呼ばれるようになりました。
前方部は1937年(昭12)年に土取りで壊されてしまいましたが、1997年(平成9)年からの復原整備で前方部が復元され、現在では造られた当時のかたちを見ることができます。墳丘の全長は120mで、12m近い高さがあり、周囲には二重の堀が巡っています。
堀の整備などはこれからも続けて行きますが、墳丘の頂上には登れるようになり、周囲の古墳を見ることができますので、高さを実感してください。
さきたま風土記の丘を整備するために、1968(昭和43)年に稲荷山古墳の発掘調査をしたところ、頂上から2基の主体部が発見されました。』

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つまり、稲荷山古墳はほとんど偶然に見つかったのです。
当時、稲荷山古墳の発掘が目的だったのではなく、高度成長の時代に日本中の文化財の破壊が進んだので、破壊から文化祭を守る手立てとして価値のある物だけを文化財として残すのではなく、地域を一塊として公園化すること(風土記の丘)で、文化財指定を受けていない古墳も残そうとしたのでした。
その為に、古墳公園整備のために、古墳公園全体を見渡す「見晴らし台」として、稲荷山古墳が選ばれたのです。
そして、緊急発掘により墳丘頂上部から二基の埋葬施設が見つかったというのです。
土取りで破壊されかかっていた稲荷山古墳の礫槨と粘土郭。
粘土槨の方はかき回されていましたが、礫槨のほうは無事だったのです。整然と副葬品が置かれた埋葬施設が現れました。

発見の楽しさが、やがて驚愕の大発見へとつながっていくのです。

ドキドキ感が伝わりましたね。
また、明日


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# by tizudesiru | 2017-08-15 01:14 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Comments(0)

知っていそうで知らない江田船山古墳

江田船山古墳、急に熊本の古墳に話が飛んだ感じですね。
実は、家形石棺を見ていて、今回も疑問が生まれたのです。
艸墓古墳や蘇我系の墓制は、横穴式の石室に家形石棺を置いていました。そのルーツは何処だろうと再度思いました。
まず、家形石棺と云えば北部九州が発祥地ではないでしょうか。
ですが、「九州の墓制は石屋形に亡骸を納め、棺は密閉されていないから、他の地域と特に畿内とは墓制が違う。畿内の石棺は密閉型である」と、墓制の違いが強調されて来ました。しかし、九州には、石屋形だけでなく、密閉型の家形石棺も、舟形石棺も、長持ち型石棺も、組合せ式箱式石棺もみんな揃っています。そこに、装飾が施されているものがあり、大変複雑ですよね。このことには、皆さんがよくご存じだと思いますが。
畿内の石棺には、阿蘇溶結凝灰岩を用いて造られていたものがあり、後期になると畿内の二上山産の凝灰岩が用いられています。
是だけでも、素人は「石棺に凝灰岩を用いる」ことは九州から伝わったと思いますね。というわけで、畿内を飛び越えて、関東と九州の墓制をちょっとだけ見たいなと思ったのです。

知っていそうで知らない江田船山古墳


江田船山古墳は熊本県北部に在ります 
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この時も、きれいに草が刈られていました。いつ出かけてもきれいです。
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横穴式石室に家形石棺が納められています。
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九州の家形石棺には出入り口が穿たれているものがいくつもあります。もちろん密閉型もありますが。こんなに口がぽっかり空いているのは何故でしょう。
当時は盗掘者はいなかったのでしょうか。
墓泥棒には都合のいい造りですね。
この古墳から100mほど離れた古墳も横穴式古墳があり、石室内を見学できます。
塚坊主古墳といいます。
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石屋形と呼ばれるものでしょうか。
わたしには家形石棺のように見えます。

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石室の右横をよく見ると、家形石棺の屋根が見えて縄掛突起らしいものがあるのですが…。激しく破壊されていますね。
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どうですかねえ。
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菊池川流域には多くの装飾古墳があります。
塚坊主古墳も装飾古墳のお仲間だったのですね。


同じ古墳群の中に在りますから、江田船山古墳の被葬者とは所縁のある人なのですね。

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江田船山古墳には造り出(つくりだし)部があり、後円部の付け根に出っ張りがついています。この古墳がつくられた時期は何時なのでしょうね。
築造時期を考えるために、「治天下」と「杖刀人」という金石文が発見された埼玉県の稲荷山古墳の築造時期とも比べてみましょうね。江田船山古墳の鉄刀の銘文にも「典曹人」という役職が出てきます。離れた古墳には何等かのつながりがあることでしょうから。

また明日

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# by tizudesiru | 2017-08-13 17:43 | 277江田船山古墳と稲荷山古墳 | Comments(1)

阿倍寺の近くの艸墓古墳

前回の安倍倉橋麻呂の墓だという、安倍文殊院の西古墳、どうおもわれましたか?

倉橋麻呂の墓と思われましたか?実は、わたしは疑ったのです。
あの切り石加工は、八世紀の文武天皇陵や束明神古墳の石組みに似ていますし、技術的には八世紀と思ったのです。

では、安倍丘陵の他の古墳をみましょうか。


阿倍寺跡ではなく、安倍文殊院により近い

艸墓古墳は誰の墓
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艸墓古墳の家形石棺は、いろいろな古代史関係の本にも出て来るので気になりますよね。わたしは阿倍氏に関わる墓かも知れないと思ったのです。それで、訪ねてみました。
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この古墳は分かりにくくて、地元の人のお世話になりました。
よそ様の敷地の中に半分足を踏み込みそうになりながら、隙間を通ってたどり着きました。ほとんど道はありません。よそ様の家とよそ様の庭の間を通ります。
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安倍文殊院のこの辺りは、安倍丘陵という小高地です。そこに錐(きり)のような形の墳丘があり、長方形の方墳だというのです。石室の石の隙間に漆喰(しっくい)がつめられていて、奈良の竜山石(白い肌の凝灰岩)を用いた刳り抜き型の家形石棺が置かれているのです。
方墳・家形石棺となると、蘇我系の墳墓を思い出しますね。
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巨石の石室の奥に石棺が見えます。
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確かに縄掛突起も見えますね。ここは、家形石棺の時代の墓なのです。
安倍丘陵の日当たりのいい一等地にこの古墳です。見晴らしもよく、眼下に見渡せる谷を流れるのは寺川で、その奥の山は鳥見山だったのです。
艸墓古墳の被葬者は首長だったと思います。だって、鳥見山山頂のほぼ真西に艸墓古墳は造られていますから。
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鳥見山の北には、桜井茶臼山古墳があります。神武天皇東遷に出て来る鳥見の長脛彦の墓ですか。
甘南備型の247mほどの鳥見山の周囲には、舒明天皇陵、赤坂天王山古墳(崇峻天皇という説あり)、少し離れるけどメスリ山古墳と揃ってるんですが、同じ氏族の墓なのですかねえ。

そうそう、艸墓古墳の帰りに「聖徳太子が安倍に造ったという土舞台」を見に行きましたが、なにしろ草が深くて、足が止まりました。
一人旅の手弱女には深草は無理です。怖いです。
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では、また

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# by tizudesiru | 2017-08-11 14:30 | 276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓 | Comments(0)

左大臣安倍倉梯麿の安倍寺と墓

阿倍氏といえば阿倍晴明が有名です。彼は平安時代の人です。
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安倍寺を建てたのは、左大臣・安倍倉梯麻呂
阿倍氏の阿倍寺に行きました。阿倍倉梯麿の墓と言う古墳を見に行ったのです。
奈良県桜井市の安倍文殊院境内に西古墳と東古墳があり、どちらも7世紀の古墳です。
阿倍倉橋麻呂は、孝徳天皇の左大臣でした。孝徳天皇の寵妃・小足媛の父であり、有間皇子の祖父でもあります。孝徳天皇の薄葬礼が出ていたにも関わらず、大きな古墳を築いたとされ、それが境内の古墳かも知れないからです。
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山田寺から山田道(磐余道)を北上すると、阿倍寺跡に届き、少し坂道に入り込むと安倍文殊院があり、その境内に二つの古墳はあります。
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(現在の安倍文殊院の文殊池にあるお堂)
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倉梯麿は、645年乙巳の変(大化改新)後に左大臣となりました
阿倍文殊院に安倍倉梯麿の墓と言う古墳を見に行ったのですが、そこは彼が建てたという阿倍寺とは少し離れています。
阿倍倉橋麻呂は力を持った豪族の長
645年6月に乙巳の変が起きました。その直後に大王になった軽皇子(孝徳天皇)の左大臣でしたが、相当に年齢は高かったと思います。舒明帝に古くから仕えていたのでしょう。舒明2年(639)に百済大寺の造寺司となっています。舒明帝は信頼できる豪族に百済大寺を任せたのです。当然、倉梯麿は若くなかったでしょうね。
左大臣
 阿倍倉梯麿 6月任
右大臣 蘇我倉山田石川麿 6月任
内臣 中臣鎌子(鎌足) 6月任
孝徳天皇に任命されたのは、阿倍氏、蘇我氏、中臣氏の三人でしたが、五年目には二人の大臣は死亡します。不思議なことに、左右大臣は同年同月に死亡しています。何かあったのでしょうか。左右大臣が揃って死亡とは…
左大臣
 阿倍倉梯麿 3月没 (巨勢徳陀 4月任)
右大臣 蘇我倉山田石川麿 3月自殺 (大伴長徳 4月任)

さて、古墳を見ましょう。
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池を見ながら西に進むと、すぐに文殊院西古墳があります。
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綺麗な花崗岩の切り石の石室ですね。此処が、倉梯麿の墓だそうです。
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次は東古墳です。反対側に進みます。
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お社の左に東古墳があります。
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西古墳と比べると、こちらが古いようですね。
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文殊院の西古墳と東古墳をみました。さて、どちらが倉梯麿の墓でしょうか。それとも、彼の墓は別にあるのでしょうか。
安倍倉梯麿の墓が何処にあるのか、どんな墳丘墓なのか、それは重要です。
大化改新前後の安倍氏の文化力、彼の左大臣としての立場や影響力が想像できるからです。

安倍氏は孝徳朝の重要なポストに着きました。天武朝でも、安倍仲麻呂は遣唐使として唐に渡りました。優れた文化力を持った豪族だったのです。
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安倍仲麻呂の望郷の歌は有名ですね。
あまのはら 振りさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
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さて、阿部文殊院の近くには面白い古墳があります。そこもチェックしましょうか。
では、また明日

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# by tizudesiru | 2017-08-10 20:47 | 276左大臣安倍倉梯麿の寺と墓 | Comments(0)

明日香・奥山廃寺に秘められた物語

奥山廃寺は、明日香の奥山にあります。
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奥山の久米寺、その境内に廃寺の塔跡が残っています。
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去年の秋、塔跡を見た時の写真です。よく見ると、左の柱礎石に穴が穿たれているのに気が付きますよね。今年も見に行きました。
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穴を確かめましたが、ヒビがあるので水は溜まっていません。
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これは石塔の下の敷かれた石、こちらには水があります。
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よく見ると穴が有ったりなかったりと、様々な塔の敷石です。
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他にも穴の穿たれた石が境内の隅に置かれていました。
まるで塔心礎のようではありませんか。そういえば、奥山久米寺の礎石が、明日香博物館に置かれていました。なんと、この礎石にも穴があります。講堂の礎石だそうです。
穴は必要なので彫られたはずです、扉の戸の軸穴などとして。すると、奥山久米寺の塔跡の礎石の穴も、扉の開閉のための戸の軸穴だったのでしょうか。
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帰りに橿原の博物館でも聞きました。「塔跡のこの穴は何ですか」
礎石の写真も見てもらいましたが、なぜ穴が穿たれているのか、「開閉のため戸の軸穴の可能性」を云われただけで、はっきりしませんでした。たくさんの穴があることが不思議という感じでしたね。
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実は、ここでスゴイ瓦を見せていただきました。(写真には撮らせていただきましたが、ネットに上げるのは遠慮させていただきます。)

スゴイ古瓦・
奥山久米寺の平瓦・朱が塗られた大きい平瓦

わたしも驚きましたが、同時に「やった!」と思いました。
わたしはかねてより明日香にあったはずのある館を探しているのです。
それが奥山久米寺の辺りなら申し分ありません。近くにあった邸宅が寺院になったと思うからです。

その館の主が没したあと、特別な寺院が造られた、または改造された、と思うからです。

その邸宅の出入り口には、多くの頑丈な門があったでしょう。門扉の軸穴が有って当然です。
その人は高貴な生まれの人だったでしょう。
その死後、四天王寺式の寺院が屋形の柱や礎石を使って建立されたと、わたしは思っているのです。


奥山久米寺、なかなか面白い所ですが、車は入れません。
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きっと、ここも歴史の扉を開ける鍵となることでしょう。


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# by tizudesiru | 2017-08-08 10:38 | 275飛鳥・奥山廃寺の謎 | Comments(0)

蘇我馬子の菩提を弔ったのは誰

よく質問されること「古代には測量技術はなかったのに、
何故ラインが引けるのか?」です。
またまた、テレビが教えてくれました。「国宝・投入堂・秘められた謎」です。
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二つのお堂ははるか遠くに離れています。
しかし、同じような建築様式です。それも、緯度がほぼ同じなのです。
投入堂の緯度・北緯35度23分47.5秒
笠森観音堂の緯度・北緯35度23分58・6秒

その答えは、「古代から太陽観測をして、かなり正確に位置を知ることができたから、離れていても二つのお堂の緯度の数値が近いのだ」というのです。
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投入堂と笠森観音を直線でつなぐと、大山の北側を通り熊野神社を通り出雲大社の参道入口までつながります。では、古代の都があった飛鳥でも、太陽を観測して位置を決めたのでしょうか。
調べてみましょうか。

ラインで見る石舞台
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藤原宮の大極殿から石舞台に直線を引くと、紀寺廃寺・飛鳥寺を通って石舞台につながります。持統天皇・高市皇子が造営した藤原宮ですが、飛鳥寺を取り込んでのことでしょうか。石舞台に直線が届いたのは、偶然と思えないのです。
此処はお互いに近いから、棒を数本使って目測で位置を確認できたでしょうね。


それから、石舞台古墳から西にむかって直線をのばすと、与楽鑵子塚古墳に行き着きます。
此処は渡来系の人の古墳だそうです。石舞台古墳のような大石を積んだ石室で高さもあります。
(地図があれば
、古代史の謎に迫ることができる!と思っている私には、面白い事実でした。
地図を見ることが、わたしの古代史の謎を解く時の基本的な方法です。)


蘇我大臣の墓という石舞台の直線は何を語る?
この三角のラインは、以前から気になっていました。藤原宮から与楽鑵子塚古墳に直線を引くと、本薬師寺がライン上に来るからです。飛鳥寺も本薬師寺も当時の官寺ですから、国家の行事も法事も行われていたでしょう。
そして、最近気が付いたのは、定林寺跡が石舞台古墳と与楽鑵子塚古墳の間に入ることです。


古代の寺、それも飛鳥の時期の古瓦が出土した定林寺

蘇我馬子は自分の為に寺を建てなかったのでしょうか。または、余るほどの財力を持っていた蘇我氏は、蘇我大臣のために菩提寺は建てなかったのでしょうか。
そんな思いで地図を見ていて、気になる廃寺がありました。
立部にある廃寺、定林寺です。


馬子が建立した寺は飛鳥寺・甘樫の丘の東に造営した。
では、蘇我馬子の菩提寺は?


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蘇我氏の甘樫の丘から飛鳥寺も槻の広場もよく見えたことでしょう。ただ、蘇我馬子は甘樫の丘ではなく島ノ庄の館に住んでいましたから、丘から飛鳥寺を眺めたのは、蝦夷や入鹿でした。
飛鳥寺は当時の外交の場であり、国内の豪族をもてなす場でもありました。飛鳥寺の横の槻の広場で様々な国家的行事が行われたとされています。
乙巳の変(645)の時、中大兄は蘇我入鹿を斬った後で飛鳥寺に立て籠もり、入鹿の父・蘇我蝦夷の反撃に備えました。その後も、飛鳥寺は官寺として大王のために読経しました。
ですから、蘇我氏が一族の為に造営した寺でしたが、結果的に官寺として多用されたということです。

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飛鳥寺は蘇我氏の寺であっても、蘇我氏の菩提寺ではなさそうです。では、蘇我氏の菩提寺は?
ほとんどの氏が自分の寺を持っていましたよね。

では、立部の定林寺跡に行ってみましょう。

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この道を上っていくと、春日神社がありました。
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定林寺跡が遺跡と認定されたので、この春日神社が移動させられたと云うことです。
道の奥に定林寺跡があり、道は行き止まりです。
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奥に少し広場が見えます。定林寺跡は、ここです。
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狭い丘の上に寺があったようです。見える範囲が全てです。春日神社まで寺域を広げると、塔と金堂が東西に並ぶ配置になるのでしょうね。

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奥の丸い岡の上あたりが定林寺でしょうか。
さて、この飛鳥時代の瓦をもつこの寺を造営したのは誰でしょうね。

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定林寺と他の寺とのかかわりを見ます。飛鳥寺と定林寺を結ぶと、ラインは文武陵まで届きます。

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同じ蘇我氏、石川麿の山田寺とラインをつなぐと、なんと川原寺が乗りました。
鞍作氏の坂田寺を本薬師寺とつなぐと、川原寺と蘇我蝦夷の館跡を通ります。

定林寺を建立したのは、どうも蘇我系の人のように思えます。



定林寺と直線でつながるのは、蘇我石川麿の山田寺・斉明天皇ゆかりの川原寺です。
川原寺は本薬師寺や蘇我本家の館(甘樫丘)坂田寺(鞍作氏の寺)などとつながります。
誰が定林寺を建立したのかですが、わたしは蘇我蝦夷だと思います。馬子大臣の菩提を弔ったのではないかと、思うのです。
では、また


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# by tizudesiru | 2017-08-06 22:19 | 274 古代の測量の可能性・飛鳥 | Comments(0)

福岡市の平群・地図で読む物語

飯盛山の東には宝満山
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(飯盛山の中腹・飯盛神社の中宮から東の宝満山を見る)

早良区の飯盛山の山頂の真東には、宝満山山頂(宝満山の左のピークは三郡山)があります。宝満山と飯盛山は東西に向かい合っています。
宝満山に向かい合う飯盛山は、西にあります
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飯盛山の中腹の中宮は、東を見ています。
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(飯盛神社・中宮)
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(飯盛山・山頂下の大石)


宝満・飯盛の二つの山を直線で結ぶと、宝満山・大城山・飯盛山の山頂がつながり、須玖岡本(春日市)・吉武高木(早良区)・三雲南少路(糸島市)の三大王墓とされる遺跡が直線に乗ります。

更に、西に(糸島地方)伸ばすと一貴山銚子塚古墳(柄鏡形前方後円墳)までつながります。これは、王墓のラインと思われます。
弥生時代の権力の中心は、吉武高木から須玖岡本から糸島へと動いたのでしょう。
第一段階・吉武高木遺跡の王は、飯盛山の上にて祭祀をした
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吉武高木の王は進んで半島と交流し、佐賀県の唐津地域の王より銅製武器の威力を学び銅剣と鏡を手に入れたようです。

やがて、銅矛を同族のシンボルとする春日地区の王が工業力で他国を抑え始めました。
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吉武高木遺跡の時期には飯盛山の山頂での神祭りでした。夏至の太陽は鉾立山から昇り、冬至の太陽は荒平山から昇りました。
次の時代には神祭りの場が春日丘陵(須玖岡本遺跡)に代わりました。
夏至の太陽は砥石山からのぼり、愛宕山に沈みます。
冬至の日は宮地岳から昇り、井原山に沈みます。



須玖岡本遺跡の時代、弥生の王は何処にいたのか
それは、日知りの山が見える所でしょう。朝日が出る山頂が見えて、沈む山が見える丘陵です。
そこで、日知り王として神祭りをした、そう思われます。
そういうぴったりの場所が偶然にも春日丘陵にあるのです。

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その後、新しい勢力(?)が糸島に生れる(一貴山銚子塚古墳)のですが、彼らが握った経済力の元は何だったのでしょうね。
交易? 祭祀? 工業? 対外貿易?いろいろあるようですね。
ガラス工房もあるし、交易していた証拠も多々ありますから。

春日丘陵や糸島地方に取って代わられた吉武高木遺跡のある早良地域の人々はどうなったのでしょうね。

中には新天地を求めて、他の地域に移動していったかも知れませんね。
奈良の平群町も、生駒山信貴山系と平群の山々に囲まれ、中央を竜田川が流れていて、早良にとてもよく似た地形です。

大昔は何らかのつながりがあったのでしょうか。

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ではでは、平群を懐かしんだ倭建は何処の人?

景行天皇・九州を巡行(書紀)
倭建命の父は景行天皇ですね。そして、景行天皇は九州と関係の深い大王です。しかし、古事記には九州巡行の記述は有りません。
古事記には景行天皇のことはほとんど書かれていませんでした。
書かれていたのは、其の后と子供たちの記述くらいでした。
しかし、日本書紀には九州遠征のことがかなり書き込まれていました。
すると、奈良の纏向の日代宮からわざわざ九州に来られたと云うことですが、とうとう帰られなかった(?)ようです。不思議な話でした。
確かに、九州には景行天皇の伝承は数多くあります。
「火の国の不知火を見た話」だけではありません。熊本にはお祭りから地名譚まで様々に残るのです。
前回「倭建の国偲び歌」でも書きましたが、倭建は景行天皇の皇子ではない可能性が高いですね。
すると、景行天皇とは如何なる王なのでしょう。
もちろん、書紀や古事記に書かれていることが正確かどうかを問うていません。そこに何が書かれているかを考えているのです。
矛盾や齟齬があるとしたら、その原因があるでしょう。使われた地名には考えるヒントがあるかも知れません。無関係の地名でも、関係深い地名でも、その地名を書いた人物の意図はあるわけですから、何か考えるヒントを教えてくれるかも知れません。


地図や古文書や伝承の中のどこかに、おもしろいパンドラの箱が落ちているかも知れません。

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福岡地方では弥生前期から古墳時代前期まで、神祭りの場が移動していきますが、太陽を神とする思想は受け継がれていくようです。
黄色はパソコンで確かめた夏至の日の出のライン。黄緑は冬至の日の出のラインです。
これが、きちんと有名な山頂や古墳や神社を結ぶのです。


長くなったので、ここまでにします。

ちょっと熊本地震のあとの片づけに出かけていました。
あれから一年以上経ちましたが、まだまだですね。



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# by tizudesiru | 2017-08-05 00:02 | 272平群を詠んんだ倭建命 | Comments(0)

大型甕棺墓の時代の木棺墓

王墓は甕棺ではなく

木棺だった
福岡・吉武高木遺跡の場合
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その王墓は半分道路の下になっています。そこは、特定集団墓と呼ばれる区域です。
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この一角は特別だったようです。特にM3という木棺墓は、副葬品から当時の古代史学会・メディアの注目する所となりました。

その木棺墓は、鏡(多鈕細文鏡)剣・玉の三点が副葬されていたわが国最古の王墓です。
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写真は、3号木棺墓の副葬品、銅戈、銅矛、銅剣、まが玉、鏡(多鈕細文鏡)です。多鈕細文鏡は、朝鮮半島由来の鏡です。弥生の王が最初に手に入れたのは、半島の鏡だったのです。
この鏡は、福岡県や佐賀県の甕棺や木棺から出土しています。
佐賀の遺跡はより半島に近いので、初期の段階の細形銅剣など早い段階で手に入れたようですが、だんだん糸島や福岡平野に経済力を奪われていくようです。
(近畿でも一、二点、後の段階の多鈕細文鏡がため池の工事中に出て来たりしていますが、埋納されていたと云うことです。特別な人物の持ち物ではなくなった時代に埋納されたようです)
つまり、近畿の弥生時代には、漢鏡も半島の銅鏡も移入していないのですね。

最近、福岡県では、多鈕細文鏡の鋳型も出土していますから、半島由来ではない鏡があったのでしょうね。
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これは、吉武高木遺跡の副葬品です。同時期にこれだけの副葬品が木棺や甕棺に入っていたのですね。
この後、吉武高木遺跡の大型甕棺の副葬品は無くなっていきます。春日市の須玖岡本遺跡が栄えて行きますから、経済力や権力が春日丘陵の首長に吸収されていくのでしょう。
室見川はその盛衰を見て来たのですね。
室見の「室」とは、大型の掘立柱の建物のことです。
この川沿いに大型の掘立柱の建物があったと云うことでしょうか。
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興味の湧く地域ですね。


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# by tizudesiru | 2017-08-02 21:26 | 273大型甕棺の時代 | Comments(0)

大型甕棺の種類、見分けにくいです!

大型甕棺の違って分かりにくい
博物館で説明を聞いてもなかなか見分けがつきませんよね。
だけど、吉武高木遺跡公園(やよいの風公園)では、それが分かりやすいのです。
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では、甕棺ロードと呼ばれるところに行ってみましょう。
早良区の甕棺墓群はかなりの範囲に有りますが、最盛期には整然と一列に並んでいるので、計画的に墓地が造営されたと考えられています。しかし、後期になるとその列が乱れて来るのです。
この遺跡でもそれが分かると思います。
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金海式と呼ばれる甕棺で、足先の辺りがすぼまったように見えます。
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こちらも金海式の甕棺です。K-045という記号は、Kが甕棺という意味になります。木棺の場合はMとなります。140号も045号も甕棺の個々の名前です。
140号には銅剣、045号には銅剣と銅矛が副葬されていました。
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おや、突き出た帯が甕棺を取り巻いていますし、足元がずいぶんすぼまりましたね。
これは、須玖式という大型甕棺の型式です。
春日丘陵の須玖岡本遺跡の須玖式です。
須玖式の時代になると、早良地区では甕棺に副葬品が入らなくなるのです。地域の財力が落ちたと云うことでしょうか。
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甕棺には地域によって型式に特徴があるようです。
汲田(くんでん)式というのは唐津地方の特徴で、立岩式というのは遠賀川流域の飯塚市の立岩遺跡の窯間の特徴です。
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いずれも大型甕棺です。この甕棺が大型化した最盛期に突然の終焉を迎える…
信じがたいですね。そこで、何かがあった・起こったと思われます。
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この立岩式の甕棺には、赤色がついています。ベンガラでしょうかね。

是で、博物館の甕棺を見る時、時代とか型式とか考えることができますね。

木棺の紹介はできませんでしたね。
明日は、木棺墓について考えましょう。
古代では、地域のご神木に眠る首長が権力者だったようですよ。
甕棺より木棺のほうが権力者だった時代があるようです。



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# by tizudesiru | 2017-08-01 20:01 | 273大型甕棺の時代 | Comments(0)

三種神器発祥の地・吉武高木遺跡

平群村があった福岡市早良
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前回の記事で、景行天皇の征西について書きました。浮羽で征西を終わった景行天皇は京都に帰りました。
その京は何処にあったのか。景行天皇が国偲びで詠んだ「平群」が九州にもありますよ。

というわけで、福岡市の早良区の吉武高木遺跡を紹介しましょう。

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(小学館・日本書紀の景行紀の図を借りました)

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早良区を流れるのは室見川です。室見川は脊振山系から流れ出し、早良を下って博多湾に届きます。
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博多湾に浮かぶのは、能古島(おのころ島)で、スモッグでかすんで見えます。写真には映っていませんが、陸地側には青木ヶ原(昔は青木氏のものだった)が広がっています

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飯盛山の背後に連なる山は、糸島市との境の山です。
飯盛山の右手(北)には叶岳があり、左手(南)には日向峠があります。
サワラと伊都国をつなぐ最短道路です。
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遺跡の発見から40年、やっと公園になりました。しかし、数人が遊んでいるだけです。真夏ですからね。すごく暑いですね。
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➁特定集団墓は、半分道路になっています
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この王墓と飯盛山と宝満山は東西に並びます。西には飯盛山。東に宝満山。油山の稜線の左にある宝満山はかすんで見えません。すぐ近くの油山も白く見えます。
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では明日は、甕棺と木棺墓と副葬品を紹介しましょう。

また明日。



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# by tizudesiru | 2017-07-30 17:36 | 272平群を詠んんだ倭建命 | Comments(2)

虚実ないまぜ?古事記と書紀の倭建命の父

虚実が絡み合っている記紀の物語
倭建命って何処の誰ですか?


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(写真は三輪山)
書紀によれば、倭建の父は纏向の日代宮の大帯日子天皇だそうで、母は播磨の稲日大郎姫(いなびのおほいらつめ)。祖父は活目入彦五十狭茅(いくめいりひこいさち)天皇、祖母は日葉洲媛(丹波道主王の娘)。倭建命の名は小碓命で双子、双子の兄は大碓皇子です。

記紀の物語は何処までが嘘なのか、伝承なのか分かりません。


物語の内容が記紀では違っているのです。倭建の国偲び歌
は、古事記では倭建命が歌いますが、書紀では景行天皇が九州に来て歌ったことになっています。

記紀では内容が矛盾することが多々あるのです。景行天皇の記述にも、それは有ります。倭建命の曽孫が、倭建命の父の嫁になって子供を産むなんてありえないでしょ。


これは伝承の手違いか、書き間違いということですが、古事記にも書紀にも書いてあります。どちらも検討されて書かれたでしょうから、共通して矛盾を認めているのです。

記紀の共通点と矛盾点をさらりと見ても、なんだかホントも出てきそうですので、いくつか挙げてみましょう。

1・古事記では纏向に居たという景行帝が「西の方に熊襲建あり」と、息子を九州に遠征させます。倭建命は女装して二人を殺しますが、返り討ちにあっていません。熊襲建の兵と倭建の兵は戦わなかったのでしょうか。次に、出雲へ行って出雲建と友となって騙して殺します。

どちらも、首長のすぐ近くに入りこめています。敵というより、むしろ元々知り合いだったのでは?


2・書紀では征西するのは景行天皇で、倭建命ではありません。

天皇は周芳(すは)のサバ(佐波)
に留まり使いを出しました。神夏磯媛は、根のついた榊に八握剣(やつかのつるぎ)八咫鏡、八尺瓊(やさかに)を取り付けて帰順しました。

神夏磯媛の手引きにより、宇佐の河上と高羽(田川)の河上にいた土蜘蛛を討ちます。
九州の首長って、剣・鏡・瓊を木に結び付けて帰順するのですね。


3・景行帝は日向に留まり、熊襲の八十梟帥(やそたける)を討つ計画を立てます。二人の娘は景行帝に騙され、姉が父に酒を飲ませ弓の弦を断ちます。父を裏切ったにもかかわらず、姉も熊襲
梟帥も殺されました。

4・襲の国を平らげ、数年後に日向にに到り京都を偲んで歌を読みました。

愛しきよし 我家の方ゆ 雲居立ち来も

倭は国のまほらま 畳づく 青垣 山籠れる 倭し 麗し

命の 全けむ人は 畳薦 平群の山の 白橿が枝を 髻華に挿せ この子


この歌は、父と息子のどちらが詠んだのでしょう。それとも、ただの説話でしょうか。ただ、この時景行天皇は病気ではありません。元気に都に帰りましたから。


5・景行帝は日向から都へ帰ることにしました。夷守に寄り熊県で弟熊を誅し、葦北に寄り、火の国を過ぎ、玉杵名で土蜘蛛を殺し、阿蘇を通り御木(三池)を通り、八女津媛の話を水沼県主から聞き、八月に的邑(いくはのむら)に到りました。
九月に、天皇は日向より 帰られました、となっています。

浮羽までは詳しい地名が書かれていますが、ここまでしか書かれていません。やはり景行天皇も、筑紫國では賊を討ちませんでした。景行天皇の都は浮羽より北にあったのでしょうね。


それにしても、平群の山が詠まれていましたね。
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福岡市早良の平群村
奈良県の平群町
前回、倭建の「国偲び歌」を紹介しました。平群の熊白樫という意味深な言葉がありましたね。神聖な樫の木は、斎樫(いつかし)、白樫(かし)と、斎や白をつけて書かれますが、それに熊が付きました。クマガシと白カシは少し違います。そもそも、熊・球磨・隈とか九州の地名に付く言葉ですね。
熊白樫は九州とつながりが有るのでしょう。

奈良の平群町とよく似た地形の平群村が、最近まで福岡市に在りました。

同じ平群という地名ですが、共通点はあるのでしょうか。
福岡市の早良区に最近まであった平群村は、町村合併で消えました。景行天皇は、ここの白橿の葉を詠んだのでしょうか。

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早良区の吉武高木遺跡(弥生前期の遺跡)、山は飯盛山。古代から見た神祭りの山です。
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早良区の中央を室見川が流れています。平群村はこんな早良区に有りました。

早良の地は弥生時代の先進地で、この遺跡から出雲系の土器をはじめ全国各地の土器が出土していますもちろん、弥生時代の土器です。
また、吉武高木遺跡は、甕棺墓・木棺墓から、三種神器と呼ばれる「鏡・剣・玉」が出土した、三種神器の発祥の地なのです。
景行天皇の祖先の地、神祭りの山は此処だったのでしょうか。



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# by tizudesiru | 2017-07-29 22:00 | 272平群を詠んんだ倭建命 | Comments(0)

倭は国のまほろば・倭建命の国偲び歌

平群の熊白樫を詠んだ倭建命

長屋王の墓が残る平群は、ほとんどがゆるやかな傾斜地です。

ここは、滅ぼされた古代豪族・平群氏の本貫でした。
古事記では倭建命も、平群の山を詠んでいます。

倭建命の故郷は平群ではないのに

命は平群の熊白樫を詠みました。それを髪に挿して、祀り事をしなさいと。

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(奈良県平群町を流れる竜田川、水量も減ってしまったとか。大和川の支流です)

古事記の倭建命・たくさんの歌が掲載されている

命の父は大帯日子瘀斯呂和氣で、纏向の日代宮に治天下天皇(景行天皇)です。
母は若建吉備津彦の娘・針間の伊那毘能大郎女。
同母の兄妹は、櫛角別王。大碓命。
倭根子命。神櫛王。
       小碓命(倭男具那命)=倭建命

倭建命は西に東に兵を進め、あげくの果てに心身ともに疲れ、杖をついて能煩野(のぼの)までたどり着いました。そこで「国偲びの歌」を詠み、薨去しました。

倭は国のまほろば たたなずく青垣 山隠れる 倭しうるわし

倭は国の中でももっともすぐれたところで、たたみ重ねたように連なる青垣のような山々の中に籠っている、倭はうるわしい。

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続いて
命の全けむ人は 畳薦 平群の山の 熊白樫が葉を 髻華(うず)に挿せ その子

わたしは、もはや生きて故郷に帰ることはできないだろう。命ある者は、畳んだ薦を広げたような平群の山の神霊のこもる樫の葉を髻(もとどり)に挿して、神に感謝をするのだぞ、お前たち。

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さて、倭建命の歌は能煩野(のぼの)で読まれました。
また、続けて、

愛(は)しけやし 吾家(わぎへ)の方よ 雲居起(た)ち来も

なつかしいなあ、我が家の方から雲が湧いて来るよ


この時、命は危篤状態になりました。

嬢子(おとめ)の床の辺に 我が置きし 剣の大刀 その大刀はや


乙女の(ミヤズ姫のこと)床の横にわたしが置いて来た剣、その刀剣があったなら、その刀剣が、ああ…

と歌いおえ、崩(かむあが)りされました


さて、倭建とは何者でしょう

西も東も平定した(九州から関東まで)
皇室の宝の草薙劔を持っていた・
各地に地名を残した・
本人も皇太子息子は帯中津日子(仲哀天皇)
妃は垂仁天皇の姫・尾張の娘も妻とした・

平群熊白樫(くまかし)の霊験を知っていた・

天皇ではないのに、死去した時「」と書かれた
*宇治若郎子も崩と書かれていたと思います。

書紀では「国偲び歌」は景行天皇の歌となっている
倭建の記事が異常に多い
 
それにしても、古事記は正直です。物語を無理にでっち上げていないかも知れません。
それぞれの天皇の記述が極端に多かったり、少なかったりするのです。例えば、成務天皇は、単行本では6行。景行天皇は、220行(16ページ)なのです。220行のほとんどが、倭建のエピソードとは・・・。全く、古事記は何を伝えたいのでしょう。

わたしは、倭建は、筑紫の人だと思います。
なぜなら、熊襲と出雲と東国にまで遠征したのに、筑紫は討っていません。纏向も討っていません。纏向には別の同族がいたからでしょうか。皇太子が三人いるのも不思議です。それぞれ別の王族の皇太子と見たほうが自然です。
それに、倭建の曽孫・迦具漏比賣を大帯日子天皇が嫁にして子をもうけています。
息子の曽孫と結婚するなど、有りえないことです。
では、倭建は大帯日子天皇の皇子ではなく、遠い先祖となります。

気が付かれましたか、倭建の遠征地と大国主の勢力範囲と重なりますね。


倭建は倭王武かもしれません。彼は自ら甲冑を着て東西に兵を進めましたから。その伝承が、大国主=倭建と結びついた!!
どこかで聞いたような話になりますか?

すると、倭建の本貫は何処なのか。

福岡平野の西となりますね。そこにも平群がありましたから。倭建は平群の山の神を頼りにしていたと云うことですから。

貴方は、どう思いますか?
このブログの「大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる」を合わせて読んんでくださいね。「彷徨える大国主」あたりも一緒に読んで下さればありがたいです。

また、明日

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# by tizudesiru | 2017-07-27 11:08 | 272平群を詠んんだ倭建命 | Comments(0)

長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成

長屋王の亡骸を抱いた男・

平群廣成の慟哭


謀反罪で死を賜った長屋王


長屋王は高市皇子の長子でしたが、家族と共に死を賜わりました。その王の亡骸を埋葬したのは誰でしょう。
罪科ある人の墓はほとんどどこにあるかわかりません。しかし、長屋王の墓は伝承があり、その墓が明治になって整備されたのです。
明治までその墓を伝えたのは平群氏でしょう。

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(長屋王の墓は、奈良県生駒郡平群町にあります。江戸時代の文書に長屋王の墓という伝承が残されていたのです。)

長屋王墓の近所には夫人の吉備内親王の墓もあります。二人を近くに葬るには、それなりの努力と尽力があったと思います。続日本紀には、

「王をして自ら尽(し)なしむ。その室二品吉備内親王、男従四位下膳夫王、無位桑田王、葛木王、鉤取王ら同じく亦自ら経(くび)る」
「長屋王・吉備内親王を生馬山(いこまやま)に葬らしむ。」
「吉備内親王は罪無し。例になずらえて送り葬るべし。」
と書かれています。

この謀反事件で、現天皇の叔母の家族を断罪したのです。吉備内親王は前天皇の妹であり、前々天皇の娘なのです
内親王の家族を全て死なせた事件なのです
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平群氏は長屋王家に出入りしていた

奈良市の長屋王の屋敷後から、多くの木簡が出土しています。その中に、平群廣足(ひろたり)平群廣成(ひろなり)の名が書かれた木簡が見つかりました。

廣足は倭舞の名人だったようで、宮中の雅楽寮(ががくりょう)より派遣を要請されています。

廣成は天平五年遣唐使として唐に派遣されています。帰国後は順調に官位を進めて、最後には従四位上(長官クラスの官職)に任ぜられ、出世を果たしました。
ですから、長屋王の邸宅に出入りしていたのは若い頃でしょうが、その時、主人の難に遭遇しました


数多の兵と役人に囲まれた王の屋敷内に、従者が出入りすることはできなかったでしょう。
屋敷の召使たちも外でじっと邸宅を見つめ、畏れおののいていたことでしょう。
遂に、長屋王と吉備内親王と四人の男子は、死を撰ばされました。
大邸宅の周りの空気は、泣き叫ぶ召使たちの声で震えたことでしょう。
王の妻だった他の女性たちは、各々の実家で知らせを聞いたでしょうから、屋敷の周りにいたのは庶民だったようです。

続日本紀によれば、このあと、都では長屋王事件に
ついて噂と憶測と追悼の声が溢れ、長く終始が
つかなくなるのです。

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吉備内親王は罪無し、しかし、長屋王は…
平群廣成は長屋王の傍に生活したのです。主人を十分に知っています。
主人がいかがわしいことをする人物かどうか、知らないはずがありません。
彼は糾問される主人を待ち続け、死後はその亡骸を抱いて泣いたと思います。
罪無くして逝ったその人を。
だから、平群氏の本貫の地に長屋王の亡骸を葬ったと思うのです。

長屋王の墓は、「前方後円墳の後円部の上に造られている」と書かれた文を読んだことがあります。
罪科のある主人を小さな墓に埋葬しなければならないと十分知りつつ、せめて王墓のような大きさにしたいと、廣成は祖先の墓を長屋王のために提供したと…そう思いませんか。
吉備内親王の墓は少し離れた微高地にありますので、当時はまるで仲良く並んでいるように見えたことでしょう。
平群町の小さな墳丘には、平群廣成の思いが込められていると、わたしは思います。

長屋王の大邸宅は、光明子のものとなりました。

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ここからは、おさらい


なぜこのような悲惨な事件が起こったのか、以前もブログに書いたと思いますが、少しおさらいしてみましょう。事件が起こったのは、
長屋王が恵まれ過ぎていたからです。父母は御名部皇女(内親王)と高市皇子(親王)で、妻は元明天皇の娘であり、文武天皇の妹でした。多大な財力と権力を持ち、当代随一の名家であり、将来も揚々たるものだったのです。

霊亀元年(715)二月、元明天皇(草壁皇子の妃)は「勅して、三品吉備内親王の男女(子供たち)を皆皇孫の列(つら)」に入れたと続紀にあります。
長屋王の子どもたちの身分を三世王から二世王(天皇の孫)あつかいしたのです。

藤原不比等は「皇太子の首皇子が十五歳で即位すれば、外戚になれるから」と、長屋王家の特別待遇を容認していたでしょう。

しかし、元明天皇が譲位したのは皇太子の首皇子ではなく、娘の元正天皇でした。それは、政変のような衝撃だったのです。
元明天皇は、前年元服した皇太子・首皇子に不安を覚えていました。

養老二年(718)長屋王大納言。大伴旅人中納言。
     この年、養老律令を撰進(藤原不比等ら) 
     功績に関わらず不比等は右大臣のまま
養老四年(720)日本書紀撰進。藤原不比等没
養老五年(721)一月、長屋王右大臣。十二月、元明太上天皇崩御。

元明太上天皇は長屋王家へのレールを敷いて崩御されたのでした。が、チャンス到来と
藤原氏は着々と首皇子の即位に向けて準備をはじめました。

山上憶良ら当代の知識人を東宮(皇太子)の周りに集めます、そして、元正天皇に譲位を迫りました。元より中継ぎを承知だった元正天皇は、元明天皇の崩御の三年目の二月に首皇子(聖武天皇)に譲位されました。崩御からほとんど二年しかたっていなかったのですが。

この時(724年)、長屋王は左大臣となったのでした。
元明天皇の思いが元正天皇に引き継がれていたのでしょうか。
そして、この時、長屋王の運命は決まったのです。

引き金は、聖武天皇の皇太子(基王)が一歳で没したこと(728年)でした。
聖武天皇の皇位継承者より、長屋王の男子の方が有力だったのです。
神亀六年(729年)、基王の死から半年後、長屋王事件は起こりました。

長屋王がどんな左大臣だったか、都の庶民は知っていました。その事をめぐって様々な噂といざこざが起こり、殺人事件も起こりました。もちろん、聖武天皇は十分に知らされていなかったでしょうね。
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全ては、歴史の靄の中に。


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# by tizudesiru | 2017-07-25 15:05 | 271長屋王の亡骸を抱いた男・平群廣成 | Comments(0)

卑弥呼の宮室は吉野ケ里ではない?

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卑弥呼の宮殿の候補地は何処なのか

吉野ケ里と纏向でいいの?


邪馬台国論争では、いつもこの二ヵ所が取り上げられて比較されていますが、二か所でいいのでしょうか。

そもそもの出発点、三国志の「倭人伝」に見える女王国の様子を見ましょうね。検討できるところを抜き書きしました。

男子は大人も子供も鯨面文身(顔にまで入れ墨をしている)
道理を図ると、まさに会稽(かいけい)・東冶(とうや)の東にある
禾稻(イネ)苧麻(からむし)蚕桑・絹績(蚕と桑を植え絹織物を織る)細紵・縑緜(細い麻糸と絹織物)がある
兵は、、楯、木弓を用いる。竹矢には鉄鏃、骨鏃を用いる
文物は中国の儋耳(たんじ)朱崖(しゅがい)と似ている。*南海島の郡名
倭の地は温暖・冬も夏も生菜を食し、みな裸足
父母と寝起きするところはちがっている
朱丹をその体に塗る
墓は棺はあるけれど槨(外側の箱)はない。土で冢をつくる。もがりを十日ほどする。
倭は、真珠・青玉をいだす。山には丹がある。
木は、クス・トチ・クスの木・ボケ・クヌギ・スギ(?)・カシ・ヤマグワ・カエデ・
竹には、シノダケ・ヤダケ・?
しょうが・さんしょう・みょうが等あるが、滋味とはしていない
骨を焼いて吉凶を卜う
大人は皆、四、五人の婦(よめ)。下戸は、二、三人の婦。
租賦を収む(税をおさめていた)
邸閣(ていかく)あり。(大きな館があった)
国国に市があり、物々交換をしていた。大倭がこれを監視していた。
女王国より北に一大率を置いて、諸国を検察し、諸国はこれを畏れていた。
一大率は常に伊都国に置かれていた。


ここまでは、
九州説を裏づけする事項だらけですね。
倭王の使いが京都・帯方郡などに詣でる時、及び群からの使いが倭国に来る時、港で文書・賜遣のものなどの荷物を開けて、不足や食い違いがないか調べている。*字が読めたし、書けたのです
(略)倭国大乱などの記事があります。
卑弥呼は王となってより人に会うことが少ない。婢が千人仕えていて、男子一人が出入りする

居処には、宮室・楼観・城柵、おごそかに設け、常に兵が守衛している。
まだまだ、続きますが省略します。

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一方の纏向遺跡
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この大型建物の柱穴は方形です。方形の柱穴が現れるのは、ほぼ七世紀から八世紀だそうです。更に、ここから古い土器に混じって四世紀の土器が出土しているので、時期は卑弥呼の時代ではないと訂正されたそうですが……館に城柵は有りませんね。
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では、この模型はなんなのでしょう。辺りは川の小さな支流がいくつもあり、大型建物を建てるには難しい所だと聞きましたが。
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各地方の土器が沢山出土したことが取り上げられていましたが、韓半島の楽浪系土器は出土していません。(九州には出土していますが)

番組の纏向遺跡の切り札は「ベニバナの花粉」でした。確かに、倭錦・絳青縑(こうせいけん)などを倭国から贈っています。絳青縑は赤と青の絹織物だそうです。でも、ベニバナの花粉がみつかったから絹織物があったとは飛躍がありませんか。(絹織物が弥生の甕棺から出土するので、絹も九州にはありました)


わたしは、近畿に王権が出現する事実を精査して、王権発祥の地を見つけてほしいと思います。このまま纏向に決めて突き進むのは、無理だと思うのです。


大型古墳の築造順序も精査して、埴輪や副葬品の時期をすり合わせて、納得のいく王権誕生のドラマを市民に見せてほしいのです。
私利私欲、我田引水は、もういいですから。
わたしたちは日本誕生の真実を、倭国とは何だったのかの真実を知りたいのです。人間は知ることが好きなのです。


邪馬台国九州説の老人たちが生きている間に、

なんとかなりませんか。

そうそう、わたしは邪馬台国は「吉野ケ里」ではないかも、と思っています。あそこは重要な弥生の集落のモデルですが。
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もし女王国が北部九州にあったのなら、鏡が副葬されたでしょうし、五尺刀も副葬されているでしょう。卑弥呼は女王国から実家の墓地に運ばれて埋葬されたかも知れません。後の時代の古墳の改葬のように、幾度も改葬されたかも知れません。改葬の途中で金印は権威ある者の手に渡った可能性もあるでしょう。
次の王権が卑弥呼を倒した勢力であれば、必ずそうすると思います。二度と蘇らないように墓を改葬するのです。
卑弥呼の霊力が信じられていたのなら、必ず実行したはずです。

卑弥呼の墓は、北部九州にあると云うことですかね。でも、
卑弥呼の宮殿は吉野ケ里ではない
これは、今の時点でのわたしの結論です。


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# by tizudesiru | 2017-07-24 14:44 | 270邪馬台国論争なぜ続くのか | Comments(2)

邪馬台国論争・TBSの着地も纏向ですか

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卑弥呼が没したのは、正始八年(247年)でしたね。三世紀の半ばですね。

ちょっと、テレビに気になることがあったので寄り道です。

またまた不思議な
邪馬台国論争
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「邪馬台国の候補地は全国にある」と笑って

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魏志・倭人伝の一文「水行十日陸行一月」を取り上げて、

邪馬台国論争が始まりました…

女王の都する所が、水行十日陸行一月だというので、明治以来の九州説と奈良説の二ヵ所にしぼって邪馬台国の場所を探る番組でした。吉野ヶ里と纏向が比較されていました。

そもそも、魏志の「倭人」伝は、帯方郡から女王国までの里程を「水行十日陸行一月」のみで説明してるのではありません。里程を抜き書きしてみましょう。

従郡至倭(郡より倭に至る)には、海岸に沿って行き、
到其北岸句邪韓国(その北岸、句邪韓国にる)*その北岸は、何処の北岸?
七千余里、始度一海、千余里至対馬国(七千余里にして、初めて一海を渡り、千余里にして対馬国に至る)
又南渡一海。(また南し一海を渡る) 名を瀚海という、
千余里、至一大国(千余里にして一大国に至る)
又渡一海、千余里至末盧国また一海を渡り、千余里にして末盧国に至る)
東南陸行五百里、到伊都国東南に陸行し五百里にして伊都国る)

伊都国だけ「到」が使われています。このあとで、伊都国の説明が入ります。これまでの国々にも官や国土や風俗の説明は有りましたが、省きました。

それでは、伊都国のせつめい。

官を爾支(ねぎ)といい、副を泄謨觚(えもこ)柄溧觚(へごこ)という。千余戸あり。世(よよ)王あり。皆、女王国に統属す(皆統属女王国)。(帯方郡の)軍使往来するとき、常に駐まる所なり。*(代々の王は皆、女王国を統属していたとよめませんか?)

再び、里程に戻ります。
東南至奴国、百里(東南して奴国に至る。百里なり)
東行至不彌国、百里東に行きて不弥国に至る。百里なり)
南至投馬国、水行二十日(南にして投馬国に至る。水行すること二十日なり)
南至邪馬壱国、女王之所都、水行十日陸行一月(南して邪馬壱国に至る。女王の都する所なり。水行すること十日、陸行すること一月なり)

次に他の国について「女王国の北にある国」は、その個数とか距離のおおよそを書くことができるが、その他の方角の国々は、遠く離れていて詳しく知ることができない」と書かれています。

すると、

対馬国も、一大国も、末盧国も、伊都国も、奴国も不彌国も、投馬国も、みんな

女王国より北にあると云うことです。

戸数や距離や官や副官が述べられていますからね。


女王の都に至るには、水行十日陸行一月かかるのですが、出発地は何処でしょう。帯方郡ではありませんか?

更に、よく見ると「距離・至・国名」の順番で、対馬国も一大国も末盧国も伊都国も紹介されていました。距離が先で、帯方郡から連なって来た意味でしょうか。
が、
奴国・投馬国・不彌国・女王国は、「至・国名
距離
で書かれていました。距離が国名の後に有りました。
これには意味があると思います。出発地は、郡ではなく伊都国ですかね…

更にさらに、
詳しく知ることができない国々を二十ヶ国あまり名前だけ書いた後に、

其の南に狗奴国あり。男を王とし、その官には狗古智卑狗があり、女王には属していない」と書かれているのです。
狗奴国は女王国の南です。

次に里程のまとめとして自郡至女王国萬二千余里

帯方郡より女王国に至る距離は一万二千里余り

7000+1000+1000+1000+500=10500
あと1500里で伊都国から女王国に届くのです。

普通に、邪馬台国は近畿では有りえません。
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邪馬台国が手に入れていた鉄の問題がありました

「倭人」伝に書かれているのですから、これは決定的な物証でしょうね。

鉄が出土する遺跡とその量の画像を見ると、圧倒的に中部九州が多いですね。

そこには狗奴国があったのではないでしょうか。

狗奴国は鉄を以て武器や工具を作り、生産力を上げ、女王国と対抗したのです。

熊本の遺跡は、近畿の遺跡ほど掘られてはいません。調査もせず土木工事が行われているのも現実です。

見つかっても掘るのは一部です。(吉野ケ里遺跡は特別中の特別なのです)


鉄の工具や鏃などの武器は、出土数で福岡より熊本が勝っています。
自著にも書きましたが、この違いが狗奴国が邪馬壱国を追い詰めたと思います。
そして、女王国は狗奴国に破れたと。

たまらず女王国に隷属していた人々は、東へ移動したのです。

もちろん、鉄の生産技術・大型甕棺の焼成技術・銅製品の生産技術など、みんな持って逃げたと思います。


久留米地方も、福岡平野も、繁栄していた遺跡がある時期一度に放棄されました。

生活用具も祭祀具もみんな周濠に捨てて(完品も捨てられている事実がある)、一斉に逃げ出すことが起こりました。


持ち物を破棄する理由は沢山ないでしょう。
豊かな土地を捨てなければならない理由なんて。

その後に入って来たのは、もちろん肥後の勢力でした。
それが、古墳の様相から読み取れるのです。

わたしがこのように書くまでもなく、いろいろな方が様々に指摘されていることでしたね。

明らかに、畿内説は無理なのに。それでも取り上げるTBS。
NHKも同じでした。なぜでしょうか。

由々しくもゲストが言っていました。

「邪馬台国が九州なら、邪馬台国は一地方の国となる」

「畿内ならば、ヤマト王権につながる国ということになる」

そうでしょうか。王権はどのように生まれたのか、まだ定説は有りません。
ゲストとしては、邪馬台国が一地方(田舎)にあったという結論が嫌だというのですね。

でも、田舎でいいではありませんか、事実であれば。(本人は畿内説だそうですから)

それに、王権と九州は深いつながりがありますよね。

東京だって、五百年前は都から離れた田舎だったのですからね。政治が変われば、経済・文化の中心地も変わるのですよ。

更に司会者が「九州説の人には、年よりが多い
」といいました。
驚きました、九州説の研究者にも老人にも若者にも失礼でしょう。
番組として恥ずかしくありませんか。


当然ですが、二千年前は大陸や半島に近い所が文化の中心地だったと思います。

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(福岡市博物館・新奴国展のカタログより)

さて、里程以外でもたくさんのことが取り上げられ、比較がされていました。
それもなかなか見逃せなかったので、また明日紹介しましょう。
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明後日には、また古代の神祭りと萬葉集の時代に戻るつもりです。
邪馬台国九州説の老女としては、ちょっと、ネ。気になりました。


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# by tizudesiru | 2017-07-23 14:29 | 270邪馬台国論争なぜ続くのか | Comments(3)

大国主を追放したのは、何処の氏族?

権力者(為政者)が変われば

祭祀方法も祭神も変わる


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大国主命(八千矛神・オオナムチ)が彷徨うことになった理由は、政変

意外に考えられません。

為政者が変われば、墳墓の形も、シンボルの山も、祭祀する神も変わります。
次の為政者は先祖から伝わる葬儀をするでしょうし、崇める山も違って来るし、当然祭神も変わるのでしょう。

全国に浸透しつつあった大国主神が、出雲一局にて祀られるようになったのには理由があるはずです。北部九州・出雲・紀伊・関東で神祭りが変わるのは、いつでしょう。

大国主が出雲へ向かったのは、弥生時代の終わりころ?
普通の国主ではなく、「大」が付く国主となったのは何処で、いつなのか。

大国主命はオオナムチ・八千矛神とも言います。たくさんの矛(鉾)をシンボルとした神なのです。矛を祭祀に使った神祀りをしていたのは、北部九州の福岡平野が中心です。その中でも春日市から小郡市にかけての一帯、その辺りが中心地のようです。
弥生のコンビナート・須玖岡本周辺の古代工業地帯には、銅矛の鋳型が大量に出土しています。
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(福岡平野では、広形銅矛だけではなく、銅剣や銅戈の鋳型も出土しています)

弥生時代の終わりには大型青銅器の広形銅矛がなぜか埋納されるのです。
氏族の貴重品が突然埋められるのは、やはり異常です。

八千矛神は広形銅矛祭祀氏族が信仰した神と、わたしは思います。
その氏族かその一派が出雲へ向かったのではないでしょうか。
八千矛神は、出雲のスサノウの娘を嫡妻としたのです。

出雲の荒神谷に埋納された300本を超える銅剣は、彩杉文に研がれていました。その技術は九州のものだそうです。未だに銅剣製造の跡が見つからない出雲に三百五十余の銅剣が出土したのですから、誰かが九州から持ち込んだと思うのです。製造地がない限り、他には考えられません。
オオナムチは九州から移動し、出雲で大国主になったと思うのです。
その大国主は、広く九州・和歌山・関東の神となっていたのに、
突然「大国の主=権力者=祖先神」ではなくなったのです。それはいつなのでしょう。

それは、古墳時代の終わりだと思います。
前方後円墳ではなく、大型方墳の時代に代わったころ
、大国主の神祭りは傍系に移される運命になったと思います。

為政者の交替により、文化・人脈・祭祀・経済などに変化が起こるのですから。

地方にまで祭祀の変革・神社のご祭神の交替が求められたのは、大化改新後であり、大宝律令制定後ではないでしょうか。


大型方墳・蘇我系の大王
大型方墳が築かれるようになったのは、蘇我系大王の時代です。
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磯長の用明天皇陵(65m×60m)は方墳です。
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推古天皇陵(63m×55m)も方墳です。または、(59m×55m)

江戸時代に修復が行われています。

推古陵には「内に石棺二を安す」
という記録が残されています。
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(太子町竹内街道歴史資料館・「横領の谷・磯長谷古墳群」より)
推古陵も用明陵も大型方墳です。

この時代大王の墓の形が変わりました。
蘇我馬子の墓と言う石舞台も、蘇我稲目の墓という都塚古墳も方墳です。


ここで、気になるのは孝徳天皇陵は円墳(経32m)です。竹内街道歴史資料館の傍に有ります。ここは円墳だそうで…他の王陵と不釣り合いですね。
自らが出した薄葬礼に従って、小さな墳丘墓にされたと云うことでしょうか。
あの壮大な難波宮を造営した大王が…小さな墳丘…そうかもしれませんが。
わたしは孝徳天皇陵は近くに方墳としてある思うのですが…
余計なことかも知れませんが、その墓は未だに認められてないのでは…
私としては、確かに大型墳があたりにはあると思います。

蘇我系大王の方墳には家形石棺が置かれている

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都塚古墳(方墳)も、石舞台古墳(大型方墳)も、崇峻天皇墓ともいわれる赤坂天王山古墳(大型方墳)も、凝灰岩の家形石棺が置かれていました。氏族の葬送の共通性は十分にありますね。
家形石棺のルーツも、九州だと思うのです。
 
はい、今日は「広範囲の神とされていたはずの大国主命が、本貫を離れることになったのは何故か」を考えるのが目的でしたね。すっかり大型古墳に話が飛びましたね。戻りましょう。

八千矛神が何処で生まれたのかというと、九州でしょうね。
何が大きな転機があって、八千矛神は出雲に入り込んでいきました。大国主となった八千矛神は、関東にまでその勢力を伸ばしましたが、ある時、別の勢力にとってかわられた…
それが、大型方墳が現れる時期ではないかと、思うのです。
この大型方墳の勢力が明日香に入っていったと思います。

地名を見ても、太子町の辺りは「近つ飛鳥」というではありませんか
大阪府の南河内に蘇我系の勢力が入って来たのではないかと、わたしは思います。その勢力が奈良の明日香に進出したと。
なぜ奈良なのかですが、追われた氏族が隠れるのにいい土地ですね。山地で農地は狭いけれど薪の材料があり、炭焼きができたし、鉄の生産をするのに適していたと思います。経済力が何より重要ですよね。
また、ながくなりましたね。




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# by tizudesiru | 2017-07-22 17:27 | 269彷徨える大国主命 | Comments(0)

269彷徨える大国主命と宗像君徳善

彷徨える大国主命宗像君徳善
さて、彷徨える大国主命の話の方へ移りましょう。
万葉集巻六「冬十一月、大伴坂上郎女、帥の家を発ちて道に上がりて、筑前の国宗形郡名兒山を越える時に作る歌一首」におおなむちの神が歌われています。

963 おほなむち すくなひこなのかみこそは 名付けそめけめ 名のみを 名兒山とおいて あがこふる 千重の一重も なぐさめなくに

むかし、おおなむちとスクナヒコナの神がはじめて名付けられたという「名兒山」だけど、わたしが都に置いて来た娘を恋しく思う心に比べれば、「なごやま(汝の兒の山だよ)」と聞いても、千重の一重も少しの慰めにもならない。

幾度か取り上げた万葉集の大伴坂上郎女の歌です。
このブログ「大国魂神社は、大化改新後に総社になった」でも取り上げました。

おおなむちの神が古代の筑紫・和歌山紀ノ川流域・関東の国土創造の神だったと、既に紹介しています。
では、おおなむちとスクナヒコナの神は、宗像氏の支配地域の神だったのでしょうか。支配神でなくては、山の名付け等できないはずです。
しかし、三女神を「宗形氏などが祀る」と書紀にも書かれています。万葉集とほぼ同時代に、同じ地域で神の名がずれているのです。
考えられるのは、同じ八世紀にご祭神が入れ替わったと云うことです。
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宗像氏は日本書紀に出てきますが、特に天武天皇の嬪となった宗像君徳善の娘・尼子娘は、高市皇子を生んだと書かれています。その宗像君徳善の墓が宮地嶽神社にある宮地嶽不動古墳とされていますが、徳善の墓ではないという説もありますね。
幾度もこのブログでも取り上げましたが、その古墳の所在する宮地嶽神社を再訪してみましょう。

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元のお社は階段を上り詰めたこの辺りに在りました。背面の山は神社のご神体山です。拝殿の大注連縄は、直系2.5m、重さ5t、日本一だということです。
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山門をくぐったこの境内で、毎年筑紫舞が(10月22日)奉納されます。
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特別の舞である「磯良の舞」が舞われた年もありました。安曇磯良は安曇氏の祖先神です。白装束で顔を隠して登場します。安曇氏は海神を祀っています。
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この宮地嶽神社のご祭神は三女神ではありません。また、宗像氏ともかかわりのないご祭神でもあります。
息長足比売命(神功皇后)

勝村大神(かつむらおおかみ)

勝頼大神(かつよりおおかみ)


神社の創建は1600年前とされ、1200年前に神功皇后が遷座されたと云うことです


ご遷座された日が10月22日と云うことで、御遷座記念祭が行われているのです。

平たく言えば、神功皇后は後の世に入って来られた神なのですね。

宮地嶽神社古墳は、相島(神社の正面の海に横たわる島)
の玄武岩で造られた巨石の横穴式石室の古墳です。

(日本で二番目に長い巨石の羨道をもっています)。

以上のことから、この神社の古墳が宗像君徳善の墓であると思いますか?
素人は、違うのではないかと疑ってしまいますね。
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このブログの『148光の道は弥生から』を見ていただくと、宮地嶽神社と古墳のことが分かるのではないかと思います。光の道で有名になった神社です。

さて、再度「彷徨える大国主命」の話の方へ移りましょう。

このブログ「大国魂神社は、大化改新後に総社になった」でも取り上げました。大国主は関東地方の神にもなっていたのだと。

おおなむちの神が古代の筑紫・和歌山紀ノ川流域・関東の国土創造の神
でした。
すると、おおなむちとスクナヒコナの神は、もとは古代宗像氏の支配地域の神だったのでしょう。(支配神でなくては、山河の名付け等できないからです)

永く神として祭られていた大国主(おおなむち)の神、しかし、歴史のどこかで主祭神ではなくなっていったようです。
おおなむち神は北部九州辺りの神だったのに、その後、何処に行かれたことになります。
古事記によると、おおなむち(大国主)は多くの妃との間に多くの子どもをもうけています。

須佐之男命の娘・須勢理毘賣(嫡妻)
八上比賣ーー木俣神
高志国の沼河比賣
宗像の奥津宮の多紀理比賣ーー阿遅鉏高日子根神(迦毛大御神)・高比賣(下照比賣)
神屋の楯比賣ーー事代主神
八島牟遅神の娘・鳥耳の神ーー鳥鳴海神(とりなるみ)


広範囲から妻を迎えていますね。出雲のスセリヒメ、越の国のヌナカワヒメ、宗像のタギリヒメなどなど、日本海ルートの国と深いつながりがあるのですね。そして、関東にまで手をのばしていた、ということです。

子孫も古事記で辿ってみましょう。
スセリ姫には子が書かれていません。スサノウの娘で、しかも嫡妻ですから、オオナムチ(大国主)が出雲に入るには、出雲の支配者の娘を娶る必要があったと云うことです。もしかしたら、スセリ姫は年齢が高くて子供が産めなかったのかも知れませんね。それでも、嫡妻にしなければならなかった…
この掟(慣習)は、古代国家にもその後にも受け継がれる「王権の条件」ですね。古代では、皇后には皇女でなければなれなかったのですから。


では、大国主の子孫たち、鳥鳴海神から続きます。
鳥鳴海神
と日名照額田毘道男伊許知邇神ーー国忍富神(くにおしとみ)
国忍富神と葦那陀迦神(八河江比賣)ーー速甕の多氣波夜遅奴美神
多氣波夜遅奴美神天の御仲主の娘・前玉比賣ーー甕主日子神(みかぬしひこ)
甕主日子と於加美神の娘・比那良志毘賣ーー多比理岐志麻流美神
多比理岐志麻流美神と比比羅木の其花麻豆美神の娘・活玉前玉比賣神ー美呂浪神
美呂浪神と敷山主神の娘・青沼馬沼押比賣ーー布忍富鳥鳴海神
布忍富鳥鳴海神と若盡女神ーー天日腹大科度美神
天日腹大科度美神と天の狭霧神の娘・遠津待根神ー遠津山岬多良斯神

おおなむちの神が妻を迎えた地域は、広範囲にわたりました。
途中から「天御中主神」が入ってきますね。甕(みか)・日子・天など九州に所縁の深い詞が子孫の名についています。九州の勢力が大国主の勢力に浸透していったと云うことでしょうか。
その後、オオナムチ神は摂社や境内社へと遷座されていったようです。または、名前を変えて…
時々、思わぬ場所で「大国主」が祭られている神社に出会います。
そんな小さな祠にも、村社の摂社にも、知られざる歴史の面白さを感じますね。
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(関東平野の最奥の筑波山とつくし池です。写真をお借りしました)
(古事記では、多岐理比賣がオオナムチの妻になっていますが、書紀には市杵嶋姫という一書もあります。また、宗像大社の辺津宮の女神でもあります。「宗形三女神のお仕事」で祭神はとりあげています)


今回も長くなりました。読みづらいでしょうね。
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# by tizudesiru | 2017-07-20 11:20 | 269彷徨える大国主命 | Comments(0)

人麻呂の妻は火葬された

人麻呂の妻は火葬された!
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「柿本朝臣人麻呂、妻死にし後に、泣血哀働して作る歌二首併せて短歌」

の続きです。
巻二「挽歌」

210 うつせみと思いし時に 取り持ちて 吾がふたり見し 走り出の 堤に立てる 槻の木の こちごちの枝の 春の葉の 茂きがごとく 思へりし 妹にはあれど たのめりし 子らにはあれど 世間(よのなか)を 背きしえねば かぎるひの 燃ゆる荒野に 白妙の 天ひれ隠り 鳥じもの 朝だちいまして 入日なす 隠りにしかば 吾妹子が 形見に置ける 若兒(みどりご)の 乞い泣くごとに 取り与ふ ものしなければ 男じもの 脇ばさみ持ち 吾妹子と ふたり吾が寐し 枕付く 嬬屋のうちに 昼はも うらざび暮し 夜はも いきづきあかし 嘆けども せむすべ知らに 恋ふれども あふよしもなみ 大鳥の 羽がひの山に 吾戀ふる 妹はいますと 人のいへば 石根さくみて なづみこし よけくもぞなく うつせみと 思いし妹が たまかぎる ほのかげだにも 見へなく思へば 

211 去年(こぞ)見てし 秋の月夜は 照らせれど 相見し妹は いや年さかる

212 衾道(ふすまぢ)を 引手の山に 妹を置きて 山道を往けば 生けるともなし

210 あの人は現世の人だと思っていた時に、手を取りあって二人で見た 突き出した土手の槻の木の枝のあちこちに春の葉が茂っているように 深く思っていたあの人であるが、頼りにしていたあの人なのに、常ならぬ世の中の掟に背くことはできないので、かげろうが燃える荒野に、真っ白な天女のヒレに隠れて 鳥でもないのに朝早くから家を出て、入日のように隠れてしまったので、あの人が形見に残して行った幼な兒がものほしさに泣いても与えられる物もなく、男だけれど小脇に幼兒を抱いて、あの人とふたり寝た 嬬屋の中で、昼はうらさび暮し、夜はため息をついて夜を明し、どんなに嘆いてもどうしょうもなく、どんなに恋しく思っても もう会うこともできない。羽がいの山に恋しいあの人がいますと人が言うので、岩根を押し分けてやって来たのに、その甲斐もなかった。この世の人だと思っていたあの人が死んでしまって、ほんの少しほのかな影すら見えないと思うと…


211 去年見ていた秋の月は今も照らしているけれど、一緒にこの月をみたあの人は年と共に遠ざかっていく

212 衾道の引手の山にあの人を置いて山道を帰って来る時、とても生きている心地がしない。

前回の挽歌の妻とは別の女性でしょうか。この女性と人麻呂は一緒に暮らしていたのでしょう。死亡した女性は朝から白栲の布につつまれて家を出て行ったのだが、もう帰ることはないと嘆いています。そして、一人の幼兒を残していたので、その子が泣いても何もしてやれない男であることを人麻呂は嘆いています。女性は引手の山に葬られたのでしょうか。妻を置いて山から帰るのですから、葬儀を済ませたと云うことです。「使いが来て妻の死を知った」というなかなか会えない207番歌の「天飛ぶや軽の道」の妻とはかなり身分の違う女性のようです。


この挽歌には、異伝があるのです。
表現も大変良く似ています。が、見逃せない言葉があります。

210の最後に「うつせみ(打蝉)と おもひし妹が たまかぎる ほのかにだにも 見えなく思へば

213の最後に「うつそみ(宇都曽臣)と おもひし妹が 灰にて坐せば

これは、大変な違いです。213の女性は、「灰にてませば」と火葬されているからです。

この時代、火葬は一般的ではありませんでした。

火葬された人の名は、書紀にも取り上げられています。火葬の初出は、700年の道照で「粟原にて火葬」とあります。702年没の持統天皇も火葬でした。

では、213番歌を読みましょう。
或本の歌に曰

213 うつそみと おもいし時に 携はり 吾ふたり見し 出立の ももへ槻の木 こちごちに 枝させるごと 春の葉の 茂れるがごと 思へりし 妹にはあれど たのめりし 妹にはあれど 世の中を 背きしえねば かぎる火の 燃ゆる荒野に 白栲の 天ひれがくり 鳥じもの 朝立ちい行きて 入日なす 隠りにしかば 吾妹子が 形見における 緑子の 乞いなくごとに 取りあたふ 物しなければ 男じもの 脇挟み持ち 吾妹子と 二人わがねし 枕つく つまやの内に ひるはも うらさびくらし 夜はも 息づきあかし 嘆けども せむすべしらに 恋ふれども あふよしもなみ 大鳥の 羽がひの山に なが恋ふる 妹はいますと 人の云へば 岩根さくみて な積みこし よけくもぞなき うつそみと 念ひし妹が 灰にてませば

短歌三首

214 去年(こぞ)見てし 秋の月夜は わたれども あいみし妹は いや年離(さか)る

215 衾路(ふすまぢ)を 引出の山に 妹を置きて 山路おもふに 生けるともなし

216 家に来て 吾がやを見れば 玉床の 外に向きけり 妹が木枕(こまくら)

さて、人麻呂は210と213の挽歌のどちらを先に詠んだのでしょう。

わたしは、213が先だと思います。「灰にて坐せば」が先だと思うのです。

火葬とは、由々しきことです。こんな行為を受け入れた女性として、読み手は誰を思い出すでしょう。

平城天皇に万葉集が召し上げられて(806年)、編集を担当した学者は、ここを詠んで愕然としたでしょう。「これは、高貴なあの方を導き出す言葉だ」と。
だから、210を挿入し、213を「或本の歌」としたと、大胆にもわたしは思うのです。
そうでなければ、210と213はあまりにも似ています。手直しをする必要はないほど似ているのです。なのに、敢て手直しをしたのは何処か、「灰にて坐せば」以外にありません。

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「灰」になってヨミガエリを拒否した持統天皇の思いを感じずにはおれません。
では、ここに出て来る「幼兒」とは…あの古今伝授に残された人なのでしょうか。
わたしにはわかりません。
古今伝授と207番歌(人麻呂の妻の挽歌)については、このブログの「264古今伝授に柿本人麻呂と持統天皇の秘密が」を読んでくだされば、少しは説明不足を補えると思います。

それから、前回は「飛鳥と明日香」の紀行文的だったのに、今回は「万葉集」の人麻呂の挽歌について書いているという……ブログの内容があちこちに飛びますね。
ごめんなさい。読みにくいブログになっていることでしょう。
わたしは古代史の謎に興味があるのですが、謎を解く鍵として地図があると考えています。それに、書紀や古事記、先代旧事本記や古語拾遺などの文献、寺社の由緒なども面白いと思うのです。それらのバラバラなパーツを一つずつ拾ってジグソーパズルのようにはめ込んでいるつもりです。だんだんバラバラだったものが、一定の方向に導いてくれるのではないかと、発見したことを書いているのですが。
パーツが多すぎて分かりにくいですよね。
これからも「丁寧に説明していく」つもりです。105.png112.png119.pngよろしくおねがいします。



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# by tizudesiru | 2017-07-19 01:35 | 268人麻呂の妻は火葬された | Comments(0)

鬼のまな板の上で霊魂は語る

飛鳥は霊魂が飛び交う聖地
今年は三度目の明日香の旅でした。
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7月の猛暑の中を明日香へ…
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此の分かれ道を左に向かうと亀石まで届きます。
私も40年ぶりに明日香駅から岡までの路を辿ってみました。
駅から吉備姫古墳と猿石を見て、
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大池を見て、
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天武持統合葬墓を右に見ながら、
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鬼の雪隠、鬼のまな板まで行きました。
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思い出しました、むかし不思議に思ったことを。なぜこの墓が破壊され石棺の刳り貫き型の上蓋部ががけ下に落とされたのか…
はじめて見た時は、とても不思議な気がしました。古墳の主はきっと身分の高い人だったでしょうから。
現在地の鬼のまな板の石は、当時の古墳がつくられた場所にあるのでしょう。すっかり竹やぶになった崖の上に。
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この墓が破壊された理由はただ一つ。邪魔だったからでしょう。

7世紀の当時の人々は、ここが誰の築造で誰のための墓か十分に知っていました。それは王家以外の人物だったかも知れないし、王家の誰かだったかもしれません。
しかし、邪魔だったのです。なぜなら、
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鬼のまな板は、欽明陵と天武持統陵の間に在りますし、植山古墳(推古陵)と中尾山古墳(文武陵)の交差点に在ります。
どう考えても、高貴な方のラインに乗っているのです

ある氏族にとっては、大事な線上にたまたま鬼の雪隠古墳が乗ってしまったのでしょう。
だから、万人承知の上での破壊だったと思います。

明日香が飛鳥となったのは、ここが霊魂(鳥となった霊)が飛び交う土地だからでしょう。ここには、いろいろな氏族のルーツの墓があります。蘇我氏も、中臣氏も、大伴氏も、天武朝の皇子達も…
ここは、それぞれの氏の祖先霊が飛び交う地なのだと思います。大きな財を生みだす田畑は少ないのに多くの寺院が建立されたのには、わけがあると思います。祖先霊の漂う地が「飛鳥」だから寺が造られたと、わたしはそのように思います。
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万葉集には「明日香」が使われ、日本書紀には「飛鳥」が使われています。その成立の過程で厳密な検討がなされ、書紀編纂者は「飛鳥」を採用したのです。
日本書紀が成った720年は、既に平城京に都が遷っていましたから、祖先の都「明日香」を尊んで祖先の霊魂が飛び交う聖なる土地として「飛ぶ鳥の都」とし、アスカ「飛ぶ鳥の霊魂漂う明日香」と特別の意味で呼ばれたのだと思います。
このブログの「215天智天皇の三山歌」には、ヤマト三山と呼ばれる畝傍山・天香具山・耳成山が古代有力氏族のシンボルの山だったことを書いています。合せて読んでいただければ、明日香のイメージが分かりやすいかも知れません。


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# by tizudesiru | 2017-07-15 12:56 | 267氏族の霊魂が飛鳥で出会う | Comments(0)

世界遺産になった三女神・お仕事は天孫の奉助

宗像三女神のお仕事は
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天孫を助け奉ること

奥津宮(田心媛たごりひめ)、中津宮(湍津姫たぎつひめ)、辺津宮(市杵島姫いちきしまひめ)の三女神は、天孫を助けるために宗像大社に祀られているのです。大社側のパンフレットにもそう書かれています。
そもそも、宗像は「大社」です。天皇家の安泰を祈るための延喜式内社(名神大社)でもありますから、三女神のお仕事の第一は「天皇家に仕えること」ですよね。

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では、この地域で祭られていた地域の神様ではないのでしょうか。
私は自著「太宰具・宝満・沖ノ島」で、「英彦山の北岳の北山三御前が許斐山(宗像)に降り、その後に宗像大社に祀られた」という伝承を紹介しました。いったいどのような神だろうと、三女神に興味が湧いたのです。
三女神はもともと北部九州の神だったのではないかと思ったのです、それが記紀神話に取り入れられたと。

古事記でも日本書紀でも、三女神は天照大神とスサノウの誓約から生まれたことになっています。
スサノウが姉の天照に別れのあいさつに行ったところ、天照は武装して弟を待ち受けます。高天原を侵略すると思ったからです。スサノウは身の潔白を示すために誓約(うけい)をするのです。悪い心であれば男が生まれ、清き心であれば女が生まれると。スサノウの剣を天照が噛み砕いて吹き付けると、三女神が生まれました。「十握剣はお前の物根であるから、この三女神はことごとくお前の子である」と、天照は言いました。三女神はこうしてスサノウの子になりました。
(スサノウが八坂瓊の五百箇の御統(みすまる)を間で吹き付けると5人の男子が生まれ、天照がことごとく我が子といいました。御統は天照のものだったからです。第1男神は天忍穂耳命、天の忍穂耳命がニニギノ尊の父です。第2男神は天穂日命、この人の子孫が出雲臣につながっていきます。)


高天原での誓約(うけい)で三女神が誕生したのはわかってましたが、記紀の記述には微妙な差があるのですよね。

三女神誕生に使われた物根ものざね(物実ものしろ)は剣(鉄製品)です。
古事記は、須佐之男命の十挙剣(とつかのつるぎ)
日本書紀は、素戔鳴尊の十握剣(とつかのつるぎ)
    第一・第三の一書に、日神の九握剣(ここのつかのつるぎ)
             八握剣(やつかのつるぎ)
    第二の一書に、素戔鳴尊の八坂瓊(やさかに)のまが玉

物根の劔は、十握、九握、八握と長さが違うのは、女神が生まれるたびに剣が短くなっていくらしいのです。でも、まが玉では全く物が違います。


次は、誕生順ですが、古事記は、多紀理毗売命(奥津島比売)→市寸嶋比売命(佐依毗売)→多岐都比売命の順に生まれています。
日本書紀は、(本文)田心姫→湍津姫→市杵嶋姫 *宗像大社は書紀に因る祭神
   (第一の一書)瀛津嶋姫→湍津姫→田心姫
   (第二の一書)市杵嶋姫田心姫→湍津姫
   (第三の一書)瀛津嶋姫(市杵嶋姫)→湍津姫→
田霧姫
さて、長女は誰なのでしょう。(大国主の妃になったのは奥津宮の姫です)
このように微妙な違いがなぜ出るのか、それは伝承する側が多いこと、様々な氏族が伝承を持っている、ということでしょう。

書紀には三女神を九州の氏族が祭っていたと書かれていますから、天照とスサノウの物語も、やはり九州で生まれた物語かも知れませんね。
三女神のひとり多紀理毗売は出雲の大国主の妃になっていましたね。出雲大社の本殿の垣内に筑紫宮があります。出雲と九州の関係も深いのですね。


では、スサノウと天照が対峙した高天原は何処にあったのでしょうね。ニニギの天孫降臨の地は何処でしたっけ? 確か日向の襲(そ)の高千穂の添山(そおりのやま)峯ですが、鹿児島県ですか? 福岡には日向峠も日向川もあるし、脊振(せふり、そふり)山もありますねえ…

海と関係ない北山三御前が三女神となり、なぜ宗像に鎮座されたのか、海北を守る神となったのか知りたいですよね。


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三女神の奉斎氏族ですが、日本書紀では、宗像氏と水沼氏は王権に取り込まれています。王権に入り込もうとした氏族が三女神を祀ったのでしょうか。
古事記は、胸形君
日本書紀本文は、筑紫胸肩君
    第三の一書は、筑紫水沼君


このように全ての奉斎氏族に「」が付けられています。すると、三女神を祀っていたのは
九州の氏族らですね。「胸肩・水沼」の両氏族は確実に祭祀をしていました。以前「安心院(あじむ)の二女神・三女神」の所で紹介したように、水沼君が祭祀をしていた伝承は安心院の三女神社にありました。
天照大神にしても三女神にしても神功皇后にしても女性神ですから、女神発祥の地は九州でしょうかね… 海神の男性三神を祀っていたのは志賀海神社の安曇氏ですね。三神という「三」にこだわる文化もあったようです。
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数年前に、田中正日子先生のセミナーで「みあれ祭」ついて学ぶ機会がありました。そこで、記紀神話の三女神の記述を紐解いていただきました。
その時に「藤原一族が宗像の神を自分の屋敷内に祭り始めるのは、長屋王の怨念が怖かったからではなかったか。」と話が出たと思います。記憶が確かであれば。私には納得の言葉でした。三女神の進出には、藤原氏の働きかけが大きかったと思います。書紀に神話が書かれても、すぐ世間に浸透することはないでしょうから。
長屋王事件(729年)の前に書紀の編纂(720年)は終わっていますから、天照とスサノウの誓約の話は既に出来上がり、藤原氏によって三女神は畿内にも知られていったとおもうのです。
しかし、この頃(八世紀)の沖ノ島の「露天祭祀」の奉献品は、以前に比べられないほど質素になります。とても、王権の祭祀とは思えない庶民の奉献品のようになっています。七世紀の後半から八世紀の始めには、何らかの大きな政治的変化があったのでしょうね。

田中先生は「沖ノ島祭祀は、その始まりから大和王権主導型の祭祀であった」という小田富士夫先生の文を引用されていました。
たしかに4世紀の奉献品は豪華です。大きな権力の祭祀には違いありません。
でも
ホントに4世紀から近畿王権主導の祭祀だったのでしょうか。大化の改新まで中央集権化はできていなかったのに。いつの間に、王権祭祀が入って来ていたのでしょうか。

沖ノ島には、まだまだ分からないことがありますね。

三女神は世界遺産の神としてデビュしました。
三女神のお名前を書き間違えてはいけないと思って、「神宿る島 沖ノ島」のパンフレットを開きました。しかし、何処にも三女神のお名前は有りませんでした。ご祭神はどうでもよかったのでしょうか。ご祭神の名を知りたい人には不思議でしょう。どの神社もご祭神を祀ることで成り立っているのですから。神への奉献品で人目を引いて、「神よりお宝がにすごいから世界遺産にしてほしい。そしてみんなに観光に来てほしい」という意図のもとに登録を願ったと、誤解されてもいけませんね。
沖ノ島は古代の信仰を伝え、海北の海路が困難であったことを伝え、それでも海を渡った先人の勇気と決断を伝えているのです。世界遺産を通して古代の人々を偲ぼうではありませんか。
国宝を知ってもらうのは大切ですけど。
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奉献品は時代と共に変わりました。時代が変われば奉献品が変わるのは当然ですが、突然変わるのには理由がありましょうね。
また、明日。
と書いてから、十日が経ちました。実は大事なことを書いていなかったので「269彷徨える大国主命」を書こうと思います。読んでくださいね。


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# by tizudesiru | 2017-07-10 16:15 | 266大宰府・宝満・沖ノ島 | Comments(1)

海の正倉院沖ノ島・世界遺産になる

神宿る島・沖ノ島

2017年7月9日・海の正倉院
沖ノ島
世界遺産に
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沖ノ島を日本だけでなく世界の人に知ってもらえるのは、喜ばしいことです。ただ女人禁制の島なので、女性の上陸は許されていません。
女性でなくとも、島に上陸する男性は全裸で禊ぎをしなければなりませんし、島のものは草木一本持ち出すことはできません。「お言わずノ島」ですから、沖ノ島で見たことも一切しゃべってもなりません。そう云うことですから、世界遺産になっても「沖ノ島」を知ってもらえないなあと思っていました。
もちろん、古代からの禁制を止めてほしくはありません。沖ノ島は今まで通りでいいです。そうして奉献品が守られてきたのですから、それは大事な文化です。
(一般男性の上陸も今まで通り「年に一回の上陸、人数制限」を守ってほしいですね。)
関連遺産群が同時に登録されたそうですから、沖ノ島を偲ぶ手がかりはあるのですね。

せめて、宗像や福津や周辺をまわって、沖ノ島を遠くから見てほしいです。
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「みあれ祭」を見て、おいしい海の幸をいただくのはおすすめ!です
宗像大社のみあれ祭は沖ノ島(沖津宮)と大嶋(中津宮)の二女神が宗像大社(辺津宮)迎えられるというお祭りです。大船団が神を迎える勇壮な行事で、青海原のはるかなる沖から神湊(こうのみなと)へ幟をひるがえして船団が近づいて来るのを見るのは感動します。
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沖ノ島の祭祀は4世紀から始まりました。巨石の上に神に奉げられた武具や鏡が古墳の副葬品と共通するので、王権の祭祀と云うことです。
銅鏡・碧玉製腕輪・玉類・鉄鋌・武器・工具などの質と量が、当時の在地豪族の古墳遺物を越えているのだそうですが…

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上の写真のように巨石の上に石で囲みをつくりここに奉献品が置かれたのです。このように巨石の上に宝物が置かれたのが、祭祀の始まりでした。
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それにしても、沖ノ島まで来てこんな奉献品を捧げた王権は何処の誰でしょうね。奉献品が素晴らしいので、ヤマト王権の祭祀だったというのですが…
四世紀には沖ノ島の傍を通過する半島へのルートは、ほんとうは誰が支配していたのでしょうね。

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岩上祭祀の奉献品・三角縁神獣鏡の同范鏡が勝浦峯畑古墳(前方後円墳)から出土しています。では、この古墳の被葬者が沖ノ島に三角縁神獣鏡を奉献したのでしょうね。勝浦は福津市津屋崎にある海辺の集落です。草崎という岬があり、その付け根が勝浦で、岬の反対側に神湊があります。
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草崎の次に見える島が勝島で、その奥に大嶋(中津宮がある)がかすんでいます。
実は、草崎の石祠から勝島の山頂を通り、大嶋の沖ノ島遥拝所を通り、沖ノ島の峯まで直線が引けるのです。
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このラインを引いた時、わたしもちょっと驚きました。だけど、「やっぱりそうだったのか」とも思いました。沖ノ島が古代九州に導き、古代の物語を教えてくれました。それは、また今度。
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数年前に、「太宰府・宝満・沖ノ島」という本を出しました。博物館でも売ってもらっています。福岡は図書館にもあると思います。
読んでもらったら幸せです。

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# by tizudesiru | 2017-07-10 02:12 | 266大宰府・宝満・沖ノ島 | Comments(0)

264古今伝授に柿本人麻呂と持統天皇の秘密が

古今伝授に書かれた秘密
柿本人麻呂は持統天皇の恋人(?ホント?

という内容の本を10年位前に読んだことがあります。書名をどうしても思い出せないのですが、「古今伝授」を受けた公家の書き残したものを紹介した本でした。そこには、古今集の序文の読み解きが書かれていました。


古今和歌集・仮名序「二歌聖評」

いにしへより かくつたはるうちにも、ならの御時よりぞ ひろまりにける。かのおほむ世や、うたの心をしろしめしたりけむ。かのおほむ時に、おほきみのくらゐ かきのもとの人まろなむ、うたのひじりなりける。これはきみもひとも身をあはせたりといふなるべし。秋のゆふべ、竜田河にながるる もみぢをば、みかどのおほむために にしきと見たまひ、春のあした、よしのの山のさくらは、人まろが心には くもかとのみなむおぼえける。


昔からこのように伝わって来た中でも、奈良の帝の時代より特にひろまって来たのです。その御代には、歌の心を理解なさっていたのでしょう。その御代には、正三位柿本人麻呂が歌の聖でありました。これは帝も臣下もよく心を合わせ、同体であったと云えるのでしょう。秋の夕暮れ、竜田川に流れる黄葉を帝の目には錦と御覧になり、春の朝、吉野山の桜は人麻呂の心には雲ではないかと思われたのです。


古今伝授とは歌の世界の秘密や言い伝えを伝授することですが、「これはきみもひとも身をあはせたりといふなるべし」の箇所が人麻呂と持統帝の関係を暗示(暴露)した文だというのです。そして、子までなしたと…

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(軽の路は、奈良県橿原市の大軽・見瀬・五条野辺りで下ツ道はそのなごり?)

さて、その人麻呂と持統天皇の秘密は万葉集で読めるのでしょうか。
子どもまでいたというのですが…吉野に頻繁に出かけていた頃の持統天皇はすでに初老の婦人です。健気に有間皇子を追慕し続けた女帝から想像することはできないのですが。万葉集巻二に「妻の死を詠んだ」挽歌があります。

柿本人麻呂の妻死し後に泣血哀働して作る歌二首幷短歌

207 天飛ぶや 軽の路は 吾もこが 里にしあれば ねもころに見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み まねく行かば 人知りぬべし さね葛 のちもあわむと 大船の 思いたのみて 玉かぎる 磐垣ふちの 隠のみ 恋つつあるに 渡る日の くれぬるがごと 照る月の 雲隠るごと 奥津藻の なびきし妹は 黄葉の過ぎていにきと 玉梓の 使いの言えば 梓弓 おとに聞きて いはむすべせむすべしらに おとのみを 聞きてありえねば 吾戀ふる 千重の一重も なぐさもる こころ(情)もありやと 吾もこが 止まず出で見し 軽の市に 吾立ち聞けば 玉だすき 畝火の山に 鳴く鳥の声も聞こえず 玉鉾の 道行く人も 独りだに 似てしゆかねば すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる 


208
 秋山の 黄葉をしげみ まといぬる 妹を求めむ 山道知らずも

209 黄葉の ちりゆくなえに 玉梓の 使いを見れば 相し日おもほゆ


ここで読める「人麻呂の妻の姿は」
妻の里は軽の路の近くで、妻の許に何度も通って逢いたいのだが、止まずに通えば人目に付き、多く通えば人に知られてしまう。今は控えて後に逢おうと思ってひっそりと隠れるように恋しく思っていた…
人麻呂の妻は、人目があって簡単に会えない女性だった、高貴な人?
日が沈むように月が雲に隠れるように、あの人はもみじばのように亡くなったと使いが来ていうので、知らせだけ聞いてもどうしょうもなく、知らせだけきいても何の慰めにもならず…
人麻呂は妻の死に目にもあえず、知らせを受けただけというのです
そして、軽のちまたに在りし日のあの人の姿をもとめても、似た人もいなくて、畝傍山でいつも泣いていた鳥の声も聞こえず、あの子の名を呼んで袖を振った…
妻の面影を求めてただただ軽の巷を彷徨った人麻呂。どうして直に会えないのでしょうね。妻は簡単には会えない人だったのです。

次も、妻の死を傷んだ挽歌です。長歌と短歌ですが、これは、次回にまわします

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古今伝授は、わたしには懐かしい詞です。熊本市の水前寺公園に茶室がありました。そこは細川幽斎の「古今伝授の間」であると、社会科の先生が紹介してくれました。幽斎は肥後藩主細川忠興の父で、忠興の妻はガラシャ・明智光秀の娘です。


細川幽斎は武芸・和歌・茶道・連歌・蹴鞠などのわざを修め、囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深く、当代随一の教養人だったそうです。ですから、公家と交流も深く、三条西実枝に古今伝授を承けました。古今伝授とは古代から伝えられている和歌に関わる秘密を伝授するのですが、内容を書き残してはならず、むやみに漏らしてもなりません。それも、一対一で伝授するという掟がありました。


徳川家光が後水尾天皇に古今伝授のなかみを教えてほしいと頼んで断られて話は有名ですね。


また、幽斎が古今伝授のおかげで命拾いをした話も有名です。

1600年、息子の忠興が会津征伐に出た後に、幽斎は三男幸隆と500ほどの手勢で田辺城を守っていました。石田三成が徳川を討たんと兵をあげ、田辺城は1万5000の兵に囲まれました。幽斎は籠城します。包囲軍には幽斎の歌道の弟子も多く居て、彼らも攻めきれませんので長期戦となっていました。幽斎の弟子でもあった八条宮智仁親王は、2度にわたり講話を働きかけますが、幽斎は受け付けません。ついに智仁親王は兄・後陽成天皇に奏請し、勅使が田辺城に下され、関ヶ原の戦いの二日前に勅命による講和が結ばれました。理由はもちろん、幽斎が死亡すれば「大事な古今伝授が失われる」からです。古今伝授が天皇を動かしたと云うことです。

幽斎は三条西実枝からうけた古今伝授を実枝の子三条西公国と孫・三条西実条に返しました。また、八条宮智仁親王が幽斎から古今伝授を受けた「古今伝授の間」が、大正時代に熊本市の水前寺成趣圓(公園)に移築されたのです。


熊本地震で水前寺公園の湧き水が一時的に止まりましたが、今は回復しているそうです。
遅くなりましたが、明日のお知らせです。北部九州では記録的な大雨で大変な被害が出ていますので、お知らせするのに躊躇しました。が、明日のことですので少し報告します。明日7月8日(土)、久留米大学での公開講座です。

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時間は8日13時からで、今回は事前申し込みが必要でした。
開催されるのかというおたずねがありましたのでお知らせしました。
講座は一時間半ほどですから、万葉集の謎の一部のお話になると思います。
では、明日。


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# by tizudesiru | 2017-07-07 00:19 | 264柿本人麻呂と持統天皇 | Comments(0)

三輪山は饒速日の山だった

消された饒速日の王権

三首の神器を持っていた天神の御子・饒速日尊

饒速日尊は三輪山に遷った

先代旧事本記「天神本記(あまつかみのふみ)」には、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊は、河内国河上の哮峯(いかるがのたけ)に天降られ、更に大倭國(当時は鳥見国・長髄)の鳥見白庭山(桜井市三輪山)に遷られた」と書かれています。

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(桜井市の三輪山は大神神社の御神体です)

饒速日尊が天降られる時、天神の御祖より天璽瑞寶十種(あまつしるしのみづのたからとくさ)を授かっていました。その瑞宝とは、

瀛都鏡一(おきつかがみひとつ)

邊都鏡一(へつかがみひとつ)

八握劔一(やつかのつるぎひとつ)

生玉一(いくたまひとつ)

死反玉一(よみかへしのたまひとつ)

足玉一(たるたまひとつ)

道反玉一(ちかへしのたまひとつ)

蛇比禮一(へみのひれひとつ)

蜂比禮一(はちのひれひとつ)

品物比禮一(くさぐさのひれひとつ)

この宝は、「一二三四五六七八九十(ひとふたみよいつむななやここのたり)」と唱えながら振ることによって死者も蘇るという瑞宝でした。

これらの宝は、饒速日尊の御子・宇摩志麻治命(うましまちのみこと)により神武天皇に奉献され、天皇が橿原で即位するとき宮殿内に祀られました。神武天皇が即位の時に奉斎したのは、饒速日尊の神霊だったと云うことです。宇摩志麻治命は母が長髄彦の妹だったので、「天神の子」という神武天皇に大王の位を譲ったと云うことでしょうか?

先代旧事本記には、こう書かれているのです。饒速日は神武には逢っていませんね、既に死亡していたからです。饒速日は石上神宮に祀られていますね。

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しかし、日本書紀は違っています。
日本書紀を読んだとき神武と長髄彦の箇所は疑問点が沢山あったことを思い出しました。
それは、主語が「天皇」となったり、「皇帥」となったり、「天神の子」と呼ばれたりして代わるのです。
また、なぜか饒速日の子の高倉下(たかくらじ)が饒速日の剣・韴霊(ふつのみたま)を戦いに疲れて朦朧としていた天孫(神武天皇)に献上し、神武の軍は生気を取り戻しています。
それに、長髄彦は饒速日の「天羽矢ひとつと靭」を神武に見せて、饒速日が天神の子であることを示しました。神武も同じく天羽矢一つと靭を見せて、二人は天表(あまつしるし)が間違いないものと確認し、長髄彦は畏敬の念を抱きました。
にもかかわらず長髄彦は饒速日に討たれ、饒速日は天神の御子でありながら神武に帰順するのです。神武は饒速日の功績を誉め寵愛したと云うことですが…どの逸話も納得のいかない展開でした。(先代旧事本記によると、饒速日は既に亡くなっているのですから神武に会うはずはありません


書紀では、神武は事代主と玉櫛媛の娘・媛蹈鞴五十鈴媛を正妃として、橿原宮に即位しました。媛蹈鞴五十鈴媛は神八井命と神渟名川耳命(綏靖天皇)を生みました、また古事記では、大物主神の娘・伊須気余理比売と神武の間に生れた皇子と書かれています。


大物主は桜井市三輪の大神神社の祀られていますね。

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(大神神社のご祭神は、大物主櫛甕玉命おおものぬしくしみかたまのみこと

饒速日命は死後に「櫛玉(神秘的な力を持つ玉)」の尊称をおくられて櫛甕玉饒速日尊といいます。
出雲国造神賀詞に「倭大物主櫛甕玉命とみ名を称えて大御和乃(おおみわの)神奈備に坐ます」とあるそうです。すると、三輪山の神は饒速日と云うことですか。

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饒速日は大王だったことは前回も言いました。
やはり、書紀が饒速日の業績と歴史を隠しているように思えます。また、大神神社、石上神宮、大國魂神社が同じ祭神だと、大野七三氏は書いています。
そうなると、河内から鳥見に入って来た勢力は九州の氏族だったことになりますね。ここに入って来た人々は、鏡と剣と玉をシンボルとする、王位継承の玉璽とする人達だったのですね。
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よく読むと、十種の神宝には、玉璽の鏡・剣・玉という三種の神器が含まれていますね。これは、九州の弥生墓に副葬されたものと共通します。三点が揃って副葬された最初の甕棺墓・木棺墓は、福岡市の吉武高木遺跡にあります。ここが三種の神器の発祥の地だと一時は騒がれましたが、なぜか今では取り上げられません。たぶん、邪馬台国九州説の後押しをいてしまうので遠慮しているのでしょうね。
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それに、まだ気になることがあります。神武天皇の第一子の事です。
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(草部吉見神社は、下り宮として有名です)

熊本県の阿蘇の草部吉見(くさかべよしみ)神社のご祭神は、神武天皇の第一御子である日子八井命(国龍神)です。神武が東遷する前に、日子八井命が五瀬川をさかのぼってこの地に来て、この地を平定したというのです。


ちょっと、長くなりました。
饒速日尊は河内から鳥見の白庭山に遷った、そこが三輪山だった。今回、書きたかったのは、これでした。
では、また。


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# by tizudesiru | 2017-07-06 01:45 | 265消された饒速日の王権 | Comments(0)

天香具山(物部氏の山?)を詠んだ天智天皇

天氏は物部氏ですね

天智天皇は「三山歌」で天香具山を詠みました
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すると、天智天皇は「香具山」に天が付くのですから、物部氏の皇統を主張しているのでしょうか。
「先代旧事本記」の「天神本記」によると、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)が東遷される時、三十二人の武将と二十五部の物部(軍隊)とその他の従者を従えてきました。三十二人の防衛の従者は
天香語山命(あまのかごやまのみこと)
天鈿賣命(あまのうずめのみこと)
天太玉命(あまのふとたまのみこと)
天兒屋命(あまのこやねのみこと)
天櫛玉命(あまのくしたまのみこと)
天道根命(あまのみちねのみこと)
天神玉命(あまのかむたまのみこと)
天椹野命(あまのむくぬのみこと)
天糠戸命(あまのぬかどのみこと)
天明玉命(あまのあかるたまみこと)
天牟良雲命(あまのむらくものみこと)
天神立命(あまのかむたちのみこと)
天御陰命(あまのみかげのみこと)
天造日女命(あまのみやつこひめのみこと)
天世手命(あまのよてのみこと)
天斗麻彌命(あまのとまみのみこと)
天背男命(あまのせおのみこと)
天玉櫛彦命(あまのたまくしひこのみこと)
天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)
天神玉命(あまのかむたまのみこと)
天三降命(あまのみくだりのみこと)
天日神命(あまのひのかみのみこと)
天乳速日命(あまのちはやひのみこと)
天八坂彦命(あまのやさかひこのみこと)
天伊佐布魂命(あまのいさふたまのみこと)
天伊岐志邇保命(あまのいきしにほのみこと)
天活玉命(あまのいくたまのみこと)
天少彦根命(あまのすくなひこねのみこと)
天事湯彦命(あめのことゆひこのみこと)
天表春命(あまのうははるのみこと)
天下春命(あまのしたはるのみこと)
天月神命(あまのつきのかみのみこと)

続いて、五部人、天降りに従った人
天津麻良(あまつまら)、天會蘇(あまつそそ)、天津赤占(あまつあかうら)、富々侶(ほほろ)、天津赤星(あまつあさほし)
更に天降りに従ったミヤツコ(造)
二田造(ふつだのみやつこ)、大庭造(おほばのみやつこ)、舎人造(とねりのみやつこ)、勇蘇造(いそのみやつこ)、坂戸造(さかとのみやつこ)


天津物部ら二十五部の人。兵仗を帯びて天降る
二田物部、當麻物部、芹田物部、鳥見物部、横田物部、鳥戸(嶋戸)物部、浮田物部、巷宜(そが)物部、足田物部、酒人(さかひと)物部、田尻物部、赤間物部、久米物部、狭竹(さたけ)物部、大豆(まめ)物部、肩野(眉野)物部、物束(はつかし)物部、尋津物部、布都留(ふつる)物部、住跡物部、讃岐三野物部、相槻(なみつき)物部、筑紫聞(つくしのきく)物部、播磨物部、筑紫贄田(つくしのにへた)物部

船長(ふなおさ)舵取りを率いて天降る
天津羽原(あまつはばら)、天津麻良(あまつまら)、天津真浦(あまつまうら)*以下三人の名がない書がある 天津麻占、天都赤麻良

ここまで「天」が並ぶと、あまの〇〇と来れば「饒速日」の関係者だと思いますよね。
ではでは、天智天皇の近江朝の荒れた都を過ぎる時の柿本人麻呂の歌を思い出してみましょう。「畝傍の山の橿原の日知りの御代から」と詠んでいます。橿原で即位したのは、記紀によれば神武天皇です。神武天皇に長髄彦(ながすねひこ)は言いました。
「昔、天神の御子が天岩船に乗って天より降られました。櫛玉饒速日尊と云われます。私の妹三炊屋媛(みかしきやひめ)またの名・
長髄媛・鳥見媛と結婚して御子が生まれ、可美真手(うましまで)命といいます。私は饒速日命を君としてお仕えしていました。」
すると、饒速日が大王にになっていたのですね。
そして、初代神武天皇から九代開花天皇までの皇后が饒速日の神裔から立てられました。この皇后の皇子が皇太子となり次期の大王となったのです。

柿本朝臣人麻呂は、近江の皇都を詠みました

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この長歌も中大兄が何者か語られているのです。
今日はここまで


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# by tizudesiru | 2017-07-02 22:00 | 263天智天皇は物部系の皇統か | Comments(0)

NHKは日本の歴史を変えるつもり?

はたまた驚きの展開神籠石式山城を

築造したのは天智天皇?!

NHKの番組「英雄たちの選択」を見ました。驚きました、いつの間に古代史が変わったの??
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今年、九州国博で開かれた「山城シンポジウム」でのことですが、大変驚きの展開だったのでブログでもお知らせしました。それは、『神籠石系山城』とか『神籠石』とか一切使われず言葉そのものが消滅し、朝鮮式山城と呼ばれていた正史に残る基肄城・大野城なども全て含めて「古代山城」という言葉でくくられて、すべてヤマト王権側の築造だとされていた、そういうシンポジウムだったということでした。
今まで、歴史書にも古代史にも取り上げられて来なかった神籠石系山城が、急に王権側が白村江敗戦後に築造したというのですから驚きました。
全くどうなったんでしょう? まるで寝耳に水で、なぜそうなったのか分からないままシンポジウムが終わりました。

今度は、NHKの番組「英雄たちの選択」で同じく白村江敗戦後に王権側が造ったとしていました。いつ歴史が変わったのでしょうか?
(下は、難波宮跡・孝徳天皇の難波宮と聖武天皇の難波宮遺構はほぼ重なる)
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大化改新で律令による中央集権国家を目指していた中大兄と鎌足は、まだ改新の道半ばであったとという所から、番組を見ました。中央集権化はまだ不十分だった証拠として、難波宮跡出土の木棺が示されていました。そこに「戊申年(大化4年)」の墨書がありました。大化とうい年号があったのに使われていないと云うことは、各地の豪族に改新の詔が浸透していなかった、中央集権化はまだ途中であったというのでした。改新に反発する豪族がいたというのです。

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中央集権化が進んでいない中に、大陸の政治状況が絡んできました。
大陸では唐が高句麗侵略の足掛かりとして新羅と結び、その為に百済を滅ぼしたという状況で、中大兄は「百済復興を救援するのか、しないのか」どちらを選択したのか、という
なかみでゲストがおしゃべりをするという番組でした。内容的には…
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百済の王族でもあった鬼室福信は、日本にいた王子・扶余豊璋を滅びた百済の王として迎え、百済を復興したいと申し入れました。鬼室福信は唐の捕虜百人を献上していました。福信は今なら唐に勝てる可能性があるというのでしょうか。
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王権は扶余豊璋に五千の兵をつけて半島に返しました。その後、すぐ兵を派遣したのではありません。兵を集めるのに時間がかかったというのです。豪族の納得もなかったし、戸籍もできていなかったからです。その中で「備中国風土記」逸文に、「すぐれた兵二万人を得る」よって、その邑を「二万(にま)の郷と名づける」という記述があるのですが、この兵は救援軍とはならず、百済ではなく新羅へ向かったのでしょう。
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一方、百済の救援に向かった兵は全滅しました。唐の船団の装備と策略を知らなかったのでしょうか。二日で大敗したのです。唐の船は楼舡といって装備した武器も軍船としてもすぐれていました。救援軍は惨敗でしたが、なぜこの結果を招いたのでしょう。
それも、この結果を中大兄側は承知していた・予測していたというのです。

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まつろわぬ豪族の兵力を「外国に遣ってそこで死なせてしまう」という、中国が取って来た政略が使われたと紹介されました。つまり百済救援で打撃を受けた豪族は王権側には邪魔な勢力だったと云うことです。白村江戦を利用したというのです。では、そこで戦死した九州の勢力は、王権とは対立していたのですね。

白村江敗戦後、羅城築造?
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今まで知られていたのは、白村江敗戦後に大野城・基肄城・水城が造られたということでした。それも、亡命百済人の指揮の元、急ピッチで造られたと。
そこに羅城構想が加わりました。筑紫野市の前畑遺跡の土塁です。ここも慌てて作られたのでしょうか。
前畑遺跡は水城や大野城などの土塁と同じ技術で造られたのでしょうか?そこも分からないまま、羅城説が出されていました。
そもそも羅城とは王都の周りに作られる外壁だということですが…大宰府が王都だったと証明したいのでしょうか。
大宰府は百済の泗沘東羅城の敷葉工法が水城土塁の工法に共通することからも、強い関連性が指摘されています。一方、新羅の王都である慶州にも山城の配置など類似点は指摘されているけれど、羅城は設けられてないそうです
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いったいこの羅城は何処を守るのでしょうか?
なにより、百済により近しい関係だった地域は何処でしょうね。そして、ついに

白村江敗戦後に古代山城
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そして、古代山城が築かれ、天智天皇は近江に都を移し即位した、という番組になっていました。そこに、神籠石系山城が入れられていたのです。
神籠石が古代山城となって、消滅するのでしょうか。100年続いた神籠石論争は終了するのでしょうか。
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発見されている九州の神籠石は、きちんと東西ラインと夏至の日の出のラインに並んでいます。工法も切り石技術も共通しています。この計画性を見ると、豪族たちが協力し同じ思想のもとに築造したと思われます。これらの神籠石系山城に付いては、このブログで何度も取り上げてきました。画像もありますから見ていただければ嬉しいです。朝鮮式山城の大野城・基肄城・鞠智城についても、ブログに紹介しています。
わたしは神籠石が天智天皇によって造られたとは思えないのです。
もし、天智天皇であれば、彼は九州の王だったことになります。そうでなければ、まつろわぬ豪族たちの勢力圏で国家的な土木工事はできないでしょうし、百済救援の兵を死なせた状況で土木工事の強要は難しいでしょう。
国家を挙げて取り組んだとしか思えないのが、神籠石なのですから。
国家的土木工事は、人・もの・金がないとできません。人を動かすためには戸籍が必要で、これがないと何もできないでしょう。その事を痛感したからこそ、天智天皇は戸籍を造ったのでした。大宝律令でも、この庚午年籍を基本とし、廃棄しませんでした。
逆に、戸籍がなければ何もできないことを証明したのです。
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さて、天智天皇とは……だったのでしょうね。
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ここまでにします。


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# by tizudesiru | 2017-07-01 23:28 | 262神籠石式山城の築造を命じた首長は誰 | Comments(0)

大国魂神社は大化改新後に総社になった

武蔵大国魂神社の創立は?
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創立は景行天皇四一年だそうで、

ご祭神は大国魂大神で、出雲の大国主神と御同神です。
不思議ですね。
この地域では元から出雲の神を祀っていたと云うことでしょうか。
では、武蔵国は出雲と深い
つながりのある地域となります。畿内の神々を飛び越えて出雲と結びついているのですから、本当に面白いですね。

それも、大化改新後に近畿の勢力の手が入ったと、当の神社が発信しておられるのですから、とても意味深です。祭祀の在り方に大きな変化があったのは、七世紀半ばだということになりますね。

「大國魂大神」とはいえ大国主神と同神であると長年主張し続け、王権側の国司もそれを認めて来たのですね。それにしても、大國主神は大巳貴神ともいい、天地創造の神ですね。

万葉集にも「おほなむち すくなひこなの神こそは 名付けそめけめ 名のみを名児山と…」という九州で詠んだ大伴坂上郎女の歌があります。
巻十八にも「おほなむち すくなびこなの 神代より言い継ぎけらく…」とありますし、
巻七には柿本人麻呂の歌集として「おほなむち すくなみかみの 作らしし 妹背の山を見らくしよしも」があります。
まさに大國主(おほなむち)は天地創造の神ですね。

少なくとも、万葉の時代には、おおなむち(大国主)すくなひこなの神が国土を造った神でした。九州でも、和歌山でも、関東でも、天地創造の神だったのです。
大國魂神社の意味するところは大きいのです。
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武蔵国造が代々奉仕していましたが、大化改新後に武蔵国府がこの地に置かれたので、以来国司が国造に代わって奉仕するようになったと云うことです。
大化改新後に? と云うことは、他の地域でも地域の古来からの神が集められて総社が作られることが、大化改新後にあったのでしょうか。

そもそも、総社が造られたのは何故なのか。大化改新が契機となったのか。
気になることがひとつ増えました。
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国司は赴任後一宮から次々に幣を捧げなければなりません。国司が管内神社の祭典を行う便宜上、武蔵国中の神社を一カ所に集めて祭ったので、大国魂神社が武蔵総社となったのです。集められた神社は六社です。
(西殿)
六ノ宮 杉山大神(神奈川県横浜市緑区西八朔二〇八)
五ノ宮 金佐奈大神(埼玉県児玉郡神川町七五〇)
四ノ宮 秩父大神(埼玉県秩父市番場町一_三)
(中殿)
御霊大神
大國魂大神
国内諸神

(東殿)
一ノ宮 小野大神(東京都多摩市一ノ宮一~一八~八)
二ノ宮 小河大神(東京都あきる野市二ノ宮二二五二)
三ノ宮 氷川神社(埼玉県さいたま市大宮区高鼻町一~四〇七)
かなり広い範囲から6社集めたのですね
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闇夜祭(くらやみまつり)5月5日の例大祭
夜間八基の神輿が古式の行列を整え、闇夜にお旅所へ渡御するので、俗に府中の「闇夜祭」といわれ大いににぎわいます。府中競馬もありますので、現在は御輿渡御は夕刻六時より行われているそうです。
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摂社として宮乃咩(みやのめ)神社があり、祭神は天鈿女命。例祭の夜、当神社に置いて「青袖の舞」を奏し、終えて本社に参向して同舞を奏し、翌朝「杉の舞」を奏します。創立は本社と同時代であると云われています。他に、摂社の坪宮(つぼのみや)があり、国造神社とも称します。
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末社に、松尾神社、大鷲(大トリ)神社、住吉神社などがあります。後の時代に勧請されたようです。八幡宮(国府八幡)は、聖武天皇の時代の創立だそうです。
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大國魂神社に集められた六社のうちの一宮・小野神社にも行ってみました。
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小野神社についてはよくわからない様です。大きな権力によりいつの時代も古来の信仰に改ざんの手が入ったのでしょうね。そうして本来の意味が分からなくなるのは、とても残念な気がしました。
それにしても、秩父大神も夜祭で有名ですね。
関東の暗闇に行われる祭りには、どんな意味があったのでしょうね。


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# by tizudesiru | 2017-06-27 10:33 | 大化改新後、武蔵大国魂神社は総社となる | Comments(0)


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232岩戸山古墳の歴史資料館
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240藤原鎌足の墓
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